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魔王「世界の半分はやらぬが、淫魔の国をくれてやろう」

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Part16
357 : ◆1UOAiS.xYWtC :2011/12/13(火) 04:57:41.85 ID:3MnLayldo
勇者「いや、何でもないよ」
ごまかしきれてはいないが、それでも、彼が何でもないと言うから追求はしない。
彼女は、全くもってよくできた侍従だった。
勇者「…ちょっと、待ってくれ」
茶を淹れ、菓子の載った盆を置いて去ろうとする彼女を、勇者が引きとめた。
何か不手際があったか、と軽い緊張が走り、次いで、立ち上がった勇者へ眼を向ける。
堕女神「何でしょうか?」
勇者「昨日、俺に訊いたな。今、答えるよ」
堕女神「昨日?」
勇者「『夜』と言ったが。……何故かな。今、言っておかなくちゃいけない気がする」
思い出したか、彼女が怪訝な顔をする。
そして、少し経ち――気付く。
彼があまりにも哀しげな、”笑顔”を浮かべている事に。
勇者「俺―――『勇者』なんだ」
風が、ざぁっと吹き抜けた。
木々を揺らし、葉がざわざわと擦れる音が聞こえる。

358 : ◆1UOAiS.xYWtC :2011/12/13(火) 05:15:01.02 ID:3MnLayldo
堕女神「……言っている意味が、分かりかねます」
当然の反応だ。
今まで夜に彼女を甚振りながら、まるで吼えるかのように話していた事。
それを、今更正面から聞かされる意味が、分からない。
勇者「『魔王』の力で、七日間だけこの世界に留まる事ができる。……そして、今日が七日目だ」
堕女神「……え…?」
魔王、というのが何を指すのかは即座には分からない。
だが、後半部分は分かった。
彼の言葉を正しく解釈すると、そうなる。
堕女神「……嘘、ですよね?また私をからかっているのでしょう?」
正面から、勇者の顔を見据える。
彼女が口元をへらへらと綻ばせているのは、言葉通りに受け止めたくない気持ちの顕れか。
対して、勇者は口を引き結び、押し黙る。
その目は険しく、嘘をついていない。
勇者「…俺は今日の夜、この世界を去る。……二度とここへは戻れない」
堕女神「…冗談はやめてください。面白くありませんよ」

359 : ◆1UOAiS.xYWtC :2011/12/13(火) 05:23:09.59 ID:3MnLayldo
冗談であればいいのに。
彼は、そう思った。
どうか冗談であってくれ。
彼女は、そう願った。
勇者「……今日が最後なんだ。……後は、前と同じ『王』の精神が戻る」
堕女神「……嘘」
勇者「………」
堕女神「『嘘だ』と言ってください!」
取り乱し、叫ぶ。
声の大きさに、近くにいた使用人の一人が思わず振り返る。
勇者「俺も、そう言いたいさ」
苦々しげではない。
変わらぬ決意を湛えた、『男』の顔。
認めたくない。
その一念が彼女の心を染める。
心臓がぎりぎりと締め付けられ、呼吸するごとに取り込まれる空気が、苦い。
いつまで待っても、彼は表情を崩して笑ってくれない。
口の中に苦味が満ちて、それが鼻と口の奥をつんとさせ、更に上へと昇ってくる。

360 : ◆1UOAiS.xYWtC :2011/12/13(火) 05:49:09.67 ID:3MnLayldo
いつまで経っても表情が変わらない彼の姿が、歪んだ。
にわかに鼻が詰まり、思う通りに空気を取り込んでくれない。
瞼が熱く、段々と、眼前の彼の姿が更に歪む。
勇者「………ごめん、な」
耐え切れずに放った言葉を引き金に、涙が溢れ出した。
頬を滝のように伝う涙が、石畳に染みを作る。
しゃくり上げると、つられて洟が垂れ、呼吸を著しく阻害された。
声を激しく上げる事は無い。
それでも、普段の彼女を知る者には想像すらできない、取り乱した泣き顔。
何万年もの年月を生きた彼女を、ここまで動揺させる言葉があるのか。
かつて彼女を崇めていた民も、思わなかっただろう。
堕女神「……うっ…っく……うぅ……」
声を出さないように、洟をすすりながら泣く彼女に、勇者が近づく。
勇者「……ごめん」
彼女の頭を優しく引き寄せ、胸へと抱く。
暖かさと、勇者の匂いに包まれ、彼女が顔を埋めて泣き濡れる。
じわりと染み込む彼女の涙を皮膚で感じた。
こんなにも、熱いのか。
自分との別れを、こんなにも哀しむものなのか。

362 : ◆1UOAiS.xYWtC :2011/12/13(火) 06:07:44.03 ID:3MnLayldo
勇者「……もっと、早く言えば良かったのかな」
縋り付いて泣く彼女の頭を撫で、左手で大きく開いた背中を抱き締め、擦りながら漏らす。
こんなにも取り乱す彼女を見るのは初めてだ。
恐らく、本来の『王』もそうだろう。
勇者「…作ってくれた料理は、本当に美味しかった。……この七日、楽しかったよ」
言葉が耳に届いているのか、分からない。
反応は返ってこず、シャツの生地をきゅっと掴まれるだけ。
再び、風が吹き抜ける。
その風は――何故か、冷たかった。
隙間風のように心に吹き込み、身を竦ませるように冷たかった。
勇者「こんなに、別れを惜しまれるのは初めてだな」
彼女の髪を撫でる。
絹糸をまとめたかのように、上等な油に手を浸したように、さらりと指の間を通り抜ける。
髪から漂う香りは、旅の途中で訪れた、季節を無視して様々な花の咲く天上の谷を思い出させた。


363 : ◆1UOAiS.xYWtC :2011/12/13(火) 06:29:16.22 ID:3MnLayldo
どれだけの間、そうしていたのか。
使用人達に幾度も視線を浴び、珍しいものを見るかのようだった。
勇者「落ち着いたか?」
しゃくり上げるような痙攣が治まり、呼吸も整いかけている。
既にシャツは涙と洟でじっとりと濡れている。
堕女神「……は、い。………お見苦しいところを……お見せ、しました」
勇者の胸元から離れ、赤く腫れぼったい瞼と鼻を見られないようにして、彼女が言う。
恥じ入るように隠して、何処から取り出したハンカチで鼻の下を拭う。
堕女神「昼を回ってしまいましたね。今すぐに、昼食の用意を致します」
勇者「ああ、いや。……昼を過ぎているし、軽いものでいい。……運んできてくれ、ここに」
堕女神「はい、畏まりました。…お茶を、淹れなおします」
勇者「いや、いい。お前が淹れてくれたんだからな」
再び席につき、とっくに冷めてしまった紅茶を啜る。
逡巡の後、彼女は遅い昼の準備を整えるため、足早に去って行った。

364 : ◆1UOAiS.xYWtC :2011/12/13(火) 06:56:27.14 ID:3MnLayldo
その後、彼女が運んできた細めのパスタを平らげ、再び午睡するかのように目を閉じ、風を感じる。
暮れなずむ空が青から橙へと色を変え始め、入り混じった薄紫の空が頭上に広がっていく。
日が落ちる前にと勇者は席を立ち、城内へと入る。
もう、空を見る事はできない。
後は、ただ夜へと変わっていくだけ。
勇者は一人ごちる。
これは―――まるで、『死刑囚』の心境だ、と。
二度と、空を見る事はできない。
二度と、舌を楽しませる料理を味わう事はできない。
二度と、人肌のぬくもりを感じる事はできない。
最後の日は、あまりにも切なく、救いなく終わりそうだ。
途中、サキュバスAを見かけた。
日が落ちて庭の手入れを終えたのか、大きな鋏を手にしていた。
彼女も勇者の存在に気がついたが、一礼を送り、すぐにその場を去ってしまった。
自室に戻る気にはなれず、当て所なく城内を彷徨う。
飾られた絵画を眺めながら廊下を歩き、思いついて謁見の間を覗き、まるで――最後に、目に焼き付けようとしているかのようだ。

385 : ◆1UOAiS.xYWtC :2011/12/14(水) 01:39:56.31 ID:NBSc6G9uo
そうして彼が向かったのは、玉座の間だった。
重厚なカーペットが敷かれ、壇上に金色の玉座が置かれた『王』の座する処。
一歩一歩、踏み締めながら向かう。
柔らかい感触がブーツの硬い底から伝わり、静かに音を立てながら歩いていく。
『彼女』の涙で濡れたシャツが、冷えて張り付く。
拭おうとも、着替えようとも思わなかった。
これは、『勇者』の身を心から案じてくれた、一柱の堕ちた女神が流してくれたもの。
『仲間』としてではなく、一人の『男』に対して別れを惜しんでくれた証。
ずっと塞がらない穴があった。
いつになっても隙間風が吹き込み、虚しく霜を降ろす心の一角。
そこに、何かがはまったような気がした。
傷が塞がった心は、もう寒くない。
玉座の壇前に立ち、しばし、目を閉じる。
今この瞬間は自らの座なのだが、それでも経験から染み付いた、心が引き締まる感覚。
しゅるり、と剣を抜く。
幾度と無く繰り返された抜剣の仕草は、今に至っても錆び付いていない。
刀身は未だ輝いていた。
白銀の刀身に、暁のように赤い光が不規則に射し込める。
それは、今この瞬間にも、勇者が『勇者』であり続けていることの証明でもあった。

386 : ◆1UOAiS.xYWtC :2011/12/14(水) 02:05:21.99 ID:NBSc6G9uo
切っ先を、眼前の玉座へゆっくりと向ける。
まるで、敵にそうするかのように。
眼光は鋭く前を向き、切っ先を通して玉座に殺気を放っているかに見えた。
勇者「……『お前』は生まれない。絶対にな」
そうして、数分後。
ゆっくりと剣を下ろして、鞘へと納める。
しばらく、玉座を見つめた後に踵を返し、背後の扉へと向かう。
城内を回るうちに、日は既に沈んでしまったようだ。
遅い昼食も歩き回るうちに消化され、胃が窄まるような感覚を覚えた。
玉座の間の扉を開け、再び廊下に出る。
日が落ち、冷えて引き締まった空気が身に沁みる。
空気は冷たい。
だが、『寒く』はない。
自らを動かす機関の収まった左胸へ手を当て、ゆっくり、城内の散策を再開した。

387 : ◆1UOAiS.xYWtC :2011/12/14(水) 02:25:24.79 ID:NBSc6G9uo
厨房で、彼女は一人晩餐の準備を進めていた。
黙々、というよりは我武者羅に。
幽鬼のように、感情が薄い表情で。
感情を少しでも出せば、崩れて涙に化けてしまいそうだから。
メインの肉を切ろうと、ナイフに手を伸ばす。
良質なヒレ肉の塊に刃を当てると、まるで布を裁つような音と手応えで容易く両断された。
感情を動かすまいと務めるが、あまりにも、真実は重い。
覚悟はしていた。
何かの変化が王に起こっていた、と。
その変化も、いつかは消えると。
それが、まさか――今日、なんて。
サキュバスA「……お邪魔だったかしら?」
入り口から声が聞こえた。
目を向けるまでも無く、その正体は分かった。
邪険にするつもりは無いにせよ、見られたくはない。
何とか、孤独を保とうと唇を動かす。
堕女神「…いえ。ですが……一人に、していただけないでしょうか」

388 : ◆1UOAiS.xYWtC :2011/12/14(水) 02:45:04.17 ID:NBSc6G9uo
サキュバスA「…刃物を手にして思いつめた顔の女を、一人になんてできませんわ」
頬を緩め、茶化しながら厨房へと入る。
邪魔になりそうな翼を一時的に隠し、調理台の隙間を縫って堕女神に近づく。
サキュバスA「その様子では、陛下の告白を聞いたようですわね」
図星を突かれ、身を震わせる。
刻んだハーブを肉に振り掛けていて、思わず手元が狂いそうになった。
堕女神「貴女も、聞いたのですか?」
サキュバスA「ええ。昨日の晩に」
堕女神「何故、私には今日になっていきなり…?」
サキュバスA「……心配しなくても。陛下は、貴女の事をきちんと想っていますわ」
堕女神「なら、どうして……」
サキュバスA「それは、陛下……いえ、『あの人』に直接聞いた方がよろしいかと」

389 : ◆1UOAiS.xYWtC :2011/12/14(水) 03:13:49.09 ID:NBSc6G9uo
堕女神「……」
サキュバスA「……最後の夜は、貴女とともに過ごしたいと、あの方は願いましたわね」
手を止め、堕女神は彼女の方へ目を向けた。
メインの肉料理の仕込みは終わり、後は焼き上げるのみとなっていた。
堕女神「そう……なります」
サキュバスA「あの方に取ってではなく、貴女にとっても、あの方と過ごせる最後の夜。……思い残さぬように」
堕女神「……はい」
サキュバスA「嗚呼、それにしても妬けてしまいますわ。……私達でも、女王でもなく、貴女を選ぶなんて」
大げさに謡うように節回しながら、くるりと背を向ける。
そのまま、厨房から出ようと歩を進めていく。
堕女神「………泣いて、いるのですか?」
サキュバスA「…まさか。貴女とも、あの子とも違いますもの」
堕女神「…そう、ですか」
サキュバスA「さて。晩餐の準備が整ったと知らせて参ります。……どうか、悔いを残さぬよう」
堕女神「はい。……よろしくお願いいたします」

390 : ◆1UOAiS.xYWtC :2011/12/14(水) 03:36:28.19 ID:NBSc6G9uo
城内を一回りした勇者は、いつの間にか、食堂近くの廊下へと戻ってきていた。
ここにいれば誰かが見つけてくれるだろう、と思ったのもある。
もう一つは――俗がすぎるが、併設された厨房からの、夕餉の香りに引き寄せられた。
何気なく、飾られた銅像を見ていた。
人間の女が、男の上に跨る姿勢で行為に耽っている像だ。
上の女は喜悦に顔をゆがめているのに対し、男は、或いは必死に止めようとしているかのようだ。
サキュバスA「……それは、原初の淫魔。『リリス』の像ですわ」
真後ろから声をかけられる。
距離が近いが、最終日ともなれば慣れたものだ。
勇者「リリス?」
サキュバスA「我々の祖です。彼女は快楽を求めるあまり、人類最初の男に拒絶され、楽園を出でて自らの国を作りました」
勇者「……で?」
サキュバスA「彼女の子供達は魔界へと追放され、人間の精を吸い取る魔族として恐れられるようになりました」
勇者「…それが、お前達か」
サキュバスA「はい。……あ、陛下。晩餐の準備が整っておりますので、食堂へどうぞ」
勇者「分かった。……もう少し早く言ったらどうだ」

391 : ◆1UOAiS.xYWtC :2011/12/14(水) 04:10:58.14 ID:NBSc6G9uo
大食堂へと続く目の前の扉を開けようとした。
手を扉へ伸ばした瞬間、止まる。
勇者「……なぁ」
サキュバスA「はい?」
呼び止められ、その場で返事をして彼に体を向ける。
いつもと同じく、挑むような眼差しに、飄々とした物腰。
それでも――彼には、伝わるものがあった。
勇者「……ありがとう」
体を捻り、じっと、彼女の顔を見つめる。
目が僅かに赤く、纏う空気も僅かに沈んでいる。
堕女神は分かりやすく取り乱した。
サキュバスBも同じくそうするだろう。
だが、彼女は?
勇者「…忘れない。お前のおかげで、俺は最期まで『勇者』でいられそうだ」
それだけ言って、彼は大食堂へと入っていく。
彼が最後の晩餐へと消えた後、彼女は――悲しげに唇を震わせて、それでも微笑みながら、部屋へと帰った。

392 : ◆1UOAiS.xYWtC :2011/12/14(水) 04:54:08.58 ID:NBSc6G9uo
彼が、一人ではあまりにも大きな卓につくと、すぐに前菜が運ばれた。
茸を用いた固形の蒸し物に、野菜を添えられた皿だ。
一口運ぶと、口の中に芳醇な香りが広がり、それによって食欲が更に増進された。
物足りない量のそれを片付けると、次はスープ。
朝に出たものとは味付けが違っている。
よく煮込まれた玉葱と鶏骨のブイヨンが香り、メインに向けて更に食欲が増す。
メインの肉料理。
両面を良く焼かれているが、中はレア気味に、切ってみればグラデーションが目に楽しい。
口に運べば、肉汁と酸味を持つハーブの香りが広がり、そして非常に柔らかい。
飲み込むのが勿体無いと思えるほどに、勇者は何度も長引かせるようにそれを味わった。
余計な脂の雑味は無く、ただ、肉の持つ旨味と最大限まで引き出している、単純だが嗜好の調理。
そして、最後。
少なくとも人界では希少な、チョコレートを用いた焼き菓子が運ばれる。
フォークで割ってみれば、まるでパイ生地のように表面がさくりと割れた。
内部には瑞々しい野苺に似た果物が仕込まれ、ほろ苦いチョコレートと絶妙に絡み合う。
最後にして至高の晩餐を終えた後、茶が淹れられた。
堕女神自ら、勇者の傍らで。

394 : ◆1UOAiS.xYWtC :2011/12/14(水) 05:20:50.52 ID:NBSc6G9uo
勇者「…ありがとう。忘れられない味だったよ」
ティーカップを傾け、礼を述べる。
熱気を伴った香りが口内に満ちて、残った風味をリセットする。
堕女神「…恐れ入ります。……陛下」
勇者「何だ?」
堕女神「……今日は、少し早めにお部屋に伺ってよろしいでしょうか?」
勇者「…構わないが、それはまたどうして」
堕女神「あなたは、今日を最後にこの世界から去るのでしょう。……少しでも、共にいたいのです」
勇者「……ああ、分かったよ。待ってる」
野暮な事を訊いてしまった、と。
若干の反省とともに、茶を啜る。
最後の一口を飲み終え、席を立つ。
まっすぐに自室へと戻り、最後の夜を過ごすために。
それ以降、彼女が部屋に訪れるまで、口を開く事は無かった。

395 : ◆1UOAiS.xYWtC :2011/12/14(水) 05:32:33.52 ID:NBSc6G9uo
心地よい満腹感を得て、自室のベッドへ大の字に寝る。
剣はエンドテーブルへ立てかけ、ズボンのベルトも緩め、楽な姿に。
勇者「…魔王。待っていろ。……俺は、お前に屈する事は無い」
天に手を伸ばし、ぎゅっと拳を握って呟く。
見てはいるだろうが、『魔王』からの返答は無い。
だが、聞こえていればいい。
震えていればいい。
勇者は、既に――対決に向け、心を締め直していた。
暫くして、眠気が欠片ほど舞い降りた頃。
毎朝聞かされる、規則正しいノックの音が転がった。
いつものように、入室を促す。
――彼女が、入ってきた。
普段のドレスの上に、黒地に金糸で刺繍されたショールを羽織っている。
勇者「……早い、な」
堕女神「申し訳ありません」
勇者「…いいんだ。……こちらへ」

434 : ◆1UOAiS.xYWtC :2011/12/15(木) 03:03:44.43 ID:59deYyZzo
彼女が、近づく。
上体を起こしながらベッドの上で待つ勇者へ。
縁に腰掛け、靴を脱ぐ。
踵が高くサンダルにも似て露出度の高い、勇者の世界では見かけないタイプの靴だ。
片足、もう片足と順番に脱ぎ去ると、待たせた者の方へ体を向けなおす。
四つん這いに、近づいていく。
二人分の体重をかけられたベッドが軋み、ぎしぎしと音を立てる。
ランプの灯に照らされた彼女の影が、室内を彩った。
そのまま、止まらず――彼の胸元へ、体を預ける。
しな垂れかかった彼女の体を受け止めると、ゆっくりと体を倒し、横になった。
勇者「…もう、泣かないのか?」
返答は無い。
彼女はただ静かに、彼の胸に顔を押し付け、匂いと、温もりを感じていた。
ひたすら、記憶に残そうとするかのように。
細く、長い息遣いが妙なくすぐったさを伝える。
堕女神「………忘れられない夜を、下さいませ」
顔を胸に押し付け、きゅっとシャツの裾を握ったままで呟く。
まるで薄いガラスのように、儚く、透き通った声で。
顔は、見えない。
見えないから、逆に――彼女の心が、伝わった。

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