堕女神「私を、『淫魔』にしてください」
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285 : ◆1UOAiS.xYWtC :2012/12/24(月) 03:16:15.58 ID:DU8XxeDfo
堕女神「……女王陛下の様子は、どうでしたか?」
勇者「…元気そうだったよ」
堕女神「………」
勇者「ところで、今日の予定は?」
堕女神「は……。南方の砦から書簡が。詳しくは執務室にて」
勇者「そうか、分かった」
堕女神「……それと……」
勇者「何かな」
堕女神「あ、いえ……何でもありません」
勇者「……午後、城を案内してくれないか?」
堕女神「え……?」
勇者「城の設備を、もうちょっと詳しく知っておきたくてさ」
286 : ◆1UOAiS.xYWtC :2012/12/24(月) 03:17:04.07 ID:DU8XxeDfo
食器の片づけを終えると、二人と――否、一人と一柱は、城内を連れ添って歩いた。
どちらから意識したともなく歩みはゆっくりとしたものだった。
ぐずついた空が水の飛礫で窓を叩き、それが不思議と、落ち着くような自然の旋律を奏でる。
勇者「……久しぶりだな」
窓へと視線を向け、流れ落ちる水の筋を目で追いながら呟いた。
曲がりくねり、蛇のように流れる水は、硝子越しの水面の外へと消えて行った。
堕女神「はい…?」
勇者「雨」
堕女神「確かに…陛下がお出でになられてからは、初めてです」
勇者「……もう一度、見られるのかな」
降り続く雨の奥へと見通すように、どこか期待を込めた、儚げな視線を投げかける。
傍らの彼女の怪訝な様子を意にも介さず、雨の上がりとともに訪れる、あの空にかかる七色の弓へと思いを馳せて。
勇者「……行こうか。まず、宝物庫へ案内してくれ」
287 : ◆1UOAiS.xYWtC :2012/12/24(月) 03:17:41.18 ID:DU8XxeDfo
エントランスから、地下へ。
幾つかの扉を抜け、煌びやかに装飾された廊下を歩き、行きついた先に、ひときわ頑丈そうな大扉があった。
扉全体がまるで金属細工の芸術のように、絡みもつれる茨の壁を模した意匠となっている。
進み出た堕女神が鍵を取り出して、大扉の中心にある細工へと差し込むと、扉の装飾が鈴のような音とともに蠢き、
続けて、錠前の開く音がいくつも重なり合い、数十秒してようやく扉が開いた。
堕女神「どうぞ、陛下」
宝物庫の中は、予想していたよりもこぢんまりとしたものだった。
壁面にはいくつかの展示箱が並び、その中には、大きな宝石がベルベットの台座の上で輝いていた。
扉の大仰さに比べてさして広くも無い宝物庫の中心には、質素な飾り気のない宝箱が、ぽつりと置いてある。
勇者「もっと、色々置いてあるものだと思ったけど」
堕女神「…あの宝箱の中には、我が国の富の全てが詰まっております」
勇者「……どういう事だ?」
堕女神「はい。確か……中には、現在およそ六億三千万枚の金貨が封じられております」
勇者「気が遠くなるような額だな。……何か魔法でもかかってるのか? あの箱」
堕女神「ですので、大袈裟な空間は必要無いのです」
勇者「……なるほど」
288 : ◆1UOAiS.xYWtC :2012/12/24(月) 03:18:21.62 ID:DU8XxeDfo
しばし、勇者は質素な宝物庫の中を見回して―――おもむろに、腰に下がる剣を帯から外し、眺める。
鞘にはいくつもの傷が刻まれ、握り手の革は手垢と血にまみれて、竜の翼を象った鍔は、欠けていた。
勇者「……あそこの展示箱、空いてるのかな」
奥にある展示箱を差して堕女神へ訊ねる。
堕女神「はい。その剣を納めるのですか?」
勇者「……もう、役目は終わったから。俺も、こいつも」
堕女神「………かしこまり、ました」
彼女が鍵を取り出し、展示箱のガラス蓋を開ける。
勇者がその前へ進み、中を覗き込むと―――年季の入った黒ずんだ木製の底板は、古めかしい芳香を放っていた。
ゆっくりと、別れを惜しむようにして、展示箱へと「救世の剣」を沈めていく。
そして――――勇者自身も驚くほどに、簡単に……手を、離れてしまった。
勇者「……共に戦ってくれて………ありがとう」
閉じられていく、長く残るきしんだ蝶番の音が、”戦い”の終わりを告げた。
289 : ◆1UOAiS.xYWtC :2012/12/24(月) 03:18:48.05 ID:DU8XxeDfo
―――――そして、地下牢、倉庫、食料庫。
拾い集めるように城内の部屋を巡り、最後に、エントランスから続くひとつの部屋へと案内された。
扉を開け、目についたのは無数の肖像画だった。
他にも壁面にはいくつもの肖像画が掲げられ、そのどれもが、王冠を戴いた、歴代の女王。
中でも特に存在感を放っているものがあった。
その髪は白というよりは―――もはや、透明。
肌は血管が透けるほどに白く、そのあまりに優しい彫刻のような面立ちは、どちらかと言えばサキュバスではなく。
”勇者”の力を目覚めさせた、女神と同じ印象さえ抱かせた。
堕女神「……先代の、女王陛下です」
その肖像画に目を奪われたままの勇者へ、堕女神が問わず語りに絵の主の名を告げる。
勇者「…彼女が」
再び、肖像画に目を凝らす。
額縁の中で微笑む彼女の顔は、今まで、人間界で見た誰の笑顔よりも、心を惹きつけるものがあった。
人外の者の、魔性がそうさせるのではない。
血の通わぬ肖像画を通しても尚、彼女の暖かみが滲み出るから。
堕女神「……陛下」
肖像画の間の扉が閉じられ、前に進み出た堕女神が、しばし、先代女王の面影に目を向ける。
赤い瞳が眩しげに瞬き、潤み揺らめく目が、ややあって後、体ごと勇者へ向けられた。
堕女神「………貴方は、何者なのですか」
290 : ◆1UOAiS.xYWtC :2012/12/24(月) 03:19:16.91 ID:DU8XxeDfo
沈黙に包まれた肖像画の間で、二人は向かい合う。
勇者「……何者、か」
堕女神「…畏れながら、どうかお答えください。……陛下のお力は……人を、超えております」
勇者「…………堕女神から見ても、か」
堕女神「…それとも、今の『人間』は、雷をも制しているのですか?」
勇者「………隠すつもりはない。だが……俺も、教えてほしい事があるんだ」
堕女神「え?」
勇者「堕女神は、何故……『淫魔の国』に?」
堕女神「私の話……ですか?」
勇者「……聞かせてくれないか。君の話を」
堕女神「…………はい」
――――そして、堕ちた女神は、語り始めた。
――――自らの身に起こった事、見守っていた人間達の結末。
――――淫魔の国と、その女王との邂逅を。
291 : ◆1UOAiS.xYWtC :2012/12/24(月) 03:19:42.68 ID:DU8XxeDfo
遥か遠き時、人々と神々は、もっと近くに在った時の事。
神殿には、いつも活気があった。
荘厳な大理石の回廊の奥には神像が祀られ、捧げ物が絶える事は無かった。
手塩にかけた作物の場合もあれば、小さな子が両手いっぱいに野花を抱えてくる場合もある。
時折、小さな子供は、神殿内で"彼女"の姿を見る事が出来る場合もあった。
純白の衣を装い、秋の収穫を待つ葡萄畑のような黄金の髪をたなびかせ、
目には蒼海のように輝く慈愛を湛えた、"彼女"の姿を。
そんな時、"彼女"は……決まって微笑みを浮かべ、その場に消えて見せて、
呆気にとられた子供の横を通り抜け、頭をふわりと撫でた。
"彼女"は、神殿にいる事が好きだった。
他の神々といるよりも、神殿で、人間たちの姿を見ている方が、好きだった。
幸せそうな恋人達。暖かい家族。神殿内を走り回る無邪気な子供。
毎日のように足を運ぶ精悍な若者に、優しげな少女。そして、いつもしかめっ面の神官でさえも、たまらなく好きだった。
神像に傅いて祈りを捧げる姿を見ているよりも、
駆け回り、大人たちの制止をするするとかわしていく元気な男の子達の姿を見るのが、好きだった。
神殿全体に薫る、花と焚かれた香の匂いが好きだった。
神官の説教も、子供たちの内緒話も、仲睦まじい者達の忍び笑いも、優劣なく好きだった。
――――ひとびとの声を聴き、活きる姿を見ているのが大好きだった。
――――"愛の女神"は、人間たちを分け隔てなく、愛していた。
292 : ◆1UOAiS.xYWtC :2012/12/24(月) 03:20:29.54 ID:DU8XxeDfo
神域にてある日、他の神々がいつになく剣呑な空気を漂わせている事に気付いた。
聞けば、人間界にても―――不穏な空気が、流れ始めているという。
具体的な行いを目にした訳では無いが、"戦神"も、"狩猟の神"も、どことなく落ち着かないような、苛立った様子で話していた。
"愛の女神"は、それを思い過ごしと信じて、その場にいた神を諌め、落ち着かせた。
そして、いつものように神殿へと降りて幾日か過ごした時、何かが違っている事に気付いた。
神官が、一度も姿を見せない。
日参する恋人達も、その姿を減らしていった。
あの熱心な若者の供えた果実は、日ごとに萎れて、小蠅がたかるようになった。
更に、数週間。
供え物は、もはや朽ち果て見る影も無い。
子ども達がときおり訪れて小さな木の実や野花を供えてくれるが、すぐに神殿を出て行ってしまった。
一度、その姿を子供達に見せ、微笑みかけてみた事がある。
"彼女"の姿を認めた子供は、照れ臭そうな表情を浮かべたが――――どこか、陰りがあった。
後ろめたい事を隠すような、そんな、偽りの愛想。
また、一月ほどが経つ。
とうとう、子供達の姿さえ見かけなくなった。
かさかさに乾涸びた供え物の花を、”彼女”が手に取ろうとすれば、砕けてしまった。
反面、神殿内の中庭は、雑草の背が高くなり始めた。
よく手入れされていた頃と違い、伸びるに任せた草は、今となっては大人の腿ほどまである。
神像前の枯れた花と、見下ろす限りに天を目指すように伸び放題の草。
再び神域へと戻れば、神々の顔にはさらに厳めしいものがある。
"戦神"はもはや憤怒の形相を隠さず、"狩猟神"は静かな、それでいて吹きこぼれるような怒りを湛え、
"豊穣の女神"は悲しそうな表情を浮かべたままだった。
そして、神々の会合が開かれる事となり、そこで初めて、”愛の女神”は全てを知る事となった。
293 : ◆1UOAiS.xYWtC :2012/12/24(月) 03:21:00.00 ID:DU8XxeDfo
人は、神への崇敬を忘れていた。
既に戦神や狩猟の神、海神は信徒を失い、その者達は、神へと挑もうと準備をしていた。
かつて神からもたらされた力を使い、神域へと届く塔を築き、
神になり代わろうと、牙を研いでいた。
人は神に愛され、その加護にて生きた。
狩猟の神の加護により、不猟は無かった。
豊穣の女神の祝福により、不作は無かった。
それ故に、人間は――――思い上がってしまった。
何より神々を落胆させ、激怒させたのは、その増上慢だけではない。
それでも神々への敬いを持ち続けた者への、所業。
彼らは、神への敬いを持つ老人を、神殿へと通う子供たちを、厳しく詰った。
神前へ捧げるべく刈り集めた麦の穂を抱えた老人を、
小さな木の実と草花の環を抱えた幼子を、
容赦なく殴りつけ、そのささやかな供物を奪い取るでもなく踏みにじった。
狩猟の神も、豊穣の女神も、海の神々も、既に、神殿を失っていた。
打ち壊され、火を放たれ、それでも焼け残った神像は引き倒され、見るも無残に砕け、
収穫祭でも神々に感謝をささげる事が無かった。
"最高神"の神殿も、例外ではない。
その中でも、"愛の女神"の神殿だけは、今も残っていた。
――――最後の神殿が、残っていた。
294 : ◆1UOAiS.xYWtC :2012/12/24(月) 03:21:29.51 ID:DU8XxeDfo
そして神々は決めた。
今在る人間を全て滅ぼし。
もう一度人間を、作り直そうと。
再び、一そろいの男女をつくり……「人類」の歴史を、作り直す事に決めた。
その決定に唯一異を唱えたのが、"愛の女神"だった。
"最高神"をはじめとした何百もの神々に、"彼女"だけが、逆らった。
その抗弁は、何時間、何日にも渡った。
人類への鉄槌を止めるべく、不休で慈悲を求めた。
――――確かに、人間たちの行いは目に余る。
――――しかし、しかし……滅ぼし、やり直すのは行き過ぎていると。
――――どうか、考え直してほしいと。
――――どうか、人類に……もう一度だけ、機会をと。
その、"愛の女神"の涙を浮かべた懇願には、さしもの"最高神"も、抗えなかった。
だが、もしも……もしも、"彼女"の神殿をも失った時は、人間の歴史を一度終わらせる。
その約束を取り付ける事となった。
その決定に、"彼女"は涙を流し、跪き、懇ろに礼を述べた。
人間たちへの希望を繋ぐ事ができた事が、何よりも、嬉しかった。
他の神々もその裁きに同意し、その場を去った。
"愛の女神"にああまでされては、異議を唱えられるものなどいなかった。
彼女は、人々のみならず……"神々"にも、愛されていたのだ。
295 : ◆1UOAiS.xYWtC :2012/12/24(月) 03:22:08.24 ID:DU8XxeDfo
そして彼女は、神殿に戻る。
相変わらずに荒れ果て、中庭の草は更に背が高くなっていた。
神像には苔が生し、つる草が神像の足元へ伸びていた。
吹き抜けの天井からは青空が覗かせるが、それを望む"彼女"は、憂えていた。
あの空の向こうには、もはや神殿を失った神々がいる。
彼ら、彼女らは、既に人類への望みを失っている。
いつか、時が来れば――――神々の怒りが、人類を焼き尽くす。
もしそうなれば、女神である"彼女"にも止められない。
怒り狂った戦神の鉄槌を、最高神の雷を、誰が止められるのだろう。
胸が張り裂けそうな不安と恐怖が、"彼女"を責め苛む。
人類は、未だ自らの命運を知らない。
神々は、"彼女"の言葉に思い留まりはしたが、その実、時間稼ぎにしかならないとも思っていた。
いつか必ず、人間は"彼女"の神殿を焼くと、確信していたのだ。
人々は、その命運を分ける鍵が"彼女"の神殿にある事をまだ知らない。
もしも人間たちが最後の神殿を焼けば、その炎は、自らを嘗め尽くし、骨さえ―――魂さえ、残さない。
神々への"愛"と、人間への"愛"。
その狭間に、"愛の女神"の心は……さながら、鎖で巻かれ、両側から引かれているかのようにおそろしく痛んだ。
296 : ◆1UOAiS.xYWtC :2012/12/24(月) 03:22:45.47 ID:DU8XxeDfo
神像の前に座り込み、眠れぬ夜を何度も過ごした。
"女神"の身は、人間のいかなる手段を以てしても、殺す事はおろか、傷付ける事もできはしない。
神像を蝕む緑の苔も、中庭の緑も、日が増すごとに濃くなっていった。
既に訪れる者も祈りを捧げる者も、ましてや供物を捧げる者もいない。
あるのは既に土と化しつつある花と、形を失った果実、虫の湧いた木の実。
かつて人が祈った、残滓。
にも関わらず、思い出されるのは、神殿が活気に溢れていた頃の記憶。
目を閉じるたびに、思い出された。
子供たちの歓声と足音、声も立てずに祈る老人の姿、寄り添い祈る恋人や夫婦の、心の声。
おそらく、それはもはや帰ってこないのだろう。
あのひと時は、もう帰ってこないのだろう。
だが、それでもいいと思っていた。
"彼女"にとっては、もはやどうでもよかった。
神殿に帰ってこないというのなら、それも良い。
ただ、人間たちが――――健やかであるのなら。
便りの無きを良い報せと信じて、日々緑に侵食される神殿で、時を過ごした。
人間達へと変わらぬ祝福を与えながら、神への崇敬を取り戻してくれる事を信じた。
―――――"彼女"の祈りが砕かれる、その日まで。
297 : ◆1UOAiS.xYWtC :2012/12/24(月) 03:23:15.99 ID:DU8XxeDfo
神域の会合から数ヶ月が経ち、あの約束を忘却しつつある頃に――――彼女は、目を覚ました。
神像の前で眠りについていた時に、夜中にも関わらず紅く光る空が瞼を照らした。
目が覚めてみれば………神殿の周りを、炎が取り巻いていた。
内部にまで火は届いていないが、おそらくは、神殿の外縁部は既に炎に包まれている。
とうとう――――その日が、やってきてしまった。
神殿の外部に火の手が上がり、その火は、風に煽られるままに神殿へと近づく。
背の伸びた草は縒り紐のように炎を導き、内部にまで、容易く届いてしまった。
炎で、"彼女"の身が傷つく事は無い。
だが、しかし……身が焼けるような哀しみと、狂おしいまでの恐怖が、"彼女"を襲った。
これで……もう、人間たちの滅びは避けられない。
神殿の外側へと炎の中を駆け、取り囲む者達を見やる。
かつて足を運んでいた、勤勉で、精悍な若者がそこにいた。
炎を点した松明を手にして、罪悪感の欠片も無く、焼け落ちる"愛の女神"の神殿を目にしていた。
"彼女"の心が軋みを上げ………直後に、神殿内から、かすかな声が耳に届いた。
再び炎の舌が伸びる神殿を駆け、声が聞こえた神像前へと戻る。
広く取られた供物の祭壇前は、石造りの為に火は届いていない。
真新しい手作りの白い花環と、瑞々しい小さな林檎が一つだけ、ぽつりと置かれている。
そして傍らには……小さな女の子が独り、倒れていた。
298 : ◆1UOAiS.xYWtC :2012/12/24(月) 03:23:55.63 ID:DU8XxeDfo
駆け寄って見れば、華奢な体のあちこちが煤でまみれている。
彼女が眠っている間に、独り、忘れられつつある神殿へと訪れたのだろう。
地上に最後に残った神殿に、たった一人で。
抱き起こして呼吸を確かめるが、どこまでも弱々しい。
灼けつくような煙をまともに吸い、少女の喉は焼け爛れてしまっていた。
少女の身体を癒す事は、容易い。
しかし、神殿に火が放たれてしまった今、永らえさせたとしても――――運命は、変えられない。
見上げた夜空は、どこまでも赤い。
神像を取り巻き同化しつつある蔦にも、弾けた火花から燃え移っていた。
祭壇の前で、一人と一柱が、最後の供物とともに寄り添い合う。
ふと、夜空に雷が見えた。
一筋ではない。
雷が夜空を青白く染め上げ、その向こうでは……神々の鉄槌が振り上げられているのを、感じた。
ゆっくりと、息を引き取る少女を看取った後に。
神像が焼け落ち、崩れるのを感じながら、"愛の女神"は、涙を零しながら、請う。
――――――誰か
――――――誰か、助けてください
――――――誰か、人間たちの世界を――――
ほどなくして、雷撃の鉄槌が世界を、砕いた。
299 : ◆1UOAiS.xYWtC :2012/12/24(月) 03:24:49.75 ID:DU8XxeDfo
永い時を挟み、彼女が再び認識を取り戻した時。
神殿のあった場所は、緑の丘となっていた。
草が生し、木々が聳え、虫たちが飛び交い、暖かな陽光が差している。
見れば、神殿の名残はわずかに残っていた。
ほんの些細な、大理石の破片として。
立ち上がり、見渡す限りの緑の中に――――かつて愛した、"人間"の姿も、気配も無い。
空に浮かぶ雲、青空、青空を渡る鳥たち。
神殿跡地近くを流れる川、ときおり跳ねる魚。
野を駆ける獣、碧野、遠くには続く山脈。
その雄大な光景の中に……人間は、存在しなかった。
神域で聞いた話が事実だとすれば、すでに、新しき人類が生まれている。
だが、かつての"人間"は、もういない。
未だ、その手に抱いた、最後の小さな信徒の感触が残っている。
とうとう……助ける事が、できなかった。
たった一人が心を忘れなかったとしても、
九十九人が心を失ったがために……人間は、滅びてしまった。
"彼女"自らと同じ眷属が、滅ぼしてしまった。
300 : ◆1UOAiS.xYWtC :2012/12/24(月) 03:25:21.32 ID:DU8XxeDfo
涙は流れなかった。
丘の上で何日も、何日も……ただ、作り変えられた世界を微動だにせず眺めて過ごしていた。
月と太陽が幾度入れ替わっても、目の前に、かつて愛し愛された者達がやって来る事は無い。
ある日、灰色の空が、彼女の瞳に代わるように水のつぶてを大地に放った。
責め苛むような涙雨が容赦なく風とともに吹きつけ、丘の上の"女神"を襲う。
風鳴りが声となり、責められているような錯覚を起こす。
雨の音は、人間たちの怨み言にも聞こえてしまった。
なおも、責められるような幻聴は続く。
耳を塞ぎ、その場に伏せても、変わらない。
呵責と錯覚の最中に、ついに彼女の胸中に、思ってもいけない言葉が産まれてしまった。
――――――私は、"女神"じゃない。
――――――私は、"女神"などではない。
「"愛の女神"など、もういない!」
堕女神「……女王陛下の様子は、どうでしたか?」
勇者「…元気そうだったよ」
堕女神「………」
勇者「ところで、今日の予定は?」
堕女神「は……。南方の砦から書簡が。詳しくは執務室にて」
勇者「そうか、分かった」
堕女神「……それと……」
勇者「何かな」
堕女神「あ、いえ……何でもありません」
勇者「……午後、城を案内してくれないか?」
堕女神「え……?」
勇者「城の設備を、もうちょっと詳しく知っておきたくてさ」
286 : ◆1UOAiS.xYWtC :2012/12/24(月) 03:17:04.07 ID:DU8XxeDfo
食器の片づけを終えると、二人と――否、一人と一柱は、城内を連れ添って歩いた。
どちらから意識したともなく歩みはゆっくりとしたものだった。
ぐずついた空が水の飛礫で窓を叩き、それが不思議と、落ち着くような自然の旋律を奏でる。
勇者「……久しぶりだな」
窓へと視線を向け、流れ落ちる水の筋を目で追いながら呟いた。
曲がりくねり、蛇のように流れる水は、硝子越しの水面の外へと消えて行った。
堕女神「はい…?」
勇者「雨」
堕女神「確かに…陛下がお出でになられてからは、初めてです」
勇者「……もう一度、見られるのかな」
降り続く雨の奥へと見通すように、どこか期待を込めた、儚げな視線を投げかける。
傍らの彼女の怪訝な様子を意にも介さず、雨の上がりとともに訪れる、あの空にかかる七色の弓へと思いを馳せて。
勇者「……行こうか。まず、宝物庫へ案内してくれ」
287 : ◆1UOAiS.xYWtC :2012/12/24(月) 03:17:41.18 ID:DU8XxeDfo
エントランスから、地下へ。
幾つかの扉を抜け、煌びやかに装飾された廊下を歩き、行きついた先に、ひときわ頑丈そうな大扉があった。
扉全体がまるで金属細工の芸術のように、絡みもつれる茨の壁を模した意匠となっている。
進み出た堕女神が鍵を取り出して、大扉の中心にある細工へと差し込むと、扉の装飾が鈴のような音とともに蠢き、
続けて、錠前の開く音がいくつも重なり合い、数十秒してようやく扉が開いた。
堕女神「どうぞ、陛下」
宝物庫の中は、予想していたよりもこぢんまりとしたものだった。
壁面にはいくつかの展示箱が並び、その中には、大きな宝石がベルベットの台座の上で輝いていた。
扉の大仰さに比べてさして広くも無い宝物庫の中心には、質素な飾り気のない宝箱が、ぽつりと置いてある。
勇者「もっと、色々置いてあるものだと思ったけど」
堕女神「…あの宝箱の中には、我が国の富の全てが詰まっております」
勇者「……どういう事だ?」
堕女神「はい。確か……中には、現在およそ六億三千万枚の金貨が封じられております」
勇者「気が遠くなるような額だな。……何か魔法でもかかってるのか? あの箱」
堕女神「ですので、大袈裟な空間は必要無いのです」
勇者「……なるほど」
288 : ◆1UOAiS.xYWtC :2012/12/24(月) 03:18:21.62 ID:DU8XxeDfo
しばし、勇者は質素な宝物庫の中を見回して―――おもむろに、腰に下がる剣を帯から外し、眺める。
鞘にはいくつもの傷が刻まれ、握り手の革は手垢と血にまみれて、竜の翼を象った鍔は、欠けていた。
勇者「……あそこの展示箱、空いてるのかな」
奥にある展示箱を差して堕女神へ訊ねる。
堕女神「はい。その剣を納めるのですか?」
勇者「……もう、役目は終わったから。俺も、こいつも」
堕女神「………かしこまり、ました」
彼女が鍵を取り出し、展示箱のガラス蓋を開ける。
勇者がその前へ進み、中を覗き込むと―――年季の入った黒ずんだ木製の底板は、古めかしい芳香を放っていた。
ゆっくりと、別れを惜しむようにして、展示箱へと「救世の剣」を沈めていく。
そして――――勇者自身も驚くほどに、簡単に……手を、離れてしまった。
勇者「……共に戦ってくれて………ありがとう」
閉じられていく、長く残るきしんだ蝶番の音が、”戦い”の終わりを告げた。
289 : ◆1UOAiS.xYWtC :2012/12/24(月) 03:18:48.05 ID:DU8XxeDfo
―――――そして、地下牢、倉庫、食料庫。
拾い集めるように城内の部屋を巡り、最後に、エントランスから続くひとつの部屋へと案内された。
扉を開け、目についたのは無数の肖像画だった。
他にも壁面にはいくつもの肖像画が掲げられ、そのどれもが、王冠を戴いた、歴代の女王。
中でも特に存在感を放っているものがあった。
その髪は白というよりは―――もはや、透明。
肌は血管が透けるほどに白く、そのあまりに優しい彫刻のような面立ちは、どちらかと言えばサキュバスではなく。
”勇者”の力を目覚めさせた、女神と同じ印象さえ抱かせた。
堕女神「……先代の、女王陛下です」
その肖像画に目を奪われたままの勇者へ、堕女神が問わず語りに絵の主の名を告げる。
勇者「…彼女が」
再び、肖像画に目を凝らす。
額縁の中で微笑む彼女の顔は、今まで、人間界で見た誰の笑顔よりも、心を惹きつけるものがあった。
人外の者の、魔性がそうさせるのではない。
血の通わぬ肖像画を通しても尚、彼女の暖かみが滲み出るから。
堕女神「……陛下」
肖像画の間の扉が閉じられ、前に進み出た堕女神が、しばし、先代女王の面影に目を向ける。
赤い瞳が眩しげに瞬き、潤み揺らめく目が、ややあって後、体ごと勇者へ向けられた。
堕女神「………貴方は、何者なのですか」
沈黙に包まれた肖像画の間で、二人は向かい合う。
勇者「……何者、か」
堕女神「…畏れながら、どうかお答えください。……陛下のお力は……人を、超えております」
勇者「…………堕女神から見ても、か」
堕女神「…それとも、今の『人間』は、雷をも制しているのですか?」
勇者「………隠すつもりはない。だが……俺も、教えてほしい事があるんだ」
堕女神「え?」
勇者「堕女神は、何故……『淫魔の国』に?」
堕女神「私の話……ですか?」
勇者「……聞かせてくれないか。君の話を」
堕女神「…………はい」
――――そして、堕ちた女神は、語り始めた。
――――自らの身に起こった事、見守っていた人間達の結末。
――――淫魔の国と、その女王との邂逅を。
291 : ◆1UOAiS.xYWtC :2012/12/24(月) 03:19:42.68 ID:DU8XxeDfo
遥か遠き時、人々と神々は、もっと近くに在った時の事。
神殿には、いつも活気があった。
荘厳な大理石の回廊の奥には神像が祀られ、捧げ物が絶える事は無かった。
手塩にかけた作物の場合もあれば、小さな子が両手いっぱいに野花を抱えてくる場合もある。
時折、小さな子供は、神殿内で"彼女"の姿を見る事が出来る場合もあった。
純白の衣を装い、秋の収穫を待つ葡萄畑のような黄金の髪をたなびかせ、
目には蒼海のように輝く慈愛を湛えた、"彼女"の姿を。
そんな時、"彼女"は……決まって微笑みを浮かべ、その場に消えて見せて、
呆気にとられた子供の横を通り抜け、頭をふわりと撫でた。
"彼女"は、神殿にいる事が好きだった。
他の神々といるよりも、神殿で、人間たちの姿を見ている方が、好きだった。
幸せそうな恋人達。暖かい家族。神殿内を走り回る無邪気な子供。
毎日のように足を運ぶ精悍な若者に、優しげな少女。そして、いつもしかめっ面の神官でさえも、たまらなく好きだった。
神像に傅いて祈りを捧げる姿を見ているよりも、
駆け回り、大人たちの制止をするするとかわしていく元気な男の子達の姿を見るのが、好きだった。
神殿全体に薫る、花と焚かれた香の匂いが好きだった。
神官の説教も、子供たちの内緒話も、仲睦まじい者達の忍び笑いも、優劣なく好きだった。
――――ひとびとの声を聴き、活きる姿を見ているのが大好きだった。
――――"愛の女神"は、人間たちを分け隔てなく、愛していた。
292 : ◆1UOAiS.xYWtC :2012/12/24(月) 03:20:29.54 ID:DU8XxeDfo
神域にてある日、他の神々がいつになく剣呑な空気を漂わせている事に気付いた。
聞けば、人間界にても―――不穏な空気が、流れ始めているという。
具体的な行いを目にした訳では無いが、"戦神"も、"狩猟の神"も、どことなく落ち着かないような、苛立った様子で話していた。
"愛の女神"は、それを思い過ごしと信じて、その場にいた神を諌め、落ち着かせた。
そして、いつものように神殿へと降りて幾日か過ごした時、何かが違っている事に気付いた。
神官が、一度も姿を見せない。
日参する恋人達も、その姿を減らしていった。
あの熱心な若者の供えた果実は、日ごとに萎れて、小蠅がたかるようになった。
更に、数週間。
供え物は、もはや朽ち果て見る影も無い。
子ども達がときおり訪れて小さな木の実や野花を供えてくれるが、すぐに神殿を出て行ってしまった。
一度、その姿を子供達に見せ、微笑みかけてみた事がある。
"彼女"の姿を認めた子供は、照れ臭そうな表情を浮かべたが――――どこか、陰りがあった。
後ろめたい事を隠すような、そんな、偽りの愛想。
また、一月ほどが経つ。
とうとう、子供達の姿さえ見かけなくなった。
かさかさに乾涸びた供え物の花を、”彼女”が手に取ろうとすれば、砕けてしまった。
反面、神殿内の中庭は、雑草の背が高くなり始めた。
よく手入れされていた頃と違い、伸びるに任せた草は、今となっては大人の腿ほどまである。
神像前の枯れた花と、見下ろす限りに天を目指すように伸び放題の草。
再び神域へと戻れば、神々の顔にはさらに厳めしいものがある。
"戦神"はもはや憤怒の形相を隠さず、"狩猟神"は静かな、それでいて吹きこぼれるような怒りを湛え、
"豊穣の女神"は悲しそうな表情を浮かべたままだった。
そして、神々の会合が開かれる事となり、そこで初めて、”愛の女神”は全てを知る事となった。
293 : ◆1UOAiS.xYWtC :2012/12/24(月) 03:21:00.00 ID:DU8XxeDfo
人は、神への崇敬を忘れていた。
既に戦神や狩猟の神、海神は信徒を失い、その者達は、神へと挑もうと準備をしていた。
かつて神からもたらされた力を使い、神域へと届く塔を築き、
神になり代わろうと、牙を研いでいた。
人は神に愛され、その加護にて生きた。
狩猟の神の加護により、不猟は無かった。
豊穣の女神の祝福により、不作は無かった。
それ故に、人間は――――思い上がってしまった。
何より神々を落胆させ、激怒させたのは、その増上慢だけではない。
それでも神々への敬いを持ち続けた者への、所業。
彼らは、神への敬いを持つ老人を、神殿へと通う子供たちを、厳しく詰った。
神前へ捧げるべく刈り集めた麦の穂を抱えた老人を、
小さな木の実と草花の環を抱えた幼子を、
容赦なく殴りつけ、そのささやかな供物を奪い取るでもなく踏みにじった。
狩猟の神も、豊穣の女神も、海の神々も、既に、神殿を失っていた。
打ち壊され、火を放たれ、それでも焼け残った神像は引き倒され、見るも無残に砕け、
収穫祭でも神々に感謝をささげる事が無かった。
"最高神"の神殿も、例外ではない。
その中でも、"愛の女神"の神殿だけは、今も残っていた。
――――最後の神殿が、残っていた。
294 : ◆1UOAiS.xYWtC :2012/12/24(月) 03:21:29.51 ID:DU8XxeDfo
そして神々は決めた。
今在る人間を全て滅ぼし。
もう一度人間を、作り直そうと。
再び、一そろいの男女をつくり……「人類」の歴史を、作り直す事に決めた。
その決定に唯一異を唱えたのが、"愛の女神"だった。
"最高神"をはじめとした何百もの神々に、"彼女"だけが、逆らった。
その抗弁は、何時間、何日にも渡った。
人類への鉄槌を止めるべく、不休で慈悲を求めた。
――――確かに、人間たちの行いは目に余る。
――――しかし、しかし……滅ぼし、やり直すのは行き過ぎていると。
――――どうか、考え直してほしいと。
――――どうか、人類に……もう一度だけ、機会をと。
その、"愛の女神"の涙を浮かべた懇願には、さしもの"最高神"も、抗えなかった。
だが、もしも……もしも、"彼女"の神殿をも失った時は、人間の歴史を一度終わらせる。
その約束を取り付ける事となった。
その決定に、"彼女"は涙を流し、跪き、懇ろに礼を述べた。
人間たちへの希望を繋ぐ事ができた事が、何よりも、嬉しかった。
他の神々もその裁きに同意し、その場を去った。
"愛の女神"にああまでされては、異議を唱えられるものなどいなかった。
彼女は、人々のみならず……"神々"にも、愛されていたのだ。
295 : ◆1UOAiS.xYWtC :2012/12/24(月) 03:22:08.24 ID:DU8XxeDfo
そして彼女は、神殿に戻る。
相変わらずに荒れ果て、中庭の草は更に背が高くなっていた。
神像には苔が生し、つる草が神像の足元へ伸びていた。
吹き抜けの天井からは青空が覗かせるが、それを望む"彼女"は、憂えていた。
あの空の向こうには、もはや神殿を失った神々がいる。
彼ら、彼女らは、既に人類への望みを失っている。
いつか、時が来れば――――神々の怒りが、人類を焼き尽くす。
もしそうなれば、女神である"彼女"にも止められない。
怒り狂った戦神の鉄槌を、最高神の雷を、誰が止められるのだろう。
胸が張り裂けそうな不安と恐怖が、"彼女"を責め苛む。
人類は、未だ自らの命運を知らない。
神々は、"彼女"の言葉に思い留まりはしたが、その実、時間稼ぎにしかならないとも思っていた。
いつか必ず、人間は"彼女"の神殿を焼くと、確信していたのだ。
人々は、その命運を分ける鍵が"彼女"の神殿にある事をまだ知らない。
もしも人間たちが最後の神殿を焼けば、その炎は、自らを嘗め尽くし、骨さえ―――魂さえ、残さない。
神々への"愛"と、人間への"愛"。
その狭間に、"愛の女神"の心は……さながら、鎖で巻かれ、両側から引かれているかのようにおそろしく痛んだ。
296 : ◆1UOAiS.xYWtC :2012/12/24(月) 03:22:45.47 ID:DU8XxeDfo
神像の前に座り込み、眠れぬ夜を何度も過ごした。
"女神"の身は、人間のいかなる手段を以てしても、殺す事はおろか、傷付ける事もできはしない。
神像を蝕む緑の苔も、中庭の緑も、日が増すごとに濃くなっていった。
既に訪れる者も祈りを捧げる者も、ましてや供物を捧げる者もいない。
あるのは既に土と化しつつある花と、形を失った果実、虫の湧いた木の実。
かつて人が祈った、残滓。
にも関わらず、思い出されるのは、神殿が活気に溢れていた頃の記憶。
目を閉じるたびに、思い出された。
子供たちの歓声と足音、声も立てずに祈る老人の姿、寄り添い祈る恋人や夫婦の、心の声。
おそらく、それはもはや帰ってこないのだろう。
あのひと時は、もう帰ってこないのだろう。
だが、それでもいいと思っていた。
"彼女"にとっては、もはやどうでもよかった。
神殿に帰ってこないというのなら、それも良い。
ただ、人間たちが――――健やかであるのなら。
便りの無きを良い報せと信じて、日々緑に侵食される神殿で、時を過ごした。
人間達へと変わらぬ祝福を与えながら、神への崇敬を取り戻してくれる事を信じた。
―――――"彼女"の祈りが砕かれる、その日まで。
297 : ◆1UOAiS.xYWtC :2012/12/24(月) 03:23:15.99 ID:DU8XxeDfo
神域の会合から数ヶ月が経ち、あの約束を忘却しつつある頃に――――彼女は、目を覚ました。
神像の前で眠りについていた時に、夜中にも関わらず紅く光る空が瞼を照らした。
目が覚めてみれば………神殿の周りを、炎が取り巻いていた。
内部にまで火は届いていないが、おそらくは、神殿の外縁部は既に炎に包まれている。
とうとう――――その日が、やってきてしまった。
神殿の外部に火の手が上がり、その火は、風に煽られるままに神殿へと近づく。
背の伸びた草は縒り紐のように炎を導き、内部にまで、容易く届いてしまった。
炎で、"彼女"の身が傷つく事は無い。
だが、しかし……身が焼けるような哀しみと、狂おしいまでの恐怖が、"彼女"を襲った。
これで……もう、人間たちの滅びは避けられない。
神殿の外側へと炎の中を駆け、取り囲む者達を見やる。
かつて足を運んでいた、勤勉で、精悍な若者がそこにいた。
炎を点した松明を手にして、罪悪感の欠片も無く、焼け落ちる"愛の女神"の神殿を目にしていた。
"彼女"の心が軋みを上げ………直後に、神殿内から、かすかな声が耳に届いた。
再び炎の舌が伸びる神殿を駆け、声が聞こえた神像前へと戻る。
広く取られた供物の祭壇前は、石造りの為に火は届いていない。
真新しい手作りの白い花環と、瑞々しい小さな林檎が一つだけ、ぽつりと置かれている。
そして傍らには……小さな女の子が独り、倒れていた。
298 : ◆1UOAiS.xYWtC :2012/12/24(月) 03:23:55.63 ID:DU8XxeDfo
駆け寄って見れば、華奢な体のあちこちが煤でまみれている。
彼女が眠っている間に、独り、忘れられつつある神殿へと訪れたのだろう。
地上に最後に残った神殿に、たった一人で。
抱き起こして呼吸を確かめるが、どこまでも弱々しい。
灼けつくような煙をまともに吸い、少女の喉は焼け爛れてしまっていた。
少女の身体を癒す事は、容易い。
しかし、神殿に火が放たれてしまった今、永らえさせたとしても――――運命は、変えられない。
見上げた夜空は、どこまでも赤い。
神像を取り巻き同化しつつある蔦にも、弾けた火花から燃え移っていた。
祭壇の前で、一人と一柱が、最後の供物とともに寄り添い合う。
ふと、夜空に雷が見えた。
一筋ではない。
雷が夜空を青白く染め上げ、その向こうでは……神々の鉄槌が振り上げられているのを、感じた。
ゆっくりと、息を引き取る少女を看取った後に。
神像が焼け落ち、崩れるのを感じながら、"愛の女神"は、涙を零しながら、請う。
――――――誰か
――――――誰か、助けてください
――――――誰か、人間たちの世界を――――
ほどなくして、雷撃の鉄槌が世界を、砕いた。
299 : ◆1UOAiS.xYWtC :2012/12/24(月) 03:24:49.75 ID:DU8XxeDfo
永い時を挟み、彼女が再び認識を取り戻した時。
神殿のあった場所は、緑の丘となっていた。
草が生し、木々が聳え、虫たちが飛び交い、暖かな陽光が差している。
見れば、神殿の名残はわずかに残っていた。
ほんの些細な、大理石の破片として。
立ち上がり、見渡す限りの緑の中に――――かつて愛した、"人間"の姿も、気配も無い。
空に浮かぶ雲、青空、青空を渡る鳥たち。
神殿跡地近くを流れる川、ときおり跳ねる魚。
野を駆ける獣、碧野、遠くには続く山脈。
その雄大な光景の中に……人間は、存在しなかった。
神域で聞いた話が事実だとすれば、すでに、新しき人類が生まれている。
だが、かつての"人間"は、もういない。
未だ、その手に抱いた、最後の小さな信徒の感触が残っている。
とうとう……助ける事が、できなかった。
たった一人が心を忘れなかったとしても、
九十九人が心を失ったがために……人間は、滅びてしまった。
"彼女"自らと同じ眷属が、滅ぼしてしまった。
300 : ◆1UOAiS.xYWtC :2012/12/24(月) 03:25:21.32 ID:DU8XxeDfo
涙は流れなかった。
丘の上で何日も、何日も……ただ、作り変えられた世界を微動だにせず眺めて過ごしていた。
月と太陽が幾度入れ替わっても、目の前に、かつて愛し愛された者達がやって来る事は無い。
ある日、灰色の空が、彼女の瞳に代わるように水のつぶてを大地に放った。
責め苛むような涙雨が容赦なく風とともに吹きつけ、丘の上の"女神"を襲う。
風鳴りが声となり、責められているような錯覚を起こす。
雨の音は、人間たちの怨み言にも聞こえてしまった。
なおも、責められるような幻聴は続く。
耳を塞ぎ、その場に伏せても、変わらない。
呵責と錯覚の最中に、ついに彼女の胸中に、思ってもいけない言葉が産まれてしまった。
――――――私は、"女神"じゃない。
――――――私は、"女神"などではない。
「"愛の女神"など、もういない!」
堕女神「私を、『淫魔』にしてください」
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