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勇者「真夏の昼の淫魔の国」

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Part5
158 : ◆1UOAiS.xYWtC :2013/09/04(水) 01:57:37.19 ID:R8U/QWVFo
****
眼を覚ますと、どこか懐かしい埃臭さと、藁の匂いが香った。
「……っ痛……!」
まず見えたのは、天蓋じゃない。
板の隙間から蜘蛛でも下りてきそうな、木目の入った低い天井だった。
寝かされているのは、硬くて……好意的に言えば背骨がよく伸びそうな、麻のシーツで覆われたベッドらしい。
身体を起こそうとすると、意外にもすんなりといったが――――直後、背骨から鋭い痛みが駆け抜け、体を一瞬痺れさせた。
「こ、こは……?」
見回すと、宿屋とも思えない質素な部屋だった。
ベッドの脇には古びた椅子が一脚あり、白い漆喰の壁には、絵の類など一つも下がっておらず、
少し離れてクローゼット、戸棚、小さなテーブルがあるだけ。
あえて華やかな物をひとつ挙げるとすれば、光の差す窓辺に飾られた、枯れかけた一輪挿しの花ぐらいだろう。
その時、敷居の外から妙な足音が聴こえた。
妙な、というのは――――二種類の足音が、まるで、一人に重なっているように、続けて聴こえてくるからだ。

159 : ◆1UOAiS.xYWtC :2013/09/04(水) 01:58:58.94 ID:R8U/QWVFo
扉は開閉以前に、そもそもはまってなどいない。
こちらへ近づいてくる足音は、尚も奇妙に響く。
ひとつは甲冑を身につけた騎士のような、重く残る金属の足音。
ひとつは皮革を張り合せた靴と思しき、静かに体重を乗せる足音。
――――がしゃん、すとん、がしゃん、すとん。
金属と革の足音は交互に聴こえているが、二人分、ではない。
等間隔で聴こえてくるそれは妙に早足だ。
緊張して無意識にベッドサイドの剣を探し当てると、やがて――――『正体』が、ひょい、っと顔を覗かせた。
「何だよ、起きれンのか? 災難だったな、人間?」
――――『サキュバス』だった。
その事自体は、驚くに値しない。
だが、上手く色素の抜けた銀髪より、浅瀬のような水色の瞳より、何より強く目を引くのはその、『脚』だった。
巻きスカートに包まれた左足は皮の靴を履いているが、スリットから覗く右足は太腿から、
アンバランスな真鍮の脚甲に包まれていた。
爪先は猛鳥の爪のように三叉に分かれており、奇妙な事に、その『爪』の一本一本が
足の指のように動いて、拍子を刻んでいる。

160 : ◆1UOAiS.xYWtC :2013/09/04(水) 02:00:50.11 ID:R8U/QWVFo
「君は?」
「何だよ、驚きもしねェのかよ? 最近の人間ってのはどいつもこいつも物怖じしやがらねェな、ったく」
舌打ちし、わざとらしく口を裂けたように開いて吐き捨てる横顔は、どこか悪辣だ。
だが嫌な感じはせず、悪意に類するものは、全く見受けられない。
「ま、いーや。アタシは、淫魔族だよ。サキュバスCって呼べ。…………さっきから、ヒトの脚、ジロジロ見てんじゃねェよ」
「あ、いや……済まない、許してくれ」
「『輝くような脚線美』、ってか? 触ってもいいんだぜ?」
「…………」
返しに困る冗談になんとか苦笑いを浮かべて、彼女の非対称な脚から視線を上げる。
そこで、初めて気づく。
彼女の持つサキュバスの翼、その左背側が――――全く、欠損している事に。
その代わりに右側の翼は、他に見かけたサキュバスの翼よりもやや広い。
「……俺は、何で……ここに、いるんだ?」
「そりゃアタシが訊きたいね。オマエこそ何で、『ここ』にいるんだ?」
「…………」
「いや、質問はオマエが先だったわな。多分、崖から落ちた……のか? グッタリしてたのを、アタシが見つけたのさ」
「崖……」
「んで、優しい優しい美人な淫魔さんが、健気にも自分のベッドを貸してやった、ってワケよ。お分かり?
 で、誰? いい加減に答えなよ」
「……俺は」

161 : ◆1UOAiS.xYWtC :2013/09/04(水) 02:02:19.54 ID:R8U/QWVFo
少しずつ、頭が冴えてきた。
記憶はところどころ飛んではいるが、それも時間によって思い出せるはずだ。
この場にいる経緯は思い出せないが――――自分の名も今の地位も、その前に得ていた『称号』も、頭から抜けてはいない。
「俺は、この国の王だ―――――ばっ!?
顔面に濡れた布巾を投げつけられ、その衝撃でのけ反り――――後を引く背筋が、ビキリと痛んだ。
「……うん、寝くされ。アタマも打ったみてーだな、オイ」
「違っ……! 本当だ! 本当に俺は!」
「ふてェ冗談ぶっこいてんじゃねェよ」
「ん、なっ……!」
「だいたいそんな普段着でみすぼらしいマント着て行き倒れる『おーさま』がいるかよ。寝言言うなら寝ろっつってんだよ」
「うぐっ……」
「ったく、メシは持って来てやるからとりあえず食って寝ろ、行き倒れ野郎。こぼしたら殺すぞ」
矢継ぎ早に荒っぽい言葉を浴びせかけられ――――二の句も告げられなかった。
こういった物言いで接してくれる者は、城にはいなかった。
強いて挙げればサキュバスAはどちらかといえば人を化かすが、それでも口調は崩さない。
悪い気分でもなく、…………新鮮だった。

162 : ◆1UOAiS.xYWtC :2013/09/04(水) 02:04:06.95 ID:R8U/QWVFo
左手側を見れば、窓に接するように、一人掛けのテーブルセットがあった。
オーク材でつくられたテーブルには素朴な暖かみがあり、それは、遠く遠く離れた故郷の生家、
そこにあったロッキングチェアの雰囲気に似ていた。
重厚感は無く、そこにあるのが当たり前のように部屋に溶け込んでいる。
ベッドを汚すな、と『命ぜられた』のを思い出して、下半身をベッドから抜き出して、床の上に下ろす。
背骨と胴はズキズキと痛むが、下肢には影響はなく、歩く事に支障はない。
椅子を引いて腰掛けると、ぎしり、と手ごたえがあったが――――果たしてそれは椅子なのか、
自分の身体からなのか、それさえ分からなかった。
やがて言った通り、彼女は盆を運んできてくれた。
「病人食なんかねーよ。ホラ、食え」
手狭なテーブルの上に置かれた盆には、米を使った料理と、粗末な木の器に注がれたスープ、
妙に分厚くて不格好な、木から削り出した匙のみ。
「ところで、俺は……どれぐらい寝ていた?」
「あ? たった二日。自分で起きて歩けるんなら、もう完治だろ。明日っからは病人扱いしてやらねェぜ」
「……まぁ、ともかく。いただくよ。ありがとう」


163 : ◆1UOAiS.xYWtC :2013/09/04(水) 02:05:18.94 ID:R8U/QWVFo
ささやかな食卓に向き直ると、質素、という風でも無い。
皿に盛られたメインの料理は、米を厚切りのベーコンや玉葱と一緒に炒めてあるようで、
賽の目に切られたトマトが彩りとして散りばめられている。
匙を取って、まず一口、運ぶ。
ニンニクの香りが移った米が強烈に鼻を楽しませて、遅れてベーコンの薫香と絡み合った。
厚切りのそれは歯応えが強く、ひとかけごとに、『肉』を食べているという実感があった。
料理の熱に加えて、ベーコンからしみ出す脂のせいで、口の中が火傷するほど熱い。
塩の具合はひどく不揃いで、しょっぱい部分があるかと思えば、何の味もしない、白米そのものの部分まである。
それでも、一口、一口、運ぶたびに、活力が漲ってきた。
半分ほどかっ込んだところで、スープに目を落とす。
器を引き寄せて、匙を入れようとしたところ――――ふと思い立って、直接器を取り、口をつけて飲む事にした。
何となしに、ここで、今なら――――この食べ方が、作法としては正しいような気がしたのだ。
そのスープは、ほぼ熱湯だった。
城で食するもののように、良い温度を保たれてはいない。
沸騰させたような熱さに塩気、少し遅れて、飛びかけたハーブの香りが申し訳程度に香った。
具は、芽キャベツが三個程度と、細切りの人参、そして砂利粒程度の肉のかけら。
味など、ほとんどしない。
ただ熱湯に具材を入れて塩を落としただけのように、文字通り味気ない。
それなのに――――妙に、満足感が湧いてくる。
『食した』のではなく、『食った』という満足感が。
気付けば、どちらの皿も、嘗めたように綺麗に平らげてしまっていた。
サキュバスCの方を見れば、彼女はどことなく照れ臭そうな表情を浮かべて、窓の外を眺めていた。

164 : ◆1UOAiS.xYWtC :2013/09/04(水) 02:07:02.17 ID:R8U/QWVFo
「これは……何という料理だったんだ?」
「……さぁ? テキトー炒めメシとクズ野菜と落とし肉の寄せ集めスープ。まぁ、ベーコンはアタシ手製だけどさ」
ふと、つられて窓の外を見る。
ここは、『村』という訳でも無い。
他に民家など無く、窓の外に見えるのは、どこまでも続く丘陵だけだ。
もしかすると反対側に建物があるのかもしれないが――――
「言っとくけどよ、この辺、アタシしか住んでねェよ。だからって寝込み襲うんじゃねぇぞ。今、危険日だし」
「あっ……え? あるのか? サキュバスに?」
「バカか、安全も危険もある訳無いだろ。何かヤベー覚えでもあんのか?」
「……そうすると、サキュバスは……どうやって増えるんだ?」
「そりゃ、お前まず……って、昼間っから性教育させんな! さっさと寝ろっつってんだ!」
照れ隠しではなく――――癇癪のついた声で怒鳴り付けられ、つい従ってしまう。
椅子から立ち上がり、ベッドに戻り、再び枕に頭を載せる。
満腹感は眠気を引き起こして、今にもすぅっと眠れてしまいそうだ。
その時、腹部に薄い布が掛けられた。

165 : ◆1UOAiS.xYWtC :2013/09/04(水) 02:07:55.80 ID:R8U/QWVFo
「もう一度言うが、ベッド貸してやんのも明日までだ。動けるようになったら出てけよ」
「わかったよ。だけど、その前に……一つだけ、訊きたい」
ポケットの中を探ると、あの紙片が指に当たった。
取り出し片手で開き、広げようとすると――――先にひったくられ、半ば握り潰すような形で、彼女はそれを見た。
「…………お前、ここに行きたいワケ?」
「ああ。何か知らないか」
「もう案内してやってんだろ」
「え?」
サキュバスCは地図をこちらへ見せて、もう片手の指で、印を指し示す。
「だからよ。……この印、まさにココだよ。アタシん家だ」
そんな、重要な事が――――――あっさりと、告げられた。

166 : ◆1UOAiS.xYWtC :2013/09/04(水) 02:09:01.62 ID:R8U/QWVFo
木々の繁る街道を馬に歩かせていた時の事。
まず、小鳥の囀りが消えた。
次いで虫の声も消えて、葉のざわめきも、林すべてが重苦しい油に投じられたようにしんと静かになった。
視界の端に小鳥が映るが、飛び立つ様子もなければ、動く様子もない。
これは――――よくない。
何かが来ている。
「…………ちっ」
鞘を払い、目に頼らず――――聴、嗅、触の感覚を動員して警戒する。
小鳥も虫も、一瞬で沈黙した。
方向などわからないまま、馬上から、ゆっくりと付近を見下ろす。
『彼女』も分かっているのか、その場を一歩も動かない。
首を深くうなだれさせ、咄嗟に剣を振るう邪魔をしないように計らっている。
もはや、それは動物の仕草ではない。
察しが良いだとかの次元を超えて、人と同等の知能と明確な意思を備えているとしか思えなかった。
やがて、地響きが轟いてきた。
バキバキと枝をへし折る音が聴こえ、直後にようやく、小鳥がバサバサと飛び散って行った。

167 : ◆1UOAiS.xYWtC :2013/09/04(水) 02:10:30.66 ID:R8U/QWVFo
「この足音、亜人……いや、獣人か。多分5mクラスの……奇蹄の音だな」
未だ姿は見えずも、地響きはやがて、足音として輪郭をはっきりさせてきた。
どしん、どしん、という踏みしめる音よりは、どこか軽快な音がする。
恐らくは足裏で歩いているのではなく、『蹄』を備えた獣人型。
「ミノタウロスか。俺を狙ったのか、それとも」
やがて、木立の中から耐え難いほどの獣の匂いが漂ってきた。
加えて新鮮な血の匂いが混じり、もはや懐かしい、『修羅場』の空気が取り戻されたように感じた。
右手に剣を握ったままでは、左の襲撃には対応が遅れる。
『彼女』もそれを察して首を下ろしているとはいえ、それでも――――必ず、遅れる。
「……なら」
剣を逆手に持ち替え、手綱と一緒に握り込む。
左手を軽く開くと、久方ぶりの『雷』を装い、籠手とした。
できることなら、使いたくはない。
王都から離れていない場所で――――こんなにも晴れた空の下で雷を放てば、城下に届く。
それはつまり淫魔達に、――――堕女神に、『有事』を告げる号令になる。
「ブモオォォォォォォッ!」
林の中から現れた牛頭人身の怪物は、大きく吼えた。
全身にべっとりと血を浴びて、屹立した角の一本は根元からへし折れている。
その息は興奮というより、絶え絶えに何とか繋いでいるような痛々しさを帯びていた。
やがて。
――――――その怪物は前のめりに倒れて大地を揺らし、それきり、起き上がらなかった。

168 : ◆1UOAiS.xYWtC :2013/09/04(水) 02:11:36.03 ID:R8U/QWVFo
「手負い?…………いや、何が……」
下りて調べようとした時、不意にナイトメアが急進し――――体勢を崩しながらも手綱にしがみつく事になる。
その時、風を切り裂く音が無数に聴こえて、空気の波が背を押したのを感じて、体を捻って振り返る。
寸前までいた空間を、無数の血でぬめった『蔓』のようなものが貫いていた。
ひとつひとつが地獄の大蛇のように蠢き、木々を容易く貫通している。
数歩も進まないうちに、その先端がこちらを向いた。
その形状は、一定ではない。
剣のように薄いもの、槍のように尖ったもの、斧刃を連ねたような凶悪なもの、針葉樹のように枝分かれして尖らせたもの。
それは弾かれたように、こちらを追ってきた。
「問答無用でっ……! そもそもこいつは一体――――」
左手に手綱を戻して、右手を自由にする。
後方から迫りくる『蔦』は――――収束する糸のように、殺気を孕んでどこまでも追ってくる。
信じがたい事に、全速の魔界馬にさえ、それは追いついてくる。
近づいてきたものを切り払えば、ほんの少しだけ萎れはするが、直後に何事もなかったように再生して、追撃してくる。
斬った手応えは、おかしなものだ。
表面が硬化した樹皮に似ているかと思えば、中心部分は軟体のように、ぬめぬめとして捉えどころが無い。

169 : ◆1UOAiS.xYWtC :2013/09/04(水) 02:12:51.06 ID:R8U/QWVFo
磯巾着の罠にはまった魚の気分を味わいながらも進むと、前方に開けた空間が見えて、
強く差した日光に目が眩み、ナイトメアの速度が落ちた。
だが――――止まれば、この得体の知れない存在に捕まる。
そうなると、恐らく、先ほどの獣人と同じ末路を辿る事になる。
手綱を振るい、再び『彼女』を奮い立たせて、前方の開けた場所へ向かって走らせる。
再び馬脚に力が戻り、ぶるる、と鼻息を荒げながら、前に見える光を目指す。
もはや、後ろを振り返る余裕はない。
前をまっすぐ向いた視界の端にさえ、鏃のように尖った『魔手』がちらちらと映っている。
頬に走った鋭い痛み、背をちくちくと刺される痛み、頭をとっさに下げた瞬間に過ぎる、重い音と風圧。
もう、ほぼ呑み込まれてしまっていた。
「っ……と、止まっ……!!」
林道を抜けて開けた空間に出たと同時に、妙に風が強くなる。
出はしたが、そこは――――断崖絶壁だった。
慌てて御して崖下を見ると、木が転々と生えた草原がある。
背中に感じていた生臭い殺気は、もうない。
ようやく後ろを振り向くと、そこには何も無い。
直前までの逃走が嘘のように、穏やかそのものの林道が、間抜けた蛇のように口を開けているだけ。

170 : ◆1UOAiS.xYWtC :2013/09/04(水) 02:14:41.94 ID:R8U/QWVFo
(撒いたか? だけど……あれは何だ? 植物? いや、手応えは……)
念の為に、更に林から距離を取って、改めて付近を観察する。
林の脇に、崖下へと下りていく坂道があった。
下りてしまえば、恐らくそれ以上追ってはこないだろう。
本体は恐らく森の中で、それ自体は俊敏では無い。
開けた場所に出たと同時に襲撃が中断されたところを見ると、光にも強くはない、と心から信じたかった。
とにかく、ここにいてはまずい。
林の奥へ引っ込んでいったとはいえ、未だ謎のモンスターが近くにいるのは変わらない。
離れなければ。
「――――――?」
不自然な揺れが、再び駆けさせようとしたナイトメアの動きを奪った。
剣を納めて付近を伺うが、何も他に異変は無い。
ここまでよく抑えの効いていた『賢馬』が、震えていた。
ふと――――――衝撃を感じたかと思えば、天地が逆転して。
尻が持ち上がるような、股の間を冷たい風が抜けるような、妙な不快感が襲ってきた。
「なっ……に!?」
逆転した世界の中に、断崖から生えた巨木が映った。
世界を支える樹のように立派な、それは。
『直前までいた場所』に聳え立っていた。
浮遊感は、どこまでも続いて。
――――――長すぎる、永すぎる虚空を泳いだ果てに、全身に鈍い痛みが走って。
仰いでいた青も見下ろしていた緑も消えて、暗闇がやってくる。
意識を散らされる直前に、まるで少女の怯える声のような、そんな悲鳴が聴こえた。

194 : ◆1UOAiS.xYWtC :2013/09/05(木) 02:34:43.74 ID:HGtF718Xo
****
「……お前、うめぇな。あっちじゃ農家か何かやってたんかよ?」
すっかり草刈りを終えたところへ、サキュバスCがやってきて、そう感嘆した。
裏手の井戸の周りをすっきりと整えたところへ、汗びっしょりの彼女が姿を見せる。
「…………ああ、ちょっと昔な」
剣でも、ナイフでもない。
草刈り鎌の重さは、十年近くの時を超えて久しぶりだ。
「切れ味が悪かったから、少し研いだぞ。納屋に砥石があったからさ」
「そりゃ、ドーモ。もう少ししたらメシにすんぞ。鶏小屋の方は……」
「もう済んだ。雄鶏が一羽、どうも調子が悪そうだ。羽毛に一部ハゲがあって、どうにもよくない感じがしたよ」
「……拾いモンだわ、お前」
家の裏手には井戸があり、その周りに数十種の木が植えられ、どれもが果樹だ。
奇妙な事に、今は真夏のはずなのに――――季節を無視して、その全てが実を結んでいた。
秋に生るものもあれば、春先のものもある。
しかもどれもが熟れており、混ざり合った甘く爽やかな香りがこの小さな家を包んでいた。
「……不思議かよ、人間さん?」
「え? ……あ、ああ。まぁ……」
サキュバスCは一歩進み出てオレンジの木の下までいくと、尻尾を伸ばし、果実の一つを先端で切り落とした。

195 : ◆1UOAiS.xYWtC :2013/09/05(木) 02:36:13.96 ID:HGtF718Xo
「この辺りは何でも育つよ。植えてやりゃ、どんどん成長する。土地も痩せないし、
 ノンビリ生きるにゃうってつけさ、ワイン作った事もある。……ほらよ」
縦に四つに切られたオレンジのうち、二かけを差し出される。
斑の無いきれいな橙色が、皮から果肉まで揃っていた。
「まぁ、それだけに『育てた』感はねェな。一度シャレのつもりでトレントの苗木を植えたら、きちんと育ってさ」
「モンスター育ててどうする!?」
「大丈夫大丈夫、ちゃんと倒した。ちなみに納屋はそいつらの死骸で作った。木材には違いないじゃん?」
「……『ら』?」
「三十株ぐらい植えた。いやぁ、アレはキツかったね。ちょっとだけ本気出しちまったよ」
からからと笑い飛ばす彼女を何となく冷たく見ながら、渡されたオレンジにかぶりつく。
酸っぱさの中に砂糖のような甘さがあり、人間界でも、これほどの出来のものはそうないだろう。
喉に刺さるような濃厚な果汁が喉を潤し、口の端からもこぼれ落ちた。
「……なんだこれ、美味しい」
「本当、ここでは何植えても育つんだよな。――――もし死体埋めたら、どうなんだろうな?」
「怖い冗談はやめてくれ」
「さてねェ。……冗談だといいよね」

196 : ◆1UOAiS.xYWtC :2013/09/05(木) 02:37:05.78 ID:HGtF718Xo
挑むような視線を向けられた瞬間、身が粟立つ。
藍玉の瞳が時化た海のように波立ち、こちらを向いていた。
目を逸らさぬように、見つめ返して数秒が経つと――――彼女の顔が、亀裂を入れたように綻んだ。
「冗談だよ、冗談。マジに取るなっつの。殺るつもりなら寝てる間に殺ってるってばさ」
「…………ところで、『ここに植えた植物はすべて育つ』、そう言ったな?」
「あ?」
視線は、彼女の後方にある丘の上。
葉は繁っていても、果実をひとつも生らせていない一本の木を見つけた。
サキュバスCが視線を辿るようにして振り向くと、ばつが悪そうに頭を掻いた。
「……あれな。『リンゴ』の木なんだよ」
言うと、彼女は歩き出す。
ついて行くと、彼女はその木に手を当てて、溜め息をついた。
「どーいう訳か、コイツだけは実を結ばない。…………木は育っても、実はならない」
「……何故?」
「だから、知らねぇっつってんだろ。……もともとアタシらの国には生えてないしさ」
「なら、この木はどこから仕入れたんだ?」
「……四、五百年前かな。人間界に行った時、そこにいたガキに種を貰った。それからこの土地のウワサを聞いてね。
 ここに家立てて、その種植えて。確かに育ったけどさ、待てど暮らせど実は結ばねェ」

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