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勇者「真夏の昼の淫魔の国」

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Part11
393 : ◆1UOAiS.xYWtC :2013/09/17(火) 02:53:46.05 ID:t64h3/two
****
帰り着いた城下町の昼下がりの空気は、少しだけ熱っぽかった。
城門をくぐってから馬を下り、ふたたび石畳を靴底で叩くと、安堵の息が漏れた。
真昼の日の下にも関わらずどこか色街にも似た雰囲気は、既に『故郷』にも感じる。
素肌を放り出して歩く淫魔の往来は、こちらを見てはいなくとも、出迎えてくれているかのようだった。
しばし、手綱を引いて城下を歩く。
勇者の姿を見た淫魔は、例えば商店の呼び込みをしている最中でも、軒先を竹ぼうきで掃いている最中でも、
軽く会釈し、腰を折った。
中には、言葉に出して「おかえりなさいませ」と言ってくれる者もいる。
人間の自分に、サキュバスが、猫又が、ラミアが、ハーピーが、『おかえり』と言ってくれる。
それがどこか奇妙で、おかしくて――――背中が、妙にくすぐったい。
「…………『おかえりなさい』か」
もしも、もしも――――あの青草の繁る最初の故郷へ帰ったら、言ってもらえただろうか。
世界を救う旅を終えた自分を、褒めてくれただろうか。
不思議と、今はもう寂寥と望郷の想いは無い。
もしかすれば、今この瞬間、あるいは『彼女』と過ごした数日と一夜で――――拭われたのかもしれなかった。

394 : ◆1UOAiS.xYWtC :2013/09/17(火) 02:54:51.83 ID:t64h3/two
「…………陛下? であらせられますよね?」
大路を歩いていると、聞き慣れない声で呼び止められた。
少なくとも今まで聞いた誰の声でもない。
振り返ると――――そこには、人と同じ肌の色をした、人間の歳にして十七、八ほどの淫魔が立っていた。
胸には革装丁の本が抱かれ、色とりどりの栞のリボンがひらひらと舞っていた。
「そうだが、君は……」
相手が勇者の事を、淫魔の国にたった一人の『男』の事を知っているのは当然としても。
勇者は、彼女の事を知らない。
せめて似ている誰かを思い出そうとしても行き着かない。
「あ、申し遅れました。……以前は、母の書店を訪ねられたそうですね」
「え? ……すると、君は……彼女の娘さんか」
「はい。お初にお目にかかります、陛下。書店主娘と申します」
深々と腰を折り、礼をする姿は『母』とは似ない。
どこかぼんやりとした様子もなく、折り目正しく、きりっとした顔立ちをしていた。
強いて言えば髪の巻き具合は少し似ている程度だ。
「ああ、よろしく。あの……確か、『コーヒー』という飲み物は中々おいしかったよ。今度、是非またご馳走してもらいたいな」
握手を求めて右手を差し出すと、彼女も応じかけて、手を一度引っ込め……その後、再びおずおずと握ってくれた。
そして、一度ぎゅっと力が込められると、またすぐに手を離され、引っ込められた。

395 : ◆1UOAiS.xYWtC :2013/09/17(火) 02:55:40.33 ID:t64h3/two
「と、ところで陛下。堕女神様が先日、お越しくださいましたよ」
「へぇ。堕女神が?」
「はい。人界の詩集と説話集をそれぞれ一冊、お買い求めに」
「……どんな様子だったかな?」
「はい……そうですね。初めて『休日』を賜ったとの事で……あ……、も、申し訳ありません!」
失言をしてしまった、という面持ちで彼女は慌てふためき、深く頭を下げてきた。
そんな彼女に、努めて――――気にしないようにと、言い含める。
「構わないよ、……事実さ。それで、どうだったんだ?」
「え、ええと……過ごし方を模索されていたようでした。お母さんの話では、陛下がお発ちになった翌日に、
酒場でお見かけしたとか」
「そうか」
「その時は確か、お城のサキュバスの方と楽しく過ごされていたようですよ」
「なるほど、ありがとう。……俺は、城へ帰るよ。君はこれから帰るところかい」
「はい。お昼の休憩も終わりましたから」
「そうか、気を付けて。お母上にもよろしく伝えておいて」
「かしこまりました。それでは、陛下。お気をつけてお帰りを」
彼女と別れ、再び、ナイトメアを引いて――――大通りを上がり、城の正門を目指す。
遠くに見える尖塔は、空を衝くように聳えていた。
時計塔の鐘が鳴り響き、街は、再び震え出す。
街角に植えられた樹が風に揺られ、葉を散らす。
去りゆく熱い夏風と、来たる涼しい秋風とに迎えられ、羽織っていたマントがそよぐ。
今――――ようやく、帰ってきた。

396 : ◆1UOAiS.xYWtC :2013/09/17(火) 02:56:29.15 ID:t64h3/two
****
「おかえりなさいませ、陛下」
既に市井から伝令が走っていたのか、ナイトメアとともに正門をくぐり、玄関の前に立つと、堕女神が出迎えてくれた。
十日近く空けていて久しぶりなのに、彼女の物腰は、平素と変わらない。
僅かに顔を綻ばせたようにも見えたが、それさえも一瞬の事で、見間違いかとも思えた。
「ただいま。……何か、変わった事はあったか?」
「いえ、特にお伝えする程の事は。お疲れでしょう、まずはお休みになられては」
「ああ、そうさせてもらう。……ナイトメア。厩に戻れるか?」
手綱を離して、そう問うと――――『彼女』は馬首を返し、自らの脚で誰に引かれるでもなく、
厩があると思われる方角へと蹄を鳴らして歩いて行った。
その後ろ姿を見送ってから、堕女神へと向き直ると、彼女はどこか驚いていたようだった。
「全く、ちゃんと分かっているくせに返事はしないんだ。掴めないヤツだよ」
「……まさか、あのナイトメアがここまで素直に」
「変なヤツだが……もともと、素直だぞ。さて、とりあえず着替えたいな」
「かしこまりました。それでは、道すがらに近況の報告などさせていただきます」
重厚な扉を開けると、『城』の空気が肺を満たした。
天井も高く、絵画や彫刻、柱の一つ一つにまで細工を施してある壮麗な美観が、今、どこまでも……落ち着く光景だった。
十日近くを過ごした『楽園』に感じた事が、今、この『城』にも感じる。
靴底を包む絨毯の感触も、大理石の床も、途中で通りすがる使用人達の顔ぶれも。
並んで歩く堕女神の横顔、濡れ烏の黒髪、ふわりと香る、甘くほのかな吐息。
つい見とれていると視線に気づいた彼女が、小首を傾げながら、どこか定まっていない目を向けてきた。

397 : ◆1UOAiS.xYWtC :2013/09/17(火) 02:57:25.51 ID:t64h3/two
「?」
「あ、いや……何も。『休日』は、どうだった?」
「え、……そうですね。最初は落ち着かないものでしたが……過ごし方は、おぼろげに掴めました」
「掴むような事か?」
「……それはそうと。何か、彼の地で異変でもございましたか?」
「それなんだが……」
言って、ポケットを探り――――深くまで手を差し入れる。
「陛下?」
「ああ。実はそこにいた……不思議なサキュバスの世話になって、色々調べ回ったんだ。その結果、……これを手に入れた」
嘘をつかず、しかし伏せる部分を伏せて話す。
正直に話せば、彼女に心配させる事になる。
特に、襲撃を受けて崖から落ち――――などと言おうものなら、どうなる事か。
「……『卵』?」
死斑を生した肌のように不気味な色合いの『卵』を見せると、彼女の形の良い眉が上がった。
「変なローパーが出現してさ。少し攻撃したら、急に攻撃が止んでこんな姿になってしまった」
「聞いた事もありませんね、そのような事。……他に、何かお変わりは?」
「何も。……他には何もない。強いて言えば。…………そうだな、『奇跡』を見たのかも」
「奇跡?」
「話せば長くなる。それよりも、まず着替えるよ」


398 : ◆1UOAiS.xYWtC :2013/09/17(火) 02:59:18.89 ID:t64h3/two
扉を開けて私室へ入ると、堕女神は、そこからついてはこなかった。
「どうした?」
「……いえ、何でもございません。後で人をやりますので、御召し物はその者へ。私はこれにて、失礼いたします」
「ああ、分かった。……夕食を楽しみにしてるよ。それじゃ」
堕女神が一礼し、扉を閉めて去る。
改めて室内に目をやると、そこは、旅立った朝と変わってはいない。
天蓋付きの寝台に机、ドレッサー、瑞々しく上を向いた花を活けてある花瓶。
その花は、先ほど活けたばかりなのか、それとも――――いない間も、ずっと飾ってあったのか。
ドレッサーから着替えのシャツとズボンを引き出して、袖と脚を通す。
青い匂いの残る服は、洗濯してしまうのが惜しい気までした。
しかし汗まで吸っているため、このままにしておくわけにはいかないだろう。
マントも脱ぎ捨て、剣も置き、――――『誰か』が来るまでの間、しばしベッドに横たわる。
背筋を優しく包み、深く沈み込む感触は、雲の上にいるようだった。
「……帰ってきたんだなぁ」
何気なく口にして、それっきり――――何の音もしない。
耳を澄ませば窓の外から何かの音は聴こえるが、室内には何も無い。
眠気を誘ってしまいそうなほど――――何も、聴こえない。
枕に頭を沈めた時、どこからか、甘い香りがした。
それは直前まで堕女神と歩いていた時、彼女から発されていたものと同じだった。

399 : ◆1UOAiS.xYWtC :2013/09/17(火) 02:59:54.06 ID:t64h3/two
「失礼いたします、陛下。洗濯物を取りに参りましたわ」
その時、艶めいた猫なで声を響かせながら――――ノックもなしに、サキュバスAが入ってきた。
「ああ。人をやると言ってたが……お前か」
「お久しくございます。今回の物語に入ってはお初の顔合わせですわね」
「だから、いったい何の話だ」
「いえ別に。……それはそうと、お洗濯物はこちらで構いませんの?」
彼女は身をかわすような言葉とともに、椅子にかけてあったマントとシャツ、ズボンをさっさと手に取っていった。
「随分と長くお空けになられましたわね。」
「ああ、すまない」
「私に謝られるようなことでは。……それで、何かございましたか?」
「妙に強いローパーと戦ったぐらいだ。……それと、変わったサキュバスに世話になった。右脚が――――」
「真鍮の?」
「え…………?」
事もなげに、彼女は……続けようとしていた言葉を、先んじて補った。
「何で分かる?」
「いえ、……本当に何となくですわ。私の旧知に、ちょうどそのような者がおりまして。彼女はどうでした?」
「……何かと、荒っぽい奴だったな」
「でしょうね」
サキュバスAは喉を窄め、くくっ、と笑う。

400 : ◆1UOAiS.xYWtC :2013/09/17(火) 03:01:00.35 ID:t64h3/two
「彼女と会ったという事は……南東の草原地帯へ? あそこには何も無いでしょうに」
「いや。……懐かしい匂いがする場所だったよ。彼女は、一人で農園を作って暮らしていたんだ」
「ほほう」
「そこで、……ずっと、『林檎』の実がなるのを待ち続けていた。ずっとだ」
「……実は結ばれましたか?」
「…………ああ、この眼で見た」
どちらかと言えば実を結んだ樹よりも、彼女の印象の方がどうしても強い。
「……しかしお前、休日をどう過ごしたんだ? 城下に宿を取ったと聞いたが」
何気なく、、そんな質問を挟む。
「ええ、仰る通り。鬼のいぬ間に、とは申しませんが……お蔭様で、羽を伸ばせましたわ」
「誰が鬼だ!」
「ほぅら、怒った。角が見えましてよ?」
「お前……」
つい、諦めたような笑いをこぼしてしまう。
彼女とこんなやり取りをするのも久しぶりで、帰ってきた実感をますます強める。
「BはBで、遊び三昧で。今回も人間界に出かけたそうですが……帰ってきたころには意気消沈」
「え?」
「曰く……『間違えた』とか」
「間違えた? 何を?」
「ああ……具体的に申しますと、潜り込む先を間違え、どうにもアチラの趣味をお持ちのご婦人に捕まったとか」
「おい」
「隙を見て逃げ出すまでの一晩、それはもう……可愛がられたそうで。流石にまだちょっとトラウマだそうです」
「他人事か、お前!」
「他人の不遇は楽しいものでしょう?」

401 : ◆1UOAiS.xYWtC :2013/09/17(火) 03:01:40.85 ID:t64h3/two
あっけらかんと言ってのけ、彼女は底意地の悪そうな顔をする。
もう、二万年かけたこの性分に、昼の間は勝てそうにない。
「ま、そういう訳でして。皆、一年ぶりの長期休暇を満喫しましてよ。陛下の方は……いえ、いつかの寝物語に聞くといたしましょう」
「ああ、分かった。……少し休んだら、中庭で時間を潰すよ。堕女神を見たらそう伝えておいてくれ」
「はい、分かりましたわ。それでは、…………おかえりなさいませ、陛下」
扉を閉めて去る寸前、彼女は、小さく、それでも確かに、そう呟いたのだった。
――――――時は進み、夜になる。
久方ぶりの『王の晩餐』を終えると、眠気が襲ってきた。
食事の間も堕女神の様子に変わった所はなかった。
料理の味付けも、変わらない。変わらないが故に――――安心できた。
いつもの落ち着き払った態度で、食後の茶を淹れてくれて、傍に侍る。
いつものように、飲み終わるまで話し相手をしてくれて。
いつものように、翌日の予定を聞かせてくれて――――。
明日は、隣国からの使節が来るという。
その中にあの小さな女王はいないというのが、少し残念だった。
何の用か、と考えているうちに、瞼は重くなる。
突っ張った腹の皮に引かれるように、とろんと帳を下ろすように瞼が落ちていく。
落ちる直前、ぼやけて閉じかけた視界に、翠緑の『蛾』が舞った。
窓も扉も閉じてあり、ランプさえ灯していない私室に、あの日と同じ、夜の蝶。
手を伸ばし、届きかけた所で――――瞼とともに、意識も落ちた。

421 : ◆1UOAiS.xYWtC :2013/09/21(土) 03:40:53.71 ID:KkJqIXbko
****
戦場の夢を見た。
空は恐ろしく濃い、業火の色を閉じ込めた闇の雲に覆われていた。
蛮声と断末摩、金属音に、炸裂する爆音、墜落音、風鳴りが絶えず飛び交い、鼓膜が麻痺しそうだ。
耳を塞いでも、それさえ嘲笑うように突き抜けていく。
ふと、右手に握られていたものを見る。
「……これは、俺の……剣か?」
白銀の刀身に、竜を象った剣は、紛れもない『勇者の剣』だった。
違いと言えば、先端の作りは刺突に向いた両刃となっている事。
最後に見た時は、根元から先端まで全て片刃だったはずなのに。
「――――気を付けてください! ドラゴンが墜ちます!」
後方から聞こえた叫びに振り返るより先に上を見た。
――――その通り、巨大なドラゴンの亡骸が、一頭、二頭、三頭と立て続けに墜落して、土煙を上げながら周りを囲むように落ちた。
身を竦ませ、土埃にむせ返りながら、それらよりも先に上空を見る。
遠目に見ても数百頭はいるドラゴンが、何かと戦っている。
炎、氷、暗黒のブレスに黄金の熱線、それらの矛先は地上では無い。
さらに目を凝らせば、翼の生えた数十の人影が空を舞っていた。

422 : ◆1UOAiS.xYWtC :2013/09/21(土) 03:41:59.33 ID:KkJqIXbko
「……何をしてる! おい、『勇者』!」
呆然と、空を見ていると――前から、声がかけられた。
視線を下ろしてみれば、その声の主は人間ではない。
「ドラゴンなんて珍しくもないだろう! それより……『魔王』が出た!」
背から生えた蝙蝠の翼に、髪をかき分けて生える角、青色の肌。
全身を覆う、およそ戦場に似つかわしくない礼装。
そして何より――――声の主は、『男性』だった。
「あ……? え? 君、は……?」
「――――っ! しっかりしないか! まずい事になっているんだぞ!」
その、麗しい魔族に袖を引かれ――――理解も追いつかないままに、歩き出す。
歩いて行く最中、見えた風景はどれもが空恐ろしいものだ。
山のような巨体の亜人、その脳天に剣を突き立てたまま相討ちで果てた人間の戦士の躯がある。
顎を打ち鳴らす巨虫の口内目掛けて火炎の呪文を撃ち込む魔道士、暴れ回る『魔界騎士』へと一斉に弓を引く兵士達。
竜の死体の陰で負傷者に回復呪文を施しているのは、よく見慣れた『サキュバス』達だった。

423 : ◆1UOAiS.xYWtC :2013/09/21(土) 03:43:01.63 ID:KkJqIXbko
「離せ、自分で歩ける!」
ようやく見慣れた姿を認め、我に返り――――ずっと掴まれていた袖を強引に振り払う。
「本当に大丈夫なんだろうな!? ……お前しかいないんだよ。お前しか!」
そうだ。
――――彼の姿は、『サキュバス』とそっくりだ。
「……お前は、『インキュバス』だな?」
「そうだが、今さら何を言ってるんだ? 休む暇など無いぞ」
見た事は無いが、この男の種族こそが、『インキュバス』なのだろう。
さらに見れば礼装の裾は解れ、美形は跳ねた泥で汚れ、翼は返り血に塗れていた。
「……俺を、『勇者』と呼んだか?」
「ああ、そうだ。今さら『違う』などとは言わさんぞ。それより、言っただろう。『魔王』が出現した。『四天王』を二人も失ってお冠と見える」
「……『魔王』か。…………そうか、使命はそれだったな」
握る剣に、力を込める。
進行方向では戦場の音が色濃く響いてくる。
同時に覚えのある、禍々しい気配が――――恐らくまだ離れているのに、足を痺れさせるほどに匂ってきた。
「分かっているなら、いい。行くぞ。俺が道を開く。お前は『魔王』を討て」
行く手に現れた巨躯の『魔界騎士』と数体の正体不明の魔族、更に単眼の巨人が十体以上。
それを前にして、『インキュバス』は歩みを止めず――――むしろ歩調を速め、無造作に走っていく。
追って走ると、『魔界騎士』と接敵した直後、地を蹴って跳ぶのが見えた。

424 : ◆1UOAiS.xYWtC :2013/09/21(土) 03:44:08.91 ID:KkJqIXbko
『インキュバス』は、振り下ろされる巨剣へ正面から飛び込み、空中で身体を捻って避ける。
障害物を認めた魚のように無駄なく流れる動きは、舞うようだった。
その後、瞬きを数度挟む間に――――全て、蹴散らしてしまった。
魔界騎士の顔に手刀を打ち込み、兜を突き抜けて頭蓋を砕いた。
ローブを目深に被った魔族の呪文を片手でそれぞれ受け止め、次なる呪文が放たれる前に、
鋭翼が彼らの首を払い飛ばす。
最後、単眼の巨人達に『インキュバス』の手からどす黒い紐が伸び、巻き付いた。
それらが手を離れ、段々と短くなっていき――――巨人に辿り着き、消え去る。
直後に巨人たちは倒れていき、それきり、起き上がることは無い。
まさしく、瞬く間に――――道を阻む脅威は、全て取り除かれてしまった。
「…………何を呆けている?」
礼装の裾を払い、彼はこともなげにそう言った。
「その。……本当に、『俺』が必要か?」
問わずに、いられなかった。
「……『勇者』だ。『魔王』を倒していいのは、『勇者』だけだ。これは宿命だ。
今さら怖気づいたとて、『魔王』からは逃げられない」
「…………」
「それに……『サキュバス』の女王からのお達しでもある。俺達が従う謂れは無いが、……まぁ、『淫魔』の誼だ。さぁ――――」
直後――――炎の津波が、彼の背後から。
進むはずだった方向から押し寄せてきた。
『インキュバス』は振り返りかけたところで飲み込まれ、ほぼ同時に、勇者の身体も同様に。
全身を炎に嘗められ、肺腑が焼けるような息苦しさを感じた直後。
意識が、遠くへ引き抜かれていった。
ちょうど、あの時――――魔王の城へと戻ったように。

425 : ◆1UOAiS.xYWtC :2013/09/21(土) 03:44:43.19 ID:KkJqIXbko
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寝台に跳ね起きた時には、全身がじっとりと嫌な汗にまみれていた。
あまりにもリアルな感覚が、今も残る。
炎の熱は未だ残るようで、暑さではなく『熱さ』が全身をヒリヒリと刺していた。
「…………これは、『悪夢』に入るのか?」
疲労は無く、それ故に、体に残る熱と浸かったような汗は、気味が悪い。
夜を迎えてひんやりとした空気に汗の熱が溶けていき、少しずつ、少しずつ、体の芯から熱が抜けていく。
そのまま数分間息を整えると、気付けば体の底から冷えて、しかし体表には汗のベタつきが残り、寝るに寝られない。
ランプも燭台も灯っていない室内は真っ暗で、開けっ放しのカーテンから、弱い月光が差し込むだけだ。
「……夢? いや……あの感覚……」
掌に今も残る、懐かしい剣の握り心地。
地獄のような戦場の、陰惨に湿った空気。
鱗の一つ一つまで数えられそうな距離に転がるドラゴンの亡骸は、夢とは思えない。
何より、夢だとしても――――あの『インキュバス』など見た事が無い。
夢は所詮夢であり、本来、『知らない』ものなど出てきようがないはずだ。
ふと、眠る直前に見えた――――翠緑の蛾が思い出された。
あの日の執務室に飛び込んできたものと同じ、透き通った羽色。
いなくなったかと思えば、『地図』が虚空から現れ、落葉のように舞い落ちてきた。
――――あれは、一体何だ?

426 : ◆1UOAiS.xYWtC :2013/09/21(土) 03:46:19.23 ID:KkJqIXbko
「っ……風呂は、空いているかな」
冷えた体を温め、べたついた汗を流す一石二鳥が思いつく。
常に開放中のため、清掃に費やすほんの一時間足らずを除き、いつでも入れたはずだ。
起き上がり、暗闇の中を手探りで進んで廊下へ続くドアを開けた。
廊下の空気は、寝室以上に冷えていた。
ほんの一週間か二週間前までは汗ばむような暑気に溢れていたのに、今はもう『秋』の空気だ。
月の位置から見て、もう日付をまたいだだろう。
使用人とすれ違う事は一度も無く、冷たい汗でシャツの貼りつく二の腕を擦りながら、大浴場へと向かった。
幸いにも、大浴場は開放中だった。
通例なら深夜から早朝までの間に湯が抜かれて清掃されるため、滑り込みで間に合えたらしい。
思わず足も早まり、いつものようにさっさと衣類を脱ぎ、靴を脱ぎ――――浴場への扉を開く。
湯煙が、冷えた体を心地よく暖め、解してくれた。
馬を飛ばすのも久しぶりだったため、今になって内腿の筋肉が痛む。
濃密な湯煙とともに、いつものバスオイルの香りがする。
薔薇の香りに続き、いくつもの香りが嗅覚を愉しませる。
七色に変わる芳香の中、暖まった大理石の床をぺたぺたと歩き、ようやく待ちかねた浴槽に着いた。
湯の温度を爪先で確かめながら、床面を掘り抜いて作った広々とした浴槽へ浸かる。
一人で過ごすにはあまりにも広くて壮麗な空間が、今は、『落ち着ける我が家の風呂』だ。
これに慣れてしまったのは――――贅沢、だろうか。

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