魔法使い「勇者がどうして『雷』を使えるか、知ってる?」
Part9
160 : ◆1UOAiS.xYWtC :2013/06/01(土) 12:01:44.19 ID:+j7WNh9Vo
淫魔「騎士さんが、『五年』って教えてくれたからですよ。……それと、毎日、会いにきてくれるから……」
騎士「何だと言うのだ?」
淫魔「会いに来てくれるから、ちゃんと『時間』が流れてるんだなぁ、って……思い出せたんです~」
騎士「……毎日会いに来ているのは、私では無かったはずだぞ」
淫魔「……もう、それって……いったい、誰の……」
騎士「ヘタな芝居はもうやめろ。……私を惑わすのもいい加減にしろ、『淫魔』」
あまりにも、らちが明かず――――とうとう、声に重さが加わった。
騎士「知らぬ振りなどするな。……私と話したことも全て覚えているのに、『夜』は覚えていないだと?」
初めて会った時の事から、交わした何気ない言葉の一言一句に至るまで、彼女は覚えている。
なのに――夜毎彼女を抱いていた領主の事だけが、さっぱりと抜け落ちている。
そんな事が、ある筈などない。
妙にふつふつと怒りが沸き立ち、それが、酷薄な言葉になって紡がれていく。
淫魔「……あの、いったい……?」
騎士「それとも、交わした夜の事など数え上げる価値も無いか? 抱かれた男など、記憶にも残らんか」
淫魔「えっ……あの、何の話……騎士、さん?」
騎士「……呼ぶな。私の事も忘れるがいいさ。……ではな、『淫魔』」
過剰な程――――騎士自身でさえ思いもよらないほど、言葉は冷たくなった。
そのまま、騎士は地下牢から地上へ続く階段を駆け上り、扉を閉め、施錠する。
これは癇癪だと、騎士自身でも分かってはいた。
だが、彼女の不自然な言動と忘却は、そういう、同情を買って人を惑わす『策略』だとしか、思えない。
何故ならば、彼女は『淫魔』。
古来より迷える民を堕落させてきたと言われる、『魔の住人』なのだから。
それは……根拠として、充分に過ぎた。
161 : ◆1UOAiS.xYWtC :2013/06/01(土) 12:02:43.15 ID:+j7WNh9Vo
あれから一週間が過ぎる。
彼女の所へは、行かなくなった。
頑なになった心は、もはや、彼女を信じられなくなったからだ。
そして本来の『仕事』から、離れる時など無くなってしまったから。
もはや、街を歩かずともテラスから見下ろすだけで荒廃ぶりが見て取れる。
建物の屋根は穴だらけで、最低限の補修さえもされていない。
大路を歩く人影はまばらで、その中を衛兵が威張り腐って歩いている。
執事から遠眼鏡を借りて見てみると、領民たちの顔には、強い憤りが渦巻いていた。
恐らく、もう数日で歯止めは効かなくなる。
そうなれば、この辺境領の街は、蜂起した領民達に焼かれる。
領主もなんとはなしにそれを察しているのか、食事をする時もそばに侍る事を命じて、
執務室でもそうさせた。
『餌』をやりに行く時にも伴をするように言われたが、騎士はそれを丁重に辞した。
地下牢へ続く扉の前に、彼が吐き出して戻ってくるまで、待っていた。
戻ってきた領主を見ると、蔑みの表情が自然と浮かぶ。
この男は、ここまでの事態を引き起こし、目の前に研ぎたての斧を控えさせても、それでも欲望を捨てない。
それは示威をも兼ねた、自慰行為だ。
己の権勢に縋り見せつける一方で、愚かな自分を慰め、現実から淫魔の身体へ逃げ込む。
領主は――――心底から愚昧で滑稽で、哀れな道化になってしまっていた。
ほどなくして、屋敷は炎に巻かれた。
162 : ◆1UOAiS.xYWtC :2013/06/01(土) 12:03:48.09 ID:+j7WNh9Vo
事が起こったのは、早暁だった。
夜が白み始めて、ようやく騎士が自室で仮眠を取っていた時の事だ。
夜を過ぎた騎士が眠り、使用人達が起きて働き始める、ほんの間隙だ。
あまりの手際と間の良さは、邸内に『ネズミ』が潜んでいた事さえ疑う。
騎士「っ……眠った所、だというのに!」
戦場で幾度も嗅いだ燃焼香を嗅ぎ取ると、枕元に立てかけた剣を取って、部屋を出た。
有事に備えて寝巻には着替えず、平服で眠っていたため、すぐに動きが取れた。
出て行った一階の廊下はもう火の手が回っており、敷かれた絨毯も、壁にかかった剥製も、燃え始めていた。
左手に剣を提げたまま、利き手の袖口で口を覆い、煙を掻い潜りながらまずはエントランスへ向かう。
ちょうど大階段から、燻すような煙の中から領主が降りてくるところだった。
領主は、上る事はおろか、ただ少し走って階段を下りただけで、すでに息が上がっている様子だ。
騎士「ご無事でしたか」
領主「き、貴様……! ちょうどよい、逃げるぞ!」
騎士「無論です。さぁ、こちらへ」
玄関の扉を開け、ようやく、初めて領主が外へ出た。
ただでさえ鋭く澄んだ早朝の空気が、煙った屋敷から脱出したばかりの肺に沁み渡った。
そして、すぐに血の香りで上書きされた。
敷地の遠く外では、蜂起した領民と衛兵が揉み合っていた。
棒の先にナイフをくくりつけただけの粗末な槍、角材の持ち手に布を巻いただけの棍棒、
農作業用の馬鍬に草刈り鎌、薪割り用の斧と鉈、絶え間のない投石。
そんな涙ぐましい道具に、衛兵達は圧されていた。
恐らく彼らは酒が入り、巡回の交代さえせずに、眠りについてしまっていたのだろう。
163 : ◆1UOAiS.xYWtC :2013/06/01(土) 12:06:12.79 ID:+j7WNh9Vo
領主「げっ……下民、どもがっ! ……何をしている、貴様! さっさと、皆殺しにして来ないか!」
騎士「無理です。それより、お逃げになるがよろしいかと」
領主「何だと!? 怖気づいたか!」
もちろん、そうではない。
今行けば、騎士の腕であれば痩せた暴徒の二十人は斬れるだろう。
だがそれで終わりではない。ここまでの大ごとになったのだから、それで片付きはしない。
邸内に内通者まで得ての計画的な反動は、恐らくは領主の首が椿の如く落ちるまで続く。
そもそも、騎士が出て行っても……火に油を注ぐ結果にしかならない。
『領主の走狗が、領民を手にかけた』と、かえって彼らの気勢を高めてしまう。
怒りに燃えた人間は痛みさえも麻痺して手強くなり、人を斬れば当然、刃も欠けるし疲労も出る。
この蜂起は、完全に成功してしまった。
衛兵達の中には、領民の殺気に慄き、武器を捨てて逃げようとして、背中を刺される者もちらほらと見える。
更に見れば、妙に体格の良い――――恐らくは領主に反旗を翻した、良識を持っていた衛兵も暴徒に混じっていた。
城はとうに陥落し、文字通り素っ裸の大将首だけが残っている。
騎士「もはやこれまで。……馬が残っておりました。お逃げ下さい」
領主「……チッ! 逃げるぞ、伴をしろ!」
騎士「……仰せのままに、我が主」
厩へ向かう途中、ちらりと、炎に巻かれた屋敷を見る。
騎士と領主の他に、出てくる者はいない。
いや、そもそも……中に、本当にいるのだろうか?
執事も、女中も、馬丁も、園丁も、皆で示し合わせて裏切り、火をかけて逃げたのかもしれない。
――――否。
――――いるはずだ、一人だけ。
164 : ◆1UOAiS.xYWtC :2013/06/01(土) 12:07:48.69 ID:+j7WNh9Vo
――――――――
淫魔「……ん。……よく、寝たぁ。お目覚めすっきりです~」
彼女が眼を覚ました時、そこは、底冷えのする暗闇の牢獄では無かった。
藁を敷いただけの寝床に、着慣れた、不思議な煤だらけのマントをかけられ寝かされていた。
澱んでかび臭い、冷たい空気はもう無い。
干し藁の香りと、埃っぽさはあっても、暖かい空気がその代わりにある。
見回すと、そこは木造の納屋のようだ。
ロープや樽などを積んだ台車のほか、壁にはいくつもの農作業具がかけられている。
淫魔「……えっと、ここ、どこなのでしょう~?」
首には、まだ痛々しく首輪の跡が残っている。
五年間もの長きに渡り、彼女を縛っていた枷は、もうない。
きょろきょろと周りを見渡し、その明るさに、目を細めた。
天井近くに在る採光用の小窓からは、涼やかな鳥の歌声が聴こえる。
梁に張られた蜘蛛の巣は、美しい幾重もの八角形を描いていた。
それに見蕩れて、緩やかなまどろみを愉しんでいた時、納屋の扉が、長く音を残しながら開いた。
騎士「目覚めたか、淫魔」
淫魔「あらぁ、騎士さん~。お久しぶりですねぇ」
彼の格好は、酷い有り様だ。
純白のシャツもズボンも煤で汚れており、焦げ跡さえある。
端正な顔にも髪にも煤がまとわりついて、『騎士』の麗しい面影などない。
騎士「……ふん。酷い顔だな」
淫魔「え~? 騎士さんの方こそ~」
それは、彼女も同じだった。
気だるい美貌を備えた顔にも、明かりの下で見ると更に悩ましい裸体も、煤まみれだ。
騎士「…………くくくっ」
淫魔「ふふふ……あは、あははははっ!」
騎士「っ……笑うな、馬鹿者。近くに小川がある、顔を洗いに行くぞ。日差しで眼を痛めるなよ? 少しずつ慣らせ」
165 : ◆1UOAiS.xYWtC :2013/06/01(土) 12:08:53.66 ID:+j7WNh9Vo
あの時、不思議と体が動いた。
燃え盛る屋敷の中に残っていた淫魔、そして逃げ延びつつある領主と、自身。
何一つ、理由など無かったと思っていたのに……領主が馬に跨った所で、その踵は返ってしまった。
そして、騎士は単身、業火の中へ。
地下へ続く経路は、不思議な程、火の回りが遅れていた。
それどころか、炎の中に道が通っていたようにすら見えた。
金属の扉を開けようと手をかけた時――――熱を感じた瞬間に皮膚が貼りついて、
手の平からベリベリと音を立てて離れた。
屋敷を嘗める炎の舌は、金属の扉を、灼けた鉄鍋のように変えてしまっていた。
破れた皮膚から血が噴いても、痛みは感じなかった。
体当たりするように、転げ落ちるように牢獄へ入ると、
地下、それも鉄の扉に阻まれていたため煙さえも回っていない。
その最奥の鉄格子の中に、彼女は眠っていた。
起きる気配すらなく、命の危機も、異変も感じていないのか、穏やかに寝息を立てていた。
鉄格子を開いて、剣を抜く。
その狙いは彼女のすくめた首だ。
振り下ろされた剣は、やや緩い程度にしか遊びの無い首輪を、紙のように裂いた。
これで、ようやく……彼女を縛るものは、何も無い。
――――『騎士』は『淫魔』の体をその腕に抱き上げ、暗闇から、掬い取った。
166 : ◆1UOAiS.xYWtC :2013/06/01(土) 12:09:28.06 ID:+j7WNh9Vo
屋敷から出ると、そこには、雑多な武器で滅多刺しにされた、領主の死体があった。
領主を討って沸き立つ領民達は、武器を捨て、叫びを上げていた。
大路には初めて見る活気があり、ほとんどの民がそこにおり、あちこちで炊煙まで上がっていた。
裏道を、人目を掻い潜るようにして逃げ延びた。
栄光は、もはや完全に失われた。
務めを放棄して領主を守れなかったのだから、もはや、『騎士』としての道さえも無い。
否、そもそも……この辺境領地へ赴任させられた事さえ、上の謀略だったのかもしれない。
病死した将軍のたった一人の跡継ぎを、この暴動に巻き込んで始末しようとしたのかもしれない。
もしもそうなら成功だ。絵図を描いた者がいるなら、誇っていい。
権力者は、首を守るために『金』という名の襟巻を巻き、『権謀』という名の牙を研ぐ。
地位も屋敷も剥奪された若き騎士は、いずれ復讐、雪辱の刃を研ぐかもしれない。
そうなれば――それがどのような形で現れたにせよ、首への憂いになるから。
町から離れる足取りは、不思議と、進めば進むほど軽かった。
一歩進むごとに、重い荷がぽろぽろとこぼれていくようだった。
このままどこまでも歩いて行きたくなる、そんな気分で。
目を落とせば、間近に甘い寝息を吐く淫魔の顔がある。
喜びに沸く町を離れて歩いて行き、昼を回った頃、一軒の農家の跡を見つけた。
人の気配はなく、家畜も繋がれてなどいない。
納屋の扉を開けて、手近な藁山に彼女の体を横たえ、ずっと握り締めたままだったマントをかける。
そのまま、半日と少し。
ようやく一息付けて――――次の朝が来るまで、ようやく、眠る事ができた。
167 : ◆1UOAiS.xYWtC :2013/06/01(土) 12:10:05.77 ID:+j7WNh9Vo
――――――――
淫魔「なるほど、そういう事があったんですか~。だめですねぇ、ちゃんと火の始末しないと~」
騎士「……『火の用心』を怠った結果だとは私も思うが、どうせ違う意味なのだろうな」
穏やかに流れる小さな川の中で、淫魔はまだ水浴びを続けている。
騎士はすでに上がり、服を着ているところだ。
せせらぎに混じって魚の跳ねる音、さらに虫の音も加わり、時おり思い出したように、
鮮やかに色づいた葉が流れてくる。
上流の山々はすでに紅葉しているようだ。
淫魔「ふぅ、さっぱりしました~。気持ちよかったです~」
髪を搾って水分を落としながら、淫魔も終えて上がる。
そこへ、騎士は衣類一式を差し出す。
淫魔「何ですか~、これ」
騎士「着ろ。……その、なんだ。目のやり場に困る」
淫魔「ありがとうございます、どうもご親切に~」
騎士「……親切じゃない。私が困るから着ろと言っているんだ、馬鹿者」
168 : ◆1UOAiS.xYWtC :2013/06/01(土) 12:10:38.90 ID:+j7WNh9Vo
長い巻きスカートで、尻尾を隠す事ができた。
頭巾をかぶれば、角も隠せた。
ウエストに搾りのついた上衣は窮屈そうで、ボタンの上から二つまでが留まらないらしい。
最後にくるぶしまでが隠れるブーツを履けば、その姿は『人間』とまったく変わらなかった。
淫魔「どうです~? 似合ってますか?」
騎士「……間に合わせだな。さて……これから、どうしたものかな」
淫魔「?」
騎士「もうあの領には戻れない。……結局、最後の居場所までも私は失ったという訳だな」
騎士は、川のほとりに佇んだまま掌を見つめる。
赤く剥けた皮膚は今も痛々しく、一段落した今だから、指を曲げ伸ばしする度にズキズキと痛んだ。
その痛みは、水で冷やしたからと言って治まるようなものではない。
淫魔「そういえば、考えておいてくれたんですよね?」
騎士「……は?」
唐突な問いかけと、おもむろに近づいた声と気配に、思わず素の間抜けた声が出た。
掌から視線を離すと、顔のすぐ真横に、彼女の顔がある。
淫魔「人間界を案内してくださいって言ったじゃないですか~。……お星さまも、まだ見られてませんし」
169 : ◆1UOAiS.xYWtC :2013/06/01(土) 12:11:14.42 ID:+j7WNh9Vo
騎士「よく覚えているな、お前」
淫魔「燃える水が噴き出るお山に、海に浮かぶ氷の島、お話してくれたじゃないですか」
騎士「やはりお前は、馬鹿でも無いな。一つ、教えてくれないか」
淫魔「何ですか?」
騎士「……領主と……いや」
淫魔「?」
騎士「『誰か』と、体を重ねた事はあるか?」
淫魔「あ、あの……それ、は…………えっ……?」
騎士「……言葉通りだ」
記憶力も悪くないし、多少の鈍さはあっても彼女は決して愚図ではない。
なのに、領主に欲望を受け止めた事を含めてその一切を覚えていない。
初めて地下牢に入った時に香った、かび臭さと異臭の中に忍んだ新鮮な血の匂いは、あまりに濃すぎた。
だが彼女に傷など無かったし、他二つの牢獄にも、使用された形跡は無かった。
――――血液を流す理由など、ひとつしか、浮かばなかった。
淫魔「もう、覚えが無いですよぉ。何なんですか、朝からもう~」
――――彼女は、夜毎に貫かれても……今もまだ、『未通』だ。
170 : ◆1UOAiS.xYWtC :2013/06/01(土) 12:12:54.94 ID:+j7WNh9Vo
彼女が語っていた、『母も、父親の顔を知らない』という言葉。
あれは決して、嘘ではない。
『覚えていない』でも、『分からない』でもない。
本当に…………『知らない』のだ。
五年間の幽閉生活で夜毎に自分の肉体を貪った、今は亡き領主の顔も、彼女は知らない。
否、夜毎に、忘れていたのだ。
あの牢獄に散っていた血の香りは、恐らくは五年分、二千に近づく夜の『純潔』の血だ。
仮定に過ぎないし、実証しようとは夢にも思えないが。
恐らくは、彼女は貫かれるたびにその相手の事を全て、『忘れる』。
顔も風体も、そもそも夜を交わし合った事も、その全てを、心も体も全て消し去る。
故に――――彼女は、未だ『処女』なのだ。
淫魔として生まれながら、彼女の種族は、そんな『運命』をその身に宿している。
未来永劫、彼女は純潔を失う事などなく、純潔を捧げた相手の事を、その心に残す事は無い。
それは淫魔の歩む時間とは別の、無間地獄だ。
精を求めれば、その結果だけを残して過程は全て消える。
子胤を求めれば、子だけを孕んで相手の記憶は全て消える。それは、彼女の母が示している。
その推論に行き着いたのは、屋敷が焼け落ちる、ほんの前日の事だった。
彼女の心に誰かが住まう事はない。
重ねればその端から忘れ、『男』の記憶が残る事など、ない。
生まれながらの『忘却』の呪いは、決して彼女を、逃がさない。
――――身体を重ね続ける限りは。
――――『淫魔』であり続ける、限りは。
171 : ◆1UOAiS.xYWtC :2013/06/01(土) 12:14:36.57 ID:+j7WNh9Vo
騎士「……すまなかった」
淫魔「えっ? もしかして、駄目なのですか~?」
騎士「…………」
答えず、持って来ていたあのマントを羽織る。
今残ったのは、金貨と銀貨合わせて数十枚、印章付きの指輪、焦げた一張羅と家宝の長剣。
そして――――『命』と、『淫魔』。
視線は、川のせせらぎを届ける、高い秋麗の空を指すようにそびえる、秋色の山に。
長く残る息をつき、騎士は、歩み始めた。
淫魔「あ、あの~……その、マント……」
困惑する彼女を振り向かず、騎士は言った。
騎士「……置いて行かれたいのか」
――――山道を、騎士と淫魔は寄り添い歩く。
紅茶の色の五裂の葉、山吹色の二裂の葉、顔を上げても下げてもそれは目から離れない。
木陰を風が抜ければ舞い踊り、揺れた木からはらはらと散り、落葉の絨毯に一針を加えた。
踏みしめれば靴底から軽い感触が伝わり、。しゃくしゃくと音が鳴る。
さながら、自分たちまでもが紅葉の一枚、二枚に変わってしまったようだ。
紅と黄金の『葉道』を並んで往く足取りは、どこまでも、どこまでも、離れない。
さし込む木洩れ日は、祝福を施すように二人を包んだ。
葉陰に潜む虫の声、遠くから伸びる鳥の声、風に梳かれる木々のざわめきは、
どんな交響楽よりも素晴らしい『歌声』になった。
全てを失い落ち延びて、居る場所さえも失った。
騎士は、それでも世界がいまだ自分を乗せていってくれるのだと…………ようやく、知った。
172 : ◆1UOAiS.xYWtC :2013/06/01(土) 12:15:05.23 ID:+j7WNh9Vo
投下終了
おそらくまた今夜
それではー
173 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします :2013/06/01(土) 12:58:46.07 ID:ii6TbTN5O
乙
続きが楽しみだわ
174 : ◆1UOAiS.xYWtC :2013/06/01(土) 23:44:31.51 ID:+j7WNh9Vo
二人で見て回る世界は美しく、秋が終われば冬が来た。
白い息を吐きながら歩いていると、鼻先に冷たさを感じて空を見る。
灰色の雲から、『白』が抽出されて降り注いでいた。
淫魔「わ~……ようやく、雪が降ったんですねぇ」
彼女は、掌に舞い落ちた六花を受け止め、溶けるのを見て言った。
それを真似るように騎士もちらちらと降る雪を受けると、新たな皮膚が張った掌に、すぅっと沁みた。
騎士「ようやく?」
淫魔「はい~。だって、騎士さんと一緒にいると、時間が長いんですよね~」
騎士「早く過ぎ去って欲しい、とでも?」
淫魔「いえ、違いますよ~、逆です、逆」
珍しく慌てて取り繕うような口調で、彼女は皮肉めいた問いかけに返した。
ほんの少しだけ、寒さのせいか、真っ白な頬に赤みが差す。
淫魔「もっと長くなってくれたらいいなぁ~、って感じ……です」
彼女の声には、若干の照れが聞き取れた。
『淫魔』の、夜の魔族の舌とは思えない程にたどたどしく、もつれかけていた。
騎士も、どこか気恥ずかしくなり――――足を速めながら、返答する。
騎士「……さっさと進め、次の村はすぐだ。ベッドで眠りたいのなら歩け」
175 : ◆1UOAiS.xYWtC :2013/06/01(土) 23:45:14.51 ID:+j7WNh9Vo
嵐の夜、廃屋の中で風を避けて一枚のマントの内で暖め合いながら眠った夜がある。
ごうごうと吹きつける音の中でも彼女は物怖じする事が無かったが、雷だけは別だった。
身を竦ませる彼女の頭を抱き締め、落ち着けるための見せかけの悪態をついて眠った事もある。
一夜の寝床を得た宿屋で、彼女にベッドを渡して床で眠った夜がある。
宿賃をけちり、一つしかベッドがない部屋を取ってしまったからだ。
彼女はともに眠ろうと言ってくれたが、そういう訳にもいかなかった。
それでも野宿に比べれば、格段に良い環境だったし、直接床に触れていれば襲撃があったとしても振動で察知できる。
倒木に腰掛け、星空に見つめられて、焚き火を前にして茶を酌み交わした夜がある。
火傷しそうなほど熱くて、保存性を求めた茶葉は渋みが強く、香りなど飛んでいた。
それでも星空を眺めて、身を寄せ合えば、気になどならなかった。
満天の星の海を、二人きりで渡っているような、そんな気分になれた。
いくつもの夜を経ても、騎士と淫魔が『繋がる』事は、なかった。
欲求が無かったわけでは、勿論ない。
だが、彼女の肌に、尻に、手が伸びそうになる度に――――近い『現実』の声が引きとめた。
もしそうしてしまえば、彼女は翌日言うはずだ。
生国も生家も、名誉も何もかも失った騎士を折る、たった一言の言葉を。
あの時腐敗した領主を見捨てて、助けに戻った理由は今や明白だった。
彼女を失いたくない。そう思ったからだ。
共に旅する今思う事は、……『失われたくない』。
事に及ぼうとして、彼女から抵抗を受け、拒まれて去られるのなら良かった。
恐らく、決して自惚れでもなく――――彼女は、拒まないだろう。騎士を、受け入れるはずだ。
明くる日に彼女は眼を覚まし、朝ぼらけに、騎士を見据えて最も恐ろしい言葉を紡いでしまうのだろう。
共に見た、灰と白煙を噴き上げる炎の山。
海に浮かぶ氷の上で暮らす、魚のようなヒレを持つ奇妙な海獣達。
極地の空を幻想そのものに彩る、光のカーテン。
夜空を真っ二つに裂く星の大河、願いをいくらでも叶えられそうなほどの流星の雨。
一切合切を、彼女は泡のように、忘れてしまい。
騎士の心を挫き、たちまちに崩れ去らせてしまうような、たったひとつの純粋な『質問』をするのだろう。
――――――『あなたは、誰ですか』
淫魔「騎士さんが、『五年』って教えてくれたからですよ。……それと、毎日、会いにきてくれるから……」
騎士「何だと言うのだ?」
淫魔「会いに来てくれるから、ちゃんと『時間』が流れてるんだなぁ、って……思い出せたんです~」
騎士「……毎日会いに来ているのは、私では無かったはずだぞ」
淫魔「……もう、それって……いったい、誰の……」
騎士「ヘタな芝居はもうやめろ。……私を惑わすのもいい加減にしろ、『淫魔』」
あまりにも、らちが明かず――――とうとう、声に重さが加わった。
騎士「知らぬ振りなどするな。……私と話したことも全て覚えているのに、『夜』は覚えていないだと?」
初めて会った時の事から、交わした何気ない言葉の一言一句に至るまで、彼女は覚えている。
なのに――夜毎彼女を抱いていた領主の事だけが、さっぱりと抜け落ちている。
そんな事が、ある筈などない。
妙にふつふつと怒りが沸き立ち、それが、酷薄な言葉になって紡がれていく。
淫魔「……あの、いったい……?」
騎士「それとも、交わした夜の事など数え上げる価値も無いか? 抱かれた男など、記憶にも残らんか」
淫魔「えっ……あの、何の話……騎士、さん?」
騎士「……呼ぶな。私の事も忘れるがいいさ。……ではな、『淫魔』」
過剰な程――――騎士自身でさえ思いもよらないほど、言葉は冷たくなった。
そのまま、騎士は地下牢から地上へ続く階段を駆け上り、扉を閉め、施錠する。
これは癇癪だと、騎士自身でも分かってはいた。
だが、彼女の不自然な言動と忘却は、そういう、同情を買って人を惑わす『策略』だとしか、思えない。
何故ならば、彼女は『淫魔』。
古来より迷える民を堕落させてきたと言われる、『魔の住人』なのだから。
それは……根拠として、充分に過ぎた。
161 : ◆1UOAiS.xYWtC :2013/06/01(土) 12:02:43.15 ID:+j7WNh9Vo
あれから一週間が過ぎる。
彼女の所へは、行かなくなった。
頑なになった心は、もはや、彼女を信じられなくなったからだ。
そして本来の『仕事』から、離れる時など無くなってしまったから。
もはや、街を歩かずともテラスから見下ろすだけで荒廃ぶりが見て取れる。
建物の屋根は穴だらけで、最低限の補修さえもされていない。
大路を歩く人影はまばらで、その中を衛兵が威張り腐って歩いている。
執事から遠眼鏡を借りて見てみると、領民たちの顔には、強い憤りが渦巻いていた。
恐らく、もう数日で歯止めは効かなくなる。
そうなれば、この辺境領の街は、蜂起した領民達に焼かれる。
領主もなんとはなしにそれを察しているのか、食事をする時もそばに侍る事を命じて、
執務室でもそうさせた。
『餌』をやりに行く時にも伴をするように言われたが、騎士はそれを丁重に辞した。
地下牢へ続く扉の前に、彼が吐き出して戻ってくるまで、待っていた。
戻ってきた領主を見ると、蔑みの表情が自然と浮かぶ。
この男は、ここまでの事態を引き起こし、目の前に研ぎたての斧を控えさせても、それでも欲望を捨てない。
それは示威をも兼ねた、自慰行為だ。
己の権勢に縋り見せつける一方で、愚かな自分を慰め、現実から淫魔の身体へ逃げ込む。
領主は――――心底から愚昧で滑稽で、哀れな道化になってしまっていた。
ほどなくして、屋敷は炎に巻かれた。
162 : ◆1UOAiS.xYWtC :2013/06/01(土) 12:03:48.09 ID:+j7WNh9Vo
事が起こったのは、早暁だった。
夜が白み始めて、ようやく騎士が自室で仮眠を取っていた時の事だ。
夜を過ぎた騎士が眠り、使用人達が起きて働き始める、ほんの間隙だ。
あまりの手際と間の良さは、邸内に『ネズミ』が潜んでいた事さえ疑う。
騎士「っ……眠った所、だというのに!」
戦場で幾度も嗅いだ燃焼香を嗅ぎ取ると、枕元に立てかけた剣を取って、部屋を出た。
有事に備えて寝巻には着替えず、平服で眠っていたため、すぐに動きが取れた。
出て行った一階の廊下はもう火の手が回っており、敷かれた絨毯も、壁にかかった剥製も、燃え始めていた。
左手に剣を提げたまま、利き手の袖口で口を覆い、煙を掻い潜りながらまずはエントランスへ向かう。
ちょうど大階段から、燻すような煙の中から領主が降りてくるところだった。
領主は、上る事はおろか、ただ少し走って階段を下りただけで、すでに息が上がっている様子だ。
騎士「ご無事でしたか」
領主「き、貴様……! ちょうどよい、逃げるぞ!」
騎士「無論です。さぁ、こちらへ」
玄関の扉を開け、ようやく、初めて領主が外へ出た。
ただでさえ鋭く澄んだ早朝の空気が、煙った屋敷から脱出したばかりの肺に沁み渡った。
そして、すぐに血の香りで上書きされた。
敷地の遠く外では、蜂起した領民と衛兵が揉み合っていた。
棒の先にナイフをくくりつけただけの粗末な槍、角材の持ち手に布を巻いただけの棍棒、
農作業用の馬鍬に草刈り鎌、薪割り用の斧と鉈、絶え間のない投石。
そんな涙ぐましい道具に、衛兵達は圧されていた。
恐らく彼らは酒が入り、巡回の交代さえせずに、眠りについてしまっていたのだろう。
163 : ◆1UOAiS.xYWtC :2013/06/01(土) 12:06:12.79 ID:+j7WNh9Vo
領主「げっ……下民、どもがっ! ……何をしている、貴様! さっさと、皆殺しにして来ないか!」
騎士「無理です。それより、お逃げになるがよろしいかと」
領主「何だと!? 怖気づいたか!」
もちろん、そうではない。
今行けば、騎士の腕であれば痩せた暴徒の二十人は斬れるだろう。
だがそれで終わりではない。ここまでの大ごとになったのだから、それで片付きはしない。
邸内に内通者まで得ての計画的な反動は、恐らくは領主の首が椿の如く落ちるまで続く。
そもそも、騎士が出て行っても……火に油を注ぐ結果にしかならない。
『領主の走狗が、領民を手にかけた』と、かえって彼らの気勢を高めてしまう。
怒りに燃えた人間は痛みさえも麻痺して手強くなり、人を斬れば当然、刃も欠けるし疲労も出る。
この蜂起は、完全に成功してしまった。
衛兵達の中には、領民の殺気に慄き、武器を捨てて逃げようとして、背中を刺される者もちらほらと見える。
更に見れば、妙に体格の良い――――恐らくは領主に反旗を翻した、良識を持っていた衛兵も暴徒に混じっていた。
城はとうに陥落し、文字通り素っ裸の大将首だけが残っている。
騎士「もはやこれまで。……馬が残っておりました。お逃げ下さい」
領主「……チッ! 逃げるぞ、伴をしろ!」
騎士「……仰せのままに、我が主」
厩へ向かう途中、ちらりと、炎に巻かれた屋敷を見る。
騎士と領主の他に、出てくる者はいない。
いや、そもそも……中に、本当にいるのだろうか?
執事も、女中も、馬丁も、園丁も、皆で示し合わせて裏切り、火をかけて逃げたのかもしれない。
――――否。
――――いるはずだ、一人だけ。
164 : ◆1UOAiS.xYWtC :2013/06/01(土) 12:07:48.69 ID:+j7WNh9Vo
――――――――
淫魔「……ん。……よく、寝たぁ。お目覚めすっきりです~」
彼女が眼を覚ました時、そこは、底冷えのする暗闇の牢獄では無かった。
藁を敷いただけの寝床に、着慣れた、不思議な煤だらけのマントをかけられ寝かされていた。
澱んでかび臭い、冷たい空気はもう無い。
干し藁の香りと、埃っぽさはあっても、暖かい空気がその代わりにある。
見回すと、そこは木造の納屋のようだ。
ロープや樽などを積んだ台車のほか、壁にはいくつもの農作業具がかけられている。
淫魔「……えっと、ここ、どこなのでしょう~?」
首には、まだ痛々しく首輪の跡が残っている。
五年間もの長きに渡り、彼女を縛っていた枷は、もうない。
きょろきょろと周りを見渡し、その明るさに、目を細めた。
天井近くに在る採光用の小窓からは、涼やかな鳥の歌声が聴こえる。
梁に張られた蜘蛛の巣は、美しい幾重もの八角形を描いていた。
それに見蕩れて、緩やかなまどろみを愉しんでいた時、納屋の扉が、長く音を残しながら開いた。
騎士「目覚めたか、淫魔」
淫魔「あらぁ、騎士さん~。お久しぶりですねぇ」
彼の格好は、酷い有り様だ。
純白のシャツもズボンも煤で汚れており、焦げ跡さえある。
端正な顔にも髪にも煤がまとわりついて、『騎士』の麗しい面影などない。
騎士「……ふん。酷い顔だな」
淫魔「え~? 騎士さんの方こそ~」
それは、彼女も同じだった。
気だるい美貌を備えた顔にも、明かりの下で見ると更に悩ましい裸体も、煤まみれだ。
騎士「…………くくくっ」
淫魔「ふふふ……あは、あははははっ!」
騎士「っ……笑うな、馬鹿者。近くに小川がある、顔を洗いに行くぞ。日差しで眼を痛めるなよ? 少しずつ慣らせ」
あの時、不思議と体が動いた。
燃え盛る屋敷の中に残っていた淫魔、そして逃げ延びつつある領主と、自身。
何一つ、理由など無かったと思っていたのに……領主が馬に跨った所で、その踵は返ってしまった。
そして、騎士は単身、業火の中へ。
地下へ続く経路は、不思議な程、火の回りが遅れていた。
それどころか、炎の中に道が通っていたようにすら見えた。
金属の扉を開けようと手をかけた時――――熱を感じた瞬間に皮膚が貼りついて、
手の平からベリベリと音を立てて離れた。
屋敷を嘗める炎の舌は、金属の扉を、灼けた鉄鍋のように変えてしまっていた。
破れた皮膚から血が噴いても、痛みは感じなかった。
体当たりするように、転げ落ちるように牢獄へ入ると、
地下、それも鉄の扉に阻まれていたため煙さえも回っていない。
その最奥の鉄格子の中に、彼女は眠っていた。
起きる気配すらなく、命の危機も、異変も感じていないのか、穏やかに寝息を立てていた。
鉄格子を開いて、剣を抜く。
その狙いは彼女のすくめた首だ。
振り下ろされた剣は、やや緩い程度にしか遊びの無い首輪を、紙のように裂いた。
これで、ようやく……彼女を縛るものは、何も無い。
――――『騎士』は『淫魔』の体をその腕に抱き上げ、暗闇から、掬い取った。
166 : ◆1UOAiS.xYWtC :2013/06/01(土) 12:09:28.06 ID:+j7WNh9Vo
屋敷から出ると、そこには、雑多な武器で滅多刺しにされた、領主の死体があった。
領主を討って沸き立つ領民達は、武器を捨て、叫びを上げていた。
大路には初めて見る活気があり、ほとんどの民がそこにおり、あちこちで炊煙まで上がっていた。
裏道を、人目を掻い潜るようにして逃げ延びた。
栄光は、もはや完全に失われた。
務めを放棄して領主を守れなかったのだから、もはや、『騎士』としての道さえも無い。
否、そもそも……この辺境領地へ赴任させられた事さえ、上の謀略だったのかもしれない。
病死した将軍のたった一人の跡継ぎを、この暴動に巻き込んで始末しようとしたのかもしれない。
もしもそうなら成功だ。絵図を描いた者がいるなら、誇っていい。
権力者は、首を守るために『金』という名の襟巻を巻き、『権謀』という名の牙を研ぐ。
地位も屋敷も剥奪された若き騎士は、いずれ復讐、雪辱の刃を研ぐかもしれない。
そうなれば――それがどのような形で現れたにせよ、首への憂いになるから。
町から離れる足取りは、不思議と、進めば進むほど軽かった。
一歩進むごとに、重い荷がぽろぽろとこぼれていくようだった。
このままどこまでも歩いて行きたくなる、そんな気分で。
目を落とせば、間近に甘い寝息を吐く淫魔の顔がある。
喜びに沸く町を離れて歩いて行き、昼を回った頃、一軒の農家の跡を見つけた。
人の気配はなく、家畜も繋がれてなどいない。
納屋の扉を開けて、手近な藁山に彼女の体を横たえ、ずっと握り締めたままだったマントをかける。
そのまま、半日と少し。
ようやく一息付けて――――次の朝が来るまで、ようやく、眠る事ができた。
167 : ◆1UOAiS.xYWtC :2013/06/01(土) 12:10:05.77 ID:+j7WNh9Vo
――――――――
淫魔「なるほど、そういう事があったんですか~。だめですねぇ、ちゃんと火の始末しないと~」
騎士「……『火の用心』を怠った結果だとは私も思うが、どうせ違う意味なのだろうな」
穏やかに流れる小さな川の中で、淫魔はまだ水浴びを続けている。
騎士はすでに上がり、服を着ているところだ。
せせらぎに混じって魚の跳ねる音、さらに虫の音も加わり、時おり思い出したように、
鮮やかに色づいた葉が流れてくる。
上流の山々はすでに紅葉しているようだ。
淫魔「ふぅ、さっぱりしました~。気持ちよかったです~」
髪を搾って水分を落としながら、淫魔も終えて上がる。
そこへ、騎士は衣類一式を差し出す。
淫魔「何ですか~、これ」
騎士「着ろ。……その、なんだ。目のやり場に困る」
淫魔「ありがとうございます、どうもご親切に~」
騎士「……親切じゃない。私が困るから着ろと言っているんだ、馬鹿者」
168 : ◆1UOAiS.xYWtC :2013/06/01(土) 12:10:38.90 ID:+j7WNh9Vo
長い巻きスカートで、尻尾を隠す事ができた。
頭巾をかぶれば、角も隠せた。
ウエストに搾りのついた上衣は窮屈そうで、ボタンの上から二つまでが留まらないらしい。
最後にくるぶしまでが隠れるブーツを履けば、その姿は『人間』とまったく変わらなかった。
淫魔「どうです~? 似合ってますか?」
騎士「……間に合わせだな。さて……これから、どうしたものかな」
淫魔「?」
騎士「もうあの領には戻れない。……結局、最後の居場所までも私は失ったという訳だな」
騎士は、川のほとりに佇んだまま掌を見つめる。
赤く剥けた皮膚は今も痛々しく、一段落した今だから、指を曲げ伸ばしする度にズキズキと痛んだ。
その痛みは、水で冷やしたからと言って治まるようなものではない。
淫魔「そういえば、考えておいてくれたんですよね?」
騎士「……は?」
唐突な問いかけと、おもむろに近づいた声と気配に、思わず素の間抜けた声が出た。
掌から視線を離すと、顔のすぐ真横に、彼女の顔がある。
淫魔「人間界を案内してくださいって言ったじゃないですか~。……お星さまも、まだ見られてませんし」
169 : ◆1UOAiS.xYWtC :2013/06/01(土) 12:11:14.42 ID:+j7WNh9Vo
騎士「よく覚えているな、お前」
淫魔「燃える水が噴き出るお山に、海に浮かぶ氷の島、お話してくれたじゃないですか」
騎士「やはりお前は、馬鹿でも無いな。一つ、教えてくれないか」
淫魔「何ですか?」
騎士「……領主と……いや」
淫魔「?」
騎士「『誰か』と、体を重ねた事はあるか?」
淫魔「あ、あの……それ、は…………えっ……?」
騎士「……言葉通りだ」
記憶力も悪くないし、多少の鈍さはあっても彼女は決して愚図ではない。
なのに、領主に欲望を受け止めた事を含めてその一切を覚えていない。
初めて地下牢に入った時に香った、かび臭さと異臭の中に忍んだ新鮮な血の匂いは、あまりに濃すぎた。
だが彼女に傷など無かったし、他二つの牢獄にも、使用された形跡は無かった。
――――血液を流す理由など、ひとつしか、浮かばなかった。
淫魔「もう、覚えが無いですよぉ。何なんですか、朝からもう~」
――――彼女は、夜毎に貫かれても……今もまだ、『未通』だ。
170 : ◆1UOAiS.xYWtC :2013/06/01(土) 12:12:54.94 ID:+j7WNh9Vo
彼女が語っていた、『母も、父親の顔を知らない』という言葉。
あれは決して、嘘ではない。
『覚えていない』でも、『分からない』でもない。
本当に…………『知らない』のだ。
五年間の幽閉生活で夜毎に自分の肉体を貪った、今は亡き領主の顔も、彼女は知らない。
否、夜毎に、忘れていたのだ。
あの牢獄に散っていた血の香りは、恐らくは五年分、二千に近づく夜の『純潔』の血だ。
仮定に過ぎないし、実証しようとは夢にも思えないが。
恐らくは、彼女は貫かれるたびにその相手の事を全て、『忘れる』。
顔も風体も、そもそも夜を交わし合った事も、その全てを、心も体も全て消し去る。
故に――――彼女は、未だ『処女』なのだ。
淫魔として生まれながら、彼女の種族は、そんな『運命』をその身に宿している。
未来永劫、彼女は純潔を失う事などなく、純潔を捧げた相手の事を、その心に残す事は無い。
それは淫魔の歩む時間とは別の、無間地獄だ。
精を求めれば、その結果だけを残して過程は全て消える。
子胤を求めれば、子だけを孕んで相手の記憶は全て消える。それは、彼女の母が示している。
その推論に行き着いたのは、屋敷が焼け落ちる、ほんの前日の事だった。
彼女の心に誰かが住まう事はない。
重ねればその端から忘れ、『男』の記憶が残る事など、ない。
生まれながらの『忘却』の呪いは、決して彼女を、逃がさない。
――――身体を重ね続ける限りは。
――――『淫魔』であり続ける、限りは。
171 : ◆1UOAiS.xYWtC :2013/06/01(土) 12:14:36.57 ID:+j7WNh9Vo
騎士「……すまなかった」
淫魔「えっ? もしかして、駄目なのですか~?」
騎士「…………」
答えず、持って来ていたあのマントを羽織る。
今残ったのは、金貨と銀貨合わせて数十枚、印章付きの指輪、焦げた一張羅と家宝の長剣。
そして――――『命』と、『淫魔』。
視線は、川のせせらぎを届ける、高い秋麗の空を指すようにそびえる、秋色の山に。
長く残る息をつき、騎士は、歩み始めた。
淫魔「あ、あの~……その、マント……」
困惑する彼女を振り向かず、騎士は言った。
騎士「……置いて行かれたいのか」
――――山道を、騎士と淫魔は寄り添い歩く。
紅茶の色の五裂の葉、山吹色の二裂の葉、顔を上げても下げてもそれは目から離れない。
木陰を風が抜ければ舞い踊り、揺れた木からはらはらと散り、落葉の絨毯に一針を加えた。
踏みしめれば靴底から軽い感触が伝わり、。しゃくしゃくと音が鳴る。
さながら、自分たちまでもが紅葉の一枚、二枚に変わってしまったようだ。
紅と黄金の『葉道』を並んで往く足取りは、どこまでも、どこまでも、離れない。
さし込む木洩れ日は、祝福を施すように二人を包んだ。
葉陰に潜む虫の声、遠くから伸びる鳥の声、風に梳かれる木々のざわめきは、
どんな交響楽よりも素晴らしい『歌声』になった。
全てを失い落ち延びて、居る場所さえも失った。
騎士は、それでも世界がいまだ自分を乗せていってくれるのだと…………ようやく、知った。
172 : ◆1UOAiS.xYWtC :2013/06/01(土) 12:15:05.23 ID:+j7WNh9Vo
投下終了
おそらくまた今夜
それではー
173 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします :2013/06/01(土) 12:58:46.07 ID:ii6TbTN5O
乙
続きが楽しみだわ
174 : ◆1UOAiS.xYWtC :2013/06/01(土) 23:44:31.51 ID:+j7WNh9Vo
二人で見て回る世界は美しく、秋が終われば冬が来た。
白い息を吐きながら歩いていると、鼻先に冷たさを感じて空を見る。
灰色の雲から、『白』が抽出されて降り注いでいた。
淫魔「わ~……ようやく、雪が降ったんですねぇ」
彼女は、掌に舞い落ちた六花を受け止め、溶けるのを見て言った。
それを真似るように騎士もちらちらと降る雪を受けると、新たな皮膚が張った掌に、すぅっと沁みた。
騎士「ようやく?」
淫魔「はい~。だって、騎士さんと一緒にいると、時間が長いんですよね~」
騎士「早く過ぎ去って欲しい、とでも?」
淫魔「いえ、違いますよ~、逆です、逆」
珍しく慌てて取り繕うような口調で、彼女は皮肉めいた問いかけに返した。
ほんの少しだけ、寒さのせいか、真っ白な頬に赤みが差す。
淫魔「もっと長くなってくれたらいいなぁ~、って感じ……です」
彼女の声には、若干の照れが聞き取れた。
『淫魔』の、夜の魔族の舌とは思えない程にたどたどしく、もつれかけていた。
騎士も、どこか気恥ずかしくなり――――足を速めながら、返答する。
騎士「……さっさと進め、次の村はすぐだ。ベッドで眠りたいのなら歩け」
175 : ◆1UOAiS.xYWtC :2013/06/01(土) 23:45:14.51 ID:+j7WNh9Vo
嵐の夜、廃屋の中で風を避けて一枚のマントの内で暖め合いながら眠った夜がある。
ごうごうと吹きつける音の中でも彼女は物怖じする事が無かったが、雷だけは別だった。
身を竦ませる彼女の頭を抱き締め、落ち着けるための見せかけの悪態をついて眠った事もある。
一夜の寝床を得た宿屋で、彼女にベッドを渡して床で眠った夜がある。
宿賃をけちり、一つしかベッドがない部屋を取ってしまったからだ。
彼女はともに眠ろうと言ってくれたが、そういう訳にもいかなかった。
それでも野宿に比べれば、格段に良い環境だったし、直接床に触れていれば襲撃があったとしても振動で察知できる。
倒木に腰掛け、星空に見つめられて、焚き火を前にして茶を酌み交わした夜がある。
火傷しそうなほど熱くて、保存性を求めた茶葉は渋みが強く、香りなど飛んでいた。
それでも星空を眺めて、身を寄せ合えば、気になどならなかった。
満天の星の海を、二人きりで渡っているような、そんな気分になれた。
いくつもの夜を経ても、騎士と淫魔が『繋がる』事は、なかった。
欲求が無かったわけでは、勿論ない。
だが、彼女の肌に、尻に、手が伸びそうになる度に――――近い『現実』の声が引きとめた。
もしそうしてしまえば、彼女は翌日言うはずだ。
生国も生家も、名誉も何もかも失った騎士を折る、たった一言の言葉を。
あの時腐敗した領主を見捨てて、助けに戻った理由は今や明白だった。
彼女を失いたくない。そう思ったからだ。
共に旅する今思う事は、……『失われたくない』。
事に及ぼうとして、彼女から抵抗を受け、拒まれて去られるのなら良かった。
恐らく、決して自惚れでもなく――――彼女は、拒まないだろう。騎士を、受け入れるはずだ。
明くる日に彼女は眼を覚まし、朝ぼらけに、騎士を見据えて最も恐ろしい言葉を紡いでしまうのだろう。
共に見た、灰と白煙を噴き上げる炎の山。
海に浮かぶ氷の上で暮らす、魚のようなヒレを持つ奇妙な海獣達。
極地の空を幻想そのものに彩る、光のカーテン。
夜空を真っ二つに裂く星の大河、願いをいくらでも叶えられそうなほどの流星の雨。
一切合切を、彼女は泡のように、忘れてしまい。
騎士の心を挫き、たちまちに崩れ去らせてしまうような、たったひとつの純粋な『質問』をするのだろう。
――――――『あなたは、誰ですか』
魔法使い「勇者がどうして『雷』を使えるか、知ってる?」
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