魔法使い「勇者がどうして『雷』を使えるか、知ってる?」
Part10
176 : ◆1UOAiS.xYWtC :2013/06/01(土) 23:46:54.18 ID:+j7WNh9Vo
――――旅を始めてちょうど六年が経つ。
騎士の国から離れた、小さいが活気のある町の宿屋に部屋を取っていた。
一階の酒場を覗く二階の吹き抜けで、眠る前の酒を彼女と酌み交わしていた。
やや甘みの強い、発泡する果実酒が夕食後の口を楽しませてくれる。
この地方の特産で、林檎を発酵させて作るのだと言う。
淫魔「ふは~……、美味しいです。お口の中で弾けちゃいますねぇ」
対面にテーブルを挟んで座った淫魔の、満足げな笑顔を見つめると、不思議と笑みが漏れた。
階下の人影はまばらで、片隅の吟遊詩人が奏でるリュートの調べが、くっきりと聞こえる。
騎士「……あぁ、お高い葡萄酒よりはこちらの方が美味いな」
くっくっと笑いを漏らしてゴブレットを傾け、喉に果実酒を流し込む。
黄金色の泡を浮かべた液体は、口内を刺すように暴れ回り、甘く喉を潤してくれた。
淫魔「さて、もう……寝ますね~。あ、その前に……」
騎士「ん……、何だ?」
淫魔「もうっ、そういう事訊いちゃだめですよ~」
騎士「…………ああ」
野暮な事を訊いてしまった、と軽く後悔して、彼女が階段を下りて行くのを見送り、酒の残りに口をつける。
一階の客たちも酔いつぶれて眠るか部屋に戻るか、家に帰ってしまった。
騎士もせっかくベッドで眠れるのだから、少しでも長く体を休めたかった。
野宿が続き、身体が固まってしまったような感覚がある。
飲み干した盃を置いて、一足先に部屋に戻っていようと立ち上がった、その時。
階下から、どたん、と何かが勢いよく転げ落ちるような音がした。
177 : ◆1UOAiS.xYWtC :2013/06/01(土) 23:47:24.63 ID:+j7WNh9Vo
騎士「っ……おい!」
嫌な予感は、的中した。
階段の下に伸びるように倒れていたのは、淫魔だった。
慌てて駆け下りて抱き起こしながら、スカートの裾からはみ出しかけていた尻尾を、隠した。
すぐに店主に吟遊詩人、そして給仕までが駆け寄ってきて、口々に気遣いの言葉をかけてくれる。
触れた感じでは、骨折の類はない。
目立った傷も無く、あの音の発生源と短さから見て、『階段から落ちた』というより、
『降りてから倒れた』という方が正しいだろう。
事実――――抱き起こすと、彼女はすぐに反応を返してくれた。
淫魔「……あ、れ? ……どうしたんですか~?」
騎士「どうした、って……お前こそどうしたんだ!?」
淫魔「階段、降りたところまでは覚えてますけど。なんか、体から力が抜けちゃって……」
店主「大丈夫なのかい、姉ちゃん。なんかあったら、裏に医者が住んでっからよ」
淫魔「いえいえ、大丈夫ですよぉ。ありがとうございます~」
騎士「……もう、部屋に戻ろう。私もお前も、休息が必要だ」
淫魔「はい~。あ、その……用、済ませてきちゃいますね」
すると、彼女は思い出したようにささっと立ち上がり、店の奥、手洗い場へと向かった。
不自然な程にその動作はいつも通りで、今しがた倒れたばかりのものとは思えなかった。
178 : ◆1UOAiS.xYWtC :2013/06/01(土) 23:48:06.21 ID:+j7WNh9Vo
やがて部屋に戻り、それぞれベッドで眠りについてから数時間。
月と太陽が役割を代わろうと顔を突き合わせるあたりの時刻、騎士が眼を覚ました。
騎士「ぐ、ぅ……げほっ……!」
止まらず、何度も何度も、咳き込む。
喉に何かが絡んだ、という風ではなく、胸の奥から何か、よくない物を吐き出しているようだった。
身体を起こしても咳は止まず、溺れるように、情けない息を繋いだ。
咳の合間を縫って何とか酸素を取り込もうとすれば、気管に何かを吸い込み、更に苦しみが増した。
思わず、手を口に当てると――――ひときわ大きな咳とともに、暖かい液体が溢れた。
胃酸臭はせず、唾液と言うにはあまりに大量だった。
窓辺から差し込む月明かりに、その手をかざして確かめる。
それは……片手一杯分の、『吐血』だった。
吐き出して咳が収まり、同時に胸筋の奥に感じた不快感と、伴った背筋と肩の突っ張りもすぅっと溶け出した。
数分かけて呼吸を整え、酸素が回って冷静になった頭で、血まみれの手を見つめる。
溺れて血液を吐き出す、この発作。
かつての家で見た、母親の病のものと同じだ。
加えて、逝った父の手記にも書かれていた症状とも……合致してしまった。
騎士「……ははっ」
月明かりの差す部屋に、乾いた笑いが漏れた。
179 : ◆1UOAiS.xYWtC :2013/06/01(土) 23:49:31.91 ID:+j7WNh9Vo
数日後、貸しに出されていた小さな家を借りた。
行く先々の村で仕事を引き受けて溜めた賃金、道中の賊から奪った金品を合わせれば数年は暮らしていける。
この町で、一ヶ月か、あるいは数年、しばらく養生するつもりだ。
幸いにも近くに医者も錬金術師もいるし、暮らしていく分にも養生するにも不自由は無い。
まず、暮らしていくための家具を入れた。
一階には食堂や台所、二階には二人分の私室のベッドと、机。
貸主に金を渡して、それらを整えさせた。
淫魔「へ~……ここに、私達住むんですか~?」
一歩入ると、彼女は目をまん丸くして、さして広くも無い『新居』を見渡した。
床と柱に用いられた木は黒く変色していて、壁の漆喰もところどころ剥げている。
だがそれだけに暖かみも多分に含まれ、太い柱には、子供の背丈を刻んだものだろう傷がいくつもある。
彼女はそれを見つけてしゃがみこみ、指先でなぞっていた。
騎士「私もお前も、長く旅をしすぎたな。少しだけ、腰を落ち着けようか」
淫魔「それはいいですねぇ。ここ、いい人ばっかりですからね~」
この町の住民たちは、みな、善良だった。
宿屋の主は、家を借りて養生する旨を話すと、手続きが終わるまでの間の宿賃を半値にしてくれた。
貸主は家の修繕費を負けてくれたし、可能な限り一日でも早く移り住めるようにしてくれた。
通りを見れば子供たちの笑い声が絶えず、市場を通れば威勢の良い掛け声で肉や野菜、酒類が売られており、
衛兵達はいかにも規律正しく市中を回り、しかし人々に慕われていた。
まさしく『門出』の街とは、正反対の場所だった。
騎士「体に不調は無いのか」
淫魔「何もないですってば~。……でも、少し眠いかも。まだ早いですけど、寝てもいいですか~?」
騎士「あぁ、いいさ。身体を休めておけ。……ここは、私たちの家だ」
180 : ◆1UOAiS.xYWtC :2013/06/01(土) 23:50:37.34 ID:+j7WNh9Vo
その家に住んでから、罰が当たりそうなほどに穏やかな時を過ごした。
淫魔はパンを焼く事を覚えて、騎士も、市場での荷運びの仕事にありつけた。
朝に出て行き夕方に帰り、共に暖かい夕餉を食し、なんでもないような会話を楽しんだ。
仲睦まじい夫婦の姿をなぞって、ありきたりな幸福を、分かち合った。
その一方で、騎士は、少しずつ体力を落としてきた。
最初の発作からはしばらく無かったが、再びある夜発作が起きた。
どんどん感覚が短くなり、今では三日に一度、血塊に溺れて眼を覚ます有様だ。
淫魔も、隠してはいるようだが明らかに様子がおかしい。
ふっと意識を失って倒れる事が多くなり、休養が、まるで功を奏していないように思えた。
そんなある日の事、彼女が隠していた部位に――――異変が起こっていた。
眠っていた彼女の様子を見に行った時、布団を蹴飛ばしていたのを見つけた。
寝巻の裾からはみ出ていた尾が、騎士の持っていた蝋燭に照らし出された時だ。
その尾は、初めに見た時とは全く違い、先端から根元まで黒ずみ、くまなくひび割れていた。
白いベッドに散らばる黒いカサブタのような物質は、恐らく、剥がれ落ちた尾の表皮だ。
騎士「えっ……!?」
彼女の体、その他の部分に目を移すと……小さな足の爪にも、同様の黒ずみがある。
髪をかき分けて角の根元を探すと、そこにも。
寝巻を少しだけめくり上げて背中を見ると、どす黒いカサブタがポツポツとある。
それは…………『彼女』そのものが、風化し、朽ち始めてしまっているように見えた。
181 : ◆1UOAiS.xYWtC :2013/06/01(土) 23:51:12.28 ID:+j7WNh9Vo
数日して、彼女はベッドから起き上がれなくなった。
上体を起こすだけが精一杯で、歩く事さえできない。
医者を呼んで診せようにも、彼女の体の異変を、相談などできようはずもない。
『魔族』であると知れれば、どんな事になるか知れないからだ。
だが実のところ、その原因は、騎士には不思議な程はっきりと分かっていた。
これも推論ではあるが――――その推論は、事実に違いないと、直感がそう告げた。
彼女は、『淫魔』だからだ。
共に旅した六年間、彼女の体を求めた事は一度も無い。
そもそも『淫魔』は人間の精を吸い取って生きる種族である点を加味すれば、答えが分かる。
人に例えるのならそれは、栄養価のある食事を摂らず、菓子だけで食いつなぐようなものだからだ。
彼女を癒すための薬は、確かにあるし、いつでも含ませられる。
だがその副作用はあまりに、無情なほどに重い。
――――もたらすのは、『忘却』だ。
共に旅をして語らった今だからこそ、分かる。
彼女の種族の『忘却』は、永すぎる時を生き、膨大過ぎる別れを告げなければならない故に起こった『進化』だ。
『忘却』は、必ずしも哀しい事ではない。
騎士は、母が病に奪われた時は、心が半分もぎ取られたような空虚を覚えた。
だが、二年、三年と経つうちにその空虚は埋められていき、その感覚はもう覚えていない。
何故ならば、『忘れた』から。
『忘れる』事は、『哀しみ』を遠くへ追いやる唯一の方法だから。
そうやって、彼女の母も、祖母も、曾祖母も、人間の時の流れに置いて行かれる、
抗えない『哀しみ』を忘れながら子を生してきた。
――――――数多の男に、『貴方は誰か』と、全てを忘れて無垢に残酷に、投げかけながら。
182 : ◆1UOAiS.xYWtC :2013/06/01(土) 23:52:03.02 ID:+j7WNh9Vo
淫魔「……ごめんなさい。騎士さんに、こんな事……させちゃいまして」
騎士「気に病むな。この程度、何の事も無い」
病床に臥せったままの彼女へ夕食を運び、共に自身も食事を摂る。
市場の仕事には、もう行っていない。
その理由は二つ。
一つはもともと極端に金に困っていた訳ではなく、懐は当分は寒くならないからだ。
道中で得た金品を換金すれば生活には困らない。
もう一つは――――騎士自身も、もう、『働ける』状態ではないからだ。
六年の彷徨は、知らず知らずに騎士の身体を蝕んでいた。
雨に打たれ、寒風の中で眠り、まともな寝床で眠った事の方が少ない。
そういった生活をしていれば――――病身の家系にある騎士の刻は、早められてしまって当然だ。
淫魔「あの。……どうしました~?」
騎士「ん……。いや、考え事をな」
淫魔「教えてくれないんですか~」
騎士「まぁ、追々な」
ずっと、騎士は考えていた。
日増しに衰弱していく彼女を治してしまえる薬は、既に持っている。
だが、それを与えるという事は……全ての時間を、失ってしまう事になる。
共に過ごした年月を――――破り捨ててしまう。
騎士「……お前は」
淫魔「はい?」
騎士「お前は、楽しかったのか。こんな不貞腐れた男と一緒にいて」
183 : ◆1UOAiS.xYWtC :2013/06/01(土) 23:52:38.69 ID:+j7WNh9Vo
淫魔「楽しかったですよ~。色々連れて行ってくれましたし。騎士さん面白いじゃないですかぁ」
騎士「…………?」
淫魔「覚えてます? 初めてお船に乗った時、酔って大変でしたよね~、騎士さんってば」
騎士「昔から船は苦手だったんだ。水に浮かんでいる理屈が分からん」
淫魔「考えすぎだと思いますけど。それを言ったら、何で『指』を五本も動かせるのかも分からないじゃないですか~」
騎士「……なるほど、確かに不思議だ」
淫魔「ね~? 考え方次第ですよ、何でも。さて、ご馳走様でした~」
騎士「…………」
考え方、次第。
もしも、彼女へ薬を与える道を選べば、彼女は全てを忘れる。
そして、騎士の心臓もとうとうもたないだろう。
命がひとつだけ失われ、ひとつだけ残る。
でも――――そのかけがえのない『ひとつ』を、残せる選択肢が、今ある。
彼女は、決して……不治の病などでは、無いのだから。
騎士「……食器を下げてくる。さぁ、眠れ。……ほら」
食器と盆を重ねてサイドテーブルに置き、彼女の背中に手を回してゆっくりと横たえる。
そして、ゆっくりとその頬を撫でてから、毛羽立った毛布をかける。
騎士の顔は、全ての重荷を振り払ったかのように、穏やかに緩んでいた。
184 : ◆1UOAiS.xYWtC :2013/06/01(土) 23:53:37.94 ID:+j7WNh9Vo
一週間後の夜、騎士は、眠っている淫魔の部屋に忍び入った。
灯りは提げていない。
部屋着の上にゆったりとしたガウンを羽織っただけの姿で、彼女へ近づく。
淫魔「……騎士さん? どうしたん……です、か?」
炎を潜り抜けても動じる事のなかった眠りが、呆気なく覚めた。
声ははっきりしていたが、彼女は起き上がらない。
自分で起き上がる事が、できないからだ。
もう、その声に独特の気の抜けるような間延びは無かった。
喉の奥までひび割れてしまったように、眠気を誘うあの韻律はもう無い。
横たわる彼女の頭側へと近寄ると、頭を撫でてから、水場の鳥のように体を前に倒す。
ようやく触れた彼女の唇は、潤いさえなく、かさかさに荒れていて、冷たかった。
それでも――――柔らかかった。
淫魔「んっ……」
唇を離したとき、彼女の身体が揺れた。
漏れ出す艶めいた声には、僅かな力が籠っていた。
淫魔「騎士、さ、ん……遅い、です」
騎士「遅れてはいないさ」
そう。
手遅れではない。
淫魔「私を、お嫁さんにして……くれるん、ですか?」
騎士「……ああ」
185 : ◆1UOAiS.xYWtC :2013/06/01(土) 23:54:36.23 ID:+j7WNh9Vo
彼女の身体を覆い隠していた毛布を取り去る。
一枚の薄衣の中で、彼女の体からは温もりが消えかけていた。
淫魔「覚えて、ます?」
騎士「ああ。覚えているよ」
それだけのやり取りで、全てが通じた。
思い起こすのは一年と半前、ある町で聞いた誓いの詞。
淫魔「健やかなる時も、病める、時も」
騎士「……死が二人を分かつまで」
再び、唇を求める。
かさかさに乾いてひび割れた唇は、水音さえも奏でてはくれない。
唾液さえも、もはや滲み出さなくなってしまっていた。
彼女の腕が震えながら持ち上がり、騎士の頬に触れる。
騎士の手も、彼女の肌に触れる。
暗闇の中で暖め合い、『その時』を迎えるために、空白を埋めるように、互いの体を触れた。
互いの体が、微かに汗を滲ませた頃。
騎士は、最後の願いとともに、彼女へ別れを告げた。
――――もう、私は何もいらない。
――――私の存在の全てを、この世界からなくそう。
――――でも、一つだけ、願う事を許してもらえるのなら――――
186 : ◆1UOAiS.xYWtC :2013/06/01(土) 23:55:15.20 ID:+j7WNh9Vo
数日が過ぎて、人々がその家にやってきた。
姿を見せない二人を怪訝に思い、貸主と役人が、ノックをしてから入った。
暖炉には焼け残った薪が入ったままだが、不思議な程、片付いていた。
戸棚に収められた食器には埃一つない。
二階に上がると、役人が不思議なものを見つけた。
片方のベッドはぴっしりと整えられているが、その上に一振りの長剣と紋章入りのマントがあった。
もう一つの寝室に入ると、乱れたシーツの中ほどに、ぽつりと小さな血の跡がある。
女物の寝巻が一着、男物の寝巻とガウンが一着。
それだけだ。
他には、何一つ残っていない。
ここに住んでいた誰かがいて、そして、いなくなっていた。
誰一人として二人の行方を知る者はない。
全く忽然と、あの奇妙な男女は消えてしまった。
187 : ◆1UOAiS.xYWtC :2013/06/01(土) 23:56:12.51 ID:+j7WNh9Vo
それから、千と数百年の時が経ち、魔界の一角、『淫魔』達の住まう国の最も栄えた街。
一軒の書店がある。
店内には、いくつもの『物語』を記した本があり、彼女らの王の城、その書庫にさえ引けを取らない。
入り口に面したカウンターに、一人の『淫魔』が坐して、広げた本に目を落としている。
年経て落ち着いたふうに見えるが――――その佇まいは、変わっていない。
ゆるやかに巻いた髪も、瑞々しく豊満な体も、しなやかに伸びる尻尾も。
もう、彼女の心には「夫」の記憶はない。
六年の時を過ごしたあの騎士の顔も、声も、共にいた日々も、覚えてはいない。
何故あの町にいたのかも当然、覚えてなどいない。
不思議に充実した魔力を使って、魔界へ戻る事はたやすい事だった。
カウンターの上には、一輪差しの花が活けてある。
青空のように鮮やかな花が、胸を張って、彼女の横顔を見つめている。
千数百年前、人間界のとある家で目が覚めた朝に、枕元に置かれていたものだ。
その花は、千年の時を経ても、萎れも枯れもしない。
ある時は店を彩り、ある時は彼女の髪を飾った。
星形の花弁を見る度に、どこかからやって来る温もりを彼女は覚える。
いつも彼女の側にあり、ずっとこの書店と、その主とともにある。
――――――その花の名は、『ワスレナグサ』といった。
188 : ◆1UOAiS.xYWtC :2013/06/01(土) 23:57:23.15 ID:+j7WNh9Vo
書店主「ふわぁ~……眠いわ。とても眠い……あぁ、いい天気ねぇ」
???「……外、雨だけど? お母さん。そういえば、昨日……国王陛下が来たんだって?」
店内にはもう一人、年若い「淫魔」の姿があり、きびきびと書架の整理をしていた。
巻き毛と体つきは似ているが、顔立ちはむしろ鋭くしゃっきりとして見える。
そして彼女は、カウンターにいる店主を『母』と呼んだ。
書店主「ええ、そうよ。もう一休みしたら~?」
書店主娘「うん、もうちょっと。……この辺掃除した方がいいよ、お母さん。埃がひどいよ」
『ワスレナグサ』の忘れ形見は、立派な『淫魔』になった。
あの人間界の朝に受け止めていた『種』が、彼女だった。
切れ長の隙無い瞳は、少なくとも『母親』には似ていない。
産み育てる事に、不思議な事など感じなかった。
母も祖母も曾祖母も、いつの間にか子を宿し、産み、そうやって血を繋いできたからだ。
それでも彼女は、『娘』を見る度に、どこか優しくて暖かく、懐かしい気分になれる。
覚えてはいないはずの、懐かしい『誰か』の面影を確かめられる。
忘れてしまった『思い出』は、『娘』に生まれ変わってくれた。
書店主「……そういえば、『コーヒー』にミルクと砂糖を入れたら、美味しいかしら~?」
書店主娘「あ。それ、いけるんじゃない? 試そうよ。私、苦くて飲めないんだよね、あれ」
書店主「それじゃ、淹れてくるわね~」
一輪の花に込められた願いは、今もなお、叶い続けている。
健やかなる時も病める時も、死が二人を分かち、たとえ忘却の谷に落ちたとしても、
そこに咲いた花は、決して枯れない。
それは、ひとりの騎士と、ひとりの淫魔の物語。
『ふたり』は、『ふたり』と『一輪』になった。
完
189 : ◆1UOAiS.xYWtC :2013/06/01(土) 23:58:28.42 ID:+j7WNh9Vo
短編、投下終了です
感想などいただけると幸いです
それでは、おやすみなさいー
190 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします :2013/06/02(日) 00:01:08.04 ID:9wKUZ7Nxo
ハッピーエンドが好き
191 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします :2013/06/02(日) 00:07:44.87 ID:FW7PG6PPo
>>1乙!
とっても素敵なお話だった
192 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします :2013/06/02(日) 01:13:26.13 ID:e4i+m2/n0
乙
切なくも暖かいお話でしたね
193 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします :2013/06/02(日) 01:30:09.35 ID:1qTQfebDO
ただでさえ寝れなくて困ってるのに余計眠れなくなった
賠償としてポチを要求する
――――旅を始めてちょうど六年が経つ。
騎士の国から離れた、小さいが活気のある町の宿屋に部屋を取っていた。
一階の酒場を覗く二階の吹き抜けで、眠る前の酒を彼女と酌み交わしていた。
やや甘みの強い、発泡する果実酒が夕食後の口を楽しませてくれる。
この地方の特産で、林檎を発酵させて作るのだと言う。
淫魔「ふは~……、美味しいです。お口の中で弾けちゃいますねぇ」
対面にテーブルを挟んで座った淫魔の、満足げな笑顔を見つめると、不思議と笑みが漏れた。
階下の人影はまばらで、片隅の吟遊詩人が奏でるリュートの調べが、くっきりと聞こえる。
騎士「……あぁ、お高い葡萄酒よりはこちらの方が美味いな」
くっくっと笑いを漏らしてゴブレットを傾け、喉に果実酒を流し込む。
黄金色の泡を浮かべた液体は、口内を刺すように暴れ回り、甘く喉を潤してくれた。
淫魔「さて、もう……寝ますね~。あ、その前に……」
騎士「ん……、何だ?」
淫魔「もうっ、そういう事訊いちゃだめですよ~」
騎士「…………ああ」
野暮な事を訊いてしまった、と軽く後悔して、彼女が階段を下りて行くのを見送り、酒の残りに口をつける。
一階の客たちも酔いつぶれて眠るか部屋に戻るか、家に帰ってしまった。
騎士もせっかくベッドで眠れるのだから、少しでも長く体を休めたかった。
野宿が続き、身体が固まってしまったような感覚がある。
飲み干した盃を置いて、一足先に部屋に戻っていようと立ち上がった、その時。
階下から、どたん、と何かが勢いよく転げ落ちるような音がした。
177 : ◆1UOAiS.xYWtC :2013/06/01(土) 23:47:24.63 ID:+j7WNh9Vo
騎士「っ……おい!」
嫌な予感は、的中した。
階段の下に伸びるように倒れていたのは、淫魔だった。
慌てて駆け下りて抱き起こしながら、スカートの裾からはみ出しかけていた尻尾を、隠した。
すぐに店主に吟遊詩人、そして給仕までが駆け寄ってきて、口々に気遣いの言葉をかけてくれる。
触れた感じでは、骨折の類はない。
目立った傷も無く、あの音の発生源と短さから見て、『階段から落ちた』というより、
『降りてから倒れた』という方が正しいだろう。
事実――――抱き起こすと、彼女はすぐに反応を返してくれた。
淫魔「……あ、れ? ……どうしたんですか~?」
騎士「どうした、って……お前こそどうしたんだ!?」
淫魔「階段、降りたところまでは覚えてますけど。なんか、体から力が抜けちゃって……」
店主「大丈夫なのかい、姉ちゃん。なんかあったら、裏に医者が住んでっからよ」
淫魔「いえいえ、大丈夫ですよぉ。ありがとうございます~」
騎士「……もう、部屋に戻ろう。私もお前も、休息が必要だ」
淫魔「はい~。あ、その……用、済ませてきちゃいますね」
すると、彼女は思い出したようにささっと立ち上がり、店の奥、手洗い場へと向かった。
不自然な程にその動作はいつも通りで、今しがた倒れたばかりのものとは思えなかった。
178 : ◆1UOAiS.xYWtC :2013/06/01(土) 23:48:06.21 ID:+j7WNh9Vo
やがて部屋に戻り、それぞれベッドで眠りについてから数時間。
月と太陽が役割を代わろうと顔を突き合わせるあたりの時刻、騎士が眼を覚ました。
騎士「ぐ、ぅ……げほっ……!」
止まらず、何度も何度も、咳き込む。
喉に何かが絡んだ、という風ではなく、胸の奥から何か、よくない物を吐き出しているようだった。
身体を起こしても咳は止まず、溺れるように、情けない息を繋いだ。
咳の合間を縫って何とか酸素を取り込もうとすれば、気管に何かを吸い込み、更に苦しみが増した。
思わず、手を口に当てると――――ひときわ大きな咳とともに、暖かい液体が溢れた。
胃酸臭はせず、唾液と言うにはあまりに大量だった。
窓辺から差し込む月明かりに、その手をかざして確かめる。
それは……片手一杯分の、『吐血』だった。
吐き出して咳が収まり、同時に胸筋の奥に感じた不快感と、伴った背筋と肩の突っ張りもすぅっと溶け出した。
数分かけて呼吸を整え、酸素が回って冷静になった頭で、血まみれの手を見つめる。
溺れて血液を吐き出す、この発作。
かつての家で見た、母親の病のものと同じだ。
加えて、逝った父の手記にも書かれていた症状とも……合致してしまった。
騎士「……ははっ」
月明かりの差す部屋に、乾いた笑いが漏れた。
179 : ◆1UOAiS.xYWtC :2013/06/01(土) 23:49:31.91 ID:+j7WNh9Vo
数日後、貸しに出されていた小さな家を借りた。
行く先々の村で仕事を引き受けて溜めた賃金、道中の賊から奪った金品を合わせれば数年は暮らしていける。
この町で、一ヶ月か、あるいは数年、しばらく養生するつもりだ。
幸いにも近くに医者も錬金術師もいるし、暮らしていく分にも養生するにも不自由は無い。
まず、暮らしていくための家具を入れた。
一階には食堂や台所、二階には二人分の私室のベッドと、机。
貸主に金を渡して、それらを整えさせた。
淫魔「へ~……ここに、私達住むんですか~?」
一歩入ると、彼女は目をまん丸くして、さして広くも無い『新居』を見渡した。
床と柱に用いられた木は黒く変色していて、壁の漆喰もところどころ剥げている。
だがそれだけに暖かみも多分に含まれ、太い柱には、子供の背丈を刻んだものだろう傷がいくつもある。
彼女はそれを見つけてしゃがみこみ、指先でなぞっていた。
騎士「私もお前も、長く旅をしすぎたな。少しだけ、腰を落ち着けようか」
淫魔「それはいいですねぇ。ここ、いい人ばっかりですからね~」
この町の住民たちは、みな、善良だった。
宿屋の主は、家を借りて養生する旨を話すと、手続きが終わるまでの間の宿賃を半値にしてくれた。
貸主は家の修繕費を負けてくれたし、可能な限り一日でも早く移り住めるようにしてくれた。
通りを見れば子供たちの笑い声が絶えず、市場を通れば威勢の良い掛け声で肉や野菜、酒類が売られており、
衛兵達はいかにも規律正しく市中を回り、しかし人々に慕われていた。
まさしく『門出』の街とは、正反対の場所だった。
騎士「体に不調は無いのか」
淫魔「何もないですってば~。……でも、少し眠いかも。まだ早いですけど、寝てもいいですか~?」
騎士「あぁ、いいさ。身体を休めておけ。……ここは、私たちの家だ」
180 : ◆1UOAiS.xYWtC :2013/06/01(土) 23:50:37.34 ID:+j7WNh9Vo
その家に住んでから、罰が当たりそうなほどに穏やかな時を過ごした。
淫魔はパンを焼く事を覚えて、騎士も、市場での荷運びの仕事にありつけた。
朝に出て行き夕方に帰り、共に暖かい夕餉を食し、なんでもないような会話を楽しんだ。
仲睦まじい夫婦の姿をなぞって、ありきたりな幸福を、分かち合った。
その一方で、騎士は、少しずつ体力を落としてきた。
最初の発作からはしばらく無かったが、再びある夜発作が起きた。
どんどん感覚が短くなり、今では三日に一度、血塊に溺れて眼を覚ます有様だ。
淫魔も、隠してはいるようだが明らかに様子がおかしい。
ふっと意識を失って倒れる事が多くなり、休養が、まるで功を奏していないように思えた。
そんなある日の事、彼女が隠していた部位に――――異変が起こっていた。
眠っていた彼女の様子を見に行った時、布団を蹴飛ばしていたのを見つけた。
寝巻の裾からはみ出ていた尾が、騎士の持っていた蝋燭に照らし出された時だ。
その尾は、初めに見た時とは全く違い、先端から根元まで黒ずみ、くまなくひび割れていた。
白いベッドに散らばる黒いカサブタのような物質は、恐らく、剥がれ落ちた尾の表皮だ。
騎士「えっ……!?」
彼女の体、その他の部分に目を移すと……小さな足の爪にも、同様の黒ずみがある。
髪をかき分けて角の根元を探すと、そこにも。
寝巻を少しだけめくり上げて背中を見ると、どす黒いカサブタがポツポツとある。
それは…………『彼女』そのものが、風化し、朽ち始めてしまっているように見えた。
数日して、彼女はベッドから起き上がれなくなった。
上体を起こすだけが精一杯で、歩く事さえできない。
医者を呼んで診せようにも、彼女の体の異変を、相談などできようはずもない。
『魔族』であると知れれば、どんな事になるか知れないからだ。
だが実のところ、その原因は、騎士には不思議な程はっきりと分かっていた。
これも推論ではあるが――――その推論は、事実に違いないと、直感がそう告げた。
彼女は、『淫魔』だからだ。
共に旅した六年間、彼女の体を求めた事は一度も無い。
そもそも『淫魔』は人間の精を吸い取って生きる種族である点を加味すれば、答えが分かる。
人に例えるのならそれは、栄養価のある食事を摂らず、菓子だけで食いつなぐようなものだからだ。
彼女を癒すための薬は、確かにあるし、いつでも含ませられる。
だがその副作用はあまりに、無情なほどに重い。
――――もたらすのは、『忘却』だ。
共に旅をして語らった今だからこそ、分かる。
彼女の種族の『忘却』は、永すぎる時を生き、膨大過ぎる別れを告げなければならない故に起こった『進化』だ。
『忘却』は、必ずしも哀しい事ではない。
騎士は、母が病に奪われた時は、心が半分もぎ取られたような空虚を覚えた。
だが、二年、三年と経つうちにその空虚は埋められていき、その感覚はもう覚えていない。
何故ならば、『忘れた』から。
『忘れる』事は、『哀しみ』を遠くへ追いやる唯一の方法だから。
そうやって、彼女の母も、祖母も、曾祖母も、人間の時の流れに置いて行かれる、
抗えない『哀しみ』を忘れながら子を生してきた。
――――――数多の男に、『貴方は誰か』と、全てを忘れて無垢に残酷に、投げかけながら。
182 : ◆1UOAiS.xYWtC :2013/06/01(土) 23:52:03.02 ID:+j7WNh9Vo
淫魔「……ごめんなさい。騎士さんに、こんな事……させちゃいまして」
騎士「気に病むな。この程度、何の事も無い」
病床に臥せったままの彼女へ夕食を運び、共に自身も食事を摂る。
市場の仕事には、もう行っていない。
その理由は二つ。
一つはもともと極端に金に困っていた訳ではなく、懐は当分は寒くならないからだ。
道中で得た金品を換金すれば生活には困らない。
もう一つは――――騎士自身も、もう、『働ける』状態ではないからだ。
六年の彷徨は、知らず知らずに騎士の身体を蝕んでいた。
雨に打たれ、寒風の中で眠り、まともな寝床で眠った事の方が少ない。
そういった生活をしていれば――――病身の家系にある騎士の刻は、早められてしまって当然だ。
淫魔「あの。……どうしました~?」
騎士「ん……。いや、考え事をな」
淫魔「教えてくれないんですか~」
騎士「まぁ、追々な」
ずっと、騎士は考えていた。
日増しに衰弱していく彼女を治してしまえる薬は、既に持っている。
だが、それを与えるという事は……全ての時間を、失ってしまう事になる。
共に過ごした年月を――――破り捨ててしまう。
騎士「……お前は」
淫魔「はい?」
騎士「お前は、楽しかったのか。こんな不貞腐れた男と一緒にいて」
183 : ◆1UOAiS.xYWtC :2013/06/01(土) 23:52:38.69 ID:+j7WNh9Vo
淫魔「楽しかったですよ~。色々連れて行ってくれましたし。騎士さん面白いじゃないですかぁ」
騎士「…………?」
淫魔「覚えてます? 初めてお船に乗った時、酔って大変でしたよね~、騎士さんってば」
騎士「昔から船は苦手だったんだ。水に浮かんでいる理屈が分からん」
淫魔「考えすぎだと思いますけど。それを言ったら、何で『指』を五本も動かせるのかも分からないじゃないですか~」
騎士「……なるほど、確かに不思議だ」
淫魔「ね~? 考え方次第ですよ、何でも。さて、ご馳走様でした~」
騎士「…………」
考え方、次第。
もしも、彼女へ薬を与える道を選べば、彼女は全てを忘れる。
そして、騎士の心臓もとうとうもたないだろう。
命がひとつだけ失われ、ひとつだけ残る。
でも――――そのかけがえのない『ひとつ』を、残せる選択肢が、今ある。
彼女は、決して……不治の病などでは、無いのだから。
騎士「……食器を下げてくる。さぁ、眠れ。……ほら」
食器と盆を重ねてサイドテーブルに置き、彼女の背中に手を回してゆっくりと横たえる。
そして、ゆっくりとその頬を撫でてから、毛羽立った毛布をかける。
騎士の顔は、全ての重荷を振り払ったかのように、穏やかに緩んでいた。
184 : ◆1UOAiS.xYWtC :2013/06/01(土) 23:53:37.94 ID:+j7WNh9Vo
一週間後の夜、騎士は、眠っている淫魔の部屋に忍び入った。
灯りは提げていない。
部屋着の上にゆったりとしたガウンを羽織っただけの姿で、彼女へ近づく。
淫魔「……騎士さん? どうしたん……です、か?」
炎を潜り抜けても動じる事のなかった眠りが、呆気なく覚めた。
声ははっきりしていたが、彼女は起き上がらない。
自分で起き上がる事が、できないからだ。
もう、その声に独特の気の抜けるような間延びは無かった。
喉の奥までひび割れてしまったように、眠気を誘うあの韻律はもう無い。
横たわる彼女の頭側へと近寄ると、頭を撫でてから、水場の鳥のように体を前に倒す。
ようやく触れた彼女の唇は、潤いさえなく、かさかさに荒れていて、冷たかった。
それでも――――柔らかかった。
淫魔「んっ……」
唇を離したとき、彼女の身体が揺れた。
漏れ出す艶めいた声には、僅かな力が籠っていた。
淫魔「騎士、さ、ん……遅い、です」
騎士「遅れてはいないさ」
そう。
手遅れではない。
淫魔「私を、お嫁さんにして……くれるん、ですか?」
騎士「……ああ」
185 : ◆1UOAiS.xYWtC :2013/06/01(土) 23:54:36.23 ID:+j7WNh9Vo
彼女の身体を覆い隠していた毛布を取り去る。
一枚の薄衣の中で、彼女の体からは温もりが消えかけていた。
淫魔「覚えて、ます?」
騎士「ああ。覚えているよ」
それだけのやり取りで、全てが通じた。
思い起こすのは一年と半前、ある町で聞いた誓いの詞。
淫魔「健やかなる時も、病める、時も」
騎士「……死が二人を分かつまで」
再び、唇を求める。
かさかさに乾いてひび割れた唇は、水音さえも奏でてはくれない。
唾液さえも、もはや滲み出さなくなってしまっていた。
彼女の腕が震えながら持ち上がり、騎士の頬に触れる。
騎士の手も、彼女の肌に触れる。
暗闇の中で暖め合い、『その時』を迎えるために、空白を埋めるように、互いの体を触れた。
互いの体が、微かに汗を滲ませた頃。
騎士は、最後の願いとともに、彼女へ別れを告げた。
――――もう、私は何もいらない。
――――私の存在の全てを、この世界からなくそう。
――――でも、一つだけ、願う事を許してもらえるのなら――――
186 : ◆1UOAiS.xYWtC :2013/06/01(土) 23:55:15.20 ID:+j7WNh9Vo
数日が過ぎて、人々がその家にやってきた。
姿を見せない二人を怪訝に思い、貸主と役人が、ノックをしてから入った。
暖炉には焼け残った薪が入ったままだが、不思議な程、片付いていた。
戸棚に収められた食器には埃一つない。
二階に上がると、役人が不思議なものを見つけた。
片方のベッドはぴっしりと整えられているが、その上に一振りの長剣と紋章入りのマントがあった。
もう一つの寝室に入ると、乱れたシーツの中ほどに、ぽつりと小さな血の跡がある。
女物の寝巻が一着、男物の寝巻とガウンが一着。
それだけだ。
他には、何一つ残っていない。
ここに住んでいた誰かがいて、そして、いなくなっていた。
誰一人として二人の行方を知る者はない。
全く忽然と、あの奇妙な男女は消えてしまった。
187 : ◆1UOAiS.xYWtC :2013/06/01(土) 23:56:12.51 ID:+j7WNh9Vo
それから、千と数百年の時が経ち、魔界の一角、『淫魔』達の住まう国の最も栄えた街。
一軒の書店がある。
店内には、いくつもの『物語』を記した本があり、彼女らの王の城、その書庫にさえ引けを取らない。
入り口に面したカウンターに、一人の『淫魔』が坐して、広げた本に目を落としている。
年経て落ち着いたふうに見えるが――――その佇まいは、変わっていない。
ゆるやかに巻いた髪も、瑞々しく豊満な体も、しなやかに伸びる尻尾も。
もう、彼女の心には「夫」の記憶はない。
六年の時を過ごしたあの騎士の顔も、声も、共にいた日々も、覚えてはいない。
何故あの町にいたのかも当然、覚えてなどいない。
不思議に充実した魔力を使って、魔界へ戻る事はたやすい事だった。
カウンターの上には、一輪差しの花が活けてある。
青空のように鮮やかな花が、胸を張って、彼女の横顔を見つめている。
千数百年前、人間界のとある家で目が覚めた朝に、枕元に置かれていたものだ。
その花は、千年の時を経ても、萎れも枯れもしない。
ある時は店を彩り、ある時は彼女の髪を飾った。
星形の花弁を見る度に、どこかからやって来る温もりを彼女は覚える。
いつも彼女の側にあり、ずっとこの書店と、その主とともにある。
――――――その花の名は、『ワスレナグサ』といった。
188 : ◆1UOAiS.xYWtC :2013/06/01(土) 23:57:23.15 ID:+j7WNh9Vo
書店主「ふわぁ~……眠いわ。とても眠い……あぁ、いい天気ねぇ」
???「……外、雨だけど? お母さん。そういえば、昨日……国王陛下が来たんだって?」
店内にはもう一人、年若い「淫魔」の姿があり、きびきびと書架の整理をしていた。
巻き毛と体つきは似ているが、顔立ちはむしろ鋭くしゃっきりとして見える。
そして彼女は、カウンターにいる店主を『母』と呼んだ。
書店主「ええ、そうよ。もう一休みしたら~?」
書店主娘「うん、もうちょっと。……この辺掃除した方がいいよ、お母さん。埃がひどいよ」
『ワスレナグサ』の忘れ形見は、立派な『淫魔』になった。
あの人間界の朝に受け止めていた『種』が、彼女だった。
切れ長の隙無い瞳は、少なくとも『母親』には似ていない。
産み育てる事に、不思議な事など感じなかった。
母も祖母も曾祖母も、いつの間にか子を宿し、産み、そうやって血を繋いできたからだ。
それでも彼女は、『娘』を見る度に、どこか優しくて暖かく、懐かしい気分になれる。
覚えてはいないはずの、懐かしい『誰か』の面影を確かめられる。
忘れてしまった『思い出』は、『娘』に生まれ変わってくれた。
書店主「……そういえば、『コーヒー』にミルクと砂糖を入れたら、美味しいかしら~?」
書店主娘「あ。それ、いけるんじゃない? 試そうよ。私、苦くて飲めないんだよね、あれ」
書店主「それじゃ、淹れてくるわね~」
一輪の花に込められた願いは、今もなお、叶い続けている。
健やかなる時も病める時も、死が二人を分かち、たとえ忘却の谷に落ちたとしても、
そこに咲いた花は、決して枯れない。
それは、ひとりの騎士と、ひとりの淫魔の物語。
『ふたり』は、『ふたり』と『一輪』になった。
完
189 : ◆1UOAiS.xYWtC :2013/06/01(土) 23:58:28.42 ID:+j7WNh9Vo
短編、投下終了です
感想などいただけると幸いです
それでは、おやすみなさいー
190 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします :2013/06/02(日) 00:01:08.04 ID:9wKUZ7Nxo
ハッピーエンドが好き
191 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします :2013/06/02(日) 00:07:44.87 ID:FW7PG6PPo
>>1乙!
とっても素敵なお話だった
192 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします :2013/06/02(日) 01:13:26.13 ID:e4i+m2/n0
乙
切なくも暖かいお話でしたね
193 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします :2013/06/02(日) 01:30:09.35 ID:1qTQfebDO
ただでさえ寝れなくて困ってるのに余計眠れなくなった
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魔法使い「勇者がどうして『雷』を使えるか、知ってる?」
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