未解決事件で眠れなくなろうぜ
Part5


143 :◆2u6a8AgQtUey :2015/02/03(火)01:36:50 ID:l9n
迷宮入り【田畑作之介ちゃん連れ去り事件】
1978年3月3日16時半頃、大阪市住之江区で発生した轢き逃げ連れ去り事件。 被害者は現場近くに住む「田畑作之介ちゃん」当時3歳。近所に住むA君(5歳)と、近所の道路付近で遊んでいたところを、走ってきた車にはねらた。
はねた車から出てきた中年男は、『どこの子やろ?(救急車を待っている余裕はないので)自分の車でこの子を病院に連れて行く』と言い、作之介ちゃんを車に乗せて走り去った。
後のA君や目撃者の証言では、事故当時、作之介ちゃんは顔から血を流し重体。すぐにでも病院に運ばないと危険な状態であった。
一方、一緒に遊んでいたA君は、田畑さんの家に駆け込み、作之介ちゃんの母親に事故を知らせた。
知らせを聞いた母親は、A君と急ぎ現場に戻るも、そこには犯人の車も作之介ちゃんも見当たらない。犯人の残した言葉から、近隣の病院に問い合わせをするも、
どの病院に問い合わせても作之介ちゃんが運び込まれた形跡はない。
4日になっても、作之介ちゃんが病院などで手当てを受けた形跡がないことから、警察は誘拐容疑事件とみて、住吉署に合同捜査本部を設置。
目撃者の証言から犯人は「中年の男」と断定。モンタージュ写真づくりなど本格的な捜査を始めた。
しかし、その後も作之介ちゃんの行方はわからず、1983年3月3日午前0時に、業務上過失致傷、略取誘拐罪など5年の時効が成立した。
なお、上記は作之介ちゃんが生きていることを前提にした容疑になっているが、事故当時の状況から考えて、生存の可能性は極めて低いと言わざるをえない。
もし息絶え絶えの被害者を車に乗せ、人目に付かない場所に遺棄し、死なせたのであれば、殺人罪が適用されるが、当時の刑事訴訟法では、殺人罪にも15年の公訴時効があり、1993年に時効が成立している事になる。
目撃証言
夕方の人通りも多い時間帯だった事もあり、この事件にはA君の他に、 近くを自転車で通りかかった女性教師、少し離れた建築現場にいた作業員達など、大人の目撃者も多くいた。
彼らによると、犯人と車の特徴は以下の通りである。
・40歳くらいの男
・スーツ姿ではない
・車の色は白
・車種はカローラ?
・南の方へ走り去った
また、車が作之介ちゃんをはねた後、停止するまで数十メートルも走っていたという証言も出た。
現場に急ブレーキを踏んだ痕がないという現場検証結果からも、犯人の前方不注意が事故原因であった可能性が窺える。
目撃証言から数々のことが判明したが、肝心のプレートナンバーの判明までには至らなかった。 Nシステムもなく防犯カメラも未整備の時代。車を特定する事は出来なかった。

145 :名無しさん@おーぷん :2015/02/03(火)01:41:13 ID:CdU
これは眠れなくなるな

149 :◆2u6a8AgQtUey :2015/02/03(火)01:50:18 ID:l9n
不気味過ぎる【北関東連続幼女誘拐殺人事件】
1979年以降、4件の女児誘拐殺人事件と関連が疑われる1件の女児連れ去り事件(失踪事件)が栃木県と群馬県の県境、
半径20キロ以内で発生しており、これら5事件まとめて「北関東連続幼女誘拐殺人事件」とされている。
また、5つの事件はいずれも現在の群馬県太田市及び栃木県足利市のどちらかで発生しているが、
そのうち、足利市内を流れる渡良瀬川周辺で遺体が発見された3事件は「足利連続幼女誘拐殺人事件」ともされている。
これら事件の特徴として、以下の点が共通点としてあげられている。
被害に遭ったのが4歳から8歳までの児童である点
3事件においてパチンコ店が行方不明の現場になっている点
3事件において河川敷で死体遺棄されている点
4事件において金曜、土曜、日曜および祝日に事件が発生している点
また、これら5事件全てが未解決事件となっており、犯人特定・犯人逮捕には至っていない。
日本テレビの報道特別番組『ACTION』や『バンキシャ!』で、記者の清水潔が「4件の誘拐殺人事件に加え、
1996年に起きた太田市の女児連れ去り事件は連続事件なのではないか」とする観点から2007年1月から報道を続けている。
同番組では、足利事件の被疑者とされていた菅家利和が1991年に逮捕されて身柄拘束中であるにも拘らず、
その5年後に類似事件である 「太田市パチンコ店女児連れ去り事件」が発生したことから、「足利事件の解決」が不自然であるとし逮捕された菅家は冤罪の可能性があるとしてキャンペーン報道を展開。
DNA型再鑑定の必要性を訴え続け、再鑑定が実施されたところ真犯人と菅家のDNA型は一致せず釈放となった。2010年3月に再審で菅家の無罪が確定している。
2010年、足利事件の検証を行った最高検察庁は、足利事件を含む北関東で起きた事件が同一犯における連続事件の可能性を認めた。
犯人が逮捕されない今、再犯の可能性が危惧されている。

150 :◆2u6a8AgQtUey :2015/02/03(火)02:45:56 ID:l9n
【日本航空123便墜落事故】※長編注意
1985年(昭和60年)8月12日月曜日18時56分に、東京(羽田)発大阪(伊丹)行同社定期123便ボーイング747SR-46(ジャンボジェット、機体記号JA8119)が、
群馬県多野郡上野村の高天原山の尾根(通称「御巣鷹の尾根」)に墜落した航空事故である。
運輸省航空事故調査委員会による事故調査報告書[1]によると、乗員乗客524名のうち死亡者数は520名、生存者(負傷者)は4名であった。
死者数は日本国内で発生した航空機事故では2014年4月の時点で最多であり、単独機の航空事故でも世界最多である。
1987年(昭和62年)6月19日に航空事故調査委員会が公表した報告書では、同機が1978年(昭和53年)6月2日に伊丹空港で起こしたしりもち着陸事故(後述)後の、
ボーイング社の修理が不適切だったことによる圧力隔壁の破損が事故原因とされている。
これをもって公式な原因調査は終了している。航空関係者や遺族などの一部からは再調査を求める声があるが[誰によって?]、現在に至るまで行われていない。
続きあり

151 :◆2u6a8AgQtUey :2015/02/03(火)02:55:50 ID:l9n
>>150続き
[8月12日月曜日18時24分(離陸から12分後)緊急事態発生]
相模湾上空を巡航高度の24,000ft (7,200m) へ向け上昇中、23,900ftを通過したところで緊急事態が発生する。
突然の衝撃音と共に123便の垂直尾翼は垂直安定板の下半分のみを残して破壊され、その際ハイドロプレッシャー(油圧操縦)システムの4系統全てに損傷が及んだ結果、
油圧を使用したエレベーター(昇降舵)やエルロン(補助翼)の操舵が不可能になってしまう。
フゴイドやダッチロールを起こした機体は迷走するとともに上昇、下降を繰り返すものの、
クルーの操縦により17分間は20,000ft (6,000m) 以上で飛行を続ける。
※フゴイド運動図解
[写真を見る]
※ダッチロール図解
[写真を見る]
18時40分頃、空気抵抗を利用する降下手段としてランディング・ギア(車輪などの降着装置)を降ろした後、
富士山東麓を北上し、山梨県大月市上空で急な右旋回をしながら、高度22,000ftから6,000ftへと一気に15,400ft (4,600m) も降下する。
その後、機体は羽田方面に向かうものの、埼玉県上空で左旋回し、群馬県南西部の山岳地帯へと向かい始める。
123便は衝撃音発生から墜落までの間、破片を落としながら飛行していたようで、相模湾と墜落現場だけではなく、東京都西多摩郡奥多摩町日原でも機体の破片が発見されている。
その奥多摩町で撮影された写真によって、123便が垂直尾翼の大部分を失った状態で飛行していたことが初めて明らかとなった。
続きあり

154 :◆2u6a8AgQtUey :2015/02/03(火)03:11:01 ID:l9n
>>151続き
[コックピットと機体の状況]
衝撃音がした直後、高濱機長は航空管制官への無線交信で羽田空港への引き返しを要求している。
その際、管制官の「右と左のどちらへ旋回するか?」という問いに対し機長は、羽田空港へは遠回りになる「右旋回」を要求している。
このことは「海山論争」として多くの議論を呼ぶ。
コックピットボイスレコーダーの解析によると、異常発生から墜落まで、操作不能状態の操縦桿やペダルなど油圧系の操作は佐々木副操縦士、
進路の巡視・計器類などの監視・パネルの操作・管制官との交信・クルーへの指示などは高濱機長、エンジンの出力調整・緊急時の電動によるフラップとギアダウン、
日航との社内無線交信、さらに副操縦士の補助は福田航空機関士がしていたと推測されている。
異常発生直後から油圧操作の効果がほとんどないにもかかわらず繰り返し操縦桿での操舵を試みるなど、クルーは操縦不能になった理由を最後まで把握できていなかった模様である。
尾翼部分はコックピットからは目視できないため、パイロットは油圧系統全滅を認識しながらも油圧での操縦を試みている。
ボイスレコーダーには18時24分12秒から18時56分28秒までの32分16秒間の音声が残っている。
近年、オリジナルに近い音声で元同僚パイロット協力のもと解析した結果、不明だった部分のうち16箇所が明らかになった。
初めに残っていた音声は「最初の衝撃音」直前の客室とコックピットとのやり取りだった。 本来当時のコックピット・ボイスレコーダーは30分の1/4インチ・エンドレステープレコーダー(始点と終点のない輪になったテープを巻いて用いるもの)であったが、
30分を超える録音が残っているのは、たまたまテープに余分があったためである。
18時24分35秒頃、ボイスレコーダーに何らかの衝撃音が録音されている。衝撃音直後に機長の「まずい、なんか爆発したぞ」という発言が記録されている。
直後にオートパイロットが解除され機体(エンジン、ランディング・ギア等の表示)の点検が行われ、
4つのエンジン、ランディング・ギア等に異常がなかったが、航空機関士が「ハイドロプレッシャー(油圧機器の作動油の圧力)を見ませんか」と提案する。
25分、機長はスコーク77を発信し東京航空交通管制部に羽田へ引き返すことを要求した。
無線交信の後、機長が副操縦士に対し「バンク(傾き)そんなにとるなマニュアル(手動操縦)だから」「(バンクを)戻せ」と指示する声が記録されている。
しかし、副操縦士は「戻らない」と返答した。その際、航空機関士が油圧が異常に低下していることに気づいた。
26分、機長は副操縦士に「ディセンド(降下)」と指示するが、直後に機長の「なんで降下しないんだ?」とも聞き取れる発言が録音されている。
27分、異常発生からわずか3分足らずで全ての油圧の喪失を示したとみられる「ハイドロプレッシャーオールロス」という航空機関士の音声が記録されている。

155 :◆2u6a8AgQtUey :2015/02/03(火)03:17:43 ID:l9n
>>154続き
同じ頃、客室の気圧が減少していることを示す警報音が鳴っているため、とにかく低空へ降下しようとした。
しかし、ほとんどコントロールができない機体にはフゴイド運動やダッチロールが生じ、ピッチングとヨーイング、ローリングを繰り返した。
※ピッチング、ヨーイング、ローリング図解
[写真を見る]
そのため、墜落の瞬間まで頻繁に「あたま(機首)下げろ」「あたま上げろ」という言葉が記録されている。
31分頃、航空機関士に対し客室乗務員から客室の収納スペースが破損したと報告が入る。
33分、航空機関士が緊急降下(エマージェンシー・ディセンド)と同時に酸素マスク着用を提案、35分、羽田空港にある日航のオペレーションセンターとの交信では航空機関士が
「R5のドア(機体右側最後部のドア)がブロークン(破損)しました」と連絡している。
37分、機長がディセンド(降下)を指示するが機首は1,000m余りの上昇や降下を繰り返すなど、不安定な飛行を続けた。
38分頃、これを回避するためにランディング・ギアを降ろそうとするが、油圧喪失のため降ろせなかった。40分、パイロットはランディング・ギアの自重を利用してギアを出すバックアップシステムを用いてこれを降ろした。
この操作によって機体は右に大半径で旋回しながら降下し、同時にロール軸の振幅が縮小して多少安定した。
46分、高濱機長の「これはだめかも分からんね」との発言が記録されている。やがて機体は山岳地帯上空へと迷走していき、47分頃からは彼らの中でも会話が頻繁になり、焦りが見え始めていた。
右、左との方向転換が繰り返し指示される中で、操縦している副操縦士に対して機長が「山にぶつかるぞ」と叫ぶなど、緊迫した会話が数回記録されている。
この時機体は6,000ft (1,800m) 前後をさまよっていた。48分頃には航空機関士が、操縦する副操縦士に「がんばれー」と励ますとともに、たびたび副操縦士の補助をしていた様子が記録されている。
この頃からエンジン出力(パワー)の強弱で高度を変化させる操縦を行い始めたと思われる。機長の機首下げの指示に対して副操縦士は「今舵いっぱい」と返答している。
49分頃、機首が39度に上がり、速度は108kt (200km/h) まで落ちて失速警報装置が作動した。この頃から機体の安定感が崩れ、何度も機首の上げ下げを繰り返した。
この間、機長が「あーダメだ。終わった。ストール(失速する)」と発言するまでに追い詰められながらも、諦めることなく「マックパワー(エンジン出力全開)」などと指示し続ける音声が残っている。
50分、「スピードが出てます」と困惑する副操縦士に機長が「どーんといこうや」と励ます音声が残っている。機長の「頭下げろ、がんばれ」との励ましに対して副操縦士は「今舵いっぱいです」と叫んでいる。
この頃速度が頻繁に変化し、不安定な飛行が続いていたためか、副操縦士が速度に関して頻繁に報告をしている。51分、依然続くフゴイド運動を抑えるために電動でフラップが出され、53分頃から機体が安定し始めた。
続きあり

156 :◆2u6a8AgQtUey :2015/02/03(火)03:21:02 ID:l9n
>>155続き
54分、クルーは現在地を見失い、航空機関士が羽田に現在地を尋ね、埼玉県熊谷市から25マイル西の地点であると告げられる。
その間、しばらく安定していた機体の機首が再び上がり、速度が180kt (330km/h) まで落ちた。
出力と操縦桿の操作で機首下げを試みたが機首は下がらなかった。
55分01秒、機長は副操縦士にフラップを下げられるか尋ね、副操縦士は「はいフラップ-10(今10度下がっているという意味)」と返答し、フラップを出し機体を水平に戻そうとした。
しかし55分12秒、フラップを下げたとたん、南西風にあおられて機体は右にそれながら急降下し始める。55分15秒から機長は機首上げを指示。
43秒、機長が「フラップ止めな」と叫ぶまでフラップは最終的に25度まで下がり続けた。
45秒、「あーっ」という叫び声が記録されている。50秒頃、機長の「フラップみんなでくっついてちゃ駄目だ」との言葉に混じって副操縦士が「フラップアップフラップアップ」と叫び、すぐさまフラップを引き上げたがさらに降下率が上がった。
この頃高度は10000ft (3000m) を切っていた。56分00秒頃、機長がパワーとフラップを上げるよう指示するが航空機関士が「上げてます」と返答する。07秒頃には機首は36度も下がり、ロール角も最大80度を超えた。
機長は最後まで「あたま上げろー、パワー」と叫ぶ。
続きあり

157 :◆2u6a8AgQtUey :2015/02/03(火)03:28:30 ID:l9n
>>156続き
クルーの努力も空しくJAL123便は降下し続け、18時56分14秒に対地接近警報装置が作動。同17秒頃、機体はわずかに上昇し始めたが、18時56分23秒、右主翼と機体後部が樹木と接触した。
このとき、機首を上げるためエンジン出力を上げたことと、急降下したことで、速度は346kt (640km/h) に達していた。
接触後、水切りのように一旦上昇したものの、機体は大きく機首を下げ右に傾いた。
26秒、右主翼が地面をえぐり、同時に機体の分解が始まった(垂直・水平尾翼、右主翼の脱落)。
28秒には機体後部が分離。機体は機首を下げながら右側に回転してゆき、18時56分30秒、高天原山の斜面に前のめりに反転するように衝突、墜落した。
18時56分28秒まで録音され続けていたボイスレコーダーには23秒と26秒頃に衝撃音が残されていた。23秒の衝撃音の直前には、機長の「あーダメだ…」もしくは「もうダメだ…」とも聞き取れる叫び声も記録されていた。
ボイスレコーダーに録音されていた音声は、後に活字で公表されたが、この叫び声は判読不能とされていた。
墜落時の衝撃によって、機体前部から主翼付近の構造体は原形をとどめないほど大破したほか、両主翼も離断し、それぞれ炎上した。
一方、28秒に分離した客室後部と尾翼は、山の稜線を超えて斜面を滑落していった。客室後部は尾根への激突を免れて、斜面に平行に近い角度で着地し、
樹木をなぎ倒しながら尾根の斜面を滑落して時間をかけて減速した。このため最大の衝撃が小さく、それ以外の部位と比較して軽度の損傷にとどまり火災も発生しなかった。
これらの要因によって、客室後部の座席に座っていた女性4名は奇蹟的に生還できた。
だが、その他の者は即死もしくはそれに近い状況であった。
即死した者も多かったものの、墜落直後の時点では客室後部付近を中心にかなりの数の乗客が生存しており、翌朝に捜索隊が到着するまでの間に次々と息を引き取ったという生存者の証言がある。
生存者の証言通り多数の生存者がいたのか、事故のショックによる意識の混濁や幻聴によるものなのかは不明。
続きあり

158 :名無しさん@おーぷん :2015/02/03(火)03:31:49 ID:e7F
今来た
予想以上に不気味で怖いじゃねぇか…

161 :◆2u6a8AgQtUey :2015/02/03(火)03:58:27 ID:l9n
>>157続き
墜落から約20分後の19時15分頃、アメリカ空軍のC-130輸送機が墜落現場を発見し通報。
アメリカ陸軍救難ヘリを現場へ誘導したが、日本側の要請により救助開始寸前に中止を命じられる。
19時21分頃、航空自衛隊のF-4戦闘機の2機も墜落現場の火災を発見して通報し、
墜落から約2時間後の20時42分に百里基地救難隊のKV-107ヘリコプターが現場上空に到着した。
しかし、本格的な夜間救難装備が無いことなどを理由に、事故当夜には救難員が降下しての救助活動は行われなかった。
墜落からおよそ14時間が過ぎた翌朝8時30分頃に、長野県警機動隊員2名がヘリコプターから現場付近に降下し、その後陸上自衛隊第1空挺団員が現場に降下して救助活動が開始された。
実際に救助活動が行われたのが墜落から14時間経過した後であったことから、
救難体制の不備や、緊急時における縦割り行政の問題点が指摘された。
続きあり

164 :◆2u6a8AgQtUey :2015/02/03(火)04:12:02 ID:l9n
長編終わり、お疲れ
何故未解決事件でもないこの事故を出したかというと、実は様々な憶測や陰謀論があるんだよ。ただ余計長くなりそうなんで、事故の概要だけにしとくから興味があればクグッてね

174 :◆2u6a8AgQtUey :2015/02/05(木)22:32:59 ID:RK0
久しぶりの更新いきます
【赤城神社主婦失踪事件】
1998年5月3日、千葉県白井市の主婦志塚法子さん(当時48歳)は、
家族(夫・娘・孫・叔父・叔母・義母)と群馬県宮城村三夜沢(現前橋市三夜沢町)
の赤城神社へツツジ見物に訪れていた。
 あいにくの雨のため、神社へ行く夫と叔父以外は駐車場に停めた車の中で待つことに。
しかししばらくして法子さんは「折角だから、賽銭をあげてくる」と、
財布からお賽銭用に101円だけを取り出し、神社への参道を登っていった。
その時の格好は赤い傘を差し、ピンクのシャツに黒のスカートという目立つもの。
娘は駐車場から法子さんが境内とは別方向への場所でただずむ姿を目にしている。
これが家族が見た法子さんの最後の姿となってしまった…
 戻らない法子さんを心配した家族はあたりを捜すも見つからず、警察へ通報。
10日間で延べ100人あまりで付近一帯を捜索するも見つからなかった…
参道は山道ながらもよく整備され、崖などの危険な場所や道に迷う箇所もない。
また、ゴールデンウィーク中で神社には沢山の人が訪れていたが、
不審な人物や物音を聞いた人はいなかった。
群馬県警にも20件ほどの情報提供があったが、発見に結びつく有力なものはないという。
 失踪から7か月後、失踪当日の同じ頃の赤城神社で偶然撮影されたホームビデオが
撮影者によってテレビ局に提供された。そこには法子さんとおぼしき人物が、
何者かに傘を差しだすような姿が小さく写りこんでいた。
しかしその人物からの申し出が出ることはなかった。。
 また失踪後、数回無言電話が自宅にかかってきている。
その局番は「大阪」と「米子」であった。
家族は必死に法子さんの行方を捜し、テレビ番組「奇跡の扉 TVのチカラ」等にも
出演したものの、解決にはいたらなかった。
 失踪から10年後の2008年には、群馬県警が顔写真等を掲載したビラを500枚配布。
情報提供を呼びかけた。
 尚、2008年6月、法子さんの失踪宣告がなされている。

175 :名無しさん@おーぷん :2015/02/06(金)06:24:13 ID:EC7
ひぇ〜

176 :名無しさん@おーぷん :2015/02/07(土)18:18:09 ID:jfS
ふぅ

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