ここでは、まとめの怖い系に掲載されている『師匠シリーズ』の続きの連載や、古い作品でも、抜けやpixivにしか掲載されていない等の理由でまとめられていない話を掲載して行きます
ウニさん・龍さん両氏の許可は得ています
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(1)話の途中で感想等が挟まると非常に読み難くなるので、1話1話が終わる迄、書き込みはご遠慮下さい
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それでは皆さん、ぞわぞわしつつ、深淵を覗いて深淵からも覗かれましょう!!
302: 医者の話 ◆LaKVRye0d.:2017/3/11(土) 23:44:37 ID:.b2ry9Rk3M
『医者の話』
師匠から聞いた話だ。
大学2回生の夏。
僕はオカルト道の師匠である加奈子さんに連れられて、ある豪邸の前に来ていた。
「医者に会いに行く」
と言っていたので、バイトをしている興信所とズブズブに繋がっている、松崎という闇医者(闇医者の定義はよく知らないが、僕のなかでは完全にそうだった)のところに行くのかと思っていた。
しかし、僕の運転する自転車の後輪に立ち乗りをして、あっちに行け、こっちに行けという指示を出している師匠に従っていると、だんだんと高級住宅街のほうへ向かうではないか。
もちろん松崎医師の診療所の方角とは違う。
そう思っていると、ふとつい先日あった、小人を見る人が増えている、という謎を追っていたときの出来事を思い出した。
大学病院に潜入したとき、いつも迷惑をかけている看護婦の野村さんがこんなことを言っていた。
『そう言えばあなた、最近また検査をさぼってるでしょう。真下先生も心配してるんだから、ちゃんと受診しなさい』
あのときも気になっていたが、詳しく訊こうとしてもはぐらかされて、師匠は答えてくれなかった。
自分の体のことを。
なにか持病があって、病院にかかっているのだろうか?
いつも必要以上に元気で、エネルギーに満ち溢れている加奈子さんが、いったいなんの病気なんだろう。
確かに食生活は、生活費困窮問題もあり、いいとは言えないが、そんなものをものともしない日ごろの健康優良ぶりを見ていると、まあ、心配するようなことではないか、と思ってしまう。
しかし、ときに垣間見る、いつもと違う横顔。精気がない…… いや、精気が失われていくような、妖しい魅力を秘めた横顔を思い出すたび、小さな不安が胸のなかで育っているのを感じるのだった。
303: 医者の話 ◆LaKVRye0d.:2017/3/11(土) 23:46:39 ID:igNubrZ3Ko
「ここだ」
師匠の言葉に、自転車のブレーキをかける。
閑静な住宅街で、自分ではほとんど通ることがない。大きな家が並んでいて、あの辺りにはお金持ちが住んでいる、という印象しかない。
目の前に延びる、高い石塀に取り付けられた表札を見ると、『鹿田』とある。
「鹿田実(シカタ ミノル)って言って、去年退官した、うちの大学の元医学部教授だよ。医学部長だった人だ」
そう言えば、そんな名前を聞いたことがあるような気がする。
というか、師匠はそんな人とも面識があるのか?
うちの大学の医学部は、近隣の県の医学界では非常に影響力を持っていて、うちの大学から医師の派遣を受けられるかどうかで、その他多くの病院の命運が決まる、というのを聞いたことがある。
当然、各地域の医学界では、うちの大学派閥が幅を利かせていて、他の大学の医学部でも、トップ人事に関しては常にうちの大学の出身者かどうかが考慮される、という話だった。
医学部長といえば、医学部のトップだ。大学付属病院の院長とどっちが偉いのかは知らないが、とにかく、このあたり一帯の医学界では頂点とも言える位置にいた人、ということなのだろう。
師匠はどうしたらそんなに、と唖然としてしまうほど、他学部の教授、助教授に顔が利く。人たらし、という言葉があるが、まさにそれを地で行く人だった。
この僕にしたところで、初めて会ったときから、ずっとたらされている。
304: 医者の話 ◆LaKVRye0d.:2017/3/11(土) 23:52:08 ID:igNubrZ3Ko
「あれー? 洗濯物出てないなあ。約束しといたのに。いるかな」
師匠は目深にかぶっていたキャップの先を人差し指で上げて、眩しそうに豪邸の2階を眺めた。今日は日射しのとても強い、いい天気だった。
玄関の門の向こうに広い庭が見えていて、鮮やかな色の芝生が敷き詰められている。
医者は儲かるんだな、と至極つまらない感想が頭に浮かんだ。
チャイムを鳴らすと、インターホンから低い声が聞こえて来た。
『入りなさい』
ガチャン、という音がして、重そうな門の鍵が開いた。遠隔操作できるのか。
2枚になっている格子戸のような門の片方を押して、敷地のなかに入った。
芝生の間に延びる道を通って、本玄関までたどり着くと、なかからドアが開いた。
「久しぶりだな」
背の高い老人が現われ、響くような低い声で師匠に話しかけてきた。
これが鹿田教授か。いや、もう退官しているのだから、鹿田博士というべきかも知れない。
「ご無沙汰していました」
師匠は深々と頭を下げた。まるで怒られているようだった。
「君はだれかね」
え、僕ですか。
うろたえながら、金魚のフンです、と言おうとして思いとどまり、結局「後輩です」と無難なことを言った。
博士は小さく鼻息を吐いたかと思うと、師匠と僕とを見比べてから、「よかろう」と言った。
「来たまえ」
そうして、僕たちは豪邸のなかに招き入れられた。
応接室に通されて、しばらく待っていると、家政婦らしい若い女性が飲みものを持ってきた。僕と師匠は2人ともコーヒーを頼んだ。なかなかの味だった。
305: 医者の話 ◆LaKVRye0d.:2017/3/11(土) 23:55:46 ID:.b2ry9Rk3M
コーヒーを飲み終わるころ、鹿田博士がようやく応接室に入ってきた。
「待たせてすまんな。一区切りをつけていた」
解剖か実験か、なにかそんなことをしていたのだろうか、と思ったが、服装は白衣ではなく、さっきと同じ白い開襟シャツとズボンという格好だった。ということは、書き物かなにかだろう。
「野村君から、話は聞いているぞ。検査に来ていないそうだな」
鹿田博士がそう言いながら僕らの向いのソファに腰掛けると、また家政婦の女性が応接室に入ってきて、博士の前にカップを置いていった。紅茶だった。
「信用ができない」
師匠は握った右の拳を、左の手のひらで包んでそう言った。
「どういうことだ」
「真下先生に、私の体をいじらせたくない」
師匠のその言葉に僕はドキリとする。私の体、という言葉にだ。
「真下君は私の良き教え子だ」
鹿田博士はカップを置いて、ソファに深く腰掛け直した。
「私だと思って、検査を受けなさい」
諭すような鹿田博士の言葉に、師匠は黙った。僕はその横で、いったいなんの話をしているのだろうか、とドキドキしていた。
鹿田博士は鷲鼻で、彫りの深い顔立ちをしている。その鋭い目で射竦められると、肉食獣に睨まれた小動物のような気持ちになってしまいそうだった。
物腰や口調は紳士的ではあったが、どこか威圧的な男だった。年齢相応に老人と呼ぶにはあまりに油断ならない、そんな雰囲気を持っていた。
師匠はそんな鹿田博士の視線を真っ向から受け止めて、口を開いた。
「私の主治医は、鹿田教授だけだ」
「そう言ってもらえるのは嬉しいが、私はもう一線を退いた身だ。日がな一日、好きな本を読んでいるだけの老人だよ」
「鹿田総合病院の理事長が、隠居職ですか」
「そうとも。入り婿に用意された最後の椅子だ。せいぜいゆっくり座らせてもらうとしよう」
「私の主治医は、それでも鹿田教授だけですよ。なぜなら、ほかの医者なら、私を病気だと診断しないからです」
306: 医者の話 ◆LaKVRye0d.:2017/3/11(土) 23:59:02 ID:.b2ry9Rk3M
「どういう意味かね」
「わかるでしょう」
師匠は緊張した面持ちで鹿田博士の顔を見つめた。
博士はため息をついて、僕のほうを見た。
「彼は知っているのかね」
「さあ。なにしろ鈍感なやつですから」
そんな話をされても、なんのことかさっぱりわからない。蚊帳の外に置かれて、気持ちが悪かった。
「どういうことですか」
「こういうことだよ」
僕の問い掛けに、師匠は短くそう言うと、テーブルの上にあった重そうなガラスの灰皿を掴んだ。そしてそれを振り上げた瞬間、鹿田博士が鋭い声を上げる。
「やめたまえ」
その声に師匠がぴたりと静止する。そして苦笑いを浮かべて、「冗談ですよ」と言って、振り上げた灰皿を下ろした。
そのやりとりの意味もわからない僕は、うろたえるばかりだった。
「検査は継続して受けなさい。これからも、できるだけの便宜は図るつもりだ」
博士は、便宜、という言葉を強調するように言った。
師匠にはわかる符牒なのだろう。しかし、師匠は首を振った。
「真下先生は信用できない」
「なぜそう思うのだ」
博士が問い掛けると、師匠は少し黙った。そしてしばらくして、まったく違うことを口にした。
「角南グループってのは、本当に力を持っているんですね。春にちょっとしたことがあって、いろいろ調べていたんですけど。本業の建設会社以外にも、物流や教育分野なんかにも、手を広げている。いわゆる地方財閥だ。ウソか本当か知りませんが、GHQから財閥解体指令を受けるリストから、最後の最後で漏れたとかなんとか…… とにかく、庶民には全体像の把握すら難しい大資本です。そのグループ企業のなかに、うちの医学部とは深い繋がりのある、ヤクモ製薬がありますね」
CMでよく耳にする名前だ。ヤクモ製薬とは、市内に本社を構える製薬会社だ。いわゆる全国企業ではないが、地元では有名な会社だった。
「ヤクモ製薬は、うちの大学の医学部の大スポンサーだ。どの研究室だって、ヤクモの出資や補助金なしではやっていけない。金だけじゃない。人の交流も含めて、ヤクモと医学部、そして大学病院は不可分の関係です。その関係は、近隣のほかの病院や研究機関、他大学の医学部のなかの派閥にも影響を与えています。医師会の構成にもね」
師匠の意味ありげな目つきに、鹿田博士はやれやれ、といった表情を浮かべる。
307: 医者の話 ◆LaKVRye0d.:2017/3/12(日) 00:01:34 ID:igNubrZ3Ko
「教授は東大医学部出身ですよね。うちでは外様だ。そして、鹿田総合病院を抱える、医療法人鹿鳴会グループの会長の娘婿として、大きな名声と力と金を持って、医学部内の権力闘争に勝った。これはヤクモ記念病院を筆頭に、大小たくさんの系列病院を持つ、医療法人ヤクモ会と、鹿鳴会の代理戦争だ。鹿田教授が医学部長の席についてから、うちの大学や大学病院も多少ヤクモとの距離を置きましたね。県外資本がかなり入ったと聞きました。それでも、ヤクモがうちの医学部の、『筆頭株主』だってことは揺るぎません。医学部のトップにヤクモの息がかかっていない、というのは、鹿田教授という特異な人物がいたからこそ生まれた、一時的な現象に過ぎない。そうでしょう?」
「……医学部の内情のことまで、よく調べたものだ」
「教授の退官後は、またヤクモとべったりの医学部長になりましたね。大学病院の院長も即交代でした。ここからはまた、ヤクモの一方的な巻き返しの時間です。さて、免疫病理学の権威だった鹿田教授の薫陶を受け、病理部長に登りつめた真下助教授……いえ、もう教授でしたね。その彼が、鹿田教授という後ろ盾を失った今、学内でどんな立場にいるか、ご存知ですか」
「なにが言いたいのだね」
「ヤクモにしっぽを振り始めるのに、十分な条件が揃ってるってことです」
「……彼は今も私の優れた教え子だ。医学部長の井坂君も、バランス感覚を持った人物だ。どこで訊き込んだのかわからないが、君は組織内のゴシップを真に受けすぎている」
「私の回りに、どうにも気に食わない動きをしているやつがいるんですよ。春にあった、ちょっとした事件で例の角南グループの角南家と関わりを持ってしまいましたが、その関連だと思っていたんですけどね。ヤクモ製薬が角南家の意向を受ける立場にある、とすると、その絵面がもう少し複雑になるんですよ」
鹿田博士は、淡々と語る師匠をじっと見つめている。
「私の『病気』のデータが、渡ってしまっている可能性があるってことです」
「そんなはずはない」
鹿田博士の静かな返答に、師匠は一瞬、悲しそうな表情を浮かべた。
「もうあそこは、あなたの城じゃないんです」
「……」
その言葉を吟味するように押し黙った博士は、やがてゆっくりと口を開いた。
308: 医者の話 ◆LaKVRye0d.:2017/3/12(日) 00:05:15 ID:.b2ry9Rk3M
「君の不安はわかった。そうならないようにしよう。データもこちらに完全に引き上げる。これからは、検査も大学病院へ行かなくていい。ここへ来たまえ。私が診る」
その言葉に、師匠は嬉しそうに頷いた。
「ありがとうございます」
鹿田博士はソファに背中を預けて、深く息をついた。
「君という患者と出会ってから、どのくらいになるかな。まだほんの子どもだったのに、今ではもう、私をやり込めるようになったか。この歳になると、時の流れの加速を感じざるを得ないよ。看護婦の野村君が、わけのわからないことをまくしたてながら、この手を無理やり引っ張って、引き合わせてくれたのが、私にはまるで昨日のことのようだ」
博士はじっと自分の手を見つめている。
細く長い指をしていた。雰囲気に飲まれていた僕には、その指を含む手のひら全体が、1つの芸術品のように見えた。
「教えてください、教授」
「私はもう教授ではないよ」
「名誉教授になったんじゃないんですか」
「そんな呼称に、たいした意味はない」
「とにかく、お聞かせください。次の衆院選は、来年ですよね」
「解散がなければ、再来年だ」
「あるでしょう。これでも新聞はよく読むんです。その来年にあるはずの衆院選には、角南家の御曹司が出るという噂を聞きました。2区で。それは医療法人ヤクモ会の現理事長、角南大輝のことですか」
「なぜ私に訊くのだ」
「教授は、医学科長だった時期に、県医師会の理事をしていたそうですね。大学からのお目付け役として、送り込まれていた。そして、大学を退官し、鹿田総合病院の理事長に就任した今、再び県医師会の理事の職についている。そして来年にはもう県医師会のトップの席に座る、という噂を聞きましたよ」
「そんな噂は初耳だな。理事にしても、めんどうな世話役を押し付けられただけだ。医学部長時代の横紙破りが、今になって色々祟ってきているのだ」
「どんなに謙遜しても、県医師会の理事長の座は、1つの権威です。それも強大な実体を伴った。……衆院選を来年に控え、医療法人を出身母体にした新人候補が、医療、福祉系の大票田である県医師会の事実上のトップに、挨拶をするのは当然でしょう」
「立場的には、仇敵とも言える間柄なのだがね」
「だからこそです。角南大輝は、2区の王にして首相候補とも言われる代議士のHに勝つために送り込まれる刺客だ、という噂です。県医師会は前回の選挙ではHの支援に回りました。その陰には、ヤクモ会が、つまり角南家の力が働いていたことは周知の事実です。その角南家が、今度は自ら候補を立ててきた。Hから県医師会を引き剥がすために、ドロドロの策謀が繰り広げられることは、想像に難くありません。どんな手でも使うでしょうね。たとえ仇敵に、塩を送ることになっても」
309: 医者の話 ◆LaKVRye0d.:2017/3/12(日) 00:08:13 ID:.b2ry9Rk3M
博士はやれやれ、というジェスチャーをしてため息をついた。
「女子三日会わざれば、即ち更に刮目して相待つべし、か。いっぱしのジャーナリスト気取りかね。私は、隠居した老人だよ。静かに本を読んでいたいだけの」
「これは私のカンです。ヤクモ会の角南大輝は、いえ、角南家はどこかキナ臭い。関わらないほうがいい。それをビンビン感じるんですよ」
博士はすく、と立ち上がった。
「さあ、もうおしゃべりは終わりだ。政治家である前に、私は医師だ。君の主治医だ。違うかね」
来なさい。
博士はそう言って、廊下の向こうへ着いてくるようにと、師匠を促した。
生まれついて、人に命令を与えることが体に染み付いたかのような、そんな威厳があった。
別室で検査をするらしい。
小一時間、応接室で1人待たされて、僕はなにがなんだかわからない不安に苛まれていた。
鹿田博士と一緒に戻ってきた師匠は、いつもと変わらない様子だったが、博士のほうの顔色は曇っているようにも見えた。
「待たせたな。帰ろうか」
そう言って帰り支度をする師匠をちらりと見てから、博士は僕に話しかけてきた。
「君は、彼女のパートナーかね」
パートナー?
その奥深い言葉の意味を図りかねて、答えられずにいると、博士は続けた。
「性交は控えたまえ」
はい?
今日一番の衝撃に、瞳孔が広がりそうになった。
「ちょ、ちょっとなに言ってんの教授。人を性病みたいに言わないでよ」
師匠が慌てた様子でまくしたてる。
「命に関わる、と言っているんだ」
真剣な表情で、博士は師匠をたしなめた。
「違うからな。そういう病気じゃないから」と師匠は早口で僕に言ったあと、「やめてよ教授。こいつ、そういうんじゃないし。弟みたいなやつなんだ」と身振り手振りで訴えた。
せいこうはひかえたまえ。
せいこうは。
せいこう。
せいこう。
……
そんなやりとりの横で、僕の頭のなかには、その言葉だけが何度もリフレインされていた。
310: 医者の話 ◆LaKVRye0d.:2017/3/12(日) 00:13:05 ID:igNubrZ3Ko
◆
「ちょっと、待ってください。加奈子さんって、エイ……」
人体の免疫機構にかかわる病名を言おうとして、口ごもった。
なんだか、はばかられて。
師匠の過去の話を聞いていた俺だったが、思わず口を挟んでしまった。それも中途半端に。
話の腰を折られた師匠は、回想に身が入り過ぎていたことに気がついたのか、恥ずかしそうに居住まいを正した。
「違うよ。本当に、そういう病気じゃなかった。というか、むしろ……」
師匠はそう言いかけて、言葉を見繕うような顔をした。
「むしろ、それを病気と呼べるかどうか疑問だね。本人自身が、ほかの医師ならそう診断しない、と言ったように」
「どういうことですか」
俺の問い掛けに、師匠はすぐ答えなかった。
しばらく目を閉じて、なにかを思い出そうとしていた。
そして目を開けたかと思うと、なにやら難しい話を始めた。
「鹿田博士って人は、もう亡くなってしまったんだけど、凄い人だったらしい。僕の師匠は、権力抗争だの、政治力だの、そんなことばかり強調して言っていたけど、医師として、そして研究者としても立派な実績を残している。大学の付属機関だった病理学研究センターの所長もしていて、免疫病理学の世界では大変な権威だったそうだ。博士は、細胞診の基本的な染色法であるパパニコロウ染色を改良して、僕の師匠の検体を調べていた。シュプライト染色、と名づけていたそうだよ。『シュプライト』は妖精という意味だね。元になったパパニコロウ染色ってのは、基本的に細胞核を青藍色に、細胞質を朱色、橙色、緑色に染め分けて、調べる手法だ。ところが、僕の師匠の検体に含まれるある物質が、従来の染色法になじまないために、わざわざ研究して確立したのが、そのシュプライト染色だ」
「なんですか、その、ある物質って」
師匠は、そうだな、と言ってどこまで言おうか吟味しているような顔をした。
「細胞のなかに、普段は普通の細胞として働いているけど、ある瞬間を境に、まったく別のものに変質する細胞があったんだ。博士は、その細胞の正体を調べるため、シュプライト染色を施したんだけど…… 特定の細胞のなかにだけ、青黒く染まる奇妙な細胞質が存在していることに気づいた。博士はその細胞質をシュプライト変異体と名づけた。博士は、その変異体の性質を徹底的に調べ上げた。その結果、これは現代医学における『エラー』だと言ったそうだ。そうしてそれ以上の研究を放棄した。もちろん学会での発表はおろか、学内でも秘匿していた」
「エラー、ですか」
俺は、きょとんとしてオウム返しをした。
師匠は頷いて続ける。
「まるで夜のような色に染まるその細胞質を含む、特定の細胞群…… その細胞を博士は、夜の細胞、『Night Cell』と呼んでいた」
ナイト・セル。
なんだか、教育テレビの科学講座を見ているような気持ちになる。小難しい話だ。
「よくわかりませんが、それが加奈子さんの病気と、どういう関係があるんですか」
「だから、それを病気と呼んでいいのかもわからないんだって」
「だったらなんなんですか」
師匠はその問いに、はぐからかすような薄ら笑いを浮かべたあと、ぽつりと言った。
「特異体質」
(完)
311: MMO ◆LaKVRye0d.:2017/3/12(日) 00:16:30 ID:.b2ry9Rk3M
『MMO』
大学6回生の春だった。
そのころ俺はオンラインゲームにはまっていた。
単位が足らず、卒業が延びに延びていたが、去年それなりに頑張ったおかげで目処がつき、大学生活最後の1年は好きなだけゴロゴロしようと心に決めていた。
趣味だったパチンコも真剣にやれば生活費くらいなら稼げるようになったので、バイトもやめた。大学の研究室は、卒論のために顔は出していたが、指導教官と最低限のやりとりをするだけで、後輩連中などろくに顔も覚えていない有り様だった。
とにかく2年も卒業が遅れると、知り合いや友人が格段に周囲から消える。所属サークルは元々足が遠のいていたし、去年あたりからなぜか女子部員がやたら増えて、かつてのもっさりした雰囲気がすっかり変わってしまっていた。 何度か顔を出したが、居場所のなさを痛感して、ここも自然に足は遠のいた。
ネットのオカルト系フォーラムにもまったく関わらなくなっていたし、あれほど参加していたオフ会も今ではあるのかすらわからない。
かくして立派な引きこもりの誕生だ。
その生活を如実に表す、当時手遊びに書いた詩の一部を紹介しよう。
…………
ドアを乱暴に閉め
僕は真っ先に台所の蛇口をひねる
パチンコ屋でしみついたタバコの匂い
喧騒に包まれた冒険を終え
懐にはささやかな勝利と
つめこんだ寿司とがある
僕は一心に手を洗う
毎日はアメーバのようだ
懐の勝利は明日には消え
寿司は明後日には出て行く
…………
その、アメーバのような毎日に突然訪れた、新しい世界が『MMORPG』大規模多人数型オンラインRPG。いわゆるネットゲーム、オンラインゲームだった。
312: MMO ◆LaKVRye0d.:2017/3/12(日) 00:20:02 ID:igNubrZ3Ko
5回生の秋ごろに、情報収集のため、ネット掲示板2ちゃんねるのパチンコ・パチスロ板を徘徊していると、『こんなクソ台より、ネトゲやれ』という書き込みとともに、オンラインゲームの公式サイトのアドレスが貼られていた。
なにげなくクリックしたのが、結果としてまさかこんなことになろうとは……
どハマリした。
元々テレビゲームのRPGは好きで、子どものころからよくやっていたが、町にいるキャラクターたちがみんな、自分と同じ生きた人間が動かしている世界という、引きこもりには夢のような仮想空間がそこにあったのだ。
家から出ることなくだれかと会話し、冒険し、楽しげな企てに参加することができる。そんなオンラインゲームは、絶賛留年中の大学生の膨大なヒマと人恋しさを、無尽蔵に吸い取り続けた。
俺がGと呼んでいたそのMMOは、日本におけるオンラインゲームの草分け的なゲームで、グラフィックはファミコンに毛が生えた程度だったが、そんなものでも物珍しさにユーザーが大挙してやってきた。
町のすぐ隣のマップでは、ときどき沸いて出てくるスライムに裸のキャラクターたちが群がり、素手で殴りつけてはドロップする棒切れやパンを奪い合って、プレイヤー同士が喧嘩をしていた。
パンや棒を売ってお金を貯め、武器や防具の装備が整った人から順に次のマップの新しいモンスターに戦いを挑みにいった。
自分も裸のキャラが必死でスライムを殴っているところに無理やり割り込み、装備した棒切れで止めを刺して経験値やお金をゲットした。恨まれても気にしなかった。
バッタの群生相を思った。無数の群の中で生まれ、群の中で育つ個体は、気性が荒く、攻撃的になる。そうしないと生きていけないからだ。
313: MMO ◆LaKVRye0d.:2017/3/12(日) 00:22:33 ID:igNubrZ3Ko
寝る前にパソコンの電源を落とし、自分の部屋を振り返ると、さっきまでの喧騒はどこにもなかった。冷え冷えとして、平穏な空間。明かりを消して布団に潜り込み、今日一日ひとことも言葉を発していない自分に気づく。その静けさのなか、密封型ヘッドホンから解放されたはずの頭には、耳鳴りが続いていた。群生相の羽音が。
その音に耳を塞ぎながら、俺はもうあっちの世界に戻りたがっていた。
その噂を初めて聞いたのは、2ちゃんねるのGスレだったと思う。
『平原の洞窟の5階に、幽霊が出る』
そんな噂がまことしやかに語られていた。
大学6回生の春ごろには、Gも当初より実装されたマップも増え、狩場の選択肢が増えたことで人々の集まる場所も分散して人口密度が緩和されていた。
雨後のタケノコのようにギルドが乱立し、運営側ではなくプレイヤーが自発的に宝探しイベントを主催したり、様々な試みがGの世界を広げていた。
平原の洞窟は最初に開通したダンジョンだったが、階層によってモンスターの強さがまったく異なる仕様だった。特にその5階に生息するモンスターはゲームバランス上、異常ともいえる強さで、1対1はおろか、高レベルプレイヤーが束になっても勝てなかった。そんなモンスターがマップ中をうようよしているのだ。
あるとき、当時最強と呼ばれていたギルドのうち2つが手を組み、決死の討伐部隊を差し向けたことがあった。ドロップ覚悟でレアアイテムを装備した戦士や魔法使いが30人以上で平原の洞窟の5階に集まり、戦いを挑んだのだ。狩り場に設定した場所からモンスターの数を減らすための囮部隊が全滅するまでの間に、ブラックドラゴンとエレメンタルを1匹ずつ倒すことに成功したが、得られた経験値とアイテムを吟味した結果、彼らは「狩り場には適さず」と判断を下した。
それ以来、平原の洞窟の5階はモンスターだけが蠢く、無人の空間だった。
そんな場所に『幽霊が出る』という噂があるのだ。
ゲーム内の知り合いにも聞いてみたが、見たことがある、という人がいた。
それらの話を総合すると、平原の洞窟の5階の奥のほうのマップで、見たことのない装備をした戦士系のキャラが1人でたたずんでいるというのだ。それも恐ろしいモンスターがマップ狭しとうろついているなかで。
モンスターはそのキャラに無反応で、固有の敵対テリトリー内に入っても戦闘行動を起さず、あろうことかそのキャラと重なりあってそのまますり抜けていたという。
314: MMO ◆LaKVRye0d.:2017/3/12(日) 00:25:29 ID:.b2ry9Rk3M
『死に跳び』と呼ばれるテクニックがある。ダンジョンで狩りをしてレベルが上がったあと、経験値ダウンのペナルティがない状態で装備を外し、わざとモンスターに殺されることでデメリットなく町の墓場に跳ばされる技だ。町に瞬間移動するアイテムを節約するための技だが、平原の洞窟ではわざわざ5階まで行って死に跳びをする人が結構いた。
どうせ死ぬなら普段は近づけないモンスターにオーバーキルされたい、という変態的な発想だが、その気持ちはわからないでもなかった。
モンスターは殺されて数が減っても一定時間経つと、マップ上のどこかに自動的に沸いてくる。だから普通はモンスターを1つの個体として認識することはないのだが、平原の洞窟の5階の、それも最深部にいるモンスターたちはマップ開通以来、一度も殺されておらず、同じ個体が何ヶ月にもわたって同じ場所でうろついているのだ。実際にはメンテナンスでサーバーが落ちて復旧するときに、新しく沸いたものとしてステータスを再設定されている可能性はあったが、同じモンスターがずっといる、と思った方がロマンティックだ。そんなレジェンド的なモンスターたちに殺されるため、わざわざ回避技術を駆使して最深部へ向かう人が後を絶たなかった。
その知り合いも、装備を落とさないよう裸で最深部まで到達し、モンスターに囲まれて彼らの吐き出す毒煙のエフェクトが画面を覆うなかで、その戦士を見たというのだ。
『立ったままで動かなかったけど、なんか喋ってた』
『なんて?』
『わかんない。文字化けしてた』
短い言葉だったという。
自分がマップに入ってきたのに合わせて話しかけてきた、と知り合いは言った。バグで未実装のグラフィックが貼り付いてるという説もあったが、この「話しかけてきた」という目撃談がいくつかあるために、幽霊などという噂が一人歩きしているのだった。
なんらかの理由でそこに置かれているノンプレイヤーキャラクターだという説もあったが、その話しかけてくるタイミングから、リアルタイムで人間が操作をしているとしか思えないという感想が多かった。
そしてその言葉はほんの一言で短く、しかも文字化けをおこしているというところまでみんな同じだった。
その噂が気になって、2ちゃんねるのGスレや有名プレイヤーのブログなどをいろいろ調べてみたが、幽霊を見たという話はあっても、その場面を保存したスクリーンショットが出てこなかった。
プレイ動画を保存するような文化は、まだない時代だ。しかしスクリーンショットはみんなよく撮っていて、手に入れたレアアイテムの自慢やギルド対戦の結果をそれで報告したりしていた。
なぜ幽霊の画像が出てこないんだろうと不思議に思っていたが、あるプレイヤーのHPの日記を読んでいて、ゾクリとした。そこには、平原の洞窟5階の幽霊に出くわした、という話と、スクリーンショットを撮ったのに、あとで確認すると画像ファイルが壊れていたという話が書き込まれていた。
一枚だけ開けたという画像が貼られていたが、原型をとどめないほど乱れていて、なにが映っているのかまったくわからなかった。
315: MMO ◆LaKVRye0d.:2017/3/12(日) 00:28:14 ID:.b2ry9Rk3M
少し怖くなった。
モンスターに認識されないだとか、すり抜けただとか、それがありえないとは言っても、理由はともかく運営側がそういうものとして特別に設定しているとしたら、不思議でもなんでもない話だ。けれど、PCの機能で保存したものまで壊れているとすると、それは俄然として怪談じみてくる。
オカルトからすっかり離れて、隠者のような生活をしていたのに、こんなところで怪談に出会うとは。
それを思うと自嘲せざるを得なかった。
ある日、平原の洞窟で狩りをしていて、戦士のレベルが上がったので、5階に『死に跳び』をしにいってみることにした。
もちろん幽霊を見てみたかったのだ。噂を聞いてから何度か挑戦してみたが、どうしても途中でモンスターに殺されてしまった。一瞬でも触られたらほぼ即死なのだが、遠距離でもドラゴン系のモンスターの魔法でHPをごっそり持っていかれてしまうのだ。
その日は、死んで落としてしまうことを覚悟で、魔法に耐性のある装備を身につけ、チャレンジした。
真っ暗なマップのなかを、おどろおどろしいBGMが流れている。間違って普通の狩り場にたった1匹でも現われてしまったら、阿鼻叫喚の地獄をもたらすだろう恐ろしい巨大モンスターが、そこには数え切れないほど蠢いている。
モンスターごとの固有のテリトリーを冒さないようギリギリで避けながら、ひたすら奥へ奥へと進んだ。
そのMMOの世界にどっぷり浸かっていた俺は、まるで自分自身がその恐ろしいダンジョンを歩いているような恐怖感を味わいながら、ついに最深部に到達した。
そこはまるで魔王の広間とでもいうべき空間で、壁に囲まれた袋小路だった。巨大な松明のオブジェが並んでいる周囲を、このMMO世界が生まれて以来、一度も死んだことのない魔神たちが歩いている。
316: MMO ◆LaKVRye0d.:2017/3/12(日) 00:31:23 ID:.b2ry9Rk3M
ゾクゾクしながら足を踏み入れると、すぐに彼らに認識され、挨拶代わりの毒のブレスを吐かれた。じわじわHPが削られていくが、毒での即死はない。かまわず突っ込んだその先に、だれかいるのが見えた。
戦士だ。見たことのない剣をもった戦士が、見たことのない鎧を着て立っていた。
シフトキーを押して、名前を確認する。しかし、戦士の下にはなんの文字も表示されなかった。
戦士がなにか喋った。
会話ログに文字化けした短い言葉が残る。逃げ場のない空間で魔神たちに囲まれて、やがてやってくる不可避な死を待つだけの自分には、その文字化けした言葉がまるで呪いの言葉のように思えてゾクリとした。
なにか喋り返そうとしたが、とてもキーボードを叩く余裕はなかった。迫ってくるモンスターたちの射程範囲から、ギリギリで逃げ続ける。名前のない戦士は、まるでそこにいないかのようにモンスターたちから無視されている。
俺は素早くショートカットキーを押し、いつもマクロ登録してある言葉を吐いた。
『遺品よろw』
内容はなんでもよかった。反応が見たかったのだ。
立ったまま動かない戦士は、俺の言葉に返信した。それもやはり文字化けしていたが、さっきよりほんの少し長かった。さっきが一言だとすると、今度は二言。そして、文字化けのなか、語尾に顔文字を思わせるAAの痕跡。
俺は確信した。ノンプレイヤーキャラクターじゃない。そこに、だれかがいる。
次の瞬間、さっきの毒とは比べ物にならない凶悪なブレスを四方八方から浴びせられ、俺は即死した。おそらく10回死んでもお釣りがくるダメージを受けたはずだった。そして……
(お前はだれだ)
暗転する画面を見ながら、俺は幽霊に語りかけていた。
◆
1週間後、俺は珍しく自転車に乗って少し遠出した。JRの線路を越えた先に大きなスーパーがあり、そこは食料品が安いのだ。バイトを辞めた今では、少しでも節約をする必要があった。パンやバナナ、牛乳など、ゲームをしながら片手間に食べられるものばかりを選んで買った。
317: MMO ◆LaKVRye0d.:2017/3/12(日) 00:35:20 ID:.b2ry9Rk3M
完全にオンラインゲームに依存しており、そののめり込みぶりは相当な重症だった。寝ても覚めても考えるのはゲームのことばかりだ。ちかごろはパチンコに行く暇も惜しんで、仮想空間での冒険に没頭していた。
パソコンのある机の前に座ったまま手が届くよう、冷蔵庫の位置を変え、トイレに立つ時間以外は延々とオンラインゲームをプレイしていた。
30時間ほどぶっ通しでプレイすることもしばしばで、疲れ果てて寝るときも目覚まし時計を3時間後に設定して布団に入る徹底振りだった。寝るときはすべて仮眠、が日常のキーワードだった。
その日も、買い込んだ食料を自転車のカゴに乗せ、MMO世界の入り口である部屋へ急いでいた。
我が大学前の通りを抜けるとき、ふと見覚えのある自転車が停まっているのを見つけてペダルをこぐ足を止めた。
そこは学生が集うゲームセンターで、俺も1、2回生のころはよく遊びに来ていたものだ。
もうどのくらい来ていないだろう。アーケードゲームのラインナップも知らないものばかりになっているに違いない。
すぐに出てくるつもりだが、食料を盗まれないように念のため、入り口の自動ドアからよく見える位置に自転車を停め、ゲームセンターのなかに入った。
薄暗い店内で、たくさんの学生たちがたむろしている。メダルゲームやUFOキャッチャーの類を置いていない、割と硬派な店だ。格闘ゲームがメインで、人気台の近くには大勢の若者が囲むようにして対戦を眺めている。
そんな店だから当然のことだが、男ばかりだ。狭い空間に男たちがひしめき合い、仲間内で奇声をあげているやつらもいる。ほとんどなにを言っているのかわからない。少しゲームセンターから離れた身からすると、異様な空間だということを再認識させられる。
「このキスケ、ウソをつく男に見えますか!」
そんな奇声を耳にして、そちらに近づいてみる。ギルティギアという格闘ゲームらしい。人気があるらしく、その一角はとりわけ人だかりができていた。
筐体の画面を覗き込むと、紙袋を被った変な男が倒れていて、その前で貴公子然としたキャラクターが細身の剣を持って決めポーズを取っている。
勝ったほうのプレイヤーが立ち上がってあげたその奇声に、周囲はやんやの喝采だった。
318: MMO ◆LaKVRye0d.:2017/3/12(日) 00:38:05 ID:.b2ry9Rk3M
筐体の前に座るそのプレイヤーは小柄で、ボサボサの頭を無造作な手つきでボリボリ掻いている。前髪は伸ばし放題で、ほとんど目元まで隠れていた。そしてなぜか大型のヘッドホンを耳につけている。
服装は上下ともジャージだったが、ヨレヨレで、その下からシャツが左側の半分だけはみ出ている。一見してだらしない格好だった。
「くっそー」という声とともに、反対側の筐体の男が席を立ち、すぐに別の男が入れ替わりに座った。
改めて、なんとも言えない気持ちの悪さを感じた。
しかし、すぐに自分の顎に手をやり、その無精ひげの手触りに、(他人のことは言えない)と苦笑する。オンラインゲームにハマッて世捨て人同然の暮らしをしている己を省みての、冷静な評価だった。
立ち上がっていた小柄なプレイヤーが、また席に座ろうとした瞬間、俺と目があった。向こうの目は髪で隠れて見えないが、反応からすると間違いなく目が合ったのだろう。ギョッとしたようだった。
すぐに新しい対戦に入ったが、剣を持ったキャラクターの動きは悪く、あっという間に修道女のようなキャラクターに連敗してしまった。
さっきの勝ち名乗りの威勢はどこに行ったのか、小柄なプレイヤーはそそくさと立ち上がり、次の人に席を譲った。そして、俺のほうに歩み寄ってくる。
「おまえ、なにやってんの」
こちらからかけた言葉に、「しーっ、しーっ」と人差し指を口に立てて、そいつはそのまま店の外へ向かった。
ゲームセンターを出てから、改めて俺はその格好を上から下までしげしげと見回した。
「なんでわかったんですか、師匠」
さっきと声色が違う。男の声から、女の声に変わった。
俺が『音響』と呼んでいる小娘だった。この春で大学2回生になったはずだ。
「あいつら、大学の同級生なんですよ。私だって全然気づかないでやんの」
そう言って、顎を店内に向ける。ボサボサの前髪の奥で、目が笑っていた。
「なのに、なんでわかったんですか」
音響は、大学に入ってから興信所でバイトを始めていた。雑居ビルのなかにある、服部調査事務所という小さな興信所だ。
音響は形から入るのが好きなのか、尾行用に変装の練習をいつもしている。服部所長直伝の尾行術だそうだ。
319: MMO ◆LaKVRye0d.:2017/3/12(日) 00:40:39 ID:.b2ry9Rk3M
中学、高校時代は常にゴスロリ姿をしていたが、今ではその格好をあまり見なくなった。
去年、つまり大学1回生の秋に、大学の学園祭でミスキャンパスのコンテストがあったのだが、音響はそれにゴスロリ姿で参加し、惜しくも2位になったのだそうだ。
その際、「もう駄目だ」と言って、壇上から逃げたという話を人づてに聞いた。
なぜ逃げたのかよくわからないが、とにかくそれ以来ゴスロリをやめたのかも知れない。
「どこでバレたんだろう」
音響は自分の格好を眺めてぶつぶつ言っている。
耳につけている大きなヘッドホンから、シカシカと音が漏れているのに気づいて、俺は「よく音楽聴きながら人と喋れるな」と言った。
ジャージの上着のポケットからヘッドホンまで、黒いコードが延びている。
「音楽じゃないです」
そう言って音響はヘッドホンを耳から外して、差し出してきた。俺はそれを受け取り、片方の耳にくっつける。
ヘッドホンからは、外国語の会話が流れていた。
英語じゃない。ドイツ語でもない。何語だ。これは。
変な顔をして耳を傾けている俺を見て、音響は「スペイン語です」と言った。
そう言えば、こいつは高校時代からアメリカに語学留学するくらい英語が得意だった。大学ではフランス語を習っていると聞いていたが、それだけではなく、さらに他の国の言語まで身につけようとしているのか。凄いバイタリティだ。
感心していると、音響は自分の自転車を見て、なにかに気づいたようだ。
「これか!」
そう言って、悔しがっている。
「まあ、そういうことだ。つめが甘いな」
俺はそう言って、ヘッドホンを返そうと差し出したが、音響は自転車に目を落とし、「リバーシブルにできないかな」などと呟いていて、気づかない。
仕方なく、ヘッドホンを無理やり元の場所に戻そうとすると、ボサボサの髪で耳が隠れていた。数年来のつきあいの気安さで、なんの気なしに髪をどかしながらヘッドホンを取り付ける。
その瞬間、髪の毛に隠れていた、こめかみの下あたりに伸びる傷が目に入った。刃物傷だ。
心臓が冷たくなる。
俺のなかの負い目が、体のなかでモゾリと顔を上げる。嫌な記憶が蘇りかけるのを抑えようとした。
320: MMO ◆LaKVRye0d.:2017/3/12(日) 00:43:29 ID:igNubrZ3Ko
音響は「やん」などと言ってヘッドホンに手をやったが、俺の様子に気づいて体を起した。
「最近思ったんですけど」
音響は傷が隠れるように髪を直しながら、軽い口調で言った。
「『助けて』って言葉は、どこの国の言語でも短い音節なんです。英語だと、『ヘルプ』だし、フランス語なら『オスクール』、スペイン語なら『ソコーロ』、中国語なら『ジゥミンア』と言ったりします。言葉の成り立ちにかかわらず、悠長に言えない言葉だから、短いんだと思います。『熱い』とか『痛い』も同じです。『助けて』が短かければ短いほど、その国で生きることの過酷さを表しているような気がするんです。いつか、『助けて』が冗談みたいに超長い国に行ってみたい。そこで暮そうとは思わないけど、そこで暮す人たちを見てみたい」
こいつは、強いやつだ。
助けられなかった俺の、負い目がそう囁く。
音響はヘッドホンを外し、自転車のカゴに放り込んでいた帽子を入れ替わりに手に取って、頭をねじ込んだ。
ちかごろ愛用のハンチング帽子だ。いかにも探偵らしい帽子だった。俺は自転車よりも、むしろこちらで持ち主がわかったのだった。
「おまえ、似てきたな」
俺のオカルト道の師匠が後生大事に隠し持っていた黒いキャップを見つけたとき、音響にあげたはずなのだが、やつは断固としてそれを被らなかった。
これを被るべき人間は別にいる。そう言っていた。
「え。なんです?」
「いや……」
俺は今晩予定されているオンラインゲームの大型イベントのことを考えた。早く帰って、祭りに備えないと。
「じゃ」
そう言って立ち去ろうとした俺に、音響は「師匠、今夜ヒマですか」と訊いてきた。
321: MMO ◆LaKVRye0d.:2017/3/12(日) 00:47:09 ID:igNubrZ3Ko
「凄い心霊スポット見つけたんです。久しぶりに一緒に行きましょうよ」
ニコリとしてそう言うのだ。
「忙しい。無理」
「うそでしょう。ゲームばっかやってると、バカになりますよ」
食い下がる音響を振り切って、俺は家路に就いた。
『師匠』ねえ……。
師匠らしいことなんてした覚えがない。音響は放っておいても1人で成長していった。
彼女は服部調査事務所で、『オバケ』と呼ばれる奇妙な事案を、時に失敗しながら、少しずつ解決していた。
その興信所が小川調査事務所という名前だったころに、その周囲を彩った『写真屋』や、『情報屋』などといった人間たちが、いま音響の周りに再び集い始めていた。
まだまだ頼りないところもあるが、彼女の進むべき先を、まばゆいばかりの輝きが照らしている。
俺はその輝く道に背を向けて、自転車のペダルをこぐ足を速めるのだった。
◆
「うそだろ」
フィールド上で固まった俺の氷魔法使いを見て、キーボードをガチャガチャと叩く。ラグ落ちだ。
テレホーダイというNTTのサービスがある。夜の11時以降の電話料が定額になるというものだ。インターネットに長時間接続するオンラインゲームプレイヤーは、よくこのサービスを使っていた。そのため、この『テレホタイム』には大勢のプレイヤーが大挙してMMO世界にやってくるので、サーバーが重くなるという弊害あった。
俺はウインドウズキーを押してGを強制終了させた。俺のパソコン上はGの世界が完全に動きを止めているが、他の人から見るとはそうではない。止まっているのは俺だけだ。いくら無抵抗でも、そこそこのレベルに達している俺の氷魔法使いを殺せるモンスターは、そのマップにはいないはずだったが、他のプレイヤーになにをされるかわからない。アイテムを盗む『ルーター』や、プレイヤーキャラクターを狙って殺しにくる『PK』といった迷惑なことをするやつらが、G世界には溢れていた。
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