ここでは、まとめの怖い系に掲載されている『師匠シリーズ』の続きの連載や、古い作品でも、抜けやpixivにしか掲載されていない等の理由でまとめられていない話を掲載して行きます
ウニさん・龍さん両氏の許可は得ています
★お願い★
(1)話の途中で感想等が挟まると非常に読み難くなるので、1話1話が終わる迄、書き込みはご遠慮下さい
(代わりに各話が終わる毎に【了】の表示をし、次の話を投下する迄、しばらく間を空けます)
(2)本文はageで書きますが、感想等の書き込みはsageでお願いします
それでは皆さん、ぞわぞわしつつ、深淵を覗いて深淵からも覗かれましょう!!
2: 風の谷の名無しか:2017/1/24(火) 20:32:57 ID:0vOrDYdCSs
田舎の中編(1注:このサイトのまとめでは後編)はあれで終わりではありませんでした。
後編どころか、中編の途中で力尽きて投げ出したのです。
せっかく書いていたので、その中編の投げ出したところまでを載せようと思います。
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俺はなにか予感のようなものに襲われて、自分の前に置かれた湯飲みを掴んだ。
冷たかった。
思わず手を離す。
出された時は確かに湯気が出ていた。間違いない。
あれからほんのわずかしか時間は経っていないというのに。一瞬のうちに熱を奪われたかのように、湯飲みの中のお茶は冷えきっていた。
まるで汲み上げたばかりの井戸水のように。
ここまでが、投下済みのもの。
----------------------------
ここからが、未投下分です。
(2行ほどあけて)
「あれは地震じゃないな。家が揺れたんだよ」
先生の家を半ば追い出されて、庭先にとめていた車に乗り込む。
「犬神という言葉に明らかに反応していた」
こいつは、なんとしても探し出さないとな。
師匠はエンジンをかけながらそう言う。
しかし京介さんのきっぱりした声が、それを遮った。
「待った。探し出してどうするつもりだ」
一連の出来事は普通じゃない。ありえないようなことが立て続けに起きている。へたに首を突っ込みすぎると、危険だ。
師匠は目の前に並べられるそんな言葉に薄ら笑いを浮かべて、「怖いんだ」と煽るようなことを言う。
京介さんは刺すような視線を向けると、「そうだよ」と言った。
コンコン。
車の窓をバイクにまたがったままユキオが叩き、ウインドをおろすと「さっきはすまざった。先生、今日は機嫌が悪かったみたいじゃき。でもこのあとどうする? ゆかりの史跡とかやったら案内するけんど」と首を突き出した。
少し考えてから、京介さんは「それと、他にいざなぎ流に詳しい人がいたら紹介してほしい」と言った。
「ああ、ヨシさんやったらたぶん家におるき、いってみようか」
俺は思わず師匠を見たが、思案気な顔をしたあと「一人で戻ってるよ」と言う。
3: 風の谷の名無しか:2017/1/24(火) 20:33:17 ID:0vOrDYdCSs
バイク貸してくれる?
とユキオに声をかけながら運転席から降りた。
なにも言わず、京介さんが入れ替わりに運転席に座る。助手席に乗り込みながら、ユキオが「あの家にとめといてくれたらいいスから」となぜか申し訳なさそうに言った。
「僕がいないほうが、話を聞けそうだしな」
じゃ、部屋で寝てるから。
師匠はそう言って手を振った。
その時、ズシンという軽い振動がお尻のあたりに響いた。
思わず周囲を見回す。
師匠が音のしたらしい山の上のあたりを睨むように見上げている。ユキオは今思い出したという表情でぼそりと言った。
「そういえば、先週から発破やってるなぁ」
それを聞いて京介さんが、ニヤっと笑いながら言う。
「たしかに地震じゃないな」
師匠は口を歪めて、なにも言わずにバイクにまたがった。
それから俺たちは太夫をしているヨシさんというおじいさんの家にお邪魔して、いざなぎ流のあれこれを聞いた。
ヨシさんは愛想のよい人で、ユキオの先生とはえらい違いだったが肝心な部分の説明ではするりと焦点をぼかすようにかわし、結局その好々爺然とした姿勢を崩さないままに、俺たちの知識になに一つ価値のあるものを加えてはくれないのだった。
「……それで、神職の太夫さんと吾が流の太夫を区別するときゃあ、ハカショ(博士)というがよ」
そこまで語ったところで家の電話が鳴り、ヨシさんは中座をするとしばらくしてから戻って来て、これから出掛ける旨を俺たちに伝えた。
「ありがとうございました」
とりあえずそう言って辞去したものの、不快というほどでもないがいずれ肌触りの悪い場の空気に、自分たちは余所者なのだということをまた思い知らされただけだった。
それを感じているユキオもまた、ますます申し訳なさそうな表情になり、そのあと案内してもらったいざなぎ流ゆかりの地所でもたいして得られるものはなかった。
なんだかどっと疲れが出て、俺たちはとりあえず家に帰ることにした。
くねくねと山道をのぼり、ようやくたどり着いて車から降りるとユキオは庭先にとまっていた自分のバイクにまたがり、「仕事、少し残っちゅうき」とやはり申し訳なさそうに去っていた。
家に入ると「おそうめん食べんかね」と叔母にすすめられ、「氷乗っけて」という俺の注文の通りキンキンに冷えたそうめんがすぐにちゃぶ台に並べられた。
師匠を呼ぼうとして部屋を覗いたが、扇風機の首を振らないようにした状態でまともに風を浴びながらそれでも寝苦しそうに掛け布団を抱きしめて眠っていた。
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ここで筆をへし折っています。2007年の夏のことです。
師匠が布団を抱きしめて眠り続けて、はや四年・・・
まだしばらく寝続けることになるかも知れません。
【了】
4: 風の谷の名無しか:2017/1/25(水) 16:56:42 ID:M9xMoCsD1.
スレ立て乙。
ここまで書いたのが10年前かぁ。
早く完結して欲しいけど、書きたい時に書きたい話が書けるとは限らないもんね。
支部でも、ずっと待ってます!!とか沢山言われてるみたいだったけど。
5: 風の谷の名無しか:2017/1/25(水) 19:40:56 ID:KZyCpdPW/s
結構沢山新しい話出てますよね、楽しみにしています!
6: 1 ◆LaKVRye0d.:2017/1/25(水) 21:53:37 ID:BPamNT3ng2
>>4-5
有難うございます!
最初の投稿はオマケみたいなモンで、
感想もそう出ないでしょうから、明日か明後日には次の話を載せますね
順番は完全に書かれた順番とは限らず、多少狂う可能性もありますが御了承下さい
次に掲載予定の『絵』T〜Vも、Tだけかなり古くに書かれていますが、T〜V合わせてひとつのお話になっているので纏めて投稿し、
【了】の表示はTとUには付けず、Vの最後にのみ表示します
7: 『絵』《T》 ◆LaKVRye0d.:2017/1/26(木) 01:21:37 ID:/.Q2kT1tPE
『絵』《T》
大学の研究室のメンバーが行きつけにしているバーがあるのだが、そこで知り合った研究室のOBからちょっと不思議な話を聞いた。
大学時代半年ほど付き合った彼女がいた。
一コ上で美術コースにいた人だった。
バイト先が同じだったので、お互いなんとなく、という感じで付き合い始めたのだった。
彼女が描いている絵を何度か見せてもらったことがあるが、前衛的というのか、絵は詳しくないのでよくわからないけれど、どれも「身体の一部が大きい人間の絵」だった。
グループ展用の完成作品も、スケッチブックのラフ画も、ほとんどすべてがそうだった。もちろんちゃんとした絵も描けるのだが、そのころ彼女はそういう絵ばかりを好んで描いていたようだった。
たとえば半裸の白人が正面を向いている絵があるが、左目だけが顔の半分くらいの大きさで、輪郭の外にまではみ出ていた。
他にも右足の先だけが巨大化した絵だとか、左手、鼻、口、右耳…… どれも身体の中でその部分だけが巨大化していた。
写実的ではない、抽象画のような作風だったが、なんとも言えない気持ち悪さがあり、吐き気を覚えて口元を押さえてしまったことがある。
そんな時彼女は困ったような顔をしていた。
8: 『絵』《T》 ◆LaKVRye0d.:2017/1/26(木) 01:24:44 ID:jsJ4QOAmCk
彼女と付き合い始めてふとあることに気がついた。
子供のころからずっと何度も何度も繰り返し見ていた夢を見なくなっていたのだ。
その夢は、悪夢と言うべきなのか、よくあるお化けに追いかけられたりするような脅迫的なものではなく、静かな、静かな夢だった。
眠りにつくと、それは唐突にやって来る。
袋が見えるのだ。
巾着袋のような艶かしい模様をした大きな袋。子どもくらいなら隠れられそうな。
それまで見ていたのがどんな夢だったのかは関係が無い。とにかく気がつくと場面は昔、小学生のころに住んでいたアパートの一室になり、夕日が窓から射し込む中で袋がぽつんと畳の上に置かれている。
ただそれだけの夢だ。
この夢が自分にはとてもとても恐ろしかった。
夢なんてものは奔放に目まぐるしく変わるものなのに、この部屋に入り込むとそれが凍りついたように止る。
何故か部屋には出入りする扉はどこにもなく、ただ僕は畳の上の袋と向かい合う。目を逸らしたいのに、魅入られたように動けない。
やがてわずかに開いている袋の口に出来た影を、負の期待感とでも言うものでじっと見つめてしまうのだ。
ああ、はやく。はやく夢から覚めないと。
その部屋はいつも夕日が照っている。
それが翳り始めると、袋の口が開いていくような気がして……
そんな夢だ。
目が覚めて、深く息をつき、そしてもうあの部屋には行きたくないと思う。しかしどんなに楽しい夢を見ていても、ドアを開けるとあの部屋に繋がってしまうことがある。
そして降り返るとドアはないのだ。
その夢が、大学に入るまで、そして頻度は減っていったが、入ってからも続いた。
自分でも夢の意味についてよく考えることがあるが、あの袋に見覚えはない。
畳敷きのあの部屋も、今はアパートごと取り壊されているはずだ。 脈絡がなく、意味がわからない。
だからこそ怖く、両親にも友人にも、誰にもこのことを話したことはなかった。
それが彼女と付き合い始めてから何故か一度も見なくなった。
ホッとする反面、長く続いたしゃっくりが急に止った時のような気持ち悪さもあった。
9: 『絵』《T》 ◆LaKVRye0d.:2017/1/26(木) 01:28:37 ID:jsJ4QOAmCk
彼女にこのことを話してみようかと思っていたころ、彼女に「夜、美術棟に忍び込んでみない?」と誘われた。
美術棟は夜は戸締りされ、入れなくなるのだが学生たちは独自に侵入路を持っていて、仲間で忍び込んではこっそり夜の会合を開いたりしているらしい。
面白そうなのでさっそくついて行った。
深夜、明かり一つない美術棟の前に立つと彼女は、スルスルと慣れた様子で足場を辿って壁をよじ登り、窓のひとつに消えて行った。
やがてガチャリと音がして裏口が開いた。
美術棟自体初めて入ったのだが、中は想像以上に色々なものが煩雑に転がっていて、思わず「きったねえなあ」と言ってしまった。それには彼女も同意したように頷いた。
持参した懐中電灯で足元を照らしながら、描きかけの絵やら木工品といった学生たちの創作物の中をかき分ける様に廊下を進み、三階の一つの部屋に入った。
「ここ、私の作品を置かせてもらってる物置」
たしかにその部屋の一角には、見覚えのある作風の絵が所狭しと並んでいる。
夜、こんな風にわずかな明かりの中で改めて見ると、言い様のない不気味な雰囲気だった。
「前から気になってたんだけど、どうしてこういう一部だけがデカイ人を描くの?」
今までなんとなく訊けなかったことを勢いで訊いてしまった。
10: 『絵』《T》 ◆LaKVRye0d.:2017/1/26(木) 01:34:58 ID:/.Q2kT1tPE
彼女は右目だけが異様に大きい人物画を懐中電灯で照らしながら答えた。
「私ね。子どものころ、家族で南の島に行ったの。ポリネシアのほう。そこでこんな民話を聞いたの。むかし人間が今よりもっと大きくて尊大だった時、その行ないに怒った精霊が呪いをかけて人間たちの体を小さくしてしまった。人間たちは嘆き悲しみ、この世のすべてを司る偉大な精霊に心から謝ったわ。精霊は情けをかけて、人間の身体の一部だけは元のまま残してくれた。大きい手。大きい鼻。大きい目。大きい耳。大きい足…… でも人間たちは大きい目や手、鼻や耳をやがてうとましく思うようになった。そして精霊にお願いしたのよ。どうか残りの身体も小さくして下さいって」
思わずまじまじと絵を見つめた。
「つまりね、これは小さくなってしまった巨人なのよ。彼はこの大きな右目だけで真実の世界を見ている。でもそれは今の世界を生きるにはむしろ邪魔だったのね。人間はそうして愚かで矮小な生き物になることを自ら選んだと、そういうお話だった。すごく面白いモチーフだと思ったから……」
そういう彼女の顔にはかすかな翳りがあった。
「私ね。信じられないかもしれないけど、本当に見たのよ。その島の至るところで、この絵みたいな人。見えていたのは私だけだった。それから日本に帰ってからも見た。周りにいるの。見えなくなっちゃえって思った。でもそうはならなかった。ゲゲゲの鬼太郎だったかな。漫画に出てくるの。目に見えないお化けを退治する方法。とり憑かれた人に質問をしながら、石に描いた点線を結ぶとお化けの正体が現れてその石に閉じ込めることができるっていうお話。小学生の時、それを読んで、描いたの。こんな絵を」
彼女はゆっくりと絵の表面をなぞるように指を動かす。
僕はその動きをじっと見ていた。
「そしたら見えなくなったのよ。身体の一部が大きい人。でもそれから不思議なものをたくさん見るようになったわ。え? 言っても信じないよ。とにかく私はそんなもの見たくなかった。ね、あの民話みたいでしょう。普通の生活がしたいから、真実かもしれないものを捨てるの。そうして見たものをもう絵には描かなくなった。ただ見ないふりをするだけ。まだこんな絵を描きつづけているのは単純に、本当に面白いモチーフだと思ったから」
バカバカしい話だと思う?
彼女はいつもの困ったような顔をしていた。
信じられない話だ。荒唐無稽とも言える。
しかし僕は息を飲んで、震える膝を必死で押さえつけていた。
彼女の話の途中から、見てしまっていたのだ。その背中の後ろに並ぶ棚の、一番奥まったところにある絵を。
それは夢に出てくるあの袋の絵だった。
11: 『絵』《U》 ◆LaKVRye0d.:2017/1/26(木) 01:37:51 ID:jsJ4QOAmCk
『絵』《U》
みかっちさんから聞いた話だ。
わたしの先輩にね、凄い霊感体質の人がいたの。先輩っていっても、わたしが大学に入る前に卒業してるから、直接は知らないんだけど。その先輩ね、女の人なんだけど、変な絵ばっかり描いてた人で、なんか、手とかがやたらでっかい人間とか、そういうの描いてたらしいんだ。課題はちゃんとこなしてたし、絵自体は凄く上手かったんだけど、なんていうか、見えちゃう人だったらしい。その手がデカイ人の絵も、本当にそういう変なのが見えちゃったんだって。デカイったって、倍じゃきかないのよ。ありえない大きさなの。しかも目とか耳とかも馬鹿でかいバージョンもあって、それも全部見たんだってさ。霊感にしたって、そんな変な幽霊自体いないじゃない。一体なにを見たのよってカンジ。いや、それがさ、私たちの特別美術コースで語り草になってる逸話があってさ。伝説よ、伝説。その名も誰が呼んだか『悪夢の学祭展事件』! 何年か前の大学祭の時にね、特別美術コースの生徒がどっかの教室を借り切って、展示会をしたらしいの。今はコースではそういうのやってなくて、わたしたちもサークルの美術部の方で毎年焼きそばの模擬店と似顔絵描きやってるだけなんだけど。当時は教授が良い顔しなくて、特美の生徒は美術部にはあんまり入ってなかったみたい。その代わりかどうか知らないけど、とにかく、当時は特美の生徒たちだけで学祭展をしたのね。で、その先輩がそこで新作を展示したの。例の、手とか足とかがデカイ人の。でもそれだけなら、なんてことなかったんだけど、その時、そういう身体の一部がデカい人だけじゃなくて、なんか別の気持ちの悪いものも一緒に描いてたんだって。それを見た人たちがなんでかパニックになって、ドミノ倒しっていうの? バタバタ倒れちゃって、なんか怪我人も出ちゃってさ、救急車が来る大騒ぎ。結局それから特美の学祭展は出来なくなって今に至ってるらしいんだわ。どんな絵かって? 見てないからなんとも言えないけど、なんか聞いた話だと、化け物の絵だったらしいよ。呪いの絵とか言って、うちのコースの言い伝えになってる。でも怖いわあ、そういうの。絵の呪いって、わたし、あると思っているし。え? その先輩の名前? ええと、確か……
12: 『絵』《V》 ◆LaKVRye0d.:2017/1/26(木) 01:42:14 ID:/.Q2kT1tPE
『絵』《V》
師匠から聞いた話だ。
大学二回生の秋だった。
人生二度目となる大学祭のシーズンが来て、イチョウの落ち葉が道を覆っているキャンパスを歩いていると、そこかしこで模擬店や様々な出し物の準備が行われていて、すべてが楽しげに浮き足立っているように見えた。
自分はというと、所属しているサークルの模擬店にも参加せず、ブーイングを浴びながらも軽くそれを受け流し、そんなものよりももっと楽しいものを探してうろうろとしていた。
「どいてください。どいてください」
海賊よろしく頭にタオルを巻いた二人組がなにかの看板を抱えて、僕の脇を走り抜けた。周囲にはざわざわとした喧噪が敷き詰められている。
息苦しさを感じて、頭を掻いた。
僕以外の楽しげな連中に吸い尽くされ、笑い尽くされて、このあたりにはあまり空気が残っていないような気がした。その希薄な空気の層を縫うように歩く。結局のところ、自分が立って、歩いている場所など、普通の人々が生きている場所とほんの少し形而上学的な意味でずれているのだろう。
そうして僕は、「師匠」と声を掛ける。
そんな僕にとって楽しいものは、たいていその人が知っていた。
「よう。明日、大学祭に行こう」
そう、例えば大学祭に。
大学祭?
「何故ですか」
少しうろたえて僕は訊ねた。普通の若者が楽しむようなお祭りなど、鼻で笑うはずの人からそんな言葉が出るとは。まるで、で、デートではないか。
「友だちから誘われたんだ。特美で絵を描いてる子なんだけど、作品の展示をするからって」
デートだ。完全にデートだ。本来であれば、サークルに所属している学生は大学祭でなんらかの出し物をするために狩り出されるところだが、そんな苦労などどこ吹く風で、彼氏彼女とデートをするために不参加を決め込み、あまつさえそのサークルの模擬店などを冷やかしに行くといった鬼畜の所行をナチュラルに敢行する連中がいる。ありえない。そんなことが許されるのか。
「行きます」
「じゃあ明日な」
この時期、わがキャンパスは黄色い。イチョウ並木とその落ち葉とで黄色一色に染められている。どこか甘い香りのする濃密な空気を胸一杯に吸い込み、浮き足だった足取りで僕は歩き出した。
13: 『絵』《V》 ◆LaKVRye0d.:2017/1/26(木) 01:46:31 ID:jsJ4QOAmCk
◆
その夜だ。家に帰って、昼間の出来事をじっくりと反芻していると、どう考えてもなにかオチがあるに違いないという結論に至った僕は、師匠のアパートを訪ねた。
「どういうことですか」
そう切り出しただけで、すべて承知した師匠は語り出したのだった。
「後輩にな、特美で絵を描いている子がいるんだ。福武有子っていって、今四回生かな。もう卒業か。学部も違うけど、ちょっとしたことで知り合って仲良くなってな。たまに相談に乗ったりもするんだけど。変わった子でさ。変な絵を描くんだ」
師匠はそう言って、押し入れに頭を突っ込んだ。
「まだこっちにあったかな。……あ、あった」
振り向いたその手に、簡素な額縁に納まった絵が掲げられていた。
それを見た瞬間、僕はなんとも言えない不安な気持ちになった。じわじわと気持ちの悪さが首をもたげてくる。
「この絵は、福武が去年描いたのをもらったんだ。これはなんだと思う?」
それは鏡の前でたたずむ人物画だった。油絵だろうか。女性が大きな化粧鏡の前に座り、それを背後から描いているのだが、背中越しの鏡の中に女性の顔が映っている。まだ若い女性だ。微笑むでも、自分の顔を見つめるでもなく、ただ無表情で座っている。そんな絵だ。自画像なのかも知れない。それだけなら、どうということもない絵だ。だが、そんな女性の隣に、もう一人の人物がいるのだ。
その人物は女性のすぐ隣に座っていて、こちら側に背中を向けている。つまり並んで鏡の方を向いている。はずなのだ。はずなのだが、鏡の中にも背中が映っている。両面とも後ろ姿なのだ。身体の前面という、顔に代表されるその人のその人らしさを象徴する部分がどこにも存在していない。
14: 『絵』《V》 ◆LaKVRye0d.:2017/1/26(木) 01:50:02 ID:jsJ4QOAmCk
匿名的、というにもあまりにおぞましい、異様な絵だった。
シュールレアリズムというのだろうか。画集を見たことがあるルネ・マグリットの作品にそんなモチーフの絵があっただろうかと考えていると、師匠は続けてこう言った。
「この絵は本人曰く、シュールレアリスムじゃなくて、レアリスムだとよ。実際にこういう、後ろ姿しかないやつを見たんだって」
ぞくりとした。
見た? こんなやつを?
「福武は子どものころから、こういうこの世のものではないやつを良く見るそうだ。そんな時はいつも見たものを絵に描く。そうすることで、怪異から自分の身を守れると信じている。絵の中に閉じ込める、って言ってたけど、さあ、それはどうだろうな」
師匠はそう言って絵の表面をなぞった。薄ら笑いを浮かべながら。
「ただお化けを見るってだけなら、私だって、お前だってそうだ。だけどそれが画家だと、なんだかずっとしっくり来るんだよな。幻視者って言葉が」
げんししゃ。
確かに。口の中でその言葉を転がし、そう思った。絵の中の、何も色彩を持たない背中と、鏡の中の何も色彩を持たない背中。
「福武が一番多く描いているのが、身体の一部が大きい人間だ。片目や、片手や、鼻だけが異様に大きい人間。あいつは、昔見たんだってよ。そういう人間を。いや、こう言っていた。彼らは、身体の一部だけを残して小さくなってしまった巨人だと。それから、そんなやつらの絵を描きまくってると見えなくなったそうだ。めでたしめでたし」
15: 『絵』《V》 ◆LaKVRye0d.:2017/1/26(木) 01:53:40 ID:jsJ4QOAmCk
師匠が冗談めかして語るその話に、僕はふいに緊張を覚えた。なにかが繋がりそうな気がしたのだ。恐ろしいなにかが。
「ところが、最近になってから、また見えるようになったというんだ。はっきりと目の前で見ているんじゃなくて、どこかにそういうやつがいるのが見えるんだと。まさに幻視ってやつだな。しかも子どものころに見ていたやつらとは少し違っていた。最初は分からなかったらしい。ただ、ほんの少しの違和感を覚えた程度だと。やがて福武は気づいた。目だけが大きいやつや、手だけが大きいやつ。そんな不気味なやつらに現れた、新しい共通点」
師匠は化粧鏡の絵を下ろし、僕を試すように見つめた。
「片目じゃなくて、両目だったというんだ。身体に対して異常な大きさを持っているのが。手がでかいやつは、片手じゃなくて両手。片足じゃなくて、両足。片耳じゃなくて、両耳」
想像してみろ。と師匠は言った。
両目だけが、異常に大きく、顔からはみ出てている人間。まるで子どもが描いたような絵から抜け出て来たようなやつだ。そんな人間が街を歩いている。小さな身体と小さな手足で。そしてその大きな目で見ている。そこから見える景色。なんて小さいんだろう。世界は。
「それは」
僕は思わず絶句した。
今年の夏だった。小人と巨人にまつわる出来事に遭遇したのは。そのことと関係があるというのだろうか。胸がドキドキする。
16: 『絵』《V》 ◆LaKVRye0d.:2017/1/26(木) 01:57:07 ID:/.Q2kT1tPE
「福武がな、明日からの大学祭で作品を展示するんだけど、その中に見て欲しい絵があるって言うんだ」
師匠はそう言ってにやりと笑った。
◆
翌日、僕と師匠は待ち合わせて、一緒に一般教養の学部棟へ向かった。講義室の一室を借りて、そこで特別美術コースの学祭展をしているそうだ。
様々な模擬店が立ち並ぶキャンパスの間を抜け、大学祭の喧騒から離れていくと、少し物寂しい気持ちになる。途中、ささやかな学祭展の看板が目に入ったが、こんなもので足を運ぶ人がいるのだろうかと、人ごとながら心配になった。
開放されていたその講義室は二階にあり、階段を登った先にある廊下を抜け、そこに並んだ扉の一つに入ると四方の壁を覆うように白い足付きのボードが並んでいて、そこに沢山の絵が展示されていた。
「浦井さん」
展示会場の奥にいた女性がこちらに気づいて近づいてくる。小柄で端正な顔をしていて、髪が長い人だった。この人が福武さんか。
痩せているが、病的というほどでもない。だが、どこか不健康な印象を受けた。
17: 『絵』《V》 ◆LaKVRye0d.:2017/1/26(木) 02:00:42 ID:jsJ4QOAmCk
「ありがとうございます。来てくれて」
「ようフクタケ。開店休業状態か」
師匠は会場内を見回す。福武さんと一緒にいたもう一人の女性は恐らく同じ特美の学生だろう。会場当番ということか。それ以外に会場内にいるのは、僕らを除くと一人だけだった。学生ではない年配の女性で、模擬店で買ったらしい焼きソバかなにかのビニール袋を右腕に引っ掛けて、あまり熱心にでもなく一つ一つの絵を見て回っていた。
あ、いや、そう思っている間に一人増えた。学生らしい服装の若い男がキョロキョロしながら入って来たのだった。それにしても寂しいものだ。
「あれ? 浦井さん。彼氏ですか」
福武さんは僕の方を見ながらそう訊いてきた。
「家来だ」と師匠が言うので、僕は「家来です」と言うほかなかった。せめて弟子と言って欲しかったが。
物珍しそうな視線をかわして、僕は壁際の絵に近づいた。学生が描いたにしても、やはり高校生とはレベルが違う。透明感のある夕暮れの街の風景や、バスケットに盛られた果物の精密な絵などを眺めながら、僕は自分の中に、それでも感動の欠片も浮かんで来ないのを感じていた。昔から絵はあまり好きではないのだ。
それでも来場者がまた増えたようだ。カップルらしい二人組が入って来て、変な歓声を上げている。
「で、見て欲しい絵ってのはどれ?」
師匠がそう訊ねると、福武さんは少し緊張した面持ちで、入り口から見て左隅の壁を指さした。
18: 『絵』《V》 ◆LaKVRye0d.:2017/1/26(木) 02:04:43 ID:jsJ4QOAmCk
「あれか。いつ描いたの」
師匠はそう言いながら左隅の壁際のボードに近づいていった。
「完成したのは五日くらい前です」
師匠と、福武さんの後に続いて僕も歩き寄る。
それは、大きな絵だった。三十号だか、四十号だか知らないが、そのくらいの大きさの絵がボードに掛けられている。
師匠がその絵の前に立った瞬間、なにか異様な空気の緊迫を感じた気がした。師匠はその姿勢のまま固まり、身じろぎ一つしない。
僕はなぜか足が重くなり、師匠の背中を見つめたまま絵の方に近寄れないでいた。
「なぜこの絵を描いた」
師匠が絵を見据えたまま落ちついた口調でそう訊ねる。だがそれは張り詰めた空気の中を慎重に泳ぐような声色だった。
福武さんは「それは」と言ったきり口ごもり、言葉を探している。もう一人の特美の学生は、増えた来場者の対応で入り口のあたりにいる。展示会場の奥の一角には僕ら三人しかいない。
「見たんだな」
念を押すような師匠の言葉に、福武さんは頷いた。
「どこで見た」
師匠は絵から目を逸らさない。福武さんは一歩だけ近づき、「どこだか分からない、どこかで」と言った。
師匠が言っていたとおりだ。福武さんの幻視は、その目で景色を見るようなものとは少し違うのだろう。この世のものではないものを街のどこかに、あるいは、どこだか分からないどこかに、幻視しているのだ。
僕は重い足を引きずりながら、師匠の隣に近づいていった。
大きな絵だった。油絵だ。夜を思わせる黒い背景の中に、気持ちの悪い生き物たちがいる。それは良く見ると裸の人間たちで、誰もかれも身体の一部が大きかった。鼻が身体の半分ほどもあるもの。両手がアホウドリの翼のように大きいもの。両目が寄生虫に侵されたカタツムリのように大きいもの……
そして、両目と両手が大きいもの。
両耳と足先だけが大きいもの。
顔全体が大きいもの。
19: 『絵』《V》 ◆LaKVRye0d.:2017/1/26(木) 02:09:32 ID:jsJ4QOAmCk
「なんですか、これ」
僕は呻いた。そんな人間とも呼べないような人間たちばかりが十人以上、両手を天に突き出しながら集っている絵だった。そのどれも、虚ろな表情をしながら、どこか狂気を孕んだような茫漠とした目つきをしていた。
サバトを思い浮かべた。まるで悪魔の宴だ。
そしてちょうど絵の中央に、身体の一部が大きい人間たちが崇め奉るようにして囲んでいる化け物の姿があった。
「お前、これがなんなのか、知っているのか」
師匠が押し殺した声でそう訊ねる。福武さんは首を左右に小さく振った。
「知らない」
小さな声でそう答える。
20: 『絵』《V》 ◆LaKVRye0d.:2017/1/26(木) 02:13:27 ID:/.Q2kT1tPE
身体の一部が大きい人間たちが崇拝しているように見えるその怪物は、おぞましい姿をしていた。僕の身体は小刻みに震える。その姿をどこかで見たことがあるような気がしたが、ふいに湧いてきた全身を覆う悪寒に、記憶を辿ることもできない。
見ている。
悪寒の正体が言葉になった瞬間、張り詰めていた空気が、ねとくつような密度を持ち始めた。
見ている。絵の中から。
朝からここに飾られていたはずのただの絵が、僕らの来訪とともに、変質しようとしていた。いや、僕らじゃない。師匠だ。師匠の存在に呼応しているのだ。
絵は静かにそこにあるだけだ。しかし、少しでも目を逸らすと、その狂気の宴が動き始めそうな気がして、僕はとてつもない息苦しさを感じていた。怪物の目がぐるりと動くような錯覚を立て続けに感じる。
「なんの冗談だ、これは」
師匠が吐き捨てるように呟く。その言葉に違和感を覚え、僕は恐る恐る訊ねた。
「これがなんなのか知っているんですか」
師匠はゆっくりと頷いた。そして絵から視線を逸らさず、その中央に横たわる怪物を指さした。
「名前だけは、誰でも知ってる。でも、姿を知っている人は少ないだろうな」
師匠はそうして怪物の名前を告げた。
「え」
その名前に、僕は唖然とした。
「これが?」
確かに、なんの冗談なのだ。偶然のはずはない。それではまるで……
「ちょっと、押さないでよ」
甲高い声が展示会場の中に響いた。突然の大きな声に驚いて振り返ると、いつの間にか講義室の入り口のあたりには沢山の来場者がたむろしていた。ちょうど開け放した扉のあたりにいた学生らしい女性が、後ろから来る人の圧力で転びそうになっている。
さっきまで閑散としていたのが、嘘のような盛況だった。
21: 『絵』《V》 ◆LaKVRye0d.:2017/1/26(木) 02:18:32 ID:/.Q2kT1tPE
そのわいわいとした賑やかさに、僕は生唾を飲み込んだ。降って湧いたような賑やかさの中で、まだ僕らの周りの張り詰めた空気と、絵の中からの異様な視線は続いていたのだ。
異常な状況だった。
「押さないでください」
福武さんの仲間が声を張り上げて、来場する人々を会場の奥へと誘導する。僕と師匠と福武さんが立ち尽くす一角へも人の流れがやって来ようとしている。
先頭を行く女性が「なんなのよ、もう」と言いながら、戸惑った様子で歩いて来る。師匠がそこへ駆け寄り、早口で訊ねた。
「どうしてここへ来たんだ」
女性は学生らしく、話しかけてきた相手が年上なのか年下なのかとっさに値踏みするように見つめていたが、師匠の切羽詰った様子に「どうしてって、なんとなく」とだけ答えた。
師匠は続けてその後ろにいた男に声を掛ける。無精ひげを生やしていて、学生ならばドクターあたりの年齢だろうか。
「誰か宣伝でもしていたのか」
師匠に肩を揺すられ不快そうに眉をひそめたが、男は「別に」と答えた。
「なんなの」「やめて、押さないでって言ってるでしょ」「ちょっと、もう出ようよ」「出よう」「なんか怖い」
人々は困惑した様子で口々にそう言い、絵を見ようという余裕はすでになくなりつつあった。しかし、次から次へと講義室の入り口から人が入って来る。
「なんなのこれ」
福武さんは、怯えた様子で口元を手で塞ぎ目を見開いている。
その混乱の中でも、師匠は人々に声を掛け続け、この事態が一人ひとりの行動に絞って確認する限り、単に「学祭展をやってるらしいから、見てみるか」というありふれた動機から来ていることを突き止めていた。
だがその一人ひとりの個人的な行動が、大学祭に来ていた多くの人々の中に生まれうる蓋然性を、はるかに超えた異常な割合で発生していたのだった。
「押さないでください!」
悲鳴のような声があがった。出入り口の混乱状態はすでに収拾がつかないような状況のようだった。
22: 『絵』《V》 ◆LaKVRye0d.:2017/1/26(木) 02:22:34 ID:jsJ4QOAmCk
「実行委員会に連絡しなきゃ」
仲間が焦った様子で福武さんの肩を揺する。しかしそのすべはなかった。ここから出て、大学祭の役員を呼んで来ようにも、押し寄せる人の壁にとても出来そうになかったのだ。
「戻って、戻って」
出入り口のあたりの人が廊下側に声を掛けるが、人の流れは止まる気配がなかった。徐々に講義室の空間が人間の群で狭くなっていく。
僕は想像する。恐らく講義棟の入り口あたりには、特美の学祭展に行こうとする人の行列が出来ているのだろう。その行列が人々の注目を集め、なんの興味もなかった人々までも集め始めているのだ。これから並ぼうとする人たちは多分、これがなんの行列なのかすら分かっていないだろう。
「痛い、痛い!」
廊下の方でどよめきが起きた。転倒があったようだ。密集地帯で倒れた人に押されて隣の人が倒れる、という恐ろしい循環が生まれたのだ。人々の悲鳴があっという間に充満する。
恐慌が起ころうとしていた。
目の前で展開する現実的な恐怖に僕の身体は震え、なにをすればいいのかも分からなかった。
「どけ」
師匠が周囲にそう怒鳴ると、福武さんたちが使っていたパイプ椅子を掲げて、講義室の奥にあった申し訳程度の小さな窓に叩きつけた。ガスン、という大きな音がしたが、ガラスは割れなかった。
「くそ」
師匠は悪態をつくと、窓ガラスに近づき、その構造を確かめる。胸元の高さに窓が設置されている。僕も駆け寄ったが、空気を入れ替えるための最低限の形でしか開かないように調整されているらしく、専用の器具もない現状では窓を開けようにもほんのわずかな隙間しか作れなかった。
水平方向に軸があり、上部が手前側、そして下部が向こう側へと斜めに傾いた窓ガラス。その窓の外は二階だ。その向こうを見つめ、師匠が短く言い放った。
「ここから出る。その間に窓を押されたら腹が潰れかねない。お前はここで死守しろ」
師匠はそう言ったかと思うと、素早く振り向き、あの悪夢のような絵を壁から外した。
23: 『絵』《V》 ◆LaKVRye0d.:2017/1/26(木) 02:27:03 ID:jsJ4QOAmCk
「フクタケ! こいつは危険だ。処分するぞ」
本人が頷くのも確認せず、師匠は再び窓に駆け寄り、その隙間から絵を講義室の外に落とした。そしてサッシに手をかけ、ひと一人が通れるか通れないか、という狭い隙間から、その身体を柔軟にしならせるようにして、外へ出ようとした。
案の上、窓から出られることに気づいた周囲の人間が殺到しようとする。僕は吼えながら、それを力づくで押しとどめる。人の壁の物凄い圧力に恐怖を覚え、もう駄目だ、と思った瞬間、師匠の姿が窓の外へ完全に消えていった。
「あとは任せろ」という声を残して。
◆
師匠が窓の外へ消えてから、ほどなくして人の流れは途絶えた。密集状態は徐々に緩和されていったが、人の喧騒が生んだ異様な熱気と、怪我人の呻き声はいつまでも周囲に漂い続けていた。
救急車とパトカーが来て、ようやく事態が収拾したのは一時間以上経ってからだった。実況見分が始まり、大学祭の実行委員会の役員と、福武さんたち特別美術コースのメンバーが事情を聞かれている中、僕は大した怪我もなく、するするとその場を逃げ出した。
師匠がどこにいったのか分からず、しばらくあたりを探し回っていたが、やがて諦めて一度自分の家に帰った。家から電話を掛けると、師匠は自分の家に戻っていた。すぐさま外へ飛び出して、師匠のアパートへ向かう。
24: 『絵』《V》 ◆LaKVRye0d.:2017/1/26(木) 02:29:08 ID:/.Q2kT1tPE
ノックだけをしてすぐにドアを開けると、師匠は部屋の真ん中であぐらをかいていた。
「よう。無事だったか」
「僕は大丈夫です」
師匠はなぜか、服のあちこちが破れていた。窓から落ちる時に引っ掛けでもしたのかと思ったが、そんなにあちこちが破れるものだろうか。疑問に思っていたら、師匠は言った。
「あの後の方が大変だった」
それはどういうことかと訊いても詳しく教えてくれなかったが、とにかく絵は処分したのだという。
「燃やしたんですか」
「ああ。焼却炉で」
サークル棟のそばに学生が管理を任された焼却炉があるのだが、そこで燃やしたのだろう。
「あの絵はなんなんですか」
僕はそう訊ねると、師匠ははぐらかすように言った。
「ばけものの絵だ」
そうして、やぶれた肘のあたりを弄り回していた。
【了】
25: 1 ◆LaKVRye0d.:2017/1/26(木) 02:34:03 ID:jsJ4QOAmCk
近々、図解のある作品を投下する予定です
いめピクの様に、たった1ヶ月で消えてしまったりしない、
張り付けた画像が長期間残るろだをご存知の方、教えて頂けましたら幸いです
26: 風の谷の名無しか:2017/1/26(木) 17:56:37 ID:pXTjnOzJk6
イマジスやピクシブに登録したら?
絵のTは知ってたけどUとVは初めて読んだ。
やっぱり加奈子さんの話は面白い!
1レスがもう少し短い方が読みやすいかも。
27: 1 ◆LaKVRye0d.:2017/1/26(木) 21:07:51 ID:bIf7Iu36js
>>26
イマジスが簡単に登録出来そうだったので早速しました!有難うございました!!
私も加奈子さんの大ファンなので、彼女が出て来る話は大好きです!
28: 1 ◆LaKVRye0d.:2017/1/26(木) 21:34:06 ID:1ncpyEZBBk
>>26
書き忘れてました、1レスの長さの件、了解です
次の話からは、もう少し短くして載せますね
29: 月と地球 ◆LaKVRye0d.:2017/1/30(月) 02:18:26 ID:loeHvyRIOA
月と地球
361 :ウニ ◆oJUBn2VTGE :2013/08/16(金) 23:29:32.14 ID:N/i40Div0
・A・ どうも。
次のお話は、去年の夏に同人誌に寄稿したものです。
362 :ウニ ◆oJUBn2VTGE :2013/08/16(金) 23:30:39.75 ID:N/i40Div0
師匠から聞いた話だ。
小高い丘のなだらかに続く斜面に、藪が途切れている場所があった。
下草の匂いが濃密な夜の空気と混ざりあい、鼻腔を満たしている。その匂いの中に、自分の身体から発散させる化学物質の香りが数滴、嗅ぎ分けられた。
虫除けスプレーを頭からひっかぶるように全身に散布してきた効果が、まだ持続している証だった。
それは体温で少しずつ揮発し、体中を目に見えないオーラのように包んで蚊やアブから僕らを守っているに違いない。
斜面を背に寝転がり、眼前の空には月。そしてその神々しい輝きから離れるにつれ、暗く冷たくなっていく宇宙の闇の中に、星ぼしが微かな呼吸をするように瞬いているのが見える。
ささのは
さらさら
のきばに
ゆれる
おほしさま
きらきら
きんぎん
すなご
虫の音に混ざって、歌が聞える。
とてもシンプルで優しいメロディだった。
ごしきのたんざく
わたしがかいた
おほしさま
きらきら
そらから
みてる
歌が終わり、その余韻が藪の奥へ消えていく。僕は目を閉じてそのメロディのもたらすイメージにしばし身を任せる。
30: 月と地球 ◆LaKVRye0d.:2017/1/30(月) 02:21:49 ID:gGNvDtuvts
363 :月と地球 (タイトル抜かりorz) ◆oJUBn2VTGE :2013/08/16(金) 23:33:51.06 ID:N/i40Div0
虫の音が大きくなる。
隣に、似たような格好で寝転がっている師匠の方を、片目を開けて覗き見る。
組んだ両手を枕にして、また右足を左足の膝の上で交差させ、ぶらぶらさせている。そして夜空を見上げながら、さっきの歌を鼻歌にしてまた繰り返し始めた。
夏になると、師匠はふとした時、気づくとこの鼻歌を歌っていた。機嫌がいい時や、手持ち無沙汰の時。ジグソーパズルをしている時や、野良猫にエサをやっている時。
しかしその歌を声にして歌っているのを聞いたのは初めてだった。
大学一回生の夏。
僕の夏は、たった二度しかなかった。
その最初の夏が、日々、目も眩むほど荒々しく、そして時にこんな夜には静かに過ぎて行った。
「出ないなあ」
師匠が鼻歌の区切りのところで、ぼそりと言った。
「出ませんねえ」
それきり鼻歌は止まってしまった。
31: 月と地球 ◆LaKVRye0d.:2017/1/30(月) 02:23:01 ID:loeHvyRIOA
僕は聞えてくる虫の音が一体何種類のそれで構成されているのか、ふと気になり、数えようと耳を澄ませる。草の中に隠れているその姿を想像しながら。
隣で師匠が欠伸を一つした。
僕たちは、ある心霊スポットに来ていた。遠い昔の古戦場で、この季節になると、まるで蛍のように人魂が舞っている幻想的な光景が見られると聞いて。
しかし、一向に人魂も蛍も姿を見せず、僕らはじりじりとただ腰を据えて待っているだけだった。
僕が二の腕に止まった蚊を叩いた時、師匠が口を開いた。
「いい月だなあ」
言われて見ると、ちょうど満月なのかも知れない。綺麗な円形をした月だった。
「いい月ですねえ」と返すと、師匠は「知ってるか」と続けた。
「来年の一月にな。スーパームーンってやつが出るらしいぞ」
「知らないですね。満月の一種ですか。どの辺がスーパーなんですか」
「でかいらしい」
でかいって…… 月は月だろう。
「そのスーパーなやつなのか知りませんけど、普段からなんかたまにやたらでかく見える時ありますけどね」
32: 月と地球 ◆LaKVRye0d.:2017/1/30(月) 02:24:47 ID:loeHvyRIOA
364 :月と地球 ◆oJUBn2VTGE :2013/08/16(金) 23:36:43.15 ID:N/i40Div0
「それは月が地平線の近くにある時だろう。あれは錯覚なんだぞ」
「錯覚ですか」
「そう。証拠に、目からの距離を固定した五円玉の穴から覗いてみな。普段の月と大きさは一緒だから。あれは、普段中天にある時は夜空の星を遮る存在で、
つまり『手前側』にある月が、地平線近くにある時には家とか山とか電信柱とか、他のものに遮られて、つまり遥か『後ろ』、遥か遠くにある、と認識されるために生まれる錯覚なんだよ」
「そんなもんですかね」
夕方、まだ向こう側がほのかに赤い地平線から現れる巨大な月を頭に思い描く。
「でもそのスーパーなやつも結局は錯覚なんでしょう。本当の大きさは同じわけだから」
「いや、そうじゃない。本当に大きいんだ」
「そんなわけないでしょう。天体が簡単にでかくなったり縮んだりするわけがない」
「そういうことじゃなくて、単に地球と月の距離が近くなるんだよ。それぞれ楕円軌道を描いている二つが、何年かに一度しかない、絶妙なタイミングで」
大きさが変わらないのにそう見える、というのだから、それも錯覚と言うべきである気がしたが、良く分からなくなったので僕は黙っていた。
「だから、実際にでかく見えるんだ。それも今度のは、スーパームーンの中でもさらに特別に最短距離になる、エクストリーム・スーパームーンってやつらしい」
聞いただけでも、なんだか凄そうだ。
「二十年に一度くらいしか来ない、えらいやつだってさ。15%くらいでかく見えるって」
そうか。そんなにえらいやつが来るなら見てみるか。忘れないようにしよう。そう思って、来年の一月、エクストリーム・スーパームーンという言葉を脳裏に刻み付けた。
それから師匠は訊きもしないのに、月にまつわる薀蓄を勝手に垂れ始め、僕はそのたびに少し大袈裟に感心したりして、目的である人魂の群が現れるまでの時間を潰した。
師匠の話はどんどん胡散臭くなり始め、最後には火星と木星の間に昔、地球などと兄弟分の惑星があり、それが崩壊して出来た岩石が今のアステロイドベルトの元になっているという話をしたかと思うと、
地球には元々衛星はなく、その消滅した惑星の衛星が吹き飛ばされ、地球の引力にキャッチされてその周囲を回り始めたのが今の月なのだと、興奮気味に語った。
33: 月と地球 ◆LaKVRye0d.:2017/1/30(月) 02:27:17 ID:gGNvDtuvts
365 :月と地球 ◆oJUBn2VTGE :2013/08/16(金) 23:39:03.86 ID:N/i40Div0
一体どこで吹き込まれたのか知らないが、最近学研のムーとかいう雑誌が師匠の部屋に転がっていたのを見たので、きっとそのあたりなのだろう。
そう思ったところで、さっきのエクストリーム・スーパームーンの信憑性も疑わしくなったので、とりあえず脳に消しゴムをかけておいた。
僕らがそんなやりとりをしている間にも、月はその角度をわずかずつ変え、僕らの首の角度もそれにつれて少しずつ西へ、西へと向いていった。
何ごともなく夜は過ぎる。
虫の音はいつ果てるともなく続き、やがて話し疲れたのか師匠は無口になる。
だんだんと防虫スプレーの効き目が切れてきたらしく、腕や足に止まる蚊が増え、その微かな感触を察知するたび、僕はパチリ、パチリと叩き続けた。
十分ほど沈黙が続いた後で、師匠はふいに口を開いた。
34: 月と地球 ◆LaKVRye0d.:2017/1/30(月) 02:27:59 ID:gGNvDtuvts
「昔な、宇宙飛行士になりたかったんだ」
へえ。初耳だった。
「女性宇宙飛行士ですか」
「アポロ11号で、アームストロングとオルドリンが月面に人類で始めて降り立った時、私はまだ二歳だか三歳だか、そのくらいの子どもだったけど、周囲の人間たちがテレビを見て大騒ぎをしていたのをなんとなく覚えてるんだ」
アポロ11号か。僕などまだ生まれていないころだ。
「最後の月面有人着陸のアポロ17号ははっきり覚えてるぞ。船長のジーン・サーナンがえらく男前でな。そいつとハリソン・シュミットって科学者がさ、月面……『晴れの海』で月面車に乗ってドライブをするのさ。
そうして人類最後の足跡を残す、って言って去るんだよ。計画のラストミッションだったから。でもそれから本当に人類はただの一度も月に足を踏み入れてないんだ」
僕はさっきからずっと見上げていた月を、今初めて見たような気持ちで見つめた。
そうか。あそこに、僕と同じ人間が行ったことがあるんだ。
改めてそう思うと、なにか恐ろしい気持ちになった。
月は暗い虚空に浮かんでいて、あそこまで行く、なんの頼るべきすべもないのだ。空気もなく、重力もなく、途方もなく寒く……
どうして人類はあんなところに行こうと思ったのだろう。
そしてどうしてあんなところに行けると信じられたのだろう。もう人類は、その夢から覚めてしまったのかも知れない。
宇宙飛行になりたかったはずの師匠も、今はこうして地面に寝転がっている
「いつ諦めたんですか」
35: 月と地球 ◆LaKVRye0d.:2017/1/30(月) 02:31:33 ID:loeHvyRIOA
367 :月と地球 ◆oJUBn2VTGE :2013/08/16(金) 23:40:24.16 ID:N/i40Div0
「そうだな。小学校五年生の時だ」
「早いですね」
もう少し夢を見てもいいのに。
現実を見ないことにかけては定評のあるこの師匠が、実に殊勝なことだ。
「笑ったな。でも今でも覚えている。あれは小学校五年生の夏休みが始まった日の夜だ。私は英語の塾に行くことになってたんだよ」
「小学生が英語ですか」
「当然だ。宇宙飛行士になりたいなら、英語力は絶対に必要だった。だから親に頼んで、近所の英語を教える塾に通わせてもらうことにした」
祖父さんの弟で、アメリカに渡った人がいたんだ。
師匠は月を見上げたまま語る。
「亀に司って書いて亀司(ひさし)って読む人だ。バイタリティ溢れる人だった。アメリカ人の女性と結婚して、向こうに渡ってな。
最初はニューヨークで蕎麦屋をやろうとしたんだけど、失敗して、しばらくタクシーの運転手をやってたんだ。それでまた溜めた金で今度はスシバーを始めたらこれが流行った。
大儲けさ。
今もまだその店やってるんだけど、四つか五つ、支店もあるんだ。自分はグリーンカードのままで、帰化申請もしてないんだけど、向こうで生まれた子どもたちはアメリカ国籍を持ってる。日系二世ってやつだな。
その長男がリックって名前で、工業系の大学へ進んだ後、NASAに入ったんだ」
「え。本当ですか」
「ああ。車両開発のエンジニアだった。亀司さんは毎年正月には家族をみんな連れて、うちの実家へ顔を見せに来るんだ。
NASAの職員だったリック…… 日本名は大陸の『陸』って漢字を当ててたから、私は陸おじさんって呼んでたけど、その陸おじさんが私にはヒーローでな。
日本にいる間、私はいつも宇宙ロケットとか、宇宙飛行士の話をせがんで、ずっとくっついてた」
心なしか、懐かしそうに顔がほころんでいる。
36: 月と地球 ◆LaKVRye0d.:2017/1/30(月) 02:33:51 ID:gGNvDtuvts
368 :月と地球 ◆oJUBn2VTGE :2013/08/16(金) 23:46:41.22 ID:N/i40Div0
「私も宇宙飛行士になって、月に行きたいって言うと、陸おじさんはこう諭すんだ。そのためには勉強を死ぬ気で頑張らないとな、って。これからの宇宙開発は、アメリカ単独ではなく、多国間で協力して進めていくようになる。
宇宙飛行士も、いろんな国から優秀な人材を選抜するようになるだろうから、その時、日本で一番の宇宙飛行士として選ばれるように、今から頑張らないといけないってさ。
私もアメリカ人になって、NASAに入って宇宙に行くんだって言い張ったけど、今から加奈ちゃんがNASAに入るのは難しいなあ、と言われたよ。それに、今の宇宙飛行士はNASAの職員じゃなくて、アメリカの軍人ばかりさ、って」
「それで諦めたんですか」
「いや、頑張ろうと思ったさ。勉強を。日本人の一番になるために。特に、語学は早いうちに始めた方がいいって言われたから、まず英語を習おうと思ったんだ。
夏休みの前にも、手紙でもそんなやりとりをしてて、思い立ったんだ。夏休みに入ったら、すぐに行くことにしたよ。でも、その最初の日のことだ」
37: 月と地球 ◆LaKVRye0d.:2017/1/30(月) 02:35:33 ID:loeHvyRIOA
そこは日中、別の仕事をしている先生が、夜間に開いている塾だった。
私は日の暮れかけた道を歩いて、そこへ向かっていた。途中で筆箱を忘れたことに気づいて取りに帰ったりしたせいで、初日だというのに遅刻しそうになって少し焦っていた。
今みたいには舗装もちゃんとされていない道を早足で歩いてると、大きな廃工場の前を通りがかったんだ。
普段はあんまり通らない道だったから、何気なくその人気(ひとけ)のない不気味な建物の中を覗き込みながら通り過ぎようとしたら……
錆び付いてところどころ剥がれたスレートの波板の外壁、その二階部分に窓があって、そこに誰かがいた。すうっと、消えていったけど、確かに私のことを見下ろしていた。
人間じゃないことはすぐに分かった。そう感じたんだ。
怖くなって走った。走って、先へ進んだ。
だけど、遠ざかっていく廃工場が完全に見えなくなる曲がり角に来たとき、私は立ち止まった。
まず、自分が立ち止まったことに驚いた私は、その理由を考えた。
廃工場に戻りたいんだ。
そう考えた時、ゾクゾクした感触が背中を走り抜けたよ。
38: 月と地球 ◆LaKVRye0d.:2017/1/30(月) 02:38:03 ID:gGNvDtuvts
369 :月と地球 ◆oJUBn2VTGE :2013/08/16(金) 23:49:46.48 ID:N/i40Div0
あの見下ろす視線の、正体が知りたい。
それは、途方もなく魅惑的な誘惑だった。私はもうそのころには、自分のどうしようもない性癖に気づいていた。抗いがたい、怪異への欲求。それは私だけが求めるものではなく、怪異からも常に私は求められ、欲されていた。
振り向きたい。
いや、振り向いてはいけない。
塾の始まる時間は迫っていた。走って行かなくては間にあわない。勉強は明日から頑張ればいいや。一瞬、そんなことを考えもした。
でもそんな甘いことを言う人間が、日本の宇宙飛行士候補の一番になれるわけがない。そのことも、子どもながらに悟っていた。一事が万事だ。
戻るか、進むか。
振り向くか、振り向かないか。
その相反する二つの選択の、尖った岐路に私は立っていた。
わずかに残っていた夕日が山の向こうに消えて、夜の闇が背中から迫って来ている。人のいない道に、ただ一つ伸びていた私の影が見えなくなっていく。
塗装の剥がれたカーブミラーが道の隅にぽつんと一本立っていて、その大きな瞳に灯っていた光がゆっくりと死んで行こうとしていた。
戻るか、進むか。
振り向くか、振り向かないか。
お化けを見るか、宇宙飛行士になるか。
自分の呼吸の音だけが身体の中に響いていた。
やがて私は、一つの選択をする。
暗い淵に呼ばれるように私は、戻ることを選んだ。
曲がり角で振り向いて、廃工場の方へ足を踏み出す。
でもその瞬間、すぐ後ろで遠ざかっていく人の気配を感じた。足早に歩く靴の音まで聞こえる。ああ。もう一人の自分だ。身を焼かれるように宇宙飛行士に憧れた私は、進むことを選んだのだ。
戻った自分。
進んだ自分。
私は、その時二つに分かれた。
どちらも私だった。二人の私がお互いに背を向けて、歩き出したんだ。
39: 月と地球 ◆LaKVRye0d.:2017/1/30(月) 02:40:51 ID:loeHvyRIOA
371 :月と地球 ◆oJUBn2VTGE :2013/08/16(金) 23:52:51.89 ID:N/i40Div0
戻った私は、廃工場でこの世のものではないものを見た。とてもおぞましく、恐ろしく、美しかった。
それから、私は宇宙飛行士になりたいという夢を口にしなくなった。それは、あの時、英語の塾へ行った方の自分が叶えるべきものだったからだ。
陸おじさんは、その後数年でNASAを退職した。スペースシャトル時代がやってくる前にだ。何度かあったアメリカ政府の宇宙開発にかける予算削減のためだった。
様々な機器の外注が増え、陸おじさんもそんな業務を扱う民間企業に再就職したけれど、軍需産業にも多角的に経営の手を広げていったその企業の中にあっては、やがて宇宙開発に関するプロジェクトから外れることが多くなった。
『もう僕は、地球以外の場所で走行するための車両開発に関わることはないだろう』
寂しそうにそう言った時の彫りの深い横顔が今も脳裏に焼き付いている。その技術に全精力を費やした日々が、遠い彼方へ去っていったことへの、諦めと無力感だけがそこにはあった。
月面という新たな大地から、人類はしばらくの間、いや、ひょっとすると、永遠に去ってしまったんだ。
40: 月と地球 ◆LaKVRye0d.:2017/1/30(月) 02:41:36 ID:gGNvDtuvts
「時々、今でも思うんだ。あの塾へ向かう曲がり角で、進むことを選んだもう一人の自分のことを。そいつは、多分死ぬほど勉強したに違いない。血ヘドを吐くくらい。
それだけのものを捨てて来たんだから。そしてきっと日本で一番の宇宙飛行士候補になって、アストロノーツに選ばれ、宙(そら)に上がるんだ。
もう一人の私が選んだ世界は、人が人のまま他の天体に足を踏み下ろすことの価値を、子どものように信じている。私がそう信じたように。そんな世界なんだ。
そこでは有人月面着陸の計画が再び興され、私はそのクルーに選ばれる。そしてこの役得だけは譲れないという自信家の船長に続いて、二番目か、さらに控えめに三番目の、サーナンとシュミット以来となる月面歩行者になるんだ」
師匠は眠たげな声で、訥々と語る。隣にいる僕に聞かせるでもなく。
いつの間にか、虫の音が少し小さくなっていた。どこかとても遠くから聞えてくるようだった。
41: 月と地球 ◆LaKVRye0d.:2017/1/30(月) 02:45:38 ID:gGNvDtuvts
372 :月と地球 ◆oJUBn2VTGE :2013/08/16(金) 23:55:11.91 ID:N/i40Div0
「月面での様々なミッションが与えられていて、仲間たちは大忙しだ。私は陸おじさんがパーツの多くを開発した月面車(ルナビークル)で、そこら中を走り回るんだ。定期的に着陸機の中で眠り、数日が過ぎる。
アポロ計画のころより、ずっと長い滞在期間だ。その仕事に追われる日々の中、私は自由時間を与えられる。もちろん定時通信はするし、遠くにも行けない。
それでも着陸機や、棒で広げられた風にたなびかない星条旗なんかが視界に入らない場所まで行って、そこで私は一人で寝転がるんだ。そこはとても静かだ。
月の貧弱な重力では大気を繋ぎとめられなかったから、月面という地上にありながら、そこは真空の世界だ。宇宙服の中を循環する空気や冷却水の音。それだけがその世界の音なんだ。
大気がないために、視界がクリアでどこまでも遠くが見渡せる。それは寒気のする光景だ。白い大地と、黒い空。空と宇宙の境界線なんてありはしない。その大地のどこもすべて宇宙の底なんだ。
大地にも空にも、どんな生物も生きられない世界。地球を詰め込んだ、宇宙服がなければ…… 心細さに身体を震わせた私は、ふと誰かの視線を感じたような気がする。周囲を見回すけれど、誰もいない。
小さな丘の向こうにいる仲間たちの他には、誰もいないんだ。この三千八百万平方キロメートルという広大な大地の上に、誰一人。それを知っている私は、子どものころに見た幽霊を思い出す。
しかし、その幽霊すら、ここにはいない。いることができない。歴史上、この月面で、いや宇宙空間で死んだ人間は誰もいないのだから。幽霊のいない世界。私は今までに感じたことのない恐怖を覚える。
孤独が、大気の代わりに私を押し包む。感じていた視線は、いや視線の幻は、やがて消える。私は、宇宙飛行士が感じるというある種の錯覚のことを真剣に考える」
師匠は夢を見るように、うつろな表情で語り続ける。月光がその頬を青白く浮かび上がらせている。
僕はじっと師匠のことを見ていた。
42: 月と地球 ◆LaKVRye0d.:2017/1/30(月) 02:48:09 ID:loeHvyRIOA
374 :月と地球 ラスト ◆oJUBn2VTGE :2013/08/17(土) 02:04:50.33 ID:MpcQHp2g0
「そうして私は、もう一人の自分のことを思い出す。小学校五年生の夏休み初日、英語の塾に行かず、廃工場へ戻って行った、もう一人の自分を。
その自分は、宇宙空間ではない、別の暗い世界の中を彷徨っているだろう。そうして普通の人間にはたどり着けない、恐ろしい光景を見たりしている。その自分は、今どうしているだろうか。
ひょっとすると、月を見上げて、昔二つに分かれてしまったもう一人の自分に想いをはせているだろうか。
こうして、月面に一人横たわり、青い円盤(ブルー・マーブル)と呼ばれる、宇宙の闇の中にぽつりと孤独に浮かぶ地球を、じっと見上げている自分のように」
月を見上げる自分と、地球を見上げる自分。
二人の自分が互いに、遠くて見えないもう一人の自分と視線を交し合っている。
その師匠の幻想を、僕はとても美しいと思った。そしてそれは同時に、肌寒くなるほど恐ろしかった。何故かは分からなかった。
しかしその月光に青白く濡れた横顔を見ていると、ふと思うのだった。
師匠の語る幻の中では、月世界に一人でいる彼女だけではなく、地球で今こうして藪と藪の間の斜面に寝転がっている彼女の方も、まるで一人だけでいるように思えたのだ。
そこにはすぐ隣にいるはずの僕も、いや、この日本、そして地球に存在するはずのあらゆる人間もいない。
ただこの惑星の夜の部分にたった一人でたたずむ、孤独な……
「出た」
ふいに、師匠が立ち上がった。
身体から離れていた精気が一瞬で戻ったようだった。
指さすその先に、儚げな光の筋がいくつも飛び交っているのが見えた。
ああ、人魂だ。
いや、蛍なのか。
光は尾を引いて、闇の中を音もなく舞っている。
僕は下草から漂う青い匂いを吸い込みながら、駆け出した師匠のお尻を追って立ち上がった。
(完)
43: 1 ◆LaKVRye0d.:2017/1/30(月) 02:49:19 ID:loeHvyRIOA
もう1話投下します
あと少しだけお待ち下さい
44: 本 ◆LaKVRye0d.:2017/1/30(月) 02:52:30 ID:gGNvDtuvts
862 :本 ◆oJUBn2VTGE :2013/08/23(金) 20:46:06.31 ID:/4sM9Swo0
大学四回生の冬だった。
そのころの俺は、卒業に要する単位が全く足りないために早々と留年が決まっており、就職活動もひと段落してまったりしている同級生たちと同じように、悠々とした日々を送っていた。
とは言っても、それは外面上のことであり、実際はぼんやりとした将来への不安のために、真綿でじわじわ締め付けられるような日々でもあった。
親しい仲間と気の早い卒業旅行を終え、あとは卒論を頑張るだけだ、と言って分かれていく彼らを見送った後、俺の心にはぽっかりと穴のようなものが空いていた。
変化しないことへの焦燥と苛立ち。そしてその旅の途中で知ることになった、かつて好きだった人に子どもが出来ていたという事実に対する、なんだか自分でも説明し難い感情。
そのころの俺をはたから見ていれば、「無気力」という言葉がぴったりくる状態だっただろう。
しかし、この身体の中にはさまざまな葛藤や思いが渦を巻き、それが外へ噴き出すこともなく、ただひたすら体内で循環しつつ二酸化炭素濃度を増しているのだった。
45: 本 ◆LaKVRye0d.:2017/1/30(月) 02:54:11 ID:loeHvyRIOA
『デートしよう』
というメールを見ても、その無気力状態からは脱せず、やれやれという感じで敷きっぱなしの座布団から腰を上げた、というのが実際のところだった。
指定されたカレー屋に向かうと、メールの送り主がめずらしく先に来ていて、奥まった席に一人でちょこんと座っていた。
その少女は黒で固めたゴシックな服装をしている。今日はなにやら頭に黒い飾りもつけているようだ。
店内の不特定多数の視線がそわそわと彼女に向いているのが雰囲気で分かる。格好の珍しさだけではなく、それが良く似合っていて可愛らしい風貌をしていることが原因だろう。そんな子が一人で座っているのだから、仕方のないことだった。
そういう視線が集まっているところへ、こんな冬の間ずっと着ていてヨレヨレになっているジャケットの眼鏡男が無精ヒゲを生やして、のっそりと歩いて行くのはさすがに気が引ける思いがした。
「おっす」
黒い子がこちらを見て軽く手を挙げた。相変わらず軽い感じだ。彼女の『デートしよう』、というのは『こんにちわ』と訳せるのを知っている俺は、「うす」とだけ言って向かいに腰掛けた。
一瞬背中に集まった視線が、また徐々に霧散していくのを感じながら、「今日はなんだ」と訊いた。
46: 本 ◆LaKVRye0d.:2017/1/30(月) 02:57:04 ID:loeHvyRIOA
863 :本 ◆oJUBn2VTGE :2013/08/23(金) 20:48:31.35 ID:/4sM9Swo0
その子は音響というハンドルネームで、ネット上のオカルト関係のフォーラムに出入りしている変な子だった。
かく言う俺も、かつてその手の場所には良く出入りしていたが、もう興味も気力も絶えて久しく、ほとんど足を踏み入れなくなっていた。
「瑠璃ちゃんが帰ったよ」
音響がカレーの注文を終えてから口を開いた。
「帰ったって、ニューヨークへか」
「うん」
そうか。あの子はもうこの街からいなくなったのか。
俺は音響と双子の姉妹のような格好をしていた少女のことを思い出す。
あの不思議な瞳をした少女は一年半前にふいにこの街にやって来て、それを待ち構えていた恐ろしい災厄を、はからずも自ら招き寄せたのだった。それも様々なものを巻き込んで。
その時のことを思い出して、ゾッと鳥肌が立つ。この街にじっと潜んでいた、見えざる悪意のことをだ。
今でも現実感がない。
それと関わったがために去って行った人たち。そして死んでいった人たち。頭の中で指折り数えても、どこか夢の中の出来事のようだ。
確かに人となりは浮かぶ。伝え聞いたとおりに。そして会ったことがある人は、その顔も。しかし、どれもまるでぶ厚いガラスの向こう側にある景色のようだ。
怪物の生まれた夜に集った人たちはもう全員いなくなってしまった。それだけではない。ヤクザも。通り魔も。あの吸血鬼でさえ。
一人、一人と、順番に。時に、まったく無関係であるかのように、ひっそりと。だが、確実にその見えざる悪意は、敵対したすべての存在をこの街から消していった。
その誰もが俺なんかよりずっと凄い人たちだった。なのに。なのにだ。
思わず怖気(おぞけ)で身体が震える。
そんな恐ろしい相手から、最後の標的である瑠璃という名前のその少女を、俺と音響の二人だけで死守する羽目になったのだ。今にして思っても考えられない事態だ。
頼みの綱である俺の師匠さえ、その時点ですでに使い物にならない状態だったのだから。
じっとりと手のひらが汗ばんでいる。思い出すだけでこれだ。
「卒業って、どうなったの」
音響がスプーンを置いて突然そう訊いて来た。
急に現実に引き戻される。そう。どこにでもいる、留年組の大学生の自分に。
47: 本 ◆LaKVRye0d.:2017/1/30(月) 03:00:09 ID:gGNvDtuvts
864 :本 ◆oJUBn2VTGE :2013/08/23(金) 20:51:31.78 ID:/4sM9Swo0
「あと二年はかかるな」
と答えると、「ダッサ」と言われた。
お返しに、お前はどうなんだ、と訊いた。
「今年受験だろ。こんなところで油売ってる暇があるのか」
「いいの。余裕だから」
「どこ受けるんだ」
「師匠んとこの大学」
「師匠って言うな」
この小娘は、このところ嫌がらせで俺のことを師匠と呼ぶのだ。もちろん全部知った上でのことなので、始末に悪い。明らかにニュアンス的に尊敬の成分はゼロだ。俺がそう呼んでいた時以上に酷い。
「ていうか、うちの大学が余裕かよ。腐っても国立だぞ」
それにそんなに余裕ならもっと上の大学を受ければいいじゃないか。
そう言おうとしたら、先回りされた。
「お母さんが、地元にしなさいって」
あっそ。
地元民の国立大生の女は学力的にワンランク上の法則ってやつか。アホそうな見た目に忘れてしまいそうになるが、こいつは帰国子女で英語ペラペラだったな。
住んだことのある国の言語を読み書きできるという、ただそれだけで、点数配分の多い課目で大きなアドバンテージになるというのは、ずるい気がする。
「そう言えば、あの角南さんは卒業?」
「ああ」
不貞腐れて頷く。普通の大学生は四年経ったら卒業するの!
そう言って、きつめのスパイスに痛めつけられた喉に水を流し込む。
「で、用件はなんだ。このあとデートでもしようってか」
この小娘に呼び出される時は、その九割が妙なことに首を突っ込んだ挙句の尻拭いのお願いだった。
「それなんだけどね」
音響はそう言って平らげたカレーの皿をテーブルの隅に押しやる。そして黒いふわふわしたバッグから一冊の本を取り出して目の前に置いた。
やはり残りの一割ではないらしい。
しかし出されたその本を見て、おや、と思った。見覚えがあるのだ。
48: 本 ◆LaKVRye0d.:2017/1/30(月) 03:03:28 ID:loeHvyRIOA
866 :本 ◆oJUBn2VTGE :2013/08/23(金) 20:52:53.03 ID:/4sM9Swo0
「『ソレマンの空間艇』じゃないか」
子どものころに読んだジュブナイルのSF小説だ。タイトルが印象的だったから覚えていたが、内容はすぐには浮かんでこなかった。
日本人の子どもが宇宙船に乗り込んで大冒険をする話だったような……
「へえ、そうなんだ」
なんとか思い出そうとしている俺を、全く興味なさげに音響は切って捨てた。
「自分で持って来たんだろ」
ムカッとしたのでそう言い返すと、音響は不思議なことを口にした。
「この本の内容のことなんだけど、この本のことじゃないの」
一瞬、うん? と目を上の方にやってしまった。なにか禅問答のような言葉だ。
「私の友だちから相談を受けたんだ。その子の弟のことで」
音響はそうしてその禅問答の説明を始めた。
◆
そのクラスメイトの女子生徒には小学生の弟がいた。
それがなんだか最近弟の様子が変だったのだそうだ。よそよそしかったり、話しかけると怒ったり。単に反抗期だと思っていたが、ある日弟の部屋に入ろうとすると、急になにかを隠して「出てってよ」と怒った。
背中に隠したのは本のようだった。どこからかいやらしい本を手に入れて見ていたのだろう。
なるほどそういうことか、と思ってその時はそれ以上深く詮索しないであげた。
ところが、その数日後、夜中にふと目が覚めてしまった彼女は自分の部屋から出てトイレに行った。
その途中、弟の部屋の前を通ったのだが、ドアが少し開いていた。いつもなら閉めてやりもせず、そのまま通り過ぎるところだが、中からなにかの気配を感じて彼女は立ち止まった。
弟が起きているのだろうか。
そう思ったが、電気は消えている。部屋は真っ暗だ。
そっとドアに近づき、隙間から中を伺おうとする。しかし、廊下側の明かりのせいで自分がドアの前に立つと、中からはきっと人が来たことが分かってしまうだろう。
そう思い、ドアのすぐ横に身体を貼り付けるようにして聞き耳を立てたのだった。
49: 本 ◆LaKVRye0d.:2017/1/30(月) 03:05:07 ID:gGNvDtuvts
867 :本 ◆oJUBn2VTGE :2013/08/23(金) 20:55:29.81 ID:/4sM9Swo0
その時、彼女の耳は奇妙な音を拾い上げた。
シャリ……
シャリ……
聞き馴染みのある音。
けれど今この状況では聞えるはずのない音。
彼女は妙な悪寒に襲われた。
シャリ……
シャリ……
紙の捲れる音。
紙の表面が指と擦れ合う音。
シャリ……
シャリ……
――――本を読んでいる時の音だった。
部屋の中は真っ暗なのに?
彼女は背筋を走る痺れに身を震わせる。
弟が布団を被ってその中で懐中電灯をつけているわけでもない。光も全く漏れないように布団を被っているなら、そんな繊細な音も部屋の外へ漏れ出ては来ないだろう。
弟は、暗闇の中で本を読んでいるのだ。
心臓がドキドキしている。彼女は思い出していた。弟の通う小学校で密かに語られている噂話のことを。
『夜の書』と呼ばれる本のことだ。学校の七不思議の一つだった。
図書館に一冊の本がある。それは昼間にはただの普通の本なのだが、夜みんなが寝静まってから一人で部屋を暗くしてページを捲ると、まったく違う本になるのだ。
真っ暗で何も見えなくてもその本は読めるのである。その本の中には、とても恐ろしくて、そしてゾクゾクするほど楽しい遊びの仕方が書いてある。
50: 本 ◆LaKVRye0d.:2017/1/30(月) 03:08:10 ID:loeHvyRIOA
868 :本 ◆oJUBn2VTGE :2013/08/23(金) 20:57:50.88 ID:/4sM9Swo0
最後まで読むと、信じられないようなことが起こるらしい。その先は色々な噂があってはっきりしない。
悪魔が出てくるとか、死神が出てくるとかいう話もあれば、本の言う通りのことをすると、窓の外にUFOが現れる、という話もあった。
未来や過去の世界に行った子どもの噂も聞いたことがある。
いかにも子どもっぽい噂話だ。
けれど彼女自身その小学校の卒業生だった。そしてその本を読んでしまったせいで頭が変になり、二階の教室の窓から飛び出して大怪我をした同級生が実際にいたのだ。
もっともその本を読んだせいだということ自体がただの噂話と言えば噂話だ。
しかし先生たちがそんな流言飛語を封じ込めようとすればするほど、みんなその噂を信じた。
結局その同級生が持っていた『夜の書』は大人に焼かれてしまった。けれど、もとからそんな本はないのだ。焼かれても別の本が暗闇の中でしか読めない『夜の書』になり、また誰かの手に取られるのを図書館の隅でじっと待っている……
彼女はドキドキしている胸を押さえ、ドアの横で必死に息を整えた。
そうして「なにしてるの」と言いながら、ドアを開けた。
51: 本 ◆LaKVRye0d.:2017/1/30(月) 03:11:24 ID:gGNvDtuvts
◆
店員がコップの水を入れに来たので、音響がそこで話を止めた。俺はテーブルに置かれた『ソレマンの空間艇』をまじまじと見つめる。
「で、そのお前の同級生の弟くんは、真っ暗な部屋でこれを読んでたってわけか」
「そう」
「どんな様子だったんだ」
「明かりをつけたら目が血走ってて、なんか訳の分かんないことを言ってたらしいよ。とにかく取り上げたら落ち着いたらしいけど」
「ふうん」
俺はテーブルの上の本に手を伸ばした。手に取ってパラパラと捲る。かなり古い本なのか、表紙や小口は色が褪せてしまっているが、あまり読まれてはいないようだ。中はわりに綺麗だった。
音響が少し驚いた顔で俺を見ている。
それに気づいて「なに」と訊くと、「ホントの話なんだけど」と言う。
「別に嘘だなんて言ってないぞ」
52: 本 ◆LaKVRye0d.:2017/1/30(月) 03:13:43 ID:gGNvDtuvts
870 :本 ◆oJUBn2VTGE :2013/08/23(金) 20:59:58.30 ID:/4sM9Swo0
だいたい、どんな信じ難い話でもそれなりに耐性はついている。
それに音響が持ってくるやっかいごとは、これまですべて実体を伴っていた。それが良いことなのかどうかは置いておくとしても。
「よくそんなあっさり触れるね」
呆れたように言われてようやく、ああ、そういうことか、と気づく。
普通の人の感覚ならば、そんな話を聞かされた後では気持ちが悪くて触れないのだろう。いくら昼間は普通の本だと聞かされていてもだ。
オカルトにどっぷりと浸かっていた日々が、意識しなくともこの善良な小市民たる俺の脳みそをやはり非常識側にシフトしてしまっているということか。
しかしこいつに言われると何故かショックだ。
「それで、どうしたいんだ」
本を置き、表紙をトントンと指先で叩く。「どうせ、その話聞かされて、なんとかするからって安請け合いしたんだろ」
『夜の書』というやつはある意味、夜の闇の中でしか実体がない存在だ。
今のこの『ソレマンの空間艇』にしたところで仮の宿主に過ぎず、燃やすなり破り捨てるなりしたって、図書館の別の本に寄生し直すだけということだろう。
少なくとも噂の構造がそうなっている。
「その話を聞かされて、なんとかするからって言っちゃったの」
あ、そう。
「で?」
「なんとかして」
「自分ですれば」
「お願い師匠」
わざとらしいお願いポーズを無視して、もう一度俺は本のページを開く。
「真っ暗なのに読めるって、どういう現象なんだ」
音響に向かって、「お前、読んだか」と訊く。
すると両手の指を胸の前で組んだまま、首を左右に振った。
「だって怖いの」
「嘘つけ」
「だって受験生だから」
「受験生だから?」
俺がそう問い返すと、音響は口の端だけで笑った。
「……面白かったら、やばいじゃん」
こいつも筋金入りだ。
あらためてそう思う。
53: 本 ◆LaKVRye0d.:2017/1/30(月) 03:18:42 ID:loeHvyRIOA
872 :本 ◆oJUBn2VTGE :2013/08/23(金) 21:03:09.85 ID:/4sM9Swo0
「で、お前の同級生も怖くて読んでない、と。……弟はなんて言ってんだ」
「ええと。とにかくなんでか読めたんだって」
実に有益な情報だ。すばらし過ぎる。
「弟はどうしてこの本がそうだと気づいたんだ」
「別に『夜の書』だと思って借りたんじゃないんだって。たまたま借りた本がそうだっただけってさ」
「それは、ちょっとおかしいぞ」
「なんで」
俺は少し頭の中を整理する。
「だったら、どうして部屋を真っ暗にして読んだんだ」
「え」
「部屋を暗くして読まないと、そもそもそういう本だと気づかないだろ」
そう言われて、音響はふうん、と唸った。
「さあ。たまたまなんじゃない?」
これ以上情報は出てきそうになかった。
「『夜の書』は一冊なのか」
「そう聞いてる」
つまりひとつの寄生体のような存在が、見つかって宿主の本を破棄されるたびに別の本へと移動しているということか。
その間に子どもたちを魅了し、危険な状態に追い込みながら。
それにしても。
と、俺はふと思った。「『夜の書』ってのは、小学生らしくないネーミングだな」と呟く。
噂の出所は案外教師なのかも知れない。
考え込んでいる俺を音響がじっと見ていた。
「なんだ」
「なんとかしてくれそう」
そう言ってまた両手の指を組んだ。
俺はそれを見ながら言った。
「ゴスロリって、そんな感情表現豊かでいいのか」
◆
その夜のことだ。
54: 本 ◆LaKVRye0d.:2017/1/30(月) 03:22:06 ID:gGNvDtuvts
874 :本 ◆oJUBn2VTGE :2013/08/23(金) 21:15:47.49 ID:/4sM9Swo0
俺は自分の部屋で一人、パソコン上でダービースタリオンというゲームをしていた。
いい競走馬が出来たので、それを育てるのに熱中していて、気がつくと夜の一時を回っていた。
時計を見た時、なにかすることがあった気がして軽く不安になる。
ああ、音響から預かった本のことだ。
それを思い出してホッとする。
心置きなくゲームに戻ろうとしたが、なんだかそういうわけにもいかない気がしてきて、しぶしぶセーブをしてからパソコンの電源を落とした。
どこに置いたかいな。と、部屋の中を見回す。
するとベッドの上に放り出してあった。
『ソレマンの空間艇』石川英輔 作
とある。
そう言えばどういう話だったか思い出そうしていたのが途中だった。
俺はこたつに移動し、本を広げた。
その本は、文夫という少年が学者先生と浅間山に登山に出かけた時に、ソレマン人と名乗る宇宙人のUFOに捕らえられ、冒険をすることになる話だった。
実は現生人類以前に存在した地球上の知的生命体であったソレマン人たちが、旅立った先の遠い宇宙で滅亡の危機に瀕していて、それを救うため、かつて彼らの先祖が地球に残したというある遺産を一緒に探す、という筋だ。
55: 本 ◆LaKVRye0d.:2017/1/30(月) 03:23:57 ID:loeHvyRIOA
子どものころに読んだ時は、SFというちょっと大人のお話という感覚でいたのだが、今読むとやはりジュブナイルであり、文体には違和感があった。こんなだったかなあ、と。
しかしそれでも読み始めると意外に面白くて、俺はそのまま読み進めた。すると物語が佳境に差し掛かったあたりで、ふいに妙な文章が出てきた。
《そんなことより、遊ぼうよ》
ん? とそこで止まった。
地の文からいきなり読者へ語り掛けてきたのだ。不自然なメタレベルの文章だ。
次の一文を見た瞬間、背筋に冷たいものが走った。
《うしろをむいてごらん》
地の文は続けて今この本を読んでいる俺に呼び掛けている。うしろをむいてごらん、と誘っているのだ。
これは……
気がつくとなんとも言えない嫌な耳鳴りがしている。空気がヒリつく。
呼び掛けの内容のことだけじゃない。俺は全く気づかなかったのだ。
今の今まで、同じ本を同じように読んでいるつもりだった。しかし、いつの間にか部屋の電気は消えていた。
56: 本 ◆LaKVRye0d.:2017/1/30(月) 03:28:10 ID:gGNvDtuvts
876 :本 ◆oJUBn2VTGE :2013/08/24(土) 00:25:28.47 ID:oCTAATKm0
部屋の中は真っ暗で、俺は一人闇の中に座り、本のページを開いていた。
あたりは、しん、としている。
明かりがないのに、本の内容が読める。
ゾクリとした。
これか。
俺は胸の中でそっと呟いた。
この感覚は確かに説明し難い。完全に視覚的なものではない。
普段この目で見ているように見えているわけではなかった。
だが、まるで視覚情報から抜き出されたような言語的な情報が直接頭の中に入り込んで来ている。
そしてそれが本来そこにあるべき視覚的情報を補い、あたかも幻覚のように文字を浮かび上がらせている。
頭で、目の前に文字があるように想像した状態がそれに近いだろうか。
闇の中で文字を想像した時、黒一色の世界に、同じ黒で文字が書ける。不思議な現象だった。
これだ。このことだ。
緊張しながら、今の状況を再確認する。なぜ部屋の電気が消えているのか。冷静に記憶をたどる。すると、直前に立ち上がり、電燈の紐を引っ張った自分を思い出す。
記憶が消えかけていたことにゾッとする。
思考でたどっても多分だめだった。直前の、立ち上がった身体の感覚がうっすらと、そしてそれでもまだ俺の脳に正しい情報を送ってくれたのだ。
なるほど。部屋の明かりは無意識に自分で消してしまうのか。消したという記憶とともに。
俺は異常な状況に背中をゾクゾクさせながら、《うしろをむいてごらん》という文字情報をもう一度確認する。何度確認してもそこに目を向けた途端、強制的に脳が文字のイメージを浮かび上がらせる。
振り向くか。
いや。
だめだ。
振り向いてはいけない。
そこには部屋の壁があるだけのはずだ。
だが、だめだ。
振り向きたいという欲求が、頭の中を嵐のようにぐるぐると回る。それでもその欲求が自分の中から出てきたものではないということが分かる。
57: 本 ◆LaKVRye0d.:2017/1/30(月) 03:31:57 ID:gGNvDtuvts
878 :本 ◆oJUBn2VTGE :2013/08/24(土) 00:29:15.16 ID:oCTAATKm0
耐え難い衝動に俺は耐えた。
そのページにはその文章だけが書いてある。
俺は次のページを捲らず、じっと考える。この異常な現象の根源のことを。
それは物質としてのこの本ではない。なぜなら燃やしても破り捨てても、『夜の書』は次の本へ移るからだ。
だったら根源とはなんだ。
このループはどうやって打ち破る?
思考が音もなく走る。
夜の書。
夜にしか読めない本。
夜にしか……
いつからかははっきりしないが、この怪現象が七不思議に数えられ、過去から現在までまだ続いているということは、現象を破るには誰もやっていないことをしなければならない。
考える。
考える。
なんだ。
それは、なんだ。
しばらく考えた後、俺は思考の流れを変えた。
逆はどうだ。誰もやっていないことをする、の逆。それは。
誰もがやったことをしない……
ハッとした。
誰もがやったこと。
誰もが。燃やした人も、ズタズタに破り捨てた人も。
誰もがやっていること。それをしなければいい。
俺はふいに、冷めていく自分に気づいた。
そうか。こんなことか。
肩の力がふっと抜けて、俺は闇の中で本を掴んだ。そのまま手探りでベランダのある窓の近くに持って行く。
そうして、本のページを開いたまま窓際に置いた。
欠伸をして、こたつに入る。最近は不精が過ぎてベッドにも入らず、こたつに首まで潜り込んで寝るのだった。
歯を磨いてないな、と思ったが、まあいいやと眠りに落ちた。
58: 本 ◆LaKVRye0d.:2017/1/30(月) 03:35:55 ID:loeHvyRIOA
879 :本 ◆oJUBn2VTGE :2013/08/24(土) 00:31:25.88 ID:oCTAATKm0
◆
次の日、目が覚めるとカーテン越しに朝の光が眩しいほど射し込んでいた。天気予報通りの快晴だ。
こたつからムクリと這い出て、俺は窓際の本を確認する。昨日置いたままの格好で、本は朝の陽光を浴びていた。
開いているページには、昨日のソレマン人の遺産に関する物語の続きが載っていて、奇妙な文章など一つも見当たらなかった。もちろんどのページにもだ。
怪異の源はいまひとつはっきりしなかったけれど、たいていの夜の怪現象はこいつには適わない。
朝の光には。
これまでに恐らく誰もがやってしまったこと。
それは本を閉じてしまったことだ。つまり、夜中に開いた『夜の書』としてのページを閉じてしまい、結果として怪異の根源が朝の光を浴びることがなかった。
そんなことで良かったのに。
まあ、こんなもんかね。
俺は一晩中こたつに包まっていてこり固まった筋肉をほぐすべく、大きな伸びをした。
59: 本 ◆LaKVRye0d.:2017/1/30(月) 03:37:17 ID:loeHvyRIOA
次の日の夜、俺はまた自分の部屋で『ソレマンの空間艇』を通して読んでみた。最後まで読んだが、特に異変は起こらなかった。
その後、電気を消してみたが、開いたページのあたりにはやはり何もなかった。暗闇があるだけだ。
念のためにもう一日様子を見てから、俺は音響を前回のカレー屋に呼び出した。
概要を説明し、本をテーブルに置いてからそっちへ押しやる。
「朝の光で、ねえ」
ふうん、という表情で音響は小さく頷いている。
「死んだの?」
本を指さしてそう訊くので、「たぶん」と答える。
「燃やした時と同じで、結局別の本に逃げてるとか」
「それはないな」
たぶん、と付け加える。
60: 本 ◆LaKVRye0d.:2017/1/30(月) 03:40:02 ID:loeHvyRIOA
880 :本 ◆oJUBn2VTGE :2013/08/24(土) 00:33:15.52 ID:oCTAATKm0
図書館の膨大に存在する本のどれかに逃げたかも知れない、なんて言われてもすぐには確認のしようがないが、そのことにはついては自信があった。
何故かと言われても上手く答えられないのだが、俺のこれまでの経験に裏打ちされたカンだ。
なにより、ループを破る方法を思いついた瞬間に冷めてしまった自分自身と、こたつに入って眠ったその俺になにも出来なかったという、怪現象としての、こう言ってはなんだが、しょぼさ、がそれを補強している。
音響も似たような感想を持ったのか、あっさりと納得したようだ。
「ありがとう。さすが」
さすが、の後、師匠のしの字が続く前に俺は被せて言った。
「お前、いつまでこんなことに首突っ込んで行くつもりだ」
するとキョトンとして、「だって」と言うのだ。
「だって、これからじゃない。大学に入ったら、もっと色々楽しいことできそうだし」
その言葉を聞いた瞬間、自分が老人になってしまったように感じてしまった。
61: 本 ◆LaKVRye0d.:2017/1/30(月) 03:41:36 ID:loeHvyRIOA
そうか、こいつはこれからなのか。
俺がオカルト道にどっぷりと浸かって無茶ばかりやっていたあの無軌道な日々が、こいつにはこれからやってくるのか。
自分にはもう戻って来ない時間が全方位に向かって開かれている少女に、目を開けられないような眩しさを感じて俺は目を逸らした。
「そういえば」
と、音響はカレーを掬おうとしていたスプーンを止める。
「昨日瑠璃ちゃんに会ったよ」
一瞬意味が分からず、「アメリカへ帰ったんじゃないのか」と言いそうになってから、「ああ、そういうことか」と一人ごちた。
「わたし、地元の大学に行くのはさ、瑠璃ちゃんと遊びたいってのもあるんだよね」
「あいつ、この街にしかいられないのか」
「うん」
そうか――
The king stays here,The king leaves here.
ふいに、頭の中に瑠璃の好きだった言葉が蘇った。
62: 本 ◆LaKVRye0d.:2017/1/30(月) 03:44:01 ID:loeHvyRIOA
881 :本 ◆oJUBn2VTGE :2013/08/24(土) 00:35:35.67 ID:oCTAATKm0
王は留まり、王は離れる。
自分の名前を紹介する時に、いつも好んでこの言葉を使っていた。
もちろん本名ではない。自分でつけた名前だ。
それは本来彼女の顔のある部位を端的に表す言葉だったが、ここに奇妙な符合が生まれていた。
I stay here, I leave here.
キングを自分に変えることで、生まれついて彼女に起こっているその不思議な現象を表す言葉になるのだ。それも、ニューヨークへ帰った彼女を表す時にはその言葉が逆転する。
面白いな。
俺は人間を取り巻く、目に見えない偶然というものや、運命というものを改めて感じた。
「今度会ったら、目を傷めないように気をつけろって言っておいてくれ」
「なにそれ。カラコンのこと? 瑠璃ちゃん、もうしてないよ」
音響が不思議そうにそう言う。
「いや、いい」
俺は、見えざる悪意の主要な標的となった四人の、ある共通点のことを考えていた。四人のうちの三人。それが偶然なのか、そうでないのか、すべてが終わった今でも分からないのだった。
63: 本 ◆LaKVRye0d.:2017/1/30(月) 03:45:54 ID:gGNvDtuvts
カレーを食べ終わったころ、腰を浮かしかけた俺に音響が言う。
「じゃあ、春からよろしくね、師匠」
相変わらず上から下まで黒尽くめの格好でそんなことを言うのだ。
腹の内を読み取れない表情で。
俺は一瞬、自分が別の人間になったような錯覚に陥り、うろたえた。
うろたえながらも、なんとか言い返したのだった。
「受かってから言え」
師匠だと? この俺が。
これまでただイタズラのようにそう呼ばれていたのとは違う、ぞわぞわする感覚があった。
これについては断じて運命ではない。と、思う。
しいて言えば……
しいて言えば、そう。
やっぱり、no fate ということになるんだろう。
(完)
64: 1 ◆LaKVRye0d.:2017/1/30(月) 03:47:04 ID:loeHvyRIOA
今夜は、以上です。
【了】
65: 1 ◆LaKVRye0d.:2017/2/3(金) 01:17:29 ID:z881GwDpBI
1です。次に投下するのは『ペットの話』です
ウニさんは最初『喫茶店の話』を書いた際、○○の話、というタイトルは「これは怖くない話です、だけど、伏線になったり登場人物の誰かに関係のある話ですよ」という意味で使っていたそうです
しかし次の『すまきの話』で一気に怖くなってしまったので、怖くても怖くなくても別にいいや、となってしまったようです
さて、この『ペットの話』は…?
66: ペットの話 ◆LaKVRye0d.:2017/2/3(金) 01:20:35 ID:UjZCWpAm.I
『ペットの話』
京介さんから聞いた話だ。
高校一年生の春。
私は女子高に入ってからできた友だちを、自分の家に招待した。ヨーコという名前で、言動がとても騒がしく、いつもその相手をしているだけでなんだか忙しい気持ちになるような子だ。
そのころの自分にできた、唯一の友だちだった。
私の家は動物をたくさん飼っていて、その話をすると「見たい見たい」と言い出してきかなかったのだ。
「でか。猫でか!」
リビングで対面するなり、ヨーコはそう言って小躍りした。
「名前は? 名前」
「ぶー」
「ぶー?」
妹や母親は『ぶーちゃん』と呼んでいる毛の長い猫だ。アメリカ原産のメインクーンという種類で、子猫の時に知り合いからもらってきたのだが、元々かなり大きくなると聞いていたのに、さらにこいつは底なしの食欲を発揮するに至って、実に体重は十キロを超えてしまっている。『ブマー』というのが彼の本名だが、家族の誰も今はそう呼ばない。
「重っ」
ヨーコはぶーを抱きかかえて嬉しそうに喚いている。ぶーは身じろぎするのもめんどくさい、というように眠そうな顔をしてされるがままになっている。
その騒ぎを聞きつけてラザルスが部屋の中にやってきた。
「あ、犬だ」
ウェルシュ・コーギーという種類で、とても賢い男の子だ。おとなしく、また言いつけをよく聞くので室内で飼っている。こげ茶色の背中に、胸は白い。手足が短くてちょこちょこと走るのでかわいらしい。成犬だけど小柄なので、猫のぶーと同じくらいの大きさに見える。
67: ペットの話 ◆LaKVRye0d.:2017/2/3(金) 01:22:09 ID:UjZCWpAm.I
ラザルスは舌を出しながら、ぶーを抱えたヨーコの周りをくるくると回転し始めた。ぶーは抱きかかえられたままその動きを目で追っている。
ヨーコは「わわわわわ」と言いながら同じようにきょろきょろしてはしゃいでいる。
うちには他にも「もも太」という名前の雑種のオス猫がいるが、いつも外に遊びに出ていてあまり家には帰ってこない。
「お姉ちゃん、お客さん?」
いつの間に帰ったのか、妹までも制服のまま顔を覗かせた。
「そうだよ。お前、いいから引っ込んでろ」
友だちに家族を見られるのが気恥ずかしくて、邪険に追い払うと、妹は「べ」と舌を出して顔をしかめて見せた。そして廊下から首を引っ込める。
ヨーコは驚いて目を丸くしていた。妹の消えた廊下の方を指差して「まじで?」と訊いてくる。そうだよ。と答えておいた。
それからひとしきりぶーとラザルスに遊んでもらった後、ヨーコは「他には? 他には?」と訊いてくる。
「あと、九官鳥の『ピーチ』と、ハムスターを二匹飼ってる」
私がそう言うと、ヨーコは少し顔色が悪くなった。「ハムスター飼ってんだ……」と強張ったような表情を浮かべる。
どうしたんだろう。
「いや、子どものころ毒ハムに噛まれてから、どうも苦手なのさ」
毒ハムスター? 冗談のわりには嫌に真剣な口調だった。
「好きなんだけどね」と空笑いをしている。よく分からない。
「見るだけ見るか?」と訊くと、「……うん。見るだけ見る」と言うので隣の部屋に案内する。
棚の上にオレンジ色のケージを置いていて、その中にゴールデンハムスターのつがいを飼っていた。そのころはなかなか子どもを生まないなあと思っていたのだが、後に分かったところによると、結果的に両方オスだったので無理からぬことだった。
68: ペットの話 ◆LaKVRye0d.:2017/2/3(金) 01:24:32 ID:UjZCWpAm.I
「かわいいなあ」
ヨーコは部屋の入り口のドアの後ろに隠れ、顔を半分だけ出してそう言う。そんなに離れていたらよく見えないだろうに。
「毒なんてないよ」
人に慣れているから、よほど気が立ってない限り、指を差し出しても噛まれることはなかった。しかしそう言って呼んでもヨーコは頭を振る。
後から知ったのだが、ヨーコはハムスターにアレルギーを持っていて、その抜け毛やフケにも反応して、咳き込んだり発疹が出たりする身体だった。以前友人の家でハムスターに噛まれた時にはショック症状を起こし、救急車で運ばれることになったのだそうだ。
それでもよほどハムスターが好きなのか、ヨーコにはその後も時々市内の百貨店にあるペットショップに行くのに付き合わされた。そんな時ヨーコは離れた場所からハムスターのコーナーをじっと見つめていて、その小動物たちがどんな様子か逐一私に訊いてきた。そのたびに私は苦笑しながらエサを食べる様子や小さな手の動きなどを身振り手振りで説明したものだった。照れくさいというより、正直恥ずかしかったが、嬉しそうなヨーコを見ていると、そんな思いもどこかへ行ってしまった。
「こっちがピー助だ」
私は部屋の隅にいた九官鳥のピーチを鳥籠ごと持ち上げて、ドアの方へ向かった。
ヨーコが部屋の中に入ってきそうになかったからだ。
「わー、かわいい」
そんなことを言うヨーコの脇をすり抜けて、元のリビングに戻る。ピーチは自分の居城が動き出したことに興奮して、頭を振りながら甲高い声でさえずっている。
背の低いタンスの上に鳥籠を乗せるとピタリと鳴きやみ、今度はここが城下町かい、とでも言うようなふてぶてしい顔で周囲を見渡した後、またピョロピョロと鳴き始める。
「ピースケちゃん」とヨーコが呼びかけると、ピーチはすぐに返事をする。
「ピーチャン、ピーチャン」
「男の子?」
「そう」
「ソウ、ソウ、ピーチャンイイコ、ピーチャンイイコ」
ピーチは鳴きながら鳥籠の中を歩き回る。
「ピー助、ももたろうは?」
私がそう言うと、首を傾げる。
「むかし、むかし、あるところに」
導入部分を口にすると、やがて真似をするように「ムカシ、ムカシ、アルトコロニ……」とやけに低い声で始める。ピーチはこれが得意なのだ。
69: ペットの話 ◆LaKVRye0d.:2017/2/3(金) 01:32:29 ID:z881GwDpBI
「オジーサント、オバーサンガ、スンデ、オリマシタ、ピョロピョロ……」
「すごーい。上手」
ヨーコが手を叩いて喜んでいる。
ピーチのももたろうは、結局猿を仲間にしたあたりでまた最初のムカシ、ムカシに戻ってしまい、鬼が島までは到着しなかった。
以前父親が頑張って教え込んでいた時には、鬼をやっつけて故郷に凱旋するところまで通して言えたのだが、少し時間が空くともう忘れてしまうものらしい。
私が分析するに、犬、猿、キジを仲間にする過程で、焼き回しというか、同じ展開が繰り返されるのが一番の原因ではないかと思う。
「オコシニツケタ、キビダンゴ、ヒトツ、ワタシニ、クダサイナ」という印象的なフレーズがあるが、犬を仲間にしたあと、また猿の時にも繰り返されるので、そこでわけが分からなくなるらしい。
それでもヨーコは大喜びで、餌をやっていいか、とせがんできた。仕方がないのでオヤツを少しだけあげることにして、大好きなひまわりの種をいくつかヨーコに持たせ、それを鳥籠越しに手ずから食べさせた。
ピーチがくちばしを伸ばしてくるたびにヨーコはきゃあきゃあと騒ぐ。
その騒ぎを訊きつけてまたラザルスが尻尾を振りながらリビングにやってきて、ふんふんとヨーコの足のあたりを嗅いで回る。
「ねえ、ピースケちゃんはどこかで買ったの? 人にもらったの?」
「ああ、親戚からもらった。三歳の時にもらって来て、今二年目だから、四歳か五歳くらいだな」
「ふうん。うちも九官鳥とかオウムを飼いたいなあ」
無邪気にそう言うヨーコに、軽いいじわるのつもりで私はこんなことを言った。
「でも、こいつはたまに気持ちの悪いことを言うぞ」
「ええ? 気持ちの悪いことってなに」
「……誰も教えてないこと」
それを聞いてヨーコは少し気味悪そうな顔をした。
そもそもピーチは親戚の家で飼われていたが、その家のお祖父ちゃんが亡くなった後、奇妙な言葉をさえずり始めたのだ。
「メシガマズイ。アジガシナイ。メシガマズイ」
「タバコガナイ。タバコヲスイタイ。タバコスワセロ」
いずれも亡くなる前の入院中に祖父が口にしていたことだ。そんな言葉を生前の祖父は家で口にしたこともなかったのに。
それだけではなく、まるで祖父そのもののように、小言めいたことを喋ることもあった。
「トイレノ、トハ、チャントシメナサイ」
「ヤサイハ、サイゴノ、ヒトカケマデ、ツカイナサイ」
などのような言葉だ。それらだけならば、普段から祖父が口にしていたので、ピーチが覚えていてもおかしくはないのだが、祖父が亡くなってまだひと月と経っていないころに、ふいにこんな言葉を発したのだ。
70: ペットの話 ◆LaKVRye0d.:2017/2/3(金) 01:34:45 ID:UjZCWpAm.I
「カミダナニハ、チャント、シロイカミヲ、ハリナサイ」
確かにピーチは神棚に白い紙を貼れ、と言った。家族は始めなんのことか分からなかったが、あまりその言葉を繰り返すので気味が悪くなり、近所の年寄りに訊いてみると、それは古来からの風習の一つだった。
神棚封じ、と言って、その家から人死にが出ると四十九日があけるまで白い紙で神棚を封じ、拝んだりもしてはいけないのだそうだ。
黒不浄、つまり死の穢れを神棚に近づけないためだ。
しかしそんなことは家族の誰も知らなかった。そんな慣習を知っているのは古い人である祖父くらいだったからだ。ピーチはまるで祖父が乗り移ったかのようにそのことを教えてくれたのだった。
そんなことが続き、気味悪がったその親戚の家はピーチを手放すことにした。そこで動物好きの私の両親の悪い癖が出て手を挙げ、うちにもらわれてきたという経緯だ。
前の家で喋っていたようなことも段々と口にしなくなり、というよりもうちの家族みんながこぞって好き勝手なことを覚えさせようとするのでトコロテン式に忘れていった。特に、親戚が怖がっていた、亡くなったお祖父ちゃんのような口ぶりの言葉は、うちに来てからはピタリと止まり、本当にそんなことを言っていたのかと逆に疑ったものだった。
しかし、親戚の話の裏付けは別のところからやってきた。ピーチがうちの家族になってから半年ほど経った時、急に「コロシテヤル」という汚い言葉をさえずり始めたのだ。
本人はいたって楽しそうにさえずっているのだが、聞いている方はゾッとした。
誰が教えたのか、犯人探しが行われたのだが、家族みんなが知らないという。私も身に覚えはなかった。
テレビを置いていない部屋で飼っていたので、勝手に覚えることはない。家族の誰かが教えたはずなのだ。犯人と疑われた妹が憤慨して、プチ家出をしたのを覚えている。
結局どこでその「コロシテヤル」という言葉を覚えてしまったのかは分からなかったが、ピーチはそのころから時おりそういう誰も教えていないはずの言葉をさえずるようになった。
71: ペットの話 ◆LaKVRye0d.:2017/2/3(金) 01:37:39 ID:UjZCWpAm.I
「コウエンノスナバ、ポシェットガ、オチテル」
「カキザワサンノ、ゴシュジン、ブチョウニナッタ」
「センキョカー、ウルサイ」
そのほとんどは他愛のないものだったが、みんな全く身に覚えがなく、それどころか誰も知らなかったような情報まであった。例えば、選挙カーがうるさい、とピーチが言った時点ではまだ、選挙カーはうちの家のあたりにはまだ来ていなかった。
いったいどうしてピーチがそんな言葉を喋るのか分からないので、気持ちが悪かった。
妹の説では、ピーチは言わば生きたラジオのようなもので、周波数のあった誰かの意思を受信してそれを自動的に口にしているのではないかとのことだった。
飼われていた親戚の家ではお祖父ちゃんが亡くなったが、その霊魂がまだその家に漂っていて、時々ピーチの口を借りて喋るのだという。
そんなわけあるか、と言ってやったが、動物は人間よりもお化けに対する霊感が強いのだと主張する。『猫のぶーちゃんだって、時々なにもない壁を見ている』というのがその補強材料だった。あれは確かに私もなんでだろうと思ったことがある。
妹が言うには、うちにやってきたピーチは近くにお祖父ちゃんの霊もいなくなったので、今では近所の人の思念や、浮遊霊の声を受信してしまっているのだ、ということだった。
そんなことを説明すると、ヨーコは嫌そうな顔をして後ずさった。
72: ペットの話 ◆LaKVRye0d.:2017/2/3(金) 01:40:08 ID:z881GwDpBI
「うそだあ」
今まさについばもうとしていたひまわりの種を引っ込められたピーチが、苛立ったように籠の枠を内側から噛んでガシャガシャと揺らせた。
「あたしそういうの苦手なんだから、やめてよね」
「悪い悪い」
私は笑ってそう言いながら、どこか胸の片隅でふと凍りつくような冷たいものに撫でられたような感覚をおぼえた。それは妹の主張する怪談めいた話とはまた別の、異質な想像であり、ある時ふいに自分の頭の中にするりと入り込んだそれは、ある種の茫漠とした不安と、眩暈とを私にもたらした。
それを思い出してしまったのだった。
「ああ、もう」
ヨーコは顔を強張らせた私に気づきもせず、頭を振りながら、ピーチにひまわりの種をもう一度あげようと手を伸ばす。
その足元ではまだラザルスが上目遣いに鼻先を近づけていて、そうしてあんまり匂いを嗅いでいるのが気になったのか、部屋の隅で丸くなっていたぶーまでが起き上がって反対のヒザ側から匂いを嗅ぎ始めた。
「ねえちょっと、なんかさっきからこの子たち、レディーに失礼じゃない?」
立ったまま変な顔をするヨーコに私は笑って言う。
「初めて見るような人には、いつもこうだよ」
「ほんとにぃ?」
「本当だ」
腕組みをしながら私は無駄に力強く断言した。
73: ペットの話 ◆LaKVRye0d.:2017/2/3(金) 01:44:51 ID:z881GwDpBI
◆
そんなことがあった数日後。
夜中にふと目が覚めた私は、喉の渇きを覚えて寝床から起き上がった。
いま何時だ?
明りをつけようとしたが、目が眩むのが嫌で結局そのまま歩いて自分の部屋を出る。
二階の廊下は階段の脇の小さな照明だけがぽつんと点いていて、その明りを頼りに一階に降りていく。
家族はみんな寝ていて家の中はしん、としている。私は足音を忍ばせて台所に入り、炊飯器についているディスプレイの青い光を頼りに冷蔵庫からお茶を取りだす。
コップ一杯を飲みきると一息ついた。
静寂に、耳の奥が甲高く鳴っている。夜中に目が覚めたのはいつ以来だろうかとふと考える。
家族を起こさないようにひっそりと台所を出て、忍び足で廊下を進んでいる時だった。
私の耳は、静寂以外のなにかをとらえた。
立ち止まり、それが聞こえた方向に目をやると、居間のドアが少し開いている。それが微かに揺れた気がした。キィ、という聞こえなかったはずの音を、頭の中で勝手に再生する。
普段から鍵を掛けるわけでもなく、また冷房や暖房をつけている季節でもないのでドアが半開きなのはいつものことだったが、私の直感はなにか得体の知れない予感を告げていた。
そっと近付いてドアの隙間を広げると、暗い室内がその奥にのびる。
「ピー助?」
声をひそめながら、九官鳥のピーチをいつもの愛称で呼ぶ。
×××
また、なにか聞こえた。
部屋の中から。
誰かの声だ。
ハムスターの鳴き声とは明らかに違う。人間の、声のように聞こえた。
「ピーチ?」
部屋の中に入り込むと、窓のカーテン越しに月の光が微かに差し込み、海の底のような暗い空間に奇妙な縞模様を浮かび上がらせていた。
×××
まただ。
また聞こえた。
部屋の隅にある鳥籠の方から。
鳥籠には黒い布を被せてある。光が入り込まないように。ピーチが寝る時にはいつもそうするのだ。
その黒い布の内側から、ぼそぼそという話し声が聞こえてくる。
ああ、ピーチが喋っている。人の言葉で。
私はわけもなく湧いてくる寒気が身体の表面を走り抜けるのを感じた。いったいなにを喋っているのだろう。
×××
私はゆっくりと近づきながら耳をすませる。
こんな時間にピーチはどうして起きているのだろう。たまたまだろうか。
74: ペットの話 ◆LaKVRye0d.:2017/2/3(金) 01:46:21 ID:UjZCWpAm.I
それともいつも起きているのだろうか。いつも家族が寝静まった深夜に、小さな籠の中でひとり、私たちの知らないなにかを話しているのだろうか。
妹の言葉が頭をよぎる。
ピーチは、ここにいない人や死んでしまった人の思念を受信して、それを言葉にして囀るのだと。まるでラジオのように。だから時おり、誰も教えていないはずの言葉を流暢に発するのだ。
今もそうなのだろうか。誰も教えていない言葉を、あるいは家族の誰も知らないはずの話を……
だったら、今この暗い部屋の中には目に見えない人間の言霊が漂っているのか。あるいは、見ることも、触れることもできない死んだはずの人間が今、この部屋の中に立っているのか。
鳥籠の形をした布の先に手が触れ、私は動きを止める。
妹の主張がもたらしたそんな恐ろしい想像がふいに希薄になり、また別の想像が自分の中のどこか暗いところから湧いてくるのを感じた。
妹の話をなかば笑いながら聞いた時、私はそれとは全く別の想像をしてしまっていた。とっさに気味の悪いそれを心の奥に押し込め、忘れようとしていた。今まで。
なのに。
私のした想像。いや、してしまった想像。
それは
夜中にふいに寝床から起きる私。
しかし私には意識がない。私としての意識が。
夢遊病のように階段を降り、鳥籠の前に立つ。
そしてその中に話しかける。
無意識の私が。いや、あるいは私という器の中に入り込んだ、もう一人の別の私が。
その言葉は
…………ソウムド…………
耳に入った音に、私は我に返った。
鳥籠の中から声が聞こえる。
押しつぶされたような声。ひどく聞き取りづらい。
私は息を飲んで耳をすませる。
布越しに声は続く。
75: ペットの話 ◆LaKVRye0d.:2017/2/3(金) 01:49:08 ID:UjZCWpAm.I
…………ミツカ…………
…………シキチ…………
…………ルノサン…………
ようやくそれだけが聞こえる。
それで声は止まり、しばらくするとまた同じ言葉が繰り返される。
…………ソウムド…………
…………ミツカ…………
…………シキチズ…………
…………ルノサンポシャ…………
やはり良く聞き取れない。
なぜか背筋がぞくぞくする。
…………ソウムドイ…………
…………ミツカイ…………
…………シキチズ…………
…………ルノサンポシャ…………
四つの言葉が繰り返されているようだ。いったいこれは誰の言葉なのか。
私ではない。そう直感が告げている。想像してしまっていたように、記憶のない時間、私自身がピーチに教えた言葉などではない。
ピーチ自身の言葉?
いや、それも違う。イメージが浮かぶ。鳥の、小さな頭は空洞で、遠くから目に見えない波のようなものが押し寄せてきて、その空洞の中で反響し、くちばしが言葉として再生する。誰もいない部屋で、誰にも聞かれず。
なぜこんなに怖いのだろう。ガチガチと歯が音を立てる。
悪意。
夜に滲み出る、目に見えない悪意が、ほんの気まぐれに寝静まった住宅街を通り過ぎていく。
そんな気がした。
…………キケン…………
…………キケン…………
…………ゼンイン…………
…………ケス…………
最後にそう言って、鳥籠の中の声はぴたりと止まった。
微かな月明かりの中に沈む部屋に、静けさが戻ってきた。私はハッとして腕を伸ばし、布を取り払うと、駕籠の中のピーチが驚いたように頭を振って小さく鳴いた。
不思議そうに首を傾げながら、口の中で小さくウロウロという低い声をこねている。それが私には、「我に返った」姿のように思えた。
仄かな月の光を反射し、ピーチの瞳が一瞬くるりとまたたく。それが妖しく艶かしい黒い宝石のように見えた。なにか、恐ろしいことが起こる前触れのようだった。
76: 1 ◆LaKVRye0d.:2017/2/3(金) 01:50:48 ID:UjZCWpAm.I
次の話は先日貼ったのより前に書かれた話です
順番が狂ってしまって申し訳ありません
前後編の為、貼るのに時間がかかりますが御容赦下さいませ
77: 風の行方・前編 ◆LaKVRye0d.:2017/2/3(金) 01:53:57 ID:UjZCWpAm.I
風の行方 前編
183 :風の行方 ◆oJUBn2VTGE :2012/05/11(金) 21:09:55.96 ID:wBpB+Oun0
師匠から聞いた話だ。
大学二回生の夏。風の強い日のことだった。
家にいる時から窓ガラスがしきりにガタガタと揺れていて、嵐にでもなるのかと何度も外を見たが、空は晴れていた。変な天気だな。そう思いながら過ごしていると、加奈子さんという大学の先輩に電話で呼び出された。
家の外に出たときも顔に強い風が吹き付けてきて、自転車に乗って街を走っている間中、ビュウビュウという音が耳をなぶった。
街を歩く女性たちのスカートがめくれそうになり、それをきゃあきゃあ言いながら両手で押さえている様子は眼福であったが、地面の上の埃だかなんだかが舞い上がり顔に吹き付けてくるのには閉口した。
うっぷ、と息が詰まる。
風向きも、あっちから吹いたり、こっちから吹いたりと、全く定まらない。台風でも近づいてきているのだろうか。しかし新聞では見た覚えがない。天気予報でもそんなことは言っていなかったように思うが……
そんなことを考えていると、いつの間にか目的の場所にたどり着いていた。
住宅街の中の小さな公園に古びたベンチが据えられていて、そこにツバの長いキャップを目深に被った女性が片膝を立てて腰掛けていた。
手にした文庫本を読んでいる。その広げたページが風に煽られて、舌打ちをしながら指で押さえている。
「お、来たな」
僕に気がついて加奈子さんは顔を上げた。Tシャツに、薄手のジャケット。そしてホットパンツという涼しげないでたちだった。
「じゃあ、行こうか」
薄い文庫本をホットパンツのお尻のポケットにねじ込んで立ち上がる。
彼女は僕のオカルト道の師匠だった。そして小川調査事務所という興信所で、『オバケ』専門の依頼を受けるバイトをしている。
今日はその依頼主の所へ行って話を聞いてくるのだという。
僕もその下請けの下請けのような仕事ばかりしている零細興信所の、アルバイト調査員である師匠の、さらにその下についた助手という、素晴らしい肩書きを持っている。
あまり役に立った覚えはないが、それでもスズメの涙ほどのバイト代は貰っている。
78: 風の行方・前編 ◆LaKVRye0d.:2017/2/3(金) 01:57:22 ID:z881GwDpBI
184 :風の行方 前編 ◆oJUBn2VTGE :2012/05/11(金) 21:12:15.96 ID:wBpB+Oun0
具体的な額は聞いたことがないが、師匠の方は鷹だかフクロウだかの涙くらいは貰っているのだろうか。
「こっち」
地図を手書きで書き写したような半紙を手に住宅街を進み、ほどなく小洒落た名前のついた二階建てのアパートにたどり着いた。
一階のフロアの中ほどの部屋のドアをノックすると、中から俯き加減の女性がこわごわという様子で顔を覗かせる。
「どうもっ」
師匠の営業スマイルを見て、少しホッとしたような表情をしてチェーンロックを外す。そしておずおずと部屋の中に通された。
浮田さんという名前のその彼女は、市内の大学に通う学生だった。三回生ということなので、僕と師匠の中間の年齢か。
実は浮田さんは以前にも小川調査事務所を通して、不思議な落し物にまつわる事件のことを師匠に相談したことがあったそうで、その縁で今回も名指しで依頼があったらしい。
道理で気を抜いた格好をしているはずだ。
ただでさえ胡散臭い「自称霊能力者」のような真似事をしているのに、お金をもらってする仕事としての依頼に、いかにもバイトでやってますとでも言いたげなカジュアル過ぎる服装をしていくのは、相手の心象を損ねるものだ。
少なくとも初対面であれば。
師匠はなにも考えてないようで、わりとそのあたりのTPOはわきまえている。
「で、今度はなにがあったんですか」
リビングの絨毯の上に置かれた丸テーブルを囲んで、浮田さんをうながす。
学生向きの1LDKだったが、家具が多いわりに部屋自体は良く片付けられていて、随分と広く感じた。師匠のボロアパートとは真逆の価値観に溢れた部屋だった。
「それが……」
浮田さんがポツポツと話したところをまとめると、こういうことのようだ。
彼女は三年前、大学入学と同時に演劇部に入部した。高校時代から、見るだけではなく自分で演じる芝居が好きで、地元の大学に入ったのも、演劇部があったからだった。
定期公演をしているような実績のあるサークルだったので部員の数も多く、一回生のころはなかなか役をもらえなかったが、くさらずに真面目に練習に通っていたおかげで二回生の夏ごろからわりと良い役どころをやらせてもらえるようになった。
79: 風の行方・前編 ◆LaKVRye0d.:2017/2/3(金) 01:59:53 ID:UjZCWpAm.I
185 :風の行方 前編 ◆oJUBn2VTGE :2012/05/11(金) 21:15:08.37 ID:wBpB+Oun0
三回生になった今年は、就職活動のために望まずとも半ば引退状態になってしまう秋を控え、言わば最後の挑戦の年だったのだが、下級生に実力のある子が増えたせいで、思うように主役級の役を張れない日々が続いていた。
下級生だけのためではなく、本来引退しているはずの四回生の中にも、就職そっちのけで演劇に命を賭けている先輩が数人いたせいでもあった。
都会でやっているような大手の劇団に誘われるような凄い人はいなかったのだが、バイトをしながらでもどこかの小劇団に所属して、まだまだ自分の可能性を見極めたい、という人たちだった。
真似はできないが、それはそれで羨ましい人生のように思えた。
そしてつい三週間前、文化ホールを借りて行った三日間にわたる演劇部の夏公演が終わった。
同級生の中には自分と同じように秋に向けてまだまだやる気の人もいたが、これで完全引退という人もいた。
年々早くなっていく就職活動のために、三回生とってはこの夏公演が卒業公演という空気が生まれつつあった。
だが、彼女にとって一番の問題は、就職先も決まらないまま、まだズルズルと続けていた四回生の中の、ある一人の男の先輩のことだった。
普段からあまり目立たない人で、その夏公演でも脇役の一人に過ぎず、台詞も数えるくらいしかなかったのだが、卒業後は市内のある劇団に入団すると言って周囲を驚かせていた。
誰も彼が演劇を続けるとは思っていなかったのだ。同時に、区切りとしてこれで演劇部からは引退する、とも。
その人が、夏公演の後で彼女に告白をしてきたのだ。
ずっと好きだったと。
なんとなくだが、普段の練習中からも粘りつくような視線を感じることがあり、それでいてそちらを向くと、つい、と目線を逸らす。そんなことがたびたびあった。いつも不快だった。気持ちが悪かった。
その男が、今さら好きだったなんて言ってきても、返事は決まっていた。
はっきりと断られてショックを受けたようだったが、しばらく俯いていたかと思うと、蛇が鎌首をもたげるようにゆっくりと顔を上げ、ゾッとすることを言ったのだ。
『髪をください』
口の動きとともに、首が頷きを繰り返すように上下した。
80: 風の行方・前編 ◆LaKVRye0d.:2017/2/3(金) 02:02:39 ID:UjZCWpAm.I
186 :風の行方 前編 ◆oJUBn2VTGE :2012/05/11(金) 21:17:21.65 ID:wBpB+Oun0
『せめて、思い出に』
そう言うのだ。大げさではなく、震え上がった。
「いやですよ。髪は女の命ですから」
と、最初は冗談めかしてごまかそうとしたが、それで乗り切れそうな気がしないことに気づき、やがて叫ぶように言った。
「やめてください」
男は怯んだ様子も見せず、同じ言葉を繰り返した。そして『一本でもいいんです』と懇願するような仕草を見せた。
彼女は「本当にやめてください」と言い捨てて、その場を逃げるように去ったが、追いすがってはこなかった。
しかしホッとする間もなく、それから大学で会うたびに髪の毛を求められた。『髪をください』と、ねとつくような声で。
彼と同じ四回生の先輩に相談したが、男の先輩は「いいじゃないか、髪の毛の一本くらい」と言って、さもどうでもよさそうな様子で取り合ってくれず、女の先輩は
「無駄無駄。あいつ、思い込んだらホントにしつこいから。まあでも髪くらいならマシじゃない? 変態的なキャラだけど、そこからエスカレートするような度胸もないし」と言った。
以前にも演劇部の女の同級生に言い寄ったことがあったらしいのだが、その時も相手にされず、それでもめげないでひたすらネチネチと言い寄り続けて、とうとうその同級生は退部してしまったのだそうだ。
ただその際も、家にまで行くストーカーのような真似や乱暴な振る舞いに出るようなことはなかったらしい。
そんな話を複数の人から聞かされ、今回はその男の方が演劇部から引退するのだし、髪の毛だけで済むのならそれですべて終わりにしたい。そう思うようになった。
それで済むうちに……
そしてある夜、寝る前にテレビを消した時、その静けさにふいに心細さが込み上げてきて、「よし、明日髪の毛を渡そう」と決めたのだった。
しかし、いざハサミを手に持ってもう片方の手で髪の毛の一本を選んで掴み取ると、これからなにか大事なものを文字通り切り捨ててしまうような感覚に襲われた。
一方的な被害者の自分が、どうしてこんなことまでしなければならないのか。
そう思うと、ムカムカと怒りがこみ上げてきた。
81: 風の行方・前編 ◆LaKVRye0d.:2017/2/3(金) 02:05:48 ID:z881GwDpBI
187 :風の行方 前編 ◆oJUBn2VTGE :2012/05/11(金) 21:18:48.09 ID:wBpB+Oun0
そうだ。なにも自分の髪の毛でなくとも良いのだ。同じくらいの長さだったら、誰のだろうがどうせ分かりっこない。
そう思ったとき目に入ったのが、部屋の衣装箪笥の上に飾っていた日本人形だった。
子どものころに親に買ってもらったその人形は、今でもお気に入りで、この下宿先まで持ち込んでいたのだった。状態も良く、いつか自分が着ることを夢見た綺麗な着物を清楚にまとっていた。
そっとその髪に手を触れると、滑らかな感触が指の腹を撫でた。確か本物の人毛を一本一本植え込んでいると、親に聞かされたことがあった。
これなら……
そう思って、摘んだ指先に力を込めると一本の長い艶やかな髪の毛が抜けた。根元を見ると、さすがに毛根はついていなかったが、あの男も「抜いたものを欲しい」なんて言わなかったはずだ。
少し考えて、毛根のないその根元をハサミで少しカットした。これで生えていた毛を切ったものと同じになったし、長さも彼女のものより少し長めだったのでちょうど良い。
黒の微妙な色合いも自分のものとほとんど同じように見えた。
それも当然だった。両親は彼女の髪の色艶と良く似た人形を選んで買ってくれたのだから。
次の日、男にその髪の毛を渡した。ハンカチに包んで。
「そのハンカチも差し上げますから、もう関わらないでください」
と言うと、思いのほか素直に頷いて、ありがとう、と嬉しそうに笑った。
最後のその笑顔も、気持ちが悪かった。カエルか爬虫類を前にしているような気がした。袈裟まで憎い、という心理なのかも知れなかったが、もう後ろを振り返ることもなく足早にその場を去った。すべて忘れてしまいたかった。
それから数日が経ち、その男も全く彼女の周囲に現れなくなっていた。
本人の顔が目の前にないと現金なもので、たいした実害もなかったことだし、だんだんとそれほど悪い人ではなかったような気がしはじめていた。
そして、メインメンバーの一部が抜けた後の最初の公演である、秋公演のことを思うと、自然と気持ちが切り替わっていった。
そんなある日、夜にいつものように部屋でテレビを見ている時にそれは起こった。
バラエティ番組が終わり、十一時のニュースを眺めていると、ふいに部屋の中に物凄い音が響いた。
なにか、硬い家具が破壊されたような衝撃音。
82: 風の行方・前編 ◆LaKVRye0d.:2017/2/3(金) 02:11:53 ID:z881GwDpBI
188 :風の行方 前編 ◆oJUBn2VTGE :2012/05/11(金) 21:20:52.18 ID:wBpB+Oun0
心臓が飛び上がりそうになった。うろたえながらも部屋の中の異常を探そうと、息を飲んで周囲に目をやる。
箪笥や棚からなにか落ちたのだろうかと思ったが、それらしいものが床に落ちている痕跡はない。そしてなにより、そんなたかが二メートル程度の高さから物が落ちたような生易しい音ではなかった。
もっと暴力的な、ゾッとする破壊音。
それきり部屋はまた静かになり、テレビからニュースキャスターの声だけが漏れ出てくる。
得体の知れない恐怖に包まれながら、さっきの音の正体を探して部屋の中を見回していると、ついにそれが目に入った。
人形だ。箪笥の上の日本人形。艶やかな柄の着物を着て、長い黒髪をおかっぱに伸ばし、……
その瞬間、体中を針で刺されるような悪寒に襲われた。
悲鳴を上げた、と思う。人形は、顔がなかった。
いや、顔のあった場所は粉々にくだかれていて、原型をとどめていなかった。巨大なハンマーで力任せに打ちつけたような跡だった。まるで自分がそうされたような錯覚に陥って、ひたすら叫び続けた。
浮田さんは語り終え、自分の肩を両手で抱いた。見ているのが可哀そうなくらい震えている。
「髪か」
師匠がぽつりと言った。
ゾッとする話だ。もし、彼女が自分の髪を渡していたら…… そう思うと、ますます恐ろしくなってくる。
なぜ彼女がそんな目に遭わなくてはいけないのか。その理不尽さに僕は軽い混乱を覚えた。
その時、頭に浮かんだのは『丑の刻参り』だった。憎い相手の髪の毛を藁人形に埋め込んで、夜中に五寸釘で神社の神木に打ち付ける、呪いの儀式だ。
藁人形を相手の身体に見立て、髪の毛という人体の一部を埋め込むことで、その人形と相手自身との間に空間を越えたつながりを持たせるという、類感呪術と感染呪術を融合させたジャパニーズ・トラディショナル・カース。
しかしその最初の一撃が、顔が原型を留めなくなるような、寒気のする一撃であったことに、異様なおぞましさを感じる。
83: 風の行方・前編 ◆LaKVRye0d.:2017/2/3(金) 02:16:37 ID:UjZCWpAm.I
189 :風の行方 前編 ◆oJUBn2VTGE :2012/05/11(金) 21:22:43.12 ID:wBpB+Oun0
「その後は?」
師匠にうながされ、浮田さんはゆっくりと口を開く。
「なにも」
その夜は、それ以上のことは起こらなかったそうだ。壊された人形はそのままにしておく気になれず、親しい女友だちに捨ててきてもらった。
怖くて一歩も家を出ることができなかったが、その友人を通してあの男が大学にも姿を現していないことを聞いた。
もしあいつが、渡したのが人形の髪の毛だったことに気づたら、と思うと気が狂いそうになった。もう私は死んだことにしたい、と思った。実際に、友人に対してそんなことを口走りもした。
私が死んだと伝え聞けば、あいつも満足してすべてが終わるんじゃないかと、そう思ったのだ。
喋りながら浮田さんは目に涙を浮かべていた。
「わたしにどうして欲しい?」
師匠は冷淡とも言える口調で問い掛ける。締め切った部屋には、クーラーの生み出す微かな気流だけが床を這っていた。
「助けて」
震える声が沈黙を破る。
師匠は「分かった」とだけ言った。
◆
僕と師匠はその足で、近所に住んでいた浮田さんの友人の家を訪ねた。頼まれて人形を捨てに行った女性だ。
彼女の話では、人形は本当に顔のあたりが砕けていて、巨大なハンマーで力任せに殴ったようにひしゃげていたのだそうだ。彼女はその人形を、彼氏の車で運んでもらって遠くの山に捨ててきたと言う。
「燃やさなかったのか?」
師匠は、燃やした方が良かったと言った。
友人は浮田さんと同じ演劇部で、以前合宿をした時に幹事をしたことがあり、その時に作った名簿をまだ持っていた。男の名前もその中にあり、住所まで載っていた。
84: 風の行方・前編 ◆LaKVRye0d.:2017/2/3(金) 02:20:27 ID:z881GwDpBI
191 :風の行方 前編 ◆oJUBn2VTGE :2012/05/11(金) 21:26:25.78 ID:wBpB+Oun0
「曽我タケヒロか」
師匠はその住所をメモして友人の家を出た。
曽我の住んでいるアパートは市内の外れにあり、僕は師匠を自転車の後ろに乗せてすぐにそこへ向かった。
アパートはすぐに分かり、表札のないドアをノックしていると、隣の部屋から無精ひげを生やした男が出てきて、こう言った。
「引っ越したよ」
「いつですか」
ぼりぼりと顎を掻きながら「四、五日前」と答える。ここに住んでいたのが、曽我という学生だったことを確認して、引越し先を知りたいから大家はどこにいるのかと重ねて訊いた。
すると、その隣人は「なんか、当日に急に引っ越すからって連絡があって、敷金のこともあるのに引越し先も言わないで消えた、って大家がぶつぶつ言ってたよ」と教えてくれた。
四、五日前か。ちょうど人形の事件があったころだ。その符合に嫌な予感がし始めた。
礼を言ってそのアパートから出た後、今度はその足で市内のハンコ屋に行った。以前師匠のお遣いに行かされた店だった。
師匠は店内にズラリとあった三文判の中から『曽我』の判子を選んで買った。安かったが、領収書をしっかりともらっていた。宛名が「上様」だったことから、これからすることがなんとなく想像できた。
ハンコ屋を出ると、案の定次の目的地は市役所だった。
師匠は玄関から市民課の窓口を盗み見て、僕に「住民票の申請書を一枚とってこい」と言った。
言うとおりにすると、今度は建物の陰で僕にボールペンを突きつけ、その申請書の「委任状」の欄を書かせた。もちろん委任者は「曽我タケヒロ」だ。
そして買ったばかりの判子をついて、「ここで待ってろ」と市民化の窓口へ歩いて行った。
そのいかにも物慣れた様子に、興信所の調査員らしさを感じて感心していた。なにより、ポケットから携帯式の朱肉が出てきたことが一番の驚きだった。前にも持っているところを見たことがあったが、こんなこともあろうかと、いつも持ち歩いているらしい。
どっぷり浸かっているな、この世界に。
しかしそれさえ、彼女の持つバイタリティの一面に過ぎないということも感じていた。
85: 風の行方・前編 ◆LaKVRye0d.:2017/2/3(金) 02:23:59 ID:z881GwDpBI
192 :風の行方 前編 ◆oJUBn2VTGE :2012/05/11(金) 21:28:18.48 ID:wBpB+Oun0
しばらく待っていると、浮かない顔をして戻ってきた。
「どうでしたか」と訊くと
「駄目だ。こっちに住民票自体移してなかった。蒸発の仕方から、転出届けは出してない可能性が高かったから、住んでたアパートの住民票さえ取れれば、戸籍と前住所が分かって、色々やりようがあったんだけど」
師匠はそう言いながら市役所の外へ歩き出す。
「大家をつかまえて、アパートに越してくる前の住所を訊き出しますか」
「いや、難しいだろう。住民票を市内に移してないということは、遠方の実家に住所を置いたままだった可能性が高い。カンだけど、曽我はまだこの街にいる気がする。
だから実家を探し出してもやつの足取りをたどれるかどうかは怪しいな。ま、逆に実家に帰ってるんだったら、実害はなさそうだ。とりあえず今すべきことは、最悪の事態を想定して、迅速に動くことだな」
となると、やっぱり大学と演劇部の連中に訊き込みをするしかないか。
師匠は忌々しそうに呟いた。
もし曽我がまだその近辺にいるのなら、それではこちらの動きも筒抜けになってしまう可能性があった。
「どうすっかなあ」
師匠は大げさに頭を両手で掻きながら歩く。
クーラーの効いていた市役所の中から出ると、熱気が全身に覆いかぶさってきて、息が詰まるようだった。そして太陽光線が容赦なく肌を刺す。
しかし、しばらく歩いていると、強い風が吹き付けてきてその熱気が少し散らされた。相変わらず風が強い。朝からずっと吹き回っている。
「昨日からだよ」
と師匠は言った。風は昨日から吹いているらしい。そう言えば昨日はほとんど寝て過ごしたので覚えていないが、そうだったかも知れない。
「そう言えば昨日、友だちが髪の毛の話をしてましたよ」
僕には、男のくせにやたらと髪の毛を伸ばしている友人がいた。高校時代からずっと伸ばしているというその髪は腰に届くほどもあって、周囲の女性からは気持ち悪がられていた。
本人は女性以上に髪には気を使っているのだが、長いというだけで不潔そうに見えるのだろう。だが大学にはそういう髪の長い男は結構多かった。いわゆるオタクのファッションの一類型だったのだろう。
86: 風の行方・前編 ◆LaKVRye0d.:2017/2/3(金) 02:27:36 ID:UjZCWpAm.I
193 :風の行方 前編 ◆oJUBn2VTGE :2012/05/11(金) 21:32:30.07 ID:wBpB+Oun0
その友人が昨日、自分の部屋にガールフレンドを呼んだのだが、あるものを見つけられて詰め寄られたのだという。
どうせ他のオンナを部屋に上げていた痕跡を見つけられたという、痴話喧嘩の話だろうと思ってその電話を聞いていると、案の定「髪の毛が部屋に落ちてるのを見つけられたんだ」と言う。
ふうん、と面白くもなく相槌を打っていると彼は続けた。
「それで詰め寄られたんだ。この短い髪の毛、誰のよ? って」
少し噴いた。なるほど、そういうオチか。彼女も髪が長いのだろう。
市役所の前の通りを歩きながらそんな話をすると、師匠はさほど面白くもなさそうに「面白いな」と言って、心ここにあらずといった様子でまだ悩んでいた。
僕は溜め息をついて、歩きながら自転車のハンドルを握り直す。またじわじわと熱さが増してきた。早く自転車にまたがってスピードを出したかった。
そう思っていると、また風が吹いてきてその風圧を仮想体験させてくれた。
「うっ」
いきなり顔になにがか絡み付いてきた。虫とか、何だか分からないものが顔にあたったときは、口に入ったわけではなくても一瞬息が詰まる。そのときもそんな感じだった。
なんだ。
顔に張り付いたものを指で摘んだ瞬間、得体の知れない嫌悪感に襲われた。
髪の毛だった。
誰の? とっさに隣の師匠の横顔を見たが、長さが違う。そしてそのとき風は師匠の方からではなく、全然違う方向から吹いていた。
髪の毛。
髪の毛だ。髪の毛が風に乗って流されてきた。
立ち止まった僕を、師匠が怪訝そうに振り返る。そして僕の手に握られたそれを見ると、見る見る表情が険しくなる。
「よこせ」
僕の手から奪いとった髪の毛に顔を近づけて凝視する。それからゆっくりと顔を上げ、水平に首を回して周囲の景色を眺めた。
風がまた強くなった。
心臓がドクドクと鳴る。偶然だろう。偶然。
87: 風の行方・前編 ◆LaKVRye0d.:2017/2/3(金) 02:31:34 ID:z881GwDpBI
195 :風の行方 前編 ◆oJUBn2VTGE :2012/05/11(金) 22:06:24.13 ID:wBpB+Oun0
そのとき、近くを歩いていた女子高生たちが悲鳴を上げた。
「やだぁ。なにこれぇ」
その中の一人が、顔に吹き付けた風に悪態をついている。いや、風に、ではない。その指にはなにかが摘まれている。
「なにこれ。髪の毛?」
「気持ち悪ぅい」
口々にそんなことを言いながら女子高生たちは通り過ぎていった。
髪。
偶然…… ではないのか。
師匠はいきなり自分の服の表面をまさぐり始めた。猿が毛づくろいをしているような格好だ。ホットパンツから飛び出している足が妙に艶かしかった。しかしすぐにその動きは止まり、腰のあたりについていたなにかを慎重に摘み上げる。
そして僕を見た。その指には茶色の髪の毛が掴まれている。
反対の手の指にはさっき僕の顔に張り付いた髪の毛。色は黒だ。
長さが違う。色も。どちらも師匠とも、僕の髪の毛とも明らかに違っていた。
「お前、その友だちの話」
「え」
「短い髪の毛誰のよ、って怒られた友だちだよ」
「はい」
「本当に浮気をしていたのか」
その言葉にハッとした。浮気なんかしていないはずだ。
今の彼女を見つけただけでも奇跡のような男だったから。
その部屋に、彼女のでも、自分のでもない短い髪の毛。
普通に考えれば誰か他の、男の友人が遊びにきて落としたのだろうと思うところだ。しかし、そう連想せずにいきなり詰め寄られたということは、なにか理由があるはずだ。
88: 風の行方・前編 ◆LaKVRye0d.:2017/2/3(金) 02:33:48 ID:UjZCWpAm.I
例えば、前の日に二人で部屋の掃除をしたばかりで、友人は誰も訪ねては来ていないはずだったとか。
だったらその髪の毛は、どこから?
僕は思わず自分の服を見た。隅から隅まで。
そして服の表面に絡みついた髪の毛を見つけてしまった。それも三本も。
ぞわぞわと皮膚が泡立つ。
89: 風の行方・前編 ◆LaKVRye0d.:2017/2/3(金) 02:37:30 ID:UjZCWpAm.I
196 :風の行方 前編 ◆oJUBn2VTGE :2012/05/11(金) 22:08:29.86 ID:wBpB+Oun0
どれも同じ人間の髪の毛とは思えなかった。よく観察すると長さや太さ、色合いがすべて違う。こうして、友人の服についた誰かの髪の毛が、部屋の中に落ちたのか。
そう言えば、今日自分の部屋を出たときから顔になにかほこりのようなものが当たって息が詰まることが何度かあった。あれはもしかして髪の毛だったのかも知れない。すべて。
空は晴れ渡っていて、ぽつぽつと浮かんだ雲はどれもまったく動いていないように見えた。上空は風がないのだろうか。
師匠は歩道の真ん中で風を見ようとするように首を突き出して目を見開いた。
そしてしばらくそのままの格好でいたかと思うと、前を見たまま口を開く。
「髪が、混ざっているぞ」
風の中に。
そう言って、なんとも言えない笑みを浮かべた。
「小物だと思ったけど、これは凄いな。いったいどういうことだ」
師匠のその言葉を聞いて、そこに含まれた意味にショックを受ける。
「これが、人の仕業だって言うんですか」
街の中に吹く風に、髪の毛が混ざっているのが、誰かの仕業だと。
僕は頬に吹き付ける風に嫌悪感を覚えて後ずさったが、風は逃げ場なくどこからも吹いていた。その目に見えない空気の流れに乗って、無数の誰かの髪の毛が宙を舞っていることを想像し、吐き気をもよおす。
「床屋の…… ゴミ箱が風で倒れて、そのままゴミ袋いっぱいの髪の毛が風に飛ばされたんじゃないないですか」
無理に軽口を叩いたが、師匠は首を振る。
「見ろ」
摘んだままの髪の毛を二本とも僕につきつける。よく見ると、どちらにも毛根がついていた。慌てて自分の身体についていたさっきの髪の毛も確認するが、そのすべてに毛根がついている。
ハサミで切られたものではなく、明らかに抜けた毛だ。
確かに通行人の髪の毛が自然に抜け落ちることはあるだろう。それが風に流されてくることも。だが、問題なのはその頻度だった。
師匠が、近くにあった喫茶店の看板に近づいて指をさす。そこには何本かの髪の毛が張り付いて、吹き付ける風に小刻みに揺れていた。
90: 風の行方・前編 ◆LaKVRye0d.:2017/2/3(金) 02:41:27 ID:UjZCWpAm.I
197 :風の行方 前編 ◆oJUBn2VTGE :2012/05/11(金) 22:11:04.43 ID:wBpB+Oun0
「行くぞ」
師匠が僕の自転車の後ろに勢いよく飛び乗った。僕はすぐにこぎ出す。
それから二人で、街なかをひたすら観察して回った。だが、その行く先々で風は吹き、その風の中には髪の毛が混ざっていた。
僕は自転車をこぎながら、混乱していた。今起こっていることが信じられなかった。現実感がない。いつの間にか別の世界に足を踏み入れたようだった。風は広範囲で無軌道に吹き荒れ、市内の中心部のいたるところで髪の毛が一緒に流されているのを確認した。
目の前で風に煽られ、髪の毛を手で押さえる女性を見て、師匠は言った。
「この髪の毛、どこからともなく飛んできてるわけじゃないな」
通行人の髪が強風に撫でられ、そして抜け落ちた髪がそのまま風に捕らわれているのだ。
師匠は被っていたキャップの中に自分の髪の毛を押し込み、僕には近くの古着屋で季節外れのニット帽を買ってくれた。もちろん領収書をもらっていたが。
師匠に頭からすっぽりとニット帽を被せられ、「暑いです」と文句を垂れると「もう遅いかも知れんがな、顔面を砕かれたくなかったら我慢しろ」と言われた。
顔面を?
まるであの人形だ。ゾクゾクしながらされるがままになる。
「よし」と僕の頭のてっぺんを叩くと、師匠は顔を引き締めた。
「追うぞ」
「え?」と訊き返すと、「決まってるだろ、髪を、集めてるヤツだ」
何を言っているんだ。
呆れたように師匠の顔を見ながら、それでも僕は自分の心の奥底では彼女がそう言い出すのを待っていたことに気がついていた。
「曽我ですか」
「タイミングが合いすぎている。わたしの勘でも、これは偶然じゃない」
想い人である浮田さんの髪を手に入れ損ねた男が、騙されたことに怒り狂い、無差別に人の髪の毛をかき集めている、そんな狂気の姿が頭に浮かんだ。浮田さんは家に閉じこもっていて正解だったのだろう。
しかし、丑の刻参りだけならまだしも、こんなありえない凄まじい現象を、ただの大学生が起こしているというのか。
91: 風の行方・前編 ◆LaKVRye0d.:2017/2/3(金) 02:45:58 ID:UjZCWpAm.I
198 :風の行方 前編 ラスト ◆oJUBn2VTGE :2012/05/11(金) 22:14:41.76 ID:wBpB+Oun0
「いや、分からん。曽我は浮田の髪の毛を手に入れたが、それが誰か他のやつの手に渡った可能性はある」
「他のやつって?」
「……」
師匠は少し考えるそぶりを見せて、慎重な口調で答えた。
「どうもこのあいだから、こんなことが多い気がする」
このあいだって。
口の中でその言葉を反芻し、自分でも思い当たる。師匠が少し前に体験したという、街中を巻き込んだ異変のことだ。
僕も妙な事件が続くなあ、と思ってはいたがその真相にたどり着こうなどとは考えつかなかった。その後も師匠にはそのことでしつこく詰られていた。
こういう大規模な怪現象が立て続くことに、師匠なりの警戒感を覚えているらしい。その怪現象のベールの向こうに、なにか恐ろしいものの影を感じ取っているかのようだった。
「どうやって追うんです」
少し上ずりながら僕がそう問うと、師匠は自分の人差し指をひと舐めし、唾のついたその指先を風に晒した。風向きを知るためにする動作だ。
「風を追う」
風が人々の髪の毛を巻き込みながら、街中を駆け回り、そしてその行き着く先がどこかにあると言っているのだ。
「でもこんなにバラバラに吹いてるのに」
「バラバラじゃない。確かに東西南北、どの方角からも風が吹いている。でも一つの場所では必ず同じ向きに風が吹いている」
師匠のその言葉に、思わず「あっ」と驚かされた。言われてみると確かにそうだったかも知れない。
「迷路みたいに入り組んでいても、目に見えない風の道があるんだ」
そうじゃなきゃ、髪を集められない。
そう言って師匠は僕の自転車の後輪に足を乗せ、行き先を示した。つまり、風が向かう方向だ。
ゾクゾクと背筋になにかが走った。恐怖ではない。感心でもない。
畏敬という言葉が近いのか。この人は、こんなわけのわからない出来事の根源に、たどり着いてしまうのだろうか。
力強く肩を掴まれ、「さあ行け」という言葉が僕の背中を叩いた。
92: 風の行方・後編 ◆LaKVRye0d.:2017/2/3(金) 02:50:35 ID:UjZCWpAm.I
風の行方 後編
225 :風の行方 後編 ◆oJUBn2VTGE :2012/05/19(土) 23:19:25.47 ID:13YZ4scB0
それから僕らは、師匠の感じ取る風の向かう先を追い続けた。
それは本当の意味で、目に見えない迷路だった。「あっち」「こっち」と師匠が指さす先にひたすら自転車のハンドルを向け続けたが、駅前の大通りを通ったかと思うと、急に繁華街を外れて住宅街の中をぐるぐると回り続けたりした。
かと思うと川沿いの緑道を抜け、国道に入って延々と直進したりと、法則もなにもなく、その先に終わりがあるのかまったく見えなかった。
そしてまた風に導かれるままに繁華街に戻ってきて、いい加減息が上がってきた僕が休憩しましょうと進言しようとしたとき、師匠が短く「止まれ」と言った。
そして後輪から降り、一人で歩き出した。
大通りからは一本裏に入った、レンガ舗装された商店街の一角だった。師匠の背中を目で追うと、その肩越しに二人の人間の姿があった。
女性だ。二人ともセーラー服を着ている。腕時計を見ると、いつの間にか高校生の下校の時間を過ぎていた。
二人は並んで立ち止まったまま、師匠をじっと見ている。二人ともかなり背が高く、目立つ風貌をしていた。
師匠が「よう」と気安げに声をかけると、髪の長い方が口を開いた。
「どうも」
少しとまどっているような様子だった。それにまったく頓着せず、師匠は親しげに語りかける。
「あの夜以来か。いや、一度会ったかな。元気か?」
「ええまあ」
短く返して、困ったような顔をする。
僕もそちらに近づいていった。
「この道にいるってことは、おまえも気づいたんだな」
師匠の言葉にその子はハッとした表情を見せた。
「危ないから、子どもは家で勉強してな」
やんわりと諭すような言葉だったが、見るからに気の強そうな目つきをしているその女子高生が反発せずに聞き入れるとは思えなかった。
そしてその子が口を開きかけたとき、
「どなた」
と、じっと聞いていた髪の短い方の子が、一歩前に出た。それは一瞬、髪の長い方を庇う様な姿に映った。薄っすらと笑みを浮かべた目が値踏みするように師匠に向けられる。
師匠がなにか言おうとして、ふと口を閉ざした。そしてなにかに気づいたような顔をしたかと思うと、すぐに笑い出した。
93: 風の行方・後編 ◆LaKVRye0d.:2017/2/3(金) 02:56:31 ID:UjZCWpAm.I
226 :風の行方 後編 ◆oJUBn2VTGE :2012/05/19(土) 23:22:45.51 ID:13YZ4scB0
そのとき、強い風が吹いて全員の髪の毛をなぶった。髪の短い方が、その髪を手で押さえながら、不快げに眉間を寄せる。
「おいおい、あのときの覗き魔かよ。憑りつかれてるのか思ったのに、仲良しこよしじゃないか!」
一人で笑っている師匠に、女の子たちの空気が凍りついた。
「なにを言っているの」
髪の短い方が冷淡に言い放つ。
「なにって、しらばっくれるなよ。ひっかいてやったろ」
指先を曲げて猫のような仕草を見せる師匠の言葉に、彼女は怪訝な顔をする。師匠もすぐに彼女の顔を凝視して、おや、という表情をした。
「おい。あんなつながり方しといて、無事で済むわけないだろ。目はなんともないのか」
言われた方は自分の目をそっと触った。細く長い指だった。
「なにを言ってるのかわからない」
「ノセボ効果を回避したのか? それともおまえ……」
髪の長い方は連れと師匠との言い合いに戸惑った様子で、口を挟めないようだった。
「おまえ、過去を見てたのか」
師匠の目が細められる。
異様な気配がその場に立ち込め始めたような錯覚があった。
「だったら悪かったな。初対面だ。どうぞよろしく」
からかうように師匠が頭をぴょこんと下げる。
髪の短い方が冷ややかな目つきでその様子をねめつける。
「もう行きましょう」
ただならない雰囲気に気おされて僕は師匠のジャケットを引っ張った。
「まあいいや。とにかくもう家に帰れ。分かったな、子猫ちゃんたち」
バイバイ、と手を振って師匠はようやくセーラー服の二人から離れた。
遠ざかっていく二人を振り返り、僕は師匠に訊いた。
「あの子たちは誰なんですか」
「さあ。名前も知らない。ただ、追いかけているらしい。同じヤツを」
髪の毛が風に流されていく先をか。こんなバカな真似をしているのは僕と師匠だけだと思ったのに。
「あんのガキ」
急に師匠がTシャツの裾をこすり始めた。その裾が妙に汚れていて、こするたびにその汚れが薄く広がっていくように見えた。赤い染み。まるで血のように見えた。
「なんです、それ」
「イタズラだよ」
94: 風の行方・後編 ◆LaKVRye0d.:2017/2/3(金) 03:00:43 ID:UjZCWpAm.I
227 :風の行方 後編 ◆oJUBn2VTGE :2012/05/19(土) 23:23:36.85 ID:13YZ4scB0
ガキのくせに。
師匠はそう呟いて、シャツの裾をくるくると巻いてわき腹でくくり、僕の肩に手を置いた。「さあ急ぐぞ。日が暮れる」
そう急かされたが、僕には師匠のへそのあたりが気になって仕方がなかった。
その後、さっきの二人が追いかけてくる様子もなく、また街なかをくるくると自転車で回り続けた。確かに同じ場所は通らなかったが、風の道が本当に一本なのか不安になってきた。
道がどこかでつながっていたとしたら、尻尾を飲み込んだウロボロスの蛇のように堂々巡りを繰り返すだけだ。
そして、あるビルの真下にやってきたとき、師匠は忌々しげに「くそっ」と掃き捨てた。
ビルを見上げると、十階建てほどの威容がそそり立っている。風は垂直に昇っていた。ビルの壁に沿って真上に。
これでは先に進めない。
ひたすらペダルをこぎ続けた疲れがドッと出て、僕は深く息を吐いた。目を凝らしても壁に沿って上昇した後の風の流れは見えなかった。
しかし師匠は「ちょっと、待ってろ」と言って近くのおもちゃ屋に飛び込んで行った。
そして出てきたときには手に風船のついた紐を持っていた。ふわふわと風船は浮かんでいる。ヘリウムが入っているのだろう。
「見てろよ」
師匠は一際大きく吹いた風に合わせて、紐を離した。
風船はあっと言う間に風に乗って上昇し、ビルの壁に沿って走った。そして五階の窓のあたりで大きく右に曲がり、そのままビルの壁面を抜けた。壁の向こう側へ回りこんだようだ。
僕と師匠はそれを見上げながら走って追いかけ、風船の行く先を見逃すまいと息を飲んだ。
だが、風船はビルの壁の端を回りこんだあたりで、風のチューブに吸い込まれるような鋭い動きを止め、あとはふわふわと自分自身の軽さに身を任せたかのようにゆっくりと空に上昇していった。
「しまった」
師匠はくやしそうに指を鳴らす。
そうか。風が上昇するときは、風船もその空気の流れに沿って上昇していくが、下降を始めたら、風船はその軽さから下向きの空気の流れに抗い、一瞬は風とともに下降してもやがてその流れから外れて、勝手に上昇していってしまうのだ。恐らくは何度やっても同じことだろう。
飛んで行く風船を見上げながら、僕たちはその場に立ち尽くしていた。これで道を指し示すものがなくなった。
気がつくとあたりは日が落ちかけ、薄暗くなっていた。
95: 風の行方・後編 ◆LaKVRye0d.:2017/2/3(金) 03:06:33 ID:z881GwDpBI
228 :風の行方 後編 ◆oJUBn2VTGE :2012/05/19(土) 23:24:38.31 ID:13YZ4scB0
「どうしますか」
焦りを抑えて僕がそう問い掛けると、師匠は難しい顔をした。
もう、零細興信所に持ち込まれた小さな依頼どころの話ではなかった。ありえないと思いつつも、起こりうる最悪の事態をあえて想定した時、この街に訪れるかも知れない最悪の未来は、凄惨なものだった。
想像してしまって、自分の顔を手のひらで覆う。
風の行き着く場所で大きな口をあけて、そのすべてを飲み込もうとしている怪物。その怪物が自らの口に飛び込んできた無数の人々の髪の毛を集めて、なにかをしようとしている。
ガーンッ……
金属性のハンマーの音が頭の中に走った。思わず顔を上げ、幻聴であったことを確かめる。
うそだろ。そんなことが現実に起こるのか。うそだろう。
助けを求めるように師匠の方を見たが、いつになく蒼白い顔をしていた。
「ガスか」
「え」
「着色したガス。それを流せば風の道が見える」
それだ。その思いつきに興奮して、師匠の手を取った。
「それですよ。いけます、それ」
しかし師匠は浮かない顔だった。
確かに着色ガスなどどこで手に入れたらいいのかとっさには分からない。しかし知り合いに片っ端から訊くとか、あるいは街なかのミリタリーショップにでも行けばあっさりと売っているかも知れない。
もしくは駄菓子屋で売っていたような煙玉でもいい。
少なくともここでビルを見上げているよりはマシだ。
しかし師匠は首を振る。そして自分の腕時計を指し示す。
「時間がない」
「なぜです」
「もう日が暮れる。なにかあるとしたら夜だ。確かに昨日から風は吹いていたけど、明らかに今日になってから強くなった。今夜、それが起こるかも知れない。
ここまでに掛かった時間を考えてみろ。わたしたちはスタートがどこかも知らないんだ。この先、どこまでこの風の道が続くのかも」
僕は口ごもった。
しかし腹の底から湧いてくる焦燥が、考えも無く口を開かせる。
「だったらどうするんですか」
96: 風の行方・後編 ◆LaKVRye0d.:2017/2/3(金) 03:13:47 ID:UjZCWpAm.I
229 :風の行方 後編 ◆oJUBn2VTGE :2012/05/19(土) 23:29:16.14 ID:13YZ4scB0
我ながら子どもがだだをこねるような口ぶりに、師匠は「なんとかするさ」と口角を上げた。
どれほど追い詰められても、この人はそのたびに常識を超えた解答を導き出す。正答、正しい答えではない、ただ複雑に絡まりあった事象を一刀で断ち切るような、解答をだ。
そんなとき、彼女の周囲には夥しい死と生の気配が、禍々しく、震えるように立ち込め、僕はそれにえもいわれない恍惚を覚える。
「行くぞ」
どこへ、ではなく、はい、と僕は言った。
◆
ビルの屋上は風が強かった。
いつもそうなのか、それとも今日という日だからなのか、それは分からなかった。時間は夜の十二時を少し回ったころ。
展望台として開放されているわけではない。ただこっそり忍び込んだのだ。高い場所から見下ろす夜景は、なかなかに壮観だった。
周辺で一番高いビルだから、その周囲の小さなビルの群れが月光に照らされている姿がよく見えた。そしてその下のぽつぽつと夜の海に浮かぶ小船のような明かりも。
師匠は転落防止のフェンスを乗り越えて、切り立った崖のような屋上の縁に腰をかけ、足を壁面に垂らしてぶらぶらと揺らしていた。
片方の手ですぐそばのフェンスを掴んではいるが、強風の中、実に危なっかしい。
僕は真似ができずに、フェンスのこちら側で師匠のそばに座り、その横顔をそっと窺っていた。
「…………」
持ち込んだ携帯型のラジオからニュースが流れている。
「続報、やらないなあ」
師匠が呟く。
さっき聴いたローカルニュースには僕も驚いた。
市内の中心街で、夕方に毒ガス騒ぎがあったというのだ。
黄色いガスがビルの回りに立ち込めて、周囲は騒然としたそうだ。
すぐにそのガスはただの着色された無害なガスと分かり、厳戒態勢は解かれることになったのだが、こんな平和な街でそんな事件が起こること自体が異常なことだった。
犯人はまだ分かっていない。しかしその誰かは、師匠と同じことを考えたのに違いないだろう。
騒動のあった場所は僕らが行き詰ったビルの前とは離れていた。しかしそんなトラップのような場所が一ヶ所とは限らない。僕らよりもかなり手前にいたのか、あるいはずっと先行していたのかも知れない。
97: 風の行方・後編 ◆LaKVRye0d.:2017/2/3(金) 03:20:51 ID:z881GwDpBI
230 :風の行方 後編 ◆oJUBn2VTGE :2012/05/19(土) 23:30:28.88 ID:13YZ4scB0
「だれでしょうね」
そう問うと、師匠は「さあ、なあ」と言ってラジオの周波数を変えた。
「あの子たちじゃない気がするな。まあ、この街にもこういう異変に気づくやつらが何人かはいるってことだろう」
そのガスをつかった誰かは、風の行き着く先にたどり着けたのだろうか。それとも出口のないウロボロスの蛇の輪に囚われてしまっただろうか。
僕は今日一日、西へ東へと駆けずり回った街を感慨深く眺める。この高さから夜の底を見下ろすと、地上のすべては箱庭のように見えた。現実感がない。
さっきまであそこで這いずり回っていたのに。急に得た神の視点に、頭のどこかが戸惑っているのかも知れない。
「で、このあと、どうなるんです」
なにも解決などしていなかった。それでもここでただこうしているだけだ。もう僕はすべてを師匠に委ねていた。
あの後、僕らはビルを離れ、師匠の秘密基地へ向かった。ドブ川のそばに立っている格安の賃貸ガレージだ。
部屋の中に置けない怪しげな収集物はそこに隠しているらしい。
シャッターを上げると、かび臭い匂いが鼻をついた。そして、感じられる人には感じられる、凄まじい威圧感がその中から滲み出していた。
その空気の中へ、どれで行くかな、などと鼻歌でも歌う調子で足を踏み入れた師匠はしばらくゴソゴソとやっていたかと思うと、一つの箱を持ってガレージの外に出てきた。
やっぱりこれだな。
そしてなにごとか呟いて、箱に施されていた細い縄の封印を解いた。呟いたのは、短い呪い言葉のようだった。
箱の中から現れたのは仮面だった。鬼のような顔をした古そうな仮面だったが、どこかのっぺりとしていた。
だがそのときの僕は、もっととてつもないものが現れたのだと思った。恐ろしさや、忌々しさ、無力感や、憤怒、そして嘆き。そうしたものが凝縮されたもの。
なにか、災害のようなものが現れたのだと。
身体が硬直して動けない僕を尻目に、師匠はその仮面の頭部に手をやり、そこに生えていた毛を一本毟り取った。
そう。その仮面には髪の毛が生えていた。いや、髪の毛というより、その部分の皮膚が仮面に張り付いて、剥がすときに肉ごとこそげ落ちてしまったかのようだった。
98: 風の行方・後編 ◆LaKVRye0d.:2017/2/3(金) 03:27:20 ID:UjZCWpAm.I
231 :風の行方 後編 ◆oJUBn2VTGE :2012/05/19(土) 23:32:01.44 ID:13YZ4scB0
髪は仮面の裏側にこびり付いた赤黒い肉から生えていた。
これでいい。
師匠はそう言ってまた仮面を箱に戻し、引き抜いた髪の毛だけをハンカチに包んで、行こう、と言った。
それから師匠はまた市街地に戻り、強い風が吹いている場所に立ってニヤリと笑ってみせた。
日は落ちて、街には人工の明かりが順々に灯っていた。
目深に被ったキャップの下の目が妖しく輝いている。
どうすると思う?
もう分かった。師匠がなにをするつもりなのか。
こうするんだ。
そう言ったかと思うと、ハンカチから出したさっきの髪の毛をそっと指から離した。それは風に乗り、あっと言う間に見えなくなってしまった。風の唸る音が、耳にいつまでも残っているような気がした。
「あの仮面は、なんだったんです」
風の舞う深夜のビルの屋上でフェンスを挟んで座り、僕はぽつりと漏らした。聞けばゾッとさせられるのは間違いないだろう。しかし聞かずにもいられなかった。
「あの面か」
むき出しの足を屋上からはみ出させ、前後にぶらぶらと揺らしながら師匠は教えてくれた。
「金春(こんぱる)流を知ってるか」
曰く、能の流派の一つで、主に桃山時代に豊臣秀吉の庇護を受けて全盛期を迎え、一時代を築いた家なのだという。
現代でも続くその金春流は、伝承によると聖徳太子のブレーンでもあった渡来人の秦氏の一人が伝えたものだと言われ、非常に古い歴史を持っている。
その聖徳太子が神通力をもって天より降ろし、金春流に授けたのが「天之面」と呼ばれる面だ。その後、その面は金春家の守護神として代々大切に祀られ、箱に納めた上に注連縄を張り、金春家の土蔵に秘されていたという。
天之面は恐ろしい力を持ち、様々な天変地異を起こしたと伝えられている。
人々はその力を畏怖し、厳重に祀り、「太夫といえども見てはならぬ」と言われたほどであった。
享保年間の『金春太夫書状』によれば、「世間にておそろし殿と申す面也」とされている。
99: 風の行方・後編 ◆LaKVRye0d.:2017/2/3(金) 03:33:05 ID:z881GwDpBI
232 :風の行方 後編 ◆oJUBn2VTGE :2012/05/19(土) 23:34:55.04 ID:13YZ4scB0
また、「能に掛け申す面にては御座(イ)無く候」とも記されているとおり、能の大家の守護神たる面にもかかわらず、能を演じるときに被られることはなく、ただ秘伝である『翁』の技を伝授された太夫のみが一代に一度のみ見ることを許されたという。
それは「鬼神」の面とも、「翁」の面とも言われているが、正体は謎のままである。時代の下った現代では大和竹田の面塚に納められているとも言われるが、その所在は判然としていない。
その「おそろし殿」と呼び畏れられた面が。「太夫といえども見てはならぬ」と称された面が……
「ちょっと、まってください」
ようやく口を差し挟んだ。
師匠は僕の目を見つめ返す。
「あの面には、その、肉が。ついていました」
能を演じる際に掛ける面ではない、と言われているのに、あきらかに誰かが被った痕跡があった。いや、それ以前に、それほど古い面ならば、人間の肉など風化して崩れ落ちていてしかるべきではないか。
「ニンゲンの肉ならな」
師匠は口元に小さく笑みを浮かべる。
いや、そもそも、どうしてそんな面を師匠が持っているのだ。
「話せば長くなるんだが。まあ簡単に言うと、ある人からもらったんだ」
「誰です」
「知らないほうがいいな」
そっけない口調で、つい、と視線を逸らされた。
なんだか恐ろしい。
恐ろしかった。
その面はただごとではない。自分自身がそれを見た瞬間に「災害のようなもの」と直感したことを思い出した。
そして次に、師匠がその面の裏に張り付いた肉から抜き取った髪の毛を、風の中に解き放ったときの光景が脳裏に蘇る。そのときの、風の唸り声も。
ゾクゾクと寒気のする想像が頭の中を駆け巡る。
髪の毛は風に乗って宙を舞い、街中を飛び続ける。まるで巨大ななにかが深く吸う息に、手繰り寄せられるように。
やがて髪の毛は誰かの手元にたどり着く。そして人間を模したヒトガタの奥深くに埋められる。それを害することで、その髪の持ち主を害しようとする、昏い意思が漏れ出す。
そして……
二十分か、三十分か。沈黙のうちに時間が経った。
100: 風の行方・ラスト ◆LaKVRye0d.:2017/2/3(金) 03:37:50 ID:z881GwDpBI
233 :風の行方 後編 ラスト ◆oJUBn2VTGE :2012/05/19(土) 23:37:16.82 ID:13YZ4scB0
深夜ラジオの音と、轟々という風の音だけが響く高層ビルの屋上で、僕はふいにその叫びを聞いた。
h ―――――――――………………
声にならない声が、夜景の中に充満して、そして弾けた。断末魔の叫びのようだった。
その余韻が消え去ったころ、恐る恐る街を見下ろすと、遥か地上ではなにごともなかったかのように車のヘッドライトが、連なる糸となって流れていた。
きっとあの叫び声が、悲鳴が、聞こえたのはこの街でもごくひと握りの人間たちだろう。
その人間たちは昼間の太陽の下よりも、暗い夜の中にこそ棲む生き物なのだ。
自分と、師匠のように。
「結局、曽我ナントカだったのか、別の誰かだったのか分からなかったな。黒魔術だか、陰陽道だか、呪禁道だか知らないが、たいしたやつだよ」
その夜の側から、師匠が言葉を紡ぐ。
「だけど」
相手が悪かったな。なにしろ国宝級に祟り神すぎるやつだ。
ひそひそと、誰に聞かせるでもなく囁く。
僕はその横顔を金網越しに見つめていた。落ちたら助からない高さに腰をかけ、足をぶら下げているその人を。
その左目の下あたりからは、いつの間にかぽろぽろと光の雫がこぼれている。そしてその雫は高いビルの屋上から、海のような暗い夜の底へと音もなくゆっくりと沈んでいく。
この世のものとは思えない幻想的な美しさだった。
われ知らず、僕はその光景に重ね合わせていた。見たこともないはずの、鷹の涙を。あるいは、夜行性の鳥類の涙…… 例えば、フクロウの流すそれを。
気がつくと、風はもう止んでいた。
(完)
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