ここでは、まとめの怖い系に掲載されている『師匠シリーズ』の続きの連載や、古い作品でも、抜けやpixivにしか掲載されていない等の理由でまとめられていない話を掲載して行きます
ウニさん・龍さん両氏の許可は得ています
★お願い★
(1)話の途中で感想等が挟まると非常に読み難くなるので、1話1話が終わる迄、書き込みはご遠慮下さい
(代わりに各話が終わる毎に【了】の表示をし、次の話を投下する迄、しばらく間を空けます)
(2)本文はageで書きますが、感想等の書き込みはsageでお願いします
それでは皆さん、ぞわぞわしつつ、深淵を覗いて深淵からも覗かれましょう!!
16: 『絵』《V》 ◆LaKVRye0d.:2017/1/26(木) 01:57:07 ID:/.Q2kT1tPE
「福武がな、明日からの大学祭で作品を展示するんだけど、その中に見て欲しい絵があるって言うんだ」
師匠はそう言ってにやりと笑った。
◆
翌日、僕と師匠は待ち合わせて、一緒に一般教養の学部棟へ向かった。講義室の一室を借りて、そこで特別美術コースの学祭展をしているそうだ。
様々な模擬店が立ち並ぶキャンパスの間を抜け、大学祭の喧騒から離れていくと、少し物寂しい気持ちになる。途中、ささやかな学祭展の看板が目に入ったが、こんなもので足を運ぶ人がいるのだろうかと、人ごとながら心配になった。
開放されていたその講義室は二階にあり、階段を登った先にある廊下を抜け、そこに並んだ扉の一つに入ると四方の壁を覆うように白い足付きのボードが並んでいて、そこに沢山の絵が展示されていた。
「浦井さん」
展示会場の奥にいた女性がこちらに気づいて近づいてくる。小柄で端正な顔をしていて、髪が長い人だった。この人が福武さんか。
痩せているが、病的というほどでもない。だが、どこか不健康な印象を受けた。
17: 『絵』《V》 ◆LaKVRye0d.:2017/1/26(木) 02:00:42 ID:jsJ4QOAmCk
「ありがとうございます。来てくれて」
「ようフクタケ。開店休業状態か」
師匠は会場内を見回す。福武さんと一緒にいたもう一人の女性は恐らく同じ特美の学生だろう。会場当番ということか。それ以外に会場内にいるのは、僕らを除くと一人だけだった。学生ではない年配の女性で、模擬店で買ったらしい焼きソバかなにかのビニール袋を右腕に引っ掛けて、あまり熱心にでもなく一つ一つの絵を見て回っていた。
あ、いや、そう思っている間に一人増えた。学生らしい服装の若い男がキョロキョロしながら入って来たのだった。それにしても寂しいものだ。
「あれ? 浦井さん。彼氏ですか」
福武さんは僕の方を見ながらそう訊いてきた。
「家来だ」と師匠が言うので、僕は「家来です」と言うほかなかった。せめて弟子と言って欲しかったが。
物珍しそうな視線をかわして、僕は壁際の絵に近づいた。学生が描いたにしても、やはり高校生とはレベルが違う。透明感のある夕暮れの街の風景や、バスケットに盛られた果物の精密な絵などを眺めながら、僕は自分の中に、それでも感動の欠片も浮かんで来ないのを感じていた。昔から絵はあまり好きではないのだ。
それでも来場者がまた増えたようだ。カップルらしい二人組が入って来て、変な歓声を上げている。
「で、見て欲しい絵ってのはどれ?」
師匠がそう訊ねると、福武さんは少し緊張した面持ちで、入り口から見て左隅の壁を指さした。
18: 『絵』《V》 ◆LaKVRye0d.:2017/1/26(木) 02:04:43 ID:jsJ4QOAmCk
「あれか。いつ描いたの」
師匠はそう言いながら左隅の壁際のボードに近づいていった。
「完成したのは五日くらい前です」
師匠と、福武さんの後に続いて僕も歩き寄る。
それは、大きな絵だった。三十号だか、四十号だか知らないが、そのくらいの大きさの絵がボードに掛けられている。
師匠がその絵の前に立った瞬間、なにか異様な空気の緊迫を感じた気がした。師匠はその姿勢のまま固まり、身じろぎ一つしない。
僕はなぜか足が重くなり、師匠の背中を見つめたまま絵の方に近寄れないでいた。
「なぜこの絵を描いた」
師匠が絵を見据えたまま落ちついた口調でそう訊ねる。だがそれは張り詰めた空気の中を慎重に泳ぐような声色だった。
福武さんは「それは」と言ったきり口ごもり、言葉を探している。もう一人の特美の学生は、増えた来場者の対応で入り口のあたりにいる。展示会場の奥の一角には僕ら三人しかいない。
「見たんだな」
念を押すような師匠の言葉に、福武さんは頷いた。
「どこで見た」
師匠は絵から目を逸らさない。福武さんは一歩だけ近づき、「どこだか分からない、どこかで」と言った。
師匠が言っていたとおりだ。福武さんの幻視は、その目で景色を見るようなものとは少し違うのだろう。この世のものではないものを街のどこかに、あるいは、どこだか分からないどこかに、幻視しているのだ。
僕は重い足を引きずりながら、師匠の隣に近づいていった。
大きな絵だった。油絵だ。夜を思わせる黒い背景の中に、気持ちの悪い生き物たちがいる。それは良く見ると裸の人間たちで、誰もかれも身体の一部が大きかった。鼻が身体の半分ほどもあるもの。両手がアホウドリの翼のように大きいもの。両目が寄生虫に侵されたカタツムリのように大きいもの……
そして、両目と両手が大きいもの。
両耳と足先だけが大きいもの。
顔全体が大きいもの。
19: 『絵』《V》 ◆LaKVRye0d.:2017/1/26(木) 02:09:32 ID:jsJ4QOAmCk
「なんですか、これ」
僕は呻いた。そんな人間とも呼べないような人間たちばかりが十人以上、両手を天に突き出しながら集っている絵だった。そのどれも、虚ろな表情をしながら、どこか狂気を孕んだような茫漠とした目つきをしていた。
サバトを思い浮かべた。まるで悪魔の宴だ。
そしてちょうど絵の中央に、身体の一部が大きい人間たちが崇め奉るようにして囲んでいる化け物の姿があった。
「お前、これがなんなのか、知っているのか」
師匠が押し殺した声でそう訊ねる。福武さんは首を左右に小さく振った。
「知らない」
小さな声でそう答える。
20: 『絵』《V》 ◆LaKVRye0d.:2017/1/26(木) 02:13:27 ID:/.Q2kT1tPE
身体の一部が大きい人間たちが崇拝しているように見えるその怪物は、おぞましい姿をしていた。僕の身体は小刻みに震える。その姿をどこかで見たことがあるような気がしたが、ふいに湧いてきた全身を覆う悪寒に、記憶を辿ることもできない。
見ている。
悪寒の正体が言葉になった瞬間、張り詰めていた空気が、ねとくつような密度を持ち始めた。
見ている。絵の中から。
朝からここに飾られていたはずのただの絵が、僕らの来訪とともに、変質しようとしていた。いや、僕らじゃない。師匠だ。師匠の存在に呼応しているのだ。
絵は静かにそこにあるだけだ。しかし、少しでも目を逸らすと、その狂気の宴が動き始めそうな気がして、僕はとてつもない息苦しさを感じていた。怪物の目がぐるりと動くような錯覚を立て続けに感じる。
「なんの冗談だ、これは」
師匠が吐き捨てるように呟く。その言葉に違和感を覚え、僕は恐る恐る訊ねた。
「これがなんなのか知っているんですか」
師匠はゆっくりと頷いた。そして絵から視線を逸らさず、その中央に横たわる怪物を指さした。
「名前だけは、誰でも知ってる。でも、姿を知っている人は少ないだろうな」
師匠はそうして怪物の名前を告げた。
「え」
その名前に、僕は唖然とした。
「これが?」
確かに、なんの冗談なのだ。偶然のはずはない。それではまるで……
「ちょっと、押さないでよ」
甲高い声が展示会場の中に響いた。突然の大きな声に驚いて振り返ると、いつの間にか講義室の入り口のあたりには沢山の来場者がたむろしていた。ちょうど開け放した扉のあたりにいた学生らしい女性が、後ろから来る人の圧力で転びそうになっている。
さっきまで閑散としていたのが、嘘のような盛況だった。
21: 『絵』《V》 ◆LaKVRye0d.:2017/1/26(木) 02:18:32 ID:/.Q2kT1tPE
そのわいわいとした賑やかさに、僕は生唾を飲み込んだ。降って湧いたような賑やかさの中で、まだ僕らの周りの張り詰めた空気と、絵の中からの異様な視線は続いていたのだ。
異常な状況だった。
「押さないでください」
福武さんの仲間が声を張り上げて、来場する人々を会場の奥へと誘導する。僕と師匠と福武さんが立ち尽くす一角へも人の流れがやって来ようとしている。
先頭を行く女性が「なんなのよ、もう」と言いながら、戸惑った様子で歩いて来る。師匠がそこへ駆け寄り、早口で訊ねた。
「どうしてここへ来たんだ」
女性は学生らしく、話しかけてきた相手が年上なのか年下なのかとっさに値踏みするように見つめていたが、師匠の切羽詰った様子に「どうしてって、なんとなく」とだけ答えた。
師匠は続けてその後ろにいた男に声を掛ける。無精ひげを生やしていて、学生ならばドクターあたりの年齢だろうか。
「誰か宣伝でもしていたのか」
師匠に肩を揺すられ不快そうに眉をひそめたが、男は「別に」と答えた。
「なんなの」「やめて、押さないでって言ってるでしょ」「ちょっと、もう出ようよ」「出よう」「なんか怖い」
人々は困惑した様子で口々にそう言い、絵を見ようという余裕はすでになくなりつつあった。しかし、次から次へと講義室の入り口から人が入って来る。
「なんなのこれ」
福武さんは、怯えた様子で口元を手で塞ぎ目を見開いている。
その混乱の中でも、師匠は人々に声を掛け続け、この事態が一人ひとりの行動に絞って確認する限り、単に「学祭展をやってるらしいから、見てみるか」というありふれた動機から来ていることを突き止めていた。
だがその一人ひとりの個人的な行動が、大学祭に来ていた多くの人々の中に生まれうる蓋然性を、はるかに超えた異常な割合で発生していたのだった。
「押さないでください!」
悲鳴のような声があがった。出入り口の混乱状態はすでに収拾がつかないような状況のようだった。
22: 『絵』《V》 ◆LaKVRye0d.:2017/1/26(木) 02:22:34 ID:jsJ4QOAmCk
「実行委員会に連絡しなきゃ」
仲間が焦った様子で福武さんの肩を揺する。しかしそのすべはなかった。ここから出て、大学祭の役員を呼んで来ようにも、押し寄せる人の壁にとても出来そうになかったのだ。
「戻って、戻って」
出入り口のあたりの人が廊下側に声を掛けるが、人の流れは止まる気配がなかった。徐々に講義室の空間が人間の群で狭くなっていく。
僕は想像する。恐らく講義棟の入り口あたりには、特美の学祭展に行こうとする人の行列が出来ているのだろう。その行列が人々の注目を集め、なんの興味もなかった人々までも集め始めているのだ。これから並ぼうとする人たちは多分、これがなんの行列なのかすら分かっていないだろう。
「痛い、痛い!」
廊下の方でどよめきが起きた。転倒があったようだ。密集地帯で倒れた人に押されて隣の人が倒れる、という恐ろしい循環が生まれたのだ。人々の悲鳴があっという間に充満する。
恐慌が起ころうとしていた。
目の前で展開する現実的な恐怖に僕の身体は震え、なにをすればいいのかも分からなかった。
「どけ」
師匠が周囲にそう怒鳴ると、福武さんたちが使っていたパイプ椅子を掲げて、講義室の奥にあった申し訳程度の小さな窓に叩きつけた。ガスン、という大きな音がしたが、ガラスは割れなかった。
「くそ」
師匠は悪態をつくと、窓ガラスに近づき、その構造を確かめる。胸元の高さに窓が設置されている。僕も駆け寄ったが、空気を入れ替えるための最低限の形でしか開かないように調整されているらしく、専用の器具もない現状では窓を開けようにもほんのわずかな隙間しか作れなかった。
水平方向に軸があり、上部が手前側、そして下部が向こう側へと斜めに傾いた窓ガラス。その窓の外は二階だ。その向こうを見つめ、師匠が短く言い放った。
「ここから出る。その間に窓を押されたら腹が潰れかねない。お前はここで死守しろ」
師匠はそう言ったかと思うと、素早く振り向き、あの悪夢のような絵を壁から外した。
23: 『絵』《V》 ◆LaKVRye0d.:2017/1/26(木) 02:27:03 ID:jsJ4QOAmCk
「フクタケ! こいつは危険だ。処分するぞ」
本人が頷くのも確認せず、師匠は再び窓に駆け寄り、その隙間から絵を講義室の外に落とした。そしてサッシに手をかけ、ひと一人が通れるか通れないか、という狭い隙間から、その身体を柔軟にしならせるようにして、外へ出ようとした。
案の上、窓から出られることに気づいた周囲の人間が殺到しようとする。僕は吼えながら、それを力づくで押しとどめる。人の壁の物凄い圧力に恐怖を覚え、もう駄目だ、と思った瞬間、師匠の姿が窓の外へ完全に消えていった。
「あとは任せろ」という声を残して。
◆
師匠が窓の外へ消えてから、ほどなくして人の流れは途絶えた。密集状態は徐々に緩和されていったが、人の喧騒が生んだ異様な熱気と、怪我人の呻き声はいつまでも周囲に漂い続けていた。
救急車とパトカーが来て、ようやく事態が収拾したのは一時間以上経ってからだった。実況見分が始まり、大学祭の実行委員会の役員と、福武さんたち特別美術コースのメンバーが事情を聞かれている中、僕は大した怪我もなく、するするとその場を逃げ出した。
師匠がどこにいったのか分からず、しばらくあたりを探し回っていたが、やがて諦めて一度自分の家に帰った。家から電話を掛けると、師匠は自分の家に戻っていた。すぐさま外へ飛び出して、師匠のアパートへ向かう。
24: 『絵』《V》 ◆LaKVRye0d.:2017/1/26(木) 02:29:08 ID:/.Q2kT1tPE
ノックだけをしてすぐにドアを開けると、師匠は部屋の真ん中であぐらをかいていた。
「よう。無事だったか」
「僕は大丈夫です」
師匠はなぜか、服のあちこちが破れていた。窓から落ちる時に引っ掛けでもしたのかと思ったが、そんなにあちこちが破れるものだろうか。疑問に思っていたら、師匠は言った。
「あの後の方が大変だった」
それはどういうことかと訊いても詳しく教えてくれなかったが、とにかく絵は処分したのだという。
「燃やしたんですか」
「ああ。焼却炉で」
サークル棟のそばに学生が管理を任された焼却炉があるのだが、そこで燃やしたのだろう。
「あの絵はなんなんですか」
僕はそう訊ねると、師匠ははぐらかすように言った。
「ばけものの絵だ」
そうして、やぶれた肘のあたりを弄り回していた。
【了】
25: 1 ◆LaKVRye0d.:2017/1/26(木) 02:34:03 ID:jsJ4QOAmCk
近々、図解のある作品を投下する予定です
いめピクの様に、たった1ヶ月で消えてしまったりしない、
張り付けた画像が長期間残るろだをご存知の方、教えて頂けましたら幸いです
26: 風の谷の名無しか:2017/1/26(木) 17:56:37 ID:pXTjnOzJk6
イマジスやピクシブに登録したら?
絵のTは知ってたけどUとVは初めて読んだ。
やっぱり加奈子さんの話は面白い!
1レスがもう少し短い方が読みやすいかも。
27: 1 ◆LaKVRye0d.:2017/1/26(木) 21:07:51 ID:bIf7Iu36js
>>26
イマジスが簡単に登録出来そうだったので早速しました!有難うございました!!
私も加奈子さんの大ファンなので、彼女が出て来る話は大好きです!
28: 1 ◆LaKVRye0d.:2017/1/26(木) 21:34:06 ID:1ncpyEZBBk
>>26
書き忘れてました、1レスの長さの件、了解です
次の話からは、もう少し短くして載せますね
29: 月と地球 ◆LaKVRye0d.:2017/1/30(月) 02:18:26 ID:loeHvyRIOA
月と地球
361 :ウニ ◆oJUBn2VTGE :2013/08/16(金) 23:29:32.14 ID:N/i40Div0
・A・ どうも。
次のお話は、去年の夏に同人誌に寄稿したものです。
362 :ウニ ◆oJUBn2VTGE :2013/08/16(金) 23:30:39.75 ID:N/i40Div0
師匠から聞いた話だ。
小高い丘のなだらかに続く斜面に、藪が途切れている場所があった。
下草の匂いが濃密な夜の空気と混ざりあい、鼻腔を満たしている。その匂いの中に、自分の身体から発散させる化学物質の香りが数滴、嗅ぎ分けられた。
虫除けスプレーを頭からひっかぶるように全身に散布してきた効果が、まだ持続している証だった。
それは体温で少しずつ揮発し、体中を目に見えないオーラのように包んで蚊やアブから僕らを守っているに違いない。
斜面を背に寝転がり、眼前の空には月。そしてその神々しい輝きから離れるにつれ、暗く冷たくなっていく宇宙の闇の中に、星ぼしが微かな呼吸をするように瞬いているのが見える。
ささのは
さらさら
のきばに
ゆれる
おほしさま
きらきら
きんぎん
すなご
虫の音に混ざって、歌が聞える。
とてもシンプルで優しいメロディだった。
ごしきのたんざく
わたしがかいた
おほしさま
きらきら
そらから
みてる
歌が終わり、その余韻が藪の奥へ消えていく。僕は目を閉じてそのメロディのもたらすイメージにしばし身を任せる。
30: 月と地球 ◆LaKVRye0d.:2017/1/30(月) 02:21:49 ID:gGNvDtuvts
363 :月と地球 (タイトル抜かりorz) ◆oJUBn2VTGE :2013/08/16(金) 23:33:51.06 ID:N/i40Div0
虫の音が大きくなる。
隣に、似たような格好で寝転がっている師匠の方を、片目を開けて覗き見る。
組んだ両手を枕にして、また右足を左足の膝の上で交差させ、ぶらぶらさせている。そして夜空を見上げながら、さっきの歌を鼻歌にしてまた繰り返し始めた。
夏になると、師匠はふとした時、気づくとこの鼻歌を歌っていた。機嫌がいい時や、手持ち無沙汰の時。ジグソーパズルをしている時や、野良猫にエサをやっている時。
しかしその歌を声にして歌っているのを聞いたのは初めてだった。
大学一回生の夏。
僕の夏は、たった二度しかなかった。
その最初の夏が、日々、目も眩むほど荒々しく、そして時にこんな夜には静かに過ぎて行った。
「出ないなあ」
師匠が鼻歌の区切りのところで、ぼそりと言った。
「出ませんねえ」
それきり鼻歌は止まってしまった。
31: 月と地球 ◆LaKVRye0d.:2017/1/30(月) 02:23:01 ID:loeHvyRIOA
僕は聞えてくる虫の音が一体何種類のそれで構成されているのか、ふと気になり、数えようと耳を澄ませる。草の中に隠れているその姿を想像しながら。
隣で師匠が欠伸を一つした。
僕たちは、ある心霊スポットに来ていた。遠い昔の古戦場で、この季節になると、まるで蛍のように人魂が舞っている幻想的な光景が見られると聞いて。
しかし、一向に人魂も蛍も姿を見せず、僕らはじりじりとただ腰を据えて待っているだけだった。
僕が二の腕に止まった蚊を叩いた時、師匠が口を開いた。
「いい月だなあ」
言われて見ると、ちょうど満月なのかも知れない。綺麗な円形をした月だった。
「いい月ですねえ」と返すと、師匠は「知ってるか」と続けた。
「来年の一月にな。スーパームーンってやつが出るらしいぞ」
「知らないですね。満月の一種ですか。どの辺がスーパーなんですか」
「でかいらしい」
でかいって…… 月は月だろう。
「そのスーパーなやつなのか知りませんけど、普段からなんかたまにやたらでかく見える時ありますけどね」
32: 月と地球 ◆LaKVRye0d.:2017/1/30(月) 02:24:47 ID:loeHvyRIOA
364 :月と地球 ◆oJUBn2VTGE :2013/08/16(金) 23:36:43.15 ID:N/i40Div0
「それは月が地平線の近くにある時だろう。あれは錯覚なんだぞ」
「錯覚ですか」
「そう。証拠に、目からの距離を固定した五円玉の穴から覗いてみな。普段の月と大きさは一緒だから。あれは、普段中天にある時は夜空の星を遮る存在で、
つまり『手前側』にある月が、地平線近くにある時には家とか山とか電信柱とか、他のものに遮られて、つまり遥か『後ろ』、遥か遠くにある、と認識されるために生まれる錯覚なんだよ」
「そんなもんですかね」
夕方、まだ向こう側がほのかに赤い地平線から現れる巨大な月を頭に思い描く。
「でもそのスーパーなやつも結局は錯覚なんでしょう。本当の大きさは同じわけだから」
「いや、そうじゃない。本当に大きいんだ」
「そんなわけないでしょう。天体が簡単にでかくなったり縮んだりするわけがない」
「そういうことじゃなくて、単に地球と月の距離が近くなるんだよ。それぞれ楕円軌道を描いている二つが、何年かに一度しかない、絶妙なタイミングで」
大きさが変わらないのにそう見える、というのだから、それも錯覚と言うべきである気がしたが、良く分からなくなったので僕は黙っていた。
「だから、実際にでかく見えるんだ。それも今度のは、スーパームーンの中でもさらに特別に最短距離になる、エクストリーム・スーパームーンってやつらしい」
聞いただけでも、なんだか凄そうだ。
「二十年に一度くらいしか来ない、えらいやつだってさ。15%くらいでかく見えるって」
そうか。そんなにえらいやつが来るなら見てみるか。忘れないようにしよう。そう思って、来年の一月、エクストリーム・スーパームーンという言葉を脳裏に刻み付けた。
それから師匠は訊きもしないのに、月にまつわる薀蓄を勝手に垂れ始め、僕はそのたびに少し大袈裟に感心したりして、目的である人魂の群が現れるまでの時間を潰した。
師匠の話はどんどん胡散臭くなり始め、最後には火星と木星の間に昔、地球などと兄弟分の惑星があり、それが崩壊して出来た岩石が今のアステロイドベルトの元になっているという話をしたかと思うと、
地球には元々衛星はなく、その消滅した惑星の衛星が吹き飛ばされ、地球の引力にキャッチされてその周囲を回り始めたのが今の月なのだと、興奮気味に語った。
33: 月と地球 ◆LaKVRye0d.:2017/1/30(月) 02:27:17 ID:gGNvDtuvts
365 :月と地球 ◆oJUBn2VTGE :2013/08/16(金) 23:39:03.86 ID:N/i40Div0
一体どこで吹き込まれたのか知らないが、最近学研のムーとかいう雑誌が師匠の部屋に転がっていたのを見たので、きっとそのあたりなのだろう。
そう思ったところで、さっきのエクストリーム・スーパームーンの信憑性も疑わしくなったので、とりあえず脳に消しゴムをかけておいた。
僕らがそんなやりとりをしている間にも、月はその角度をわずかずつ変え、僕らの首の角度もそれにつれて少しずつ西へ、西へと向いていった。
何ごともなく夜は過ぎる。
虫の音はいつ果てるともなく続き、やがて話し疲れたのか師匠は無口になる。
だんだんと防虫スプレーの効き目が切れてきたらしく、腕や足に止まる蚊が増え、その微かな感触を察知するたび、僕はパチリ、パチリと叩き続けた。
十分ほど沈黙が続いた後で、師匠はふいに口を開いた。
34: 月と地球 ◆LaKVRye0d.:2017/1/30(月) 02:27:59 ID:gGNvDtuvts
「昔な、宇宙飛行士になりたかったんだ」
へえ。初耳だった。
「女性宇宙飛行士ですか」
「アポロ11号で、アームストロングとオルドリンが月面に人類で始めて降り立った時、私はまだ二歳だか三歳だか、そのくらいの子どもだったけど、周囲の人間たちがテレビを見て大騒ぎをしていたのをなんとなく覚えてるんだ」
アポロ11号か。僕などまだ生まれていないころだ。
「最後の月面有人着陸のアポロ17号ははっきり覚えてるぞ。船長のジーン・サーナンがえらく男前でな。そいつとハリソン・シュミットって科学者がさ、月面……『晴れの海』で月面車に乗ってドライブをするのさ。
そうして人類最後の足跡を残す、って言って去るんだよ。計画のラストミッションだったから。でもそれから本当に人類はただの一度も月に足を踏み入れてないんだ」
僕はさっきからずっと見上げていた月を、今初めて見たような気持ちで見つめた。
そうか。あそこに、僕と同じ人間が行ったことがあるんだ。
改めてそう思うと、なにか恐ろしい気持ちになった。
月は暗い虚空に浮かんでいて、あそこまで行く、なんの頼るべきすべもないのだ。空気もなく、重力もなく、途方もなく寒く……
どうして人類はあんなところに行こうと思ったのだろう。
そしてどうしてあんなところに行けると信じられたのだろう。もう人類は、その夢から覚めてしまったのかも知れない。
宇宙飛行になりたかったはずの師匠も、今はこうして地面に寝転がっている
「いつ諦めたんですか」
35: 月と地球 ◆LaKVRye0d.:2017/1/30(月) 02:31:33 ID:loeHvyRIOA
367 :月と地球 ◆oJUBn2VTGE :2013/08/16(金) 23:40:24.16 ID:N/i40Div0
「そうだな。小学校五年生の時だ」
「早いですね」
もう少し夢を見てもいいのに。
現実を見ないことにかけては定評のあるこの師匠が、実に殊勝なことだ。
「笑ったな。でも今でも覚えている。あれは小学校五年生の夏休みが始まった日の夜だ。私は英語の塾に行くことになってたんだよ」
「小学生が英語ですか」
「当然だ。宇宙飛行士になりたいなら、英語力は絶対に必要だった。だから親に頼んで、近所の英語を教える塾に通わせてもらうことにした」
祖父さんの弟で、アメリカに渡った人がいたんだ。
師匠は月を見上げたまま語る。
「亀に司って書いて亀司(ひさし)って読む人だ。バイタリティ溢れる人だった。アメリカ人の女性と結婚して、向こうに渡ってな。
最初はニューヨークで蕎麦屋をやろうとしたんだけど、失敗して、しばらくタクシーの運転手をやってたんだ。それでまた溜めた金で今度はスシバーを始めたらこれが流行った。
大儲けさ。
今もまだその店やってるんだけど、四つか五つ、支店もあるんだ。自分はグリーンカードのままで、帰化申請もしてないんだけど、向こうで生まれた子どもたちはアメリカ国籍を持ってる。日系二世ってやつだな。
その長男がリックって名前で、工業系の大学へ進んだ後、NASAに入ったんだ」
「え。本当ですか」
「ああ。車両開発のエンジニアだった。亀司さんは毎年正月には家族をみんな連れて、うちの実家へ顔を見せに来るんだ。
NASAの職員だったリック…… 日本名は大陸の『陸』って漢字を当ててたから、私は陸おじさんって呼んでたけど、その陸おじさんが私にはヒーローでな。
日本にいる間、私はいつも宇宙ロケットとか、宇宙飛行士の話をせがんで、ずっとくっついてた」
心なしか、懐かしそうに顔がほころんでいる。
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