『手紙』
郵便受けに詰まったチラシの中に、それはあった。
202: ◆bEw.9iwJh2:2018/2/23(金) 02:57:47 ID:kvZJ1c/69U
突然誰かの声が聞こえ、私は驚いて周囲を見回す。
咄嗟にしゃがみ込み耳を澄まして気配を探ったが、足音も息を吐く音も聞こえない。
ただ、静かな時に響く耳鳴りのような音しか、私の耳には届かなかった。
(…誰も、いない?)
ゴミ袋を捨てるところを見られた訳ではなさそうだと判断して、私は金網をなるべく静かに古井戸の上に乗せ直し、その場所から急いで離れた。
私が分解した男の子はしばらくの間警察や消防の人達が探していたけれど、古井戸の中までは調べられなかったらしく、そのまま行方不明という事になった。
203: ◆bEw.9iwJh2:2018/2/25(日) 15:48:33 ID:kvZJ1c/69U
それからはジャンクショップで手に入れたビデオデッキやパソコンの基盤、そういったものを分解して過ごした。
ゴミ捨ての分類表とにらめっこしながら、ばらばらになった金属やプラスチックの欠片をうっとりと眺める。
……けれど、日常生活の中のふとした時、
(あの人の中身は、どんなだろう)
痩せた女の子やちょっとぽよんとした女の子、サッカーが得意な男の子や勉強好きの男の子。
怒ると怖い先生に体のあちこちにしわがいっぱいの先生、話がやたら長い困った先生。
目に付く人達を分解したくてたまらなくなる私がいた。
204: ◆bEw.9iwJh2:2018/2/25(日) 15:57:04 ID:MS1/qmWxlE
少しずつ私が大きくなるにつれ、欲求は更に膨らんで抑えられなくなっていく。
親からもらえるお小遣いも親戚からもらえるお年玉も額が増えて、そのまま手元に残るようになる。
そうして、中学生のある日。
私は二回目の『分解』をした。
205: ◆bEw.9iwJh2:2018/2/25(日) 16:09:17 ID:SaPfFQhN5M
今度は隣の中学校の女の子。
ピアノを弾く指が細長くてごつごつしていて、同い年の女の子達とは全然違う。
私はその十本の指を丁寧に切り離して、骨や肉や爪をじっくりと観察した。
服で隠れていた腕もすらりとしていて、マンネリ気味だった分解作業が実に楽しくて鼻歌まで出た。
おなかの中も、開けてみたら教科書や図書館で読んだ本の内容以上に複雑で。
とてもとても楽しかった。
206: ◆bEw.9iwJh2:2018/2/25(日) 16:19:29 ID:kvZJ1c/69U
−−けれど、楽しい時間はあっという間に過ぎてしまうもので。
血塗れになった両手と包丁をタオルで拭いながら、思ったより重いゴミ袋の中身と量に溜め息が出た。
さあ、どこに捨てよう。
どこにしまっておこう。
さらさらと風に流れるように動く一面のススキの中、私は空を見上げる。
どれくらいそうしていただろうか。
私があの古井戸の事を思い出した時には空は青紫になっていて、東の方には微かな星が光っていた。
207: ◆bEw.9iwJh2:2018/2/28(水) 19:24:37 ID:SaPfFQhN5M
その日の深夜。
私は小さな懐中電灯をくわえて窓からこっそり外へと抜け出した。
ポケットの中には誰かに見付かった時の為の防犯スプレーと使い古した軍手。
ゴミ袋はあのままススキの生えた空き地に置いて帰ったから心配だったけど、誰にも気付かれずに残っていて安心した。
208: ◆bEw.9iwJh2:2018/4/4(水) 04:08:20 ID:XN1gQfBILc
朧気な記憶を頼りに、先ずは古井戸が今も残っているかを確認しに行く。
少し迷いそうになったけど、雑草が生い茂る中に立ち入り禁止の立て札と古井戸は変わらず−−札の字は褪せて判別しにくくなっていたけれど−−そこにあった。
懐中電灯の光度を出来るだけ絞り、周囲も含めて様子を確認する。
うん、多分、大丈夫。
私は一人頷き、人目に付かぬよう注意しながらススキの空き地へと足を向けた。
209: ◆bEw.9iwJh2:2018/4/7(土) 19:36:50 ID:.oby9THsoA
ゴミ袋はずっしりと重たくて、明日の筋肉痛を心配しながら古井戸とススキの空き地とを何往復もする。
額や背中に浮かぶ汗が少し不快だ。
全部のゴミ袋を運び終わって、私は袖で額を拭い、大きく息を吐いた。
(…早くしないといけないよね)
ポケットから軍手を取り出し、両手にはめる。古井戸を形ばかり塞いでいる金網に手をかけると、ざりりと錆のこすれる音がした。
210: ◆bEw.9iwJh2:2018/4/9(月) 02:35:21 ID:L7gV6e5ZO6
金網はかなりボロボロになっていて、気を付けないと壊れてしまいそうだ。
縁に手をかけ、そうっと覗き込む。かび臭い空気が鼻先に届いただけで、以前に処分したゴミ袋が今どうなっているかなんて当たり前だけど分からない。
懐中電灯で中を照らす勇気は出なかった。
(…………)
女の子を詰めたゴミ袋を持ち上げ、私は古井戸の中へとそれを投げ込んだ。
211: ◆bEw.9iwJh2:2018/4/9(月) 02:36:41 ID:.oby9THsoA
《なにこれ、へんなあじ》
212: ◆bEw.9iwJh2:2018/4/9(月) 02:47:25 ID:XN1gQfBILc
不意に響いた声にびくりと体が跳ねる。
男女や老若の区別の付かない、不思議で不気味な声。
息を吸い込む喉がひゅっと変な音を出して、頭の中が一瞬真っ白になった。
「……………だれ、なの」
掠れた声で問いかけても返事はない。
唐突に自分が今ここにいる事の危険性を強く感じて、私は残りのゴミ袋を急いで古井戸に放り投げ、金網で蓋をした。
213: ◆bEw.9iwJh2:2018/4/9(月) 02:57:53 ID:1rd85dK/cs
帰らなくちゃ。早く。
家に、布団の中に。
古井戸に背を向けて走り出す私の耳に、
《まえのよりは、まずくないかも》
そんな声が頭を揺さぶるように届いて響いて、足がもつれそうになる。
−−どうして、忘れていたんだろう。
初めて人間を『分解』して捨てた時、あの場所で聞こえた声の事を−−
214: ◆bEw.9iwJh2:2018/9/6(木) 11:09:12 ID:WyCn26RS7Q
『行き先はどちらですか?』
……がたがた、ごとごと、という響きと共に、一定のリズムで体が揺れている。
ここはどこだろう、と眠気で重い瞼を持ち上げると、バスの中だった。
いつバスに乗車したのか思い出そうとしても、記憶がさっぱり見当たらない。そもそも私は会社の帰りに居酒屋に寄り、アルコールを楽しんでいたはずだ。
注文した酒や摘みの内容は思い出せるのに、支払いや居酒屋を出ただろう時の事はさっぱり浮かんでこない。いや、飲みすぎて記憶が飛び、その過程でバスに乗った可能性は否めないが。
………このバスは、どこに向かっているのだろうか。
215: ◆bEw.9iwJh2:2018/9/6(木) 11:35:18 ID:Mg8krcvzH2
改めて車内を観察してみると、随分と古臭いバスだ。床部分は板張りだし、降車ボタンにはランプ部分がない。座席のシートも座り心地はイマイチだ。
こんな古臭いバスを使っている会社がまだあるとは。維持費の方が高くつくのではないだろうか。
そんな事を考えながら乗客に視線をやる。
年齢層はまちまちで、学生服の少年少女やスーツを着た私と同年代だろう中年に着物姿の老人、赤ん坊を抱えた女性までいた。
こんな時間に赤ん坊連れとは、夫婦喧嘩で家を飛び出してきたのだろうか、とつい想像を巡らせてしまう。
216: ◆bEw.9iwJh2:2018/9/6(木) 16:18:50 ID:Mg8krcvzH2
車内には広告や注意書きの張り紙がない。吊革は随分と黄ばんでいる。
…どことなく気味の悪いバスだ。
ふと気付いて乗車券を探すが、ポケットの中や財布、鞄にも薄い紙はなかった。
(参ったな、始点からの運賃を払わなきゃいけないじゃないか)
思わず溜め息をついてしまう。
いや−−そもそも、自宅に向かうバスに私はちゃんと乗ったのだろうか?間違えて逆方向のものに乗っていたら、とんでもない時間と金の無駄だ。
217: ◆bEw.9iwJh2:2018/9/6(木) 22:24:01 ID:QxgkMEDhOo
行き先を確認したくともモニターは設置されていないし、各停留所までの料金表や運行表も見当たらない。
仕方ない、運転士に直接尋ねるしかないな、と腰を浮かそうとした時、
《次は…ザザッ…おみなこ……お…なこにギギ停ま…ます………》
雑音混じりのラジオのような、酷く耳障りなアナウンスが車内に流れた。
218: ◆bEw.9iwJh2:2018/9/7(金) 10:28:09 ID:Mg8krcvzH2
(おみなこ…?)
全く聞いた事のない停留所だ。
しかし乗客達は平然とした様子で、どうやら私が知らないだけのようだ。
これはやはり自宅とは方向違いのバスに乗ってしまっただろう事は確実だ。仕方ない、財布の中身は乏しくなるが降りたらタクシーを捕まえなくては−−
バスが緩やかにスピードを落とし、停車する。今度こそ立ち上がろうとした時、
−−ギギッ
何かに引っ張られたように、手足が重く、動かなくなった。
219: ◆bEw.9iwJh2:2018/9/7(金) 17:33:03 ID:QxgkMEDhOo
視線を落としても手足には何も付いていない。だが一向に体は動かず、ならば声を上げて運転士に自分の状況を伝えようとするが、呼吸音がただ虚しく響くだけである。
す、と男子学生が立ち上がり、スポーツバッグを引きずるようにして乗降口へと歩いていく。
《こ…ガガ…は、あり…すか》
乗車券を差し出した男子学生に運転士が尋ねている。雑音混じりで、よく聞き取れない。
学生は静かに首を横に振ると乗車券を渡してバスから降りていき−−
そして再び、バスは走り出した。
220: ◆bEw.9iwJh2:2018/9/9(日) 11:27:25 ID:ehhT3UCq2M
座席に見えない糸で縫い付けられたかのように体は依然として動かず、声も出せない。
何だ、これは。いったい、どうなっているんだ。
辛うじて動く首と眼球で、窓の外を凝視する。白髪が目立ち始めた中年男−−私の顔だ−−の酷く焦った表情が、車内の明かりと外の暗闇との間に浮かび上がる。
だが、それだけだった。
民家やコンビニ、スーパーなどの街の明かりは、流れる景色の中には一つもない。
どのくらい時間が経ったのか、次の停留所を告げるアナウンスが車内に響いた。
221: ◆bEw.9iwJh2:2018/9/9(日) 14:50:12 ID:ehhT3UCq2M
………あれから幾つかの停留所に停まり、乗客の姿はどんどんと減っていった。
停留所の名前はどれも聞き覚えのないもので、窓の向こうには相変わらず明かり一つ見えてこない。
体も座席から動けぬままである。
(それにしても、おかしい)
このバスも停留所名もだが、乗客もどこか様子がおかしいのだ。
例えば数席前に座っている女子高生。
あの年代ならばスマホアプリを操作したりなどしているだろうに、俯き加減で大人しく座っている。
例えば赤ん坊を連れた女性。
斜め前に見える赤ん坊は女性の腕の中にじっと収まったまま泣きもしない。私には中学生の娘がいるが、赤ん坊だった頃は腹を空かしたりおむつの具合などでよく泣き喚いていたものだ。
……おかしいどころの話ではない。異常そのものではないか。
222: ◆bEw.9iwJh2:2018/9/9(日) 18:30:46 ID:ehhT3UCq2M
赤ん坊…ああ、早く我が家に帰りたい。妻と娘が待つ、我が家に。
何故私はまっすぐに帰宅しなかったのだろうか。反抗期の娘に酒臭いと睨み付けられた先週が、随分と昔の出来事のようだ。
《ギギギザザこガガッ、次…おのこごジジジ…ます…ギィッ》
アナウンスの雑音はどんどん酷くなる。聞き取れたのは停留所の名前だけだった。
数席前の女子高生が立ち上がり、乗車券を運転士に渡して降りていく。
バスから姿が消えるその一瞬、女子高生の横顔と白い夏服がどうしてか赤黒く染まって見えて、背筋を汗が伝った。
223: ◆bEw.9iwJh2:2018/9/9(日) 19:01:37 ID:ehhT3UCq2M
もう車内には私と赤ん坊連れの女性しか乗客はいない。ぴくりとも動かない赤ん坊。そういえば、女性が赤ん坊を抱き直す仕草は見ただろうか?
良くない想像が脳内を満たす。ああ、酔い潰れた末の悪夢であってほしい。
バスのスピードが緩やかになる。次の停留所が近付いているのだろう。
《…次ザザぐめ……ザザザうぐめに…停まりまギギギギギギィィィ》
最後の方の凄まじい音割れに、思わず噛み締めた歯がぎちりと鳴った。
赤ん坊を抱いた女性がゆらりと立ち上がる。いつの間に取り出したのか乗車券を口にくわえて、乗降口へと進む。
224: ◆bEw.9iwJh2:2018/9/10(月) 05:03:53 ID:QxgkMEDhOo
ふらふらした足取りで女性は車内をゆっくりと歩く。もしかして具合が悪いのだろうか。そう思った時、
ぱたっ、ばたたっ、
水音と共に何かが床に落ちた。
嫌な予感がして、見てはいけないと咄嗟に顔を逸らそうとしたが、遅かった。
−−血が、床を赤く染めている。
女性が歩みを進める度に、その面積は増えていく。フレアスカートというのだったか、元はふわりとしたスカートが大量の血で女性の両足にびたびたとまとわりついていた。しかし女性は赤ん坊を抱えたまま、歩き続けている。
乗降口そば、運転士は床一面を染める血を何とも思っていないのか、女性が口にくわえていた乗車券を取った。
その時見えた赤ん坊の顔は、床と同じように血で真っ赤に染まっていた。
225: ◆bEw.9iwJh2:2018/9/10(月) 05:18:40 ID:Mg8krcvzH2
理解出来ない光景に吐き気が込み上げる。しかし私の口からは未だ酒臭い息が出るだけだった。
《ここ…こりは……ますか》
運転士の問い掛けに、女性は首を縦に何度も振った。
がくがくと揺れる首、床を染め続ける赤い色、腕の中でぴくりとも動かない赤ん坊。
運転士が何か言ったようだが、こちらまで声は届かない。だが女性は首を振るのを止めて、今までの乗客達と同じようにバスを降りていった。
その腕に、赤ん坊をしっかりと抱えて。
車内に、乗客はもう私一人だけになった。
226: ◆bEw.9iwJh2:2018/9/13(木) 06:06:50 ID:QxgkMEDhOo
見てしまったもののあまりのおぞましさに、酔いは完全に醒めていた。
最初は僅かにあった眠気も今はない。頬を汗が伝い落ちる感覚がしたが、拭いたくても体は動かないままである。
真っ暗闇な窓の向こう。血塗れの床。ついぞ聞いた事のない停留所。異様な乗客達と運転士。
−−ふと気付く。
座席から動けず声も出せないこの状態で、もう終点に向かうしかないだろう状況で、私はちゃんとバスから降りる事が出来るのだろうか。
終点には、いつ着くのだろうか−−
227: ◆bEw.9iwJh2:2018/9/30(日) 20:11:39 ID:WyCn26RS7Q
《………次の降り口は終点です。泥梨、泥梨に停まります………》
不意に。
あれだけ雑音が酷かったアナウンスが明瞭な声で以て、耳に届いた。
(ないり…?)
しかしそれはやはり、私にはとんと聞き覚えのない場所だった。
緩やかにバスは停まり−−沈黙が車内に満ちる。
228: ◆bEw.9iwJh2:2018/9/30(日) 20:45:04 ID:QxgkMEDhOo
《終点です。降りて下さい》
明らかに私に向けられた言葉。
降りろと言われても、このバスの中で目覚めてから全く動けなかったではないか。声すら出せなかったではないか。
そう思いながらも体に力を込めてみると。
−−−−ぎし、り。
座席の軋む音と共に、呆気なく体はシートから離れて鞄が床に落ちた。
229: ◆bEw.9iwJh2:2018/9/30(日) 22:34:24 ID:QxgkMEDhOo
反射的に鞄を拾うべく手を伸ばし、取っ手を握り締めて上半身を起こしたところで、
目の前に、運転士の顔があった。
「ひっ−−」
掠れ声が喉から押し出される。
どうして、何故、いつの間に。鞄に気を取られていたとはいえ、足音の一つもしなかったはずなのに。
運転士は私に向かって片手を伸ばし、ネクタイをがしりと掴んだ。
230: ◆bEw.9iwJh2:2018/9/30(日) 23:21:18 ID:ehhT3UCq2M
ぐにゃり、と運転士の手の中で、ネクタイが形を−−いや、姿を変える。
それは一枚の赤い乗車券だった。
(…赤?)
うろ覚えではあるが、他の乗客が持っていた乗車券はみな白かったはずだ。
いや、それ以前に何故私のネクタイが。この男はいったい何なのだ。そもそもバスも乗客達も−−疑問符が脳内に激しく渦を巻く。
《泥梨行きの券、確かに確認しました》
運転士が抑揚のない声で言う。
231: ◆bEw.9iwJh2:2018/9/30(日) 23:40:20 ID:QxgkMEDhOo
まるで日常茶飯のような行動と声色に怖気が背筋を這い上がった。
この男は普通の人間ではない。
ここにいてはいけない。
バスの外がどんな状態なのかという懸念を、目の前の存在への恐怖が押しのける。
逃げなくては。どこか安全だと思える場所を、異常さのない場所に、どうか。
232: ◆bEw.9iwJh2:2018/10/1(月) 01:24:39 ID:lTKvx0TqP6
鞄の中身や財布などどうでもいい、とにかくこの場所から、この男から、
《照合。合致。相貌の変更、容認》
ぞわり。
この声は。この顔、は。
運転士の顔がぐにゃぐにゃと歪みながら、別の顔に変化していく。
忘れたかった顔、忘れられなかった顔、若かった頃の私の罪過そのものの姿。
《さあ、こちらへ》
−−亡くなった最初の妻の顔が、私が殺した女の顔が、息がかかりそうなほどの距離にあった。
233: ◆bEw.9iwJh2:2018/10/3(水) 03:46:24 ID:GaWv.fXLD.
真っ黒な髪と地味な化粧、薄い唇の色。
物静かで大人しかった女。
飲み会で午前様を繰り返しても文句を言わず、じっと私の帰りを待っていた女。
華やかな見た目の女性達との遊びに疲れた頃に紹介され、付き合った事のないタイプだという新鮮さもあって急速にのめり込み結婚したが、従順さと面白味のない性格にすぐに飽きてしまった。
そして私はお定まりの浮気をし、程なくして彼女に離婚の意を告げたのだ。
だが、彼女は。
「嫌です、別れません」
頑なに離婚を拒み緑色の紙をびりびりに裂いて、ペンと判子を床に叩き付けた。
それは皮肉にも初めて見た、妻の激情と私への反抗の姿だった。
234: ◆bEw.9iwJh2:2018/12/7(金) 02:46:08 ID:g/tnjEI7V2
「あなた、私は、私は絶対に別れません。他の女と遊ぶならまだしも、私から離れるだなんて他の女を妻にしようだなんて、絶対に許さない」
「相手の女はあなたが独身だと思っているのね。なら責めないであげましょう。おなかの子供も」
「そうね、子供には罪はないわ。あああ、でも悔しい恨めしい、子供が出来たから私と別れるなんて言い出したのでしょう、なら私だって!」
「………ゃ、やめ、て、くるし…い……どうして、あな、た………」
止めようと逃れようとする指が爪が、ぎりぎりと手首に食い込む。だがそれ以上の力を込めて、私は妻の首を絞めた。
235: ◆bEw.9iwJh2:2018/12/7(金) 03:02:56 ID:2X7Sn7osMQ
−−土の中、深く深く埋めた過去。
何度忘れようとしても拭い去ろうとしても、忘れる事の出来ない死に顔と両手に食い込む爪の痛みと体温。
やめろ、やめてくれ、どうして今更。
《二人も命を殺したのに》
《逃げられると何故思ったの?》
恐ろしいほどの強い力に体を引き摺られ、私は車外に放り出された。
深い深い闇の中、血塗れの赤ん坊を抱く最初の妻の姿が、見えたような−−
236: ◆bEw.9iwJh2:2018/12/7(金) 04:32:42 ID:FkjJxh.xuM
『昨夜、車にはねられた被害者の××××さんは未明に死亡。容疑者は飲酒を認めており−−』
「なんで…どうして、お父さん…」
「嘘よ、嘘でしょ、あなた…」
『続いてのニュースです。×県×市山中から女性の遺体が発見されました』
『警察の発表によると被害者は××年前から捜索願が出されていた××さんで間違いないと思われ、また遺体の状態から××さんは妊娠しており、−−−−』
237: ◆bEw.9iwJh2:2019/5/3(金) 04:01:24 ID:m.FpjIMRTo
『記憶、記録、そしてあなた』
付き合ってから分かったのだが、彼女は記念日というものをやたらと大切にする女性だった。
何月の何日は付き合ってから何年目だとか、何月の何日は初めてデートした日だとか。
最初は女とはそういうものなんだろう、と思って合わせていたけれど、それも長く続くと疲れてしまう。
「ねえ、来週の水曜日、何の日か覚えてる?」
ぎゅうっと抱き抱えた腕にしなだれかかりながら上目遣いで問いかける彼女に、俺はさっぱり思い出す事が出来なかった。
238: ◆bEw.9iwJh2:2019/5/6(月) 12:26:34 ID:m.FpjIMRTo
「女ってのはそういうモンだからなあ」
夕方のファーストフード店の中、ポテトを摘みながら友人があっさりと言う。
「やっぱそういうモン?」
「そうそう。喧嘩したら昔の事まであれこれ引っ張り出してくるしな。記憶に自動リンクが複数付いてんじゃねえのかな」
分かるような分からないような、でも分かるような例えをされた。
「まあうるさいのは記念日だけなんだろ?メモしとけ、メモ」
「…面倒だなぁ」
「デート代割り勘大丈夫な女は貴重だぞー。あと入る店とか」
それとも記念日毎にプレゼント要求されてんの?と問われ、首を横に振る。
彼女は物をねだる訳ではない。ただ、覚えている事を要求してくる。財布的には安心だが、それでもやりとりを面倒だと思ってしまう。
記念日。
それは、本当に大切なものなんだろうか。
俺にはさっぱり分からない。
239: ◆bEw.9iwJh2:2020/7/30(木) 15:48:54 ID:cxFS.IqIAU
もうすぐ七夕だからと、近所のスーパーに笹が数本立てかけられていた。
鮮やかな色紙で飾り立てられ、早くも短冊が幾つかぶら下がっていて、みみずのようにのたくった文字からは幼稚園児や保育園児が願い事を書いたらしい事が分かる。
ふっ、と微笑ましくなって、買い物途中の足を止め、短冊に書かれた願いを読んでみる事にした。
240: ◆bEw.9iwJh2:2020/7/30(木) 16:23:45 ID:bsvTmiRG6s
【アンパ○マンになれますような】
【プリキ○アになりたいです】
【おとうさんのおばあちゃんがおかあさんのわるぐち言わなくなってほしいです】
【花組の××ちゃんとけっこんしたい】
【おかーさんとおとーさんがなかよくなれますように】
【いもうとがぶじにうまれますよーに】
……一部家庭環境が心配になる願い事があったが、子供の願いは純真だ。
俺も昔はこんな内容の短冊を書いていたんだろうが、如何せん、記憶を引っ張り出しても内容がさっぱり思い出せない。
241: ◆bEw.9iwJh2:2020/8/10(月) 10:37:17 ID:L7FYH2jf/o
様々な願い事が書き込まれた短冊から視線を放す。少しだけ、首が疲れた。
――ふと。
いつの間にいたのだろうか、すぐそばで同じように短冊に手を伸ばして読み込んでいる少女の姿があった。
足音や気配に気付かないほど、俺は集中していたのだろうか。何だか恥ずかしくなって首をこきこきと鳴らしてみる。
「……ふぅん、今の人間達は、こんな上訴の仕方をしているのか……」
ぽつり、と。少女が呟くのが聞こえた。
242: ◆bEw.9iwJh2:2020/9/7(月) 02:26:47 ID:YPn4BElcFk
…じょうそ?その言葉の意味を、考える。
じょうそ。上訴。上の者に訴える事。
願い事の内容は………まあ、確かに、上訴と言えなくもない、だろう。
だが、誰に訴えるのだ。
未だ真剣な表情で、短冊を読み込んでいる少女を見つめる。
………上位者、とやらのつもり、なのだろうか。この女の子は。
243: ◆bEw.9iwJh2:2020/9/18(金) 14:37:36 ID:YPn4BElcFk
まあ、この年頃の子にありがちな特有のアレかも知れない。
左腕がどうの、やら目がどうたら、やら…。
ふと自分の黒歴史を思い出しそうになって、慌てて目を少し固くつぶった。
いけない、いけない。若気の至りというヤツは、本当にいけない。
244: ◆bEw.9iwJh2:2020/10/20(火) 12:30:28 ID:3jq6ricKKI
黒歴史の恥ずかしさにしばし心を暴れさせ、落ち着いたところで閉じていた目を開く。
いつの間に移動したのだろうか、目の前に少女がいて俺の顔を見上げていた。
「君は何を願うんだい?」
…君、ときたか。俺、一応大学生なんだけど。確実に年上なんだけど。
「ほら、人間というやつは際限なく願い…いや、欲があるのだろう?君が今欲しいものは何かな」
物質に限らずともよいよ、何でも言ってみなよ。鷹揚な仕草と表情で少女は言う。
――欲しいもの、か。
245: 名無しさん@読者の声:2020/10/21(水) 20:23:52 ID:Vcd26xY/0k
だいすきです!
つCCCCC
246: ◆bEw.9iwJh2:2020/11/6(金) 03:15:42 ID:CA82EVH76k
>>245
支援ありがとうございます
247: ◆bEw.9iwJh2:2020/11/6(金) 03:16:50 ID:CA82EVH76k
『ねえ、何の日か覚えてる?』
――不意に、彼女の言葉が脳裏をよぎった。
あの日。この日。その日。どの日。
覚えている事が当たり前だと言わんばかりの――否、覚えていて当然だという表情と声。
そんなに。
そんなに、記念日とやらは大事なものなのか。いちいち覚えていなくてはならないのか。
覚えていたとして、何になるのか。
対価が大したものかどうかは問題じゃない。ただ、彼女がこだわる記念日というものに、俺は辟易していた。
だから。
248: ◆bEw.9iwJh2:2020/12/2(水) 12:06:42 ID:Jp0sKie6ak
「………記念日が、ない世界、かな」
やたら赤い丸がつけられた手帳のカレンダーを思い浮かべながら、俺は小さく呟いた。
記念日なんてものに振り回されて尚、それでも彼女と別れるなんて事は、俺には少しも考えられなかったから。
「成る程、記念日のない世界か。君は面白い願いをするね」
少女は表情を崩さず、むしろ好奇心を瞳に宿しているように見えた。
「そうだなあ…また世界を作るのは面倒だから、今の状態をそこだけ変えてみよう。それでも、少し調整が必要だけど、まあいいだろう」
ぱきり、と指を鳴らして。
「それじゃあ試運転だ。君の望む日々があるといいね」
少女がそう言った瞬間、俺の視界はぐらぐら揺れて歪んで、意識がぷつんと途切れた。
249: ◆bEw.9iwJh2:2020/12/3(木) 23:32:12 ID:2zemDs6iMQ
鈍痛が頭を苛む。鳥の鳴き声が、どこからか聴こえてくる。
「う………」
体を動かそうとすると関節がぎしぎし軋む。まるで睡眠を取りすぎた休日の昼のような、そんな重さ。
それでもなんとか起き上がって辺りを確認すれば、見慣れた景色が視界に映る。──安普請の、俺が借りているアパートの部屋だった。
「確か…買い物の途中で…」
何かあった、はず。
なにか、が。なんだったか、なんだっけか。
記憶を辿るべく思考を巡らせていると、鞄に入れていたはずの手帳がカレンダーのページを見せて床に落ちていた。
────何の予定も記入されていない、記念日の何一つない、ページが。
250: ◆bEw.9iwJh2:2021/1/15(金) 02:12:25 ID:sWbjPwfVHs
………日付と曜日以外、何もないカレンダー。
それの違和感と異常さをを警告音のように脈打つ頭の痛みが訴えてくる。
いや、待て、スマホのカレンダーは、こっちは、なにか、何かしらがきっと、
───開いたカレンダーのアプリ画面にも、日付と曜日以外の何もなく。
アドレス帳とフォトにある彼女の電話番号とメルアドと写真を震える指先で確認すれば、
彼女と俺の誕生日やその他の記念日にやりとりしたメール、撮った写真のほとんどが、削除してもいないのに外部メモリからも消えていた。
251: ◆bEw.9iwJh2:2021/6/22(火) 00:20:24 ID:yxUF6fhvOs
【君が今欲しいものは何かな】
七夕の飾り、色とりどりの願い事の下。
少女が泰然とした笑みを浮かべて問いかけてくる、あれは、
───あれ、とは。
思考が定まらない。眩暈がして、握り締めているスマホが炎天下のチョコレートのように溶けてしまいそうな、そんな錯覚を覚える。
「俺、は、」
とんでもないことを望んでしまった、ただそう思った。
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