『手紙』
郵便受けに詰まったチラシの中に、それはあった。
212: ◆bEw.9iwJh2:2018/4/9(月) 02:47:25 ID:XN1gQfBILc
不意に響いた声にびくりと体が跳ねる。
男女や老若の区別の付かない、不思議で不気味な声。
息を吸い込む喉がひゅっと変な音を出して、頭の中が一瞬真っ白になった。
「……………だれ、なの」
掠れた声で問いかけても返事はない。
唐突に自分が今ここにいる事の危険性を強く感じて、私は残りのゴミ袋を急いで古井戸に放り投げ、金網で蓋をした。
213: ◆bEw.9iwJh2:2018/4/9(月) 02:57:53 ID:1rd85dK/cs
帰らなくちゃ。早く。
家に、布団の中に。
古井戸に背を向けて走り出す私の耳に、
《まえのよりは、まずくないかも》
そんな声が頭を揺さぶるように届いて響いて、足がもつれそうになる。
−−どうして、忘れていたんだろう。
初めて人間を『分解』して捨てた時、あの場所で聞こえた声の事を−−
214: ◆bEw.9iwJh2:2018/9/6(木) 11:09:12 ID:WyCn26RS7Q
『行き先はどちらですか?』
……がたがた、ごとごと、という響きと共に、一定のリズムで体が揺れている。
ここはどこだろう、と眠気で重い瞼を持ち上げると、バスの中だった。
いつバスに乗車したのか思い出そうとしても、記憶がさっぱり見当たらない。そもそも私は会社の帰りに居酒屋に寄り、アルコールを楽しんでいたはずだ。
注文した酒や摘みの内容は思い出せるのに、支払いや居酒屋を出ただろう時の事はさっぱり浮かんでこない。いや、飲みすぎて記憶が飛び、その過程でバスに乗った可能性は否めないが。
………このバスは、どこに向かっているのだろうか。
215: ◆bEw.9iwJh2:2018/9/6(木) 11:35:18 ID:Mg8krcvzH2
改めて車内を観察してみると、随分と古臭いバスだ。床部分は板張りだし、降車ボタンにはランプ部分がない。座席のシートも座り心地はイマイチだ。
こんな古臭いバスを使っている会社がまだあるとは。維持費の方が高くつくのではないだろうか。
そんな事を考えながら乗客に視線をやる。
年齢層はまちまちで、学生服の少年少女やスーツを着た私と同年代だろう中年に着物姿の老人、赤ん坊を抱えた女性までいた。
こんな時間に赤ん坊連れとは、夫婦喧嘩で家を飛び出してきたのだろうか、とつい想像を巡らせてしまう。
216: ◆bEw.9iwJh2:2018/9/6(木) 16:18:50 ID:Mg8krcvzH2
車内には広告や注意書きの張り紙がない。吊革は随分と黄ばんでいる。
…どことなく気味の悪いバスだ。
ふと気付いて乗車券を探すが、ポケットの中や財布、鞄にも薄い紙はなかった。
(参ったな、始点からの運賃を払わなきゃいけないじゃないか)
思わず溜め息をついてしまう。
いや−−そもそも、自宅に向かうバスに私はちゃんと乗ったのだろうか?間違えて逆方向のものに乗っていたら、とんでもない時間と金の無駄だ。
217: ◆bEw.9iwJh2:2018/9/6(木) 22:24:01 ID:QxgkMEDhOo
行き先を確認したくともモニターは設置されていないし、各停留所までの料金表や運行表も見当たらない。
仕方ない、運転士に直接尋ねるしかないな、と腰を浮かそうとした時、
《次は…ザザッ…おみなこ……お…なこにギギ停ま…ます………》
雑音混じりのラジオのような、酷く耳障りなアナウンスが車内に流れた。
218: ◆bEw.9iwJh2:2018/9/7(金) 10:28:09 ID:Mg8krcvzH2
(おみなこ…?)
全く聞いた事のない停留所だ。
しかし乗客達は平然とした様子で、どうやら私が知らないだけのようだ。
これはやはり自宅とは方向違いのバスに乗ってしまっただろう事は確実だ。仕方ない、財布の中身は乏しくなるが降りたらタクシーを捕まえなくては−−
バスが緩やかにスピードを落とし、停車する。今度こそ立ち上がろうとした時、
−−ギギッ
何かに引っ張られたように、手足が重く、動かなくなった。
219: ◆bEw.9iwJh2:2018/9/7(金) 17:33:03 ID:QxgkMEDhOo
視線を落としても手足には何も付いていない。だが一向に体は動かず、ならば声を上げて運転士に自分の状況を伝えようとするが、呼吸音がただ虚しく響くだけである。
す、と男子学生が立ち上がり、スポーツバッグを引きずるようにして乗降口へと歩いていく。
《こ…ガガ…は、あり…すか》
乗車券を差し出した男子学生に運転士が尋ねている。雑音混じりで、よく聞き取れない。
学生は静かに首を横に振ると乗車券を渡してバスから降りていき−−
そして再び、バスは走り出した。
220: ◆bEw.9iwJh2:2018/9/9(日) 11:27:25 ID:ehhT3UCq2M
座席に見えない糸で縫い付けられたかのように体は依然として動かず、声も出せない。
何だ、これは。いったい、どうなっているんだ。
辛うじて動く首と眼球で、窓の外を凝視する。白髪が目立ち始めた中年男−−私の顔だ−−の酷く焦った表情が、車内の明かりと外の暗闇との間に浮かび上がる。
だが、それだけだった。
民家やコンビニ、スーパーなどの街の明かりは、流れる景色の中には一つもない。
どのくらい時間が経ったのか、次の停留所を告げるアナウンスが車内に響いた。
221: ◆bEw.9iwJh2:2018/9/9(日) 14:50:12 ID:ehhT3UCq2M
………あれから幾つかの停留所に停まり、乗客の姿はどんどんと減っていった。
停留所の名前はどれも聞き覚えのないもので、窓の向こうには相変わらず明かり一つ見えてこない。
体も座席から動けぬままである。
(それにしても、おかしい)
このバスも停留所名もだが、乗客もどこか様子がおかしいのだ。
例えば数席前に座っている女子高生。
あの年代ならばスマホアプリを操作したりなどしているだろうに、俯き加減で大人しく座っている。
例えば赤ん坊を連れた女性。
斜め前に見える赤ん坊は女性の腕の中にじっと収まったまま泣きもしない。私には中学生の娘がいるが、赤ん坊だった頃は腹を空かしたりおむつの具合などでよく泣き喚いていたものだ。
……おかしいどころの話ではない。異常そのものではないか。
222: ◆bEw.9iwJh2:2018/9/9(日) 18:30:46 ID:ehhT3UCq2M
赤ん坊…ああ、早く我が家に帰りたい。妻と娘が待つ、我が家に。
何故私はまっすぐに帰宅しなかったのだろうか。反抗期の娘に酒臭いと睨み付けられた先週が、随分と昔の出来事のようだ。
《ギギギザザこガガッ、次…おのこごジジジ…ます…ギィッ》
アナウンスの雑音はどんどん酷くなる。聞き取れたのは停留所の名前だけだった。
数席前の女子高生が立ち上がり、乗車券を運転士に渡して降りていく。
バスから姿が消えるその一瞬、女子高生の横顔と白い夏服がどうしてか赤黒く染まって見えて、背筋を汗が伝った。
223: ◆bEw.9iwJh2:2018/9/9(日) 19:01:37 ID:ehhT3UCq2M
もう車内には私と赤ん坊連れの女性しか乗客はいない。ぴくりとも動かない赤ん坊。そういえば、女性が赤ん坊を抱き直す仕草は見ただろうか?
良くない想像が脳内を満たす。ああ、酔い潰れた末の悪夢であってほしい。
バスのスピードが緩やかになる。次の停留所が近付いているのだろう。
《…次ザザぐめ……ザザザうぐめに…停まりまギギギギギギィィィ》
最後の方の凄まじい音割れに、思わず噛み締めた歯がぎちりと鳴った。
赤ん坊を抱いた女性がゆらりと立ち上がる。いつの間に取り出したのか乗車券を口にくわえて、乗降口へと進む。
224: ◆bEw.9iwJh2:2018/9/10(月) 05:03:53 ID:QxgkMEDhOo
ふらふらした足取りで女性は車内をゆっくりと歩く。もしかして具合が悪いのだろうか。そう思った時、
ぱたっ、ばたたっ、
水音と共に何かが床に落ちた。
嫌な予感がして、見てはいけないと咄嗟に顔を逸らそうとしたが、遅かった。
−−血が、床を赤く染めている。
女性が歩みを進める度に、その面積は増えていく。フレアスカートというのだったか、元はふわりとしたスカートが大量の血で女性の両足にびたびたとまとわりついていた。しかし女性は赤ん坊を抱えたまま、歩き続けている。
乗降口そば、運転士は床一面を染める血を何とも思っていないのか、女性が口にくわえていた乗車券を取った。
その時見えた赤ん坊の顔は、床と同じように血で真っ赤に染まっていた。
225: ◆bEw.9iwJh2:2018/9/10(月) 05:18:40 ID:Mg8krcvzH2
理解出来ない光景に吐き気が込み上げる。しかし私の口からは未だ酒臭い息が出るだけだった。
《ここ…こりは……ますか》
運転士の問い掛けに、女性は首を縦に何度も振った。
がくがくと揺れる首、床を染め続ける赤い色、腕の中でぴくりとも動かない赤ん坊。
運転士が何か言ったようだが、こちらまで声は届かない。だが女性は首を振るのを止めて、今までの乗客達と同じようにバスを降りていった。
その腕に、赤ん坊をしっかりと抱えて。
車内に、乗客はもう私一人だけになった。
226: ◆bEw.9iwJh2:2018/9/13(木) 06:06:50 ID:QxgkMEDhOo
見てしまったもののあまりのおぞましさに、酔いは完全に醒めていた。
最初は僅かにあった眠気も今はない。頬を汗が伝い落ちる感覚がしたが、拭いたくても体は動かないままである。
真っ暗闇な窓の向こう。血塗れの床。ついぞ聞いた事のない停留所。異様な乗客達と運転士。
−−ふと気付く。
座席から動けず声も出せないこの状態で、もう終点に向かうしかないだろう状況で、私はちゃんとバスから降りる事が出来るのだろうか。
終点には、いつ着くのだろうか−−
227: ◆bEw.9iwJh2:2018/9/30(日) 20:11:39 ID:WyCn26RS7Q
《………次の降り口は終点です。泥梨、泥梨に停まります………》
不意に。
あれだけ雑音が酷かったアナウンスが明瞭な声で以て、耳に届いた。
(ないり…?)
しかしそれはやはり、私にはとんと聞き覚えのない場所だった。
緩やかにバスは停まり−−沈黙が車内に満ちる。
228: ◆bEw.9iwJh2:2018/9/30(日) 20:45:04 ID:QxgkMEDhOo
《終点です。降りて下さい》
明らかに私に向けられた言葉。
降りろと言われても、このバスの中で目覚めてから全く動けなかったではないか。声すら出せなかったではないか。
そう思いながらも体に力を込めてみると。
−−−−ぎし、り。
座席の軋む音と共に、呆気なく体はシートから離れて鞄が床に落ちた。
229: ◆bEw.9iwJh2:2018/9/30(日) 22:34:24 ID:QxgkMEDhOo
反射的に鞄を拾うべく手を伸ばし、取っ手を握り締めて上半身を起こしたところで、
目の前に、運転士の顔があった。
「ひっ−−」
掠れ声が喉から押し出される。
どうして、何故、いつの間に。鞄に気を取られていたとはいえ、足音の一つもしなかったはずなのに。
運転士は私に向かって片手を伸ばし、ネクタイをがしりと掴んだ。
230: ◆bEw.9iwJh2:2018/9/30(日) 23:21:18 ID:ehhT3UCq2M
ぐにゃり、と運転士の手の中で、ネクタイが形を−−いや、姿を変える。
それは一枚の赤い乗車券だった。
(…赤?)
うろ覚えではあるが、他の乗客が持っていた乗車券はみな白かったはずだ。
いや、それ以前に何故私のネクタイが。この男はいったい何なのだ。そもそもバスも乗客達も−−疑問符が脳内に激しく渦を巻く。
《泥梨行きの券、確かに確認しました》
運転士が抑揚のない声で言う。
231: ◆bEw.9iwJh2:2018/9/30(日) 23:40:20 ID:QxgkMEDhOo
まるで日常茶飯のような行動と声色に怖気が背筋を這い上がった。
この男は普通の人間ではない。
ここにいてはいけない。
バスの外がどんな状態なのかという懸念を、目の前の存在への恐怖が押しのける。
逃げなくては。どこか安全だと思える場所を、異常さのない場所に、どうか。
117.00 KBytes
[4]最25 [5]最50 [6]最75
[*]前20 [0]戻る [#]次20
【うpろだ】
【スレ機能】【顔文字】