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嗚咽

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Part5
286 :今年30 :04/01/23 12:14 ID:RfClfkeo
仕事中にこんなこと書いてたら親父に叱られると思うけど。
4年前の6月のこと。
東京で働いていた俺は親父が仕事中に怪我をしたため実家に帰った。
木の破片が右目の少し下に突き刺さったらしい。
あと2センチ上にずれていれば命はなかったと医者に言われたそうだ。
そして家業(材木屋)の手伝いを始めた。
毎日何度も叱られた。
小さいときから叱られてばかりだった。親父といてあまり楽しい覚えはない。
クリスマスに買ってもらった大きな戦艦大和のプラモデルを完成したといって見せたら、
「せっかく買ってやったのに、なんでちゃんと作らないんだ」
と言われて、床に叩き付けられたり。

それが怪我の後遺症で右目は視力はあるものの動かなくなり、
まるで手負いの猛獣のようだった。大きくなっても叱られてばかり。
「帰ってこなければ良かった」
毎日そう思ってた。
ある時母親と二人きりになった。
母「怒られてばかりで大変ねえ」
俺「帰ってこなければ良かった」
母「けどお父さん、怪我で入院してるときに東京から見舞いに来てくれたとき、
 ○○がわざわざ来てくれた。って泣いてたよ。今もたまに帰ってきてくれて助かる。
 って言ってるし」

俺にとって最強の親父が泣いたという。
なんか胸がつぶれそうな感じだった。涙出そうだった。
嬉しいのか、寂しいのか、わけがわからなかった。
怒らせてばかりでも少しは親孝行できてるのかな、と思い嬉しかった。
なんか中学生のときに腕相撲して勝ったときよりも寂しかった。


287 :今年30 :04/01/23 13:50 ID:RfClfkeo
次の年の2月に俺の子どもが生まれた。
嫁さんの実家が800キロも離れているので一人で行くつもりだった。
嬉しかったが、これからのことを考えると少し複雑な気持ちだった。
配達から帰るとそれまで絶対行かないといっていた親父も行くという。
1月に親父は夢だったパジェロエボリューションを中古で買った。
どうやらこの日のために1月納車にしたらしかった。運転中、
「やっぱりぜんぜん違う」
それまで乗っていた10年落ちのパジェロディーゼルとの違いにご満悦だった。
なんかいろいろ褒めちぎっていて、子どもみたいだった。

初孫との対面。
「お前によく似てる」
目を怪我して以来ずっとサングラスをしている親父が
しばらく一人でガラスの向こうの俺の子どもを見ていた。
どんな目で見ていたかはわからないが、かなり嬉しかったのだと思う。
口元がにやけていた。
名前は、俺が決めた。漢字をしぼりきれずにいたので、親父にたずねた。
俺の名前は親父から一文字もらっていたが、子どもには親父からもらった漢字を使わなかった。
「こっちのほうが強そうでいいな」
二人の意見が一致して2つの候補から漢字を決めた。

それからひとしきり姓名判断のことについて話をした。
俺も苦労したが、親父も俺のときに苦労したこと。
どういった思いで名付けたかということ。
俺は親父の思いにこたえることができているのだろうか。
名前負けしないようにがんばろうと思った。
まだまだ勝ってない。
そのあと生まれたての子どもを見て、急に実感がわき、泣いた。


289 :今年30 :04/01/23 16:04 ID:RfClfkeo
子どもが生まれて、親父は少し変わった。
仕事の話しかしなかったのに、
子どもが気になるみたいで「どうしてる?」とか、
俺が小さいころ、なにをした、ああだった。という話をするようになった。

「連れまわせるようになったらどこに行く、そこでこんなことさせる。
泥だらけで遊ばせて俺の嫁さんを困らせてやる」
楽しそうだった。
予想はしていたがまさかここまでメロメロになるなんて思ってもいなかった。
「○○ー、○○ー」
子どもの名前を呼びながら子どもを抱きかかえてあやしたりしていた。
恥ずかしいのもあるのか呼び方も少しぎこちなかった。


290 :今年30 :04/01/23 16:08 ID:RfClfkeo
親父は前の年の12月に怪我をした目の手術をした。
6月の俺の弟の結婚式にはサングラスをしなくてもいいように。
まぶたが閉じないので閉じることができるように、
余分な涙が鼻の中へと流れていく管の再生、
陥没した頬骨の整形、
眼球を動かす筋肉を結合するため。
結果はあまり良くなかった。
木の破片がぎざぎざで、筋肉は結合できないみたいだった。
サングラスをしていないと右目だけが見開かれている状態だった。
頬骨にはプレートとビスが入った。

結局その年の6月の弟の結婚式にも親父はサングラスをかけて出席した。
披露宴が終わったあと、
親父にならい俺と一番下の弟はサングラスをかけて弟夫婦と写真を撮った。
親父と俺ら3兄弟で写真を撮ったのはこれが最初だったと思う。
そして最後だった。



661 :大人の名無しさん :04/05/17 02:36 ID:uOVY+GoM
20年前の話です。私は中学生でした。
癌告知を受けて4ヶ月で亡くなった父ですが告知はしませんでした。

私にも知らせないように兄と母はしていましたが私は些細なことで知っていました。

知っていることを内緒に振舞うことに必死だった。
父のベッドの横で父と話したくて何を話して良いかわからなくて父の植物図鑑を
見てこんなん好きかも〜とわざと父の好きそうなえびねなど指差して話し掛ていました。

顔を合わせられずベッド横の介添えベットに寝転んで下を向いて本を見つつ
話私の頭に父のベッドから腕が伸びて来て私の頭をナデナデナデ・…。
30分あまりそのまま話もせずに撫でられた記憶が忘れられません。
涙が出そうで顔を上げられず、話も出来ず。

多分病名など知らずとも、長くないことは知っていたのだろうなあと思います。



662 :大人の名無しさん :04/05/17 02:37 ID:uOVY+GoM
20年たって結婚して子供も出来ました、実家に実母と同居しています。
入院したまま家に帰ることの出来なかった父。
今年も父が植えていたエビネが庭に咲きます。

私が本で指差した花は、父が庭に植えていたので見覚えのあるものだったようです。

今は私の子供がそのエビネを私に摘んでくれたりします。
孫を知らずに亡くなった父ですが、残した花で子供が遊んでいるのを見ると
一緒に遊んでくれているような気がします。

ありがとう父。
私も親になりました。



604 :大人の名無しさん :04/05/11 00:03 ID:PQeHPMxB
昨日、親父の七回忌だった。

うちは本当に貧乏でさ、商売やってたんだけど、つぶれてシャッターがおりてる店がほとんどの寂れた商店街の隅っこに店があって、それでも「店で待っていてもお客は来ない」って両親は毎日毎日朝から晩まで注文取りに走り回ってた。
俺は五歳下の妹と二人兄弟で、小学生の頃からいつも二人で夕食を作って遅くまで両親の帰りを待ってた。
小学生の料理なんてうまいはずはないけれど、親父は「お前たちのカレーはすごくいい味だ」ってほめてくれた。
明るい家族だったから、貧乏でも楽しかった。
休みの日には、大きな鍋とインスタントラーメンを持って海に行って、たき火をしてラーメンを煮て食べた。
おいしかったなぁ。
小学校中学校と放課後友達と遊んだ記憶はほとんどない。
妹の面倒見なくちゃいけなかったし、家の手伝いもあったし。

高校受験の時にね、「こんな暮らしをしててもお前は貧乏から抜け出せない。家のことはいいからちゃんと大学出て、自分でやりたいことを見つけろ」って親父が言ってくれて、鹿児島の全寮制の高校に行かせてくれたんだ。

バイトはできなかったけど、運良く奨学金がもらえて仕送りなしで高校に通えた。
たまに帰省すると、その度にくしゃくしゃの千円札を母親に隠れて何枚か渡してくれて、「少しで悪いな」って。
そんな金使えないよな。
今でもしまってある。
35枚。

馬鹿なりに一生懸命勉強して東京の国立大に受かった。
ホントは受かっただけで満足だった。
でも、親父すごく喜んでさ「商売がんばってるから大学行ったら仕送りしてやれるぞ」って。

大学に入ってからはバイトバイトの毎日で、何とか授業料と生活費は自分で稼いだ。
大学でも寮に入れたから家賃は楽だった。
親からの仕送りは毎月三万円。
もったいなくて使えずに郵便局の仕送り口座にお金が貯まっていって、「好きに使っていいんだぞ」なんて手紙が来たりして。
そう言われると、苦労して送ってくれてるお金をそのままにしておくのも悪い気がして、毎月郵便局から引き出して、銀行の口座に移してた。


605 :大人の名無しさん :04/05/11 00:04 ID:PQeHPMxB
卒業間近になって、大学院を勧めてくれる先生がいたけど、早く就職して親に仕送りしてあげたいと思ってたから、断った。
そのころ、たまたま東京の親戚が亡くなって、東京に両親が来た。
何を思ったか研究室にまで押しかけて来ちゃってさ、先生に御礼なんか言ったりして。
そうしたら先生が余計なこと言い出しちゃって、大学院を親に勧めるのよ。
親父またまた喜んじゃって「なんで断ったりするんだ」なんて叱られちゃったりして。
結局、大学院にも進ませてくれた。
同じ大学の大学院に行くときも入学金って必要なんだよね。
毎月の三万円積み立てから25万円出した。
初めて仕送りを使った。

大学院に行ったら、研究で食っていけるかななんて思い始めて、学振の特別研究員に受かった(月に20万も給料が出る)こともあって、修士終わってから博士課程に進むことにした。
博士になったら学生なのに仕送りができる!って内心かなりうれしかった。

修士論文を提出した日。
初めて母親から研究室に電話。
「どうしたの研究室に電話なんかして。修士になったよ。次は博士だぞ。」
「あのね、お父さん、ここ何日かずっと調子悪いって言ってて、今日胃カメラ飲んだの。写真見せてもらったら、ものすごい状態だった。」って。
末期の胃ガン。
背中の方に向かって進行していたから、食欲も衰えずに気づかないことがあるらしい。
目の前真っ暗。
頭の中真っ白。
「そんなわけないだろっ」って大声で叫んでしまって、同じ研究室の学生に「どうしたんですか」って。


606 :大人の名無しさん :04/05/11 00:05 ID:PQeHPMxB
医者に電話したら「一日でも早く手術しないと」って話で、友達にお父さんが医学部の教授ってやつがいて、そいつに頼んで「消化器ガンなら日本一」って先生を紹介してもらった。
三日後に入院して七日後に手術。
胃全摘、脾臓全摘、膵臓半分摘出の大手術。
手術の前の晩、親父と二人で人気のない病院のロビーで、手術のこと話した。
地元の病院で撮った胃カメラの写真を見て、自分の病気はよく知っていた。
どんな状態かも知っていた。
でも「悪いところ取って、ようやく第二の人生だな」と笑って言っていた。
明るい親父に家族はどれだけ救われたか。
手術が終わって、先生に摘出した臓器を見せてもらった。
金属製のバットに山盛り。
こんなに取っても人間は生きられるのかって思った。
先生は「取れるところはすべて取りましたよ。後は抗ガン剤で転移巣をやっつけます。」と言っていた。
でも、手術後少ししてからずーっと背中に激しい痛み。
抗ガン剤も効果はいまひとつ。
俺と妹と母親と、親戚の家から毎日病院に通って交代で夜通し付きっきりの看病。
妹は50kgから30kgに激やせ。

もう痛みが我慢できないと言うので、真っ赤なモルヒネ錠剤を経口で投与して痛みを抑えてた。
モルヒネが効いているうちはなんとか普通の感じ。
車いすに乗っけて、中庭に連れて行ったりもした。
俺、親父と二人っきりでいたことなんてないからなんとなく気まずくて、車いすを景色のいいところに押していって、少し離れたところでぼーっと座ってた。
「近くにいてくれないか」と言われて近くに行ったら、子供の頃手をつないでもらった時とは比べものにならないくらい細くなった腕を膝掛けから出して、しわしわになってしまった手でぎゅっと手を握られた。
二人で声も出さずに泣いた。


607 :大人の名無しさん :04/05/11 00:06 ID:PQeHPMxB
ある日「五年後の話をしてくれないか」とベッドの父に聞かれて、
「俺は29だからたぶん大学で研究してるな。
妹は24か。結婚して子供もできてるかもよ。
お母さんは、うーん、まだ店がんばってるんじゃない?
お父さんは、退院しても胃がないから、毎日グルメ番組見て、あれがうまそうだ、とか、これ買ってこい、とかわがまま言ってるかもよ」
なんて答えてた。
そんなに長く生きられるなんて俺も親父も思っていなかったくせに。
五年後がどんなに遠い未来なのかも分かっていたくせに。

結局、親父は死んでしまった。
手術から三十三日。
病院で胃カメラ飲んでから四十日。
62歳の誕生日から十日。
夕方研究室から病院に行ったら、もう息を引き取ってた。
「実験してるだろうから、呼ばなくていいぞ」って言ってたらしい。
最後に何かを言い残したらしい。
でも、俺は親父がなんて言ったのか知らない。
悲しすぎて知りたくない。

あんな大手術をさせて、殺してしまったのは俺だって、ずーっと思ってる。
俺が手術をすることを決めて、家族もみんな俺の言うことに納得してくれて、でもその結果、親父をあっという間に殺してしまった。
悔やんでも悔やみきれない。
ごめんな、お父さん。本当にごめんな。

葬式。
親戚が「まだ学校に行かせてるのか」なんて、何にも知らないくせに母親に言ったりしてた。
「この子はお父さんのできなかったこと頑張ってるんだから、私一人でも最後まで学校に通わせるつもりです。この子はお父さんの夢なんです。」
って、言ってくれた。
ドアの向こうでそれを聞いていた。
親は有り難いと思った。
もう泣かないつもりが、止めどなくあふれた。


608 :大人の名無しさん :04/05/11 00:06 ID:PQeHPMxB
お父さん。
あれから六年だな。
俺は大学で毎日研究をしてる。
今年、学会で賞をもらった。
去年、結婚した。
大学に入ってから仕送りしてくれたお金で、婚約指輪を買ってやった。
お父さんからだぞって言って渡した。
かずはお母さんの仕送りと俺の給料でなんとか大学に行かせてやれた。
四年で卒業して就職して、おととしお嫁に行った。
キャリアウーマンとかいって、かっこつけて歩いてるくせに、少し太った。
幸せそうだけど、たまに夫婦げんかをして泣きながら電話をしてくることがある。
お母さんは、一人で店を頑張っている。
一緒に住もうと言ってもまだ頑張るって、言うことをさっぱり聞いてくれない。
お父さんへの恩返しはもうできないけどさ、お母さんと妹といつか生まれてくる俺の子供に精一杯のことをしてあげるつもりでいる。
お父さんの描いた将来に少しは近づいているのかなぁ。

俺が生まれてからお父さんが酒もたばこもやめたって葬式で聞いた。
酒は飲めないんだと思ってた。
そんなことを聞いてから今まで、酒を一滴も飲まなかった。
昨日、法要が終わってから、高校生の頃お父さんがくれた千円札で瓶ビールとチューハイを買ってきた。
千円札を出すとき涙がでたよ。
違うお札にしようかと思ったけど、やっぱり使ってみた。
うちの奥さんと、お父さんの話をしながら酒を飲もうかと思ったんだ。
うちの奥さんは結構酒が飲めるらしい。
二人で初めて飲む酒はきっと楽しい酒だ。
さっきメールが来て、夕食はカレーだって。
俺が昔作ったのよりずっとうまいカレーをお父さんと一緒に食べたい。
カレーを食べながら話したいことがまだまだたくさん、たくさんあるんだ。

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