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現存するババァ船の船歴をまとめてみた(宗谷編)
Part1

現存するババァ船の船歴をまとめてみた(宗谷編)
http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/internet/14562/1463490553/

1 :以下、名無しが深夜にお送りします:2016/05/17(火) 22:09:13 ID:NYikmdZk
※艦これ要素はないです。

2 :以下、名無しが深夜にお送りします:2016/05/17(火) 22:10:13 ID:NYikmdZk
-奇跡の船-

3 :以下、名無しが深夜にお送りします:2016/05/17(火) 22:10:57 ID:NYikmdZk
2014年11月11日。
第56次観測隊員を乗せて東京晴海埠頭を南極へ向け出港した海上自衛隊の南極観測船「しらせ」に、UW(ご安航を祈る)の旗旒信号を掲げ汽笛で見送る船がいます。
その船の名は宗谷。
日本の初代南極観測船として知られるその船は、現在は東京お台場にある船の科学館で保存船として展示されています。
この船の歴史を知る人々の間では、宗谷は掛値なしの「奇跡の船」と呼ばれています。
http://i.imgur.com/PuLkJOA.jpg

4 :以下、名無しが深夜にお送りします:2016/05/17(火) 22:11:33 ID:NYikmdZk
1900代年初頭。
ときの帝政ロシアでは、自国内で使用するための砕氷船の増備を進めていました。
帝政ロシア「んもう!ウチはホント北極海航路やらその辺の港湾やらどこもかしこも氷ばっかで嫌になっちゃう!!」プンスコ
帝政ロシア「だから砕氷船しこたま作るの!足りない分は海外に発注するの!!」
砕氷船の中にはロシア帝国内部で建造された船も存在しましたが、その多くはイギリスなど諸外国に発注したものでした。

5 :以下、名無しが深夜にお送りします:2016/05/17(火) 22:11:36 ID:MSHw/hc6
魚の人だ(確信)

6 :以下、名無しが深夜にお送りします:2016/05/17(火) 22:12:48 ID:NYikmdZk
1917年2月。
この年から3年前に起きたサラエヴォ事件に端を発する第一次世界大戦の影響で、ロシア帝国は疲弊しきっていました。
帝政ロシア「コヒューッ、コヒューッ」
労働者「パンもっとよこせ! 革命パーンチ!!」
帝政ロシア「ウボァー!!」
こうしてロシア帝国は倒れ、メンシェビキ(社会主義右派)が中心となったブルジョワ臨時政府が誕生します。
これが俗にいう二月革命です。

7 :以下、名無しが深夜にお送りします:2016/05/17(火) 22:13:42 ID:NYikmdZk
数か月後。
今度は臨時政権を担っていたメンシェビキの方策に対し、レーニン率いるボリシェヴィキ(社会主義左派)が異を唱え立ち上がります。
メンシェビキ(臨時政府)「強い祖国を実現! 第一次世界大戦は続行すべし!!」
ボリシェヴィキ「変革を止めるな! 革命キーック!!」
メンシェビキ(臨時政府)「ウボァー!!」
こうして1922年、20世紀にアメリカと並ぶ超大国として世界に君臨することになるソビエト連邦が誕生します。
ちなみにこれが俗にいう十月革命です。

8 :以下、名無しが深夜にお送りします:2016/05/17(火) 22:15:23 ID:NYikmdZk
そんな期末テストのような間隔で発生する革命により、政治体制は幾度かの変遷を経て、やがてソビエト連邦が誕生します。
帝政ロシア時代の権益の多くはそのままソビエトに継承されることになりました。
その中の一つに、シベリア鉄道の極東路線の一つとして敷設された東清鉄道があります。
1932年に日本の手により満洲国が成立すると、東清鉄道はソビエトと満州国の合弁で運用されることになりました。
とはいえ、ソビエトはそもそも満州国自体を国として承認していませんでした。
そのためここにきて日ソ間の不用意な衝突を避けるために、両国は東清鉄道の売買を検討することになります。

9 :以下、名無しが深夜にお送りします:2016/05/17(火) 22:16:20 ID:NYikmdZk
日本「こんなもんでどないでしょ」ソロバンパチパチ
ソビエト「いや……せめてこれくらいは……」パチ
日本「えぇ……そりゃ足元見すぎでしょう……じゃあこれくらいで……」パチパチ
ソビエト「いやいや……やっぱりこれくらいはするだろ……」パチパチパチ
日本「いやいやいや……へっへっへっへ、ご冗談を」パチパチパチパチ
売却価格が折り合わず交渉は難航を極めましたが、1935年3月になってソビエトは満州国と北満鉄道讓渡協定を結び、満洲から撤退することを決めました。

10 :以下、名無しが深夜にお送りします:2016/05/17(火) 22:17:13 ID:NYikmdZk
ソビエト「チッ、まぁしょうがないか……とにかく契約通り、支払いと3隻の砕氷船は頼みましたよ」
日本「へい!!」
この譲渡協定の中には、売却時の金銭支払いとは別に、ソビエトから日本に対して砕氷船3隻分の発注も含まれていました。
とはいえ、当時の日本には砕氷船を建造するノウハウがほとんどなかったことから、この時ソビエトから数人の技師が派遣されています。
ソ連人技師「はい、じゃあ私が監督するからきっちり作ってね」
日本人工員「へい!!」

11 :以下、名無しが深夜にお送りします:2016/05/17(火) 22:18:30 ID:NYikmdZk
こうして建造された砕氷艦3姉妹は、それぞれ「ボルシェビキ」(共産党)、「ボロチャエベツ」(ボロチャエフの戦友)、「コムソモーレツ」(共産主義青年同盟)と名付けられ、長崎にある川南工業株式会社香焼島造船所にて起工しました。
長女のボルシェビキは1937年8月10日、次女ボロチャエベツは1938年2月16日、三女コムソモーレツは1937年10月20日にそれぞれ進水しています。
この3隻は「ロイド船級協会」という国際規格に合格することを目標に建造されたのですが、長女のボルシェビキの公試運転の結果、残念ながら当船はこの規格に満たない性能であることが判明しました。
http://i.imgur.com/KilxzJB.jpg
※2番船「ボロチャエベツ」

12 :以下、名無しが深夜にお送りします:2016/05/17(火) 22:19:11 ID:NYikmdZk
ロイド船級協会「はい不合格ゥ!!」
日本人工員「やっべぇ」
ソ連人技師「なんでよ!? 手取り足取り教えてあげたじゃん!!」
日本人工員「いやーあの、自分ら前職はガラス工だもんで」
ソ連人技師「」

13 :以下、名無しが深夜にお送りします:2016/05/17(火) 22:20:05 ID:NYikmdZk
当時、日本は緊迫する国際情勢を鑑み、軍艦の増産を急いでいました。
このため、この3隻を建造するために徴収された日本人工員の多くは、それまで船の建造に携わったことのない町工場の従業員が中心だったのです。
ソ連人技師「пиздец!!」
日本人工員「やっべぇ母国語出ちゃってる」
ソ連人技師「もうソ連帰ゆ!!」プンスカ

14 :以下、名無しが深夜にお送りします:2016/05/17(火) 22:21:00 ID:NYikmdZk
結果としてこの3隻は、性能が不足していることや国際情勢の緊迫化を理由に、ソビエトに売却されることなく日本国内に留め置かれました。
日本「じゃ、君たちにはとりあえず日本で商船として働いてもらうから。あとその舌噛みそうな名前も変えるからね」
三姉妹「私たち出来損ないなのね……」ションボリ
とはいえ、この3隻はソ連向けに建造された砕氷・耐氷能力を持ち、当時としては珍しい最新鋭のイギリス製音響測探儀(ソナー)が装備されていました。
これは霧や吹雪で視界の悪い氷海を航行するためには、ソナーで海中の様子を探りながら前進する必要があったからです。

15 :以下、名無しが深夜にお送りします:2016/05/17(火) 22:22:12 ID:NYikmdZk
海軍「……君に決めた!!」
これに目を付けたのが海軍です。先述の通り当時は第二次世界大戦前夜の、国際情勢が極めて不穏な時期でした。
海軍としては、手軽に調達できるうえにソナーによる測量業務ができ、なおかつ大量輸送能力を持つこの3隻はまさに戦力増強にうってつけだったのです。
しかしながら、ソ連との契約がご破算になった経緯から直接海軍に導入するわけにもいかず、一旦3隻は民間の商船として運用されることになります。
こうして一番船ボルシェビキは「天領丸」、二番船は「地領丸」、三番船は「民領丸」とそれぞれ商船としての名前を与えられます。
http://i.imgur.com/sPZR0h6.jpg
※民間船「地領丸」

17 :以下、名無しが深夜にお送りします:2016/05/17(火) 22:23:59 ID:NYikmdZk
二番船の「地領丸」はいったん貨物航路運航主体の運行を主に行う栗林汽船という船会社にチャーターされ、北海道と千島列島の間の物資輸送に携わることになります。
これは、当時日本の領有権下にあった千島列島北東端に位置する占守島の蟹工場に、行きは労働者や機材を、帰りは工場で生産された蟹や鱒の缶詰を輸送するためでした。
またこの際、海上濃霧のため普通の船なら立ち往生してしまうような状況でも、地領丸は先述のソナーで海底を測定しながら切り抜けることができる性能を持った船として重宝されました。
その後、栗林汽船在籍中は北海道航路のみならず当時の満州、大連航路に就いたりした地領丸でしたが、1939年10月にチャーターが解けると、海軍ではなく生みの親である川南工業が設立した辰南汽船に移籍し、朝鮮航路に投入されました。

18 :以下、名無しが深夜にお送りします:2016/05/17(火) 22:24:30 ID:NYikmdZk
地領丸「あれ……私海軍さんの所へ行くんじゃ……」
海軍「うーん前は魅力的だと思ったけど……対米強硬路線に乗り換えた今、主戦場になる南太平洋で砕氷船なんて使わないんだよなぁ」
地領丸「そ、そうですか。よかっt……」
陸軍「はぁ!? だったらウチが引き取るわ! こっちは対ソ戦に備えなきゃいけないから船腹はいくらあっても足りないんだよ!!」(食い気味)
地領丸「」

19 :以下、名無しが深夜にお送りします:2016/05/17(火) 22:26:17 ID:NYikmdZk
現在でもよく知られている通り、当時の陸海軍は非常に仲が悪く、対米重視の海軍に対して陸軍はソ連・中国への対処を重視していました。
このため陸軍は独自で輸送船を持つばかりではなく、自前の潜水艦や駆逐艦、果ては空母(強襲揚陸艦)まで配備する始末でした。
天領丸「商船に軍艦やらせるなんて無茶よ!」
民領丸「そうよ! 無理よむりむりかたつむりよ!!」
陸軍「おっ、イキがいいのがいるじゃねえか! じゃ、この2隻もらいな!」
天領丸&民領丸「」
地領丸「う、うわぁ……」

20 :以下、名無しが深夜にお送りします:2016/05/17(火) 22:26:56 ID:NYikmdZk
こうして、三姉妹のうち末妹の民領丸は1941年4月頃に工作船として、姉の天領丸も1941年10月頃に輸送船として改装されたうえで陸軍に徴傭されました。
残った地領丸も1939年11月に結局海軍による買い上げが決まり、1940年2月20日に特務艦(砕氷型雑用運送艦)として着任します。
海軍「ま……1隻くらい砕氷船があった方が何かと重宝するだろう。今日から君は海軍の艦だ」
地領丸「は、はい……」
他の姉妹船2隻があくまでも徴傭船(軍が民間船を強制的に取り立てたもの)として陸軍に軍籍を置かなかったのに対し、宗谷は正式に横須賀鎮守府に籍を置く「軍艦」となったのでした。

21 :以下、名無しが深夜にお送りします:2016/05/17(火) 22:28:02 ID:NYikmdZk
海軍「そうだ、名前を考えないとな……」
陸軍と違い、海軍には艦の名前に国名、山名、河川の名前を使用する慣例がありました。このため地領丸は海軍編入とともに新しい名前が与えられることになります。
海軍「よし! 今日から君の名前は『宗谷』だ!」
さらに、特務艦への改装にともない宗谷には8cm単装高角砲や25mm連装機銃といった対空装備が搭載され、船体も軍艦らしい灰色に塗装されます。
海軍「馬子にも衣装……いややっぱり不細工かも……い、いやなんでもない素敵素敵超カッコイイよやっべー地元で伸びる!!」
宗谷「ううう……」
http://i.imgur.com/DefgUUK.jpg
※海軍運送艦「宗谷」

22 :以下、名無しが深夜にお送りします:2016/05/17(火) 22:28:50 ID:NYikmdZk
宗谷の類別された雑用運送艦とは、文字通り人や物資など様々なものを運ぶのがその任務です。
当初宗谷には輸送任務だけではなく、海軍の新鋭砕氷艦ができるまでの繋ぎとして、北方での測量や気象観測等の任務をこなすことが期待されていました。
しかし、第二次世界大戦に向け海軍が開戦準備を始めると、宗谷は北方だけでなくサイパンやトラック諸島など南方海域の測量まで行うようになっていきます。
まさに海軍のワークホースとして働き続ける宗谷だったのですが……

23 :以下、名無しが深夜にお送りします:2016/05/17(火) 22:29:24 ID:NYikmdZk
海軍兵士「えぇ……」(困惑)
海軍兵士「せっかく海軍に入ったのにこんなカッコ悪い艦に乗せられるのか……」
海軍兵士「おまけに船足も遅いしよく揺れるし……あと船足も遅いし……強いて言うなら揺れるし……」
宗谷「ううう、すみませんすみません」
多数の技術者が乗り込み最新の測量機材を搭載した宗谷でしたが、商船改造のその外観には軍艦らしい精悍さも無く、海軍将兵達のウケは決してよくありませんでした。

24 :以下、名無しが深夜にお送りします:2016/05/17(火) 22:30:26 ID:NYikmdZk
しかしながら、ラジオゾンデとよばれる観測装置を内蔵した気球を何千個も打ち上げ、昼夜を問わず成層圏の気象を観測、さらには搭載したあらゆる機器を使って軍事機密である海図を作成する宗谷は、関係者から「見た目は悪いが技術は随一」と呼ばれるようになっていました。
現在でも南洋方面の海図には、宗谷が測量したことを示す「soya1」や「soya2」などといった礁が多数存在します。

25 :以下、名無しが深夜にお送りします:2016/05/17(火) 22:31:07 ID:NYikmdZk
1941年12月8日。
横須賀に戻っていた宗谷は、日米開戦の報せをうけます。
そしてすぐさま輸送物資を満載し、12月29日にトラック島に向けて出港。
これが、太平洋戦争初の宗谷の任務となったのでした。
この戦争で宗谷は、ミッドウェー海戦やソロモン海戦といった歴史に名を残すことになる大海戦にも参加し、何度も絶体絶命といえる危機を迎えています。

26 :以下、名無しが深夜にお送りします:2016/05/17(火) 22:31:48 ID:NYikmdZk
1943年1月28日。
パプアニューギニアのブカ島沖合で測量を行っていた宗谷に、米潜水艦から4本の魚雷が撃ち込まれます。
乗組員「魚雷だーーー!!」
宗谷「あわわ」
最高速度12ノットという、当時急造されていた戦時標準船よりさらに足の遅い宗谷でしたが、それでもなんとか魚雷を回避しようと試みます。
しかしながら、やはり全ての魚雷からは逃げ切ることはできず、4本のうち1本が右舷後方に命中してしまいます。

27 :以下、名無しが深夜にお送りします:2016/05/17(火) 22:32:20 ID:NYikmdZk
<ドコーン!!
乗組員「アカーーーーーーーン!!」
宗谷「ひっ! ……あ、れ?不発……?」
乗組員「助かった……」
運のよいことにこの時の魚雷は不発だったため、宗谷は沈没を免れました。

28 :以下、名無しが深夜にお送りします:2016/05/17(火) 22:33:10 ID:NYikmdZk
ちなみに、宗谷が魚雷による攻撃を受けたのはこの1回ではありません。
2年後の1945年6月26日には、満州へ工業機材を輸送中に再び米潜水艦「パーチ」からの襲撃を受けます。
乗組員「魚雷だーーー!!」(2年ぶり2回目)
乗組員「今度こそアカーーーーーーーン!!」
宗谷「ひいぃー!!」

29 :以下、名無しが深夜にお送りします:2016/05/17(火) 22:33:45 ID:NYikmdZk
しかし、この時放たれた魚雷は宗谷の船体の下をすり抜け、またも宗谷は生き残りました。
ただし、この時船団を組んでいた僚船の「永観丸」と「神津丸」は、パーチの放った魚雷が命中し撃沈されてしまいました。

30 :以下、名無しが深夜にお送りします:2016/05/17(火) 22:34:24 ID:NYikmdZk
こうした数々の危機を潜り抜けてきた宗谷の戦歴の中でも、最もピンチだったと言えるのが1944年2月17日から翌18日にかけて巻き込まれたトラック島空襲でした。
乗組員「回避! 回避ーーーっ!!」
<メキメキ
宗谷「痛っ!!」
乗組員「やばい! 座礁した!!」
この時回避行動を行っていた宗谷は、運悪く敵空襲下の中、泊地の暗礁に乗り上げてしまったのです。

31 :以下、名無しが深夜にお送りします:2016/05/17(火) 22:35:15 ID:NYikmdZk
さらに、翌日になっても米軍の空襲は止みません。
乗組員「1機撃墜!!」
乗組員「だがもう艦はめちゃくちゃだ! 副艦長がやられた! 艦長も重傷だ!!」
乗組員「仕方ない、機密書類を焼却したら総員退艦!! 艦を棄てるぞ!!」
宗谷「ううう……」ズタボロ
9名の戦死者を出し身動きの取れなくなった宗谷は、急遽指揮を引き継いだ福島大尉により総員退艦命令が出されます。

32 :以下、名無しが深夜にお送りします:2016/05/17(火) 22:35:54 ID:NYikmdZk
翌19日。
退艦後、空襲に晒された宗谷の様子を見に来た乗組員達は驚愕します。
乗組員「宗谷生きてるやん!!」(驚愕)
宗谷「あの後潮が満ちてきて……なんとか離礁できました……」
乗組員「やったぜ。」
こうして潮汐により夜間のうちに自然離礁を果たした宗谷に、再び乗組員が戻ります。

33 :以下、名無しが深夜にお送りします:2016/05/17(火) 22:36:40 ID:NYikmdZk
ですが、この時宗谷が受けた被害は今大戦中最も大きなものでした。
2日に渡る機銃掃射により船体は穴だらけになり、甲板は破壊された対空機銃の残骸や、戦死した乗組員の血で赤く染まっていました。
結果的に宗谷は生き残りましたが、艦を放棄したうえに測量隊を全滅させた責任から、当時の艦長である天谷嘉重大佐が更迭され、その後拳銃自殺を遂げるという悲劇が起こってしまいます。
宗谷は修理のため横須賀に戻り、日本鋼管浅野ドック入りし測量艦から輸送艦に改装されることになりました。

34 :以下、名無しが深夜にお送りします:2016/05/17(火) 22:37:30 ID:NYikmdZk
宗谷(姉さんや妹はどうしてるのかしら……)
先に述べたとおり、宗谷には姉妹船である「天領丸」と「民領丸」がいます。
海軍に籍を置く宗谷とは違い、この2隻は陸軍に徴傭され、姉の天領丸は物資輸送に、妹の民領丸は他の船を修理したりする工作船として運用されていました。
しかし、宗谷がトラック島で空襲を受ける3日前の1944年2月14日、妹の「民領丸」は米潜水艦「フラッシャー」の雷撃により撃沈されていたのでした。

35 :以下、名無しが深夜にお送りします:2016/05/17(火) 22:38:39 ID:NYikmdZk
翌1944年4月22日に修理を終えた宗谷は、一旦北方の船団護衛に就くことなります。
宗谷「姉さん!」
天領丸「久しぶり!」
このとき宗谷は、姉である天領丸の護衛に就くことになります。久しぶりの姉妹の再会でした。
ですがこの天領丸も、翌1945年5月2日に、妹の名の元になった宗谷海峡まであと少しというところで米潜水艦「スターレット」の攻撃を受け撃沈されてしまいます。

36 :以下、名無しが深夜にお送りします:2016/05/17(火) 22:39:19 ID:NYikmdZk
1945年8月2日。
横須賀でのドック入りの最中、宗谷は再び米軍による空襲に巻き込まれます。
<ドカーーーーーーン
宗谷「あわわ」
氷川丸「ひいぃ!!」
長門「」(中破)
なお、この日共に空襲を受けた氷川丸と戦艦長門は、終戦まで生き延びることになります。