堕女神「私を、『淫魔』にしてください」
Part14
301 : ◆1UOAiS.xYWtC :2012/12/24(月) 03:25:59.48 ID:DU8XxeDfo
胸中での叫びが、あふれて声となった時。
声とともに、熱い血の塊が喉から流れ落ちた。
細い体の血潮を全て吐き尽くすかのように、緑の丘を余り無く真っ赤に染め抜くほどの血が吐かれた。
次に彼女を襲ったのは、髪を力任せに毟り取られるような痛み。
吐き尽くされない血反吐が邪魔をし、叫ぶ事さえできない。
美しかった金髪は根元から全て抜け落ち、直後、闇のように黒い髪が、先ほど以上の痛みとともに、ぞろぞろと生えてきた。
激痛と毒の針が皮膚を突き破るような痛みは、人であれば、狂気に逃げ込む事もできたであろう。
しかし、"神"の身体は、死ぬことも、狂う事もままならない。
ようやく吐血が止まり、頭部の痛みが治まれば、次は、爪。
桃色の爪は、すべて苦痛とともに根元から腐り落ちた。
代わりに生えてきたのは、凶鳥の鉤爪のように、真っ黒な爪。
"彼女"は、自らの身体が作り変えられていくのを感じた。
"女神"の身体は、"女神"ではなくなってきていた。
そして、苦痛の進軍の最後に――――眼球が溶け落ちた。
空っぽの眼窩に生まれたのは、黒水晶のような、新しい眼。
中心には血の色が集まり、漆黒と真紅の眼球が生じた。
最後に……黒い眼球のその中心にある真紅の領域に細い切れ込みが入り、そこでようやく、彼女は視界を取り戻す事ができた。
苦痛の尾を引く体を引きずり、川へと這い寄り、そこでようやく、水面にうつった自らの姿を、"彼女"は見た。
おぞましく変化した、"女神"であった者の姿を。
――――――――
302 : ◆1UOAiS.xYWtC :2012/12/24(月) 03:26:26.33 ID:DU8XxeDfo
時は、再び淫魔の城、肖像画の間に戻る。
堕女神「……私は、あの時に"愛の女神"を辞めました。私に……"愛"を司る資格など、もはや無かったのです」
勇者「…………」
堕女神「私は、人間達を救えませんでした。……世界が砕かれるその瞬間を、指をくわえて見ている……しか……」
勇者「……堕女神」
堕女神「なのに。……なのに……何故、ですか」
勇者「え……?」
堕女神「……何故、現れてしまったのですか」
震え、定まらない声質が一転し、勇者へと叩きつけられる。
力任せにではなく、冷静でもなく、弱々しく泣き伏せる子供の手のように、勇者には感じられた。
堕女神「……陛下を、"人間"を見ていると……」
伏せられた顔は、彼には見えない。
堕女神「あの晩の無力を……思い出して、しまいます」
303 : ◆1UOAiS.xYWtC :2012/12/24(月) 03:26:53.83 ID:DU8XxeDfo
今でも、彼女は思い出す。
何十万年を数えようとも、あの晩の無力感と、雨の中の堕天の苦痛を。
人間を愛していたがために、"愛の女神"でいられなくなった。
"愛の女神"である事をやめてしまえば、惨めな無力感を味わう事もない、そう思っていた。
しかし、終わらない。
ただ、募っただけだった。
――――――人間の世界を一度終わらせてしまった事を、今でも、気負っていた。
堕女神「………申し訳、ございません。話しすぎてしまいました」
勇者「一つ、訊いていいかな」
堕女神「何なりと」
勇者「……今でも、人間達を愛しているのか?」
堕女神「…………分かりません」
唇を噛み締めるとともに、彼女の手がぎゅっと閉じられる。
答えを絞り出すかのように、しばしそうしたまま、時が過ぎる。
堕女神「……私には、もう……何も、分かりません」
勇者「……話に戻らせてくれ。その後、君はどうなったんだ」
堕女神「………覚えていません」
勇者「覚えていない……?」
堕女神「私は、神々の国には戻れませんでした。そして……人間界にいる事もまた、辛かったのです」
304 : ◆1UOAiS.xYWtC :2012/12/24(月) 03:27:20.27 ID:DU8XxeDfo
――――――――
どれだけの時が過ぎたか、分からない。
気付けば、その不吉な"闇の女神"は、魔界を歩いていた。
幽鬼のごとく、いくつもの次元を彷徨った。
そして、行き着いたのは――――かつての人間界にも似た、魔界の次元。
暖かな空気と豊かな四季、すでに帰れない故郷にも似た、美しく囀る小鳥が飛び交う世界。
彼女はそこが最初、「魔界」であると気付かなかったほどに美しかった。
澱んだ肺が浄化されるような、爽やかな緑の香りが鼻腔をくすぐる。
木々から吐き出された新鮮な空気は、彷徨の中で吸った魔界の瘴気とは似ても似つかない。
整備された道を歩き続けていると、視界が開けた彼方に、都市が見えた。
その中心には遠目にも見て取れるほど巨大な建造物があり、更に見ると、高い壁のようなものに都市全体が囲まれていた。
自然と、足はそちらへ向いていた。
この世界には、果たして何があるのか。
あの建物は、いったい何なのか。
そもそも、ここは……本当に、魔界なのか。
疲れ切った足は、何度ももつれて転んだ。
消耗しきった体には、せめて頭をかばう事しか許されていない。
いや、疲れていたのは、体ではない。
心が――――魂が、擦り減り、今にも千切れそうだった。
そして、壁の間近に辿り着き、その根元に大きな扉がある事を知った時。
張り詰めていた糸を切られるように、その場に彼女の身体は、崩れ落ちた。
遠ざかる意識の中で、重く響く音を彼女は聞いた。
305 : ◆1UOAiS.xYWtC :2012/12/24(月) 03:27:55.71 ID:DU8XxeDfo
目が覚めると、久しぶりに、「天井」が見えた。
高い石造りの、冷たく荘厳な、最後に見た天井とは違う。
きれいな木目の刻まれた、低い天井。
彼女の体を包むのは、暖かな毛布と、起毛のシーツの温もり。
初めての感触だった。
冷え切った体を温め、その体温が二つの布を温め、体を優しく包んでくれている。
体を起こし、今その身が置かれた狭い空間を見渡す。
彼女が今横たわっている台は、その中心に、頭側を壁に接して配置されている。
右側数歩の所には木の扉があり、手が届く距離には、引き出し付の小さなテーブルがある。
左を見れば、透明の板が嵌まった木枠があり、そこから、外の風景が覗けた。
見えるのは、別の建物の石壁と屋根。
それとともに、外から、活気のある声が聞こえていた。
透明板の嵌まった枠へと近づこうと立ち上がった時、扉の向こうから足音が聞こえた。
木製の床がぎしぎしと音を立て、とん、とんという足音と交ざり合い、近づいてくる。
慌てて寝床へ戻り、足音の主を待つ。
扉が内側に開くと、すぐに、その足音の正体が見えた。
その、姿は――――
外観は人間と酷似した、翼と青い肌を持つ、若い女性のものだった。
306 : ◆1UOAiS.xYWtC :2012/12/24(月) 03:28:21.47 ID:DU8XxeDfo
???「……あら、目が覚めたのね。よかった」
微笑みながら近づく青い肌の女性は、桶の載った盆を持っていた。
見れば見る程に、彼女の細部は、人間とは違っており―――そして、削ぎ落とせば限りなく人間に近かった。
頭部に生じた二つの角、コウモリの翼、先端が鏃のように尖った、床につくほど長い尻尾。
青い肌と、そして首元に刻まれた赤く光る紋様。
太腿から胸までを隠す一つなぎの紫の服は、それでも彼女の肢体の悩ましさを押さえていない。
怖くは、なかった。
むしろ、興味さえ湧いた。
彼女が、果たして何者なのか。
ここは、何なのか。
???「…ごめんなさいね。勝手に服、脱がせちゃったけど……大丈夫、何もしてないわ」
言われて初めて、"闇の女神"は気付く。
今、自分が――何一つ、纏ってなどいない事に。
慌てて毛布を手繰り寄せ、胸元までを覆い隠すと、訪れた女性は苦笑を漏らしてその盆をベッド脇のテーブルに置いた。
???「…私は、この宿屋の主よ。昨日のお昼、あなたが倒れてるのを偶然見つけて、連れて来たの」
彼女の尻尾が木製の簡素な椅子を引き寄せ、腰掛けた。
宿屋主「それで、あなたは? 見たところ、サキュバスじゃないみたいだけど………堕天使? それなら、羽があるはずだから……違うか」
307 : ◆1UOAiS.xYWtC :2012/12/24(月) 03:29:02.50 ID:DU8XxeDfo
聞き慣れない言葉が飛び出て、思わず目が丸くなった。
その様子を酌んでくれたのか、眼前の"サキュバス"は、更に言葉を付け足す。
宿屋主「…ひょっとして、サキュバスを見るの、初めて?」
声が出ない代わりに、こくり、と首が前に倒れる。
宿屋主「……この国は、『淫魔の国』よ。私の種族が一番多いけど、他にも色々いるわよ」
そして、彼女は様々な種族の名前を上げて聞かせてくれた。
人間と神、その二つしか知らない身には、分からない事ばかりだった。
途中で何度も彼女は補足を挟みながら、この国について教えてくれた。
気の遠くなるほど昔、最初の「人間」が生み出されて数日経った頃に、「最初の女」が魔界へと追放された事。
彼女は幾つもの魔族と交わり、数々の「淫魔」を生み出した事。
そしてこの国が建国されると、女性型の魔物、堕天した神々や異国の精霊や天上の存在。
そういった者達が寄り集まって来て、いまやこの国は、魔族にさえも畏怖されるほどの大国へと成長した事。
宿屋主「で、何か質問とかあるかしら」
今度は、首を横に力無く振るう。
声は出ず、仕草もうまく力が籠もらない。
それでも回復し、受け答えをできる事に、彼女は安堵した様子だった。
宿屋主「待っててね、食べ物を持ってくるから。最初はスープからにしましょう」
そう言うと彼女は扉を出て、しばらくしてから、今度はスープの載った皿を盆に載せて運んできた。
最初の一口をほんの少しだけ、冷ましながら口中に流し入れる。
ほのかに甘い香りの中に、塩気も含んだ液体を、ごくりと喉を鳴らして、飲み込む。
―――――ただ、それだけの事なのに。
―――――飲み込んだスープのひと口と引き換えるように、涙がこぼれた。
308 : ◆1UOAiS.xYWtC :2012/12/24(月) 03:29:32.53 ID:DU8XxeDfo
その後、彼女の厚意に甘えて宿屋で何日かを過ごした。
数日して食事に胃が慣れて、ようやくパンを食べられるようになった頃、ようやく、声の出し方を思い出せた。
さらに数日後の朝、訪ねてくる者があった。
彼女の「宿」を、ではなく。
淫魔の国へ行き倒れ、迷い込んだ"元女神"へ。
宿屋の主人以外の淫魔を見るのは、初めてだった。
初めて見た時―――――直感した。
この客人こそが、「淫魔の国」を治める者だと。
古びた扉を押し開け、さしたる足音も立てずに、彼女は現れた。
色を失ったかのように美しい、夜空の大河にも似た髪。
同じく、真っ白で、青い血管までも透けて見える肌。
反して唇の血色は良く、その瞳はどこまでも柔らかで、磨き上げられた鏡のような、美しい光が宿っていた。
角は、前髪をかき分けて一角の神馬のように立っている。
そして、彼女は名乗った。
自分は、淫魔の国を治める……「女王」だと。
309 : ◆1UOAiS.xYWtC :2012/12/24(月) 03:30:11.17 ID:DU8XxeDfo
淫魔女王「……お初にお目にかかります。城壁の外に倒れていたとのことですが……どちらから?」
「……もう、分かりません」
淫魔女王「…お名前を頂いてもよろしいでしょうか?」
「……ありません。なくなってしまいました」
淫魔女王「まぁ……。……しつこいと思われるでしょうが、貴女は……何という種族でしょうか」
「………『女神』だった事があります」
淫魔女王「そうなのですか。……色々と探って申し訳ありませんでした。貴女に、ひとつお話があって参りました」
「…何でしょうか?」
淫魔女王「……私のお城へ、参りませんか?」
「え?」
淫魔女王「………この国の、住民として。私に、力を貸していただけないでしょうか」
「……私、が………?」
淫魔女王「ええ」
「…………」
――――――――――
310 : ◆1UOAiS.xYWtC :2012/12/24(月) 03:30:38.30 ID:DU8XxeDfo
勇者「…………」
堕女神「そして私は、女王陛下とともに、この城へ。………使用人として」
そう言って、彼女は、体ごと肖像画の前へ向き直る。
背筋を正し、身の上を話す中で潤んだ瞳で、肖像画に眠る「先代の女王」の瞳を見つめて。
堕女神「城での暮らしは、上手くいかない事ばかりでした。庭の手入れも、洗濯も、埃をはたき落とすだけの事でさえも私は不器用で」
堕女神「でも、私は、それを通して少しずつ……少しずつ、自らを取り戻し。……いや、形作っていく事ができました」
堕女神「……思い出深い事はあれど、全てを語り尽くす事は、到底できません」
目を閉じるたびに、彼女は思い出すのだろう。
女王に尽くした、あの遠き永き日々。
我武者羅に積み重ねていった、第二の生き方を培う日々を。
勇者「……人ではなく、淫魔達を見守る事に生きる意味を?」
堕女神「……女神が『人』を見守るというのなら、堕ちた女神が、『堕ちた人』を見守る事があっても良い筈です」
勇者「…………」
堕女神「私の話は、これにて終わります。………陛下、どうか……どうか、教えてください」
堕女神「……あなたは――――――」
問いかけを再び発しようとした時、入り口の扉が重い音を立てて開かれた。
311 : ◆1UOAiS.xYWtC :2012/12/24(月) 03:31:11.27 ID:DU8XxeDfo
メイド「失礼いたします、こちらへいらっしゃると聞いたもので……」
堕女神「何事か起こりましたか?」
メイド「……本日の夜のメインに届く筈の肉が、手違いで遅れております。どういたしましょう」
堕女神「……すぐ参ります。厨房でお待ちください」
メイド「はい、かしこまりました」
堕女神「………申し訳ありません、陛下。残念ですが―――」
勇者「……夜だ」
堕女神「はい…?」
勇者「今日の夜、全てを話す。……俺が、何者なのか」
堕女神「……かしこまりました」
勇者「少し……頭の中を整理したくもあるんだ」
堕女神「はい。……それでは陛下、失礼いたします」
312 : ◆1UOAiS.xYWtC :2012/12/24(月) 03:31:44.13 ID:DU8XxeDfo
雨は、降り続いていた。
勢いは少し弱まっているものの、尚も、止む気配は覗かせない。
晩餐は、喉を通らなかった。
空腹の筈の胃が、縮まっているようだった。
残さず平らげはできても、前菜も、主菜も、デザートも、素通りするようだった。
あまりにも、哀しい物語が――――彼女の影には、あったのだ。
彼女に、どう答えればよいのか。
人間を救えずに、哀しみと絶望のうちに世界を去った、非業の女神に。
人間を救ったが、それでも居場所を失って世界を去った、『勇者』が。
何をどう答えれば良いのか。
正体を明かせば、彼女の傷を広げるだけではないのか。
人間を救っても、結局世界は救えなかった。
人間達は争いに溺れて、結局は、憎み合う道を選んでいた。
雨足が再び強まった頃、彼女は、勇者の寝室を訪れた。
明かりを最低限まで落とした室内で窓辺に佇み、外を眺めていると、風雨の音に負けないやや強めのノックがされた。
普段なら声だけで答えたが、今日は、自ら扉を開けて――――訪れた彼女を、迎え入れた。
313 : ◆1UOAiS.xYWtC :2012/12/24(月) 03:32:14.30 ID:DU8XxeDfo
勇者「……早いね」
堕女神「陛下をお待たせしてはと思いまして。……私も、逸っているのかもしれません」
勇者「それは?」
堕女神「……食後酒をお飲みにならなかったので、代わりにとお持ちしました」
彼女が持ってきた円形の盆の上には、細長い脚付きのグラスが一つと、霜のおりた酒瓶が載っている。
勇者「…それじゃ、貰おうかな。入ってくれ」
彼女を室内に招き入れると、真っ直ぐにベッド脇のテーブルへと向かい、盆を置く。
そのまま手慣れた動作でゆっくりと、音も無くコルクを抜き、グラスへと静かに注いだ。
グラスの縁から流れ込むように、黄金の液体が細かな泡とともに満ちていく。
七割ほどまで注がれると、彼女は勇者にグラスを差し出した。
それを手に取り、まずは一口、口をつける。
堕女神「……お口に合いましたでしょうか?」
勇者「うん。……ほら、堕女神も」
言うと、そのグラスを彼女へと返す。
堕女神「私……ですか?」
勇者「無理にとは言わない。……一人で味わうのも、気が引けるから」
314 : ◆1UOAiS.xYWtC :2012/12/24(月) 03:32:44.89 ID:DU8XxeDfo
堕女神「……かしこまりました、それでは……」
返杯を受け取ろうと伸びた白い手が、稲光で照らされる。
とっさに彼女が身を強張らせながら手を引っ込め、グラスに指先がかすり、液面が僅かに揺れた。
雷鳴が聞こえたのは、その三秒ほど後。
堕女神「あ……」
勇者「……これは、まだしばらくは降るかな」
堕女神「申し訳ありません、陛下」
勇者「……雷は、苦手なのか?」
堕女神「………はい、その通りです」
勇者「まぁ、雷が得意な奴なんてのもいないか」
堕女神「…陛下は」
勇者「ん」
堕女神「………陛下は、『得意』なのでは?」
勇者「ある意味では」
315 : ◆1UOAiS.xYWtC :2012/12/24(月) 03:33:13.96 ID:DU8XxeDfo
彼女は窓辺へと一度近寄り、そして、数歩ほど下がり、外を見つめた。
窓に叩き付ける雨粒、遠くから聞こえる轟きと、彼方の山脈に走る稲妻が、終末の風景にも似たものを演出する。
――――遠い昔、実際に見たものを。
堕女神「……陛下は、何故……『雷』を……」
勇者「…使えるのか、か」
差し出したままだったグラスを再び引き寄せ、一気に半分ほどを空にする。
喉の奥にしゅわしゅわと泡が弾けて、奥に忍んだ爽やかな酸味が、甘い後味とともに喉を滑り降りた。
堕女神「……不思議だった事がございます」
勇者に背を向け、窓の外を眺めながら、彼女は独白するように語り始めた。
堕女神「………陛下の『雷』は、怖くはありませんでした」
勇者「え……?」
堕女神「…分からないのです。何故なのか」
勇者「…………」
堕女神「……陛下は、何者だったのですか?」
再びの問いかけに、勇者はグラスを持ったまま、項垂れながらベッドに腰を下ろす。
窓の外を見たままの彼女に背中合わせになるような形で、応えるように彼もまた独白する。
316 : ◆1UOAiS.xYWtC :2012/12/24(月) 03:33:52.07 ID:DU8XxeDfo
かつて人間界で、何も知らない子供だった頃の事を。
長閑な農村で、牛の世話をしたり、薪を割ったり、小さな畑を耕していた幼少の頃を。
十世帯ほどしかないがその全てが顔見知りで、暖かく素朴な、ちっぽけで穏やかな村だった。
牛のお産の手助けをした事、薪割りを父親がなかなかやらせてくれなかった事。
村の教会の裏にある白い花畑で、村の子供達と遊んだ事。
晩には、家族とともに食べる焼きたてのパンと、暖かく湯気を立てる野菜のスープが美味しかった事。
屋根裏の小さな子供部屋の天窓から望む星空は、どれだけ見ていても飽きなかったこと。
夜空を眺めて夜更かしをしていると、たまに母が温めてくれたミルクの味が、今でも忘れられていない事。
父が語り聞かせてくれた「勇者」の童話に、心を昂らせていた事。
――――そして、ある晩……夢に「女神」が現れ、力を授かった事を。
堕女神「……『女神』と申されましたか?」
勇者「ああ。……目が覚めれば、俺は『雷』を操れるようになっていたのさ」
堕女神「…………つまり…」
勇者「…雷を操り、歴戦の将軍より力強く、影に溶ける暗殺者より速く、凶悪な魔物を物ともしない。そんな存在に、翌朝にはなっていた」
堕女神「そんな人間が、いるのですか?」
勇者「ああ」
勇者「――――『勇者』と呼ばれる存在に、俺はなっていたんだ」
胸中での叫びが、あふれて声となった時。
声とともに、熱い血の塊が喉から流れ落ちた。
細い体の血潮を全て吐き尽くすかのように、緑の丘を余り無く真っ赤に染め抜くほどの血が吐かれた。
次に彼女を襲ったのは、髪を力任せに毟り取られるような痛み。
吐き尽くされない血反吐が邪魔をし、叫ぶ事さえできない。
美しかった金髪は根元から全て抜け落ち、直後、闇のように黒い髪が、先ほど以上の痛みとともに、ぞろぞろと生えてきた。
激痛と毒の針が皮膚を突き破るような痛みは、人であれば、狂気に逃げ込む事もできたであろう。
しかし、"神"の身体は、死ぬことも、狂う事もままならない。
ようやく吐血が止まり、頭部の痛みが治まれば、次は、爪。
桃色の爪は、すべて苦痛とともに根元から腐り落ちた。
代わりに生えてきたのは、凶鳥の鉤爪のように、真っ黒な爪。
"彼女"は、自らの身体が作り変えられていくのを感じた。
"女神"の身体は、"女神"ではなくなってきていた。
そして、苦痛の進軍の最後に――――眼球が溶け落ちた。
空っぽの眼窩に生まれたのは、黒水晶のような、新しい眼。
中心には血の色が集まり、漆黒と真紅の眼球が生じた。
最後に……黒い眼球のその中心にある真紅の領域に細い切れ込みが入り、そこでようやく、彼女は視界を取り戻す事ができた。
苦痛の尾を引く体を引きずり、川へと這い寄り、そこでようやく、水面にうつった自らの姿を、"彼女"は見た。
おぞましく変化した、"女神"であった者の姿を。
――――――――
302 : ◆1UOAiS.xYWtC :2012/12/24(月) 03:26:26.33 ID:DU8XxeDfo
時は、再び淫魔の城、肖像画の間に戻る。
堕女神「……私は、あの時に"愛の女神"を辞めました。私に……"愛"を司る資格など、もはや無かったのです」
勇者「…………」
堕女神「私は、人間達を救えませんでした。……世界が砕かれるその瞬間を、指をくわえて見ている……しか……」
勇者「……堕女神」
堕女神「なのに。……なのに……何故、ですか」
勇者「え……?」
堕女神「……何故、現れてしまったのですか」
震え、定まらない声質が一転し、勇者へと叩きつけられる。
力任せにではなく、冷静でもなく、弱々しく泣き伏せる子供の手のように、勇者には感じられた。
堕女神「……陛下を、"人間"を見ていると……」
伏せられた顔は、彼には見えない。
堕女神「あの晩の無力を……思い出して、しまいます」
303 : ◆1UOAiS.xYWtC :2012/12/24(月) 03:26:53.83 ID:DU8XxeDfo
今でも、彼女は思い出す。
何十万年を数えようとも、あの晩の無力感と、雨の中の堕天の苦痛を。
人間を愛していたがために、"愛の女神"でいられなくなった。
"愛の女神"である事をやめてしまえば、惨めな無力感を味わう事もない、そう思っていた。
しかし、終わらない。
ただ、募っただけだった。
――――――人間の世界を一度終わらせてしまった事を、今でも、気負っていた。
堕女神「………申し訳、ございません。話しすぎてしまいました」
勇者「一つ、訊いていいかな」
堕女神「何なりと」
勇者「……今でも、人間達を愛しているのか?」
堕女神「…………分かりません」
唇を噛み締めるとともに、彼女の手がぎゅっと閉じられる。
答えを絞り出すかのように、しばしそうしたまま、時が過ぎる。
堕女神「……私には、もう……何も、分かりません」
勇者「……話に戻らせてくれ。その後、君はどうなったんだ」
堕女神「………覚えていません」
勇者「覚えていない……?」
堕女神「私は、神々の国には戻れませんでした。そして……人間界にいる事もまた、辛かったのです」
304 : ◆1UOAiS.xYWtC :2012/12/24(月) 03:27:20.27 ID:DU8XxeDfo
――――――――
どれだけの時が過ぎたか、分からない。
気付けば、その不吉な"闇の女神"は、魔界を歩いていた。
幽鬼のごとく、いくつもの次元を彷徨った。
そして、行き着いたのは――――かつての人間界にも似た、魔界の次元。
暖かな空気と豊かな四季、すでに帰れない故郷にも似た、美しく囀る小鳥が飛び交う世界。
彼女はそこが最初、「魔界」であると気付かなかったほどに美しかった。
澱んだ肺が浄化されるような、爽やかな緑の香りが鼻腔をくすぐる。
木々から吐き出された新鮮な空気は、彷徨の中で吸った魔界の瘴気とは似ても似つかない。
整備された道を歩き続けていると、視界が開けた彼方に、都市が見えた。
その中心には遠目にも見て取れるほど巨大な建造物があり、更に見ると、高い壁のようなものに都市全体が囲まれていた。
自然と、足はそちらへ向いていた。
この世界には、果たして何があるのか。
あの建物は、いったい何なのか。
そもそも、ここは……本当に、魔界なのか。
疲れ切った足は、何度ももつれて転んだ。
消耗しきった体には、せめて頭をかばう事しか許されていない。
いや、疲れていたのは、体ではない。
心が――――魂が、擦り減り、今にも千切れそうだった。
そして、壁の間近に辿り着き、その根元に大きな扉がある事を知った時。
張り詰めていた糸を切られるように、その場に彼女の身体は、崩れ落ちた。
遠ざかる意識の中で、重く響く音を彼女は聞いた。
305 : ◆1UOAiS.xYWtC :2012/12/24(月) 03:27:55.71 ID:DU8XxeDfo
目が覚めると、久しぶりに、「天井」が見えた。
高い石造りの、冷たく荘厳な、最後に見た天井とは違う。
きれいな木目の刻まれた、低い天井。
彼女の体を包むのは、暖かな毛布と、起毛のシーツの温もり。
初めての感触だった。
冷え切った体を温め、その体温が二つの布を温め、体を優しく包んでくれている。
体を起こし、今その身が置かれた狭い空間を見渡す。
彼女が今横たわっている台は、その中心に、頭側を壁に接して配置されている。
右側数歩の所には木の扉があり、手が届く距離には、引き出し付の小さなテーブルがある。
左を見れば、透明の板が嵌まった木枠があり、そこから、外の風景が覗けた。
見えるのは、別の建物の石壁と屋根。
それとともに、外から、活気のある声が聞こえていた。
透明板の嵌まった枠へと近づこうと立ち上がった時、扉の向こうから足音が聞こえた。
木製の床がぎしぎしと音を立て、とん、とんという足音と交ざり合い、近づいてくる。
慌てて寝床へ戻り、足音の主を待つ。
扉が内側に開くと、すぐに、その足音の正体が見えた。
その、姿は――――
外観は人間と酷似した、翼と青い肌を持つ、若い女性のものだった。
???「……あら、目が覚めたのね。よかった」
微笑みながら近づく青い肌の女性は、桶の載った盆を持っていた。
見れば見る程に、彼女の細部は、人間とは違っており―――そして、削ぎ落とせば限りなく人間に近かった。
頭部に生じた二つの角、コウモリの翼、先端が鏃のように尖った、床につくほど長い尻尾。
青い肌と、そして首元に刻まれた赤く光る紋様。
太腿から胸までを隠す一つなぎの紫の服は、それでも彼女の肢体の悩ましさを押さえていない。
怖くは、なかった。
むしろ、興味さえ湧いた。
彼女が、果たして何者なのか。
ここは、何なのか。
???「…ごめんなさいね。勝手に服、脱がせちゃったけど……大丈夫、何もしてないわ」
言われて初めて、"闇の女神"は気付く。
今、自分が――何一つ、纏ってなどいない事に。
慌てて毛布を手繰り寄せ、胸元までを覆い隠すと、訪れた女性は苦笑を漏らしてその盆をベッド脇のテーブルに置いた。
???「…私は、この宿屋の主よ。昨日のお昼、あなたが倒れてるのを偶然見つけて、連れて来たの」
彼女の尻尾が木製の簡素な椅子を引き寄せ、腰掛けた。
宿屋主「それで、あなたは? 見たところ、サキュバスじゃないみたいだけど………堕天使? それなら、羽があるはずだから……違うか」
307 : ◆1UOAiS.xYWtC :2012/12/24(月) 03:29:02.50 ID:DU8XxeDfo
聞き慣れない言葉が飛び出て、思わず目が丸くなった。
その様子を酌んでくれたのか、眼前の"サキュバス"は、更に言葉を付け足す。
宿屋主「…ひょっとして、サキュバスを見るの、初めて?」
声が出ない代わりに、こくり、と首が前に倒れる。
宿屋主「……この国は、『淫魔の国』よ。私の種族が一番多いけど、他にも色々いるわよ」
そして、彼女は様々な種族の名前を上げて聞かせてくれた。
人間と神、その二つしか知らない身には、分からない事ばかりだった。
途中で何度も彼女は補足を挟みながら、この国について教えてくれた。
気の遠くなるほど昔、最初の「人間」が生み出されて数日経った頃に、「最初の女」が魔界へと追放された事。
彼女は幾つもの魔族と交わり、数々の「淫魔」を生み出した事。
そしてこの国が建国されると、女性型の魔物、堕天した神々や異国の精霊や天上の存在。
そういった者達が寄り集まって来て、いまやこの国は、魔族にさえも畏怖されるほどの大国へと成長した事。
宿屋主「で、何か質問とかあるかしら」
今度は、首を横に力無く振るう。
声は出ず、仕草もうまく力が籠もらない。
それでも回復し、受け答えをできる事に、彼女は安堵した様子だった。
宿屋主「待っててね、食べ物を持ってくるから。最初はスープからにしましょう」
そう言うと彼女は扉を出て、しばらくしてから、今度はスープの載った皿を盆に載せて運んできた。
最初の一口をほんの少しだけ、冷ましながら口中に流し入れる。
ほのかに甘い香りの中に、塩気も含んだ液体を、ごくりと喉を鳴らして、飲み込む。
―――――ただ、それだけの事なのに。
―――――飲み込んだスープのひと口と引き換えるように、涙がこぼれた。
308 : ◆1UOAiS.xYWtC :2012/12/24(月) 03:29:32.53 ID:DU8XxeDfo
その後、彼女の厚意に甘えて宿屋で何日かを過ごした。
数日して食事に胃が慣れて、ようやくパンを食べられるようになった頃、ようやく、声の出し方を思い出せた。
さらに数日後の朝、訪ねてくる者があった。
彼女の「宿」を、ではなく。
淫魔の国へ行き倒れ、迷い込んだ"元女神"へ。
宿屋の主人以外の淫魔を見るのは、初めてだった。
初めて見た時―――――直感した。
この客人こそが、「淫魔の国」を治める者だと。
古びた扉を押し開け、さしたる足音も立てずに、彼女は現れた。
色を失ったかのように美しい、夜空の大河にも似た髪。
同じく、真っ白で、青い血管までも透けて見える肌。
反して唇の血色は良く、その瞳はどこまでも柔らかで、磨き上げられた鏡のような、美しい光が宿っていた。
角は、前髪をかき分けて一角の神馬のように立っている。
そして、彼女は名乗った。
自分は、淫魔の国を治める……「女王」だと。
309 : ◆1UOAiS.xYWtC :2012/12/24(月) 03:30:11.17 ID:DU8XxeDfo
淫魔女王「……お初にお目にかかります。城壁の外に倒れていたとのことですが……どちらから?」
「……もう、分かりません」
淫魔女王「…お名前を頂いてもよろしいでしょうか?」
「……ありません。なくなってしまいました」
淫魔女王「まぁ……。……しつこいと思われるでしょうが、貴女は……何という種族でしょうか」
「………『女神』だった事があります」
淫魔女王「そうなのですか。……色々と探って申し訳ありませんでした。貴女に、ひとつお話があって参りました」
「…何でしょうか?」
淫魔女王「……私のお城へ、参りませんか?」
「え?」
淫魔女王「………この国の、住民として。私に、力を貸していただけないでしょうか」
「……私、が………?」
淫魔女王「ええ」
「…………」
――――――――――
310 : ◆1UOAiS.xYWtC :2012/12/24(月) 03:30:38.30 ID:DU8XxeDfo
勇者「…………」
堕女神「そして私は、女王陛下とともに、この城へ。………使用人として」
そう言って、彼女は、体ごと肖像画の前へ向き直る。
背筋を正し、身の上を話す中で潤んだ瞳で、肖像画に眠る「先代の女王」の瞳を見つめて。
堕女神「城での暮らしは、上手くいかない事ばかりでした。庭の手入れも、洗濯も、埃をはたき落とすだけの事でさえも私は不器用で」
堕女神「でも、私は、それを通して少しずつ……少しずつ、自らを取り戻し。……いや、形作っていく事ができました」
堕女神「……思い出深い事はあれど、全てを語り尽くす事は、到底できません」
目を閉じるたびに、彼女は思い出すのだろう。
女王に尽くした、あの遠き永き日々。
我武者羅に積み重ねていった、第二の生き方を培う日々を。
勇者「……人ではなく、淫魔達を見守る事に生きる意味を?」
堕女神「……女神が『人』を見守るというのなら、堕ちた女神が、『堕ちた人』を見守る事があっても良い筈です」
勇者「…………」
堕女神「私の話は、これにて終わります。………陛下、どうか……どうか、教えてください」
堕女神「……あなたは――――――」
問いかけを再び発しようとした時、入り口の扉が重い音を立てて開かれた。
311 : ◆1UOAiS.xYWtC :2012/12/24(月) 03:31:11.27 ID:DU8XxeDfo
メイド「失礼いたします、こちらへいらっしゃると聞いたもので……」
堕女神「何事か起こりましたか?」
メイド「……本日の夜のメインに届く筈の肉が、手違いで遅れております。どういたしましょう」
堕女神「……すぐ参ります。厨房でお待ちください」
メイド「はい、かしこまりました」
堕女神「………申し訳ありません、陛下。残念ですが―――」
勇者「……夜だ」
堕女神「はい…?」
勇者「今日の夜、全てを話す。……俺が、何者なのか」
堕女神「……かしこまりました」
勇者「少し……頭の中を整理したくもあるんだ」
堕女神「はい。……それでは陛下、失礼いたします」
312 : ◆1UOAiS.xYWtC :2012/12/24(月) 03:31:44.13 ID:DU8XxeDfo
雨は、降り続いていた。
勢いは少し弱まっているものの、尚も、止む気配は覗かせない。
晩餐は、喉を通らなかった。
空腹の筈の胃が、縮まっているようだった。
残さず平らげはできても、前菜も、主菜も、デザートも、素通りするようだった。
あまりにも、哀しい物語が――――彼女の影には、あったのだ。
彼女に、どう答えればよいのか。
人間を救えずに、哀しみと絶望のうちに世界を去った、非業の女神に。
人間を救ったが、それでも居場所を失って世界を去った、『勇者』が。
何をどう答えれば良いのか。
正体を明かせば、彼女の傷を広げるだけではないのか。
人間を救っても、結局世界は救えなかった。
人間達は争いに溺れて、結局は、憎み合う道を選んでいた。
雨足が再び強まった頃、彼女は、勇者の寝室を訪れた。
明かりを最低限まで落とした室内で窓辺に佇み、外を眺めていると、風雨の音に負けないやや強めのノックがされた。
普段なら声だけで答えたが、今日は、自ら扉を開けて――――訪れた彼女を、迎え入れた。
313 : ◆1UOAiS.xYWtC :2012/12/24(月) 03:32:14.30 ID:DU8XxeDfo
勇者「……早いね」
堕女神「陛下をお待たせしてはと思いまして。……私も、逸っているのかもしれません」
勇者「それは?」
堕女神「……食後酒をお飲みにならなかったので、代わりにとお持ちしました」
彼女が持ってきた円形の盆の上には、細長い脚付きのグラスが一つと、霜のおりた酒瓶が載っている。
勇者「…それじゃ、貰おうかな。入ってくれ」
彼女を室内に招き入れると、真っ直ぐにベッド脇のテーブルへと向かい、盆を置く。
そのまま手慣れた動作でゆっくりと、音も無くコルクを抜き、グラスへと静かに注いだ。
グラスの縁から流れ込むように、黄金の液体が細かな泡とともに満ちていく。
七割ほどまで注がれると、彼女は勇者にグラスを差し出した。
それを手に取り、まずは一口、口をつける。
堕女神「……お口に合いましたでしょうか?」
勇者「うん。……ほら、堕女神も」
言うと、そのグラスを彼女へと返す。
堕女神「私……ですか?」
勇者「無理にとは言わない。……一人で味わうのも、気が引けるから」
314 : ◆1UOAiS.xYWtC :2012/12/24(月) 03:32:44.89 ID:DU8XxeDfo
堕女神「……かしこまりました、それでは……」
返杯を受け取ろうと伸びた白い手が、稲光で照らされる。
とっさに彼女が身を強張らせながら手を引っ込め、グラスに指先がかすり、液面が僅かに揺れた。
雷鳴が聞こえたのは、その三秒ほど後。
堕女神「あ……」
勇者「……これは、まだしばらくは降るかな」
堕女神「申し訳ありません、陛下」
勇者「……雷は、苦手なのか?」
堕女神「………はい、その通りです」
勇者「まぁ、雷が得意な奴なんてのもいないか」
堕女神「…陛下は」
勇者「ん」
堕女神「………陛下は、『得意』なのでは?」
勇者「ある意味では」
315 : ◆1UOAiS.xYWtC :2012/12/24(月) 03:33:13.96 ID:DU8XxeDfo
彼女は窓辺へと一度近寄り、そして、数歩ほど下がり、外を見つめた。
窓に叩き付ける雨粒、遠くから聞こえる轟きと、彼方の山脈に走る稲妻が、終末の風景にも似たものを演出する。
――――遠い昔、実際に見たものを。
堕女神「……陛下は、何故……『雷』を……」
勇者「…使えるのか、か」
差し出したままだったグラスを再び引き寄せ、一気に半分ほどを空にする。
喉の奥にしゅわしゅわと泡が弾けて、奥に忍んだ爽やかな酸味が、甘い後味とともに喉を滑り降りた。
堕女神「……不思議だった事がございます」
勇者に背を向け、窓の外を眺めながら、彼女は独白するように語り始めた。
堕女神「………陛下の『雷』は、怖くはありませんでした」
勇者「え……?」
堕女神「…分からないのです。何故なのか」
勇者「…………」
堕女神「……陛下は、何者だったのですか?」
再びの問いかけに、勇者はグラスを持ったまま、項垂れながらベッドに腰を下ろす。
窓の外を見たままの彼女に背中合わせになるような形で、応えるように彼もまた独白する。
316 : ◆1UOAiS.xYWtC :2012/12/24(月) 03:33:52.07 ID:DU8XxeDfo
かつて人間界で、何も知らない子供だった頃の事を。
長閑な農村で、牛の世話をしたり、薪を割ったり、小さな畑を耕していた幼少の頃を。
十世帯ほどしかないがその全てが顔見知りで、暖かく素朴な、ちっぽけで穏やかな村だった。
牛のお産の手助けをした事、薪割りを父親がなかなかやらせてくれなかった事。
村の教会の裏にある白い花畑で、村の子供達と遊んだ事。
晩には、家族とともに食べる焼きたてのパンと、暖かく湯気を立てる野菜のスープが美味しかった事。
屋根裏の小さな子供部屋の天窓から望む星空は、どれだけ見ていても飽きなかったこと。
夜空を眺めて夜更かしをしていると、たまに母が温めてくれたミルクの味が、今でも忘れられていない事。
父が語り聞かせてくれた「勇者」の童話に、心を昂らせていた事。
――――そして、ある晩……夢に「女神」が現れ、力を授かった事を。
堕女神「……『女神』と申されましたか?」
勇者「ああ。……目が覚めれば、俺は『雷』を操れるようになっていたのさ」
堕女神「…………つまり…」
勇者「…雷を操り、歴戦の将軍より力強く、影に溶ける暗殺者より速く、凶悪な魔物を物ともしない。そんな存在に、翌朝にはなっていた」
堕女神「そんな人間が、いるのですか?」
勇者「ああ」
勇者「――――『勇者』と呼ばれる存在に、俺はなっていたんだ」
堕女神「私を、『淫魔』にしてください」
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