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勇者「淫魔の国の王になったわけだが」
ワルキューレ編

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Part7
101 : ◆1UOAiS.xYWtC :2012/03/27(火) 03:23:02.54 ID:h7sEMOtHo
問いかけに、彼女は答えない。
答える事が、できない。
眼前の男の全てを把握できた訳ではない。
相手は、強い。
ワルキューレである自分と互角に渡り合い、未だ見ぬ雷光の魔術さえ自在に操る。
そんな男が―――涙雨に打たれ、枯れ木のように立ち尽くしている。
感じたのは不気味さではない。
恐怖でも、哀れみでもない。
ただ、酷い空虚感が伝播した。
どしゃ降りの雨の中、感傷が心から去らない。
勇者「続けないか?」
ワルキューレ「……望む、ところだ」
勇者が提案すると、ワルキューレはゆっくりと斧槍を持ち上げる。
雨粒が絡みついた得物を胸の前で構えながら、大きく、後ろへ下がっていく。
それに応じ、勇者も重量から逃れた剣を下段に構える。
湿った土から沈み込んだ足を引き抜き、同じく距離を取る。
ブーツには泥とともに、踏み締められて千切れた芝もへばり付く有様だ。
ドレープで装飾されたシャツは汗と雨にまみれ、絞ればどれだけの水が出るのか知れない。
ゆっくりと、左手で濡れて垂れ下がる前髪をかき上げる。
その眼には、ワルキューレが先ほど感じた「虚ろ」はない。
一日目、二日目で覗かせた、どこか不敵な眼差しだ。
勇者「―――『ガンガンいこうぜ』」

102 : ◆1UOAiS.xYWtC :2012/03/27(火) 03:23:37.30 ID:h7sEMOtHo
ばしゃぁ、という盛大な水音を合図に、「決闘」は再開された。
降りしきる雨の中を、黄金の武具纏う「戦乙女」と、暗黒の剣を握る「勇者」が切り結ぶ。
雨粒を裂いて、ワルキューレの斧槍が左から右へ、横薙ぎに襲い来る。
首元を狙って放たれた初撃を大きく身を反らせて空振りさせると、
引き戻された斧槍がすぐさま、腹部を狙って突き出された。
恐ろしいほどの速さで繰り出された突きへ、柄尻を用いて切っ先を逸らす。
あまりの速さゆえ、逆に横から加えられる力に影響を受けやすいのだ。
腹部を狙うはずだった斧槍の突きは彼女から見て左へ逸れ、先ほど綻ばせた脇腹部分を、更に削り取る。
僅かな熱とともに勇者の脇腹に線状に血が滲む。
浮かんだのは苦痛の表情でもなく、しくじったという面持ちでもなく、昂揚を孕んだ笑顔。
―――久々に刃傷を負ったな。
―――愉しい!
心臓の鼓動は、天井知らずに跳ね上がる。
落ちる雨粒一つ一つが空中で止まったようにすら見え、
それを弾き飛ばす攻撃の応酬は、舞踏にも似て美しく感じた。
髪から、鎧から、額冠の翼飾りから雨粒を滴らせ、斧槍を自在に操る、「戦乙女」。
その表情も、勇者と同じく浮き立つ感情をありありと伝えていた。
―――この男は、全力をぶつけてもなお手に余るのか。
―――なんと、気持ち良い事か!
勇者と意識を共有するかのように、口元が歪んでいく。
どれだけ技巧を凝らし、晦ましを織り交ぜた攻撃を繰り出しても。
眼前の相手は、痛快なほどに防いでくれる。
本気を出して戦える、圧倒的な快感。
本気を出しても届くかどうか分からない、強さ。
ゾクゾクと背筋を遡るのは、性的恍惚よりもさらに強い、紛れもない「快感」。
父親にじゃれる子供のように、勝てないと分かっている相手に全力で挑む、とてつもない安堵と、解放感。

103 : ◆1UOAiS.xYWtC :2012/03/27(火) 03:24:58.37 ID:h7sEMOtHo
呼吸さえ忘れて、切り結ぶ中で。
遂に、勇者の剣がワルキューレの防御を跳ね除けた。
大きく後方に弾かれた斧槍に引っ張られて、ワルキューレは体勢を崩し、無防備な姿をさらけ出す。
がら空きの胴へ向かい、左下段から引き起こすような軌道で切り上げる。
しかし―――刃が軌道の半分も描かぬうちに、右側から、衝撃が頭を突き抜けた。
視界がいきなり90度近く回転し、直後に勇者の眼に映る風景から、精彩が失われていく。
かすかに見えたのは、フォロースルーに入ったワルキューレの背。
猫科の獣にも酷似したしなやかさで、彼女の左脚が勇者の頭を捉えたのだ。
無駄なく鍛えられた全身のバネを使い、会心の一撃をもたらした。
脚甲の重さも加わり、脛がもろに入ったのだ。
たとえ常人だったとしたら、首が吹き飛んでしまいそうな衝撃。
それでも――ワルキューレは、勝ち誇らない。
手応えは十分だったというのに、それでも不足であるかのように。
蹴りの勢いのまま、身体を回転させて勇者へと向き直る。
やはり、勇者は立っていた。
それも、「瞳を覗き込めそうなほど、間近に」。
勢いをつけた膝が、今度はワルキューレの胴体を捉える。
腹部と胸部の中間を狙った膝は、胸甲越しに内臓へ衝撃を届けた。
跳躍の勢いのままに放たれる膝は、槌矛の一撃にも劣らぬ威力を生み出した。
苦い煙が口内を満たすような感覚に、ワルキューレの視界が揺れる。
チカチカと明滅する視界の中、熱い物が、文字通り喉まで「こみ上げた」。
勇者「……まだ、やるか?」
得物を持つ手を下げ、その場にえずく彼女へ問う。
自分の方もぐらぐらと揺れるような感覚が続き、足取りがだいぶ怪しくなっているというのに。
強がっているというよりは、心底彼女を気遣うような声色で。

104 : ◆1UOAiS.xYWtC :2012/03/27(火) 03:25:58.78 ID:h7sEMOtHo
身を二つに折って吐き気を押さえ込んでいる彼女の眼に、「赤」が飛び込んでくる。
下を向いた視界に、濡れた芝生に落ちる赤い雫が見えた。
勇者「やる、のか?」
彼女は荒い息とともに、ゆっくりと顔を上げていく。
泥とシミにまみれたブーツ。
雨に濡れ、重くなって動きを奪うズボン。
脇腹の部分が裂け、線上の傷から血を滲ませる上半身。
そして、側頭部の裂傷から血を溢れさせ、それでも力を宿らせたままの眼。
全身を見て取った時、雨足が上がり、勇者は背中に暖かさを感じた。
ずぶ濡れの身体にじわりと感じる、押し付けがましくない温感。
眼下のワルキューレの武具が、おもむろに神々しい光を発する。
勇者には、それらの理由が分かっていた。
それでも、ゆっくりと、身体を捻って後ろを向く。
青。
雲の切れ目から青が覗かせ、ゆっくりと青の領域を広げていく。
その中に頂く光の塊が、中庭を、淫魔の国を、「勇者」を暖かく照らし始める。
勇者「……晴れたか」
誰に言うでもなく呟き、そして、再びワルキューレへ向き直る。
彼女は回復したのかすでに立ち上がり、
どこか奇異な――いや、畏怖すべきものを見るような視線を向けていた。
ワルキューレ「っ!」
自らの呆けた振る舞いを振り払うかのように、ワルキューレは、まっすぐに突いた。
表情には、すでに畏怖も歓喜も乗せられてはいない。
外敵に対する敵意でもなく、その反対の敬意でもない。
ただ、八つ当たりのような攻撃。

105 : ◆1UOAiS.xYWtC :2012/03/27(火) 03:26:37.87 ID:h7sEMOtHo
晴れ間の下、重い残響音が広がる。
どさりと何かが落ちる音が、二人からやや離れた地点から聞こえた。
空から降り注ぐ光の中、彼女は斧槍を失い、膝を折っていた。
勇者は切り払った姿勢のまま、彼女を見下ろす。
背負った太陽が勇者を照らし出し、静謐な宗教画のような光景を作り出している。
光を背負い、儀礼を施す聖者のように剣を握る者。
その前には、黄金に鎧われた天上の女戦士が跪く。
従者達によって整えられた庭園は、まさしく楽園にも通じる美がある。
もしもこの光景を描き映す事ができたのなら、その画家は伝説ともなるだろう。
重く噛み締めた表情を湛え、顔を上げないまま、ワルキューレが言葉を絞り出す。
ワルキューレ「……悔しいな」
呟きが、雨の上がった庭園ではっきりと聞こえた。
心底悔しそうな響きに加え、歓喜の残り香を香らせ、自らの至らなさを省みるようにも。
膝をついたままで、彼女は言葉を続ける。
ワルキューレ「……勝ちたかった」
勇者「……ああ。お前に、『勝って』ほしかった」
ワルキューレ「…正直なのだな」
勇者「約束は、覚えているな?」
ワルキューレ「覚えている……さ」
勇者「お前の身体は、今夜俺のものだ。……抵抗するのもいいが、よもや『戦乙女』が約束を反故にはしないだろう?」
ワルキューレ「…無論」


106 : ◆1UOAiS.xYWtC :2012/03/27(火) 03:28:08.96 ID:h7sEMOtHo
勇者「ならばいい。さて………とっ!?」
ワルキューレ「?」
勇者「ちょっ……剣が手から離れない!」
ワルキューレ「は?」
勇者「まさか、これって」
左手を使って指を一本一本離していこうにも、吸い付くように柄は右手から離れない。
装飾の眼の部分にあしらわれた闇色の宝石が輝きを増し、山羊の髑髏部分から不安を煽るような低音の旋律が鳴り響く。
跪いたままのワルキューレは信じ難そうに、彼を見ているだけ。
状況すら掴めず、それどころか冗談を言っているものとばかり思っている。
堕女神「呪われてますが?」
闘いが終わったのを悟り、近寄りながら堕女神が言う。
悪びれる様子などまったく無く、むしろ、「何を今更」とでも言いたげに。
勇者「……なぁ、俺さ。お前に何か悪い事したっけ」
堕女神「いえ」
勇者「……分かったよ、頼むから呪いを解いてくれ」
堕女神「………いいでしょう」
どこか不満げな表情ではあるが、彼女は頼みを聞き入れる。
指先に暖かな光が灯り、その指先で、剣を握ったままの右手をなぞる。
彼女の指の光が消えた直後、握られた手の内部から何かが割れる高らかな音が聞こえた。

107 : ◆1UOAiS.xYWtC :2012/03/27(火) 03:28:59.71 ID:h7sEMOtHo
勇者「おお……」
堕女神「終わりです。もう、それは普通に扱えるかと」
勇者「何で最初っから解いて持ってこない?」
堕女神「さぁ?」
勇者は手から離れるようになった剣を鞘に納め、何度も右手を閉じて開いてを繰り返す。
剣からは妙にざわめくような殺気は消え、普通の剣へと戻ったようだ。
勇者「……やっぱりお前、機嫌悪いだろ」
堕女神「いえ、滅相もない」
勇者「はぁ。……まぁ、いい。彼女に部屋を……いや、その前に風呂に入れてやれ」
堕女神「沐浴を?」
勇者「二日間も仄暗く寒い地下に閉じ込めて、オマケに雨の中戦って汗もかいた。辛いだろうさ」
堕女神「……お言葉ですが」
勇者「ああ、分かってる。捕虜に対して何とかかんとかって……」
堕女神「いえ。世の中には体臭に興奮を覚えるという性癖も。一度お試しになっては」
勇者「そっちかよ!……いいから、彼女を風呂へ。力は奪わなくていいからな」
堕女神「はい、かしこまりました。……陛下は?」
勇者「俺は、彼女の後でいい」

108 : ◆1UOAiS.xYWtC :2012/03/27(火) 03:30:29.98 ID:h7sEMOtHo
堕女神「はい。……その前に、失礼いたします」
勇者「ん?」
彼女が口元に手を当て、掌へ息を吹きかける。
薄い緑色の光が集まり、再び彼女の手を輝かせる。
その手を、彼の、頭部の裂傷へと翳した。
手に纏われた光が傷口へと集まり、見る間に傷を塞がらせていく。
否、それ以上に、戦いで失われた体力が回復していくようだ。
脇腹に負った傷も塞がり、彼の体は、決闘前のまっさらな状態へと戻る。
堕女神「……失礼しました」
勇者「いや、助かるよ。……しかし、万能だな」
堕女神「堕ちても女神ですから」
勇者「……頼もしいな、全く」
堕女神「恐れ入ります」
ワルキューレ「……申し訳ないが、体の芯から冷えてきたのだが」
勇者「ああ、そうだった。堕女神、頼む。……いじめるなよ。傷を受けたのは、俺の落ち度なんだからな」
堕女神「はい、了解いたしました。……ついて来なさい」
ワルキューレ「……すまない、気遣い痛み入る」
勇者「いいから、身体を温めてこい」

109 : ◆1UOAiS.xYWtC :2012/03/27(火) 03:31:52.14 ID:h7sEMOtHo
ワルキューレは、堕女神に導かれるままに、城内を歩く。
雨に濡れた肌が、歩くたびに熱を奪われて寒くなる。
戦っている時は体の高まりによって相殺されていたが、終われば寒くて仕方が無い。
ふるふると震え始めるが、それを何とか隠そうと努める。
目の前を歩いているのは、自らの力を奪い、地下へと幽閉した存在なのだから。
堕女神「……何を、怯えているのですか」
不意に、彼女を見もせずに声が浴びせられる。
どこかぴしゃりとした言い方に体が反応し、思わず背筋が伸びた。
ワルキューレ「…怯えてなど、いるものか」
堕女神「そうですか。……戦われてみて、どうでしたか?」
ワルキューレ「……強かった。それでも……絶望は、感じなかった」
堕女神「感じなかった?」
ワルキューレ「ああ。……妙なんだ。彼の姿を見ていると、何故か……『勇気』が湧いてくるんだ」
堕女神「勇気、ですか?」
ワルキューレ「私の攻撃を弾く姿。斬りつける姿。圧倒的なんだが……まるで、『勇気』を相手に分け与えているみたいだ」
堕女神「……そう、ですか」
ワルキューレ「………それでも、どこか哀しく感じた気がする」
堕女神「到着しました。ここが、我が城の浴場です。どうぞ、ごゆっくり」
ワルキューレ「…すまない、感謝する」
堕女神「礼なら、陛下へ。……それでは、失礼します」

110 : ◆1UOAiS.xYWtC :2012/03/27(火) 03:32:26.84 ID:h7sEMOtHo
勇者が自室で着替えていると、ドアが叩かれる。
ノックの音にはどこか乱れがあり、三年間毎日聞き続けた彼には、それだけで違和感だった。
勇者「堕女神……か?入れよ」
堕女神「…失礼します」
勇者「何だ、浮かない顔だな。まだ怒ってるのか?」
堕女神「いえ。……分からないのです」
勇者「分からない?何が?」
堕女神「陛下のお考えが。……何故、あのような決闘まがいのマネを」
勇者「まがい、とは失礼だな」
堕女神「…申し訳ありません。しかし、何故……戦われたのですか。真剣を用いてまで」
勇者「『ワルキューレ』の強さを知りたかったんだ。……負けたかったよ」
堕女神「…お言葉の意味が、分かりかねます」
勇者「……堕女神、お前から見てどうだった?」
堕女神「……私が申して良いのでしょうか」
勇者「正直に言ってくれ。……何を感じた?」

111 : ◆1UOAiS.xYWtC :2012/03/27(火) 03:32:53.06 ID:h7sEMOtHo
堕女神「……楽しんでおられましたね」
勇者「ああ、斬り合うのは久々だった。楽しかったよ」
堕女神「…ならば、何故『負けたかった』などと?」
勇者「……言い方が正しくなかったな。そうだな、正しくは……」
堕女神「はい」
勇者「『手の届かない存在』であって欲しかったのさ」
堕女神「……?」
勇者「俺に……『ヒト』には手の届かない、問題にすらならない強さであってほしかった。
    一合と切り結べないような、文字通り『雲の上』の存在であってほしかった」
堕女神「…憧憬、とでも」
勇者「……いや、逆なのかな」
堕女神「陛下が、『ワルキューレ』に遠く及ばない存在でありたかったという事ですか?」
勇者「ところが、実際はどうだ。このザマ、だよ」
堕女神「彼女も弱くはありませんでした。……恐らく、『ワルキューレ』の中でも相当の……」

112 : ◆1UOAiS.xYWtC :2012/03/27(火) 03:34:36.05 ID:h7sEMOtHo
そこまで言いかけ、咄嗟に言葉を切る。
今の発言は……不用意、だった。
今の言い方では、彼が上位の「ワルキューレ」に比肩、いやそれ以上の力を備えている事になる。
普通ならば、それは誇るべき事のはずだ。
驕る事さえも許されるような、名誉であるはずだった。
しかし彼は、その名誉を喜ばない。
ワルキューレより下の存在でありたかったとまで言っている。
勇者「……そうか」
堕女神「…申し訳ありません」
勇者「いや、聞いてくれ。……俺は、最後の一閃を放ってこう思ってしまったんだ」
堕女神の脳裏に、ほんの数十分前の光景が蘇る。
刺突を放ったワルキューレが、武器を弾き飛ばされてその場に膝を折った姿を。
あふれ出た血と濡れた髪で表情は見えず、想像するしかなかった事を。
勇者「『――ああ、こんなものか』」
ことさらに冷たく、感情を込めずに口にした。
勇者自身も、吐いた言葉がこれほどの冷淡さを備えるとは思わなかった。
堕女神もまた、かけるべき言葉が見つからないままで立ち尽くす。

113 : ◆1UOAiS.xYWtC :2012/03/27(火) 03:35:15.18 ID:h7sEMOtHo
勇者「酷く傲慢だろう。……軽蔑してくれ」
その言葉に、彼女の沈黙は更に長引く。
軽蔑の感情から、ではない。
諦念、自嘲、そして物悲しさをたたえた彼の顔を、見てしまったからだ。
勇者「……昔、『魔王』を倒すための旅をしてた頃の事だ」
表情を僅かに戻し、「勇者」は語り始める。
勇者「旅も終盤に差し掛かった頃、旅の出発点へ、俺の国の『王』のもとへ戻る用事ができてさ」
堕女神「……はい」
勇者「で、ついでに放棄された砦に住み着いた魔物を倒すように頼まれて、行ってみたんだ。……俺一人で」
堕女神「そこで、何が起こったのですか」
勇者「……何も、起こらなかった」
科白としては、拍子抜けだろう。
だが――微笑み加減の彼の表情は、どこか虚しさも感じさせる。
病に伏せる、年老いた親を見る人間は、恐らくこういう顔をするのだろう。
勇者「旅の始まりであんなに手こずらされて、死ぬ思いを味わわせられた魔物達が。
    ……何も考えずに、手癖で振るった剣で呆気なく倒せたんだ」
堕女神「…しかし、その魔物達は、『王』にとっては脅威だったのでしょう?」
勇者「そうさ。……あんなに怖い思いをさせられた魔物が、その時の俺にとって、まるで問題にならなかった。……それが、怖かった」

114 : ◆1UOAiS.xYWtC :2012/03/27(火) 03:35:46.44 ID:h7sEMOtHo
堕女神「…『強くなる』のは、怖い事なのですか?」
勇者「……砦の中で魔物と出くわしても、恐怖も昂揚もなかった。……まるで、『作業』だったんだよ。戦いなんかじゃない」
堕女神「『作業』……」
勇者「そして今、『魔王』を倒して目的を果たしたのに、『ワルキューレ』にも土をつけた。
    勝負がついて俺が思った事は、さっき言ったとおりだ」
堕女神「……落胆ですか」
勇者「身も蓋も無く言うと。……だから、俺は負けたかった。今の俺でも足元にも及ばない、強い存在があると信じたかった」
堕女神「…負ける事で、再び強さの『目的』を据えるために?」
勇者「半分は。もう一つだけ、俺の勝手な願望があった。……もしかすると、こっちが本命なのかな」
堕女神「…お聞かせ願えますか?」
勇者「……『勇者』でも敵わない、別格の存在が人間界を見守ってくれていると信じたかったんだ」
堕女神「…しかし、陛下はお勝ちになりました」
勇者「ああ。『勝ててしまった』、な」
言い聞かせるように漏らし、窓辺へと歩いていく。
締め切られた窓の向こうに、洗われたように綺麗な青空が広がっていた。
沈んだ表情とは対照的な青い空を、勇者は窓辺から見上げる。

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