魔王「世界の半分はやらぬが、淫魔の国をくれてやろう」
Part16
357 : ◆1UOAiS.xYWtC :2011/12/13(火) 04:57:41.85 ID:3MnLayldo
勇者「いや、何でもないよ」
ごまかしきれてはいないが、それでも、彼が何でもないと言うから追求はしない。
彼女は、全くもってよくできた侍従だった。
勇者「…ちょっと、待ってくれ」
茶を淹れ、菓子の載った盆を置いて去ろうとする彼女を、勇者が引きとめた。
何か不手際があったか、と軽い緊張が走り、次いで、立ち上がった勇者へ眼を向ける。
堕女神「何でしょうか?」
勇者「昨日、俺に訊いたな。今、答えるよ」
堕女神「昨日?」
勇者「『夜』と言ったが。……何故かな。今、言っておかなくちゃいけない気がする」
思い出したか、彼女が怪訝な顔をする。
そして、少し経ち――気付く。
彼があまりにも哀しげな、”笑顔”を浮かべている事に。
勇者「俺―――『勇者』なんだ」
風が、ざぁっと吹き抜けた。
木々を揺らし、葉がざわざわと擦れる音が聞こえる。
358 : ◆1UOAiS.xYWtC :2011/12/13(火) 05:15:01.02 ID:3MnLayldo
堕女神「……言っている意味が、分かりかねます」
当然の反応だ。
今まで夜に彼女を甚振りながら、まるで吼えるかのように話していた事。
それを、今更正面から聞かされる意味が、分からない。
勇者「『魔王』の力で、七日間だけこの世界に留まる事ができる。……そして、今日が七日目だ」
堕女神「……え…?」
魔王、というのが何を指すのかは即座には分からない。
だが、後半部分は分かった。
彼の言葉を正しく解釈すると、そうなる。
堕女神「……嘘、ですよね?また私をからかっているのでしょう?」
正面から、勇者の顔を見据える。
彼女が口元をへらへらと綻ばせているのは、言葉通りに受け止めたくない気持ちの顕れか。
対して、勇者は口を引き結び、押し黙る。
その目は険しく、嘘をついていない。
勇者「…俺は今日の夜、この世界を去る。……二度とここへは戻れない」
堕女神「…冗談はやめてください。面白くありませんよ」
359 : ◆1UOAiS.xYWtC :2011/12/13(火) 05:23:09.59 ID:3MnLayldo
冗談であればいいのに。
彼は、そう思った。
どうか冗談であってくれ。
彼女は、そう願った。
勇者「……今日が最後なんだ。……後は、前と同じ『王』の精神が戻る」
堕女神「……嘘」
勇者「………」
堕女神「『嘘だ』と言ってください!」
取り乱し、叫ぶ。
声の大きさに、近くにいた使用人の一人が思わず振り返る。
勇者「俺も、そう言いたいさ」
苦々しげではない。
変わらぬ決意を湛えた、『男』の顔。
認めたくない。
その一念が彼女の心を染める。
心臓がぎりぎりと締め付けられ、呼吸するごとに取り込まれる空気が、苦い。
いつまで待っても、彼は表情を崩して笑ってくれない。
口の中に苦味が満ちて、それが鼻と口の奥をつんとさせ、更に上へと昇ってくる。
360 : ◆1UOAiS.xYWtC :2011/12/13(火) 05:49:09.67 ID:3MnLayldo
いつまで経っても表情が変わらない彼の姿が、歪んだ。
にわかに鼻が詰まり、思う通りに空気を取り込んでくれない。
瞼が熱く、段々と、眼前の彼の姿が更に歪む。
勇者「………ごめん、な」
耐え切れずに放った言葉を引き金に、涙が溢れ出した。
頬を滝のように伝う涙が、石畳に染みを作る。
しゃくり上げると、つられて洟が垂れ、呼吸を著しく阻害された。
声を激しく上げる事は無い。
それでも、普段の彼女を知る者には想像すらできない、取り乱した泣き顔。
何万年もの年月を生きた彼女を、ここまで動揺させる言葉があるのか。
かつて彼女を崇めていた民も、思わなかっただろう。
堕女神「……うっ…っく……うぅ……」
声を出さないように、洟をすすりながら泣く彼女に、勇者が近づく。
勇者「……ごめん」
彼女の頭を優しく引き寄せ、胸へと抱く。
暖かさと、勇者の匂いに包まれ、彼女が顔を埋めて泣き濡れる。
じわりと染み込む彼女の涙を皮膚で感じた。
こんなにも、熱いのか。
自分との別れを、こんなにも哀しむものなのか。
362 : ◆1UOAiS.xYWtC :2011/12/13(火) 06:07:44.03 ID:3MnLayldo
勇者「……もっと、早く言えば良かったのかな」
縋り付いて泣く彼女の頭を撫で、左手で大きく開いた背中を抱き締め、擦りながら漏らす。
こんなにも取り乱す彼女を見るのは初めてだ。
恐らく、本来の『王』もそうだろう。
勇者「…作ってくれた料理は、本当に美味しかった。……この七日、楽しかったよ」
言葉が耳に届いているのか、分からない。
反応は返ってこず、シャツの生地をきゅっと掴まれるだけ。
再び、風が吹き抜ける。
その風は――何故か、冷たかった。
隙間風のように心に吹き込み、身を竦ませるように冷たかった。
勇者「こんなに、別れを惜しまれるのは初めてだな」
彼女の髪を撫でる。
絹糸をまとめたかのように、上等な油に手を浸したように、さらりと指の間を通り抜ける。
髪から漂う香りは、旅の途中で訪れた、季節を無視して様々な花の咲く天上の谷を思い出させた。
363 : ◆1UOAiS.xYWtC :2011/12/13(火) 06:29:16.22 ID:3MnLayldo
どれだけの間、そうしていたのか。
使用人達に幾度も視線を浴び、珍しいものを見るかのようだった。
勇者「落ち着いたか?」
しゃくり上げるような痙攣が治まり、呼吸も整いかけている。
既にシャツは涙と洟でじっとりと濡れている。
堕女神「……は、い。………お見苦しいところを……お見せ、しました」
勇者の胸元から離れ、赤く腫れぼったい瞼と鼻を見られないようにして、彼女が言う。
恥じ入るように隠して、何処から取り出したハンカチで鼻の下を拭う。
堕女神「昼を回ってしまいましたね。今すぐに、昼食の用意を致します」
勇者「ああ、いや。……昼を過ぎているし、軽いものでいい。……運んできてくれ、ここに」
堕女神「はい、畏まりました。…お茶を、淹れなおします」
勇者「いや、いい。お前が淹れてくれたんだからな」
再び席につき、とっくに冷めてしまった紅茶を啜る。
逡巡の後、彼女は遅い昼の準備を整えるため、足早に去って行った。
364 : ◆1UOAiS.xYWtC :2011/12/13(火) 06:56:27.14 ID:3MnLayldo
その後、彼女が運んできた細めのパスタを平らげ、再び午睡するかのように目を閉じ、風を感じる。
暮れなずむ空が青から橙へと色を変え始め、入り混じった薄紫の空が頭上に広がっていく。
日が落ちる前にと勇者は席を立ち、城内へと入る。
もう、空を見る事はできない。
後は、ただ夜へと変わっていくだけ。
勇者は一人ごちる。
これは―――まるで、『死刑囚』の心境だ、と。
二度と、空を見る事はできない。
二度と、舌を楽しませる料理を味わう事はできない。
二度と、人肌のぬくもりを感じる事はできない。
最後の日は、あまりにも切なく、救いなく終わりそうだ。
途中、サキュバスAを見かけた。
日が落ちて庭の手入れを終えたのか、大きな鋏を手にしていた。
彼女も勇者の存在に気がついたが、一礼を送り、すぐにその場を去ってしまった。
自室に戻る気にはなれず、当て所なく城内を彷徨う。
飾られた絵画を眺めながら廊下を歩き、思いついて謁見の間を覗き、まるで――最後に、目に焼き付けようとしているかのようだ。
385 : ◆1UOAiS.xYWtC :2011/12/14(水) 01:39:56.31 ID:NBSc6G9uo
そうして彼が向かったのは、玉座の間だった。
重厚なカーペットが敷かれ、壇上に金色の玉座が置かれた『王』の座する処。
一歩一歩、踏み締めながら向かう。
柔らかい感触がブーツの硬い底から伝わり、静かに音を立てながら歩いていく。
『彼女』の涙で濡れたシャツが、冷えて張り付く。
拭おうとも、着替えようとも思わなかった。
これは、『勇者』の身を心から案じてくれた、一柱の堕ちた女神が流してくれたもの。
『仲間』としてではなく、一人の『男』に対して別れを惜しんでくれた証。
ずっと塞がらない穴があった。
いつになっても隙間風が吹き込み、虚しく霜を降ろす心の一角。
そこに、何かがはまったような気がした。
傷が塞がった心は、もう寒くない。
玉座の壇前に立ち、しばし、目を閉じる。
今この瞬間は自らの座なのだが、それでも経験から染み付いた、心が引き締まる感覚。
しゅるり、と剣を抜く。
幾度と無く繰り返された抜剣の仕草は、今に至っても錆び付いていない。
刀身は未だ輝いていた。
白銀の刀身に、暁のように赤い光が不規則に射し込める。
それは、今この瞬間にも、勇者が『勇者』であり続けていることの証明でもあった。
386 : ◆1UOAiS.xYWtC :2011/12/14(水) 02:05:21.99 ID:NBSc6G9uo
切っ先を、眼前の玉座へゆっくりと向ける。
まるで、敵にそうするかのように。
眼光は鋭く前を向き、切っ先を通して玉座に殺気を放っているかに見えた。
勇者「……『お前』は生まれない。絶対にな」
そうして、数分後。
ゆっくりと剣を下ろして、鞘へと納める。
しばらく、玉座を見つめた後に踵を返し、背後の扉へと向かう。
城内を回るうちに、日は既に沈んでしまったようだ。
遅い昼食も歩き回るうちに消化され、胃が窄まるような感覚を覚えた。
玉座の間の扉を開け、再び廊下に出る。
日が落ち、冷えて引き締まった空気が身に沁みる。
空気は冷たい。
だが、『寒く』はない。
自らを動かす機関の収まった左胸へ手を当て、ゆっくり、城内の散策を再開した。
387 : ◆1UOAiS.xYWtC :2011/12/14(水) 02:25:24.79 ID:NBSc6G9uo
厨房で、彼女は一人晩餐の準備を進めていた。
黙々、というよりは我武者羅に。
幽鬼のように、感情が薄い表情で。
感情を少しでも出せば、崩れて涙に化けてしまいそうだから。
メインの肉を切ろうと、ナイフに手を伸ばす。
良質なヒレ肉の塊に刃を当てると、まるで布を裁つような音と手応えで容易く両断された。
感情を動かすまいと務めるが、あまりにも、真実は重い。
覚悟はしていた。
何かの変化が王に起こっていた、と。
その変化も、いつかは消えると。
それが、まさか――今日、なんて。
サキュバスA「……お邪魔だったかしら?」
入り口から声が聞こえた。
目を向けるまでも無く、その正体は分かった。
邪険にするつもりは無いにせよ、見られたくはない。
何とか、孤独を保とうと唇を動かす。
堕女神「…いえ。ですが……一人に、していただけないでしょうか」
388 : ◆1UOAiS.xYWtC :2011/12/14(水) 02:45:04.17 ID:NBSc6G9uo
サキュバスA「…刃物を手にして思いつめた顔の女を、一人になんてできませんわ」
頬を緩め、茶化しながら厨房へと入る。
邪魔になりそうな翼を一時的に隠し、調理台の隙間を縫って堕女神に近づく。
サキュバスA「その様子では、陛下の告白を聞いたようですわね」
図星を突かれ、身を震わせる。
刻んだハーブを肉に振り掛けていて、思わず手元が狂いそうになった。
堕女神「貴女も、聞いたのですか?」
サキュバスA「ええ。昨日の晩に」
堕女神「何故、私には今日になっていきなり…?」
サキュバスA「……心配しなくても。陛下は、貴女の事をきちんと想っていますわ」
堕女神「なら、どうして……」
サキュバスA「それは、陛下……いえ、『あの人』に直接聞いた方がよろしいかと」
389 : ◆1UOAiS.xYWtC :2011/12/14(水) 03:13:49.09 ID:NBSc6G9uo
堕女神「……」
サキュバスA「……最後の夜は、貴女とともに過ごしたいと、あの方は願いましたわね」
手を止め、堕女神は彼女の方へ目を向けた。
メインの肉料理の仕込みは終わり、後は焼き上げるのみとなっていた。
堕女神「そう……なります」
サキュバスA「あの方に取ってではなく、貴女にとっても、あの方と過ごせる最後の夜。……思い残さぬように」
堕女神「……はい」
サキュバスA「嗚呼、それにしても妬けてしまいますわ。……私達でも、女王でもなく、貴女を選ぶなんて」
大げさに謡うように節回しながら、くるりと背を向ける。
そのまま、厨房から出ようと歩を進めていく。
堕女神「………泣いて、いるのですか?」
サキュバスA「…まさか。貴女とも、あの子とも違いますもの」
堕女神「…そう、ですか」
サキュバスA「さて。晩餐の準備が整ったと知らせて参ります。……どうか、悔いを残さぬよう」
堕女神「はい。……よろしくお願いいたします」
390 : ◆1UOAiS.xYWtC :2011/12/14(水) 03:36:28.19 ID:NBSc6G9uo
城内を一回りした勇者は、いつの間にか、食堂近くの廊下へと戻ってきていた。
ここにいれば誰かが見つけてくれるだろう、と思ったのもある。
もう一つは――俗がすぎるが、併設された厨房からの、夕餉の香りに引き寄せられた。
何気なく、飾られた銅像を見ていた。
人間の女が、男の上に跨る姿勢で行為に耽っている像だ。
上の女は喜悦に顔をゆがめているのに対し、男は、或いは必死に止めようとしているかのようだ。
サキュバスA「……それは、原初の淫魔。『リリス』の像ですわ」
真後ろから声をかけられる。
距離が近いが、最終日ともなれば慣れたものだ。
勇者「リリス?」
サキュバスA「我々の祖です。彼女は快楽を求めるあまり、人類最初の男に拒絶され、楽園を出でて自らの国を作りました」
勇者「……で?」
サキュバスA「彼女の子供達は魔界へと追放され、人間の精を吸い取る魔族として恐れられるようになりました」
勇者「…それが、お前達か」
サキュバスA「はい。……あ、陛下。晩餐の準備が整っておりますので、食堂へどうぞ」
勇者「分かった。……もう少し早く言ったらどうだ」
391 : ◆1UOAiS.xYWtC :2011/12/14(水) 04:10:58.14 ID:NBSc6G9uo
大食堂へと続く目の前の扉を開けようとした。
手を扉へ伸ばした瞬間、止まる。
勇者「……なぁ」
サキュバスA「はい?」
呼び止められ、その場で返事をして彼に体を向ける。
いつもと同じく、挑むような眼差しに、飄々とした物腰。
それでも――彼には、伝わるものがあった。
勇者「……ありがとう」
体を捻り、じっと、彼女の顔を見つめる。
目が僅かに赤く、纏う空気も僅かに沈んでいる。
堕女神は分かりやすく取り乱した。
サキュバスBも同じくそうするだろう。
だが、彼女は?
勇者「…忘れない。お前のおかげで、俺は最期まで『勇者』でいられそうだ」
それだけ言って、彼は大食堂へと入っていく。
彼が最後の晩餐へと消えた後、彼女は――悲しげに唇を震わせて、それでも微笑みながら、部屋へと帰った。
392 : ◆1UOAiS.xYWtC :2011/12/14(水) 04:54:08.58 ID:NBSc6G9uo
彼が、一人ではあまりにも大きな卓につくと、すぐに前菜が運ばれた。
茸を用いた固形の蒸し物に、野菜を添えられた皿だ。
一口運ぶと、口の中に芳醇な香りが広がり、それによって食欲が更に増進された。
物足りない量のそれを片付けると、次はスープ。
朝に出たものとは味付けが違っている。
よく煮込まれた玉葱と鶏骨のブイヨンが香り、メインに向けて更に食欲が増す。
メインの肉料理。
両面を良く焼かれているが、中はレア気味に、切ってみればグラデーションが目に楽しい。
口に運べば、肉汁と酸味を持つハーブの香りが広がり、そして非常に柔らかい。
飲み込むのが勿体無いと思えるほどに、勇者は何度も長引かせるようにそれを味わった。
余計な脂の雑味は無く、ただ、肉の持つ旨味と最大限まで引き出している、単純だが嗜好の調理。
そして、最後。
少なくとも人界では希少な、チョコレートを用いた焼き菓子が運ばれる。
フォークで割ってみれば、まるでパイ生地のように表面がさくりと割れた。
内部には瑞々しい野苺に似た果物が仕込まれ、ほろ苦いチョコレートと絶妙に絡み合う。
最後にして至高の晩餐を終えた後、茶が淹れられた。
堕女神自ら、勇者の傍らで。
394 : ◆1UOAiS.xYWtC :2011/12/14(水) 05:20:50.52 ID:NBSc6G9uo
勇者「…ありがとう。忘れられない味だったよ」
ティーカップを傾け、礼を述べる。
熱気を伴った香りが口内に満ちて、残った風味をリセットする。
堕女神「…恐れ入ります。……陛下」
勇者「何だ?」
堕女神「……今日は、少し早めにお部屋に伺ってよろしいでしょうか?」
勇者「…構わないが、それはまたどうして」
堕女神「あなたは、今日を最後にこの世界から去るのでしょう。……少しでも、共にいたいのです」
勇者「……ああ、分かったよ。待ってる」
野暮な事を訊いてしまった、と。
若干の反省とともに、茶を啜る。
最後の一口を飲み終え、席を立つ。
まっすぐに自室へと戻り、最後の夜を過ごすために。
それ以降、彼女が部屋に訪れるまで、口を開く事は無かった。
395 : ◆1UOAiS.xYWtC :2011/12/14(水) 05:32:33.52 ID:NBSc6G9uo
心地よい満腹感を得て、自室のベッドへ大の字に寝る。
剣はエンドテーブルへ立てかけ、ズボンのベルトも緩め、楽な姿に。
勇者「…魔王。待っていろ。……俺は、お前に屈する事は無い」
天に手を伸ばし、ぎゅっと拳を握って呟く。
見てはいるだろうが、『魔王』からの返答は無い。
だが、聞こえていればいい。
震えていればいい。
勇者は、既に――対決に向け、心を締め直していた。
暫くして、眠気が欠片ほど舞い降りた頃。
毎朝聞かされる、規則正しいノックの音が転がった。
いつものように、入室を促す。
――彼女が、入ってきた。
普段のドレスの上に、黒地に金糸で刺繍されたショールを羽織っている。
勇者「……早い、な」
堕女神「申し訳ありません」
勇者「…いいんだ。……こちらへ」
434 : ◆1UOAiS.xYWtC :2011/12/15(木) 03:03:44.43 ID:59deYyZzo
彼女が、近づく。
上体を起こしながらベッドの上で待つ勇者へ。
縁に腰掛け、靴を脱ぐ。
踵が高くサンダルにも似て露出度の高い、勇者の世界では見かけないタイプの靴だ。
片足、もう片足と順番に脱ぎ去ると、待たせた者の方へ体を向けなおす。
四つん這いに、近づいていく。
二人分の体重をかけられたベッドが軋み、ぎしぎしと音を立てる。
ランプの灯に照らされた彼女の影が、室内を彩った。
そのまま、止まらず――彼の胸元へ、体を預ける。
しな垂れかかった彼女の体を受け止めると、ゆっくりと体を倒し、横になった。
勇者「…もう、泣かないのか?」
返答は無い。
彼女はただ静かに、彼の胸に顔を押し付け、匂いと、温もりを感じていた。
ひたすら、記憶に残そうとするかのように。
細く、長い息遣いが妙なくすぐったさを伝える。
堕女神「………忘れられない夜を、下さいませ」
顔を胸に押し付け、きゅっとシャツの裾を握ったままで呟く。
まるで薄いガラスのように、儚く、透き通った声で。
顔は、見えない。
見えないから、逆に――彼女の心が、伝わった。
勇者「いや、何でもないよ」
ごまかしきれてはいないが、それでも、彼が何でもないと言うから追求はしない。
彼女は、全くもってよくできた侍従だった。
勇者「…ちょっと、待ってくれ」
茶を淹れ、菓子の載った盆を置いて去ろうとする彼女を、勇者が引きとめた。
何か不手際があったか、と軽い緊張が走り、次いで、立ち上がった勇者へ眼を向ける。
堕女神「何でしょうか?」
勇者「昨日、俺に訊いたな。今、答えるよ」
堕女神「昨日?」
勇者「『夜』と言ったが。……何故かな。今、言っておかなくちゃいけない気がする」
思い出したか、彼女が怪訝な顔をする。
そして、少し経ち――気付く。
彼があまりにも哀しげな、”笑顔”を浮かべている事に。
勇者「俺―――『勇者』なんだ」
風が、ざぁっと吹き抜けた。
木々を揺らし、葉がざわざわと擦れる音が聞こえる。
358 : ◆1UOAiS.xYWtC :2011/12/13(火) 05:15:01.02 ID:3MnLayldo
堕女神「……言っている意味が、分かりかねます」
当然の反応だ。
今まで夜に彼女を甚振りながら、まるで吼えるかのように話していた事。
それを、今更正面から聞かされる意味が、分からない。
勇者「『魔王』の力で、七日間だけこの世界に留まる事ができる。……そして、今日が七日目だ」
堕女神「……え…?」
魔王、というのが何を指すのかは即座には分からない。
だが、後半部分は分かった。
彼の言葉を正しく解釈すると、そうなる。
堕女神「……嘘、ですよね?また私をからかっているのでしょう?」
正面から、勇者の顔を見据える。
彼女が口元をへらへらと綻ばせているのは、言葉通りに受け止めたくない気持ちの顕れか。
対して、勇者は口を引き結び、押し黙る。
その目は険しく、嘘をついていない。
勇者「…俺は今日の夜、この世界を去る。……二度とここへは戻れない」
堕女神「…冗談はやめてください。面白くありませんよ」
359 : ◆1UOAiS.xYWtC :2011/12/13(火) 05:23:09.59 ID:3MnLayldo
冗談であればいいのに。
彼は、そう思った。
どうか冗談であってくれ。
彼女は、そう願った。
勇者「……今日が最後なんだ。……後は、前と同じ『王』の精神が戻る」
堕女神「……嘘」
勇者「………」
堕女神「『嘘だ』と言ってください!」
取り乱し、叫ぶ。
声の大きさに、近くにいた使用人の一人が思わず振り返る。
勇者「俺も、そう言いたいさ」
苦々しげではない。
変わらぬ決意を湛えた、『男』の顔。
認めたくない。
その一念が彼女の心を染める。
心臓がぎりぎりと締め付けられ、呼吸するごとに取り込まれる空気が、苦い。
いつまで待っても、彼は表情を崩して笑ってくれない。
口の中に苦味が満ちて、それが鼻と口の奥をつんとさせ、更に上へと昇ってくる。
360 : ◆1UOAiS.xYWtC :2011/12/13(火) 05:49:09.67 ID:3MnLayldo
いつまで経っても表情が変わらない彼の姿が、歪んだ。
にわかに鼻が詰まり、思う通りに空気を取り込んでくれない。
瞼が熱く、段々と、眼前の彼の姿が更に歪む。
勇者「………ごめん、な」
耐え切れずに放った言葉を引き金に、涙が溢れ出した。
頬を滝のように伝う涙が、石畳に染みを作る。
しゃくり上げると、つられて洟が垂れ、呼吸を著しく阻害された。
声を激しく上げる事は無い。
それでも、普段の彼女を知る者には想像すらできない、取り乱した泣き顔。
何万年もの年月を生きた彼女を、ここまで動揺させる言葉があるのか。
かつて彼女を崇めていた民も、思わなかっただろう。
堕女神「……うっ…っく……うぅ……」
声を出さないように、洟をすすりながら泣く彼女に、勇者が近づく。
勇者「……ごめん」
彼女の頭を優しく引き寄せ、胸へと抱く。
暖かさと、勇者の匂いに包まれ、彼女が顔を埋めて泣き濡れる。
じわりと染み込む彼女の涙を皮膚で感じた。
こんなにも、熱いのか。
自分との別れを、こんなにも哀しむものなのか。
362 : ◆1UOAiS.xYWtC :2011/12/13(火) 06:07:44.03 ID:3MnLayldo
勇者「……もっと、早く言えば良かったのかな」
縋り付いて泣く彼女の頭を撫で、左手で大きく開いた背中を抱き締め、擦りながら漏らす。
こんなにも取り乱す彼女を見るのは初めてだ。
恐らく、本来の『王』もそうだろう。
勇者「…作ってくれた料理は、本当に美味しかった。……この七日、楽しかったよ」
言葉が耳に届いているのか、分からない。
反応は返ってこず、シャツの生地をきゅっと掴まれるだけ。
再び、風が吹き抜ける。
その風は――何故か、冷たかった。
隙間風のように心に吹き込み、身を竦ませるように冷たかった。
勇者「こんなに、別れを惜しまれるのは初めてだな」
彼女の髪を撫でる。
絹糸をまとめたかのように、上等な油に手を浸したように、さらりと指の間を通り抜ける。
髪から漂う香りは、旅の途中で訪れた、季節を無視して様々な花の咲く天上の谷を思い出させた。
どれだけの間、そうしていたのか。
使用人達に幾度も視線を浴び、珍しいものを見るかのようだった。
勇者「落ち着いたか?」
しゃくり上げるような痙攣が治まり、呼吸も整いかけている。
既にシャツは涙と洟でじっとりと濡れている。
堕女神「……は、い。………お見苦しいところを……お見せ、しました」
勇者の胸元から離れ、赤く腫れぼったい瞼と鼻を見られないようにして、彼女が言う。
恥じ入るように隠して、何処から取り出したハンカチで鼻の下を拭う。
堕女神「昼を回ってしまいましたね。今すぐに、昼食の用意を致します」
勇者「ああ、いや。……昼を過ぎているし、軽いものでいい。……運んできてくれ、ここに」
堕女神「はい、畏まりました。…お茶を、淹れなおします」
勇者「いや、いい。お前が淹れてくれたんだからな」
再び席につき、とっくに冷めてしまった紅茶を啜る。
逡巡の後、彼女は遅い昼の準備を整えるため、足早に去って行った。
364 : ◆1UOAiS.xYWtC :2011/12/13(火) 06:56:27.14 ID:3MnLayldo
その後、彼女が運んできた細めのパスタを平らげ、再び午睡するかのように目を閉じ、風を感じる。
暮れなずむ空が青から橙へと色を変え始め、入り混じった薄紫の空が頭上に広がっていく。
日が落ちる前にと勇者は席を立ち、城内へと入る。
もう、空を見る事はできない。
後は、ただ夜へと変わっていくだけ。
勇者は一人ごちる。
これは―――まるで、『死刑囚』の心境だ、と。
二度と、空を見る事はできない。
二度と、舌を楽しませる料理を味わう事はできない。
二度と、人肌のぬくもりを感じる事はできない。
最後の日は、あまりにも切なく、救いなく終わりそうだ。
途中、サキュバスAを見かけた。
日が落ちて庭の手入れを終えたのか、大きな鋏を手にしていた。
彼女も勇者の存在に気がついたが、一礼を送り、すぐにその場を去ってしまった。
自室に戻る気にはなれず、当て所なく城内を彷徨う。
飾られた絵画を眺めながら廊下を歩き、思いついて謁見の間を覗き、まるで――最後に、目に焼き付けようとしているかのようだ。
385 : ◆1UOAiS.xYWtC :2011/12/14(水) 01:39:56.31 ID:NBSc6G9uo
そうして彼が向かったのは、玉座の間だった。
重厚なカーペットが敷かれ、壇上に金色の玉座が置かれた『王』の座する処。
一歩一歩、踏み締めながら向かう。
柔らかい感触がブーツの硬い底から伝わり、静かに音を立てながら歩いていく。
『彼女』の涙で濡れたシャツが、冷えて張り付く。
拭おうとも、着替えようとも思わなかった。
これは、『勇者』の身を心から案じてくれた、一柱の堕ちた女神が流してくれたもの。
『仲間』としてではなく、一人の『男』に対して別れを惜しんでくれた証。
ずっと塞がらない穴があった。
いつになっても隙間風が吹き込み、虚しく霜を降ろす心の一角。
そこに、何かがはまったような気がした。
傷が塞がった心は、もう寒くない。
玉座の壇前に立ち、しばし、目を閉じる。
今この瞬間は自らの座なのだが、それでも経験から染み付いた、心が引き締まる感覚。
しゅるり、と剣を抜く。
幾度と無く繰り返された抜剣の仕草は、今に至っても錆び付いていない。
刀身は未だ輝いていた。
白銀の刀身に、暁のように赤い光が不規則に射し込める。
それは、今この瞬間にも、勇者が『勇者』であり続けていることの証明でもあった。
386 : ◆1UOAiS.xYWtC :2011/12/14(水) 02:05:21.99 ID:NBSc6G9uo
切っ先を、眼前の玉座へゆっくりと向ける。
まるで、敵にそうするかのように。
眼光は鋭く前を向き、切っ先を通して玉座に殺気を放っているかに見えた。
勇者「……『お前』は生まれない。絶対にな」
そうして、数分後。
ゆっくりと剣を下ろして、鞘へと納める。
しばらく、玉座を見つめた後に踵を返し、背後の扉へと向かう。
城内を回るうちに、日は既に沈んでしまったようだ。
遅い昼食も歩き回るうちに消化され、胃が窄まるような感覚を覚えた。
玉座の間の扉を開け、再び廊下に出る。
日が落ち、冷えて引き締まった空気が身に沁みる。
空気は冷たい。
だが、『寒く』はない。
自らを動かす機関の収まった左胸へ手を当て、ゆっくり、城内の散策を再開した。
387 : ◆1UOAiS.xYWtC :2011/12/14(水) 02:25:24.79 ID:NBSc6G9uo
厨房で、彼女は一人晩餐の準備を進めていた。
黙々、というよりは我武者羅に。
幽鬼のように、感情が薄い表情で。
感情を少しでも出せば、崩れて涙に化けてしまいそうだから。
メインの肉を切ろうと、ナイフに手を伸ばす。
良質なヒレ肉の塊に刃を当てると、まるで布を裁つような音と手応えで容易く両断された。
感情を動かすまいと務めるが、あまりにも、真実は重い。
覚悟はしていた。
何かの変化が王に起こっていた、と。
その変化も、いつかは消えると。
それが、まさか――今日、なんて。
サキュバスA「……お邪魔だったかしら?」
入り口から声が聞こえた。
目を向けるまでも無く、その正体は分かった。
邪険にするつもりは無いにせよ、見られたくはない。
何とか、孤独を保とうと唇を動かす。
堕女神「…いえ。ですが……一人に、していただけないでしょうか」
388 : ◆1UOAiS.xYWtC :2011/12/14(水) 02:45:04.17 ID:NBSc6G9uo
サキュバスA「…刃物を手にして思いつめた顔の女を、一人になんてできませんわ」
頬を緩め、茶化しながら厨房へと入る。
邪魔になりそうな翼を一時的に隠し、調理台の隙間を縫って堕女神に近づく。
サキュバスA「その様子では、陛下の告白を聞いたようですわね」
図星を突かれ、身を震わせる。
刻んだハーブを肉に振り掛けていて、思わず手元が狂いそうになった。
堕女神「貴女も、聞いたのですか?」
サキュバスA「ええ。昨日の晩に」
堕女神「何故、私には今日になっていきなり…?」
サキュバスA「……心配しなくても。陛下は、貴女の事をきちんと想っていますわ」
堕女神「なら、どうして……」
サキュバスA「それは、陛下……いえ、『あの人』に直接聞いた方がよろしいかと」
389 : ◆1UOAiS.xYWtC :2011/12/14(水) 03:13:49.09 ID:NBSc6G9uo
堕女神「……」
サキュバスA「……最後の夜は、貴女とともに過ごしたいと、あの方は願いましたわね」
手を止め、堕女神は彼女の方へ目を向けた。
メインの肉料理の仕込みは終わり、後は焼き上げるのみとなっていた。
堕女神「そう……なります」
サキュバスA「あの方に取ってではなく、貴女にとっても、あの方と過ごせる最後の夜。……思い残さぬように」
堕女神「……はい」
サキュバスA「嗚呼、それにしても妬けてしまいますわ。……私達でも、女王でもなく、貴女を選ぶなんて」
大げさに謡うように節回しながら、くるりと背を向ける。
そのまま、厨房から出ようと歩を進めていく。
堕女神「………泣いて、いるのですか?」
サキュバスA「…まさか。貴女とも、あの子とも違いますもの」
堕女神「…そう、ですか」
サキュバスA「さて。晩餐の準備が整ったと知らせて参ります。……どうか、悔いを残さぬよう」
堕女神「はい。……よろしくお願いいたします」
390 : ◆1UOAiS.xYWtC :2011/12/14(水) 03:36:28.19 ID:NBSc6G9uo
城内を一回りした勇者は、いつの間にか、食堂近くの廊下へと戻ってきていた。
ここにいれば誰かが見つけてくれるだろう、と思ったのもある。
もう一つは――俗がすぎるが、併設された厨房からの、夕餉の香りに引き寄せられた。
何気なく、飾られた銅像を見ていた。
人間の女が、男の上に跨る姿勢で行為に耽っている像だ。
上の女は喜悦に顔をゆがめているのに対し、男は、或いは必死に止めようとしているかのようだ。
サキュバスA「……それは、原初の淫魔。『リリス』の像ですわ」
真後ろから声をかけられる。
距離が近いが、最終日ともなれば慣れたものだ。
勇者「リリス?」
サキュバスA「我々の祖です。彼女は快楽を求めるあまり、人類最初の男に拒絶され、楽園を出でて自らの国を作りました」
勇者「……で?」
サキュバスA「彼女の子供達は魔界へと追放され、人間の精を吸い取る魔族として恐れられるようになりました」
勇者「…それが、お前達か」
サキュバスA「はい。……あ、陛下。晩餐の準備が整っておりますので、食堂へどうぞ」
勇者「分かった。……もう少し早く言ったらどうだ」
391 : ◆1UOAiS.xYWtC :2011/12/14(水) 04:10:58.14 ID:NBSc6G9uo
大食堂へと続く目の前の扉を開けようとした。
手を扉へ伸ばした瞬間、止まる。
勇者「……なぁ」
サキュバスA「はい?」
呼び止められ、その場で返事をして彼に体を向ける。
いつもと同じく、挑むような眼差しに、飄々とした物腰。
それでも――彼には、伝わるものがあった。
勇者「……ありがとう」
体を捻り、じっと、彼女の顔を見つめる。
目が僅かに赤く、纏う空気も僅かに沈んでいる。
堕女神は分かりやすく取り乱した。
サキュバスBも同じくそうするだろう。
だが、彼女は?
勇者「…忘れない。お前のおかげで、俺は最期まで『勇者』でいられそうだ」
それだけ言って、彼は大食堂へと入っていく。
彼が最後の晩餐へと消えた後、彼女は――悲しげに唇を震わせて、それでも微笑みながら、部屋へと帰った。
392 : ◆1UOAiS.xYWtC :2011/12/14(水) 04:54:08.58 ID:NBSc6G9uo
彼が、一人ではあまりにも大きな卓につくと、すぐに前菜が運ばれた。
茸を用いた固形の蒸し物に、野菜を添えられた皿だ。
一口運ぶと、口の中に芳醇な香りが広がり、それによって食欲が更に増進された。
物足りない量のそれを片付けると、次はスープ。
朝に出たものとは味付けが違っている。
よく煮込まれた玉葱と鶏骨のブイヨンが香り、メインに向けて更に食欲が増す。
メインの肉料理。
両面を良く焼かれているが、中はレア気味に、切ってみればグラデーションが目に楽しい。
口に運べば、肉汁と酸味を持つハーブの香りが広がり、そして非常に柔らかい。
飲み込むのが勿体無いと思えるほどに、勇者は何度も長引かせるようにそれを味わった。
余計な脂の雑味は無く、ただ、肉の持つ旨味と最大限まで引き出している、単純だが嗜好の調理。
そして、最後。
少なくとも人界では希少な、チョコレートを用いた焼き菓子が運ばれる。
フォークで割ってみれば、まるでパイ生地のように表面がさくりと割れた。
内部には瑞々しい野苺に似た果物が仕込まれ、ほろ苦いチョコレートと絶妙に絡み合う。
最後にして至高の晩餐を終えた後、茶が淹れられた。
堕女神自ら、勇者の傍らで。
394 : ◆1UOAiS.xYWtC :2011/12/14(水) 05:20:50.52 ID:NBSc6G9uo
勇者「…ありがとう。忘れられない味だったよ」
ティーカップを傾け、礼を述べる。
熱気を伴った香りが口内に満ちて、残った風味をリセットする。
堕女神「…恐れ入ります。……陛下」
勇者「何だ?」
堕女神「……今日は、少し早めにお部屋に伺ってよろしいでしょうか?」
勇者「…構わないが、それはまたどうして」
堕女神「あなたは、今日を最後にこの世界から去るのでしょう。……少しでも、共にいたいのです」
勇者「……ああ、分かったよ。待ってる」
野暮な事を訊いてしまった、と。
若干の反省とともに、茶を啜る。
最後の一口を飲み終え、席を立つ。
まっすぐに自室へと戻り、最後の夜を過ごすために。
それ以降、彼女が部屋に訪れるまで、口を開く事は無かった。
395 : ◆1UOAiS.xYWtC :2011/12/14(水) 05:32:33.52 ID:NBSc6G9uo
心地よい満腹感を得て、自室のベッドへ大の字に寝る。
剣はエンドテーブルへ立てかけ、ズボンのベルトも緩め、楽な姿に。
勇者「…魔王。待っていろ。……俺は、お前に屈する事は無い」
天に手を伸ばし、ぎゅっと拳を握って呟く。
見てはいるだろうが、『魔王』からの返答は無い。
だが、聞こえていればいい。
震えていればいい。
勇者は、既に――対決に向け、心を締め直していた。
暫くして、眠気が欠片ほど舞い降りた頃。
毎朝聞かされる、規則正しいノックの音が転がった。
いつものように、入室を促す。
――彼女が、入ってきた。
普段のドレスの上に、黒地に金糸で刺繍されたショールを羽織っている。
勇者「……早い、な」
堕女神「申し訳ありません」
勇者「…いいんだ。……こちらへ」
434 : ◆1UOAiS.xYWtC :2011/12/15(木) 03:03:44.43 ID:59deYyZzo
彼女が、近づく。
上体を起こしながらベッドの上で待つ勇者へ。
縁に腰掛け、靴を脱ぐ。
踵が高くサンダルにも似て露出度の高い、勇者の世界では見かけないタイプの靴だ。
片足、もう片足と順番に脱ぎ去ると、待たせた者の方へ体を向けなおす。
四つん這いに、近づいていく。
二人分の体重をかけられたベッドが軋み、ぎしぎしと音を立てる。
ランプの灯に照らされた彼女の影が、室内を彩った。
そのまま、止まらず――彼の胸元へ、体を預ける。
しな垂れかかった彼女の体を受け止めると、ゆっくりと体を倒し、横になった。
勇者「…もう、泣かないのか?」
返答は無い。
彼女はただ静かに、彼の胸に顔を押し付け、匂いと、温もりを感じていた。
ひたすら、記憶に残そうとするかのように。
細く、長い息遣いが妙なくすぐったさを伝える。
堕女神「………忘れられない夜を、下さいませ」
顔を胸に押し付け、きゅっとシャツの裾を握ったままで呟く。
まるで薄いガラスのように、儚く、透き通った声で。
顔は、見えない。
見えないから、逆に――彼女の心が、伝わった。
魔王「世界の半分はやらぬが、淫魔の国をくれてやろう」
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