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二十歳になった記念に人生語りさせてくれ
[8] -25 -50 

1: 1:2020/2/21(金) 01:07:37 ID:0UY88oZulo
スレタイ通り。
今年二十歳を迎えた>>1が酒を飲みながらひたすら今までの人生を振り返るスレ。

山もなく、オチもなく、意味もなく。
いいとも悪いとも言えない>>1の人生を淡々と書いていきます。

書きだめしてないし長いので、何日かかけながら書いていきます。
あと、これから書く話は全て>>1の主観なので、真実とは異なる描写があるかもしれないです。

それでもよろしければ、自分語りにお付き合いくださいませ。


6: 1:2020/2/21(金) 22:47:52 ID:0UY88oZulo
>>5
ありがとうございます。まったりと書いていきたいと思います。

好きなお酒はビール(特にプレミアムモ○ツ)
だけどハイボール2本買ったので、今日もハイボール飲みながら書きます。


それは置いといて、父と母の話。

 私は端から見てかなりのファザコンらしい。確かに、母と父のどちらが好きかと聞かれれば、たぶん父と答えると思う。
 反抗期あるあるでは「お父さんの洗濯物と一緒に洗わないで」と娘が言う科白があるけど、私はそんなこと一度も思ったことはない。反抗期もなかった気がする。
 私にとって父は理想の男だった。彫りの深く鼻の高い、整った顔立ちをしている。背は平均より少し低めだけど、それが悪いとは思ったことはない。
 父は勉強が好きで、休日は様々な本を読んでいた。心理学、哲学、数学、論理学、語学。特に語学を嗜むのが好きだったようで、家には沢山の言語の辞書があった。父の運転する車では大抵、N○Kの語学学習ラジオがかかっていた。静かな車の中で、父がラジオの音声を復唱する時の声が好きだった。
 父は豊富な知識を持っていて、私の疑問には何でも答えてくれた。私が大きくなるにつれ、様々な話題で話し合うことが多くなった。家族の会話というよりも、大学の教授と先生みたいな関係だった。
 私は沢山のことを知っている父に憧れ、大きくなったら父のような人になりたいと思った。父は私にとって理想だった。唯一の欠点は、コミュ障だったことくらいだろう。

 私は子供の頃、そして今も「どうして父は母と結婚したのだろう」と疑問に思った。
 母ははっきり言って、口が悪い。部屋の掃除ができない。
顔を目当てにするほど綺麗な顔立ちはしていないし、父の話題についていく知識を持っているわけでもない。それに精神病を患っている。
 子供の頃は、「きっと私にはわからない母の魅力を知っているのだろう」と思った。大きくなってからは「父も金目当てで結婚したのだろうか」と不安になった。

 何はともあれ、そんな父と母の元に姉と私は生まれた。
 姉は父の顔立ちと頭脳を受け継ぎ、母の社交的な性格を受け継いだ。
 私は父のコミュ障な性格と、母の面倒くさがりな性格を受け継いだ。勉強は人並みだが、本当の意味での頭はよくないタイプだった。顔は可もなく不可もない。
7: 1:2020/2/21(金) 23:18:49 ID:0UY88oZulo

 私は子供の頃、とても体が弱かった。風邪をこじらせるタイプで、例え小さな風邪でも1週間長引いた。喘息も持っていて、何度か入院したこともあった。(姉は元気だったので、体が弱い原因は部屋のせいではないはずだ)
 家族はそんな私の世話を懸命にしてくれた。ちょっと熱があるだけで母は仕事を休んで私のそばにいてくれた。特製のおかゆを作ってくれた。夜に熱を出せば、父が車で夜間病院に連れていってくれた。
 両親は過保護だった。私が頭があまり良くなかったからだ。どれくらい馬鹿だったかというと、自分の体調の悪さがわからなかった。熱が40度近く出ても「なんで今日は体が動かないんだろう」と呑気に考えては、頻繁にぶっ倒れていた。
 小学生の頃は体調不良に気がつかずに体育の授業に出たこともあった。その日一緒に授業を受けた友達が「体が怠いから保健室に行く」と言ったので私も一緒についていったら、保健室の先生が私の体調不良に気がついて、結局早退したことがあった。そのくらい、私はあまり頭がよくなかった。自分の体や心のことを言語化するのが苦手な子供だった。

 病弱な私は、保育園も度々休んだ。行ったとしても外で遊ぶことは少なかった。
 1つ、覚えていることがある。
 冬の寒い日、私は保育園の中で遊んでいた。1人だった。
 外では同い年の子供が元気に遊び回っている。私も遊びに加わろうとしたら先生に「あなたはダメ」と止められた。
 電気の消された暗い部屋に入ってくる太陽の光が眩しかった。子供のはしゃぐ声が楽しそうに聞こえた。
 私は部屋で1人だった。先生もいなかった。
 私は馬鹿だったから、部屋に沢山置いてある玩具の使い方を知らなかった。だからずっと、部屋の片隅でおままごとのスプーンに映った自分の顔を見ていた。
 1人でいることを寂しいと思ったことはなかった。元々家でも1人でいることが好きだったし、1人でいることが当たり前だった。
 だけど、こうして今も昔のことを覚えているということは、不満に思うことはあったのかもしれない。ただ、当時私が何を思ってひたすらスプーンを見つめていたかは思い出せない。

 父から受け継いだコミュ障と、病弱だったせいで周囲に適応できなかった結果、私は見事なぼっちに成長を遂げた。
 保育園から高校生まで、エスカレーターのエリートぼっち。
 本当は遊ぶ人もごく僅かにいたし、一緒に行動する子もいた。だけどそれが、一般の人が言う「友達」なのかはわからない。私は未だに、「友達」の定義がわからない。このことについては、後で詳しく書きたいと思う。
8: 1:2020/2/21(金) 23:46:34 ID:0UY88oZulo
字が多過ぎて読み辛いな。申し訳ない。


次に、母から受け継いだ面倒くさがりな性格(というか障害?)の話。

 私はたぶんADHD、もしくはADDなのだと思う。(この障害については説明を省かせてもらいます)。
 とにかく物事を先延ばしにしたがる。頭の中が常にとっ散らかっていて、そんな頭の中を反映しているかのように、鞄の中や部屋が汚かった。
 掃除という言葉の意味は理解していた。祖母がしょっちゅう母に「掃除をしろ」と叱っては喧嘩をしていたのを聞いているし、学校では掃除の時間もあった。
 学校の掃除はできた。だけど自分の部屋の掃除は出来なかった。掃除の仕方は知っているけれど、それが本当に必要なものなのか理解できなかった。家はいつも足の踏み場がないほど汚かったけれど、そのことに不便を感じたことはなかった。

 問題は掃除よりも、整理整頓だった。鞄の中身を整理するのが極端に下手くそだった。
 ランドセルはいつも物が入っている。連絡帳に、筆箱に、教科書、プリントを入れるファイル。それから何故か、その日の授業に関係ない教科書を入れていた。
 学校から貰ったプリントはファイルに入れるのが普通なのだろう。だけど私はそれができなかった。脳味噌の容量に余裕がある時は、ファイルに入れることができたけど、やることが沢山ある時は、ファイルに入れずに引き出しやランドセルにプリントを突っ込んでいた。
 すると、しばらくして引き出しやランドセルからぐしゃぐしゃになったプリントが出てきた。テストの答案用紙ならまだ良い。だけど、親に渡さなければならない重要な書類の時は、もちろん親に叱られた。
「ちゃんとファイルに入れなさい」と言われた。「なんでそんなこともできないのか」と怒鳴られた。私はその場では「わかった。今度からちゃんとする」と言ったけど、実行できた試しがなかった。翌日にはまた、引き出しからぐちゃぐちゃのプリントが出てきた。我ながらポンコツすぎる性格だった。
 そのうち、母に叱られるのが怖くなって嘘をつくようになった。母から「あのプリント貰ってない?」と聞かれても「わからない」と答えるようになった。給食の集金袋が徴収日ギリギリになって出てきた時は、自分のお小遣いからお金を出すようになった。

 授業中はいつも、授業を聞かずに考えことをしていた。もしくは教科書の絵をずっと見つめていた。もちろんテストの点数はめちゃくちゃだった。
勉強することを覚えたのは、中学に上がってからのことだった。
9: 1:2020/2/22(土) 00:10:51 ID:0UY88oZulo
書きたいことが思ったより多すぎて、何から書いたら良いかわからない。ので、思うがままに書くことにするよ。


習い事の話。

 母は、私たち姉妹に様々な習い事をさせた。
 ピアノ、習字、水泳、ダンス、歌。
 毎日の殆どの時間が、学校と習い事に費やされた。でも私の周りも沢山習い事をやっている人が多かったので、これは普通かもしれない。
 週に一度のピアノの稽古のために、毎日家のピアノでレッスンをした。水泳とダンスで土日が潰れた。
 個人的にピアノと歌はやっていてよかったと思う。楽譜が読めるのは楽しいし、私も姉も絶対音感になった。姉は音楽が好きで様々なバンドのライブに行くようになったし、自らもベースを弾くようになった。私は自作の歌を歌うのが好きになった。
10: 1:2020/2/22(土) 00:34:17 ID:0UY88oZulo

金の話。

 習い事をする時に欠かせないのはお金だった。
 月謝も必要だし、ピアノは度々調律に出さなければならない。ダンスや歌やピアノは発表会があり、そのための衣装代や遠征費も必要になってくる。
 (詳しくは書けないけど諸々の事情により)私の家にはお金があった。そして遺産にかかる税金の関係上、祖母が存命のうちに、祖母や母は私たち姉妹の教育にお金を使おうとした。

 母は「お金」が口癖だった。
 私や姉が失態を犯す度に、母は言った。
「今までどれだけお金をかけてきたと思っているんだ」
「今回の発表会にも、かなりの費用をかけている」
「祖母に申し訳ないと思わないのか」
 母は暗に、「それなりのお金をかけているのだから、相応の結果を出せ」と言っていたのだろう。
 しかし申し訳ないことに、姉は習い事を殆ど辞めてしまったし、私はあまり結果を出すことは出来なかった。
 ピアノは下手くそだし、字は未だに汚い。昔は上手だと思っていた歌も、今聞き返せば姦しいだけだ。
 泳ぐことはできるけど、学校の水泳の授業で習っただけの人と同じくらいのことしかできない。(でも人並みにできるのは良いことかもしれない。水泳を習っていなかったら、きっと水に浸かることすらできなかった)

 母はいつもお金の話をしていたから、お金が余程好きなのだと私は思った。
 だから私は母の誕生日に、貯金箱からお金を崩して、新聞のチラシで特製の袋を3つ作り、3人の大人にプレゼントした。母にだけ渡すのは平等精神に欠けるので、大人全員に渡すのが良いと思った。お金は5円と10えんと100円を入れ、外からは中身がわからないようにした。どの金額が誰に当たるかわからないサプライズ要素。
……勉強はできないのに、妙なところで気を回すのが子供の頃の私だった。


 中学生の時、「二分の一成人式」とかいう良く分からない学校行事のために、感謝の手紙を書かされる羽目になった。
 この頃の私は、以前より少しだけ知能が上がり、その分捻くれた子供になっていた。
「お父さん、お母さんへ」
 ここまで書いて、私は何を書こうか悩んだ。
 親に1番感謝していることはなんだろう。
 そう思って悩んで、最初に鉛筆で
「こんな私のために、今まで沢山のお金をかけていただきありがとうございました。さぞかし私は手も金もかかるクソ餓鬼だったことでしょう」
と書いた。
だけどすぐに「これじゃ、感謝の手紙じゃなくて母への挑戦状になってしまう」と思い、結局当たり障りのないことを書いた。
 私の手紙を受け取り、父と母は喜んでいた。
 きっと母はその手紙を大切に保管しているだろう。
 私は手紙の内容を1文字も覚えていない。
11: 1:2020/2/22(土) 00:38:48 ID:0UY88oZulo
お酒が尽きたので、今日は寝ます。
何かおすすめのお酒があれば教えてください。

ここ最近色々なお酒を試してます。
酎ハイは物足りないし、バーボンはきつい。ワインはあまり私の舌には合いませんでした。
やっぱりビールが一番美味しいなあ。
12: 1:2020/2/22(土) 22:53:39 ID:0UY88oZulo
見てる人いるかわからないけど、今日も淡々と書いていきます。
今日はお酒がなかったので自販機で買ったココア。
そういえば誰かが、「ペットボトルのホット飲料はプラスチックが溶け出してるから健康に悪い」って言ってたけど、実際はどうなんだろう。


姉の話。

 私には同い年の姉がいる。姉は私と違って頭がよく、そして社交的だった。そして私のようなぼけっとした人間とも遊んでくれるような、とても良い姉だった。
 私にとって姉は唯一と言ってもいい、同い年の遊び相手で、私の憧れだった。殆ど信仰に近いレベルで尊敬していたと思う。
 もしくは、私は姉になりたかった。
 
 私は姉の真似をしたがった。
 姉の口調、姉の趣味、姉の服。
 姉がやっているゲームを私はやりたがった。
 姉が好きなものは、私も好きになった。

 多分、昔の私はかなり鬱陶しかったと思う。
 いつも姉のそばをうろついていたし、何でも真似をしまくっていたし。

 それでも幼い頃は一緒に遊んでいた。
 私と姉の違いが顕著になり始めた頃から、姉は私とあまり遊ばなくなったように思う。
 保育園で、学校で、姉は友達と遊び、私とは遊ばなくなった。
 コミュ障の私は友達が出来ずに、1人になった。

 たまに姉の友達に混じって遊ばせてもらったことがあるけど、馴染むことができなかった。
 疎外感というか、私1人だけ別の星からやってきた異星人みたいな気分だった。
13: 1:2020/2/22(土) 23:17:42 ID:0UY88oZulo
基本ネガティヴな性格なので、こんなふうに暗い話ばっかり書いてます。
楽しいことも色々あったはずなんだけど、はっきりと覚えているのは悲しいばかり。
といっても、私にとっての暗い話なので、他の人にとっては「それのどこが暗いの?」と思うかもしれません。



だいたい私の家族のことは書いたので、ここから時系列に沿って書いていこうと思う。
ただ、過去の私は今の私に比べてはるかに頭が悪かったので、あまり詳しいことは覚えていない。


【生まれてから保育園卒園くらいまで】

 
 とにかく私はいつもぼーっとしていた。馬鹿だった。
 どれだけ馬鹿だったかと言うと、寝転がりながら飲み物を飲んで、鼻に液体を逆流させていたぐらいだ。何度も懲りずにやっていた。行動による結果を予測することができなかった。そもそも、あの頃の私には過去や未来といった時系列が存在していなかった。
 しばしば、時間を数直線で表すことがあるけど、私の場合それがなく、「現在」という1つの点しか存在しなかった。
 向こう見ずと言うか無謀というか。ポジティブに捉えれば今を大事にするタイプ?

 何はともあれ、私はとにかく馬鹿だった。でも、文字の読み書きは普通にできていたし、お遊戯会でやる台本を覚えることはできていた。だから、知能においては問題はなかったんだと思う。
 問題は情緒面で、家族以外の人には関心を覚えなかった。自分の感情にも無頓着で、自己表現の方法が赤子の頃から一切発達していなかった。
 嫌なことがあった時は、嫌だと口でいうのではなく、大声で泣く。不快なことがあっても泣く。自分の思うようにことが進まないと泣く。
 周りからは我が儘な子供に見えていたと思う。でも実際あの頃の私はわがままだった。自分では処理しきれない感情を、周りの大人に処理してもらおうと躍起だった。
14: 1:2020/2/22(土) 23:48:57 ID:0UY88oZulo
 私は偏食で、好き嫌いが多かった。その一方で、自分の身なりや外観には関心がなかった。お洒落に興味がない。可愛いものに興味がない。服は親に全部任せていたし、髪の毛も親が結っていた。

 最近の子はどうか分からないけど、昔は結構「男の子らしい」「女の子らしい」といったものが沢山あった。私の母もそうだった。
 母は、私に可愛らしい服を着せた。髪を伸ばし、ツインテールにした。持ち歩く鞄や服はいつも赤色やピンク色だった。キャラクターものを持たせようとしていた。
 母が「可愛い」と私を褒めたので、「もしかしたら私は可愛いのかもしれない」と当時の私は思ったけど、やっぱりお洒落には興味がなかった。
 でも、「女の子らしく」という言葉の意味は知っていたので、漠然と「私は女の子なんだろうな」「私は女の子らしくしなければならないんだろうな」と思っていた。

 ある日、保育園でお遊戯会があった。
 子供たちは部屋の隅に集められた。
 ホワイトボードの前で先生が、「この中でやりたい役があったら手を上げてください」と、ボードを指差しながら言った。
 ボードには色々な役が書かれていた。
 与三兵衛、みたいな名前のいかにも江戸っぽい田舎者の名前に、なんか色んな種類の動物に、プリンセス、etc。それぞれの名前の下に、その役に割り当てられる人数が書かれていた。
 当時の私は、「なんで同じ名前の人が何人も必要なの?」とか「舞台が江戸なのか外国なのかよくわかんないな」とか思うことはあったけど、特に気に入った役は見つからなかった。
 そこで「女の子らしく」という言葉を思い出した。
 私は女の子なのだから、可愛らしい役をするべきなのだろう。なら、プリンセスが一番適している。
 
 先生が「プリンセス役やりたい人」と言うと、沢山の人が手を上げた。流石女の子に人気の役。あと、冗談なのか本気なのか、男子も手を上げていた。
 私も手を上げた。先生は指を差して人数を数えていた。
 
 ふと、私の前で先生の手が止まった。
 「ううん……>>1ちゃんはちょっと……」と言って、ホワイトボードに私と男子を除けた人数を書いた。
 そりゃないぜ、と今の私なら不満に思うけど、当時の私は、疑問にも思わなかった。不満に思うほど、その役に興味もなかった。
 結局私は、それから手を上げなかった。

 数日後、役が決まった。
 プリンセス役は3人。私は、プリンセスに抜擢された人を見て、なるほどと思った。
 3人は背が高いという共通点があった。私は背が低かった。だから、プリンセスに選ばれなかったんだと納得した。

 で、私はなんの役になったかというと、なんと主人公の役に選ばれた。与三兵衛。女の「お」の字もない役柄だった。
しかも、手を上げた覚えもない。

 こんなことを言ったら陰謀論みたいになってしまうけど、恐らくは母が根回ししたのだと思った。母は社交的で顔が広かったから、私を主人公にするのは造作もないことだと思った。

 私は結局、その主人公をやり切った。
 母はビデオカメラを回して嬉しそうにしていた。
 母が嬉しそうだったので私も嬉しかったが「全然女の子感ないけど、これで良いの?」とも思った。
15: 1:2020/2/23(日) 00:13:47 ID:0UY88oZulo
 家でも保育園でも、私はずっとボーッとしていた。
 
 保育園には沢山の遊びがあった。おままごと、絵本、折り紙、お手玉、あやとり。
 外には鉄棒やブランコ、縄跳び、ホッピングなどがあった。
 私はそれらに興味を持たなかった。
 ただ部屋でぼーっとしていた。
 ソファに座っていると、先生が話しかけてきた。本を持っていた。
「絵本読まない?面白いよ?」
 私は絵本を開いた。先生が隣で私を見ていた。私は絵本の挿絵をひたすら眺めていた。何が面白いのかわからなかった。
 でもひとつだけ印象に残っている本があった。
 「ブラックサンタクロースがやってくる」みたいな名前だったと思う。
 私は絵本の挿絵を見ながら、既視感を持っていた。
 どこかで聞いたことがある名前だな、と。
 芸人のブラマヨのことだった。

 外での遊びは苦手だった。
 冬には外に出してもらえなかったし、運動音痴のせいで、縄跳びすら飛べなかった。面白いと思わなかった。
 でも、ひとつだけ面白いのがあった。
 青色の、ザルみたいなおもちゃ。
 地面の砂をかけたら、小石と砂を分離してくれるやつ。
 私は、同い年の子がひたすら小石と砂を分けるのを、じっと見つめていた。

 ままごとは嫌いだった。
 みんな役に成り切ってワイワイはしゃいでいる。でも何が面白いのかわからなかった。
 私が部屋でぼーっとしてたら、誰かが私に木製のリンゴのおもちゃを投げつけてきた。頭に当たった。痛かったので、私はままごとがもっと嫌いになった。
 でも、好きなものもあった。
 木製のリンゴは2つの欠片で作られていて、真ん中をマジックテープで止められていた。玩具の包丁を割れ目にあてて力を入れると、マジックテープが音を立てて剥がれ、まるでリンゴを切ったみたいになった。
 その時の音が好きだった。
 おもちゃのイヤリングも好きだった。チェーンにショッキングピンクのハートの飾りがついた奴。耳に挟むと痛かった。その痛さが好きだった。

 ビデオの時間には、みんなでビデオを見た。つまらなかった。
 NHKの「牛方と山姥」を見た。部屋中子供の泣き声が響いて煩かった。

 同い年の男の子が「紙は美味しい」と言ったので、私も紙の端をかじってみた。不味かった。

 保育園には給食があった。
 プッチンプリンを上手く「プッチン」出来なくて不快だったのでプッチンプリンは嫌いだった。


 家に帰ると、私はひたすらノートに字を書いた。ノートは横に傍線をひいたもので、その線に沿って文字をひたすら埋めていくのが好きだった。
 特に自分の名前と、平仮名の「の」と「し」が好きだった。
 ノートを埋め尽くす「のしのしのしのしのしのし……」と言った文字の羅列。怖い。
16: 1:2020/2/23(日) 00:40:45 ID:0UY88oZulo

 こんな保育園時代だった。
 それなりに楽しく過ごしていたと思う。

 でも当時から、色々と私なりに悲しいことはあった気がする。
 私よりひとつ歳上の子が、私に面と向かって悪口を言った。なんと言っていたかは覚えていない。ただ、悲しかったのを覚えている。
 私は泣かなかった。頭の中は混乱していたしショックだったけど、感情をシャットアウトするみたいに意識がぼーっとしていた。ひたすら、悪口を言うその子の顔を見ていた。

 私は馬鹿だったから、母からよく叱られていた。そんな時に泣くと、母は「泣きたいのはこっちだ」と言って、本当に泣いていた。泣いて、父に慰められていた。
 私は泣きながら、父が母を慰めるのを見ていた。頭がぼーっとして、遠くから自分を眺めているような気分になった。
 泣いている私と、冷静に状況を見ている私が存在している。
 泣いている私は、ひたすら母に謝っていた。
 冷静な私は、ただ傍観していた。


 他の人もこういう夢を見ていたのか、私はわからない。
 当時の私はよく、家族に見捨てられる夢を見た。
 家族のみんなが私に笑顔で別れを告げて去っていった。私は、どうして見捨てられるのかわからなかった。
 
 たかが夢だが、その夢は妙に現実的なように思えた。
 いつか夢みたいに、家族が私を見捨てる日が来るのではないかと怖かった。

 両親は共働きだった。
 保育園に迎えに来るのは、いつも夜遅くだった。
 みんなが親と一緒に帰っていく中で、私は待っていた。
 外はすっかり暗くなっている。大きな部屋は節電のために、奥の方の電気が消されていた。暗闇が怖かった。私はずっと時計を見ていた。
 今日こそは、捨てられるのかもしれない。
 そう思いながら待って、母がやって来たら、嬉しくて、泣きながら母の胸に飛び込んだ。

 そんな保育園時代だった。



 さて、小学校に入るということで私は知能テストを受けることになった。
 机が四つ置かれて、私の横に親が座り、私の前に面接官が座る。そんな対面式の知能テストだった。

 結果は散々だった。
 親は面接官の人(だったか結果を伝える人だったか)に、「特別支援学級に入れた方が良いかもしれません」と言われたらしい。
 やっぱり私は馬鹿だった。
 母の話によれば、私は面接官の質問をただひたすら鸚鵡返ししていたようだった。
「君のお名前は?」と聞かれ「君のお名前は?」と聞き返した。「好きな食べ物は?」と聞かれ「好きな食べ物は?」と聞き返した。

 確かに小学校入学前でそれはまずいかもしれない。ということで、母は市の担当の人に「特別支援学級に行かせるべきか」と尋ねた。担当の人は「その必要は全然ないですよ。このくらい普通ですから」と言った。

 かくして私は、姉と同じ学校に、普通学級に入れられることになった。
17: 1:2020/2/23(日) 00:55:44 ID:0UY88oZulo
なんか、書き方が小説みたいになってきたな……
SS板で書いた方が良かったんだろうか。



続き。


 幼い頃の私は、他の人の言うことを聞かない人間だった。(今もその傾向はある)
 妙なところに拘りを持つ性格で、自分が納得しなければ言うことを聞こうとしなかった。

 例えば面接官の質問。
 「君のお名前は?」と聞かれ、多分私は質問の意味がわからなかったんだと思う。
 どうしてそんなことを聞かれなければならないのかわからなかった。私の好きな食べ物を知って、どうするつもりなのか。
 だから私は聞き返した。
 一応知能には問題なかったと担当の人は言っていた(実際、文字の読み書きはできるわけだし)けど、別の面で問題があるような気もする。
 家族とは普通に会話をしていた。多分、家族と会話をすることは、私にとって意味があることだったからだ。


 なんとか普通学級に入ることになり、そして保育園を卒園した。物事が一段落ついた。

 小学校に入る前に、私と姉は「入学のプレゼントに何か買ってあげるよ」と親に言われた。
 姉は、ゲーム(ポケモンだったかな?)を買った。私は欲しいものが特に思いつかなかったので、そこら辺の古本屋に置いてあるセットコミックを指さした。バトル漫画だった。


 姉がゲーマーとなり、私がリョナラーとなるきっかけの出来事だった。



幼稚園時代はこんな感じ。
書いてみれば、意外と覚えていることも多かったです。
明日は時間があれば、小学校時代のことも書いていきたい。

おやすみなさい。
18: 1:2020/2/24(月) 01:33:46 ID:0UY88oZulo
今日はプレモル。
ちょっとだけ書く。ここから更に、電波な内容になっていく。


 私は人よりも自我が芽生えるのが遅くて、中学生になった辺りでやっと、「物心つく」という感覚を得た感じ。
 それまでは欲望のままに動く野生動物みたいな感じだったので、あまりここでは書けないような奇行をたくさんしていた。

 元々友達を作るのが苦手なのに、そんな変人で友達ができるわけもなく……私はボッチライフを満喫していた。特にこれといって、自分に友達がいないことを疑問には思わなかった。興味がなかった。

 ある日、母が「あんたもちょっとは友達と遊びなさい」と言った。
 「友達を作りなさい」と。
 その時になって、友達というのが必要らしいことを知った。

 学校では毎月、月ごとの目標を決めていた。
 紙に「挨拶をする」「勉強を頑張る」などの目標を書き、その紙が教室の後ろに張り出される。
 私は母に「友達と遊べ」と言われた次の月に、紙に「友達を作る」と書いた。

 昼休み。
 友達を作ると書いたは良いものの、具体的な計画を立てていなかった私は、もちろん友達ができるわけがなかった。
 以前と変わらず、教室の自分の席で、ぼーっと座っている。
 担任の先生が、そんな私を見て、教室に残っていたクラスメイトの女子に「>>1ちゃんが、友達が作りたいらしいの。友達になってくれる?」と言った。
 その時は何も思わなかったけど、今思えば公開処刑、晒し上げみたいだ。先生はきっと善意で言ったんだろうけど。

 クラスメイトの女子が「え、やだ」みたいな顔で私を見ていた。私は「めっちゃ嫌そうな顔してんな」と思いながらその子を見返した。

 果たして、友達は出来なかった。

 家に帰ると母が「友達はできた?」と私に聞いた。
 出来てない、と言うと「なんで?」と聞き返された。
 そんなの、私が知りたい。
 「なんでだろう」と答えると、「明日は頑張るのよ」「もっと積極的に声をかけなさい」と言われた。
 結局、次の日も、その次の日も、友達は出来なかった。
 自分から声をかけたことが今までなく、話しかけようとしても声が出なかった。

 母に「友達はできた?」と聞かれる。
 当時の私にとって、その問いは「早く友達を作りなさい」という催促のように思えた。

 私は悩んだ。悩んで悩んで、どうしたら友達ができるか考えていたある日。
 夢を見た。
 夢の中で1人の少年が私に話しかけた。
 「俺はお前を殺しに来たんだ」と。
 私は夢の中で殺された。

 翌朝、私は夢の中の少年を「ナオくん」と名づけた。
 それから毎日、頭の中のナオくんと会話をした。
 ナオくんは私の友達になった。
19: 1:2020/2/25(火) 02:07:35 ID:0UY88oZulo

あまりに冗長なのでもっと短く書く


【小学生時代】

・友達が出来なすぎて脳内友達を作る(なお未だにいる模様)

・ダンスが得意だったものの、クラスメイトから虐め(にも満たない意地悪)を受け、嫌いになる

・ちょうどその頃姉がダンスの習い事を辞めるも、「自分も辞めたい」とは言い出せずにそれから10年以上続ける

・感覚過敏にも関わらずダンスのために髪を括らなければならず号泣

・姉がストレス発散にゲームで叫びまくるようになり、聴覚過敏のため発狂

・ストレス発散を漫画に求めた結果、リョナラーへと転身する


【中学時代】

・急激に知能が発達し、過去の自分の行動を思い出す度に発狂

・男子の友達にセクハラを受け、異性が嫌いになる
 人間不信悪化

・自分が変わり者であることに気づき、自ら変な行動を取ることでしかコミュニケーションが取れなくなる

・姉のように頭がよくなりたくて勉強したが、姉と同じ学校には入れず


【高校時代】

・バスで一時間のところにある高校へ通うも、人混みが苦手すぎて希死念慮に捉われ始める

・しかし、テストの結果が友達より良かったせいで嫌われ、学校に行きたくなくなる

・精神病院に行った結果、思春期の一過性の鬱と言われ薬を飲むも全く効果なし

・1週間学校を休んだ後、親の車で学校へと連行されるようになる
20: 1:2020/2/25(火) 02:15:29 ID:0UY88oZulo
【大学時代】

・一人暮らしを始めるも家事ができず、部屋の掃除もできない

・コミュ障&人間不信により人と喋れない

・知り合いの男性にセクハラを受け、人間不信悪化

・大学でできた友達が今までいた友達と全くタイプが違うため混乱する

・単位ボロボロ。興味がある講義しか受ける気力がないうえ、真面目に受けた講義もテストの時間を間違え落単

・あれ?私ポンコツ過ぎね?と気がつき、発達障害の検査を受ける決意を固めて1年が経つ←今ココ
21: 1:2020/2/25(火) 02:47:54 ID:0UY88oZulo
【歴代友達?】

・ナオくん
 空想の友達で、現実にはいない

・A
 私が覚えている限り最古の友達。
 私の後をとにかくついてくる。トイレであろうと昼休みであろうと。
 遊びの誘いや一緒に帰る誘いを断ると怒って「もう良い。>>1なんか友達じゃない」と言った翌日にまた話しかけてくる。
 中学生の頃知り合い伝手に「もう>>1のことは好きじゃなくなりました」と書かれた手紙を渡されて以来、付き合いはなくなる
 笑顔が可愛い。

・B
 メンヘラ。現時点でも付き合いがある子。
 とにかく家庭環境が悪く、隙あらば自分の不幸な話をしてくる。リストカット跡を見せてくる。服用している薬を見せてくる。
 私の話にはあまり興味がない様子で、気がつけば自分の話へと誘導する能力者。
 友達が多い。
 料理が上手で服も作れちゃう凄い子。
 顔が可愛い。

・C
 男の子。知的障害を持っている。
 私の後ろをずっとついてくる。私の真似をする。逃げると追いかけてくる。
 バスに乗った時に私の服の中に手を突っ込んで肌を撫で回してきたので、それ以来男が嫌いになる。
 弟が可愛い。

・D
 高校時代の友達。
 勝手に私の荷物を漁る。私の弁当から食べ物を取る。
 テストの点数が私の方がよかったという理由で怒られる。
 私の荷物を漁り精神薬を取り出し、「え、病気なのw」と言う。
 大学生になり関係を絶ったら、高校時代の共通の知り合いに連絡を取りまくり安否を確認されてしまった(これは私が悪いけど)
 コミュ強で友達がたくさんいる。
 何事にも一生懸命で、見ていて好感がもてる

・E
 大学の友達。
 遅刻癖がある。夜型人間。
 優しくて、色々なことに詳しくて、おすすめの本とか教えてくれる。
 私を束縛しない。

・F
 大学の友達。
 私が今まで会ってきた人で一番凄いと思った人。
 可愛くてコミュ力があって、沢山の人に好かれている。だけど何故か私と一緒にいることが多い。なんでだろ。
 人に対する気遣いを欠かさないのに、それでいて自分の意思を貫き通すことができる凄い人。
22: 1:2020/2/25(火) 03:20:57 ID:0UY88oZulo

以上。私の今までの人生はこんな感じです。

私としては結構大変で苦しい日々だったけど、それでも「悪い人生」と言えなかったのは、私には普通がわからないから。何が普通で何がおかしいのか私には分からない。

ここまで書いてきた出来事よりもずっと辛い日々を送ってきた人だって世の中には沢山いると思う。
特にBは親から身体的な虐待を受けてきた人で。他の友達も虐めを受けて不登校になったり、親に少し問題があったり、私よりも辛い経験をした人は沢山いる。

一方で私は両親も健在で、金銭的にも恵まれた家庭にいて。習い事もさせてもらって。
それなのに落ち込んでばかりで。こんなに恵まれた環境にいるのに不満ばかり言ってる。

高校生の時に病院で「一過性の鬱」と言われた時、少しだけショックを受けた。
一過性なら、どうして私は今までずっと辛い思いをしてきたんだろう。これまでの辛い思いはみんな経験してきたことで、私が死にたいと思ってるのは他の人にとっては当たり前のことで。それなら、私が今辛いと思ってるのは「甘え」で、もっと頑張らなければいけないんだろうか。
そんなことを思った。

ずっと私なりに努力してきたつもりだった。
親を怒らせたくなくて、習い事も勉強も頑張ったつもりだった。
だけど成果が出なければ「金が勿体ない」「なんでこんなこともできないのか」と怒られて。
成果が出たら、親は喜んでくれたけど他の人は喜ばなかった。
努力してもしなくても、結局は誰かから怒られる。
でも、これも普通のことなのかもしれない。

やっぱり普通がなんなのか、私にはわからない。


大学の時、知り合いの男の人が私の悩みを聞いてくれたことがあった。
その人は既婚者なんだけど、ちょうど奥さんと離婚のことで揉めていた。
私はその人の悩みを聞いて、その人は私の悩みを聞いてくれた。
私はその人に沢山のことを相談した。
「母に怒られるのが怖い」
「友達に怒られるのが怖い」
「どうして私はこんなに何もできないんだろう」

「母に言われた言葉がずっと頭から離れない」
小学生の頃に言われた言葉が頭から離れないままだった。
「あんたなんか産まなければよかった」と言われた。
車を運転中、母が怒りながら
「今私がここで事故を起こせば、あんたは死ぬんだよ。私は別に死んでも構わないけど、あんたはそれでいいの」と言われ、泣きながらとにかく誤ったことを思い出した。
でも、これも別に泣くようなことじゃなくて、普通にあることなのかもしれない。
23: 1:2020/2/25(火) 03:31:52 ID:0UY88oZulo

「母は朝ごはんを作ってくれたことがない」
私はその人に愚痴を言った。

母は朝起きることができなくて、父も仕事で忙しく朝ご飯を作れなかった。
保育園の頃にはもう、朝ごはんは食パンを一枚自分で焼くことが決まっていた。
その頃は、姉と一枚の食パンを分け合うのが細やかな楽しみだった。

その人は、愚痴を言う私にこう言った。

「あなたは、お母さんに朝ご飯を作ってもらいたかったんだね」

当たり前のことを言われたはずなのに、その時は目から鱗が落ちるような気分だった。
それから、とても嬉しかった。

その人は、ただ私の感情を受け止めてくれた。
私の愚痴に同調して「君のお母さんは酷い人だね」と言うのではなく、母に同調して「あなたのお母さんは体調が悪いのだから、朝ごはんが作れなくても仕方ない」と言うのではなく。
ただ、私の思いを受け止めてくれた。それが嬉しかった。

そうしたら、今まで母に抱いてきた不満や恨みが、「好きだからこその裏返し」であることに気がついた。
私は母が好きだった。本当に好きで、だからこそ怖かった。

私はファザコンではなく、本当はマザコンなのかもしれない。
そう思った。

私は「この人なら信頼してもいいかもしれない」
そう思った。

でも結局、私の相談に乗ってくれたのは、私の体目当てであることを知り、人間不信が更に強くなった。

だけどその人の言葉は今も私の心の中に残っている。
それだけ当時の私にとって、衝撃的な言葉だったのだと思う。
24: 1:2020/2/25(火) 04:02:24 ID:0UY88oZulo
この前、成人式があった。

私の晴れ着姿を見て、家族はみんな自分のことのように喜んでくれた。
祖母は本当に嬉しそうで「可愛い」「可愛い」と言ってくれた。
嬉しかった。
その日の夜、母が私の保育園自体のビデオを出してきて、見せてくれた。
そこに映っていたのは私の記憶通り、他の園児に混ざって1人でぼーっとしてるぼっちの私だったw

そのビデオを見ていると、昔のことを思い出した。
家族で一緒に旅行に行ったこと。一緒に動物園に行ったこと。梨狩りに行ったこと。映画を見に行ったこと。

こんなにも楽しい思い出が沢山あったはずなのに、なんで今まで忘れてたんだろう。そう思った。


そういえば、こんなこともあった。
毎年母と私で一緒に見に行っているライブがあった。
チケット代は「誕生日プレゼント」という建前だった。
一昨年、母に「今年もライブに行く?」と聞かれ「行かない」と答えると「どうして?」と聞かれ「誕生日に他に欲しいものができたから」と答えた。
すると母は「誕生日プレゼントじゃなくて、私の奢りだったとしてもいかない?」と言った。

その時、母がいつも祖母に「奢って」と言っていたことを思い出した。祖母がそれに嬉しそうに答えていたことも。

もしかすると、母にとってお金は、「愛情を示す手段」だったのかもしれない。
母は祖母にお金を恵んでもらうことで、コミュニケーションを取っていた。
そして私にも「奢る」という言葉を使って、一緒にライブに行くように誘った。
そういえば、昔からたくさんの習い事をさせ、私たち子供に多額の費用を使っていた。
私たちにお金をかけることが、母にとっての精一杯の愛情表現だったのかもしれない。
そう思うと、ちょっと悲しくなった。


終わり。


ここまで読んでくださった方(いるかなあ?)、ありがとうございます。
文章力がないので、読みにくかっただろうと思います。すみません。

これが私の今まで歩んできた20年(フェイクはあるけど)です。終わり。

今年20歳になり大人の仲間入りということで、色々なことをやっていきたいな。
もう一回ちゃんと病院に言って障害がないか、心に問題がないか検査したいし、心に抱えてる沢山のコンプレックスを解消したい。
それから学生のうちに、本を読みまくりたいと思う。
今まで人付き合いが少な過ぎて世間を知らないので、もっと色んなことを知りたい。そうしたら、もっと気が楽になれるかな、なんて思っている。


質問があればどうぞ。

あと、私から少しだけ質問。
・私の人生って普通?でしょうか?
・私は人付き合いが下手くそでしょうか?
・やっぱり私ってどこか変でしょうか。
・おすすめの本があったら教えてください。
25: 令和最初の名無しさん:2020/3/13(金) 17:20:09 ID:8Siz/EmjiU
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