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師匠シリーズ《続》
[8] -25 -50 

1: 1 ◆LaKVRye0d.:2017/1/24(火) 20:30:02 ID:1lmoPahM2s

ここでは、まとめの怖い系に掲載されている『師匠シリーズ』の続きの連載や、古い作品でも、抜けやpixivにしか掲載されていない等の理由でまとめられていない話を掲載して行きます

ウニさん・龍さん両氏の許可は得ています

★お願い★

(1)話の途中で感想等が挟まると非常に読み難くなるので、1話1話が終わる迄、書き込みはご遠慮下さい
(代わりに各話が終わる毎に【了】の表示をし、次の話を投下する迄、しばらく間を空けます)

(2)本文はageで書きますが、感想等の書き込みはsageでお願いします

それでは皆さん、ぞわぞわしつつ、深淵を覗いて深淵からも覗かれましょう!!





372: 館 ◆LaKVRye0d.:2017/3/18(土) 05:02:48 ID:/vcnLMBLkI

京子は自分の胸元を見下ろして、少し気を緩めたように微笑んだ。
「パパはマスターキーを使っていたけど、私はこっちのほうが好きなの」
「変わったやつだ」
笑ってやった。少しでも救われればいいと思って。
すると、京子は玄関口に立ったまま、鍵束を右手でチリンと鳴らして言った。
「マスターキー…… 本当の意味で、『支配者の鍵』と呼べるものはそんな即物的なものではないわ」
「なんだそれは」
「たとえば……」
京子は、目を閉じてゆっくりと言った。
「ひらけゴマ」
その瞬間、京子の背後、玄関の向こうの館のなかから、体に響くような音が聞こえてきた。
ガガコン……。
鈍く響く、重層的な金属音だった。まるで無数の扉の鍵が、いっせいに開いたような。
私は慄然として、耳に反響するその音の意味を考える。
京子は目を開き、私をまっすぐに見つめた。
「気をつけて帰ってね」
なんなんだ、こいつは。
今のは、祖父が作ったという仕掛けなのか。それとも……?
全身に鳥肌が立ったまま、私はその館を後にした。まるで逃げるように。
帰り道、京子の言っていた、星の配置が変わったという話のことを考えた。子どものころの荒唐無稽な記憶だと、笑い飛ばすのは簡単だ。ディティールが細かすぎるのが気持ち悪いが。
けれどそこには、あいつがあいつである、その根源を垣間見た気がする。
あいつは自分を異邦人だと言ったのだ。
1人なんだ。
そうか。
クラスで取り巻きたちに囲まれていても。誕生日会で、ハピバースデーと歌ってもらっていても。
そのことが、ストンと胸に落ちるようにわかった。
そして私は、彼女の部屋で、まっすぐに差し出された手のことを思った。私が握り返さなかった、あの手のひらのことを。

(完)


373: 1 ◆LaKVRye0d.:2017/3/18(土) 05:06:50 ID:uojtOBMxmY

今日の書き込みで最初2〜3回酉を忘れましたが、間違いなく本人です


赤(書籍版)、館(上・下)

【了】


374: 失踪 ◆LaKVRye0d.:2017/3/26(日) 00:25:01 ID:F.ceRSUuyA

『失踪』(書籍版)

双葉社『師匠シリーズ 師事』に載った分です。
テンプレ:商業目的でない限り、転載は自由にしていただいてかません。リンクじゃなくて、文字貼り付けでも可( ・ω・ )もぐー


375: 失踪 ◆LaKVRye0d.:2017/3/26(日) 00:26:54 ID:F.ceRSUuyA

師匠との話をこれから語っていくつもりだけれど、一晩で語り尽くせるものではない。長く、とても長くなるだろう。だから、先に一連の出来事の1つの結果である、師匠の失踪について書いておきたい。
かの聡明なシェヘラザートは、床をともにした女の首を夜明けに刎ねるという残酷な王に、美しく奇妙な物語を一夜一夜語り続けた。千夜を生き延びるため、続きはまた明日に、と添えて。
師匠との話は、そんな大それたものではないし、いつあなたが飽きてしまい、頁を閉じることでこのささやかな物語を終わりにしてしまうかもわからない。
そのとき、頁を閉じるあなたの手を止め、その耳を再び傾けさせるのは、この物語の向かう結末を知りたい、という渇望だろうか。
先に言ったように、彼の失踪は1つの結果に過ぎない。
本当に語りたいのは、彼がなにを愛し、なにに怒り、なにを夢想し、なにを嘆き、なにを笑い、なにに失望し、なにに焦がれ、なにに敗北したのか。そのすべてであり、それらを取り巻く人々のことなのだ。
この話は彼と出会った大学1回生の春から始まる。やがて舞台は追想の過去へと戻るはずだ。そしてその眩しく輝く時代の破滅と絶望を経て、時計の針は再び未来へと進み始めるだろう。
なんだか照れくさくなってきたのでこの辺にしておくけれど、1つ、追記したいことがある。
ここには、すべてではないけれど、幽霊やお化けにまつわる話がたくさん出てくる。
もし、あなたが夜寝る前に読んでしまい、どうしても怖くなってしまったなら、静かに目を閉じて欲しい。そしてある言葉を思い出して欲しいのだ――。


376: 失踪 ◆LaKVRye0d.:2017/3/26(日) 00:28:31 ID:F.ceRSUuyA




俺が大学3回生のとき、師匠はその大学の図書館司書の職についていた。
その年の夏ごろから師匠はかなり精神的に参っていて、よく「そこに女がいる!」などと言っては、なにもない空間に怯え、ビクビクしていた。
俺にはなにも感じられなかったが、師匠ほど霊感が強くないので見えないだけだと思って一緒にビビっていた。
秋のことだった。そのころ俺は師匠とはめったに会わなくなっていたが、あるときたまたま学食で一緒になって同じテーブルについた。
「後ろの席、何人見える?」

師匠が急にそんなことを言いだした。夜9時前で学食はガラガラ。後ろのテーブルにはだれも座っていなかった。
「なにか見えるんですか?」と訊くと、「いるだろう? 何人いる?」とガタガタ震えだした。
しかしなにも見えない。耳鳴りもないし、出るとき特有の悪寒もない。俺は困惑した。
俺は少し考えてから、「大丈夫です。なにもいませんよ」と言った。すると師匠は安心したような顔をして、「そうか。よかった」と言ったのだ。
そのとき、確信した。霊は後ろの席になどいない。師匠の頭に棲みついているのだと。
さっきの狼狽などなにもなかったかのように師匠は淡々と親子丼に箸を伸ばす。俺は、どうしようもない悲しい気持に襲われ、目の前の料理が喉を通りそうになかった。

その3日後に師匠は失踪した。職場である図書館になにも言わず、ただ辞職願いを残して。探すなという置手紙もあったそうだ。それを知っても俺は動けなかった。
自分でもなぜだったのかわからない。なぜだったのだろう。ふと思い返しても、探さない理由は思い浮かばない。
しかし、探し出していったいどうしようというか、それも思い浮かばなかった。結局、師弟関係はそのときもう終わっていたのだろう。
師匠の家庭は複雑だったらしく、叔母という人がアパートを整理しにきた。
凄く感じの悪い人で、親友だったと言ってもすぐ追い出された。普通、友人に失踪前の様子くらい訊くだろうに。結局アパートはあっという間に片付けられ、空になった。
そして予約でもしてあったのか、すぐに次の住人が入った。部屋から出てくるところを見たが、チャラついた格好の若者だった。師匠や俺の関わったようなものとは全く無縁の世界を生きているやつだろう。
そうして師匠のいた空間は、いつの間にか次々と別のもので埋まっていった。


377: 失踪 ◆LaKVRye0d.:2017/3/26(日) 00:29:51 ID:F.ceRSUuyA

俺が大学に入ったころ、所属していたサークルでまことしやかに流れていた噂がある。師匠に関する噂だ。
「あいつは人を殺してる」
冗談めかして先輩たちが言っていた。たぶん真実ではないかと思う。
師匠は酔うとよく口にしていたことがある。
「結局のところ、死体をどこに埋めるか。それがすべてだ」
自分に関する噂に悪乗りして、わざわざサービスをしていたのは明らかだったが、そんな話をするときの目がやたら怖かったのを覚えている。
師匠の車でめぐった数々の心霊スポットのことが思い出される。
とある山にある、皆殺しの家という名所に行ったとき、彼はこんなことを言っていた。
「不特定多数の人間が深夜、人目を忍んで行動する。そして怪奇な噂。怨恨でなければ、個人は特定できない」
聞いたときはただ気持ちが悪いだけで、なにを言っているのかよく分らなかった。しかしたぶん師匠は「恨みもなにもなく、ただ殺した人間」の死体をどこに埋めるのがいいか、という話をしていたのだ。
心霊スポットに埋めるのがいい。そううそぶく彼は、助手席に乗る俺を露骨に怖がらせようとしていた。
深夜そんな心霊スポットを巡る日々に、ドロドロとした疑念と畏怖を加えたのだ。実に悪趣味だ。だが、それさえある種の隠れ蓑だったような気がする。

以前、俺は師匠に連れられて、車で北に1時間以上かかる山間の町に行った。そこには、『もどり沼』とれる奇怪な場所があった。かつて天狗が空から落ちてきたという伝説があるのだそうだ。
やがて神社にまつられるようになった天狗のグロテスクな話を道みち聞かされて、俺は気分が悪くなった。『もどり沼』というのも、空から落ちてきた天狗にまつわる場所らしい。
「散々探してやっと見つけたんだよ」
深夜だった。車を降り、山に分け入って道なき道を進んだ。頼りない懐中電灯の明かりが照らし出す前方に、ぼんやりとした光が見えた気がした。ついで、水の生臭い匂いが漂ってくる。
「これが?」
沼だった。小さな沼が、人けのない山中に月の光を反射していた。
「そうだ。もどり沼だ。地元の人でも、もう知る人が少ないという曰くつきの場所だ。天狗を祀った神社が少し離れた場所にあるんだが、そこに由来と逸話が古文書で伝えられている」


378: 失踪 ◆LaKVRye0d.:2017/3/26(日) 00:31:39 ID:di6NFRnXyA




沼の底に、大昔天狗が落とした珠(たま)が眠っているという。
かつて美しい泉があったその土地は、漏れ出る珠の呪力で沼となり、瘴気に満ちた恐ろしい場所になってしまった。
村人も寄りつかなくなったその沼に、ある日、流行り病で妻に先立たれた男がやってきた。この世をはかなみ、あとを追って死のうと思ったのだ。
淵に来るだけで命を吸われるような禍々しい瘴気が充満する沼に、男は足を踏み入れようとする。その前に、妻の形見である髪の毛の房を沼へ投げ入れた。
するとどうだろう。沼の中央がぶすぶすと沸き立つように揺れ、赤子の悲鳴のような恐ろしい声が、どこからともなく聞こえてきた。男は驚き、そばにあった潅木の裏に身を隠した。
波立つ沼がやがて静かになったころ、平らかな水面にいつの間にか人の顔が浮かんでいた。妻の顔だった。そう気づいた男は水に飛び込み、妻を沼の中から引きずり出した。
天狗の落としたという珠の力であろう。死人となったはずの妻があの世から戻ったのだ。
だが、妻は男の呼びかけに応えなかった。姿かたちは妻そのものだったが、その中には魂が宿っていなかったのだった。やがてなにも言わぬまま、人の形をしたものはモロモロと崩れ、泥に還っていった。あとには髪の毛の房だけが残っていた。
あまりの恐ろしさに山を駆け下りて逃げ出した男は、死ぬことをやめた。そしていつしか新しい妻を娶ることになった。
その暮らしは、つつましいながらも満ち足りた日々だった。新しい妻は器量こそ悪かったが、よく働き、男を立て、舅、姑を敬う、よくできた女だった。
数年の月日が経ったある日のこと、男は新しい妻を誘ってあの沼にやって来た。そして、拾って隠していた亡き妻の髪の毛の房を沼に投げ入れ、ついで新しい妻を沼に突き落とした。
泳ぎの達者であったはずの新しい妻は、もがきながら沼の底へ沈んでいった。まるでだれかに足を掴まれ、引きずり込まれているかのようだった。いつかのように沼は沸き立って揺れ惑い、やがて静かになると昔の妻の顔が水面に現れた。
男が沼から引っ張り出すと、妻は呆然としていたが、しばらくすると呼びかけに応え始めた。確かに妻だった。死んだはずの。今度こそ死人があの世から戻ったのだ。
男は妻の身体を抱き、咽び泣いた。


379: 失踪 ◆LaKVRye0d.:2017/3/26(日) 00:33:51 ID:F.ceRSUuyA


「酷い話ですね」
俺の感想に師匠は頷かなかった。かわりに、「ただの古い言い伝えだ」と呟いた。そうして、今でも腐ったような臭気を放つ沼にゆっくりと近づいていった。
「言い伝えにはまだ続きがある。男の話を伝え聞いたこの地方の庄屋が、若くして死んだ1人娘をあの世から呼び戻そうとして、同じことをしたんだそうだ。しかしうまくいかなかった。
娘の姿かたちをしたものは現れたが、魂が宿っていなかった。そしてあっという間に泥に還ってしまった。
女中を騙して沼に沈めたが、やはり同じだった。土地の代官もその話を聞いて同じことをした。息子を生き返らせようとして。やはり駄目だった。何人沼に沈めても。しかし、最初の男のほかにも、死人を蘇らせることに成功した者もいた」
師匠は沼の淵にしゃがみ込んで、淡々と語る。
「何が違ったんですか。死んだ人間を蘇らせるのに成功した人と、失敗した人で」
疑問を口にした俺に、師匠は薄ら笑いを浮かべ、「人の魂がどこから来るのかって話だ」と言った。そしてまともに答えないまま、沈黙した。
風でガサガサと木々が揺れる音があたりに渦巻いていた。俺は沼から離れた場所で立ち尽くしている。師匠は沼の淵にしゃがんだままちらりと振り返り、「来ないのか」と言った。
俺は首を左右に振り、あとずさる。いったいなにを恐れたのだろう。死人が蘇るなどというこんな与太話を?
「さて、帰るか」
立ち上がり、師匠は変に明るい声を出した。しかしその眼の奥に渦巻く暗い光を見た気がして、俺はもう一度あとずさった。
師匠の車のトランクを一度こっそり開けたことがある。しかし袋に詰まった土くれがあっただけで、なにも面白いものは隠していなかった。そのときのことをどうしても思い出してしまった。
 
師匠には恋人がいたが、俺が大学3回生になるときに県外で就職が決まり、去っていってしまった。カンのいい人で、そのころ狂いつつあった師匠から逃げたのかも知れなかった。
しかし、同じように卒業して去っていった先輩たちのなかで、不思議なことに彼女だけはその後、音信不通になってしまった。携帯電話も番号が変わってしまったのか、通じなくなった。師匠も連絡が取れないと言って心配していた。その心配が本心であればいいが、人の心の中は覗けない。
夜をさまよい、心霊スポットを、人の死の色濃い場所を巡り続けた彼は、いったいなにを求めていたのか。失踪した先には、求めるものがあったのだろうか。今はもうわからない。


380: 失踪 ◆LaKVRye0d.:2017/3/26(日) 00:35:23 ID:F.ceRSUuyA

師匠の忘れられない言葉がある。
俺が初めて本格的な心霊スポットに連れていかれ、怯えきっているときに師匠がこう言った。

『こんな暗闇のどこが怖いんだ。目をつぶってみろ。それがこの世で最も深い闇だ』
 
眠れない夜に、今でもその言葉を思い出す。


381: 幽霊物件 ◆LaKVRye0d.:2017/3/26(日) 00:38:26 ID:F.ceRSUuyA

『幽霊物件』

師匠から聞いた話だ。


大学2回生の春だった。
僕はバイト先の興信所である小川調査事務所のデスクに腰掛けて、所長ととりとめもない話をしていた。
「鮭のムニエルならいいんですよ。鮭のムニエルなら」
「いや、他のムニエルも駄目ってわけじゃないよ」
「ええ、それはそうですよ。まあなんでもそれなりに美味いわけですし」
「しかし、なんでもムニエルにすれば良いってもんじゃないよね」
「それですよ。結局」
お互いの溜め息を聞いて、顔を見合わせる。
さっきからやり玉に上がっているのは、僕の調査員のバイトの先輩である加奈子さんの手料理のことだった。
加奈子さんは生活費に困窮すると、人に食べ物をたかる悪癖があった。ただ奢らせるわけではなく、一応手ずから料理は作ってくれる。その料理の腕もそれなりに上手いので、けっして悪い気はしない。ところが、基本的にめんどくさがりなので、いつも似たようなメニューになるのだ。それがムニエルだった。
もともと魚が好きらしいのだが、とにかく調理方法といえば切り身に小麦粉をまぶしてバターで両面をカリッと焼く、ムニエル。ムニエル。ムニエル。ひたすらにムニエルなのだ。
定番の鮭のムニエルに、サバのムニエル。アジのムニエルに、タラのムニエル。ヒラメにカレイにスズキにタイ……。
とにかくなんでも小麦をまぶしてバターで焼き、レモン汁をぶっかければいいという実に短絡的な料理ばかりなのだ。
確かに簡単な料理なのであまりハズレはないのだが、さすがにこうもムニエルばかりだと、一緒に食べているこっちはその常習性に閉口してくる。それどころか、もはやなんの魚なのかよくわからないものまでムニエルとして出してくるのだ。


382: 幽霊物件 ◆LaKVRye0d.:2017/3/26(日) 00:40:35 ID:di6NFRnXyA

「ボクはムニエルのムニエルというのを食わされたことがあるよ」
所長の小川さんがボソリと言った。
加奈子さんはこの小川調査事務所のオフィスでも、据付の台所を使って料理を作ることがあるのだが、やはりムニエルばかり出してくる。
「僕なんかムニエルを食べさせられました」
「ム……ムニエルを?」
お互い絶句して、(何のだよ)という突っ込みをあえて飲み込んだまま沈黙が流れた。
その加奈子さんは今、タカヤ総合リサーチという大手興信所に依頼人を迎えに行っている。そこは小川所長が昔所属していた興信所で、独立した今でも付き合いがあり、ときどき仕事を回してもらっているのだ。
ただし、ただの依頼ではない。この業界では『オバケ』と呼ばれる、どこにも相手にされないような奇妙な依頼だ。今回の件も、タカヤ総合リサーチに持ち込まれたおかしな依頼に対し、普通ならやんわりとお断りしてお引取りいただくところを、市川さんというベテラン事務員の機転でこちらに連絡をもらったのだった。
『オバケ』事案専門の調査員である加奈子さんなら、なんとかできるかも知れないという希望的観測のために。
ムニエルを作る人、という肩書き以上に僕は、このオカルト道の師匠でもある彼女の行動に、発想に、思考に、信念に、そして推理に、ゾクゾクするような期待を抱いている。
「あ、帰ってきたな」
所長の言葉に振り向くと、階段を登ってくる二人分の足音が聞こえてきた。



「で、結局どうなさりたいんですか」
小川所長が額に手をやって髪をかき上げる仕草をした。『まいったな』というときにするポーズだ。確かに、今回の依頼はただの依頼ではなかった。隣で聞いている師匠も難しい顔をしている。
「だから、僕の借りてる部屋に幽霊がいる。ルームシェアと同じ状態だから、遺族に半分家賃を負担させたい。簡単な理屈でしょう」


383: 幽霊物件 ◆LaKVRye0d.:2017/3/26(日) 00:45:20 ID:F.ceRSUuyA

応接机の向かいに座る男は、苛立ってそう繰り返した。
依頼人のその男は三好健二という名前で、30歳独身。1ヵ月ほど前から、市内のあるアパートの1階に越してきて、住み始めたのであるが、その部屋に幽霊が出たのだそうだ。
驚いて、紹介した不動産屋に文句を言いに行くと、幽霊が出るなどという話に、まったく取り合ってくれない。嘘だというなら見にこい、と言って無理やり不動産屋の親父を部屋に連れてきたものの、どこにもそんなものは見えないと言われ、いい加減にしてくれと逆切れをされる始末。
『そんなにこの部屋が気に食わないなら、出て行けばいいでしょう』
不動産屋は、今なら敷金を全額そのまま返すとまで言ったのだが、依頼人の三好は部屋から出ることを拒んだ。理由は、勤務先であるスーパーマーケットと目と鼻の先にあるこの物件を、やっと見つけたばかりだというのに、幽霊ごときのために手放したくない、というものだった。
幽霊をなんとかしてくれ、と言っても、そもそもそんなものはいない、という不動産屋とのやりとりでは埒が明かず、ついに彼が出した結論は、勝手に居座っている幽霊にも部屋代を半分出させるという、おかしな落としどころだった。
「あの部屋で死んだ人の幽霊ですよ。間違いなく。そういう事故物件って、貸すときには事前に説明しないといけないはずでしょう。それを黙って貸しといて、バレた後で気に食わないなら出て行けって。そりゃあ横暴ってもんですよ、横暴」
三好はテーブルをバン、と叩いた。
「まあ、落ち着いてください」
小川所長が、やんわりとそう言って今の衝撃で少しこぼれたお茶を持ち上げ、おしぼりでテーブルをサッと拭いてから、もう一度差し出した。
「……すみません」
三好は鼻息を吐き出してから、お茶に手を伸ばして口をつけた。
彼がお茶を置くのを待ってから、師匠が口を開いた。


384: 幽霊物件 ◆LaKVRye0d.:2017/3/26(日) 00:51:01 ID:F.ceRSUuyA

「不動産屋は、その部屋で人が死んだということ自体を認めていないんですか」
「そうですよ。人が死んだりしたことなんてなかったって」
「なのに、部屋に幽霊が出るんですか」
「疑っているのか!」
「いやいや、そういうわけじゃないですよ。私もそういう幽霊がらみの話は専門ですし」
小川調査事務所を訪ねてくる『オバケ』事案の依頼人は、たいていほかの興信所を門前払いされてから、最後の最後に流れ着くようにしてやってくるので、信じてもらえないということに関して非常にコンプレックスを持っている。なので、いつも気を使うところだった。
しかし、だからと言ってそんな話を鵜呑みにできるわけはない。なにかの見間違いや、ただの気の迷いということだって、往々にしてあるのだから。
「ええと、その、事故物件のことですがね」と小川さんが言った。
「宅建法に『重要事項説明義務』って言うのがありましてね。まあ、よくトラブルになるんですけど、そういう死亡事故があったとかいうようなことは、賃貸借契約における主観的瑕疵というものになりうるので、契約に際して、借り主に説明をしないといけないということになっています」
「俺も自分で調べたけど、書面で交付しないといけないんでしょ。もらってないですよ。そんな書類」
「いや、ちょっと違いますね。直接35条の案件だったらそうですけど、例えば自殺みたいな不慮の死亡事故の場合は、47条のほうの告知義務になって、口頭でもOKのはずです」
「なんだかよくわかんないけど、口頭でも聞いてないよ!」
「ええと。よく言われるんですけど、1人挟めば2人目はOKっていう慣例がありましてね。その部屋で死亡事故があっても、次に借りる人にさえ説明すれば、さらにその次の人が借りる時には説明しなくていいっていう基準があるんですよ。次の人で問題がなければ、いつまでも延々と引きずらなくてもいいでしょっ、てことでそういう慣習になってるみたいです。まあこれも正確には根拠のないガイドラインみたいなもので、それなら訴えられても大丈夫かなという程度のものらしいですけどね。借りた人数にかかわらず、5年は実質的に告知義務がある、とかいう話も聞いたことありますけど、とにかくこの街の不動産屋はだいたい、1人挟めば2人目はOK、ってことでやってるみたいですよ」
「そんな横着なこと許されないでしょ!」
三好はまた興奮して身を乗り出した。
「いや、まあそれも自発的に説明するかどうかという話だから、三好さんがそういう事実があったのかきちんと問い合わせているのに、嘘をついて隠しているというのは完全にアウトだと思いますよ。それは不動産屋もわかってるはずですけどね」
「だったらどういうことなんですか」
「……」
ようするに、実際のところその部屋でそんな人死にがでるようなことはなかった、ということではないだろうか。
小川さんもはっきりそう言うべきか、迷っているような表情を浮かべていた。


385: 幽霊物件 ◆LaKVRye0d.:2017/3/26(日) 00:53:31 ID:di6NFRnXyA

「とにかく、現に幽霊は出るんですよ。俺の部屋に。お札とかもらってきて、貼り付けても全然効きやしない。追い出せないなら、遺族にそいつの家賃分を肩代わりさせないと気が済まないんだよ。家賃っていう名目じゃなくても、迷惑料でもなんでもいいよ。なのに、不動産屋の親父がなにも教えてくれないから、どこに言いに行けばいいかもわからないんだ!」
三好は大きな声で言いたいことを言い切ったからか、少し満足げな顔をして、椅子に深く掛けなおした。
「ね。だから、探して欲しいんですよ。幽霊の遺族を。別に幽霊を問い詰めろなんて言いませんよ。現にそこで人が死んでるなら、調べればわかるはずでしょ。興信所なら」
気持ちの悪い猫撫で声でそう言う三好に、小川さんは苦笑いを浮かべてから師匠の方を見た。
「では、ご依頼はその部屋で死んだ人の遺族を探し出す、ということでよろしいですね」
多少回り道をしたが、依頼内容を整理すると、わりに耳慣れたものになった気がする。
師匠の言葉にようやく三好は頷いて、「お願いします」と言った。



しかし、この依頼人はどこかズレている、というか変なところでクソ度胸が据わっているなあ、と僕は感心してしまった。
幽霊が出るのには目を瞑るから、遺族から迷惑料をせしめたいというのだ。幽霊が出るとわかっていながら、そこで住み続けようという神経が信じられない。
聞くと、やはり子どものころからそういう幽霊のたぐいはよく見るのだそうだ。霊感が高じて、どこかが麻痺してしまっているのだろうか。
料金の説明などをしたあと、調査に係る契約書を交わした。
「今から部屋に伺ってもいいですか」
師匠がそう提案すると、三好は頷いた。事務所の壁掛け時計を見ると、まだ昼の三時だった。まだ幽霊が出る時間帯ではないかも知れないが、師匠なら昼間でもそういう存在を見ることができる可能性が高い。もちろん、本当にその部屋に幽霊がでるとすれば、であるが。
そうして小川所長を残し、依頼人の三好と師匠と助手の僕、という3人で問題のアパートへと向かった。結構遠かったが、三好が歩いてきていたので、帰りのための自転車を押しながら一緒に歩いて行くことにした。
道々、師匠はいくつかの質問を依頼人にぶつけた。
「その部屋にあなたが入る前に住んでいた人のことは調べたんですか」
「ああ。不動産屋に、前の住人がどこのだれで、いったどこへ引っ越していったのかを訊いたんだけど、個人情報だからとか眠たいことヌカしやがって、どうしても教えてくれないんだよ。仕方ないから、両隣の部屋の人とかに訊いたら、なんか近くの弁当屋でパートをしてた、五十歳くらいのおばさんが1人で住んでたって」
「そのおばさんが……ってことはないんですか」僕がそう訊くと、三好は首を横に振った。
「その幽霊、おばさんじゃないから」
さっきも事務所で師匠が、具体的にどういう幽霊が出るのか訊ねても妙に歯切れが悪かったが、やはりあいまいなことしか言わない。
なぜだろうと訝しく思っていると、師匠が続ける。


386: 幽霊物件 ◆LaKVRye0d.:2017/3/26(日) 00:56:40 ID:F.ceRSUuyA

「そのパートのおばさんに、話を訊きにいってはいなんですね」
「ああ。どこに行ったか知らないし。でも、それはあんたらの仕事のうちに入るだろ」
師匠は頷いた。
「そのアパートの他の住民たちも、あなたの部屋で幽霊が出ることについて、なにか知っているようなことはなかったんですね」
「そうだよ。だれか死んだなんて話は聞いたことがないって、みんな言っている」
いらいらした様子で三好は自分の頭を指さし、くるくると回してみせた。そのまま強張った半笑いで、なにか言おうとしていたが、結局なにも言わずに黙った。
やがて僕らは問題のアパートに到着した。建てられてから20年は経っていそうな、2階建ての木造アパートだった。住宅街の一角にあり、近くにも似たようなアパートがいくつか散らばっている。
「この部屋だよ」
4部屋ある1階の、右から2番目のドアに向かって近づいて行き、三好は鍵を開けた。
「散らかってるけど」
そう言って玄関で靴を脱いだ三好に続いて、僕らはドアのなかへ入った。
師匠が靴を脱ぎながら言う。
「昼間でも見えることはありますか」
三好はその言葉に振り返り、「さあ」と言って、またはぐらかすような強張った表情を浮かべると、「どうぞ」と僕らを室内へ誘った。
散らかっているとは言ったが、玄関から入ってすぐの台所は綺麗に片付けられていて、食器の洗い物などは見当たらなかった。
しかし部屋に入って僕はすぐに気づいた。その部屋全体を覆う、なんとも言えない薄暗さに。台所の左手には風呂場とトイレのドアがある。そして正面には居間へ通じるドアがあった。上半分に四角いすりガラスが嵌っている。
そのガラス越しに漂ってくる暗さは、今がよく晴れた昼の3時過ぎだということを、一瞬忘れさせるような気がした。
確かに薄気味が悪い感じだ。
師匠の横顔を窺うと、少し緊張したような面持ちで、足音を殺すようにしてそろそろと進んで行く。
三好が正面のドアノブを回して、その向こうの部屋に入っていった。僕らもそれに続く。
そこは洋間で、8畳ほどの広さのなかに、あまり多くない家具類が収まっていて、一見してゆったりとした印象を受けた。その向こうはベランダへ通じる窓だ。1Kということになるが、単身者には十分な広さの部屋に思えた。
しかし、窓から漏れる光は暗い。窓のカーテンに落ちる黒い影は、向かいの建物が遮蔽物となっているためにできているようだ。


387: 幽霊物件 ◆LaKVRye0d.:2017/3/26(日) 00:59:15 ID:F.ceRSUuyA

「すぐそばに4階建てのマンションがあってな。日当たりが悪いんだ」
僕の視線に気づいたのか、三好が自嘲気味にそう言った。
師匠と僕はさらに1歩、2歩と進んで居間に足を踏み入れ、慎重になかを見回した。確かに明かりをつけていない部屋は薄暗く、どことなく気味が悪かった。生唾を飲んでドキドキしながら幽霊の痕跡を見つけようとしたが、そういうものはどこにも見当たらなかった。
少しホッとして、僕は口を開いた。
「この部屋、ひと月いくらぐらいなんですか」
「共益費入れて5万弱だな」
5万円か。日当たりは悪そうだけど、駅からもそんなに遠くないし、室内も意外と小綺麗で、そこそこいい物件のようだ。自分の職場からも近いとなると、確かに手放したくないという気持ちもわかる気がする。
「カーテン開けていいですか」
僕がそう言うと、三好は「ああ」と言って自分から窓に近づいた。カーテンを開け、窓のロックを外す。
サッシの上を窓ガラスが滑り、外の光こそあまり射し込んではこなかったが、気持ちのよい風が室内に入ってきた。
やや肌寒い風が頬を撫で、吹き抜けていく。
そうして生まれた空気の流れで、入ってきた部屋のドアが背後でバタンと閉まる音がする。
なにも喋らなかった師匠がその瞬間に振り返る。僕もつられてゆっくりと振り向くと、閉じたドアの前に首吊り死体がぶらさがっていた。
「えっ」
思わず後ずさり、転びそうになる。まったく予期していなかった光景に、心臓が爆発するように鳴る。首吊り死体だと?
「こ、こんな」
絶句した僕の横で、師匠が身構えたまま好奇の笑みを浮かべる。
「ほんとに、見えるんだ」
三好が強張った声をあげる。
こいつ、試しやがった!
幽霊について多くを語らなかったあの態度は、本当に僕らが幽霊を見ることができるのか確かめるためだったのだ。
首吊り死体は、この世のものではなかった。物質として、そこにぶらさがっているわけではない。だが、伸びた首、伸びた舌、表面に膜が張ったように光を失った瞳…… どれもそこにありありと見えるのだった。
ゾクゾクする悪寒に、足が竦む。
首吊り死体の霊からはなんの意思も感じられない。まるでただ、冷たい肉の塊としてそこにあるようだ。
「こいつか」
師匠が、首吊り死体の霊から視線を逸らさずに訊ねる。
「そう」
「こうしているだけなのか」
「そうだよ」
「昼も、夜も?」
「いや、昼間に見えるのは珍しいな。だいたい夜だ」
「ずっといるのか」
「出たり、消えたりだ」
師匠からさっきまでの依頼人に対する敬語が消し飛んでいたが、真剣な口調に違和感がまったくなかった。


388: 幽霊物件 ◆LaKVRye0d.:2017/3/26(日) 01:03:52 ID:di6NFRnXyA

霊は女だった。髪が肩まであって、それが顔に掛かっているが、まだ若い女だということはわかった。師匠がゆっくりとドアに近づき、その顔を下から覗き込む。頭はドアの上部、天辺に近い位置にある。霊はそのドアに背中をぴったりつける形で首を吊っていたが、いったいどうやっているのだろう。
もやもやと不安定に霊体の輪郭がぶれるなか、僕は目を擦りながらもっとよく見ようと意識を集中した。すると、彼女の首に掛かった細い紐のようなものが、その頭上に伸びていて、ドアと天井とのわずかな隙間から向こう側へと消えていた。
師匠が慎重な手つきで、彼女の体の脇にあるドアノブを握ると、静かにこちら側へ引いた。首吊り死体の霊をぶらさげたドアは、まるでなんの荷重もないかのようにゆっくりと開いていった。
ドアの上部の隙間へ消えていた紐の続きは、台所側には存在していなかった。どうやら霊は、居間の側にしか現れていないようだ。
しかし師匠は、首吊りの構造を把握したらしい。
「台所側のドアノブに紐の先端を括りつけ、ドアの天辺を通すことで、そこを支点にして体重を支える構造だな。で、ドアを閉じてから、たぶんこっちの居間の側のドアのすぐそばで椅子かなにかを台代わりにして立ち、天井にできるだけ近く頭を持ってきておいて、喉の下に通して輪っかにした紐の先端をキツく調整してから、その台を蹴ったと。こういう手順だな」
なるほど。それなら1人でも首を吊れるし、ドアを動かしても首吊り死体は落ちたりしない。
僕が頷くその横で、依頼人が感心した様子で口を尖らすような表情を浮かべた。すりガラスの向こうが嫌に暗かったのは、死体の霊の背中がそれを覆っていたからなのか。
師匠は再びゆっくりとドアを閉め、居間のなかほどに3人並んで立った。
「これ以上のことは、なにも起こらないんだな」
「そう」
「それにしても、あんた、いい根性してるな」
そうだ。こんな気持ちの悪い霊と1ヵ月も同居しているなんて。
「最初は寝られなかったさ。友だちの家に泊めてもらったりして。でももう慣れた」
変に自慢げな口調に、師匠は同調をせず、むしろ諌めるように言った。
「いや、こんな状況はまずい。いつからこの霊がこうしているのか知らないが、いずれ変質する可能性はある」
「へ、変質って……」
男は不安げに師匠を見る。
「昼間からこんなにはっきり出る霊は、かなり強い存在理由を持っている。簡単には消えていかないし、状況からして完全にこの部屋に地縛している。今はなんの意志も感じられなくても、今後もずっとそうかなんてなんの保証もない。たとえば夜寝ているときに……」
師匠はそう言って、三好に右手を伸ばした。
「手が自分の方へ伸びてきたら、どうする」
「よ、よせ」
三好は師匠の右手を避けるようにあとずさった。
「まあ、根本的な解決ができるかどうかわからないけど、この霊が生前ここで首を吊った経緯を調べないと、どうにもならないな。とりあえず予定通り、彼女が何者なのかを調べるとしよう」
僕はその霊を前にして平然と喋っている師匠を、信じられない思いで見ていた。


389: 幽霊物件 ◆LaKVRye0d.:2017/3/26(日) 01:06:55 ID:F.ceRSUuyA

そのドアにぶら下がった姿を見ていると寒気が止まらず、早くこの部屋から出たくてたまらなかった。
しかし師匠は霊に近づいて、よりじっくりと観察を始めた。自分の手帳に、鉛筆でその姿のスケッチをしている。
「プロなんだな」
三好がぼそりと言った言葉が聞こえたのか、聞こえなかったのか、師匠は淡々と観察を続ける。僕も一応、自分の手帳を広げ、目に付いた状況を書き留めていった。
だがその間も、悪寒が止まることはなかった。首吊り死体の霊のすぐ目前にこうして立ち、じっと観察しているなんていう異常な状況が、自分でも信じられなかった。一かけらの意思も感じられない、抜け殻のような霊がしかし、僕が手帳に目を落としたその一瞬に、冷たい手を僕の首筋に伸ばしてきていたら……。
そんな想像をしてしまうと、生きた心地がしなかった。
しばらくして、師匠が「うん?」と一声唸った。その声にドキリとする。
「どうしました」
僕が恐る恐る師匠の手帳を覗き込むと、鉛筆の先が、スケッチされた死体の首の辺りで、トントンと紙の上に打ち付けられている。
「おかしいぞ」
鉛筆の動きを止め、師匠が死体の霊を指さした。その喉の辺りをだ。細い紐が首に食い込んでいる。僕はそもそものこの状況の異様さに、今さらあえて指摘するほどのおかしさがどこにあるのかわからず、首を傾げた。
「爪痕がない」
師匠はそう言って喉に食い込んだ紐の周囲を、手にした鉛筆で指し示す。
「そうこん?」
爪あとのことか。喉に、確かにそんなものは見当たらない。しかしさっきから、見えている霊体の濃度がだんだんと薄れてきていて、僕には正直もうあまり精密には見えてない。というか、ぼんやりとしている。首筋にそんな爪のあとなど、ここにある、と指摘されてもわからないかも知れない。
「首吊り死体の特徴として、全体重が首に掛かった瞬間に頚骨を骨折して意識を失った場合などを別として、窒息の苦痛に紐や縄が食い込んだ喉を、掻き毟った痕跡が残っている場合が多い。どんなに死のうという意識が強い人間でも、実際に死に迫る苦しみのなかに陥ると、なんとかその苦しみから逃れようと足掻いてしまうものだ。だからこそ、確実に死ぬため、逃げ出せないように足場を蹴り倒して、人は首を吊るんだ」
ここを見てくれ。
師匠はそう言ってぶら下がる霊の左手首を指し示した。そこにはリストカットのあとが幾重にも残っていた。僕もそれには気づいていて、自殺を思い立った彼女が死のうとして、手首を切ったもののなかなか死に切れず、何度か繰り返したあと、とうとうドアを利用して首を吊ることでその思いを完遂したと、そういうストーリーを頭に描いていた。


390: 幽霊物件 ◆LaKVRye0d.:2017/3/26(日) 01:10:41 ID:di6NFRnXyA

「霊体がどのようにして現れるかは、霊自身の選択だ。あるいは無意識のそれにせよ。彼女がためらい傷を身体に残したまま現れていることは、彼女がそれをことさら秘匿しようとしていないことを示している。そして衣服の緻密さなどからも死の瞬間の身体の状況を正確に再現しようとしていることもわかる。なのに、喉を掻き毟ったあとがない。これは不整合だ」
爪もこうしてあるのに、と師匠は彼女の指先の辺りを顎でしゃくって見せる。
「だったら、一瞬で気絶したんじゃないですか。首の骨が折れて」
僕のその指摘に、師匠は頭を振った。
「彼女は見てのとおり痩せている。体重はかなり軽いだろう。室内のドアのこんな窮屈な仕掛けで、高い木の枝から首に縄をかけて飛び降りるケースみたいに、一瞬で首の骨が折れたり、失神したりするだろうか」
蓋然性を考えると、違和感がある。
そう言って師匠は険しい顔をした。
「だったら」
僕はそう言いかけて、あとに続く言葉を飲み込んだ。師匠があえて口に出さないその言葉を、自分から言い出すことに恐怖を覚えたのだ。
もし想像してしまったとおり、これが自殺に偽装した他殺死体だとしたならば、この霊の持つ意味がまったく変わってしまうのだから。
依頼人の三好もそのことに気づいたようで、表情を硬くして言葉を失っている。
押し黙って考え込んでいる僕たちの目の前で、ドアにぶら下がる霊体の姿が徐々に希薄になり、静かに溶けるように消えて行こうとしていた、
「消える」
僕がそう呟いた瞬間に、霊は消えた。もう見えない。三好と師匠の目を見たが、2人とも頷いた。どうやら消えてしまったようだ。


391: 幽霊物件 ◆LaKVRye0d.:2017/3/26(日) 01:13:46 ID:di6NFRnXyA

しかし、三好が言っていたように、元々現れたり消えたりする霊らしいので、一時的に消えたのだろうと思われた。霊のバイオリズのことはよくわからないが、そういうことは経験上よくあった。
そのまましばらく待ってみたが、やはり首吊り死体の霊は現れなかった。
それから師匠と僕は三好を部屋に残して、このアパートの住人を順番に訪ねて回り、聞き込みを行った。
わかったことは、1ヵ月前に三好がこの部屋へ引っ越してくる前は、近所の弁当屋でパートをしていた、田坂という名前の50年配の女性が住んでいた、ということ。そしてその前に住んでいたのがだれだったのか、だれも知らない、ということだった。
と言っても、訊ねたときに住人が部屋にいたのは三好を除く7つの部屋のうち、4つの部屋だけだった。そこで師匠は自分の名刺に102号室に関する情報が欲しい旨を書き付けて、残り3つの部屋の玄関ドアの下の隙間からなかに滑り込ませた。
最後に付け足した『薄謝進呈』という言葉がどこまで効果を発揮するかは、神のみぞ知る、というところだ。
そして次に先住者がパートをしていたという弁当屋に歩いて行った。その弁当屋はよく見るチェーン店で、夕方のかき入れどきの直前という、ギリギリ客が途絶えているタイミングで訪ねた僕らを、いかにもベテランという佇まいの60歳くらいの女性店員が出迎えた。
「ああ、田坂さん? 覚えてるもなにも、辞めてからまだ3ヵ月よ。まだもうろくはしてないわ。あはは。え? どうして辞めたかって訊かれてもね。……家庭の事情って私は聞いたけどね」
師匠が興信所の名刺を渡し、田坂さんの住んでいた部屋で昔起こったかも知れないある事件のことを調べている、と告げると興味津々という様子で身を乗り出してきた。
「今の連絡先、私知ってるわよ。こっちからは教えられないけど、今本人が家にいたら、あなたたちのこと話してみましょうか」
そうして彼女は頼みもしないのに、店の電話を使ってどこかに掛け始めた。
弁当屋のパートという同じ場所でのルーチンワークをこなしている日常に、興信所の人間がある事件について調べていると言って訪ねてくるという、テレビドラマのなかのような展開に、少なからず興奮しているらしい。
やがてかしましい挨拶を電話口で交わしたあと、女性店員は「はい」と言って受話器をこちらに預けてきた。師匠が電話に出て、しばらく話していたが、やがて礼を言って受話器を返した。店員は「もういいの?」と言いながらまた電話に出て、甲高い声で相手とやりとりしたあとで、チンと切った。
事件とやらのことを詳しく訊きたがっている彼女を、上手くなだめすかして、師匠と僕は弁当屋をあとにした。
「田坂さんはシロだな」
「関係なさそうですか」
「ああ」
102号室の前の住人である田坂さんは、4年ほど前からその部屋に1人で住み始め、弁当屋でパートをしていたが、3ヵ月前に郷里の母親が倒れたのでパートを辞め、介護のために実家へ帰ったのだそうだ。
そして2ヶ月ほどの空き家期間を経て、今回の依頼人である三好が不動産屋の紹介で102号室を借りた。そして1ヵ月経って今にいたる、ということになる。


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