ここでは、まとめの怖い系に掲載されている『師匠シリーズ』の続きの連載や、古い作品でも、抜けやpixivにしか掲載されていない等の理由でまとめられていない話を掲載して行きます
ウニさん・龍さん両氏の許可は得ています
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(1)話の途中で感想等が挟まると非常に読み難くなるので、1話1話が終わる迄、書き込みはご遠慮下さい
(代わりに各話が終わる毎に【了】の表示をし、次の話を投下する迄、しばらく間を空けます)
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それでは皆さん、ぞわぞわしつつ、深淵を覗いて深淵からも覗かれましょう!!
292: 溶接 ◆LaKVRye0d.:2017/3/6(月) 04:12:14 ID:gnmyXvpANA
噂にあったような地下室などはなく、いや、正確にはかつてあったのかも知れないが、蓋のすぐ下はコンクリートで埋められ、人が一人入れるか入れないか、という空間しかなかったのだと言うのだ。
「なんか、ねずみか何かの骨が散らばってたけど。それだけ」
そう言って空気が抜けるように笑った。
「屋根の穴ってのも普通に開いてたし、集団で幻覚でも見たんじゃない?」
昔、女の子が殺されて捨てられてたって場所なんだし、恐怖心からそういう集団心理が働いてもおかしくないと、鹿爪らしくそう言う。
そんなこと初耳だった。
「あれ? そういう噂知らなかった? 僕が調べた限りでは、工場が潰れた直後くらいに、敷地内で身元不明の十六、七歳の女の子が白骨状態で見つかったとか。まあ裏は取ってないけど。犯人も見つからずじまいだったって話」
「その殺された子って、もしかして木田弘子とかって名前だったんだじゃないですか」と訊ねると、師匠は「さあ」と首を振るだけだった。
(完)
293: ウサギ ◆LaKVRye0d.:2017/3/6(月) 04:16:11 ID:j8TyQ/9PDE
『ウサギ』
大学一回生の秋だった。
サークルの飲み会があり、安い居酒屋の飲み放題コースで十人ほどの仲間がだらだらと喋っていた。
そのうち、小学校と中学校が一緒だったという二回生の男の先輩二人が、いつもの暴露話を始めた。お互いのかつての悪事や、若気のいたりの恥ずかしい話をバラしあっては自爆していたのだ。
それでも毎回なのでさすがにネタがなくなって来たらしく、その日はあまり盛り上がらずに別の話題に移りかけていた。
そんな時、川村という方の先輩がふいに、「思い出した」と言って喜色を顔に浮かべ、もう一方の小松先輩の肩を叩いた。
「お前、ルルの亡霊を見たって言ってたろ」
川村さんはそう言って、クスクス笑っている。
「ル、ルルの、ルルのお化けが出た! って教室に転がり込んで来ただろ。あれは傑作だった」
笑われた小松さんはムッとした顔で反論した。
「本当に見たんだって。俺だけじゃねえよ。他にも何人か見てんだから」
「うそつけ。見たってやつもいたけど、全員ただの怖がりだろ」
「本当だって。学校の手前の角んとこにあった草むらで。間違いなく、殺されたルルだった」
殺された、という言葉にみんな興味を引かれ、始まりかけていた別の話題そっちのけで、なになに、と顔を寄せて来た。
かく言う俺も、詳しい話を聞きたかった。ただ俺の場合は、その手前の、亡霊という単語の方に興味を引かれたのだったが。
「ルルってのは、小学校のころ学校で飼ってたウサギだよ」
小松さんが説明を始める。
小松さんと川村さんが通っていた小学校では、校庭の隅に金網張りの飼育小屋があり、多い時で七匹ほどのウサギが飼われていた。どれも白いウサギで、そのすべてがメスだった。
教育の一環として生徒が交代で飼育係を勤めていたのだが、その可愛らしい姿に係の子ども以外の子も、頻繁に金網に張り付いてはチュッチュッチュと声を掛けたりしていた。
しかし、ある時そのうちの一匹が首を切り取られた無残な姿で発見されたのだった。子どもたちが受けたショックは相当なものだった。それは教員などの大人たちも同じだったが。
294: ウサギ ◆LaKVRye0d.:2017/3/6(月) 04:20:06 ID:j8TyQ/9PDE
犯人は見つからなかった。
変質者の犯行が疑われたが、どうしてウサギを、それも首を切って持ち去るなどという凶行に至ったのか、分からないままだった。
だが、事件はそれだけで終わらなかった。一ヵ月後に、また別のウサギが首なし死体となって飼育小屋で発見されたのだ。
「結局全部で三匹だっけ。一ヶ月おきくらいに続けて起きたよな」
「今だったら絶対警察入ってるよ。いくらウサギでも、連続首狩りなんて、異常だよ。結局犯人見つからずじまいだったっけ」
小松さんがそう訊ねると、川村さんは頷いた。
「そう、つかまってない。俺なんてさ、発端のさ、最初に首切られたユキの時の飼育係だったんだけど……」
「ちょっと待った。発端といえば、その首狩り事件の前に、マリーってウサギが攫われたのが最初だよ。俺、その時の飼育係だったから、朝来て金網の中が一匹少なかったのが凄いショックだったの覚えてる」
「それは逃げたんじゃなかったっけ?」
「違う、違う。金網にどこも穴は開いてなかったし、最初の首狩りと同じで入り口の落し金をちゃんと戻してあった。人間の仕業だよ」
「そうだっけ。とにかく、俺が最初の首狩りの時の飼育係で、第一発見者だったんだよ。いなくなってた、とかいうのとレベルが違うよ。首がないんだぜ。朝来てさあ、普通にエサをやろうと金網の中に入ったら、奥の方に一匹うずくまってて動かないのがいるじゃない? 近づいて起きろーってつついたら、首がなかったんだよ。小学校五年生だぜ。トラウマものだよ」
「それが、ユキっていうウサギだったんですか」
俺が口を挟むと、二人は頷いた。
確かにそれはトラウマになりそうだ。横たわる首のないウサギの白い身体を頭の中に思い浮かべ、俺は鳥肌が立った。
「全部白いウサギだったんだろ。よくどいつがどいつとか分かるな」
同じ二回生の先輩が横からちゃちゃを入れた。
するとそこは二人とも息を合わせて反論するのだった。
「お前、ウサギの飼育係やったことないだろ。あれで一匹一匹顔が微妙に違うんだ。ちょっと太いやつもいたし。ルルみたいに耳の形が変なやつだっているんだ」
「俺も全部覚えてたなあ。ウサギの顔と名前は一致してたぞ」
川村さんが小松さんの後を受けてそう言う。
「もうちょっと詳しく聞かせてもらっていいですか」
僕は首狩り事件とルルの亡霊のことが気になって、話の続きを促した。
まとめると、こういうことになるようだ。
295: ウサギ ◆LaKVRye0d.:2017/3/6(月) 04:24:46 ID:gnmyXvpANA
◆
最初の首狩り事件があったのは、小学校五年生の秋。
ユキという名前のウサギが夜のうちに落し金をあげて飼育小屋に侵入した何者かに首を切り取られ、死体として発見された。
発見者は飼育係だった川村さん。
騒ぎになったが、死体はすぐに用務員によって片付けられ、本格的な犯人探しも行われなかった。
二度目の事件はその一ヶ月後に起きた。ララという名前のウサギが、一度目の事件と同じく夜のうちに首を狩られて殺されていた。発見者は飼育係だった田辺という名前の女子生徒だった。
さすがにことの深刻さに気づいた学校側は、いのちの尊さを諭す授業などを取り入れて生徒たちを疑いつつ、PTAに向けては周辺の不審者対策のため職員による見回りを増やしたことを訴え、また父母による生徒の登下校の見守り強化をお願いした。
そして飼育小屋の鍵も、誰でも開けられる落し金から、数字錠に換えられた。
なにごとも起こらないまま、事態も沈静化していくかと思われた矢先の一ヶ月後、三度目の事件が起きた。
松野という名前の男子生徒が飼育係の割り当てだったその日、朝のエサをやろうと飼育小屋にやって来た時、ルルというウサギの首なし死体を金網の中で発見したのだった。
数字錠は開けられ、扉の金具に引っかけられただけの状態だった。
数字錠が開けられていたことから、番号を知っていた飼育係や関係の職員が疑われたが、生徒のイタズラで金具の裏に開錠のナンバーが小さく書かれていたことが分かって、それもうやむやになってしまった。
いずれの事件でも共通しているのは、日替わりの飼育係が第一発見者だったことと、犯人が見つからなかったこと。
そして、ユキ、ララ、ルルと続いた被害ウサギの首がすべて持ち去られていたことだった。
結局、事件は三度目で終息したようで、それ以上ウサギが減ることもなかった。
ただ、三度目の事件のあと二、三週間くらい経ったころに、殺されたはずのルルの亡霊を見た、という生徒が何人か現れて、子どもたちの間に軽いパニックを巻き起こしていた。
どれも草むらなどで遠目に見ただけというあやふやな目撃談だったが、そんな異常な事件が続いた後だっただけに、子どもたちは怖がった。
教師たちに叱られても、しばらくそんな噂が尾ひれをつけながらまことしやかに流れていたが、六年生に上がるころにはやがてそれもいつの間にか忘れ去られていった。
296: ウサギ ◆LaKVRye0d.:2017/3/6(月) 04:29:48 ID:gnmyXvpANA
◆
「ルルの亡霊に首はあったかな」
川村さんと小松さんの思い出話がひと段落ついたころ、じっと聞いていた大学院生の先輩が口を開いた。
「首、ですか」
亡霊を見たという小松さんが眉根を寄せたが、すぐに返事をした。
「ありましたよ。耳の形でルルだってわかったし」
「どんな形?」
「右の耳が、こう、外に開いててデカく見えるんですよ。あと、その右耳の先が少し切れてて二股みたいになってました」
「ふうん」
訊ねた先輩はそう頷きながら、テーブルの大皿から枝豆を取り分ける。
俺はその人の顔色を伺う。明らかに何か思いついた時の顔だった。俺のオカルト道の師匠だ。こういう怪談じみた話が大好きで、いつもは喜んで蒐集するのだが、この時は少し様子が違っていた。
「そんな事件の後なのに、首なしウサギの亡霊って話にならなかったのは不思議だね」
何か含みを持ったような言い方だった。それを感じ取った小松さんが、「どういうことですか」と訊ねる。
「いや、子どもって、やっぱりそういう噂が好きだからね。首なしウサギの亡霊って、いかにもな話じゃないか」
「だから、噂とかじゃなくて僕は本当に見たんですって」
師匠はテーブルを叩いて力説する小松さんをなだめにかかる。
「まあまあ。それを嘘とは言ってないよ。他の子も何人か見たんだろう。首なしウサギの話をする子はいなかったかな」
「いませんでした」
小松さんが答えると、川村さんが「でも、俺首なしウサギのお化けの噂も聞いたことあるぞ」と言った。
「それ、六年生になってからだろう。見てもないやつが調子に乗って言ってただけだって」
その小松さんの反論を聞いてから、師匠はゆっくりと頷いた。
「噂が伝播する流れを考えると、どうやら最初の目撃が真実のようだね。首なしという、その事件の因果にふさわしい姿が噂の中に現れるのが後半からだったということは、前半の目撃談は、因果の物語というよりも、むしろ観察の結果という即物的なものだったということが推測できる」
師匠の言葉を聞いていたその場の全員が狐につままれたような顔をしていた。
「それって、市内の南の方の小学校?」と師匠が尋ねた。
「そうス」
「最初の首狩り事件の時、ユキというウサギの死体の第一発見者は川村君だったね」
「はい。そうスけど」
「どうして首がなかったのに、それがユキの死体だと分かった?」
師匠に訊かれ、川村さんは少し考える仕草をした。
「それは…… 俺、全部のウサギの区別がついたから、ユキがいないって気づいて……」
「死体を見てユキだと分かったんじゃないんだね」
「まあ、はい。確か一匹だけデブがいましたけど、他はわりと同じような体格だったから」
「つまり、顔で区別していたと」
「あと、耳ですね。よく仲間同士で喧嘩してたから耳がちょっと切れてるやつが多かったんで」
「ふん。首がなくなってたからユキかどうかはすぐに分からなかったけど、他のウサギが全部いたから、消去法で殺されたのはユキだと分かったと。なるほど。じゃあ二度目の事件の…… なんだっけ、ララだっけ。そのララの時はどうだった?」
「ええと、確か、その日の飼育係の田辺さんが朝からララが殺されたって騒いでて、飼育小屋に行ったら、実際ララ以外全部揃ってたんですよ」
「ララもその一匹いたっていうデブウサギじゃないんだね」
「デブいやつはサニーとか、そんな名前のやつでした。そいつは最後まで無事でしたけど」
「ということは、やっぱりその時も殺されたのはララだと消去法で分かったと」
師匠は一人満足げに頷いている。
297: ウサギ ◆LaKVRye0d.:2017/3/6(月) 04:32:34 ID:j8TyQ/9PDE
「三度目の事件は?」
「同じですよ。その日の係の松野って子が、朝のエサをやろうとしたら首なし死体が転がってて、ルルが殺されたって言って半狂乱で喚いてました」
「それも消去法で?」
「そうです」と今度は小松さんが頷いた。「僕も朝から駆けつけましたけど、ルルの耳は大きいし目立ちましたから、あの耳が小屋の中に見えなかった時点で、あ、ルルがやられた、って分かりました」
「ふうん」
師匠は大きく頷くと、自分に集まっている注目を平然と無視して目の前の皿の唐揚げにかぶりついた。
咀嚼しているのをみんな見ているが、妙な空気が漂っていた。一度聞いた話を再度詳しく聞いただけだったが、なんのためのやりとだったのか、誰も分からないのだ。
「ちょっと」
俺は隣の席にいた師匠の服を引っ張った。
「なんだ」
「なんだって、そっちがなんなんですか。消去法がどうとか、それがどうしたっていうんです?」
小声で問い詰めると、師匠はおしぼりで口を拭い、あっけらかんとした口調でこう言うのだ。
「だから、ルルは殺されてなかったって話でしょ」
「はあ?」
その場の何人かの口から同じような響きの声が漏れた。
「簡単な話だよ。一度目の首狩り事件で、犯人はあらかじめ用意していたウサギの首なし死体を飼育小屋に投げ込んだんだ。そうしてユキを攫った。ユキがいないのに気づいた川村君が、ユキが殺されたって騒ぐ。そして二度目の事件では直前に首を切り取っておいたユキの死体を飼育小屋に入れて、ララを攫った。そしたら飼育係の田辺さんがララが殺されたって騒ぐ。三度目も同じことで、攫っておいたララの首を切り取ってから飼育小屋に放り込んで、代わりにルルを攫った」
唖然とするみんなの前で、師匠は淡々と、まるで見てきたような口調で語った。
298: ウサギ ◆LaKVRye0d.:2017/3/6(月) 04:35:29 ID:gnmyXvpANA
「そこで事件は止まったから、ルルは死んでなかったし、亡霊と騒がれたのは生きてるルルを見ただけ」
師匠は当たり前のようにそう言って枝豆を口に放り込みながらビールジョッキを傾けた。
「ちょっと待ってください。そんなことって……」
小松さんと川村さんが揃って絶句する。
それを横目に酔った何人かが、「わけわかんね」と言って顔を見合わせて笑っている。
「首がないんじゃ、どのウサギが殺されたのか、消去法で判断するしかなかったんだろう? それを逆手に取られたんだよ」
そこで、小松さんが何かに気づいたように身を乗り出した。
「じゃあ、じゃあ、最初のユキの時、あらかじめ用意していたウサギの首なし死体っていうのは……」
「そう。自分で言ってたじゃない。事件の発端はマリーが攫われたことだって」
「最初の首なし死体は、マリーのものだったんですか!」
師匠はつまらなそうに頷くと、「たぶんね」と言った。
「なんでそんな入れ替えなんてことがわかるんですか」
川村さんが納得いかない表情でなおも食い下がる。すると師匠は急に自分の向かいの席でテーブルにつっぷして寝ていた仲間の肩を叩いた。
「起きろーっ」
んが?
叩かれたその男は涎を垂らしながら顔を上げた。師匠はその間抜け面を見ながら、話を続ける。
「最初の事件の時、川村君が朝ウサギにエサをあげようとして飼育小屋に入った時に、同じことを言ったんだろ。『起きろーっ』って」
川村さんは訝しげにしながらも「そうですけど」と言った。
「そんなことを言いながら近づいて、うずくまっているウサギの身体をつつくまで首が切り取られていることに気がつかなかったってことはさ」
師匠はテーブルについた涎の跡を指さしながら言った。
「血がぶちまけられてないよね」
あ。
川村さんからそんな呟きがこぼれた。
「首を切り取られてるのに、血がほとんど出ていなかった。ということは、首切りの犯行現場はその飼育小屋じゃないし、おそらく学校内ですらない。どこか別の場所で首を切って、その死体を飼育小屋に持ち込んだというなら、殺されたのはその飼育小屋にいたウサギじゃなくてもいいじゃないか。例えば、一ヶ月前に小屋から攫ってこっそり自宅で飼っていたマリーって名前のウサギでも」
ま、あくまで推測の域を出ないけど。
299: ウサギ ◆LaKVRye0d.:2017/3/6(月) 04:37:10 ID:j8TyQ/9PDE
師匠はニヤニヤと笑いながら、唖然としている小松さんの方へ向き直った。
「後は前の事件で攫って飼っていたウサギを犯行の直前に殺し、次のウサギと入れ替えるってことを繰り返していたわけだ。で、たぶん三度目の事件の時に攫ったルルに逃げられるかして、それを生徒に見られ、亡霊の噂が立ち、犯人はそこで犯行を止めた」
そんなところだろう。
そう言って締めくくった師匠をみんな気持ち悪いものでも見るような目で見つめていた。
◆
飲み会がお開きになってから、俺は外で師匠を捕まえて訊ねた。
「途中で、市内の南の方の小学校かって訊いてたでしょう」
「ああ。そうだよ」
「知ってたんですか」
俺は疑っていた。えらそうに推理を披露していたが、この人は最初からその事件のことを詳しく知っていた可能性がある。全部知っていながら回りくどく、そしてまるで自分の手柄のように推理を開陳していたのではないか。そう思ったのだ。
しかし師匠ははぐらかすように笑う。
「知らないよ」
その言葉をそのまま信用できるはずもなかった。むしろ真犯人の可能性だってあるのだ。
思い切ってそういう言葉をぶつけると、師匠は鼻で笑った。
「僕はそのころまだ県外だってば。地元出身じゃないんだから。知ってるだろう」
馬鹿にするようにそう言った後で、ふいに声を落とした。
「南の方でね、見たことがあるんだよ」
その様子があまりに真剣に映ったので、俺まで声を落とした。
「見たって、なにをです」
「何年前だったかな。そのあたりを散策してたら、道端でね。見たんだ。そうだな、見た目は四十歳くらいだったかな。服装もこざっぱりしていて、普通のどこにでもいるようなおじさんだった。でもね、その人が歩いている後ろから、ウサギの首がわらわらついて来てるんだ。もちろんこの世のものじゃないよ。見えてたのは僕だけだろう。百匹とか、二百匹とか、そんな数のウサギの首が、首だけが、這いずりながらおじさんの歩くすぐ後ろをついて来ていた。おじさんも全然気づいてない。今思い出してもぞっとする光景だね」
それを聞かされた僕も想像してしまい、腹に詰め込んだビールを吐きそうになる。
「ウサギの亡霊って聞いて、あれかな、と思ったんだよ」
師匠は声を落としたまま囁いた。
「僕が見たそいつが犯人だとしたら、首なしウサギの亡霊が出たなんて噂は、見間違いかなにかに決まってる」
首の亡霊がそっちにいるのに、胴体の方の亡霊が別の場所に出ているとしたら、僕はむしろそのことの方が怖いね。
そう言ってニヤリと笑うのだった。
(完)
300: 1 ◆LaKVRye0d.:2017/3/6(月) 04:39:00 ID:j8TyQ/9PDE
いつも有難うございます
今日は、以上です
【了】
301: 1 ◆LaKVRye0d.:2017/3/11(土) 23:41:59 ID:.b2ry9Rk3M
前回から少し間が空いてしまい申し訳ありません
今夜も2話投下します。宜しくお付き合い下さいませ
302: 医者の話 ◆LaKVRye0d.:2017/3/11(土) 23:44:37 ID:.b2ry9Rk3M
『医者の話』
師匠から聞いた話だ。
大学2回生の夏。
僕はオカルト道の師匠である加奈子さんに連れられて、ある豪邸の前に来ていた。
「医者に会いに行く」
と言っていたので、バイトをしている興信所とズブズブに繋がっている、松崎という闇医者(闇医者の定義はよく知らないが、僕のなかでは完全にそうだった)のところに行くのかと思っていた。
しかし、僕の運転する自転車の後輪に立ち乗りをして、あっちに行け、こっちに行けという指示を出している師匠に従っていると、だんだんと高級住宅街のほうへ向かうではないか。
もちろん松崎医師の診療所の方角とは違う。
そう思っていると、ふとつい先日あった、小人を見る人が増えている、という謎を追っていたときの出来事を思い出した。
大学病院に潜入したとき、いつも迷惑をかけている看護婦の野村さんがこんなことを言っていた。
『そう言えばあなた、最近また検査をさぼってるでしょう。真下先生も心配してるんだから、ちゃんと受診しなさい』
あのときも気になっていたが、詳しく訊こうとしてもはぐらかされて、師匠は答えてくれなかった。
自分の体のことを。
なにか持病があって、病院にかかっているのだろうか?
いつも必要以上に元気で、エネルギーに満ち溢れている加奈子さんが、いったいなんの病気なんだろう。
確かに食生活は、生活費困窮問題もあり、いいとは言えないが、そんなものをものともしない日ごろの健康優良ぶりを見ていると、まあ、心配するようなことではないか、と思ってしまう。
しかし、ときに垣間見る、いつもと違う横顔。精気がない…… いや、精気が失われていくような、妖しい魅力を秘めた横顔を思い出すたび、小さな不安が胸のなかで育っているのを感じるのだった。
303: 医者の話 ◆LaKVRye0d.:2017/3/11(土) 23:46:39 ID:igNubrZ3Ko
「ここだ」
師匠の言葉に、自転車のブレーキをかける。
閑静な住宅街で、自分ではほとんど通ることがない。大きな家が並んでいて、あの辺りにはお金持ちが住んでいる、という印象しかない。
目の前に延びる、高い石塀に取り付けられた表札を見ると、『鹿田』とある。
「鹿田実(シカタ ミノル)って言って、去年退官した、うちの大学の元医学部教授だよ。医学部長だった人だ」
そう言えば、そんな名前を聞いたことがあるような気がする。
というか、師匠はそんな人とも面識があるのか?
うちの大学の医学部は、近隣の県の医学界では非常に影響力を持っていて、うちの大学から医師の派遣を受けられるかどうかで、その他多くの病院の命運が決まる、というのを聞いたことがある。
当然、各地域の医学界では、うちの大学派閥が幅を利かせていて、他の大学の医学部でも、トップ人事に関しては常にうちの大学の出身者かどうかが考慮される、という話だった。
医学部長といえば、医学部のトップだ。大学付属病院の院長とどっちが偉いのかは知らないが、とにかく、このあたり一帯の医学界では頂点とも言える位置にいた人、ということなのだろう。
師匠はどうしたらそんなに、と唖然としてしまうほど、他学部の教授、助教授に顔が利く。人たらし、という言葉があるが、まさにそれを地で行く人だった。
この僕にしたところで、初めて会ったときから、ずっとたらされている。
304: 医者の話 ◆LaKVRye0d.:2017/3/11(土) 23:52:08 ID:igNubrZ3Ko
「あれー? 洗濯物出てないなあ。約束しといたのに。いるかな」
師匠は目深にかぶっていたキャップの先を人差し指で上げて、眩しそうに豪邸の2階を眺めた。今日は日射しのとても強い、いい天気だった。
玄関の門の向こうに広い庭が見えていて、鮮やかな色の芝生が敷き詰められている。
医者は儲かるんだな、と至極つまらない感想が頭に浮かんだ。
チャイムを鳴らすと、インターホンから低い声が聞こえて来た。
『入りなさい』
ガチャン、という音がして、重そうな門の鍵が開いた。遠隔操作できるのか。
2枚になっている格子戸のような門の片方を押して、敷地のなかに入った。
芝生の間に延びる道を通って、本玄関までたどり着くと、なかからドアが開いた。
「久しぶりだな」
背の高い老人が現われ、響くような低い声で師匠に話しかけてきた。
これが鹿田教授か。いや、もう退官しているのだから、鹿田博士というべきかも知れない。
「ご無沙汰していました」
師匠は深々と頭を下げた。まるで怒られているようだった。
「君はだれかね」
え、僕ですか。
うろたえながら、金魚のフンです、と言おうとして思いとどまり、結局「後輩です」と無難なことを言った。
博士は小さく鼻息を吐いたかと思うと、師匠と僕とを見比べてから、「よかろう」と言った。
「来たまえ」
そうして、僕たちは豪邸のなかに招き入れられた。
応接室に通されて、しばらく待っていると、家政婦らしい若い女性が飲みものを持ってきた。僕と師匠は2人ともコーヒーを頼んだ。なかなかの味だった。
305: 医者の話 ◆LaKVRye0d.:2017/3/11(土) 23:55:46 ID:.b2ry9Rk3M
コーヒーを飲み終わるころ、鹿田博士がようやく応接室に入ってきた。
「待たせてすまんな。一区切りをつけていた」
解剖か実験か、なにかそんなことをしていたのだろうか、と思ったが、服装は白衣ではなく、さっきと同じ白い開襟シャツとズボンという格好だった。ということは、書き物かなにかだろう。
「野村君から、話は聞いているぞ。検査に来ていないそうだな」
鹿田博士がそう言いながら僕らの向いのソファに腰掛けると、また家政婦の女性が応接室に入ってきて、博士の前にカップを置いていった。紅茶だった。
「信用ができない」
師匠は握った右の拳を、左の手のひらで包んでそう言った。
「どういうことだ」
「真下先生に、私の体をいじらせたくない」
師匠のその言葉に僕はドキリとする。私の体、という言葉にだ。
「真下君は私の良き教え子だ」
鹿田博士はカップを置いて、ソファに深く腰掛け直した。
「私だと思って、検査を受けなさい」
諭すような鹿田博士の言葉に、師匠は黙った。僕はその横で、いったいなんの話をしているのだろうか、とドキドキしていた。
鹿田博士は鷲鼻で、彫りの深い顔立ちをしている。その鋭い目で射竦められると、肉食獣に睨まれた小動物のような気持ちになってしまいそうだった。
物腰や口調は紳士的ではあったが、どこか威圧的な男だった。年齢相応に老人と呼ぶにはあまりに油断ならない、そんな雰囲気を持っていた。
師匠はそんな鹿田博士の視線を真っ向から受け止めて、口を開いた。
「私の主治医は、鹿田教授だけだ」
「そう言ってもらえるのは嬉しいが、私はもう一線を退いた身だ。日がな一日、好きな本を読んでいるだけの老人だよ」
「鹿田総合病院の理事長が、隠居職ですか」
「そうとも。入り婿に用意された最後の椅子だ。せいぜいゆっくり座らせてもらうとしよう」
「私の主治医は、それでも鹿田教授だけですよ。なぜなら、ほかの医者なら、私を病気だと診断しないからです」
306: 医者の話 ◆LaKVRye0d.:2017/3/11(土) 23:59:02 ID:.b2ry9Rk3M
「どういう意味かね」
「わかるでしょう」
師匠は緊張した面持ちで鹿田博士の顔を見つめた。
博士はため息をついて、僕のほうを見た。
「彼は知っているのかね」
「さあ。なにしろ鈍感なやつですから」
そんな話をされても、なんのことかさっぱりわからない。蚊帳の外に置かれて、気持ちが悪かった。
「どういうことですか」
「こういうことだよ」
僕の問い掛けに、師匠は短くそう言うと、テーブルの上にあった重そうなガラスの灰皿を掴んだ。そしてそれを振り上げた瞬間、鹿田博士が鋭い声を上げる。
「やめたまえ」
その声に師匠がぴたりと静止する。そして苦笑いを浮かべて、「冗談ですよ」と言って、振り上げた灰皿を下ろした。
そのやりとりの意味もわからない僕は、うろたえるばかりだった。
「検査は継続して受けなさい。これからも、できるだけの便宜は図るつもりだ」
博士は、便宜、という言葉を強調するように言った。
師匠にはわかる符牒なのだろう。しかし、師匠は首を振った。
「真下先生は信用できない」
「なぜそう思うのだ」
博士が問い掛けると、師匠は少し黙った。そしてしばらくして、まったく違うことを口にした。
「角南グループってのは、本当に力を持っているんですね。春にちょっとしたことがあって、いろいろ調べていたんですけど。本業の建設会社以外にも、物流や教育分野なんかにも、手を広げている。いわゆる地方財閥だ。ウソか本当か知りませんが、GHQから財閥解体指令を受けるリストから、最後の最後で漏れたとかなんとか…… とにかく、庶民には全体像の把握すら難しい大資本です。そのグループ企業のなかに、うちの医学部とは深い繋がりのある、ヤクモ製薬がありますね」
CMでよく耳にする名前だ。ヤクモ製薬とは、市内に本社を構える製薬会社だ。いわゆる全国企業ではないが、地元では有名な会社だった。
「ヤクモ製薬は、うちの大学の医学部の大スポンサーだ。どの研究室だって、ヤクモの出資や補助金なしではやっていけない。金だけじゃない。人の交流も含めて、ヤクモと医学部、そして大学病院は不可分の関係です。その関係は、近隣のほかの病院や研究機関、他大学の医学部のなかの派閥にも影響を与えています。医師会の構成にもね」
師匠の意味ありげな目つきに、鹿田博士はやれやれ、といった表情を浮かべる。
307: 医者の話 ◆LaKVRye0d.:2017/3/12(日) 00:01:34 ID:igNubrZ3Ko
「教授は東大医学部出身ですよね。うちでは外様だ。そして、鹿田総合病院を抱える、医療法人鹿鳴会グループの会長の娘婿として、大きな名声と力と金を持って、医学部内の権力闘争に勝った。これはヤクモ記念病院を筆頭に、大小たくさんの系列病院を持つ、医療法人ヤクモ会と、鹿鳴会の代理戦争だ。鹿田教授が医学部長の席についてから、うちの大学や大学病院も多少ヤクモとの距離を置きましたね。県外資本がかなり入ったと聞きました。それでも、ヤクモがうちの医学部の、『筆頭株主』だってことは揺るぎません。医学部のトップにヤクモの息がかかっていない、というのは、鹿田教授という特異な人物がいたからこそ生まれた、一時的な現象に過ぎない。そうでしょう?」
「……医学部の内情のことまで、よく調べたものだ」
「教授の退官後は、またヤクモとべったりの医学部長になりましたね。大学病院の院長も即交代でした。ここからはまた、ヤクモの一方的な巻き返しの時間です。さて、免疫病理学の権威だった鹿田教授の薫陶を受け、病理部長に登りつめた真下助教授……いえ、もう教授でしたね。その彼が、鹿田教授という後ろ盾を失った今、学内でどんな立場にいるか、ご存知ですか」
「なにが言いたいのだね」
「ヤクモにしっぽを振り始めるのに、十分な条件が揃ってるってことです」
「……彼は今も私の優れた教え子だ。医学部長の井坂君も、バランス感覚を持った人物だ。どこで訊き込んだのかわからないが、君は組織内のゴシップを真に受けすぎている」
「私の回りに、どうにも気に食わない動きをしているやつがいるんですよ。春にあった、ちょっとした事件で例の角南グループの角南家と関わりを持ってしまいましたが、その関連だと思っていたんですけどね。ヤクモ製薬が角南家の意向を受ける立場にある、とすると、その絵面がもう少し複雑になるんですよ」
鹿田博士は、淡々と語る師匠をじっと見つめている。
「私の『病気』のデータが、渡ってしまっている可能性があるってことです」
「そんなはずはない」
鹿田博士の静かな返答に、師匠は一瞬、悲しそうな表情を浮かべた。
「もうあそこは、あなたの城じゃないんです」
「……」
その言葉を吟味するように押し黙った博士は、やがてゆっくりと口を開いた。
308: 医者の話 ◆LaKVRye0d.:2017/3/12(日) 00:05:15 ID:.b2ry9Rk3M
「君の不安はわかった。そうならないようにしよう。データもこちらに完全に引き上げる。これからは、検査も大学病院へ行かなくていい。ここへ来たまえ。私が診る」
その言葉に、師匠は嬉しそうに頷いた。
「ありがとうございます」
鹿田博士はソファに背中を預けて、深く息をついた。
「君という患者と出会ってから、どのくらいになるかな。まだほんの子どもだったのに、今ではもう、私をやり込めるようになったか。この歳になると、時の流れの加速を感じざるを得ないよ。看護婦の野村君が、わけのわからないことをまくしたてながら、この手を無理やり引っ張って、引き合わせてくれたのが、私にはまるで昨日のことのようだ」
博士はじっと自分の手を見つめている。
細く長い指をしていた。雰囲気に飲まれていた僕には、その指を含む手のひら全体が、1つの芸術品のように見えた。
「教えてください、教授」
「私はもう教授ではないよ」
「名誉教授になったんじゃないんですか」
「そんな呼称に、たいした意味はない」
「とにかく、お聞かせください。次の衆院選は、来年ですよね」
「解散がなければ、再来年だ」
「あるでしょう。これでも新聞はよく読むんです。その来年にあるはずの衆院選には、角南家の御曹司が出るという噂を聞きました。2区で。それは医療法人ヤクモ会の現理事長、角南大輝のことですか」
「なぜ私に訊くのだ」
「教授は、医学科長だった時期に、県医師会の理事をしていたそうですね。大学からのお目付け役として、送り込まれていた。そして、大学を退官し、鹿田総合病院の理事長に就任した今、再び県医師会の理事の職についている。そして来年にはもう県医師会のトップの席に座る、という噂を聞きましたよ」
「そんな噂は初耳だな。理事にしても、めんどうな世話役を押し付けられただけだ。医学部長時代の横紙破りが、今になって色々祟ってきているのだ」
「どんなに謙遜しても、県医師会の理事長の座は、1つの権威です。それも強大な実体を伴った。……衆院選を来年に控え、医療法人を出身母体にした新人候補が、医療、福祉系の大票田である県医師会の事実上のトップに、挨拶をするのは当然でしょう」
「立場的には、仇敵とも言える間柄なのだがね」
「だからこそです。角南大輝は、2区の王にして首相候補とも言われる代議士のHに勝つために送り込まれる刺客だ、という噂です。県医師会は前回の選挙ではHの支援に回りました。その陰には、ヤクモ会が、つまり角南家の力が働いていたことは周知の事実です。その角南家が、今度は自ら候補を立ててきた。Hから県医師会を引き剥がすために、ドロドロの策謀が繰り広げられることは、想像に難くありません。どんな手でも使うでしょうね。たとえ仇敵に、塩を送ることになっても」
309: 医者の話 ◆LaKVRye0d.:2017/3/12(日) 00:08:13 ID:.b2ry9Rk3M
博士はやれやれ、というジェスチャーをしてため息をついた。
「女子三日会わざれば、即ち更に刮目して相待つべし、か。いっぱしのジャーナリスト気取りかね。私は、隠居した老人だよ。静かに本を読んでいたいだけの」
「これは私のカンです。ヤクモ会の角南大輝は、いえ、角南家はどこかキナ臭い。関わらないほうがいい。それをビンビン感じるんですよ」
博士はすく、と立ち上がった。
「さあ、もうおしゃべりは終わりだ。政治家である前に、私は医師だ。君の主治医だ。違うかね」
来なさい。
博士はそう言って、廊下の向こうへ着いてくるようにと、師匠を促した。
生まれついて、人に命令を与えることが体に染み付いたかのような、そんな威厳があった。
別室で検査をするらしい。
小一時間、応接室で1人待たされて、僕はなにがなんだかわからない不安に苛まれていた。
鹿田博士と一緒に戻ってきた師匠は、いつもと変わらない様子だったが、博士のほうの顔色は曇っているようにも見えた。
「待たせたな。帰ろうか」
そう言って帰り支度をする師匠をちらりと見てから、博士は僕に話しかけてきた。
「君は、彼女のパートナーかね」
パートナー?
その奥深い言葉の意味を図りかねて、答えられずにいると、博士は続けた。
「性交は控えたまえ」
はい?
今日一番の衝撃に、瞳孔が広がりそうになった。
「ちょ、ちょっとなに言ってんの教授。人を性病みたいに言わないでよ」
師匠が慌てた様子でまくしたてる。
「命に関わる、と言っているんだ」
真剣な表情で、博士は師匠をたしなめた。
「違うからな。そういう病気じゃないから」と師匠は早口で僕に言ったあと、「やめてよ教授。こいつ、そういうんじゃないし。弟みたいなやつなんだ」と身振り手振りで訴えた。
せいこうはひかえたまえ。
せいこうは。
せいこう。
せいこう。
……
そんなやりとりの横で、僕の頭のなかには、その言葉だけが何度もリフレインされていた。
310: 医者の話 ◆LaKVRye0d.:2017/3/12(日) 00:13:05 ID:igNubrZ3Ko
◆
「ちょっと、待ってください。加奈子さんって、エイ……」
人体の免疫機構にかかわる病名を言おうとして、口ごもった。
なんだか、はばかられて。
師匠の過去の話を聞いていた俺だったが、思わず口を挟んでしまった。それも中途半端に。
話の腰を折られた師匠は、回想に身が入り過ぎていたことに気がついたのか、恥ずかしそうに居住まいを正した。
「違うよ。本当に、そういう病気じゃなかった。というか、むしろ……」
師匠はそう言いかけて、言葉を見繕うような顔をした。
「むしろ、それを病気と呼べるかどうか疑問だね。本人自身が、ほかの医師ならそう診断しない、と言ったように」
「どういうことですか」
俺の問い掛けに、師匠はすぐ答えなかった。
しばらく目を閉じて、なにかを思い出そうとしていた。
そして目を開けたかと思うと、なにやら難しい話を始めた。
「鹿田博士って人は、もう亡くなってしまったんだけど、凄い人だったらしい。僕の師匠は、権力抗争だの、政治力だの、そんなことばかり強調して言っていたけど、医師として、そして研究者としても立派な実績を残している。大学の付属機関だった病理学研究センターの所長もしていて、免疫病理学の世界では大変な権威だったそうだ。博士は、細胞診の基本的な染色法であるパパニコロウ染色を改良して、僕の師匠の検体を調べていた。シュプライト染色、と名づけていたそうだよ。『シュプライト』は妖精という意味だね。元になったパパニコロウ染色ってのは、基本的に細胞核を青藍色に、細胞質を朱色、橙色、緑色に染め分けて、調べる手法だ。ところが、僕の師匠の検体に含まれるある物質が、従来の染色法になじまないために、わざわざ研究して確立したのが、そのシュプライト染色だ」
「なんですか、その、ある物質って」
師匠は、そうだな、と言ってどこまで言おうか吟味しているような顔をした。
「細胞のなかに、普段は普通の細胞として働いているけど、ある瞬間を境に、まったく別のものに変質する細胞があったんだ。博士は、その細胞の正体を調べるため、シュプライト染色を施したんだけど…… 特定の細胞のなかにだけ、青黒く染まる奇妙な細胞質が存在していることに気づいた。博士はその細胞質をシュプライト変異体と名づけた。博士は、その変異体の性質を徹底的に調べ上げた。その結果、これは現代医学における『エラー』だと言ったそうだ。そうしてそれ以上の研究を放棄した。もちろん学会での発表はおろか、学内でも秘匿していた」
「エラー、ですか」
俺は、きょとんとしてオウム返しをした。
師匠は頷いて続ける。
「まるで夜のような色に染まるその細胞質を含む、特定の細胞群…… その細胞を博士は、夜の細胞、『Night Cell』と呼んでいた」
ナイト・セル。
なんだか、教育テレビの科学講座を見ているような気持ちになる。小難しい話だ。
「よくわかりませんが、それが加奈子さんの病気と、どういう関係があるんですか」
「だから、それを病気と呼んでいいのかもわからないんだって」
「だったらなんなんですか」
師匠はその問いに、はぐからかすような薄ら笑いを浮かべたあと、ぽつりと言った。
「特異体質」
(完)
311: MMO ◆LaKVRye0d.:2017/3/12(日) 00:16:30 ID:.b2ry9Rk3M
『MMO』
大学6回生の春だった。
そのころ俺はオンラインゲームにはまっていた。
単位が足らず、卒業が延びに延びていたが、去年それなりに頑張ったおかげで目処がつき、大学生活最後の1年は好きなだけゴロゴロしようと心に決めていた。
趣味だったパチンコも真剣にやれば生活費くらいなら稼げるようになったので、バイトもやめた。大学の研究室は、卒論のために顔は出していたが、指導教官と最低限のやりとりをするだけで、後輩連中などろくに顔も覚えていない有り様だった。
とにかく2年も卒業が遅れると、知り合いや友人が格段に周囲から消える。所属サークルは元々足が遠のいていたし、去年あたりからなぜか女子部員がやたら増えて、かつてのもっさりした雰囲気がすっかり変わってしまっていた。 何度か顔を出したが、居場所のなさを痛感して、ここも自然に足は遠のいた。
ネットのオカルト系フォーラムにもまったく関わらなくなっていたし、あれほど参加していたオフ会も今ではあるのかすらわからない。
かくして立派な引きこもりの誕生だ。
その生活を如実に表す、当時手遊びに書いた詩の一部を紹介しよう。
…………
ドアを乱暴に閉め
僕は真っ先に台所の蛇口をひねる
パチンコ屋でしみついたタバコの匂い
喧騒に包まれた冒険を終え
懐にはささやかな勝利と
つめこんだ寿司とがある
僕は一心に手を洗う
毎日はアメーバのようだ
懐の勝利は明日には消え
寿司は明後日には出て行く
…………
その、アメーバのような毎日に突然訪れた、新しい世界が『MMORPG』大規模多人数型オンラインRPG。いわゆるネットゲーム、オンラインゲームだった。
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