ここでは、まとめの怖い系に掲載されている『師匠シリーズ』の続きの連載や、古い作品でも、抜けやpixivにしか掲載されていない等の理由でまとめられていない話を掲載して行きます
ウニさん・龍さん両氏の許可は得ています
★お願い★
(1)話の途中で感想等が挟まると非常に読み難くなるので、1話1話が終わる迄、書き込みはご遠慮下さい
(代わりに各話が終わる毎に【了】の表示をし、次の話を投下する迄、しばらく間を空けます)
(2)本文はageで書きますが、感想等の書き込みはsageでお願いします
それでは皆さん、ぞわぞわしつつ、深淵を覗いて深淵からも覗かれましょう!!
268: 雲 ◆LaKVRye0d.:2017/3/2(木) 15:04:14 ID:OzMS.RB7HM
407 :雲 後編 ◆oJUBn2VTGE :2013/09/06(金) 22:25:48.72 ID:kIaSDyGu0
外は雨だ。額に、顔に、大粒の雫がかかる。雨脚はさほど強くないが、空を見上げようとしても、なかなか目を開けられない。
それ以前に、真っ暗な空にはどれほど目を凝らそうとも何も見えなかった。
目を細めていた師匠が「くそっ」と短く叫ぶと、家の中に取って返した。一分と経たずに飛び出してきたその手には、車の鍵が握られていた。
「来い」
師匠は僕にそう言うと、駐車場へと駆け出す。
「こんな雨の中、どこ行くんです」
僕は追いかけながら叫ぶ。心臓がドクドク言っている。さっきまでの穏やかな時間はどこに行った? ていうか、返事は?
エンジンが掛かる音を聞きながら助手席に飛び乗る。
「傘も何も持って来てないですよ」
運転席の師匠に訴えるが、師匠は親指で後部座席の方を示し、「合羽と傘は常備品だ」と言って車を急発進させた。
フロントを叩く雨粒を跳ね飛ばしながら、ボロ軽四は住宅街をありえない速度で走る。急ハンドルを切っている間に電信柱が迫るのが見えて思わず仰け反った。
「な、ちょ、な……」
何か喋ろうとすると、舌を噛みそうになる。これほど乱暴な運転は珍しい。どうして師匠はこんなに焦っているんだ?
幹線道路に出て、さらにスピードが上がる。しかし右へ左へという横へのGがなくなったので、ようやく一息ついた僕は「なんなんですか。どこに行くんです」と訊いた。
「通ったんだよ!」
師匠がハンドルにしがみつきながら叫ぶ。
ゾクリとした。
通った。そうだ。さっきの、室内が一瞬暗くなる現象。あれは、何かが通ったのだ。雨雲で覆われた上空を、巨大な何かが。まるで無いはずの光源を遮るかのように。
ぞわぞわと肌が浮き立つ。何度も経験した小さな怪異とは、全く違う。いつもの日常とほんの少しだけずれた不思議な出来事なら、これほど師匠が取り乱すことはない。
そんなものと比較にならない。人知の及ばない、何か。
僕は雨だれが車の屋根を打つ音に聞き耳を立てる。
「どこへ行くんです」
もう一度その問いを投げかけると、「山」という短い答え。
「なぜです」としつこく訊くと、うるさいな、という感じで師匠は「ここに居たんじゃ、よく見えないからだ」と言った。
269: 雲 ◆LaKVRye0d.:2017/3/2(木) 15:11:03 ID:MTtPtGwQAc
408 :雲 後編 ◆oJUBn2VTGE :2013/09/06(金) 22:28:16.09 ID:kIaSDyGu0
「山の方は、風下だ。降り始めてからまだたいして経ってない。雨雲がまだ到達してない可能性が高い」
雨雲が到達していなかったら、なんだと言うんだ。重ねてそう訊ねようとして、その前に答えに思い当たった。
見たいのだ。師匠は。一体何が上空で起こっているのか。あるいは、空の下の街で、今何が起こっているのか。
そして車線変更をした瞬間、数日前に登ったばかりの山に向かっていることに気づく。師匠がせんせいと呼ぶ、雲消し名人のいる山にだ。
車が山道に入る手前で、雨脚が急に弱まりやがて完全に止んでしまった。雨雲の先端を抜けたのだ。
水気を失ったワイパーが耳障りの悪い音を立てる。くねくねと曲がりくねる山道をガードレールすれすれで登り続け、前回の登山口に差し掛かったが、止まらずに通り過ぎた。道は悪くなったが、まだ車で先へ行けるようだ。
途中、師匠がふいに口を開いた。
「お前、気づかなかったか」
「何にです」
「雲だよ。雲。空に、変な雲が浮かんでたろ」
「変な雲?」
いつのことだろう。そう思って訊いてみると、師匠は「このところずっとだ」と吐き捨てるように言った。
「ドーナツみたいな形の雲だ」
何故かゾクッとした。確かに見ている。最近、何度か。しかしそんな食べ物に似た形の雲なんて、お腹が空いていたら何でもそう見えるってだけのことじゃないのか。
「ずっと見たか」
「え?」
「そのドーナツ雲をずっと見てたか」
「ずっとは、見てないです」
そう答えた僕に、師匠は奇妙なことを言った。
「穴の位置が変わっていない」
見続けていたら分かることだ。
師匠は険しい顔のままで言う。
「楕円形に近い形の大きめの積雲が、風に流されている間に、急に先端が凹むんだよ。その凹みが内側に入り込んで来て、先端がまた雲で塞がる。それで穴が出来るんだ。
雲はドーナツに似た形になる。穴の位置はどんどん風上の方へ移動していく。雲が動いていくのに、穴の絶対位置が変わらないからだ」
270: 雲 ◆LaKVRye0d.:2017/3/2(木) 15:14:37 ID:OzMS.RB7HM
409 :雲 後編 ◆oJUBn2VTGE :2013/09/06(金) 22:31:14.76 ID:kIaSDyGu0
穴の位置が変わらない? どういうことだ。
雲は風に乗って流れて行く。
空全体が流れて行く中で、絶対位置というものが意味するものを考える。その時、頭の中に奇怪な想像が浮かんだ。
そんな、馬鹿な。ありえない。
思わず口に手を当てていた。
流れる空における絶対位置とは、地上の位置のことだ。地上の同じ地点の上空に、雲の穴が出来ている。
そこから導き出される絵が……
脳裏に瞬く前に、師匠が車を止めた。
「行くぞ」
「ちょっと待って下さい」
僕は後部座席にあるはずの傘と合羽を探したが、見つからなかった。常備品が聞いて呆れる。
師匠は平然とドアを開けて外に出た。慌てて僕も飛び出して、追いかける。雨は降っていないが、あたりは真っ暗だ。車から持ち出した懐中電灯で前方を照らしながら師匠が早足に進む。
行き止まりに見えた舗装道から、奥の藪を抜けると前回歩いた覚えのある山道に出た。かなりショートカット出来ている。その道を二人で急ぐ。もちろん登る方へだ。
足元が良く見えない分、ガサガサという下生えの感触が気持ち悪い。蛇の尻尾を踏んでしまっても分からないだろう。
そうして十分かそこらは歩いただろうか。
『ここから先、私有地』という立て札が懐中電灯の明かりに浮かび上がったが、その枝道には入らず、僕らは先へ進んだ。
やがて道が開け、左側が崖になっている場所に出る。街が一望できる絶景だ。崖の側まで近づくと、遠くの地上に小さな星のような光が微かに輝いているのが見える。街の明かりだった。
崖の手前の平らな岩の上に、立っている人影がある。
「せんせい」
師匠が呼びかける。するとその修験者姿の老人が振り向いた。
「何をしに来た、わた雲」
声が嗄れていた。口にした瞬間、ゴホゴホと咳き込む。
「あ……」
そんな老人が屈む姿にも目を向けず、師匠は真っ直ぐ前を見て絶句し、呆然と立ち尽くした。
空が。
真っ暗な空がある。
271: 雲 ◆LaKVRye0d.:2017/3/2(木) 15:18:07 ID:OzMS.RB7HM
410 :雲 後編 ◆oJUBn2VTGE :2013/09/06(金) 22:32:57.75 ID:kIaSDyGu0
暗さに慣れた僕らの目には、そこに浮かぶ巨大な入道雲の姿がかろうじて捉えられる。闇と同化する夜の雲の群の中に、その雄大な輪郭がわずかに浮かび上がっている。
山の上の雲の切れ間から覗く微かな月光のためだった。
入道雲の底は、明かりもまばらな街の上空を覆っている。巨大な蓋のように。その雲の底から、異様なものが突き出ていた。
「手…… 手だ……」
思わず僕は呻くように呟いた。声が震えた。目を細めてもっとよく見ようとする。
手だ。
巨人の手が、漆黒の入道雲の底から出ている。
いや、雲だ。あれも。
巨大な手のように見える形の奇怪な雲。長い棒と、少し膨らんだ手のひら、指。肘から上の部分が下向きに伸びている。
この距離からでも分かる。夜の暗さに混ざり合いながら、密度の違う黒が、そんな形をしているのが。
「じじい、あれはなんだ」
師匠が前方を見据えながら、前回のようなどこか柔らかい物腰を取り払って、鋭い口調で問い質した。
「……雲だ」
「本当に雲か」
老人は小刻みに震えながら小さく頷く。
「び……尾流雲だ……いや、違う。違う。形は近いが、あれは、あれは…… 馬鹿な。あんな形の……」
「おい、じじい。なんだ。はっきりしろ。あれはなんだ」
師匠が詰め寄って老人の方を揺する。
「ろうと」
「なに?」
「ろ……漏斗雲だ……!」
「漏斗雲って、竜巻になるやつか?」
師匠はそう言って崖の方を振り返った。
僕も岩の先に近づき、限界まで身を乗り出す。全神経を集中して目を凝らすと、雲の底から伸びる手の先が少し見えた。
腕の部分は筒状になっている。そしてその先は何本かに分かれていて、まるでそれが指のように見える。何かを掴もうとしているみたいに広がって、地上に降下しようとしていた。
「漏斗雲って確か、積乱雲とかの底から降りてきて地面に降りたら竜巻になるやつだな。あんなでかいのか」
272: 雲 ◆LaKVRye0d.:2017/3/2(木) 15:21:52 ID:MTtPtGwQAc
411 :雲 後編 ◆oJUBn2VTGE :2013/09/06(金) 22:35:20.00 ID:kIaSDyGu0
師匠が問い掛けると、老人はいきなり「ええええい」と叫んだ。
そして両腕をいっぱいに突き出し、「消えろ」と喚く。
雲消しだ。
だが前回見た時より、なにか違う。腰を落とし、右手と左手を交互に突き出し。その両手が交差する瞬間に、なにかの印を結ぶ。そして一定のリズムで両手の押し引きを繰り返し始めた。
「あんな、指みたいな形になることがあるのかって、聞いてるんだ」
師匠が怒鳴るが、全く耳に入っていない様子で、老人は雲消しの動きを繰り返している。
あんな巨大な雲が消せるのか。
師匠は種明かしをしていたじゃないか。消せるのは、いや、正確に言うと、消えるのは消滅しかけの小さな積雲だけだと。
僕は立ち尽くし、呆然と目の前に広がる信じ難い光景を見ていた。闇の中に異様な密度を持って浮かんでいる巨大な入道雲。真っ黒なその姿は何とも言い難いような禍々しさを秘めていた。
中国の古い物語を読んでいると、「不吉な雲気」が空にあるのをみて、凶兆だとする話がよくあったことを思い出した。
不吉な雲気とはどんなんだろうと思っていたが、もしそんなものが本当にあるのなら、目の前のこれがそうだろうという確信に似た思いが浮かぶ。
「ふざけるな」
師匠が誰にともなく吼える。
頬を震わせ、両手を強く握り締めている。
「やめろ…… やめろ!」
そしてその視線の先には恐ろしい巨人の手が。
巨人の手?
その時、僕の脳裏に光が走った。この山上に登る途中で浮かび掛けたイメージが、再来したのだ。
ドーナツ型の雲。
その穴。
穴の位置は変わらない。風に流れる雲に逆らって、穴の位置だけが。地上の同じ地点の上空に、必ず穴がある。
見えてくる。見えてきた。イメージが勝手に、透明なものの、ありえないはずの輪郭を絵取っている。
巨人だった。
目に見えない、巨大な人型のなにかが、じっとそこに立っている。円筒のように雲を刳り貫いて。そして雲はドーナツの形になる。見えない巨人は途方もなく大きい。遥か上空にある雲を突き抜けている。一体どれほどの大きさなのか想像もつかない。
273: 雲 ◆LaKVRye0d.:2017/3/2(木) 15:25:47 ID:OzMS.RB7HM
413 :雲 後編 ◆oJUBn2VTGE :2013/09/06(金) 22:39:42.77 ID:kIaSDyGu0
巨人。巨人……
僕は身体の芯が震えた。そんなものが存在するはずがない。師匠がこのあいだ巨人について調べていたことが、なにかの予兆のようなものだったのか。
「やめろ」
師匠が食い破ろうとするような目付きで、目の前のありえない光景に身を乗り出す。
真っ黒な雲の底から伸びる手が、渦を巻きながら同時にその指先を幾本も地上に垂らそうとしている。
あれが地上に落ちたら、竜巻が発生するというのか。鈍重な雲の下にいる人々は、その迫る危機に気づかず、眠っているのだろうか。
惨事の予感が身体を貫く。恐怖が押し寄せてくる。
こんなことがあっていいのか。
ガチガチと歯の根が合わない。
ただの自然現象ではないことは直感で分かる。では、自然現象ではない自然現象とは、一体なんだ?
一体なにものにこんなことが起こせるというのか。
その時、ハッと気づいた。
指の先にばかり目を奪われていたが、その上部にある腕の部分はなんなのだ。もし。もし、あの指がすべて地上に落ち、竜巻を無差別に発生させたとしても、それで終わるのか? 指が地上に落ちた後、腕がそのまま降下したとしたら……
とてつもない大きさだ。
あれが、竜巻になるのか。うそだろ。
想像しただけで、目の前が真っ暗になった。
師匠を振り返る。
しかし同じ格好のまま、立ち尽くしているだけだ。
どんな心霊現象にあっても、師匠ならなんとかしてくれる。そんな幻想を抱いていた。でも、こんな、こんなものは。どうしようもないじゃないか!
目の前で起こる異常な現象をここで見ていることしかできない。
僕らは日常の隣にある不思議な世界を何度も見てきた。それは日常のほんのちょっとしか隙間から覗くことができたし、時には日常に影響を及ぼすこともあった。だがそれは僕たちに違和感を、恐怖を抱かせるだけの現象に過ぎなかった。
しかし、今目の前で起ころうとしていることは、日常とそういう世界の間の境界線が破れてしまうことに他ならなかった。
「えええええい! ええええええええい!」
老人が一心不乱に雲を消そうとしている。
274: 雲 ◆LaKVRye0d.:2017/3/2(木) 15:30:52 ID:OzMS.RB7HM
414 :雲 後編 ◆oJUBn2VTGE :2013/09/06(金) 22:40:56.18 ID:kIaSDyGu0
ぽつり、と僕の額に雨の粒が落ちた。雨雲が移動して来たのだ。街なかを濡らしていた雨雲が、風に乗ってここまで。
ぽつ、ぽつ、と雨が岩の上に落ちる音が聞えてくる。
傍観者だった。
僕は無力で、見ていることしかできなかった。恐怖に身体を縛られながら。
思わずその場にへたり込んだ。岩の冷たさが、尻のあたりに伝わってくる。
や…… め…… ろ……
師匠は押し殺した声でそう言うのを隣で僕は聞いていた。
その時だ。
僕の中に別の感情がふいに浮かんできた。
なんだこれは。
一瞬、周囲の音が消える。真っ暗な描画の世界で、僕の中に浮かんだ感情の正体を見つめようとする。しかし厚いベールの奥にあったのは、恐怖だった。恐怖に支配された身体の中に、さらに恐怖が潜んでいた。
や
め
ろ
一音節ずつの言葉を聞きながら、別の種類の恐怖がだんだんと大きくなって行く。
それは目の前の異常現象に対するものよりも、大きくなりつつあった。
首の中に無数の鉄の欠片が混ざり込んだように、ギシギシと音を立てている気がする。僕は、すぐ隣を振り向けなくなっていた。すぐ隣に立っているはずの人を。
雨が強くなり始めた。髪に、額に、肩に雨粒が落ちてくる。
影の群。闇に浮かぶ顔。声だけの死者……
どんな心霊現象にも、対応してきた。解決し、消滅させ、時に逃走し、けっして負けなかった。
しかし。
だめだ。
これだけはだめだ。
これだけは止めてはだめだ。
275: 雲 ◆LaKVRye0d.:2017/3/2(木) 15:36:38 ID:MTtPtGwQAc
416 :雲 後編 ◆oJUBn2VTGE :2013/09/06(金) 22:43:50.40 ID:kIaSDyGu0
僕は自分の中に育ち始めたその別種の恐怖を抑えながら、声にならない声をあげる。背後からは老人の掛け声がいやに空疎に響いてくる。
さっきまで目の前の異常な自然現象に、止まってくれという無力な念を送っていた僕の思考が、完全に反転した。
止まるな。
止まるな!
ガタガタと膝が震える。たった二メートル隣が振り向けない。
その僕の視界の端に、微かな光の粒子が見えた気がした。
◆
どれくらい時間が経っただろうか。
全身を大きな雨粒が叩いている。周囲はますます暗くなり、視界が利かなくなった。空に稲光が走る。
その瞬間、老人が動きを止め、僕のすぐ横に顔を突き出した。
「消えおった」
そう言って絶句する。
驚いて僕も雨雲の彼方に目を凝らすが、もう何も見えない。すべてが漆黒の海に沈んでしまったかのようだ。
「消えた」
師匠も僕のすぐ前に足を踏み出し、上気した声をあげる。
「風だ。雨雲が流されて、途切れたんだ」
目を見開いて僕を振り返る。濡れた髪が額に張り付いているけれど、いつもの師匠だった。僕も立ち上がった。
そうか。
今いる山の方角が風下だ。雨雲がこちらへ到達して、街の方はあの巨大な入道雲、つまり積乱雲の下から逃れたんだ。
だが、あの奇怪な現象までがこちらにやって来るわけではない。それが直感で分かる。
なぜなら、何度も見たドーナツ雲の穴は地上から見たその位置が固定されていたからだ。
「あれ」は多分、そこを動けない。そして雲にしか影響を与えられない。雲さえ途切れてしまえば、何も出来ない。
それも、普通の積雲ならその位置にいくらあっても無力だ。元々竜巻を起こすポテンシャルを持った積乱雲があって初めて地上に破壊的な力を及ぼすことが出来るのだ。
なぜかそれが分かる。
276: 雲 ◆LaKVRye0d.:2017/3/2(木) 15:40:45 ID:JnGbXyEaJs
417 :雲 後編 ラスト ◆oJUBn2VTGE :2013/09/06(金) 22:44:40.24 ID:kIaSDyGu0
人知を超えた力で捻じ曲げられた気流が、雲が、その力から逃れたのだった。
「消したぞ。わた雲。どうだ」
老人が両手を振り回しながら喚く。その時、稲妻が走り、光で空が切り裂かれた。直後に轟音が響く。
「まずいな。雷雨だ」
師匠はそう言って、老人の肩を抱えた。
「せんせい、山小屋に非難しましょう」
「わしが消したのだ!」
老人は上ずった声でそう繰り返した。
「行くぞ」
師匠は僕に目配せすると、口に懐中電灯を咥え、老人を半ば引きずるようにして山を降り始めた。
僕は岩を降りる時に足を滑らせてしまい、尻餅をついた。師匠の持つ懐中電灯の光が遠ざかりつつあるのに焦り、慌てて立ち上がる。ますます雨が強くなる山道を恐る恐る降りて行く。
僕は一度だけ背後を振り返った。
視界がなくなり、もう地上の光も何一つ見えない。その上空にあった入道雲も。あの手のような形のものも。
ただ、僕の頭は想像している。
雨雲の彼方にそびえ立つ、とてつもなく巨大な人影を。
それは透明で、けっして目には見えない。しかし、顔の位置にある、何もない空間がこちらを向いている。それが今、僕らのことを見ている。
その凍るような視線を背中に感じながら、僕は縮こまりそうな足の筋肉を叱咤し、師匠の後を追い掛けた。
(完)
277: 1 ◆LaKVRye0d.:2017/3/2(木) 15:46:38 ID:pxB8hyNJFE
今日は、ここまで
短編〜前後編位の長さは2話纏めて、
3分割以上の話は1話ずつ投稿しようと思っています
ペースは週に2回位
あくまで目安ですけれどね
読んで下さっている皆様、有難うございます
【了】
278: 溶接 ◆LaKVRye0d.:2017/3/6(月) 03:23:14 ID:gnmyXvpANA
『溶接』
大学一回生の冬。
俺は自分の部屋で英語の課題を片付けていた。その頃はまだ、それなりに授業も出ていたし、単位もなんとか取ろうと頑張っていた。
ショボショボする目で辞書の細い字を指で追い、構って構ってとちょっかいを出してくる子猫の小さい手を掻い潜りながら、ようやく最後のイディオムを翻訳し終えた。疲れた目を押さえ、テキストを仕舞う。
もう夜の一時半を回っている。寝ようかと思い、欠伸をしたところで部屋の隅のパソコンが目に入った。そう言えばここ何日かインターネットに繋いでいなかったことを思い出す。
パソコンの前に座り、電源を入れると、とりあえずオカルトフォーラムを覗いてみることにする。
そこは地元の人々が集う場所だった。本来は黒魔術などの西洋系のオカルトに関する話題を扱う場所なのだが、常連たちもあまり堅いことを言わないので、そんな話に限らず、みんな割と何でも話している。
その時も、話題は心霊スポットに関するもののようだった。
ログを遡って流れを確認していると、伊丹さんという人が突発的なオフを提唱していたらしい。突撃オフというやつだ。伊丹さんは男性で、商科大の三年生だった。
『その廃工場の地下に、なんのためにあるのか分かんない空間があるんだって』
伊丹さんは隣の市の外れにあるという廃工場にまつわる噂話をどこからか仕入れて来ていた。
「ユキちゃん。前のご主人様が遊ぼうってさ」
俺はパソコンの前に座ったまま、そばに来た子猫をつかまえて抱き上げる。メスの白猫で、ついこの間、その伊丹さんの家からもらって来たばかりだった。
最近伊丹さんのアパートに野良猫が住み着いていたのだが、それが子どもを四匹も産んだとのことで、俺を含む知り合いに片っ端から声をかけたらしい。
『なんか、だだっ広い地下室の床に血みたいな染みがあって、夜中にそこへ行くと血の上にぼうっと立ってる幽霊が見えるんだって』
279: 溶接 ◆LaKVRye0d.:2017/3/6(月) 03:27:03 ID:j8TyQ/9PDE
そんな書き込みの後で、今から突撃するから参加者募集、と続けていた。
タイムスタンプを見ると一時間以上前だ。何人か反応していたが、今からは無理、という声ばかりだった。
そして三十分ほど前に、『う〜ん、じゃあツレと二人で行って来る』という伊丹さんの書き込みがあった。それが最後だ。
その後で、別の誰かが『今来た。もう行っちゃった? 俺も行きたかったな。なんか場所よく分かんないし、報告待ちにするわ』と書いてあったが、それにも反応はなかった。
「前のご主人様はもう遊びに行っちゃったみたいだねえ」
子猫に話しかけながら身体を前後に揺する。
その頃はまだ、出先から携帯電話でネットの掲示板を更新する、というような文化はなかったので、オフ組が自分の家に戻るのを待つしかなかった。
俺もその廃工場への突撃がどうなったか気にはなったが、猛烈に眠くなってきたので、今夜はもう寝ることにした。
だから、その後のひと騒動を知らずにいたのだった。
次の日の夜のことだ。
俺が自宅でぼんやりしていると、PHSに電話が掛かってきた。出ると、みかっちさんというハンドルネームのオカルトフォーラム仲間からだった。
なにか面白いことがあったから、来いということらしい。テンションが高くて半分くらい何を言っているのか分からなかったが、とりあえず混ざることにした。
寒波が来てるとかで、外はやけに寒かった。遊ぼうとワキワキしている子猫を残し、精一杯の厚着をして部屋を出ると、俺は自転車に跨って目的地に向かった。
いつものオフだと、だいたいファミレスか居酒屋、あるいはcoloさんというハンドルネームの女性が住んでいるマンションの一室に集まるのだが、その日は和気さんという男性のアパートが集合場所だった。
和気さんはオカルトフォーラムの管理人で、普段はあまりオフなどには出てこないのだが、最古参ということもあり、常連の中でも一目置かれた存在だった。というか、むしろフォーラムの創設者だったからか。
一度だけ部屋に行ったことがあるのだが、とても物静かな人だった。
雰囲気は全然違うのだが、容姿がどこか俺のオカルト道の師匠に似ていて驚いたことを覚えている。
280: 溶接 ◆LaKVRye0d.:2017/3/6(月) 03:30:22 ID:gnmyXvpANA
寒空の下うろ覚えの道を進み、ようやくそのアパートにたどり着いた。
ノックすると、ドア越しに人の話し声が聞えて来る。構わず中に入り、「ちわ」と言いながら靴を脱いだ。
「お、来た、少年」
みかっちさんが手を振っている。
部屋の中は暖房が効いていて暖かかった。あまり広くない一室に数人が車座になっている。
全員見知った顔だった。いつもはファミレスなどでオフをするのだが、一部の常連たちはさらにその後、反省会などと称して誰かの家に集まり、二次会を開くのだ。
誰が呼んだか、密かに『闇の幹部会』などと呼び習わされていたりする。俺も若輩の身ながら、なぜかその一員に入れてもらっているのだが、ようするに気の合う仲間で集まっているだけだった。
今日集まっていた仲間は俺を除いて全部で四人。
みかっちさん、ワサダさん、という女性陣に、和気さんと伊丹さんという男性二人。このうちワサダさんと和気さんは社会人だった。
あれ?
伊丹さんと言えば……
俺は昨日の突発的な突撃オフのことを思い出した。あの後どうなったのだろう。ツレと行くって言っていたけれど。
その時、俺は前に座っている伊丹さんの様子がおかしいことに気がついた。目に隈が出来ていて、表情がどこか切羽詰っている感じだ。そしてしきりに貧乏ゆすりをしている。
僕の顔を見ても、「猫元気?」とも訊いてこなかった。なんだか気まずい雰囲気だ。
「ええと、今来たヒトもいるから、もう一度見てみる?」
沢田さんが提案する。
「そうね。見よう見よう」とみかっちさんが頷く。
「じゃあ、最初からでいいかな」
和気さんが自分の部屋のビデオデッキを操作し始める。どうやらみんなでビデオを見ていたらしい。
部屋にいた全員が、身を乗り出すようにしてテレビ画面に目をやる。一瞬砂嵐が映った後、ビデオが始まった。
281: 溶接 ◆LaKVRye0d.:2017/3/6(月) 03:32:34 ID:j8TyQ/9PDE
◆
最初は懐中電灯が暗い夜道を照らしている場面だった。画面が揺れている。歩きながら撮影しているようだ。
『ええと、もう映ってんのこれ?』
伊丹さんの声がする。
『ほら』という別の男性の声とともに画面が動き、伊丹さんがアップで映った。懐中電灯を当てられている顔だけが暗闇に浮かび上がっている。
『おい、眩しいって』と手のひらで庇った後、少し明かりの焦点の位置がずれる。
『ええと、いま藤原と二人で心霊スポットに向かってまぁす。クッソ寒いでぇす』
そう言う口の端から白い息が出ているのが映っている。
『噂の廃工場の秘密の地下室へ突撃する決定的瞬間を撮るために、藤原を無理やり誘ってまぁす』
そう言いながら、伊丹さんは歩き始める。
カメラはしばらく伊丹さんの横顔を映していたが、やがて前を向き、行く先の暗い道を映し始めた。
『まだついてんの、それ』
『おう』
画面の外から声だけが聞こえる。
『今回は、残念ながら他の人の参加はありません。突発すぎたので反省です。二人だけなので、ちょっと怖いです』
『ていうか、なあ、これ道あってんの?』
『あってるって。ええと、さっきまでちょっと迷ってましたが、ここまで来たら後は一本道らしいんで、多分大丈夫でぇす』
ザッザッザ…… という二人の足音をマイクが拾っている。
舗装されていない道らしい。山の中だろうか。懐中電灯の明かりが二本、揺れながら地面ばかりを照らしている。
『さっきから、なんか山鳩?の声がしてます。結構怖い雰囲気です』
伊丹さんの声がそう言った後、『寒っむう』と続けた。確かに山鳩の声が遠くで聞えていた。
それからしばらく二人は黙ってしまい、ただ画面が前に進みながらガサガサと揺れていた。
その場面が淡々と続いていたかと思うと、ふいに電話の着信音が聞えた。立ち止まり、カメラが伊丹さんを映す。
『あ。もしもし。伊丹ですけど』
携帯電話を耳にあて、伊丹さんが誰かと話している。
『あ、掲示板見てくれた人っすか。どうも、始めまして。良かった。こっち二人で心細かったんで。今どこです。え? 先? うっそ。まじ?』
そこでカメラが振り向き、前方を映した。しかし懐中電灯の明かりには、何もない道だけが浮かび上がっていた。
『そっち何人ですか。三人? え? 男二人? うちと一緒だ。ていうか、なんかもうそこ着いてないスか』
伊丹さんが、「行こう」と手で合図する。
カメラが進み出し、また上下に揺れる。
『そうそう。それが廃工場ですよ。間違いないスよ。うちら、二、三分前に石碑みたいなところを曲がったんですけど、後は一本道ですよね。後どのくらいで着きますか』
暗闇に伸びている道のバックで、伊丹さんの声が聞えている。
『ちょ、ちょ、ちょっと待ってよ。一緒に行こうよ。待っててよ』
伊丹さんが焦った声を出す。そしてカメラが早足になる。
『蓋? 蓋があんの? 鉄製? あ、多分それ。その下が。ていうか、もうちょっとで着くから一緒に行こうよ。抜け駆けはなしだって。おい』
携帯電話に向かって大きな声で呼びかけたが、向こうからの反応がないようだった。
『もしもし、もしもし』
くっそ。先越された。
伊丹さんは毒づくと、カメラの前に出た。その背中を追って、映像は続く。
二、三分ほど経っただろうか。ずっと木立ばかり照らしていた光が、無機質な壁に反射した。苔むしたなにかの建物だ。
282: 溶接 ◆LaKVRye0d.:2017/3/6(月) 03:35:47 ID:j8TyQ/9PDE
『どっちだ』
カメラの先を行く伊丹さんが懐中電灯を振りながら入り口を探す。
『あ、こっちこっち』
そしてカメラを手で招きながら壁を回り込む。その先に左右二枚の横開きの大きな扉があり、片方の扉の下部が潰れ、斜めに傾いでいるせいで、ひと一人が十分出入り出来る隙間が出来ていた。
『おおい。いますか』
伊丹さんが懐中電灯をその隙間に差し入れながら声を掛ける。
そうしておっかなびっくりといった様子で、自分の身体を隙間に滑り込ませた。すぐに隙間から顔が覗き、『入れるか?』と訊いて来る。
『いける』
カメラもそれに続いて隙間から入っていった。
元は一体何の工場だったのか、中はほとんどもぬけのからで、錆びたドラム缶がいくつかと、破れ目から砂がこぼれている白い袋が隅の方に転がっていた。
工場の中を見回している一瞬、音が消えた。他の人影も見えない。画面から冷え冷えとしたものが漂って来る。
一部が破れたトタン屋根の天井から一筋の月光が降りて来て、床の中央に満月のような模様を描いていた。雨も吹きさらしなせいか、そこだけ床が汚らしい色に変色している。
『あれじゃないか』
伊丹さんが手に持った明かりを、左奥の隅に向ける。
近づいていくと、木なのか金属なのか見た目で判別がつかない建材のようなものが積まれているその脇に、蓋が見えた。
カメラが近寄り、斜め上からその姿を映す。網のような模様のついた金属製の蓋だ。
縦横五十センチくらいの四角い形状をしている。かなり大きい。人が十分出入り出来そうな大きさだ。
伊丹さんがゴン、ゴン、と蓋を叩いた。
『いますか』
しばらく待ったが反応がなかった。
『これ持ち上がるのか』
カメラから声が掛かると、伊丹さんは顔を上げる。
『さっきの人が、開けてたからな。電話からギィーッて聞えたから。こう、ガポっと持ち上げるんじゃなくて、どこかの縁が固定されててそこが軸になって持ち上げるタイプじゃないかと……』
そう言いながらまた蓋に目を落とした瞬間、『えっ』と絶句した。
『ちょっと待てよ!』
建物の中に悲鳴に似た声が響く。
『なんでこれ溶接されてんだよ!』
大きくぶれた後で、カメラがさらに蓋に近づく。そして地面との境目を映し出す。
コンクリートの地面に鉄製の縁取りがあり、その内側にまるでマンホールのような質感のずっしりした蓋があるのだが、本来であれば、持ち上げる時のとっかかりとなるはずの穴が縁取りに沿って開いているはずだった。
しかし、その蓋には穴の痕跡はあるものの、縁取り全体にそって溶接をされていて、穴も完全に塞がっていた。
283: 溶接 ◆LaKVRye0d.:2017/3/6(月) 03:38:22 ID:gnmyXvpANA
『どういうことだよこれ』
伊丹さんは息を飲みながら、また蓋を叩いた。
『おおい。いるのか。おおい』
『おい、落ち着けって』
カメラからそう声が掛かるが、髪を振り乱して顔を上げると、伊丹さんは嗚咽のような声を絞り出した。
『開けて入ったんだって。電話のやつが言ってたんだよ。先に降りとくって! ギィーッ、ゴトッって音がして、電話が切れたんだよ! さっきのやつ、入ってんだって。この中に』
その切羽詰ったような表情に気おされたように、カメラが一瞬引いた。
なんとかして蓋を開けようとしているが、力を入れるとっかかりさえない状態だった。
ゴン、ゴン。
蓋を叩く鈍い音が聞える。
『誰が塞いだんだよ、これ』
喚く伊丹さんの様子がただならないことに気づいたのか、カメラが床の上に置かれ、画像が一瞬乱れる。
斜めになった画面の端で二人の人影がもつれあっている。
『落ち着けって。そんな一瞬で溶接できるわけないだろ。勘違いだって』
しばらく言い争いをしていたが、カメラマンの説得にようやく落ち着きを取り戻し始めた伊丹さんが『そうだな』と呟いた。
それからもう一度カメラは肩に担がれ、廃工場の中の探索が始まった。しかし、それ以外に蓋らしいものは何一つ見当らなかった。もちろん、地下室への入り口も、何一つ。
その後、斜めに傾いた扉から外に出て、廃工場の外側の敷地をしばらく探索していたが、結局蓋や地下への入り口はおろか、さっきまでここにいたという二人組みの痕跡も全く見つけられなかった。
廃工場に背を向け、元来た道を引き返しながら、無言のままビデオは終わった。
◆
和気さんがビデオデッキの停止ボタンを押した後、しばらく沈黙があった。まるでビデオの続きのように。
みかっちさんが重い空気を振り払うように、明るい声を出す。
「というわけで、伊丹くん勘違いの巻、でした」
のまっき、という発音が場違いに聞えた。
「だったら、あの電話はどこから掛けてたんだよ」
伊丹さんが苛立った声を上げる。
「だから、イタズラだって。どっか別の場所から適当に掛けてただけだったんよ」
「だけど、俺が今どこにいますかって訊いたら、斜めに傾いた扉の前にいるって言ったんだぞ。で、中に入った後、左の奥の方に蓋みたいのがあるって、言ってたんだ」
怯えた表情で伊丹さんは捲くし立てた。
284: 溶接 ◆LaKVRye0d.:2017/3/6(月) 03:41:28 ID:gnmyXvpANA
「実際俺たちが着いた時も、全く同じだったじゃないか」
「ええと。それは」
みかっちさんが口ごもったところを、和気さんが落ち着いた口調で繋いだ。
「以前行ったことがあったんじゃないかな」
「そうそう。それ。行ったことあった人が、イタズラで電話したんだって」
「なんでそんなことするんだよ」
「人が怖がるのが面白いんじゃないの」
みかっちさんは伊丹さんの目の前で口を半月状にして笑った。
「笑うな!」
伊丹さんが声を荒げかけると、すぐさまワサダさんが止めに入る。
「まあまあ、人の家で喧嘩しちゃだめ。……ところで、その電話して来た人って、ホントに知らない人?」
伊丹さんは相手の名前は分からない、と言った。
「向こうがはじめましてって言うから、そう思っただけだよ」
でも、聞いたことがない声だった。
そう言って手元の携帯電話に視線を落とす。
「ちょっと、その相手の番号見せてよ」
そう言って顔を寄せたみかっちさんに、伊丹さんは着信番号が表示された画面を見せた。
「090‐9733‐…… ふうん、私も知らないなあ」
俺も覗き込んだが、やはり見たことのない番号だった。少なくともフォーラムの常連の誰かではなさそうだ。
「リダイアルしても出ないんだっけ?」
みかっちさんに訊かれて、伊丹さんは携帯電話のボタンを押す。耳にあててしばらく待っていたが、首を横に振って「ほら」とこちらに向けた。
『……電波の届かない場所におられるか、電源が入っていないため、お繋ぎできません』
そんな言葉が電子音で流れて来ていた。
「それでね、管理人の特権のアクセス解析の話なんだけど」
和気さんがぼそりと言う。
「そうそう、それを聞くところだったんだ!」
無邪気なみかっちさんの言葉に苦笑しつつ、和気さんは続けた。
「前に何回も説明したと思うけど、アクセス解析じゃあどこのだれが掲示板を見てたかってのは分からないんだよ。せいぜいプロバイダとOSの種類、それからブラウザは何を使っているのかってことくらいしか分からないんだ」
「ホントにぃ? 個人情報ダダ漏れじゃないの?」
「まあ、会社とか、官公庁から繋いでる場合は、ズバリの名前が分かることもあるけど」
「でもIPアドレスってのがあるんじゃないですか。それも分かるんでしょう」
ワサダさんが横から口を出すと、和気さんは頭を掻いた。
「う〜ん。詳しい説明は省くけど、基本的にはIPアドレスはその都度取得するから、同じ人でも毎日違うよ。といっても、ある程度この人かなって絞れることもあるけど。でもそれも、リアルで知ってる常連で何度も来てる人だったらって話で、一見さんならどこの誰かなんて警察でもないと調べられないと思うよ」
「下手したら、その警察沙汰なんですって!」
伊丹さんが余裕のない声でそう言った。
「地下に閉じ込められてるかも知れないんですよ」
ううん。と伊丹さんはまた頭を掻いている。
「でもさ、あの蓋見たでしょ。完全に溶接されてたじゃん。絶対昨日今日されたんじゃないよ、あれ。ずっと前からだって、明らかに。だったらあの中に入れるわけないよ」
「それはそうだけど!」
「夜遅いから、もうちょっと静かにね」
ワサダさんが常識人らしいたしなめ方をする。
その時、玄関のドアをノックする音が響いた。ついで、ドアの開く音と、「ちわ。遅くなった」という声。
285: 溶接 ◆LaKVRye0d.:2017/3/6(月) 03:45:09 ID:gnmyXvpANA
常連の一人で京介さんというハンドルネームの女性だった。部屋に入ってくるなり、「キョースケぇ」と言ってみかっちさんが抱きつこうとする。
それを武道家らしい最小限の動きでひらりとかわし、平然とした口調で「で、なにがあったの」と言った。
この人が来るだけで場の空気がなんとも言えない安心感に包まれるので不思議だった。
京介さんが来たので、また最初からビデオを見ることになった。俺は二度目だったが、一度目の時にあまりじっくり見られなかった蓋のアップのシーンを今度は砂被り席で見た。
その時、気がついたことがあった。蓋は確かに縁に沿って溶接されていて、穴も完全に塞がれていたのだが、その縁のところになにかが映っているのが見えたのだ。
「ここ、止めてもらっていいですか」
和気さんが一時停止ボタンを押してくれた。
すると固まった画面の左端のあたりに、黒い線のようなものがあるのだ。ちょうど蓋の丸い縁どりの端から外へ向かって伸びている。
銅線?
一瞬そう思ったが、懐中電灯の光に照らし出されたそれが、やけに細くて柔らかく曲がりながら何本にも分かれているように見えた。
「髪の毛だ……」
思わずぼそりとそう口にすると、伊丹さんの押し殺した悲鳴が聞えた。
「え。なによ髪の毛って」
みかっちさんがテレビの画面に掻き付くように前に出る。
「これが? そうかなあ」
そう言われると自信がなくなってくる。
「やばいよ、これ。まじやばい」
伊丹さんが尋常ではないうろたえ方をしている。
「俺、気づいてなかった。こんなのあったなんて」
髪の毛だとすると、縁から出ているということは溶接された隙間から出ていることになる。それが一体どういう状況なのか想像して、ゾクリと寒気が走った。
「でもこれ、長くない?」
ワサダさんが呟いた感想を耳にすると、確かにそう思えた。男にしては長すぎると。しかし伊丹さんはそれを聞いた途端に余計に怯え始めていた。
「やっぱり女がいたんだよ。女が。俺が最初に電話でそっち何人ですか、って訊いた時、後ろで女の声がしたんだ。間違いない。だから三人かって訊いたのに、男二人だっていうから、あれ? って思ったんだ」
なんだそれは。そんなことさっきまで言ってなかったじゃないか。
俺がそう指摘しようとしたことを、三倍くらいの分量に増やしてみかっちさんが言いつのった。
「それは……」
伊丹さんが言いづらそうにしながら、「これ以上変に思われたくなかったし」と呟いた。
「後から辻褄あわせしようとすんなって!」
と、みかっちさんが辛らつな言葉を口にすると、和気さんがおもむろに手を挙げる。
「あ、それ、僕は聞いてました。最初に伊丹君から相談受けた時、確かにそう言ってましたよ。女の人もいたみたい、って」
しいん、と部屋の中が静かになった。
「なによそれ」
みかっちさんが気味悪そうに言った。
俺も何ともいない気持ち悪さに襲われていた。直前まで電話で話していた相手が、廃工場の溶接された蓋の下に閉じ込められているっていうのか? それも髪の毛が挟まれた状態で。
想像するだけで寒気がしてくる。
安全なはずの和気さんの部屋の中にいるのに、油断できない恐怖感に圧迫されそうになっていた。
その空気を破ったのは京介さんだった。
「行ってみるか」
286: 溶接 ◆LaKVRye0d.:2017/3/6(月) 03:49:30 ID:gnmyXvpANA
こともなげにそう言った京介さんの腕に、みかっちさんが抱きつく。
「行くの、キョースケ? 今から? まじで」
鬱陶しそうにそれを振りほどき、伊丹さんに顔を向ける。「これ、場所はどこ」
「本当に行くんですか」
俺も驚いて立ち上がった。
しかしその答えもすでに分かっていた。そういう人だと、分かっていたからだ。
そうなると、次に取るべき俺の行動も自ずと限定されて来る。
「キョースケに着いて行く人!」
やけに元気にみかっちさんが手を挙げながらそう言った時、俺も迷わず右手を挙げていた。
◆
結局、廃工場に行くことになったのは、京介さんとみかっちさん、当事者の伊丹さんと俺の合計四人だった。
「ここで待機してようか」と言ったワサダさんに、「あんた彼氏いるんだから、二人きりは駄目だって。帰んなよ。しっし」とみかっちさんが追い立てるようにして帰らせた。
みかっちさんが和気さんのことを狙っているという噂はどうやら本当のように思えた。
四人が乗り込んだ伊丹さんの車で深夜の国道に入り、しばらく走った。そこからはただでさえ地元民ではない僕にはさっぱり分からなくなったが、とにかく都市部から外れた狭い田舎道を一時間くらい走ってようやく目的地にたどり着いたのだった。
「ここから歩くよ」
伊丹さんが懐中電灯を手に持ちながら車のドアを閉めた。
カメラは藤原さんという伊丹さんの友人の持ち物だったので、今はない。四人はその幹線道路から外れた何もない山道を静かに進んでいった。
途中、何もない道端に急に石碑のようなものが現れた。伊丹さんが緊張するのが分かる。
「こっち」
そうして石碑の角を回り込むようにして、枝道へ入った。車がやっと一台通れるくらいの狭い道だ。こんなところに工場なんて、不便で仕方がないだろうに。
一体なんの工場だったのだろうと思いながら俺は舗装もままならないその砂利道を黙々と歩いていった。
どこからともなく山鳩の声が聞える。こんな夜中なのに、鳥が起きているということが不思議だった。
京介さんを相手にしきりと話しかけていたみかっちさんの口数も減り始めたころ、ようやく建物の影が見えてきた。
ビデオに映っていたのと同じだ。真否はともかく、心霊スポットという噂が立つほどの建物だ。夜の山の中にいきなりその姿が現れると、さすがに不気味な迫力があった。
「こっち、こっち」
伊丹さんがビデオの再現のように手でみんなを招きながら壁を回り込み始めたので、その不気味さが一層増したように感じた。
朽ちた壁が続く中に、横開きの大きな扉が見えてきた。
「この中だ」
声が震えて上ずっている。
「こ、この中ね」
みかっちさんが確認するように言うと、京介さんの背中を押しながら進もうとしている。その先には斜めに傾いて片側が半分開きかけているように見える扉が見えた。
さすがに京介さんも少し嫌そうに「押すなバカ」と言うと立ち止まり、扉の中の様子を伺いながらゆっくりと近づいていった。
287: 溶接 ◆LaKVRye0d.:2017/3/6(月) 03:54:36 ID:gnmyXvpANA
四人それぞれが持った懐中電灯の明かりが扉の隙間に集中する。そこからなにか気味の悪いものが顔を出しそうな気がして、ゾッとする。
「入るぞ」
そう宣言したかと思うと、京介さんが扉の隙間からスルリと中に消えていった。俺もおっかなびっくり後を追う。
中はむっとするような黴臭い匂いが立ち込めていて、ビデオで見ただけのものとは違う臨場感が、恐怖心を圧迫してくる。廃工場の中を懐中電灯の丸い光が、大きな人魂のように彷徨う。
人の気配はどこにもなかった。物音と言えば、自分たちの息遣いと背後から扉を越えてくる残りの二人の足音だけだった。
床の真ん中あたりに月の光が落ちている。見上げると、トタン屋根の天井の一部に丸い穴が開いていた。その落ちてくる淡い光が、どこか非現実的で幻想的な雰囲気を生んでいた。
「あっちだ」
伊丹さんが懐中電灯を左手側の隅に向ける。京介さんを先頭に足音を殺しながらゆっくりとそちらに歩いていく。
ドキン、ドキン、と心臓が高まり始める。転がったドラム缶の影になにか動いたような気がする。しかし、それが恐怖心の生み出す錯覚だということも分かる。
「これか」
京介さんが立ち止まったその足元を見ると、そこには蓋があった。
金属製の蓋だ。冷え冷えとした地面にまるで張り付くように据えられている蓋だった。人間が一人、出入りできるほどの大きさの。その下には、地下へと伸びる階段があるのだろうか。
だが、蓋は溶接されていた。この目で見るとはっきりと分かる。何年、いや十年以上も前からこの蓋は、こうして溶接された状態で誰にも開けられることもなく、ここで時の経過とともに緩やかに朽ちていったのだろう。
「髪が」
みかっちさんが短い悲鳴のようにそう言った。
再び目を落とすと、蓋の溶接された縁から人間のものと思しき髪の毛のようなものが生えているのに気づく。
ゾクゾクと寒気が増す。この感じはやばい。やばい。頭の中でそんな警戒音が鳴っている。
しかし、京介さんが俺を見てこう言った。
「抜いてみろ」
「なんで俺ですか」
思わずそう言い返すと、「他人の髪の毛なんて触りたくない」と言うのだ。どこかずれている気がする。
「いいからやれ」
有無を言わせぬ口調でそう命令されると、従わざるを得ない。メンバー的にも俺がやるしかないのだろう。
真っ青な顔でぶるぶる震えている伊丹さんを振り返り、改めてそう思った。
髪の毛のように見えるものは、蓋の縁から少しずつ束になり、何条かに分かれて出ていた。
俺は息を止めて、その髪のひと束を指先で摘んだ。その瞬間思った。
髪だ。
あきらかに人の髪だった。
そして同時に気づく。こんなにたくさん髪の毛があっただろうか。ビデオで見た時よりも多い気がする。
それに、一度は蓋の縁をガリガリと指先で掻き、なんとか持ち上げるための取っ掛かりになりそうな場所を探していた伊丹さんが、その時全く気づいていなかったというのが不可解だった。
増えている?
溶接された蓋の、ないはずの隙間から生えている髪の毛が?
そんな、馬鹿な。
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