ここでは、まとめの怖い系に掲載されている『師匠シリーズ』の続きの連載や、古い作品でも、抜けやpixivにしか掲載されていない等の理由でまとめられていない話を掲載して行きます
ウニさん・龍さん両氏の許可は得ています
★お願い★
(1)話の途中で感想等が挟まると非常に読み難くなるので、1話1話が終わる迄、書き込みはご遠慮下さい
(代わりに各話が終わる毎に【了】の表示をし、次の話を投下する迄、しばらく間を空けます)
(2)本文はageで書きますが、感想等の書き込みはsageでお願いします
それでは皆さん、ぞわぞわしつつ、深淵を覗いて深淵からも覗かれましょう!!
221: 桜雨 ◆LaKVRye0d.:2017/2/22(水) 05:33:15 ID:pIgPmzpxL2
春が来る。
また桜が咲く。
それだけを思って眠りについた。
それからの暮らしは、誰とも共有できないヒロさんだけの思い出だった。つらい、しんどい、などという生易しい言葉では語れない、長い、長い日々。
それでも春は来た。そして桜は咲いた。そのたびにのそのそとねぐらから這い出て来て、待ち続けた。あの人が、あのころと変わらない笑顔でやってくることを。
いつか交わした約束は、たぶん夢じゃなかったはずだから。
…………
時代は移り変わる。
世の中にはヒロさんの知らない便利なものが増え、道行く人々もすんなりと足が伸びて、みんなお洒落な格好をして楽しそうにしている。そんな様子を見ていると、ヒロさんも楽しかった。
しかし空き地の桜の木はある日、タクチカイハツとやらが進む中で切られてしまった。ヒロさんは必死で抵抗したが、大きな身体の若者たちにかなうはずもなかった。半分の大きさになった空き地はやがて公園になった。
横倒しのドカンもなくなったが、そこはもうヒロさんの住処だった。呆然としながらも、そこで暮らすしかなかった。
それから何年かしてヒロさんは親切な人に小さな桜の苗木をもらった。それを公園の隅に植えた。そして他の草や木に栄養を取られないように、気をつけながら少しずつ育っていくのを見守ってきた。それが今、ヒロさんの背丈を越えるほどになって、公園の隅に小さな枝を伸ばしている。
へっても、かえってくる。だから、二人で、咲いた桜をもう一度、ここで見る。
そんな約束を、昔した気がする。
222: 桜雨 ◆LaKVRye0d.:2017/2/22(水) 05:34:55 ID:pIgPmzpxL2
◆
どもりながら、なにかに取り憑かれたかのように訥々と語る、ヒロさんの物語が終わった。
周りにいた何人かの女子生徒が涙を浮かべている。声を上げて泣いている子もいた。
かつてヒロさんが、たった一度だけ会った女性と大切な約束を交わしたその場所に私たちは立っていた。
吉永も泣いていた。地面に突っ伏して。
ザビエルが話し終えたヒロさんの手を取った。
そしてその手を胸元に引き寄せ、祈るようにそっと目を閉じる。その唇からやわらかな言葉が紡がれる。
「 心の貧しいものは幸いです。天の国はその人ものでしょう。
悲しむものは幸いです。その人は慰められるでしょう。
柔和なものは幸いです。その人は地を相続するでしょう。
義に飢え渇いているものは幸いです。その人は満ち足りるでしょう。
あわれみ深いものは幸いです。その人はあわれみを受けるでしょう。
心のきよいものは幸いです。その人は神を見るでしょう。
平和をつくるものは幸いです。その人は神の子どもと呼ばれるでしょう 」
そして目を開き、ヒロさんの瞳を見つめてこう言った。
「 義のために迫害されている者は幸いです。天の国はその人のものなのだから 」
そこだけ時が止まったかのように、私には思えた。
ザビエルのあだ名の意味を今さらのように思い出す。フランシスコ・ザビエル。十六世紀に日本へやってきたカトリックの宣教師。日本人なら誰でも知っているような日本史を彩る有名人だ。
その先人をなぞらえたあだ名は、熱心なキリスト教徒であり、それを学校でも公言してはばからないことからつけられたものだった。生徒の間にも、その教えにちなんだ説教をすることで知られていた。もっとも、私たちにはどれもやぼったい、似たようなお説教にしか思えなかったのだが。
なのに、今ヒロさんの手を握りながら口にした言葉はどれも、とても美しく聞えた。
223: 桜雨 ◆LaKVRye0d.:2017/2/22(水) 05:37:24 ID:pIgPmzpxL2
「やく、そく」
ヒロさんがそう呟いた。
目には大粒の涙がこぼれている。
ヒロさんは手にした鍵をザビエルに渡そうとしていた。
「え?」ザビエルは戸惑ってそれを受け取れないでいる。
「かえってきた」
ヒロさんはぼろぼろと涙を流しながら、確かにそう言った。そして公園の隅にある一本の痩せた木を震える指でさし示す。黒い樹皮。春だというのに、すっかり花が散ってしまっているその木。
いや、あった。残っていた。枝の先に、言われないと気づかないような小さな花びらが、それでも懸命に。
その時私は、ザビエルも今、赤い服を着ていることを初めて認識した。泥にまみれているが、確かに赤い服だった。そして…………
ヒロさんの涙で滲んだ視界の中で、今きっとザビエルのことが、あのいつか出会った髪の長い女性に見えているのだろう。
あのころのままの、優しい笑顔をして。
そうに違いない。
ザビエルはその艶やかな長い髪をそっと整え、にっこりと微笑むと、「小さな桜ね。でもかえってきた。約束どおり。なにもかも、あなたのおかげよ」とささやいた。いつもの体育会系の延長のようなぞんざいな喋り方とは全く違う。よそ行きの声。いや、それが本当の声だったのかも知れない。
ヒロさんは何度も頷いていた。何度も、何度も。
「でもこれからは」
ザビエルは少し声をつまらせて、それからまた微笑んだ。
「あなた自身のために生きて」
そうして止まっていた時間がようやく動き出したのだった。
一際強い風が吹いて、泥水に濡れた私たちの服を冷たく撫でた。陸上部の顧問が首にかけたタオルで頭を拭いている。額の上の辺りに泥がついて、それがそこにないはずの髪の毛に見えた。なんだか可笑しい。
私は目の前に視線を戻し、声を掛けようとして、一歩前に出た。
「ザビ…… じゃなかった、野田先生」
ザビエルはヒロさんの手を握ったまま私の方に顔を向けた。こんなに綺麗な人だったっけ。私はふと、そんなことを思った。
224: 桜雨 ◆LaKVRye0d.:2017/2/22(水) 05:39:16 ID:pIgPmzpxL2
次の日、ヒロさんはもうあの公園にいなかった。山を越えた先にあるという故郷に帰ったのかも知れない。
霧雨のような雨が降っていた。昨日の夜半から降り始めた雨は、今朝まで断続的に続き、道路や家の屋根やねをすっかりと濡らしていた。
私はその中を傘もささずに自転車を漕いで駅に向かった。
会えないことは分かっていた。それでも駅の構内に立った。濡れた髪をハンカチで拭きながら。
ヒロさんは、あの年老いた小さな身体をひょこひょこと動かして、ここから旅立っていったのだろうか。元気でいてほしい。どこか知らない、その場所でも。
『義のために生きる、の、義(ぎ)って、どんな意味だ』
私はあの後でザビエルに聞いた。
『義は、そうだな。古い言葉で、ディカイオシュネーと言って、正しいこと。そして誠実であるということ。だ。どうした。キリスト教に興味があるのか』
『ばーか』
そんな言葉を選んだザビエルにも、深い意図はなかったのかも知れない。
ただ、そんなことのために生きた人が、いつか報われるといい。私はそれだけを思った。
甲高い音が鳴った。
構内アナウンスが列車の出発を告げたのだ。足元に目をやると、花びらが落ちているのに気づく。小さな白い花は、踏みつけられて足跡の形に床に張り付いていた。
桜が咲くころに降る雨のことを、桜雨というそうだ。そしてそれは、桜の花を散らせる雨でもある。
例年より開花が遅かったせいで、もう五月だと言うのにほんのわずか残っていた桜は、それでも昨日からの雨ですべて散ってしまっただろうか。
目の前で列車がゆっくりと動き出す。
顔を上げると、ホームには列車の窓に向かって手を振る女の子がいた。列車の窓からは、同じような年恰好の女の子が、やはり身を乗り出して手を振っている。
春は出会いの季節であり、別れの季節でもある。
こうしてこの駅のホームは、この春に幾度もの別れを見届けたことだろう。そして手を振り合う人々の間に交わされる新しい約束を。
私には、踏みつけられ、泥に汚れて地面に押し付けられた白い花が、新しい約束たちの、その証のための刻印のように思えてならなかった。
225: 桜雨 ◆LaKVRye0d.:2017/2/22(水) 05:41:05 ID:HMJYUJcabU
◆
京介さんの昔話が終わった。
俺はザビエルと呼ばれていた女性が去っていった改札の向こうを見つめる。
「ザビエルの本名は、松尾先生じゃなかったんですか」
「うん?」
なんだ、分からないのか。そんな顔で京介さんは苦笑した。
「美女は、野獣と結婚したんだよ」
どうやら、相合傘は本当に成就したらしい。
コレと、か。俺は親指を立てて苦笑する。
つまり、ザビエルこと野田先生は、ずっと一途に言い寄っていた陸上部の顧問である松尾先生の求愛を受け入れたということだ。そして姓も松尾に変わった。
「それから旦那の方が別の学校に移ったけど、ザビエルの方は私たちの学校に残ったんだ。私なんて三年間もずっとあいつが担任だったんだぞ」
その間、ずいぶん叱られたらしい。なにしろひどい不良娘だったのだから。
「寒いな」
京介さんはそう言って、マフラーを首に巻き直す。
「栗、ありがとう」
まだ仄かな過去の余韻が残る中、京介さんは小さく手を振り、颯爽と身を翻して、人でごった返す駅の地下を歩み去って行った。
春か。
冬支度の人々の群の中に消えて行く京介さんの背中を見つめながら、俺もまた、心のどこかで新しい春を、もう待ち始めていた。
(完)
226: 桜雨 ◆LaKVRye0d.:2017/2/22(水) 05:42:03 ID:pIgPmzpxL2
桜雨 【了】
227: 1 ◆LaKVRye0d.:2017/2/24(金) 04:01:29 ID:XCDLmSFIGs
スレ主ではなく、いち読者、いちファンとしての感想ですが、
これは美談ではなく私にとっては非常に胸糞が悪かったです
ヒロさんの昔話に出て来た赤い服の女性は、純朴な肉体労働者に“自分から”約束を押し付けておきながら、何故、何十年もの間、一度たりとも姿を現さなかったのか?
----------
「減ってくね」
女の人はぽつりとそう言った。
ヒロさんは少し悲しくなった。
「へっても、またかえってきます」
「どこから」
----------
この会話だけ見ても不愉快になります。無神経な女だな、と
大抵の美人は、自分が美人である事を知っています
それを鼻にかけたり武器にしたりするかしないかで本当の美人か、醜く見えるかが変わって来ますが
この女性は単に思い付きでヒロさんをからかっただけではないかと邪推すらしてしまいました
ザビエルのお陰でヒロさんが最後に救われ、報われたのは唯一の救いですが、
約束を守り続けた為に失った数十年は戻って来ない…
それを思うと悲しくなりました
さて、また近日中に次の話を投下しますので暫しお待ち下さいませ
228: 風の谷の名無しか:2017/2/25(土) 17:56:31 ID:V/D6yqwJ1g
お疲れ様です
さすがの叙述トリックでした
229: 1 ◆LaKVRye0d.:2017/2/26(日) 03:32:48 ID:qQQzqfVdfw
有難うございますm(__)m
お1人でも読んで下さる方がいらっしゃればやる気が出ます
今後とも宜しくお願い致します
230: 1 ◆LaKVRye0d.:2017/2/26(日) 03:35:34 ID:qQQzqfVdfw
貼り付けた話の一覧です
特定の話だけお読みになりたい方はご参照下さい
>>2-3 田舎(一部)
>>7-10 『絵』《T》
>>11 『絵』《U》
>>12-24 『絵』《V》
>>29-42 月と地球
>>44-63 本
>>66-75 ペットの話
>>77-91 風の行方・前編
>>92-100 風の行方・後編
>>103-116 保育園・前編
>>117-129 保育園・中編
>>130-140 保育園・後編
>>141-159 連想T
>>162-175 空を歩く男
>>176-180 信号機
>>181-189 趣味の話
>>191-207 桜雨・前編
>>208-225 桜雨・前編
231: 剣道の話 ◆LaKVRye0d.:2017/2/26(日) 03:57:42 ID:qQQzqfVdfw
剣道の話
大学一回生の秋だった。
旅行の打ち上げと称して四人の仲間で集まり、カラオケに行ったことがあった。
俺の田舎での恐ろしい体験を共に乗り越えた仲間だ。
なのに最初から妙にギクシャクして盛り上がりに欠けた。
京介さんが持ち歌っぽい「天使の休息」を歌った後に師匠が「古いな」と呟いたあたりから雲行きが怪しかったのだが、その師匠がセクハラのつもりなのか「おっぱいがいっぱい」という歌を歌ったことに対し、女性陣がまったくのノーリアクションだったことがその変な空気に拍車をかけた。
師匠は黙々とセクハラソングばかりセレクトして歌い、「金太の大冒険」で一層ボックス内を寒々とさせた後に「どうして吉田松陰物語が入ってないんだ」とインデックスに一人で切れたりしていた。
その後カラオケ屋を出て近くのハンバーガーショップでテーブルを囲んだときも、なんかもうとっとと解散しようぜ的な雰囲気が漂っていた。
しかしどういう会話の流れだったか判然としないが京介さんと師匠が二人とも剣道をやっているという話になって、俺は素直に感心していたのであるが、kokoさんがぼそりと一言呟いたときに(あ、まずい)と直感した。
「どっちが強いのかしら」
232: 剣道の話 ◆LaKVRye0d.:2017/2/26(日) 04:06:12 ID:qQQzqfVdfw
それはまずいでしょうよ。
あきらかに。
案の定、二人ともピクリと反応し、顔を強張らせながら子どもじみた牽制が始まった。
「まあ、やってたっていっても高校卒業してからはあんまりやってないしね。でもまあ、女子と男子じゃ比べようがないっていうか、競技としても混合でやることなんてまずないし、あんまり意味無いんじゃないかな」
「そうかな。私は今でも道場に通ってるけど、稽古は男子とでも普通にやるよ」
「いや、そうじゃなくて、ほら、男子と女子と試合が別れてるって時点で、そもそも勝負が成り立ちにくいくらいのナニが……ほら、身体的な差が……あるわけじゃない?」
「個人と個人を比べるのに、それぞれが属している集団を持ち出すって時点で、核心に触れたくない理由でもあるのかと勘繰ってしまうがな」
「へえ。一般論に話を落とすのは、優しさでもあるってことがわからないやつもいるんだな」
「……それは、どういう意味なのかな」
「いや、そのままの意味でしょ」
ああ。
いやだ。なにこの大人げなさは。
いつものことと高をくくりながらも、ネタがネタだけに血を見ずには終わらないような気がしていたが、やはりそういう方向へ話が向いていった。
「じゃあ、一週間後、私の道場で。逃げるなよ。ほんとに一週間でいいのか」
「いいよ。ブランクっていうほどのものじゃないし。もちろんハンデっていうほどのものでもないよ」
「ホント、いちいち勘に触るな、このオトコは」
「キミほどじゃないよ」
「しね」(1注:原文では“し”は漢字でした)
「竹刀で死なせるものなら見せて欲しいね。そもそも竹刀は稽古での殺傷を防ぐ目的でかの剣聖上泉信綱が……」
「うるさい」
とにかく、そんな調子で決闘の日取りが決まった。俺は見届け人ということになったようだ。
ハンバーガーショップを出て解散する時、kokoさんに
「どっちが勝つんですか」
と囁いてみた。するとどうでも良さそうな口調で、
「分からないから訊いたのよ」
……そりゃそうですね。
233: 剣道の話 ◆LaKVRye0d.:2017/2/26(日) 04:10:26 ID:9gYoXiEfsA
一週間後、俺は「中町剣友館」という看板の前に師匠と並んで立っていた。
思ったより大きな道場で、建物の古さといい、なかなか雰囲気があった。
京介さんが子どものころから通っているという道場だ。
隣の師匠をちらりと覗いたが、その横顔には微かな緊張の色がある。
格好は紺の胴着に袴。背中には防具が入っているらしい袋と、竹刀の形をした袋を担いでいる。
なにも家から胴着を着てくることはないと思うのだが、「敵の陣地で悠長に着替えてられるか」とのこと。
かなりの意気込みだ。
立場上、俺がどちらか一方の味方をするのも変なのだが、場所が師匠にとっては完全にアウェーなのでどうしても師匠よりの立ち位置になってしまう。
「そんな剣道の道具、持ってたんですね。知りませんでした」
「男が武道をひけらかすものじゃない」
言葉は妙にカッコいいが、ようするに押入れで埃を被っていたのだろう。
俺の勘ではたぶん師匠の負けだ。
玄関から入るなり、師匠が大きな声で「たのもう」と言った。
おお。世界に入り込んでいる。
しかし応答はなかった。出迎えも。
少し気まずい思いをしながら薄暗い建物の中を進み、物音のする方へ進むと広い板張りの空間へ出た。
「お、来たな」
道場の中にはわずかな人影しかなかった。全部で三人。全員が防具を身に付けている。
そのうちの一人が面を取りながらこちらに近づいてきた。
「ようこそ。私が当館の主、中町です」
男性だった。剥げ頭に、肉付きのいい顔。五十、いや六十代か。差し出されたその手を慎重に握る師匠。
その後ろから、同じく面を取りながら京介さんが歩み寄ってくる。
ふわりと顔のまわりに湯気が立った。汗が滴っている。
234: 剣道の話 ◆LaKVRye0d.:2017/2/26(日) 04:14:06 ID:9gYoXiEfsA
「逃げなかったな。見直したぞ」
軽く頭を振りながら言う。
ガランとした道場の中を見回した師匠に、中町さんは笑顔を浮かべた。
「ああ、今日の練習は晩からです」
そういえば今は平日の昼間だった。大学生をしていると時々常識的な曜日や時間の感覚が薄れてしまう。
京介さんが後ろを振り返りながら声を上げた。
「そういや、おまえは今日はどうしたんだ」
道場の奥で素振りをしていた人の動きがピタリと止まる。面がこちらを向いた。
「そうりつきねんび」
「え?」
「創立、記念日」
男の子の声。よく見ると小柄だ。防具に包まれた体はパッと見では年齢不詳だが、どうやら中学生くらいのようだ。学校が休みだということか。
「ギャラリーは少ないほうがいいでしょう」
中町さんはタオルで顔を拭きながら、「準備をなさいますね。どうぞご自由にお使いになってください」と道場の中を示した。
「素振りはしてきました」と師匠は京介さんの方を見ないようにしながら、足元の板張りを確かめるように踏みしめる。
「摺り足だけさせてください」
そう言って、荷物を置くと板張りの上をすべるように歩き始めた。
真剣な表情だ。
俺はその様子を見ながら道場の壁際に腰を下ろした。
京介さんは汗を拭きに行ったのか、控え室らしい板戸の向こうに消えていった。
中庭らしい方に面した窓から、光の筋が伸びて道場の床を照らしている。天井が高い。
師匠の動きに合わせて、キュッ、キュッ、という小気味良い音が響く。
木の匂いがする。
剣道か。
やったことはないし、目の前で見るのも初めてだった。
中町さんがじっと師匠の足運びを目で追いかけている。なぜかその首の動きが怪訝そうに傾げられているように見えた。
235: 剣道の話 ◆LaKVRye0d.:2017/2/26(日) 04:16:55 ID:qQQzqfVdfw
俺は不安になった。
師匠が本当に剣道など出来るのか、という不安だ。その道の人の前で恥を掻くのは見たくなかった。
しかし師匠は平然とその視線を受け流している。
やがて足を止め、俺のすぐ隣に置いてあった道具袋の方へ近づいてきて竹刀を袋から取り出した。
そこへ中町さんから声が掛かる。
「打ち込みくらいはしておいた方がいいでしょう」
師匠は迷うような表情を見せたが、ゆっくりと頷いた。
「あ、基立ちやりますよ」
奥で素振りをしていた少年がこちらにやってくる。
師匠は道具袋を開け、防具を取り出した。そばに寄ると、お香の匂いがした。防臭のためだろうか。
垂れと、胴と、面と、小手。
師匠はそれらを順番に身に着けていく。
なんだか、目の前で師匠ではない別の何かに変わっていくようだった。
完全武装を遂げた師匠はふっと、息をつくと竹刀を手に取り、道場の中ほどへ進んでいった。
同じ格好の男の子もそちらへ向かう。
「打ち込みでいいですか。それとも掛かりですか」
「いや、互角で頼む」
面の奥からそんな言葉が出てくる。
236: 剣道の話 ◆LaKVRye0d.:2017/2/26(日) 04:21:06 ID:qQQzqfVdfw
一瞬ハッとしたような雰囲気がもう片方の面から漏れた気がした。
けれどすぐに少年は竹刀を構え、「分かりました」と元気な声を張り上げた。
互いに礼をしたあと、二つの竹刀が音を立てて交差した。
オオ、と声が漏れてしまう。どうやら試合形式の稽古のようだ。
二、三度打ち合ったかと思うと、ガツンと鈍い音を立てて二人の身体がぶつかる。
「ウォーッ」という凄まじい声が師匠から上がり、俺は思わずビクリとする。それに呼応して「キョェェーッ」という甲高い声がもう片方から上がる。
その迫力に俺は腰が引けてしまった。
おいおい。ほんとに剣道やってるよ。
そんな間抜けな感想が頭に沸いてくる。
もしかして師匠、強いんじゃないか。
そう思いながら見つめていると、いつの間にか控え室から出てきた京介さんが、壁際を遠回りしながら俺のそばへやってきた。
袴を翻してストンと姿勢良く腰を下ろす。背筋が綺麗に伸びている。
視線は道場の真ん中で竹刀を合わせている二人へ向けられている。俺は横目で京介さんの顔を伺う。
「どうですか」
「……なにが」
前を向いたままだ。
「勝てますか」
「この二人の勝敗か」
「いえ……」
京介さんが、師匠に、です。
237: 剣道の話 ◆LaKVRye0d.:2017/2/26(日) 04:23:57 ID:qQQzqfVdfw
そう言おうとすると、遮られた。
「見てればわかるよ」
ビシィッ、という激しい音がして師匠の竹刀がガクンと揺れる。少年の放った小手が師匠の左手に入ったらしい。
間髪居れずに二人はガツンとぶつかり、鍔迫り合いが始まる。そして離れ際に、一瞬の隙を衝いてまた師匠が小手を決められた。
速過ぎてよく分からないけど、たぶん。
あれ? 師匠、もしかして押されてる?
本番の前にもうメッキが剥れてしまうのか。
すると京介さんが横でぽつりと言った。
「思ったよりやるな」
その間にも竹刀を持った二人は目まぐるしく動き、お互い面を狙って相打ちした後、くるりと首を振った少年が身体を沈ませながら師匠の胴を打ち抜いた。
そばに立っている中町さんが頷いたのを見ると、綺麗な一本だったようだ。
だめじゃないか、師匠は。
そう思うと、なんだか酷い脱力感に襲われた。
しかし京介さんは依然興味深そうにその様子を見つめている。
「これ、あの子の方が優勢なんですよね」
念のために確認する。
「あたりまえだ。あの変態が勝てるわけがないだろう。ユータはこのあいだ中学の県大会の個人戦で優勝したばかりだ」
おいおい。先に言ってくださいよ。それメチャメチャ強いんじゃないですか。
238: 剣道の話 ◆LaKVRye0d.:2017/2/26(日) 04:28:00 ID:qQQzqfVdfw
その小柄な身体をあらためて見つめる。
驚くと同時に師匠がかわいそうになった。
京介さんと戦う前のほんのウォームアップのつもりで竹刀を合わせたのに、こんな子どもに良いようにやらてしまうなんて、きっとわけが分からず混乱しているに違いない。
「オォォォォッ」
という雄叫びとともに、師匠がなんとか面を打ち返した所でお互い動きを止めた。そして礼をして別れる。
少年は面を取りながら、「いやあ、強いですね」などと嫌味を感じさせない口調で師匠に話かける。師匠の方は息が上がっているのか、返事ができないようだった。
これから本番だというのに、実にまずい雰囲気だ。最後の面打ちも、素人目に、華を持たせてくれたようにも見えた。
案の定、京介さんは「ふ」と口元を緩めている。
「あの子、強すぎますよ」と俺は抗議をした。相手が県の中学チャンプだなんて知らない師匠は、今ごろショックを受けているに違いない。必要以上に自信喪失していなければいいが。
心配しているその横で、京介さんはスラリと立ち上がった。
その無駄のない動きは、錆一つない日本刀が鞘から抜き放たれたようだった。
「そうかな」
口唇からそんな言葉がこぼれ出る。
そうかなって、明らかに強すぎですよ。素人が見ていても分かるくらいに。
続けてそう抗議しようとしたときに、京介さんはスッと足を運び始めた。
「私の方が強いよ」
そう言い残して。
239: 剣道の話 ◆LaKVRye0d.:2017/2/26(日) 04:33:00 ID:9gYoXiEfsA
その後は無残なものだった。
息を整えた師匠が京介さんと正対し、竹刀の先を合わせた後は一方的な展開だった。
五分三本勝負と申し合わされていたのだが、師匠はものの一分で二本を先取されてしまい、早々に負けが決まってしまった。
俺の隣に座った少年が解説してくれたところによると、一本目は「出小手」、二本目は「面返し胴」という技で決まったらしい。
師匠は往生際悪く「もう一勝負」「もう一勝負!」と食い下がり、承知した京介さんに完膚なきまでにボコボコにされていた。
さっきの少年との試合形式の稽古の時よりも打ち合うことが少なく、あっと言う間に決まってしまっている印象だった。
師匠は中段、京介さんも中段に構えていたが、途中から師匠の方だけ下段に構えを変えた。どうやら防御に重きを置いた構えらしいのだが、全くそれが奏功していないようで、相変わらず面に胴に小手にとバンバン打ち込まれていた。
「あのお姉さん、強いの?」
恐る恐る訊いてみると、少年は「そうですねぇ」と少し考えてから答えた。
「段位で言うと四段ですけど、公式戦ではそれほど実績がないですね。中学の時は凄かったらしいですけど。でもたぶん今の方が強いですよ。前回の全日本の予選でも二回戦で警察剣連の優勝候補の人に当たっちゃって負けちゃいましたけど、内容自体は惜しかったですしね」
四段?
四段というと、剣道三倍段の法則からすると十二段の空手家で互角という強さではないのか。
頭の中で金色の帯を締めた空手家と京介さんが向き合っているバカな絵面が浮かんでしまった。
「まあ、僕の方が強いですけど」
少年は可愛い顔をしてさらりとそんなことを言った。屈託のない笑顔だった。
240: 剣道の話 ◆LaKVRye0d.:2017/2/26(日) 04:35:52 ID:9gYoXiEfsA
しかし師匠を尺度に考えると、どう考えても京介さんの方がボコボコにしている。さっきはそんなに手を抜いていたというのだろうか。
「面あり!」
中町さんの掛け声が道場内に響く。
正面から面を打とうとした師匠に対し、京介さんは左へ身体を捌きながら相手の竹刀を払い上げるように流して、開いた面へ素早い一撃を見舞ったのだ。「面すりあげ面」という技らしい。
「あれ、得意技なんですよ。僕もよくやられます」
少年は何も持っていない両手を胸の前で握って竹刀を操る動作をする。しかしその首が訝しげに捻られた。
「でもなんか、あの人の動き、変なんですよね」
「変って?」
そう問うと、「ううん」と唸って師匠の動きを凝視する。
「僕とやってたときはもっとまともな動きだったと思うんですけど。なんていうか、今は要所要所で妙な動きが入るんですよね。それもだんだん酷くなってる」
ほら、あの間。
そんな風に指をさされたが、なにがなんだかさっぱり分からない。
試合は十本以上京介さんが連取して、六連勝だか七連勝だかしたあたりで中町さんが「勝負あり」と言った後、「もうよかろう」とお互いに諭すような口調で告げた。
師匠は力が抜けたように天を仰いだ後、ゆっくりと頷いた。京介さんもそれに倣い、互いに礼をした。
師匠はこちらへ引き上げてきながら、全身で息をしていた。相当に疲れているようだ。「くそう」と悔しそうに吐き捨てながら面を外す。顔中から汗が滴り落ちている。
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