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師匠シリーズ《続》
[8] -25 -50 

1: 1 ◆LaKVRye0d.:2017/1/24(火) 20:30:02 ID:1lmoPahM2s

ここでは、まとめの怖い系に掲載されている『師匠シリーズ』の続きの連載や、古い作品でも、抜けやpixivにしか掲載されていない等の理由でまとめられていない話を掲載して行きます

ウニさん・龍さん両氏の許可は得ています

★お願い★

(1)話の途中で感想等が挟まると非常に読み難くなるので、1話1話が終わる迄、書き込みはご遠慮下さい
(代わりに各話が終わる毎に【了】の表示をし、次の話を投下する迄、しばらく間を空けます)

(2)本文はageで書きますが、感想等の書き込みはsageでお願いします

それでは皆さん、ぞわぞわしつつ、深淵を覗いて深淵からも覗かれましょう!!





166: 空を歩く男 ◆LaKVRye0d.:2017/2/17(金) 05:22:05 ID:wBv.pXEq1w

672 :空を歩く男  ◆oJUBn2VTGE :2012/09/01(土) 23:13:47.16 ID:itFWmvQ50

聞いた話から想像すると、この東西の通りの上空を斜めに横断する形で男は歩いている。恐らくは北東から南西へ抜けるように。
その周囲を観察したが、特に人間と見間違えそうなアドバルーンや看板の類は見当たらなかった。
当然昼間からそれらしいものが見えるわけもなく、僕は近くの喫茶店や本屋で日が暮れるまでの間、時間をつぶした。
太陽が沈み、会社員たちが仕事を終えて街に繰り出し始めると、このあたりは俄かに活気づいてくる。店の軒先に明かりが灯り、陽気な話し声が往来に響き始める。
その行き交う人々の群の中で一人立ち止まり、じっと空を見ていた。
曇っているのか月の光はほとんどなく、夜空の向こうにそれらしい影はまったく見えなかった。
仮に…… と想像する。
この東西の通りでヘリウムが充満した風船を持ち、その紐が十メートル以上あったら。その風船が人間を模した形をしていたら。そして紐が一本ではなく両足の先に一本ずつそれぞれくっついていたとしたら。
下から紐を操ることで人型の風船がまるで歩いているよう見えないだろうか。
今日と同じように月明かりもなく、下から強烈に照らすような光源もなければ、周囲のビルよりも遥かに高い場所にあるその風船を、本物の人影のように錯覚してしまうことがあるのではないだろうか。
その人影に気づいた人は驚くだろう。そしてそちらにばかり気をとられ、その真下の雑踏で不審な動きをしている人物には気づかないに違いない。
誰がなぜそんなことを? という新たな疑問が発生するが、とりあえずはこれで再現が可能だという目星はついた。
結局その後小一時間ほどうろうろしてから、飽きてしまったのでその日はそれで帰ったのだった。
次の日、師匠にそのことを報告すると、呆れた顔をされた。
「情報収集が足らないな」
「え?」
「風船かも知れないなんて、誰でも思いつくよ」
師匠は自分のこめかみをトントンと指で叩いて見せる。
「だいたい人影は最終的に通りのビルを越えてその向こうに消えてるんだ。下から操っている風船でどう再現する?」


167: 空を歩く男 ◆LaKVRye0d.:2017/2/17(金) 05:27:33 ID:ZOkUPycZYs

674 :空を歩く男  ◆oJUBn2VTGE :2012/09/01(土) 23:16:30.24 ID:itFWmvQ50

あ。
そのことを失念していた。今さらそれを思い出して焦る。
「ちゃんと噂を集めていけば、その人影を見た人間が呪われて、高い所から落ちて怪我をするというテンプレートな後日譚が、別の噂が変形して生まれたものだと気がつくはずなんだ」
「別の噂?」
空を歩く男の話にはいくつかのバージョンがあるのだろうか。
「あの通りでは、転落死した人が多いんだよ。飲み屋街の雑居ビルばかりだ。酔っ払って階段から足を踏み外したり、低い手すりから身を乗り出して下の道路に落下したり。
何年かに一度はそんなことがある。そんな死に方をした人間の霊が、夜の街の空をさまよっているんだと、そういう噂があるんだ」
しまった。
たった二人から聞いて、それがすべてだと思ってしまった。怪談話など、様々なバリエーションがあってしかるべきなのに。
あと一度しか言わないぞ。
そう前置きして、師匠は「空を歩く男をみてこい」と言った。
「はい」情けない気持ちで、そう返事をするしかなかった。

             ◆

それから一週間、調べに調べた。
最初に話を聞かせてくれた同じ一回生の子に無理を言って、その空を歩く男を見たという同級生に会わせてもらったり、他のつても総動員してその怪談話を知っている人に片っ端から話を聞いた。
確かに師匠の言うとおり、あの辺りでは転落事故が多いという噂で、それがこの話の前振りとして語られるパターンが多かった。
実際に自分が目撃したという人は、その最初の子の同級生だけだったが、あまり芳しい情報は得られなかった。
夜にその東西の通りでふと空を見上げたときに、そういう人影を見てしまって怖かった、というだけの話だ。
それがどうして男だと分かったのか、と訊くと『空を歩く男』の怪談を知っていたからだという。


168: 空を歩く男 ◆LaKVRye0d.:2017/2/17(金) 05:30:37 ID:wBv.pXEq1w

675 :空を歩く男  ◆oJUBn2VTGE :2012/09/01(土) 23:19:22.75 ID:itFWmvQ50

最初から思い込みがあったということだ。暗くて遠いので顔までは当然見えないし、服装もはっきり分からなかった。ただスカートじゃなかったから……
そんな程度だ。見てしまった後に、呪いによる怪我もしていない。
ただ記憶自体はわりとはっきりしていて、彼女自身が創作した線もなさそうだった。その正体がなんにせよ、彼女は確かになにかそういうものを見たのだろう。
これはいったいなんだろうか。
本物の幽霊だとしたら、どうしてそんな出方をするのだろう。地上ではなく、そんな上空にどうして?
霊の道。
そんな単語が頭に浮かんだ。霊道があるというのだろうか。なぜ、そんな場所に? 少しぞくりとした。見るしかない。自分の目で。考えても答えは出ない。
僕はその通りに張り付いた。日暮れから、飲み屋が閉まっていく一時、二時過ぎまで。しかし同じ場所に張っていても、周囲を練り歩いても、それらしいものは見えなかった。
焦りだけが募った。
死者の気持ちになろうともしてみた。あんなところを歩かないといけない、その気持ちを。
気持ちよさそうだな。
思ったのはそれだけだった。
目に見えない細い細い道が、暗い空に一本だけ伸びていて、その道から落ちないようにバランスをとりながら歩く……
落ちれば地獄だ。かつて自分が死んだ、汚れた雑踏へ急降下し、その死を再び繰り返すことになる。
落ちてはいけない。
では落ちなければ?
落ちずに道を進むことができれば、その先には?
人の世界から離れ、彼岸へ行くことができるということか。そんな寓意が垣間見えた気がした。
その通りに張り付いて二日目。
僕は少し作戦を変えて、飲み屋街のバーに客として入った。そこで店を出している人たちならば、この空を歩く男の噂をもっとよく知っているかも知れないと思ったのだ。


169: 空を歩く男 ◆LaKVRye0d.:2017/2/17(金) 05:34:49 ID:ZOkUPycZYs

676 :空を歩く男  ◆oJUBn2VTGE :2012/09/01(土) 23:23:22.41 ID:itFWmvQ50

仕送りをしてもらっている学生の身分だったので、あまり高い店には行けない。
女の子がつくような店ではなく、カウンターがあって、そこに座りながらカクテルなどを注文し、飲んでいるあいだカウンター越しにマスターと世間話が出来る。そんな店がいい。
このあたりでは居酒屋にしか入ったことがなかったので、行き当たりばったりだ。とにかくそれっぽい店構えのドアを開けて中に入った。
薄暗い店内には古臭い横文字のポスターがそこかしこに張られていて、気取った感じもなくなかなか居心地が良さそうだった。控えめの音量でオールディーズと思しき曲がかかっている。
お気に入りのコロナビールがあったのでそれを注文し、気さくそうな初老のマスターにこのあたりで起こる怪談話について水を向けてみた。
聞いたことはある、という返事だったが実際に見たことはないという。入店したときにはいた、もう一人の客もいつの間にかいなくなっていたので、仕方なくビール一杯でその店を出る。
それから何軒かの店をハシゴした。
マスターやママ自身が見たことがある、という店はなかったが、従業員の中に一人だけ目撃者がいた。そしてそれとなく店内の常連客に話を振ってくれて、「そう言えば、昔見たことがあるなあ」という客も一人見つけることができた。
しかし話を聞いても、どれも似たり寄ったりの話で、結局その空を歩く男の正体もなにも分からないままだった。
せめて、どういう条件下で現れるのか推測する材料になれば良かったが、話を聞いた二人とも日付や天気の状況などの記憶が曖昧で、見た場所も人影が進んだ方角もはっきりとしなかった。
ただ、夜中に足場もなにもない非常に高い上空を歩く人影を見た、ということだけが一致していた。そして特にその後、事故などには遭わなかったということも。
一軒一軒ではそれほど量を飲まずに話だけ聞いて退散したのだが、聞き込みの結果が思わしくなく、ハシゴを重ねるごとに酔いが回り始めた。
何軒目の店だったか、それも分からなくなり、かなり酩酊した僕がその地下にあったロカビリーな店を出た頃にはもう日付が変わっていた。
「ちくしょう」


170: 空を歩く男 ◆LaKVRye0d.:2017/2/17(金) 05:41:05 ID:ZOkUPycZYs

678 :空を歩く男  ◆oJUBn2VTGE :2012/09/01(土) 23:24:58.38 ID:itFWmvQ50

という、酔っ払いが良く口にする言葉を誰にともなく吐き出しながら、ふらふらと狭い階段を上り、地上に出る。
空を見上げても暗闇がどこまでも広がっているだけで、何の影も見当たらなかった。そのときだった。
「にいさん、にいさん」
そう後ろから声を掛けられた。
振り返ると、よれよれのジャケットを着た赤ら顔の男が手のひらでこちらを招く仕草をしている。
「なんです」
このあたりでは尺屋、という民家の一室を使った非合法の水商売があるのだが、一瞬、その客引きではないかと思ったが、しかしこう酔っ払っていては仕事になるまい。
「さっき、中であの怪談の話をしてたろう」
ああ、なんださっきの店にいた客か。しかしどうしてわざわざ店を出てから声をかけてくるんだ?
そんなことを考えたが、それ以上頭が回らなかった。
「だったら、なんれす」ろれつも回っていない。
「知りてえか」
「なにを」
「空の、歩きかた」
男は酒焼けしたような赤い顔を近づけてきて、確かにそう言った。
「いいですねえ。歩きましょう!」
「そうか。じゃあついてきな」
ふらふらとしながら男は、まだ酔客の引かない通りを先導して歩き出した。五十歳くらい、いやもう少し上だろうか。
変なおっさんだ。
さっきロカビリーな髪型のマスターが他の客に声をかけても、誰もそんな怪談話を知らなかったのに。なんであのとき黙ってたんだ。あれ? そもそもあんなオッサン、店にいたかな。
そんなことを考えていると、おっさんが急に立ち止まり、また顔を近づけてきてこう言った。
「あそこにはな、道があるんだ。目に見えない道が。でも普通の人じゃあ、まずたどり着けないのさあ」


171: 空を歩く男 ◆LaKVRye0d.:2017/2/17(金) 05:46:57 ID:wBv.pXEq1w

679 :空を歩く男  ◆oJUBn2VTGE :2012/09/01(土) 23:26:43.71 ID:itFWmvQ50

おや?
おっさんの言葉ではなく、なにか別の、違和感があった気がした。
正面から顔を見ると、頬は肉がタブついていて、はみ出した鼻毛と相まってだらしない印象だった。しかしどこか愛嬌のある顔立ちだ。
そのどこに違和感があったのだろう。まあ、いいや。
アルコールがいい感じに脳みそを痺れさせている。
「周りのビルより高い場所だ。そんなところに道なんてあるわけがない。そう思うだろ。でもなあ、そうじゃあないんだ。あの道はな……」
「北の通りの、高層ビルからでしょう」
おっさんは驚いた顔をした。
「おおよぅ。わかってんじゃねえか兄ちゃん」
そうなのだ。
この東西の通りに面したビルは高くとも四、五階だ。しかし離れた通りのビルにはもっと高いものがある。その北の通りに面した高層ビルから伸びているのだ。その空の道は。
酔いにかき回された頭が、ようやくそんな単純な答えにたどり着いていた。
そしてもっと南の通りにも高いビルがある。そこまで伸びているのか。あるいは、そのまま人の世界ではない、虚空へと伸びていく道なのか。
「霊道なんでしょう」
負けじと顔をおっさんの鼻先に突き出す。しかしおっさんは、にやりと笑うと「違うねえ」と言った。
「本当に道があるんだよ。いいからついてきな。知ってるやつじゃなきゃ絶対に分からない、あそこへ行く道が、一本だけあるんだ」
そしてまた頼りない足取りで繁華街を進んでいく。
なんだこのおっさんは。意味がわからない。しかしなんだか楽しくなってきた。
「さあ、こっちだ」
おっさんは三叉路で南に折れようとした。
「ちょっとちょっと、北の通りでしょ。そっちは南」
たぶん目的地は北の大通りの、屋上でビアガーデンをやっているビルだ。方向が違う。
しかしおっさんは不敵な笑みを浮かべて人差し指を左右に振った。
「北に向かうのに、そのまま北へ向かうってぇ常識的な発想が、この道を見えなくしてんだよ」


172: 空を歩く男 ◆LaKVRye0d.:2017/2/17(金) 05:51:22 ID:ZOkUPycZYs

682 :空を歩く男  ◆oJUBn2VTGE :2012/09/02(日) 00:04:30.97 ID:xOvjnYct0

そんなことを言いながらふらふらと南の筋に入り、やがてその通りにあったビルとビルの隙間の細い路地へ身体をねじ込み始めた。太り気味の身体にはいかにも窮屈そうだった。
だめだ。酔っ払いすぎだ、これは。
「いいから、ついてこい。世界は折り重なってんだ。同じ道に立っていても、どこからどうやってそこへたどり着いたかで、まったく違う、別の道の先が開けるってこともあるんだ」
うおおおおおおおおお。
そんなことを勢い良くわめきながら、おっさんは雑居ビルの狭間へ消えていった。なんだか心魅かれるものがあった僕も、酒の勢いを駆ってついていく。
それから僕とおっさんは、廃工場の敷地の中を通ったり、古いアパートの階段を上って、二階の通路を通ってから反対側の階段から降りたり、
居酒屋に入ったかと思うと、なにも注文せずにそのまま奥のトイレの窓から抜け出したりと、無茶苦茶なルートを進みながら少しずつまた北へ向かい始めた。
ますます楽しくなってきた。街のネオンがキラキラと輝いて、すべてが夢の中にいるようだった。
気がつくと、また最初の幸町の東西の通りに戻っていた。随分と遠回りしたものだ。
「どうやって知ったんですか、この空への道」
「ああん?」
先を歩くおっさんの背中に問い掛ける。
「おれも、教えてもらったのよ」
「誰から」
「知らねえよ。酔っ払った、別の誰かさぁ」
おっさんも別の酔っ払いから聞いたわけだ。その酔っ払いも別の酔っ払いから聞いたに違いない。空を歩く道を!
その連鎖の中に僕も取りこまれたって、わけだ。光栄だなあ。僕も空を歩くことができたら、今度は師匠にもその道を教えてやろう。
そんなことを考えてほくそ笑んでいると、おっさんは薄汚れた雑居ビルの階段をよっちらよっちらと上り始めた。ほとんどテナントが入っていない、古い建物だった。
最上階である四階のフロアまで上がると、奥へ伸びる通路を汚らしいソファーやらなにかの廃材などが塞いでいた。


173: 空を歩く男 ◆LaKVRye0d.:2017/2/17(金) 05:54:41 ID:wBv.pXEq1w

683 :空を歩く男  ◆oJUBn2VTGE :2012/09/02(日) 00:05:27.69 ID:itFWmvQ50

「おい、通れねえぞ」
おっさんがわめいて僕に顎をしゃくって見せるので、仕方なく力仕事を買って出て、障害物を取り除いた。
また気分よくおっさんは鼻歌をうたいながら通路を進む。やけに長い通路だった。さっきの東西の通りから、一本奥の通りまでぶち抜いているビルなのかも知れない。
その鼻歌はなにか、酒に関する歌だった。どこかで聞いたことはあるが、世代の古い歌だったので、タイトルまでは思い出せなかった。
なんだっけ?
酒の、酒が、酒と。
そんなことを考えていると、ふいに、頭に電流が走ったような衝撃があった。
あ。
そうか。
違和感の正体が分かった。
急に立ち止まった僕に、おっさんは振り返ると「どうした、にいちゃん」と声をかけてくる。
そうか。あの時感じた違和感。おっさんが僕に顔を近づけて、あそこには目に見えない道がある、と言ったときの。
あれは……
足が震え出した。そしてアルコールが頭から急に抜け始める。
「どうしたぁ。先に行っちまうぞ」
その暗い通路は左右を安っぽいモルタル壁に囲まれ、遠くの非常灯の緑色の明かりだけがうっすらと闇を照らしていた。
おっさんはじりじりとして、一歩進んで振り返り、二歩進んで振り返り、という動きしている。
僕はアルコールが抜けていくごとに体温も奪われていくのか、猛烈な寒気に襲われていた。
そうだ。
おっさんは、息がかかるほど顔を突き出したのに、酒の匂いがしなかった。あの赤ら顔で、千鳥足で、バーから出てきたばかりなのに。そのバーに、そもそもあのおっさんはいなかった。
今日ハシゴした他の店にも。客からあの話を訊くことも目的だったので、すべての店でどんな客がいるか観察していたはずなのだ。
なのに、おっさんは僕が空を歩く男の話を訊いて回っていたことを知っていた。まるで目に見えない客として、あのいずれかのバーにいたかのように。


174: 空を歩く男 ◆LaKVRye0d.:2017/2/17(金) 05:56:58 ID:wBv.pXEq1w

684 :空を歩く男  ◆oJUBn2VTGE :2012/09/02(日) 00:07:40.66 ID:xOvjnYct0

「どうした」
声が変わっていた。
おっさんは冷え切ったような声色で、「きなさい」と囁いた。
ガタガタ震えながら、首を左右に振る。
通路の暗闇の奥で、おっさんの顔だけが浮かんで見える。
沈黙があった。
そうか。
小さな声がすうっと空気に溶けていき、その顔がこちらを向いたまま暗闇の奥へと消えていった。
それからどれくらいの時間が経ったのか分からない。
金縛りにあったかのようにその場で動けなかった僕も、外から若者の叫び声が聞こえた瞬間に、ハッと我に返った。酔っ払った仲間がゲロを吐いた、という意味の、囃し立てるような声だった。
僕は気配の消えた通路の奥に目を凝らす。
そのとき、頬に触れるかすかな風に気がついた。その空気の流れは前方からきていた。
三メートルほど進むと、その先には通路の床がなかった。一メートルほどの断絶があり、その先からまた通路が伸びていた。
ビルとビルの隙間に、狭い路地があった。長く感じた通路は、一つのビルではなく二つのビルから出来ていた。
崖になっている通路の先端には、手すりのようなものの跡があったが、壊されて原型を留めていなかった。向こう側の通路の先も同じような状態だった。
知らずに手探りのまま足を踏み出していれば、この下の路地へ落下していただろう。四階の高さから。
生唾を飲み込む。
最後に「きなさい」と言ったおっさんの顔は、あの断絶の向こう側にあった。
そうか。僕は導かれていたのだ。折り重なった、異なる世界へ。
ビルとビルの狭間へ転落する僕。そして別の僕は、自分が死んだことにも気づかず、そのまま通路を通り抜け、導かれるままに秘密の道を潜り、あの空への道へと至るのだ。高層ビルの屋上から、足を踏み出し……
そこは壮観な世界だろう。
遥か足元にはネオンの群れ。大小の雑居ビルのさらに上を通り、酔客たちの歩く頭上を、気分良く歩いて進む。


175: 空を歩く男 ◆LaKVRye0d.:2017/2/17(金) 06:00:34 ID:ZOkUPycZYs

685 :空を歩く男 ラスト  ◆oJUBn2VTGE :2012/09/02(日) 00:08:48.45 ID:xOvjnYct0

夜の闇の中に、目に見えない一筋の道がある。それは折り重なった別の世界の住民だけにたどることの出来る道なのだ。
はあ。
闇の中に冷たい息を吐いた。
僕はビルの階段を降り、通行人の減り始めた通りに立った。もう夜の底にわだかまった熱気が消えていく時間。人々がそれぞれの家へ足を向け、ねぐらへと帰る時間だ。遠くで二度三度と勢いをつけながらシャッターを閉めている音が聞こえる。
そして僕は振り仰いだ星の見えない夜空に、空を歩く男の影を見た。

           ◆

「殺す気だったんですか」
師匠にそう問い掛けた。
そうとしか思えなかった。師匠はすべて知っていたはずなのだ。かつての死者が新しい死者を呼ぶ、空へ続く道の真相を。
いくらなんでも酷い。
そう憤って詰め寄ったが、そ知らぬ顔で「まあそう怒るな」と返された。
「まあ、ちゃんと見たんだから合格だよ。優良可でいうなら、良をあげよう」
なんだ偉そうにこの人は。ムカッとして思わず睨むと、逆に寒気のするような眼に射すくめられた。
「じゃあ、優はなんだっていうんですか」
僕がなんとか言い返すと、師匠は暗い、光を失ったような瞳をこちらに向けて、ぼそりと囁く。
「わたしは、空を歩いたよ」
そして両手を、両手を羽ばたくように広げて見せた。
うそでしょう。そんな言葉を口の中で転がす。
「臨死体験でもしたって言うんですか」
僕が訊くと、師匠は「どうかな」と言って笑った。


空を歩く男 【了】
176: 信号機 ◆LaKVRye0d.:2017/2/19(日) 01:27:42 ID:niLTnM81LA

『信号機』


夜だった。
サークルの後輩の家で酒を飲み、深夜一時を回ったころに「じゃあな」と自転車に跨って一人家路についた。
通り過ぎる市街地は人影もまばらで、暗くて顔も見えない人々はしかし皆一様に白い袋を手にしている。コンビニの袋なのだろう。
学生の多い街だ。繁華街からは外れた場所をこんな時間に出歩いている人が寄るところといったら決まっている。
自分もこの帰路の途中、どこのコンビニに寄るべきか、頭の中に地図を広げ始める。
しかし自分の頭の中だと言うのに厚い紙が入念に折り畳まれていて上手に広げられず悪戦苦闘していた。やはり酔っているのだろう。
赤信号が見えてブレーキをかけた。
交差点だ。
車など一台も見えないが、黄色の点滅ではない。信号機は普通のパターンのようだ。
片側一車線で、この時間帯なら全方位黄色の点滅でいいだろうに。
そんなことをぶつぶつと頭の中でつぶやきながらそれでも自転車を降りて信号が変わるのを待った。
我ながら順法意識の低い学生のこと。普段なら赤信号だろうが、車が迫っていようが、いけると判断したら渡るのに、その時は酔いで頭の中がシンプルになっていた。
赤は止まれ。青は進め。……黄色はなんだったか。まあいい。
立ったままうとうとしかけて、歩行者用信号機から赤いマークがふっ、と消えたのに気づき、あ、進まなきゃ、と思う。
その時、なんの前触れもなく自分のすぐ横を誰かが先に通り過ぎた。
あれ? 他に人がいたかな。
そう思って前を見たが、街灯に薄っすらと照らされた白と黒の縞模様が道路に伸びているだけで、人の姿はどこにもなかった。
では通り過ぎた誰かはどこに行ったのか。
ぼんやりと顔を正面に向けると歩行者用の信号機が目に入った。動きの鈍い頭の中に氷の一片がさし込まれたように、感覚が急にクリアになった。

ゾクリ……
首筋に走る、嫌な感覚。
その時、自分の頭の中に走馬灯のように思い出されたことがあった。そうだ。あれは、師匠から聞いた話だった。


177: 信号機 ◆LaKVRye0d.:2017/2/19(日) 01:30:21 ID:niLTnM81LA




その日、僕は加奈子さんと市内のハンバーガーショップで昼食をとっていた。
二階の窓際の席に陣取り、道行く人々を見下ろしながら心にうつりゆくよしなしごとをそこはかとなく語り合っていると、ふいに加奈子さんが右手遠方を見つめ、「うん?」と首を傾げた。
「なんですか」
僕も一面ガラス張りの窓からそちらを覗き込むが、特に変わったことはないように見えた。
「あそこ、信号のとこ。一人いるだろ」
そう言われてよく見ると、遠くの横断歩道のところに、一人だけ誰か立っているのが見えた。
もう一度言う。よく見ると、つまり目を凝らしたら見えたのだ。
ぼんやりと視線を向けただけでは見えなかった。その誰かは。
「お化けがいるなあ」
加奈子さんはコーラのカップから伸びるストローを噛みながらぼんやりとそう呟く。
この距離で良く気づくものだ。感心ながらまじまじと見ていると、その横断歩道で立ち止まっている誰かはまったく動き出す様子がなかった。
信号が変わって、通行人が一斉に歩き出してもその人物だけはその場に立ち止まったままだった。また別の人々が横断歩道の前に溜まり、再び信号が青になってもその光景が繰り返される。何度もだ。
「あれ何してんのかなあ」
「何してるんでしょうね」
「おい」
「え」
加奈子さんが急に顔をこちらに向けた。
「ちょっと言って、訊いてこい」
「は?」
ストローから口を離したかと思うと、カップを持つ手から人差し指だけを立ててこちらに向ける。
「だから、今からあそこ行って、何してんのか訊いてこい」
「はあ」
しぶしぶ立ち上がる。
加奈子さんは冷めかけたポテトの欠片を指先で探りながらまた窓の外に目をやっている。
僕は飲み物や食べかけのバーガーを残したまま一人だけで階段を降り、ハンバーガーショップの外に出る。


178: 信号機 ◆LaKVRye0d.:2017/2/19(日) 01:33:24 ID:niLTnM81LA

また階段を上り、戻って来た時も加奈子さんは同じポーズで窓の外を見ていた。
席に着くと、心なしか僕のバーガーが小さくなっている。持ち上げてじっと眺めていると、「どうだった」という声。
「ええと。なんか、信号を待っているそうです」
「信号? 何度も青になってるじゃん」
「いや、それが歩行者用の信号って、人間が歩いてるマークが青で、真っ直ぐ立ってるマークが赤じゃないですか」
「そうだな」
「自分は違うそうです」
「は?」
「いや、ほら。足が……」
「ないからって?」
師匠は呆れたように顔をしかめる。
「はい。信号が進んでいいマークに変わらないからずっと待ってるとかなんとか……」
「お化け用の信号なんてあるか!」
バカじゃないの。
師匠はテーブルを叩く。
「じゃああいつ、ずっとあそこで待ってるつもりか」
「さあ。たぶん」
窓の向こうに目をやると、横断歩道のところにまだその人影がじっとしているのが見えた。歩き出す人々からぽつりと一人離れて。
「あいつ死にたてなのかな」
「さあ。たぶん」
僕は小さくなったように見えるバーガーの、キツネ色のパンズの上に残る小さな歯型を眺めている。
加奈子さんは何かぶつぶつ言っていたが、やがて顔を上げて口を開いた。
「いくらなんでも、そんなことでこの先やっていけるのか」
怒ったような口調だった。
知りませんよ、そんなこと。
加奈子さんはいきなり立ち上がった。
「説教してくる」
そして僕が止めるのも聞かず、さっさと階段を下りていってしまった。
残された僕は溜め息をついてから向かいの席の食べ物を漁ろうとした。
しかしポテトの欠片一つ残ってはいなかった。


179: 信号機 ◆LaKVRye0d.:2017/2/19(日) 01:35:21 ID:niLTnM81LA

戻ってきた加奈子さんは、少し不機嫌そうだった。
「どうでした」
この窓から見ていた限りでは、横断歩道の前で身振り手振りで加奈子さんが何か言っている間にその人影は消えてしまった。
白昼に、人間が一人消えてしまったことよりも、誰もいない場所に一人で喚いている女性に対して道行く人々は気味の悪そうな視線を向けている。
元々僕ら以外の誰にも見えていないのだ。その生真面目なお化けは。
「駄目だ。びびって消えた」
「優しく言わないからでしょう」
「別に怒鳴ったわけじゃない。教えてやっただけだ」
「教えるって、なにをですか」
師匠はそこで、持ち上げたコーラのカップの予想外の軽さに驚いた顔をしてから、ニヤリと笑って、言った。
「信号の渡り方」
そうして、「お化けの」と付け加えてからテーブルに空のカップを置いた。


180: 信号機 ◆LaKVRye0d.:2017/2/19(日) 01:38:13 ID:niLTnM81LA




ゾクゾクしている。首筋が。
トットット…… 心臓の音が早い。そのリズムでアルコールを含んだ血液を全身に流している。
なのに頭は酩酊から冷めている。
街灯の明かりしかない夜の交差点。横断歩道の信号が変わり、夜目にも毒々しい赤い『止まれ』のマークが消えたばかり。
しかし動けない。歩き出せないでいる。
信号機は消えたままなのだ。赤だけではなく、青も。
どちらの明かりも消えたままだった。
歩行者用だけではない。自動車用の信号機も灯が消え、暗闇の中にぼんやりとその無機質な姿が浮かび上がっている。
真夜中、時間が止まったような光景だった。ただ目に見えない気配だけが、無人の横断歩道を渡って行く。
ついて行ってはいけない。それだけは分かった。
噂は聞いたことがあった。市内で、夜に信号がすべて消えたら動いてはいけない。人ではないものが、通り過ぎる時間だから……

その噂は、数年前から聞かれるようになったという。わりに新しい噂話だ。けれど広まるのは一瞬だ。口から口へ、耳から耳へ。
自転車のハンドルを支えながら、色と、音のない世界でじっと立ち尽くしている。気配が横断歩道の向こうへ消えて行くまで。
その間、頭の中に地図を広げる。夜の街の網目のように張り巡らされたすべての路地を幻視する。
そこには目に見えない噂話が音にならない囁きとともにゆっくりと流れている。
やがて我に返ると、青い歩行者のマークが点灯していることに気づく。
遠くから大きな猫の目のようなヘッドライトが減速しながら近づいてくる。
ペダルに足を掛けると、薄暗い横断歩道の向こう側で目に見えない誰かがもうそこで待っているような気がして、ひくりと息を飲んだ。


181: 趣味の話 ◆LaKVRye0d.:2017/2/19(日) 01:40:37 ID:niLTnM81LA

『趣味の話』


師匠から聞いた話だ。


僕の師匠は実に多趣味な人だった。
もちろんオカルト道の師匠であるからして、その第一はオカルトであるのだが、他にも色々なものに凝っていた。
中でもスポーツは大好きで、野球、プロレス、水泳、登山、ビーチバレー、短距離走と、節操なく手を出していた。
いずれも見るだけはなく自分でやっているのであって、そのバイタリティと運動神経には驚かされる。
特に足の速さは一級品であり、主に逃げ足などに活用されていた。
この不思議な魅力を持つ人物のことをもっと知りたくて、彼女を知る人に片っ端からインタビューを試みたことがあった。
曰く、

足が速い。
幽霊が見える。
金を貸している。
寝癖が爆発していることがある。
案外いいヤツ。
逃げ足速すぎ。
何を考えているのか分からない。
逃げる野良猫に追いついているのを見た。
ときどき気持ちの悪いことを言う。
キレると怖い。
女ジャイアン。
諦めが悪い。
ずうずうしい。
殺しても死なない。
金を貸していた気がする。
凄く足が速い。
食べ物をたかるのはやめて欲しい。
頭は良い。
痴漢したオッサンに一瞬でノーザンライトスープレックスをきめていた。
怪談話が好き。
お巡りさんに追いかけられているのを見た。
上から目線がひどい。
知ったかぶりをする。
足が速い。
教授に色目を使っている。
…………



182: 趣味の話 ◆LaKVRye0d.:2017/2/19(日) 01:42:59 ID:niLTnM81LA

等々、その特徴として足が速いことを挙げる人が多かった。
陸上部でもないのに、大学生にもなって足の速さを披露する機会が多いということ自体、彼女の普通ではない様を如実に表している気がする。
また、スポーツ以外でも興信所のバイトで探偵まがいのことをしていたり、地区の消防団に入っていたり、と実に活動の幅が広い。
ただ、その本質は飽きっぽいのであり、長く続いている趣味の後ろには、手を出したものの三日と続かなかったようなものが山を作っている。
例えばホーミー。
モンゴルの伝統的な歌唱法と言うか、発声法で、唸るような低い声と同時に甲高い笛のような音が聞こえてくるという代物だ。
なにかのテレビで見たらしく、さっそく試してみたようだ。実際にその音が出ると嬉しくなったのか、さらなる練習を重ね、口ホーミーから喉ホーミー、腹ホーミーと、様々に使い分けることもできるようになっていた。
超音波的というか、ビリビリと響く、どこか金属製のものを思わせるその音を聞いていると、僕など頭が痛くなってしまったものだ。
ある時、その師匠の家に遊びに行くと、ボロアパートの部屋の前に猫がたむろしている。四、五匹はいただろうか。
野良猫と思しき彼らはみな一様に部屋の中が気になるようで、ドアの下の隙間を覗き込もうとしたり、壁際に積んでいたダンボールを踏み台にして部屋の窓を伺ったりしていた。
いったい何事かと、僕も一緒になって窓から中を覗き込むと、カーテン越しにちらりと師匠が部屋の真ん中でヨガのようなポーズで座っているのが見えた。
その時、窓ガラスが小刻みに揺れているのに気づいた。そして微かに響いてくる低い唸り声と、それに被さる金属的な音。
ホーミーの練習をしているらしい。いつの間にやら趣味が高じて、近所の猫が集まってくるほどになっていたようだ。
というか、なぜ猫が?
そのホーミーに凝っていたのも二、三週間のあいだだけだった。あまりに猫が集まってくるので、エサをやっているんじゃないかと近所から苦情が来たらしい。


183: 趣味の話 ◆LaKVRye0d.:2017/2/19(日) 01:46:10 ID:ki46t9YtMY

手品にハマッていたこともあったし、俳句に興じていた時期もあった。
ある時など、自分の寝言を記録していたことがあった。
師匠は元々寝言がやたら多いらしいのだが、ふと思いついて自分がどんなことを喋っているのか、それを記録してみることにしたらしい。
最初はラジカセで採ろうとしていたが、録音時間が足りず、人力をもってそれに代えることにしたという。
つまり僕だ。

「いいか。お前はずっと起きてて、わたしの寝言を一字一句聞き漏らさずに書き留めるのだ」
そんな宣言の後、師匠は布団を頭から被って寝始める。
その枕元にはノートと鉛筆を持って座っている僕、というシュールな絵面だ。時計は夜中の十二時をさしている。
確かに師匠は寝言を発していた。
むにゃむにゃむにゃ、というような文字化し辛いうわ言ばかりかと思っていたら、まれにはっきり聞き取れる内容のものもあった。
カナヘビがどうだとか、チェッコ・ダスコリがどうしたとか言っていたかと思うと、わたしからは名を与えるとか、ちょっとそこをどいてくれだとか、腹が減った、などというようなことをぼそぼそと口にしていた。
それらを黙々と書き留めていると、やがて誰かと会話しているらしい場面になった。
「らるふ、らるふ」と誰かに話しかけているらしいのだが、なにか怒っているような口調だ。
十分ばかり耳をそばだてて集中していると、ようやくなにを言っているのか分かった。夢の中で近鉄のラルフ=ブライアントに箸の使い方を説明しているのだ。
ブライアントはあまりに箸の使い方がヘタで、師匠がどれほど教えても上手く扱えないようだった。
だんだん「ボケ」とか「違うだろアホ」とか口調が汚くなり、「もう知らん。パンでも食ってろ」との捨てセリフを吐くに至った。
僕はそれを丁寧にメモしていく。
と、ノートに目を落としていたら、耳をつんざくような悲鳴が上がった。
心臓が止まりそうになるほど驚いた僕はひっくり返ってテーブルに頭をぶつけてしまった。
師匠が口元を抑えて跳ね起きた。目が大きく見開かれている。
「な、なにが。ど、どうしたんですか」
しどろもどろでそう訊くと、返事も出来ない様子で肩で息をしている。
「ラルフになにかされたんですか」


184: 趣味の話 ◆LaKVRye0d.:2017/2/19(日) 01:49:55 ID:niLTnM81LA

そう訊ねた僕に、怪訝な顔をして「ラルフってなんだ」と訊き返してくる。
「寝言で言ってたんですよ。夢を見てたんでしょう?」
僕が説明すると、師匠はひったくるようにノートを手に取り、自分の発した寝言を確認する。
寝ている師匠がなにか喋ったら、その内容と時間とをメモしてあるのだが、最初の一時間半ほどはすやすやと寝ていて、夜中の二時前くらいからぽつぽつと何ごとか寝言を言い始め、そして三時半現在でいきなり自分で悲鳴を上げて飛び起きた、という流れだ。
師匠の部屋の外はまだ暗い。電柱に取り付けられた街灯の微かな明かりがカーテン越しに見える。
「おい。この、パンでも食ってろ、ってのが最後か」
「はい」
「いつだ」
「いつって、ついさっきですよ」
「何分まえだ」
「何分というか、いきなり叫びだして起きる直前ですよ」
「直前……?」
師匠は真剣な表情になり、目を見開いたまま、なにかを思い出そうとするように額に手を当てた。
「夢が変わってる」
「は?」
「そんな、ブライアントが出てくるような楽しい夢じゃなかったぞ」
真顔でそう言われて、なんだかわけの分からないままに寒気がしてきた。
「どんな夢を、見てたんです?」
恐々とそう訊ねた。
師匠は右手をゆっくりと前に突き出して目に見えないなにかを探るような仕草をする。
「こう…… 誰もいない夜の街で、道路になにかが這いずったような跡があって、それを辿って行くと……」
そこで口ごもった。
続けようとしたようだが、手だけが宙を彷徨うばかりで言葉は出てはこなかった。
師匠は一瞬、身体を震わせたかと思うと、また布団に潜り込んだ。あっけにとられた僕は、しばらくその布団の膨らみを見つめていたが、いつまで経ってもそのままなので「ちょっと」と揺すった。
「なあに?」
「なあにじゃなくて」
気になるでしょう。
僕が促すと、布団の中から囁くような声でこんな言葉が返ってきた。
「なにかいるぞ」
この街に……
そうして布団が小刻みに揺れた。笑っているのか。怯えているのか。どちらとも知れなかった。


185: 趣味の話 ◆LaKVRye0d.:2017/2/19(日) 01:53:30 ID:niLTnM81LA




そんなことがあってからしばらく後、師匠は今度は読唇術に凝り始めた。
僕はさっそく部屋に呼び出され、その練習相手を無理やりさせられていた。
「ほんじつは……せいてんなり?」
パクパクパク。
「かーる……るいす」
パクパクパク。
「がーたー……べると」
パクパクパク。
「とむ……と……しぇりー」
座って口パクをする僕の唇の動きだけを見てなにを言っているのか当てるのだそうだ。
それが正解なら僕は黙って頷くことになっている。外れなら左右だ。
師匠の手元にはどこで手に入れたのか、読唇術のハウツー本が握られている。
「おっ……ぱい?」
正解。
師匠はそこでちょっとタイムとばかり、両手を頭上でクロスさせた。
「なあ、さっきからなんか、ところどころエロい言葉を言わせようとしてないか」
ぶんぶんと頭を振る。
疑わしそうな目で睨みながら師匠は膝を付き合わせた姿勢に戻る。
「なんでも良いから喋るフリしろ、とか言われても逆になにを言って良いのか分かんなくなるんですよ」
抗議をすると、師匠は少し考え込み、やがて「じゃあ、プロ野球選手の名前縛りで行こう」と言った。
僕は真剣な表情でこちらを凝視してくる師匠のプレッシャーを感じながらゆっくりと口を動かす。
パクパクパク。
「くわた……ますみ」
パクパクパク。
「あいこう……たけし?」
パクパクパク。
「お……な……」
そこまで言いかけて、師匠はいきなり僕の左頬に平手打ちをかました。
「い、痛い」
びっくりして思わず喋ってしまった。
「いい加減にしろ、このボケ」
怒鳴りつけられた。
「オマリーって言っただけですよ。オマリー。阪神の」
「うそだ。絶対うそだ」
「うそじゃないです」
実はうそだった。
しばらく言い争ったが、白けてしまったのか、師匠はハウツー本を投げ出して立ち上がった。


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