ここでは、まとめの怖い系に掲載されている『師匠シリーズ』の続きの連載や、古い作品でも、抜けやpixivにしか掲載されていない等の理由でまとめられていない話を掲載して行きます
ウニさん・龍さん両氏の許可は得ています
★お願い★
(1)話の途中で感想等が挟まると非常に読み難くなるので、1話1話が終わる迄、書き込みはご遠慮下さい
(代わりに各話が終わる毎に【了】の表示をし、次の話を投下する迄、しばらく間を空けます)
(2)本文はageで書きますが、感想等の書き込みはsageでお願いします
それでは皆さん、ぞわぞわしつつ、深淵を覗いて深淵からも覗かれましょう!!
2: 風の谷の名無しか:2017/1/24(火) 20:32:57 ID:0vOrDYdCSs
田舎の中編(1注:このサイトのまとめでは後編)はあれで終わりではありませんでした。
後編どころか、中編の途中で力尽きて投げ出したのです。
せっかく書いていたので、その中編の投げ出したところまでを載せようと思います。
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俺はなにか予感のようなものに襲われて、自分の前に置かれた湯飲みを掴んだ。
冷たかった。
思わず手を離す。
出された時は確かに湯気が出ていた。間違いない。
あれからほんのわずかしか時間は経っていないというのに。一瞬のうちに熱を奪われたかのように、湯飲みの中のお茶は冷えきっていた。
まるで汲み上げたばかりの井戸水のように。
ここまでが、投下済みのもの。
----------------------------
ここからが、未投下分です。
(2行ほどあけて)
「あれは地震じゃないな。家が揺れたんだよ」
先生の家を半ば追い出されて、庭先にとめていた車に乗り込む。
「犬神という言葉に明らかに反応していた」
こいつは、なんとしても探し出さないとな。
師匠はエンジンをかけながらそう言う。
しかし京介さんのきっぱりした声が、それを遮った。
「待った。探し出してどうするつもりだ」
一連の出来事は普通じゃない。ありえないようなことが立て続けに起きている。へたに首を突っ込みすぎると、危険だ。
師匠は目の前に並べられるそんな言葉に薄ら笑いを浮かべて、「怖いんだ」と煽るようなことを言う。
京介さんは刺すような視線を向けると、「そうだよ」と言った。
コンコン。
車の窓をバイクにまたがったままユキオが叩き、ウインドをおろすと「さっきはすまざった。先生、今日は機嫌が悪かったみたいじゃき。でもこのあとどうする? ゆかりの史跡とかやったら案内するけんど」と首を突き出した。
少し考えてから、京介さんは「それと、他にいざなぎ流に詳しい人がいたら紹介してほしい」と言った。
「ああ、ヨシさんやったらたぶん家におるき、いってみようか」
俺は思わず師匠を見たが、思案気な顔をしたあと「一人で戻ってるよ」と言う。
3: 風の谷の名無しか:2017/1/24(火) 20:33:17 ID:0vOrDYdCSs
バイク貸してくれる?
とユキオに声をかけながら運転席から降りた。
なにも言わず、京介さんが入れ替わりに運転席に座る。助手席に乗り込みながら、ユキオが「あの家にとめといてくれたらいいスから」となぜか申し訳なさそうに言った。
「僕がいないほうが、話を聞けそうだしな」
じゃ、部屋で寝てるから。
師匠はそう言って手を振った。
その時、ズシンという軽い振動がお尻のあたりに響いた。
思わず周囲を見回す。
師匠が音のしたらしい山の上のあたりを睨むように見上げている。ユキオは今思い出したという表情でぼそりと言った。
「そういえば、先週から発破やってるなぁ」
それを聞いて京介さんが、ニヤっと笑いながら言う。
「たしかに地震じゃないな」
師匠は口を歪めて、なにも言わずにバイクにまたがった。
それから俺たちは太夫をしているヨシさんというおじいさんの家にお邪魔して、いざなぎ流のあれこれを聞いた。
ヨシさんは愛想のよい人で、ユキオの先生とはえらい違いだったが肝心な部分の説明ではするりと焦点をぼかすようにかわし、結局その好々爺然とした姿勢を崩さないままに、俺たちの知識になに一つ価値のあるものを加えてはくれないのだった。
「……それで、神職の太夫さんと吾が流の太夫を区別するときゃあ、ハカショ(博士)というがよ」
そこまで語ったところで家の電話が鳴り、ヨシさんは中座をするとしばらくしてから戻って来て、これから出掛ける旨を俺たちに伝えた。
「ありがとうございました」
とりあえずそう言って辞去したものの、不快というほどでもないがいずれ肌触りの悪い場の空気に、自分たちは余所者なのだということをまた思い知らされただけだった。
それを感じているユキオもまた、ますます申し訳なさそうな表情になり、そのあと案内してもらったいざなぎ流ゆかりの地所でもたいして得られるものはなかった。
なんだかどっと疲れが出て、俺たちはとりあえず家に帰ることにした。
くねくねと山道をのぼり、ようやくたどり着いて車から降りるとユキオは庭先にとまっていた自分のバイクにまたがり、「仕事、少し残っちゅうき」とやはり申し訳なさそうに去っていた。
家に入ると「おそうめん食べんかね」と叔母にすすめられ、「氷乗っけて」という俺の注文の通りキンキンに冷えたそうめんがすぐにちゃぶ台に並べられた。
師匠を呼ぼうとして部屋を覗いたが、扇風機の首を振らないようにした状態でまともに風を浴びながらそれでも寝苦しそうに掛け布団を抱きしめて眠っていた。
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ここで筆をへし折っています。2007年の夏のことです。
師匠が布団を抱きしめて眠り続けて、はや四年・・・
まだしばらく寝続けることになるかも知れません。
【了】
4: 風の谷の名無しか:2017/1/25(水) 16:56:42 ID:M9xMoCsD1.
スレ立て乙。
ここまで書いたのが10年前かぁ。
早く完結して欲しいけど、書きたい時に書きたい話が書けるとは限らないもんね。
支部でも、ずっと待ってます!!とか沢山言われてるみたいだったけど。
5: 風の谷の名無しか:2017/1/25(水) 19:40:56 ID:KZyCpdPW/s
結構沢山新しい話出てますよね、楽しみにしています!
6: 1 ◆LaKVRye0d.:2017/1/25(水) 21:53:37 ID:BPamNT3ng2
>>4-5
有難うございます!
最初の投稿はオマケみたいなモンで、
感想もそう出ないでしょうから、明日か明後日には次の話を載せますね
順番は完全に書かれた順番とは限らず、多少狂う可能性もありますが御了承下さい
次に掲載予定の『絵』T〜Vも、Tだけかなり古くに書かれていますが、T〜V合わせてひとつのお話になっているので纏めて投稿し、
【了】の表示はTとUには付けず、Vの最後にのみ表示します
7: 『絵』《T》 ◆LaKVRye0d.:2017/1/26(木) 01:21:37 ID:/.Q2kT1tPE
『絵』《T》
大学の研究室のメンバーが行きつけにしているバーがあるのだが、そこで知り合った研究室のOBからちょっと不思議な話を聞いた。
大学時代半年ほど付き合った彼女がいた。
一コ上で美術コースにいた人だった。
バイト先が同じだったので、お互いなんとなく、という感じで付き合い始めたのだった。
彼女が描いている絵を何度か見せてもらったことがあるが、前衛的というのか、絵は詳しくないのでよくわからないけれど、どれも「身体の一部が大きい人間の絵」だった。
グループ展用の完成作品も、スケッチブックのラフ画も、ほとんどすべてがそうだった。もちろんちゃんとした絵も描けるのだが、そのころ彼女はそういう絵ばかりを好んで描いていたようだった。
たとえば半裸の白人が正面を向いている絵があるが、左目だけが顔の半分くらいの大きさで、輪郭の外にまではみ出ていた。
他にも右足の先だけが巨大化した絵だとか、左手、鼻、口、右耳…… どれも身体の中でその部分だけが巨大化していた。
写実的ではない、抽象画のような作風だったが、なんとも言えない気持ち悪さがあり、吐き気を覚えて口元を押さえてしまったことがある。
そんな時彼女は困ったような顔をしていた。
8: 『絵』《T》 ◆LaKVRye0d.:2017/1/26(木) 01:24:44 ID:jsJ4QOAmCk
彼女と付き合い始めてふとあることに気がついた。
子供のころからずっと何度も何度も繰り返し見ていた夢を見なくなっていたのだ。
その夢は、悪夢と言うべきなのか、よくあるお化けに追いかけられたりするような脅迫的なものではなく、静かな、静かな夢だった。
眠りにつくと、それは唐突にやって来る。
袋が見えるのだ。
巾着袋のような艶かしい模様をした大きな袋。子どもくらいなら隠れられそうな。
それまで見ていたのがどんな夢だったのかは関係が無い。とにかく気がつくと場面は昔、小学生のころに住んでいたアパートの一室になり、夕日が窓から射し込む中で袋がぽつんと畳の上に置かれている。
ただそれだけの夢だ。
この夢が自分にはとてもとても恐ろしかった。
夢なんてものは奔放に目まぐるしく変わるものなのに、この部屋に入り込むとそれが凍りついたように止る。
何故か部屋には出入りする扉はどこにもなく、ただ僕は畳の上の袋と向かい合う。目を逸らしたいのに、魅入られたように動けない。
やがてわずかに開いている袋の口に出来た影を、負の期待感とでも言うものでじっと見つめてしまうのだ。
ああ、はやく。はやく夢から覚めないと。
その部屋はいつも夕日が照っている。
それが翳り始めると、袋の口が開いていくような気がして……
そんな夢だ。
目が覚めて、深く息をつき、そしてもうあの部屋には行きたくないと思う。しかしどんなに楽しい夢を見ていても、ドアを開けるとあの部屋に繋がってしまうことがある。
そして降り返るとドアはないのだ。
その夢が、大学に入るまで、そして頻度は減っていったが、入ってからも続いた。
自分でも夢の意味についてよく考えることがあるが、あの袋に見覚えはない。
畳敷きのあの部屋も、今はアパートごと取り壊されているはずだ。 脈絡がなく、意味がわからない。
だからこそ怖く、両親にも友人にも、誰にもこのことを話したことはなかった。
それが彼女と付き合い始めてから何故か一度も見なくなった。
ホッとする反面、長く続いたしゃっくりが急に止った時のような気持ち悪さもあった。
9: 『絵』《T》 ◆LaKVRye0d.:2017/1/26(木) 01:28:37 ID:jsJ4QOAmCk
彼女にこのことを話してみようかと思っていたころ、彼女に「夜、美術棟に忍び込んでみない?」と誘われた。
美術棟は夜は戸締りされ、入れなくなるのだが学生たちは独自に侵入路を持っていて、仲間で忍び込んではこっそり夜の会合を開いたりしているらしい。
面白そうなのでさっそくついて行った。
深夜、明かり一つない美術棟の前に立つと彼女は、スルスルと慣れた様子で足場を辿って壁をよじ登り、窓のひとつに消えて行った。
やがてガチャリと音がして裏口が開いた。
美術棟自体初めて入ったのだが、中は想像以上に色々なものが煩雑に転がっていて、思わず「きったねえなあ」と言ってしまった。それには彼女も同意したように頷いた。
持参した懐中電灯で足元を照らしながら、描きかけの絵やら木工品といった学生たちの創作物の中をかき分ける様に廊下を進み、三階の一つの部屋に入った。
「ここ、私の作品を置かせてもらってる物置」
たしかにその部屋の一角には、見覚えのある作風の絵が所狭しと並んでいる。
夜、こんな風にわずかな明かりの中で改めて見ると、言い様のない不気味な雰囲気だった。
「前から気になってたんだけど、どうしてこういう一部だけがデカイ人を描くの?」
今までなんとなく訊けなかったことを勢いで訊いてしまった。
10: 『絵』《T》 ◆LaKVRye0d.:2017/1/26(木) 01:34:58 ID:/.Q2kT1tPE
彼女は右目だけが異様に大きい人物画を懐中電灯で照らしながら答えた。
「私ね。子どものころ、家族で南の島に行ったの。ポリネシアのほう。そこでこんな民話を聞いたの。むかし人間が今よりもっと大きくて尊大だった時、その行ないに怒った精霊が呪いをかけて人間たちの体を小さくしてしまった。人間たちは嘆き悲しみ、この世のすべてを司る偉大な精霊に心から謝ったわ。精霊は情けをかけて、人間の身体の一部だけは元のまま残してくれた。大きい手。大きい鼻。大きい目。大きい耳。大きい足…… でも人間たちは大きい目や手、鼻や耳をやがてうとましく思うようになった。そして精霊にお願いしたのよ。どうか残りの身体も小さくして下さいって」
思わずまじまじと絵を見つめた。
「つまりね、これは小さくなってしまった巨人なのよ。彼はこの大きな右目だけで真実の世界を見ている。でもそれは今の世界を生きるにはむしろ邪魔だったのね。人間はそうして愚かで矮小な生き物になることを自ら選んだと、そういうお話だった。すごく面白いモチーフだと思ったから……」
そういう彼女の顔にはかすかな翳りがあった。
「私ね。信じられないかもしれないけど、本当に見たのよ。その島の至るところで、この絵みたいな人。見えていたのは私だけだった。それから日本に帰ってからも見た。周りにいるの。見えなくなっちゃえって思った。でもそうはならなかった。ゲゲゲの鬼太郎だったかな。漫画に出てくるの。目に見えないお化けを退治する方法。とり憑かれた人に質問をしながら、石に描いた点線を結ぶとお化けの正体が現れてその石に閉じ込めることができるっていうお話。小学生の時、それを読んで、描いたの。こんな絵を」
彼女はゆっくりと絵の表面をなぞるように指を動かす。
僕はその動きをじっと見ていた。
「そしたら見えなくなったのよ。身体の一部が大きい人。でもそれから不思議なものをたくさん見るようになったわ。え? 言っても信じないよ。とにかく私はそんなもの見たくなかった。ね、あの民話みたいでしょう。普通の生活がしたいから、真実かもしれないものを捨てるの。そうして見たものをもう絵には描かなくなった。ただ見ないふりをするだけ。まだこんな絵を描きつづけているのは単純に、本当に面白いモチーフだと思ったから」
バカバカしい話だと思う?
彼女はいつもの困ったような顔をしていた。
信じられない話だ。荒唐無稽とも言える。
しかし僕は息を飲んで、震える膝を必死で押さえつけていた。
彼女の話の途中から、見てしまっていたのだ。その背中の後ろに並ぶ棚の、一番奥まったところにある絵を。
それは夢に出てくるあの袋の絵だった。
11: 『絵』《U》 ◆LaKVRye0d.:2017/1/26(木) 01:37:51 ID:jsJ4QOAmCk
『絵』《U》
みかっちさんから聞いた話だ。
わたしの先輩にね、凄い霊感体質の人がいたの。先輩っていっても、わたしが大学に入る前に卒業してるから、直接は知らないんだけど。その先輩ね、女の人なんだけど、変な絵ばっかり描いてた人で、なんか、手とかがやたらでっかい人間とか、そういうの描いてたらしいんだ。課題はちゃんとこなしてたし、絵自体は凄く上手かったんだけど、なんていうか、見えちゃう人だったらしい。その手がデカイ人の絵も、本当にそういう変なのが見えちゃったんだって。デカイったって、倍じゃきかないのよ。ありえない大きさなの。しかも目とか耳とかも馬鹿でかいバージョンもあって、それも全部見たんだってさ。霊感にしたって、そんな変な幽霊自体いないじゃない。一体なにを見たのよってカンジ。いや、それがさ、私たちの特別美術コースで語り草になってる逸話があってさ。伝説よ、伝説。その名も誰が呼んだか『悪夢の学祭展事件』! 何年か前の大学祭の時にね、特別美術コースの生徒がどっかの教室を借り切って、展示会をしたらしいの。今はコースではそういうのやってなくて、わたしたちもサークルの美術部の方で毎年焼きそばの模擬店と似顔絵描きやってるだけなんだけど。当時は教授が良い顔しなくて、特美の生徒は美術部にはあんまり入ってなかったみたい。その代わりかどうか知らないけど、とにかく、当時は特美の生徒たちだけで学祭展をしたのね。で、その先輩がそこで新作を展示したの。例の、手とか足とかがデカイ人の。でもそれだけなら、なんてことなかったんだけど、その時、そういう身体の一部がデカい人だけじゃなくて、なんか別の気持ちの悪いものも一緒に描いてたんだって。それを見た人たちがなんでかパニックになって、ドミノ倒しっていうの? バタバタ倒れちゃって、なんか怪我人も出ちゃってさ、救急車が来る大騒ぎ。結局それから特美の学祭展は出来なくなって今に至ってるらしいんだわ。どんな絵かって? 見てないからなんとも言えないけど、なんか聞いた話だと、化け物の絵だったらしいよ。呪いの絵とか言って、うちのコースの言い伝えになってる。でも怖いわあ、そういうの。絵の呪いって、わたし、あると思っているし。え? その先輩の名前? ええと、確か……
12: 『絵』《V》 ◆LaKVRye0d.:2017/1/26(木) 01:42:14 ID:/.Q2kT1tPE
『絵』《V》
師匠から聞いた話だ。
大学二回生の秋だった。
人生二度目となる大学祭のシーズンが来て、イチョウの落ち葉が道を覆っているキャンパスを歩いていると、そこかしこで模擬店や様々な出し物の準備が行われていて、すべてが楽しげに浮き足立っているように見えた。
自分はというと、所属しているサークルの模擬店にも参加せず、ブーイングを浴びながらも軽くそれを受け流し、そんなものよりももっと楽しいものを探してうろうろとしていた。
「どいてください。どいてください」
海賊よろしく頭にタオルを巻いた二人組がなにかの看板を抱えて、僕の脇を走り抜けた。周囲にはざわざわとした喧噪が敷き詰められている。
息苦しさを感じて、頭を掻いた。
僕以外の楽しげな連中に吸い尽くされ、笑い尽くされて、このあたりにはあまり空気が残っていないような気がした。その希薄な空気の層を縫うように歩く。結局のところ、自分が立って、歩いている場所など、普通の人々が生きている場所とほんの少し形而上学的な意味でずれているのだろう。
そうして僕は、「師匠」と声を掛ける。
そんな僕にとって楽しいものは、たいていその人が知っていた。
「よう。明日、大学祭に行こう」
そう、例えば大学祭に。
大学祭?
「何故ですか」
少しうろたえて僕は訊ねた。普通の若者が楽しむようなお祭りなど、鼻で笑うはずの人からそんな言葉が出るとは。まるで、で、デートではないか。
「友だちから誘われたんだ。特美で絵を描いてる子なんだけど、作品の展示をするからって」
デートだ。完全にデートだ。本来であれば、サークルに所属している学生は大学祭でなんらかの出し物をするために狩り出されるところだが、そんな苦労などどこ吹く風で、彼氏彼女とデートをするために不参加を決め込み、あまつさえそのサークルの模擬店などを冷やかしに行くといった鬼畜の所行をナチュラルに敢行する連中がいる。ありえない。そんなことが許されるのか。
「行きます」
「じゃあ明日な」
この時期、わがキャンパスは黄色い。イチョウ並木とその落ち葉とで黄色一色に染められている。どこか甘い香りのする濃密な空気を胸一杯に吸い込み、浮き足だった足取りで僕は歩き出した。
13: 『絵』《V》 ◆LaKVRye0d.:2017/1/26(木) 01:46:31 ID:jsJ4QOAmCk
◆
その夜だ。家に帰って、昼間の出来事をじっくりと反芻していると、どう考えてもなにかオチがあるに違いないという結論に至った僕は、師匠のアパートを訪ねた。
「どういうことですか」
そう切り出しただけで、すべて承知した師匠は語り出したのだった。
「後輩にな、特美で絵を描いている子がいるんだ。福武有子っていって、今四回生かな。もう卒業か。学部も違うけど、ちょっとしたことで知り合って仲良くなってな。たまに相談に乗ったりもするんだけど。変わった子でさ。変な絵を描くんだ」
師匠はそう言って、押し入れに頭を突っ込んだ。
「まだこっちにあったかな。……あ、あった」
振り向いたその手に、簡素な額縁に納まった絵が掲げられていた。
それを見た瞬間、僕はなんとも言えない不安な気持ちになった。じわじわと気持ちの悪さが首をもたげてくる。
「この絵は、福武が去年描いたのをもらったんだ。これはなんだと思う?」
それは鏡の前でたたずむ人物画だった。油絵だろうか。女性が大きな化粧鏡の前に座り、それを背後から描いているのだが、背中越しの鏡の中に女性の顔が映っている。まだ若い女性だ。微笑むでも、自分の顔を見つめるでもなく、ただ無表情で座っている。そんな絵だ。自画像なのかも知れない。それだけなら、どうということもない絵だ。だが、そんな女性の隣に、もう一人の人物がいるのだ。
その人物は女性のすぐ隣に座っていて、こちら側に背中を向けている。つまり並んで鏡の方を向いている。はずなのだ。はずなのだが、鏡の中にも背中が映っている。両面とも後ろ姿なのだ。身体の前面という、顔に代表されるその人のその人らしさを象徴する部分がどこにも存在していない。
14: 『絵』《V》 ◆LaKVRye0d.:2017/1/26(木) 01:50:02 ID:jsJ4QOAmCk
匿名的、というにもあまりにおぞましい、異様な絵だった。
シュールレアリズムというのだろうか。画集を見たことがあるルネ・マグリットの作品にそんなモチーフの絵があっただろうかと考えていると、師匠は続けてこう言った。
「この絵は本人曰く、シュールレアリスムじゃなくて、レアリスムだとよ。実際にこういう、後ろ姿しかないやつを見たんだって」
ぞくりとした。
見た? こんなやつを?
「福武は子どものころから、こういうこの世のものではないやつを良く見るそうだ。そんな時はいつも見たものを絵に描く。そうすることで、怪異から自分の身を守れると信じている。絵の中に閉じ込める、って言ってたけど、さあ、それはどうだろうな」
師匠はそう言って絵の表面をなぞった。薄ら笑いを浮かべながら。
「ただお化けを見るってだけなら、私だって、お前だってそうだ。だけどそれが画家だと、なんだかずっとしっくり来るんだよな。幻視者って言葉が」
げんししゃ。
確かに。口の中でその言葉を転がし、そう思った。絵の中の、何も色彩を持たない背中と、鏡の中の何も色彩を持たない背中。
「福武が一番多く描いているのが、身体の一部が大きい人間だ。片目や、片手や、鼻だけが異様に大きい人間。あいつは、昔見たんだってよ。そういう人間を。いや、こう言っていた。彼らは、身体の一部だけを残して小さくなってしまった巨人だと。それから、そんなやつらの絵を描きまくってると見えなくなったそうだ。めでたしめでたし」
15: 『絵』《V》 ◆LaKVRye0d.:2017/1/26(木) 01:53:40 ID:jsJ4QOAmCk
師匠が冗談めかして語るその話に、僕はふいに緊張を覚えた。なにかが繋がりそうな気がしたのだ。恐ろしいなにかが。
「ところが、最近になってから、また見えるようになったというんだ。はっきりと目の前で見ているんじゃなくて、どこかにそういうやつがいるのが見えるんだと。まさに幻視ってやつだな。しかも子どものころに見ていたやつらとは少し違っていた。最初は分からなかったらしい。ただ、ほんの少しの違和感を覚えた程度だと。やがて福武は気づいた。目だけが大きいやつや、手だけが大きいやつ。そんな不気味なやつらに現れた、新しい共通点」
師匠は化粧鏡の絵を下ろし、僕を試すように見つめた。
「片目じゃなくて、両目だったというんだ。身体に対して異常な大きさを持っているのが。手がでかいやつは、片手じゃなくて両手。片足じゃなくて、両足。片耳じゃなくて、両耳」
想像してみろ。と師匠は言った。
両目だけが、異常に大きく、顔からはみ出てている人間。まるで子どもが描いたような絵から抜け出て来たようなやつだ。そんな人間が街を歩いている。小さな身体と小さな手足で。そしてその大きな目で見ている。そこから見える景色。なんて小さいんだろう。世界は。
「それは」
僕は思わず絶句した。
今年の夏だった。小人と巨人にまつわる出来事に遭遇したのは。そのことと関係があるというのだろうか。胸がドキドキする。
16: 『絵』《V》 ◆LaKVRye0d.:2017/1/26(木) 01:57:07 ID:/.Q2kT1tPE
「福武がな、明日からの大学祭で作品を展示するんだけど、その中に見て欲しい絵があるって言うんだ」
師匠はそう言ってにやりと笑った。
◆
翌日、僕と師匠は待ち合わせて、一緒に一般教養の学部棟へ向かった。講義室の一室を借りて、そこで特別美術コースの学祭展をしているそうだ。
様々な模擬店が立ち並ぶキャンパスの間を抜け、大学祭の喧騒から離れていくと、少し物寂しい気持ちになる。途中、ささやかな学祭展の看板が目に入ったが、こんなもので足を運ぶ人がいるのだろうかと、人ごとながら心配になった。
開放されていたその講義室は二階にあり、階段を登った先にある廊下を抜け、そこに並んだ扉の一つに入ると四方の壁を覆うように白い足付きのボードが並んでいて、そこに沢山の絵が展示されていた。
「浦井さん」
展示会場の奥にいた女性がこちらに気づいて近づいてくる。小柄で端正な顔をしていて、髪が長い人だった。この人が福武さんか。
痩せているが、病的というほどでもない。だが、どこか不健康な印象を受けた。
17: 『絵』《V》 ◆LaKVRye0d.:2017/1/26(木) 02:00:42 ID:jsJ4QOAmCk
「ありがとうございます。来てくれて」
「ようフクタケ。開店休業状態か」
師匠は会場内を見回す。福武さんと一緒にいたもう一人の女性は恐らく同じ特美の学生だろう。会場当番ということか。それ以外に会場内にいるのは、僕らを除くと一人だけだった。学生ではない年配の女性で、模擬店で買ったらしい焼きソバかなにかのビニール袋を右腕に引っ掛けて、あまり熱心にでもなく一つ一つの絵を見て回っていた。
あ、いや、そう思っている間に一人増えた。学生らしい服装の若い男がキョロキョロしながら入って来たのだった。それにしても寂しいものだ。
「あれ? 浦井さん。彼氏ですか」
福武さんは僕の方を見ながらそう訊いてきた。
「家来だ」と師匠が言うので、僕は「家来です」と言うほかなかった。せめて弟子と言って欲しかったが。
物珍しそうな視線をかわして、僕は壁際の絵に近づいた。学生が描いたにしても、やはり高校生とはレベルが違う。透明感のある夕暮れの街の風景や、バスケットに盛られた果物の精密な絵などを眺めながら、僕は自分の中に、それでも感動の欠片も浮かんで来ないのを感じていた。昔から絵はあまり好きではないのだ。
それでも来場者がまた増えたようだ。カップルらしい二人組が入って来て、変な歓声を上げている。
「で、見て欲しい絵ってのはどれ?」
師匠がそう訊ねると、福武さんは少し緊張した面持ちで、入り口から見て左隅の壁を指さした。
18: 『絵』《V》 ◆LaKVRye0d.:2017/1/26(木) 02:04:43 ID:jsJ4QOAmCk
「あれか。いつ描いたの」
師匠はそう言いながら左隅の壁際のボードに近づいていった。
「完成したのは五日くらい前です」
師匠と、福武さんの後に続いて僕も歩き寄る。
それは、大きな絵だった。三十号だか、四十号だか知らないが、そのくらいの大きさの絵がボードに掛けられている。
師匠がその絵の前に立った瞬間、なにか異様な空気の緊迫を感じた気がした。師匠はその姿勢のまま固まり、身じろぎ一つしない。
僕はなぜか足が重くなり、師匠の背中を見つめたまま絵の方に近寄れないでいた。
「なぜこの絵を描いた」
師匠が絵を見据えたまま落ちついた口調でそう訊ねる。だがそれは張り詰めた空気の中を慎重に泳ぐような声色だった。
福武さんは「それは」と言ったきり口ごもり、言葉を探している。もう一人の特美の学生は、増えた来場者の対応で入り口のあたりにいる。展示会場の奥の一角には僕ら三人しかいない。
「見たんだな」
念を押すような師匠の言葉に、福武さんは頷いた。
「どこで見た」
師匠は絵から目を逸らさない。福武さんは一歩だけ近づき、「どこだか分からない、どこかで」と言った。
師匠が言っていたとおりだ。福武さんの幻視は、その目で景色を見るようなものとは少し違うのだろう。この世のものではないものを街のどこかに、あるいは、どこだか分からないどこかに、幻視しているのだ。
僕は重い足を引きずりながら、師匠の隣に近づいていった。
大きな絵だった。油絵だ。夜を思わせる黒い背景の中に、気持ちの悪い生き物たちがいる。それは良く見ると裸の人間たちで、誰もかれも身体の一部が大きかった。鼻が身体の半分ほどもあるもの。両手がアホウドリの翼のように大きいもの。両目が寄生虫に侵されたカタツムリのように大きいもの……
そして、両目と両手が大きいもの。
両耳と足先だけが大きいもの。
顔全体が大きいもの。
19: 『絵』《V》 ◆LaKVRye0d.:2017/1/26(木) 02:09:32 ID:jsJ4QOAmCk
「なんですか、これ」
僕は呻いた。そんな人間とも呼べないような人間たちばかりが十人以上、両手を天に突き出しながら集っている絵だった。そのどれも、虚ろな表情をしながら、どこか狂気を孕んだような茫漠とした目つきをしていた。
サバトを思い浮かべた。まるで悪魔の宴だ。
そしてちょうど絵の中央に、身体の一部が大きい人間たちが崇め奉るようにして囲んでいる化け物の姿があった。
「お前、これがなんなのか、知っているのか」
師匠が押し殺した声でそう訊ねる。福武さんは首を左右に小さく振った。
「知らない」
小さな声でそう答える。
20: 『絵』《V》 ◆LaKVRye0d.:2017/1/26(木) 02:13:27 ID:/.Q2kT1tPE
身体の一部が大きい人間たちが崇拝しているように見えるその怪物は、おぞましい姿をしていた。僕の身体は小刻みに震える。その姿をどこかで見たことがあるような気がしたが、ふいに湧いてきた全身を覆う悪寒に、記憶を辿ることもできない。
見ている。
悪寒の正体が言葉になった瞬間、張り詰めていた空気が、ねとくつような密度を持ち始めた。
見ている。絵の中から。
朝からここに飾られていたはずのただの絵が、僕らの来訪とともに、変質しようとしていた。いや、僕らじゃない。師匠だ。師匠の存在に呼応しているのだ。
絵は静かにそこにあるだけだ。しかし、少しでも目を逸らすと、その狂気の宴が動き始めそうな気がして、僕はとてつもない息苦しさを感じていた。怪物の目がぐるりと動くような錯覚を立て続けに感じる。
「なんの冗談だ、これは」
師匠が吐き捨てるように呟く。その言葉に違和感を覚え、僕は恐る恐る訊ねた。
「これがなんなのか知っているんですか」
師匠はゆっくりと頷いた。そして絵から視線を逸らさず、その中央に横たわる怪物を指さした。
「名前だけは、誰でも知ってる。でも、姿を知っている人は少ないだろうな」
師匠はそうして怪物の名前を告げた。
「え」
その名前に、僕は唖然とした。
「これが?」
確かに、なんの冗談なのだ。偶然のはずはない。それではまるで……
「ちょっと、押さないでよ」
甲高い声が展示会場の中に響いた。突然の大きな声に驚いて振り返ると、いつの間にか講義室の入り口のあたりには沢山の来場者がたむろしていた。ちょうど開け放した扉のあたりにいた学生らしい女性が、後ろから来る人の圧力で転びそうになっている。
さっきまで閑散としていたのが、嘘のような盛況だった。
21: 『絵』《V》 ◆LaKVRye0d.:2017/1/26(木) 02:18:32 ID:/.Q2kT1tPE
そのわいわいとした賑やかさに、僕は生唾を飲み込んだ。降って湧いたような賑やかさの中で、まだ僕らの周りの張り詰めた空気と、絵の中からの異様な視線は続いていたのだ。
異常な状況だった。
「押さないでください」
福武さんの仲間が声を張り上げて、来場する人々を会場の奥へと誘導する。僕と師匠と福武さんが立ち尽くす一角へも人の流れがやって来ようとしている。
先頭を行く女性が「なんなのよ、もう」と言いながら、戸惑った様子で歩いて来る。師匠がそこへ駆け寄り、早口で訊ねた。
「どうしてここへ来たんだ」
女性は学生らしく、話しかけてきた相手が年上なのか年下なのかとっさに値踏みするように見つめていたが、師匠の切羽詰った様子に「どうしてって、なんとなく」とだけ答えた。
師匠は続けてその後ろにいた男に声を掛ける。無精ひげを生やしていて、学生ならばドクターあたりの年齢だろうか。
「誰か宣伝でもしていたのか」
師匠に肩を揺すられ不快そうに眉をひそめたが、男は「別に」と答えた。
「なんなの」「やめて、押さないでって言ってるでしょ」「ちょっと、もう出ようよ」「出よう」「なんか怖い」
人々は困惑した様子で口々にそう言い、絵を見ようという余裕はすでになくなりつつあった。しかし、次から次へと講義室の入り口から人が入って来る。
「なんなのこれ」
福武さんは、怯えた様子で口元を手で塞ぎ目を見開いている。
その混乱の中でも、師匠は人々に声を掛け続け、この事態が一人ひとりの行動に絞って確認する限り、単に「学祭展をやってるらしいから、見てみるか」というありふれた動機から来ていることを突き止めていた。
だがその一人ひとりの個人的な行動が、大学祭に来ていた多くの人々の中に生まれうる蓋然性を、はるかに超えた異常な割合で発生していたのだった。
「押さないでください!」
悲鳴のような声があがった。出入り口の混乱状態はすでに収拾がつかないような状況のようだった。
22: 『絵』《V》 ◆LaKVRye0d.:2017/1/26(木) 02:22:34 ID:jsJ4QOAmCk
「実行委員会に連絡しなきゃ」
仲間が焦った様子で福武さんの肩を揺する。しかしそのすべはなかった。ここから出て、大学祭の役員を呼んで来ようにも、押し寄せる人の壁にとても出来そうになかったのだ。
「戻って、戻って」
出入り口のあたりの人が廊下側に声を掛けるが、人の流れは止まる気配がなかった。徐々に講義室の空間が人間の群で狭くなっていく。
僕は想像する。恐らく講義棟の入り口あたりには、特美の学祭展に行こうとする人の行列が出来ているのだろう。その行列が人々の注目を集め、なんの興味もなかった人々までも集め始めているのだ。これから並ぼうとする人たちは多分、これがなんの行列なのかすら分かっていないだろう。
「痛い、痛い!」
廊下の方でどよめきが起きた。転倒があったようだ。密集地帯で倒れた人に押されて隣の人が倒れる、という恐ろしい循環が生まれたのだ。人々の悲鳴があっという間に充満する。
恐慌が起ころうとしていた。
目の前で展開する現実的な恐怖に僕の身体は震え、なにをすればいいのかも分からなかった。
「どけ」
師匠が周囲にそう怒鳴ると、福武さんたちが使っていたパイプ椅子を掲げて、講義室の奥にあった申し訳程度の小さな窓に叩きつけた。ガスン、という大きな音がしたが、ガラスは割れなかった。
「くそ」
師匠は悪態をつくと、窓ガラスに近づき、その構造を確かめる。胸元の高さに窓が設置されている。僕も駆け寄ったが、空気を入れ替えるための最低限の形でしか開かないように調整されているらしく、専用の器具もない現状では窓を開けようにもほんのわずかな隙間しか作れなかった。
水平方向に軸があり、上部が手前側、そして下部が向こう側へと斜めに傾いた窓ガラス。その窓の外は二階だ。その向こうを見つめ、師匠が短く言い放った。
「ここから出る。その間に窓を押されたら腹が潰れかねない。お前はここで死守しろ」
師匠はそう言ったかと思うと、素早く振り向き、あの悪夢のような絵を壁から外した。
23: 『絵』《V》 ◆LaKVRye0d.:2017/1/26(木) 02:27:03 ID:jsJ4QOAmCk
「フクタケ! こいつは危険だ。処分するぞ」
本人が頷くのも確認せず、師匠は再び窓に駆け寄り、その隙間から絵を講義室の外に落とした。そしてサッシに手をかけ、ひと一人が通れるか通れないか、という狭い隙間から、その身体を柔軟にしならせるようにして、外へ出ようとした。
案の上、窓から出られることに気づいた周囲の人間が殺到しようとする。僕は吼えながら、それを力づくで押しとどめる。人の壁の物凄い圧力に恐怖を覚え、もう駄目だ、と思った瞬間、師匠の姿が窓の外へ完全に消えていった。
「あとは任せろ」という声を残して。
◆
師匠が窓の外へ消えてから、ほどなくして人の流れは途絶えた。密集状態は徐々に緩和されていったが、人の喧騒が生んだ異様な熱気と、怪我人の呻き声はいつまでも周囲に漂い続けていた。
救急車とパトカーが来て、ようやく事態が収拾したのは一時間以上経ってからだった。実況見分が始まり、大学祭の実行委員会の役員と、福武さんたち特別美術コースのメンバーが事情を聞かれている中、僕は大した怪我もなく、するするとその場を逃げ出した。
師匠がどこにいったのか分からず、しばらくあたりを探し回っていたが、やがて諦めて一度自分の家に帰った。家から電話を掛けると、師匠は自分の家に戻っていた。すぐさま外へ飛び出して、師匠のアパートへ向かう。
24: 『絵』《V》 ◆LaKVRye0d.:2017/1/26(木) 02:29:08 ID:/.Q2kT1tPE
ノックだけをしてすぐにドアを開けると、師匠は部屋の真ん中であぐらをかいていた。
「よう。無事だったか」
「僕は大丈夫です」
師匠はなぜか、服のあちこちが破れていた。窓から落ちる時に引っ掛けでもしたのかと思ったが、そんなにあちこちが破れるものだろうか。疑問に思っていたら、師匠は言った。
「あの後の方が大変だった」
それはどういうことかと訊いても詳しく教えてくれなかったが、とにかく絵は処分したのだという。
「燃やしたんですか」
「ああ。焼却炉で」
サークル棟のそばに学生が管理を任された焼却炉があるのだが、そこで燃やしたのだろう。
「あの絵はなんなんですか」
僕はそう訊ねると、師匠ははぐらかすように言った。
「ばけものの絵だ」
そうして、やぶれた肘のあたりを弄り回していた。
【了】
25: 1 ◆LaKVRye0d.:2017/1/26(木) 02:34:03 ID:jsJ4QOAmCk
近々、図解のある作品を投下する予定です
いめピクの様に、たった1ヶ月で消えてしまったりしない、
張り付けた画像が長期間残るろだをご存知の方、教えて頂けましたら幸いです
26: 風の谷の名無しか:2017/1/26(木) 17:56:37 ID:pXTjnOzJk6
イマジスやピクシブに登録したら?
絵のTは知ってたけどUとVは初めて読んだ。
やっぱり加奈子さんの話は面白い!
1レスがもう少し短い方が読みやすいかも。
27: 1 ◆LaKVRye0d.:2017/1/26(木) 21:07:51 ID:bIf7Iu36js
>>26
イマジスが簡単に登録出来そうだったので早速しました!有難うございました!!
私も加奈子さんの大ファンなので、彼女が出て来る話は大好きです!
28: 1 ◆LaKVRye0d.:2017/1/26(木) 21:34:06 ID:1ncpyEZBBk
>>26
書き忘れてました、1レスの長さの件、了解です
次の話からは、もう少し短くして載せますね
29: 月と地球 ◆LaKVRye0d.:2017/1/30(月) 02:18:26 ID:loeHvyRIOA
月と地球
361 :ウニ ◆oJUBn2VTGE :2013/08/16(金) 23:29:32.14 ID:N/i40Div0
・A・ どうも。
次のお話は、去年の夏に同人誌に寄稿したものです。
362 :ウニ ◆oJUBn2VTGE :2013/08/16(金) 23:30:39.75 ID:N/i40Div0
師匠から聞いた話だ。
小高い丘のなだらかに続く斜面に、藪が途切れている場所があった。
下草の匂いが濃密な夜の空気と混ざりあい、鼻腔を満たしている。その匂いの中に、自分の身体から発散させる化学物質の香りが数滴、嗅ぎ分けられた。
虫除けスプレーを頭からひっかぶるように全身に散布してきた効果が、まだ持続している証だった。
それは体温で少しずつ揮発し、体中を目に見えないオーラのように包んで蚊やアブから僕らを守っているに違いない。
斜面を背に寝転がり、眼前の空には月。そしてその神々しい輝きから離れるにつれ、暗く冷たくなっていく宇宙の闇の中に、星ぼしが微かな呼吸をするように瞬いているのが見える。
ささのは
さらさら
のきばに
ゆれる
おほしさま
きらきら
きんぎん
すなご
虫の音に混ざって、歌が聞える。
とてもシンプルで優しいメロディだった。
ごしきのたんざく
わたしがかいた
おほしさま
きらきら
そらから
みてる
歌が終わり、その余韻が藪の奥へ消えていく。僕は目を閉じてそのメロディのもたらすイメージにしばし身を任せる。
30: 月と地球 ◆LaKVRye0d.:2017/1/30(月) 02:21:49 ID:gGNvDtuvts
363 :月と地球 (タイトル抜かりorz) ◆oJUBn2VTGE :2013/08/16(金) 23:33:51.06 ID:N/i40Div0
虫の音が大きくなる。
隣に、似たような格好で寝転がっている師匠の方を、片目を開けて覗き見る。
組んだ両手を枕にして、また右足を左足の膝の上で交差させ、ぶらぶらさせている。そして夜空を見上げながら、さっきの歌を鼻歌にしてまた繰り返し始めた。
夏になると、師匠はふとした時、気づくとこの鼻歌を歌っていた。機嫌がいい時や、手持ち無沙汰の時。ジグソーパズルをしている時や、野良猫にエサをやっている時。
しかしその歌を声にして歌っているのを聞いたのは初めてだった。
大学一回生の夏。
僕の夏は、たった二度しかなかった。
その最初の夏が、日々、目も眩むほど荒々しく、そして時にこんな夜には静かに過ぎて行った。
「出ないなあ」
師匠が鼻歌の区切りのところで、ぼそりと言った。
「出ませんねえ」
それきり鼻歌は止まってしまった。
31: 月と地球 ◆LaKVRye0d.:2017/1/30(月) 02:23:01 ID:loeHvyRIOA
僕は聞えてくる虫の音が一体何種類のそれで構成されているのか、ふと気になり、数えようと耳を澄ませる。草の中に隠れているその姿を想像しながら。
隣で師匠が欠伸を一つした。
僕たちは、ある心霊スポットに来ていた。遠い昔の古戦場で、この季節になると、まるで蛍のように人魂が舞っている幻想的な光景が見られると聞いて。
しかし、一向に人魂も蛍も姿を見せず、僕らはじりじりとただ腰を据えて待っているだけだった。
僕が二の腕に止まった蚊を叩いた時、師匠が口を開いた。
「いい月だなあ」
言われて見ると、ちょうど満月なのかも知れない。綺麗な円形をした月だった。
「いい月ですねえ」と返すと、師匠は「知ってるか」と続けた。
「来年の一月にな。スーパームーンってやつが出るらしいぞ」
「知らないですね。満月の一種ですか。どの辺がスーパーなんですか」
「でかいらしい」
でかいって…… 月は月だろう。
「そのスーパーなやつなのか知りませんけど、普段からなんかたまにやたらでかく見える時ありますけどね」
32: 月と地球 ◆LaKVRye0d.:2017/1/30(月) 02:24:47 ID:loeHvyRIOA
364 :月と地球 ◆oJUBn2VTGE :2013/08/16(金) 23:36:43.15 ID:N/i40Div0
「それは月が地平線の近くにある時だろう。あれは錯覚なんだぞ」
「錯覚ですか」
「そう。証拠に、目からの距離を固定した五円玉の穴から覗いてみな。普段の月と大きさは一緒だから。あれは、普段中天にある時は夜空の星を遮る存在で、
つまり『手前側』にある月が、地平線近くにある時には家とか山とか電信柱とか、他のものに遮られて、つまり遥か『後ろ』、遥か遠くにある、と認識されるために生まれる錯覚なんだよ」
「そんなもんですかね」
夕方、まだ向こう側がほのかに赤い地平線から現れる巨大な月を頭に思い描く。
「でもそのスーパーなやつも結局は錯覚なんでしょう。本当の大きさは同じわけだから」
「いや、そうじゃない。本当に大きいんだ」
「そんなわけないでしょう。天体が簡単にでかくなったり縮んだりするわけがない」
「そういうことじゃなくて、単に地球と月の距離が近くなるんだよ。それぞれ楕円軌道を描いている二つが、何年かに一度しかない、絶妙なタイミングで」
大きさが変わらないのにそう見える、というのだから、それも錯覚と言うべきである気がしたが、良く分からなくなったので僕は黙っていた。
「だから、実際にでかく見えるんだ。それも今度のは、スーパームーンの中でもさらに特別に最短距離になる、エクストリーム・スーパームーンってやつらしい」
聞いただけでも、なんだか凄そうだ。
「二十年に一度くらいしか来ない、えらいやつだってさ。15%くらいでかく見えるって」
そうか。そんなにえらいやつが来るなら見てみるか。忘れないようにしよう。そう思って、来年の一月、エクストリーム・スーパームーンという言葉を脳裏に刻み付けた。
それから師匠は訊きもしないのに、月にまつわる薀蓄を勝手に垂れ始め、僕はそのたびに少し大袈裟に感心したりして、目的である人魂の群が現れるまでの時間を潰した。
師匠の話はどんどん胡散臭くなり始め、最後には火星と木星の間に昔、地球などと兄弟分の惑星があり、それが崩壊して出来た岩石が今のアステロイドベルトの元になっているという話をしたかと思うと、
地球には元々衛星はなく、その消滅した惑星の衛星が吹き飛ばされ、地球の引力にキャッチされてその周囲を回り始めたのが今の月なのだと、興奮気味に語った。
33: 月と地球 ◆LaKVRye0d.:2017/1/30(月) 02:27:17 ID:gGNvDtuvts
365 :月と地球 ◆oJUBn2VTGE :2013/08/16(金) 23:39:03.86 ID:N/i40Div0
一体どこで吹き込まれたのか知らないが、最近学研のムーとかいう雑誌が師匠の部屋に転がっていたのを見たので、きっとそのあたりなのだろう。
そう思ったところで、さっきのエクストリーム・スーパームーンの信憑性も疑わしくなったので、とりあえず脳に消しゴムをかけておいた。
僕らがそんなやりとりをしている間にも、月はその角度をわずかずつ変え、僕らの首の角度もそれにつれて少しずつ西へ、西へと向いていった。
何ごともなく夜は過ぎる。
虫の音はいつ果てるともなく続き、やがて話し疲れたのか師匠は無口になる。
だんだんと防虫スプレーの効き目が切れてきたらしく、腕や足に止まる蚊が増え、その微かな感触を察知するたび、僕はパチリ、パチリと叩き続けた。
十分ほど沈黙が続いた後で、師匠はふいに口を開いた。
34: 月と地球 ◆LaKVRye0d.:2017/1/30(月) 02:27:59 ID:gGNvDtuvts
「昔な、宇宙飛行士になりたかったんだ」
へえ。初耳だった。
「女性宇宙飛行士ですか」
「アポロ11号で、アームストロングとオルドリンが月面に人類で始めて降り立った時、私はまだ二歳だか三歳だか、そのくらいの子どもだったけど、周囲の人間たちがテレビを見て大騒ぎをしていたのをなんとなく覚えてるんだ」
アポロ11号か。僕などまだ生まれていないころだ。
「最後の月面有人着陸のアポロ17号ははっきり覚えてるぞ。船長のジーン・サーナンがえらく男前でな。そいつとハリソン・シュミットって科学者がさ、月面……『晴れの海』で月面車に乗ってドライブをするのさ。
そうして人類最後の足跡を残す、って言って去るんだよ。計画のラストミッションだったから。でもそれから本当に人類はただの一度も月に足を踏み入れてないんだ」
僕はさっきからずっと見上げていた月を、今初めて見たような気持ちで見つめた。
そうか。あそこに、僕と同じ人間が行ったことがあるんだ。
改めてそう思うと、なにか恐ろしい気持ちになった。
月は暗い虚空に浮かんでいて、あそこまで行く、なんの頼るべきすべもないのだ。空気もなく、重力もなく、途方もなく寒く……
どうして人類はあんなところに行こうと思ったのだろう。
そしてどうしてあんなところに行けると信じられたのだろう。もう人類は、その夢から覚めてしまったのかも知れない。
宇宙飛行になりたかったはずの師匠も、今はこうして地面に寝転がっている
「いつ諦めたんですか」
35: 月と地球 ◆LaKVRye0d.:2017/1/30(月) 02:31:33 ID:loeHvyRIOA
367 :月と地球 ◆oJUBn2VTGE :2013/08/16(金) 23:40:24.16 ID:N/i40Div0
「そうだな。小学校五年生の時だ」
「早いですね」
もう少し夢を見てもいいのに。
現実を見ないことにかけては定評のあるこの師匠が、実に殊勝なことだ。
「笑ったな。でも今でも覚えている。あれは小学校五年生の夏休みが始まった日の夜だ。私は英語の塾に行くことになってたんだよ」
「小学生が英語ですか」
「当然だ。宇宙飛行士になりたいなら、英語力は絶対に必要だった。だから親に頼んで、近所の英語を教える塾に通わせてもらうことにした」
祖父さんの弟で、アメリカに渡った人がいたんだ。
師匠は月を見上げたまま語る。
「亀に司って書いて亀司(ひさし)って読む人だ。バイタリティ溢れる人だった。アメリカ人の女性と結婚して、向こうに渡ってな。
最初はニューヨークで蕎麦屋をやろうとしたんだけど、失敗して、しばらくタクシーの運転手をやってたんだ。それでまた溜めた金で今度はスシバーを始めたらこれが流行った。
大儲けさ。
今もまだその店やってるんだけど、四つか五つ、支店もあるんだ。自分はグリーンカードのままで、帰化申請もしてないんだけど、向こうで生まれた子どもたちはアメリカ国籍を持ってる。日系二世ってやつだな。
その長男がリックって名前で、工業系の大学へ進んだ後、NASAに入ったんだ」
「え。本当ですか」
「ああ。車両開発のエンジニアだった。亀司さんは毎年正月には家族をみんな連れて、うちの実家へ顔を見せに来るんだ。
NASAの職員だったリック…… 日本名は大陸の『陸』って漢字を当ててたから、私は陸おじさんって呼んでたけど、その陸おじさんが私にはヒーローでな。
日本にいる間、私はいつも宇宙ロケットとか、宇宙飛行士の話をせがんで、ずっとくっついてた」
心なしか、懐かしそうに顔がほころんでいる。
36: 月と地球 ◆LaKVRye0d.:2017/1/30(月) 02:33:51 ID:gGNvDtuvts
368 :月と地球 ◆oJUBn2VTGE :2013/08/16(金) 23:46:41.22 ID:N/i40Div0
「私も宇宙飛行士になって、月に行きたいって言うと、陸おじさんはこう諭すんだ。そのためには勉強を死ぬ気で頑張らないとな、って。これからの宇宙開発は、アメリカ単独ではなく、多国間で協力して進めていくようになる。
宇宙飛行士も、いろんな国から優秀な人材を選抜するようになるだろうから、その時、日本で一番の宇宙飛行士として選ばれるように、今から頑張らないといけないってさ。
私もアメリカ人になって、NASAに入って宇宙に行くんだって言い張ったけど、今から加奈ちゃんがNASAに入るのは難しいなあ、と言われたよ。それに、今の宇宙飛行士はNASAの職員じゃなくて、アメリカの軍人ばかりさ、って」
「それで諦めたんですか」
「いや、頑張ろうと思ったさ。勉強を。日本人の一番になるために。特に、語学は早いうちに始めた方がいいって言われたから、まず英語を習おうと思ったんだ。
夏休みの前にも、手紙でもそんなやりとりをしてて、思い立ったんだ。夏休みに入ったら、すぐに行くことにしたよ。でも、その最初の日のことだ」
37: 月と地球 ◆LaKVRye0d.:2017/1/30(月) 02:35:33 ID:loeHvyRIOA
そこは日中、別の仕事をしている先生が、夜間に開いている塾だった。
私は日の暮れかけた道を歩いて、そこへ向かっていた。途中で筆箱を忘れたことに気づいて取りに帰ったりしたせいで、初日だというのに遅刻しそうになって少し焦っていた。
今みたいには舗装もちゃんとされていない道を早足で歩いてると、大きな廃工場の前を通りがかったんだ。
普段はあんまり通らない道だったから、何気なくその人気(ひとけ)のない不気味な建物の中を覗き込みながら通り過ぎようとしたら……
錆び付いてところどころ剥がれたスレートの波板の外壁、その二階部分に窓があって、そこに誰かがいた。すうっと、消えていったけど、確かに私のことを見下ろしていた。
人間じゃないことはすぐに分かった。そう感じたんだ。
怖くなって走った。走って、先へ進んだ。
だけど、遠ざかっていく廃工場が完全に見えなくなる曲がり角に来たとき、私は立ち止まった。
まず、自分が立ち止まったことに驚いた私は、その理由を考えた。
廃工場に戻りたいんだ。
そう考えた時、ゾクゾクした感触が背中を走り抜けたよ。
38: 月と地球 ◆LaKVRye0d.:2017/1/30(月) 02:38:03 ID:gGNvDtuvts
369 :月と地球 ◆oJUBn2VTGE :2013/08/16(金) 23:49:46.48 ID:N/i40Div0
あの見下ろす視線の、正体が知りたい。
それは、途方もなく魅惑的な誘惑だった。私はもうそのころには、自分のどうしようもない性癖に気づいていた。抗いがたい、怪異への欲求。それは私だけが求めるものではなく、怪異からも常に私は求められ、欲されていた。
振り向きたい。
いや、振り向いてはいけない。
塾の始まる時間は迫っていた。走って行かなくては間にあわない。勉強は明日から頑張ればいいや。一瞬、そんなことを考えもした。
でもそんな甘いことを言う人間が、日本の宇宙飛行士候補の一番になれるわけがない。そのことも、子どもながらに悟っていた。一事が万事だ。
戻るか、進むか。
振り向くか、振り向かないか。
その相反する二つの選択の、尖った岐路に私は立っていた。
わずかに残っていた夕日が山の向こうに消えて、夜の闇が背中から迫って来ている。人のいない道に、ただ一つ伸びていた私の影が見えなくなっていく。
塗装の剥がれたカーブミラーが道の隅にぽつんと一本立っていて、その大きな瞳に灯っていた光がゆっくりと死んで行こうとしていた。
戻るか、進むか。
振り向くか、振り向かないか。
お化けを見るか、宇宙飛行士になるか。
自分の呼吸の音だけが身体の中に響いていた。
やがて私は、一つの選択をする。
暗い淵に呼ばれるように私は、戻ることを選んだ。
曲がり角で振り向いて、廃工場の方へ足を踏み出す。
でもその瞬間、すぐ後ろで遠ざかっていく人の気配を感じた。足早に歩く靴の音まで聞こえる。ああ。もう一人の自分だ。身を焼かれるように宇宙飛行士に憧れた私は、進むことを選んだのだ。
戻った自分。
進んだ自分。
私は、その時二つに分かれた。
どちらも私だった。二人の私がお互いに背を向けて、歩き出したんだ。
39: 月と地球 ◆LaKVRye0d.:2017/1/30(月) 02:40:51 ID:loeHvyRIOA
371 :月と地球 ◆oJUBn2VTGE :2013/08/16(金) 23:52:51.89 ID:N/i40Div0
戻った私は、廃工場でこの世のものではないものを見た。とてもおぞましく、恐ろしく、美しかった。
それから、私は宇宙飛行士になりたいという夢を口にしなくなった。それは、あの時、英語の塾へ行った方の自分が叶えるべきものだったからだ。
陸おじさんは、その後数年でNASAを退職した。スペースシャトル時代がやってくる前にだ。何度かあったアメリカ政府の宇宙開発にかける予算削減のためだった。
様々な機器の外注が増え、陸おじさんもそんな業務を扱う民間企業に再就職したけれど、軍需産業にも多角的に経営の手を広げていったその企業の中にあっては、やがて宇宙開発に関するプロジェクトから外れることが多くなった。
『もう僕は、地球以外の場所で走行するための車両開発に関わることはないだろう』
寂しそうにそう言った時の彫りの深い横顔が今も脳裏に焼き付いている。その技術に全精力を費やした日々が、遠い彼方へ去っていったことへの、諦めと無力感だけがそこにはあった。
月面という新たな大地から、人類はしばらくの間、いや、ひょっとすると、永遠に去ってしまったんだ。
40: 月と地球 ◆LaKVRye0d.:2017/1/30(月) 02:41:36 ID:gGNvDtuvts
「時々、今でも思うんだ。あの塾へ向かう曲がり角で、進むことを選んだもう一人の自分のことを。そいつは、多分死ぬほど勉強したに違いない。血ヘドを吐くくらい。
それだけのものを捨てて来たんだから。そしてきっと日本で一番の宇宙飛行士候補になって、アストロノーツに選ばれ、宙(そら)に上がるんだ。
もう一人の私が選んだ世界は、人が人のまま他の天体に足を踏み下ろすことの価値を、子どものように信じている。私がそう信じたように。そんな世界なんだ。
そこでは有人月面着陸の計画が再び興され、私はそのクルーに選ばれる。そしてこの役得だけは譲れないという自信家の船長に続いて、二番目か、さらに控えめに三番目の、サーナンとシュミット以来となる月面歩行者になるんだ」
師匠は眠たげな声で、訥々と語る。隣にいる僕に聞かせるでもなく。
いつの間にか、虫の音が少し小さくなっていた。どこかとても遠くから聞えてくるようだった。
41: 月と地球 ◆LaKVRye0d.:2017/1/30(月) 02:45:38 ID:gGNvDtuvts
372 :月と地球 ◆oJUBn2VTGE :2013/08/16(金) 23:55:11.91 ID:N/i40Div0
「月面での様々なミッションが与えられていて、仲間たちは大忙しだ。私は陸おじさんがパーツの多くを開発した月面車(ルナビークル)で、そこら中を走り回るんだ。定期的に着陸機の中で眠り、数日が過ぎる。
アポロ計画のころより、ずっと長い滞在期間だ。その仕事に追われる日々の中、私は自由時間を与えられる。もちろん定時通信はするし、遠くにも行けない。
それでも着陸機や、棒で広げられた風にたなびかない星条旗なんかが視界に入らない場所まで行って、そこで私は一人で寝転がるんだ。そこはとても静かだ。
月の貧弱な重力では大気を繋ぎとめられなかったから、月面という地上にありながら、そこは真空の世界だ。宇宙服の中を循環する空気や冷却水の音。それだけがその世界の音なんだ。
大気がないために、視界がクリアでどこまでも遠くが見渡せる。それは寒気のする光景だ。白い大地と、黒い空。空と宇宙の境界線なんてありはしない。その大地のどこもすべて宇宙の底なんだ。
大地にも空にも、どんな生物も生きられない世界。地球を詰め込んだ、宇宙服がなければ…… 心細さに身体を震わせた私は、ふと誰かの視線を感じたような気がする。周囲を見回すけれど、誰もいない。
小さな丘の向こうにいる仲間たちの他には、誰もいないんだ。この三千八百万平方キロメートルという広大な大地の上に、誰一人。それを知っている私は、子どものころに見た幽霊を思い出す。
しかし、その幽霊すら、ここにはいない。いることができない。歴史上、この月面で、いや宇宙空間で死んだ人間は誰もいないのだから。幽霊のいない世界。私は今までに感じたことのない恐怖を覚える。
孤独が、大気の代わりに私を押し包む。感じていた視線は、いや視線の幻は、やがて消える。私は、宇宙飛行士が感じるというある種の錯覚のことを真剣に考える」
師匠は夢を見るように、うつろな表情で語り続ける。月光がその頬を青白く浮かび上がらせている。
僕はじっと師匠のことを見ていた。
42: 月と地球 ◆LaKVRye0d.:2017/1/30(月) 02:48:09 ID:loeHvyRIOA
374 :月と地球 ラスト ◆oJUBn2VTGE :2013/08/17(土) 02:04:50.33 ID:MpcQHp2g0
「そうして私は、もう一人の自分のことを思い出す。小学校五年生の夏休み初日、英語の塾に行かず、廃工場へ戻って行った、もう一人の自分を。
その自分は、宇宙空間ではない、別の暗い世界の中を彷徨っているだろう。そうして普通の人間にはたどり着けない、恐ろしい光景を見たりしている。その自分は、今どうしているだろうか。
ひょっとすると、月を見上げて、昔二つに分かれてしまったもう一人の自分に想いをはせているだろうか。
こうして、月面に一人横たわり、青い円盤(ブルー・マーブル)と呼ばれる、宇宙の闇の中にぽつりと孤独に浮かぶ地球を、じっと見上げている自分のように」
月を見上げる自分と、地球を見上げる自分。
二人の自分が互いに、遠くて見えないもう一人の自分と視線を交し合っている。
その師匠の幻想を、僕はとても美しいと思った。そしてそれは同時に、肌寒くなるほど恐ろしかった。何故かは分からなかった。
しかしその月光に青白く濡れた横顔を見ていると、ふと思うのだった。
師匠の語る幻の中では、月世界に一人でいる彼女だけではなく、地球で今こうして藪と藪の間の斜面に寝転がっている彼女の方も、まるで一人だけでいるように思えたのだ。
そこにはすぐ隣にいるはずの僕も、いや、この日本、そして地球に存在するはずのあらゆる人間もいない。
ただこの惑星の夜の部分にたった一人でたたずむ、孤独な……
「出た」
ふいに、師匠が立ち上がった。
身体から離れていた精気が一瞬で戻ったようだった。
指さすその先に、儚げな光の筋がいくつも飛び交っているのが見えた。
ああ、人魂だ。
いや、蛍なのか。
光は尾を引いて、闇の中を音もなく舞っている。
僕は下草から漂う青い匂いを吸い込みながら、駆け出した師匠のお尻を追って立ち上がった。
(完)
43: 1 ◆LaKVRye0d.:2017/1/30(月) 02:49:19 ID:loeHvyRIOA
もう1話投下します
あと少しだけお待ち下さい
44: 本 ◆LaKVRye0d.:2017/1/30(月) 02:52:30 ID:gGNvDtuvts
862 :本 ◆oJUBn2VTGE :2013/08/23(金) 20:46:06.31 ID:/4sM9Swo0
大学四回生の冬だった。
そのころの俺は、卒業に要する単位が全く足りないために早々と留年が決まっており、就職活動もひと段落してまったりしている同級生たちと同じように、悠々とした日々を送っていた。
とは言っても、それは外面上のことであり、実際はぼんやりとした将来への不安のために、真綿でじわじわ締め付けられるような日々でもあった。
親しい仲間と気の早い卒業旅行を終え、あとは卒論を頑張るだけだ、と言って分かれていく彼らを見送った後、俺の心にはぽっかりと穴のようなものが空いていた。
変化しないことへの焦燥と苛立ち。そしてその旅の途中で知ることになった、かつて好きだった人に子どもが出来ていたという事実に対する、なんだか自分でも説明し難い感情。
そのころの俺をはたから見ていれば、「無気力」という言葉がぴったりくる状態だっただろう。
しかし、この身体の中にはさまざまな葛藤や思いが渦を巻き、それが外へ噴き出すこともなく、ただひたすら体内で循環しつつ二酸化炭素濃度を増しているのだった。
45: 本 ◆LaKVRye0d.:2017/1/30(月) 02:54:11 ID:loeHvyRIOA
『デートしよう』
というメールを見ても、その無気力状態からは脱せず、やれやれという感じで敷きっぱなしの座布団から腰を上げた、というのが実際のところだった。
指定されたカレー屋に向かうと、メールの送り主がめずらしく先に来ていて、奥まった席に一人でちょこんと座っていた。
その少女は黒で固めたゴシックな服装をしている。今日はなにやら頭に黒い飾りもつけているようだ。
店内の不特定多数の視線がそわそわと彼女に向いているのが雰囲気で分かる。格好の珍しさだけではなく、それが良く似合っていて可愛らしい風貌をしていることが原因だろう。そんな子が一人で座っているのだから、仕方のないことだった。
そういう視線が集まっているところへ、こんな冬の間ずっと着ていてヨレヨレになっているジャケットの眼鏡男が無精ヒゲを生やして、のっそりと歩いて行くのはさすがに気が引ける思いがした。
「おっす」
黒い子がこちらを見て軽く手を挙げた。相変わらず軽い感じだ。彼女の『デートしよう』、というのは『こんにちわ』と訳せるのを知っている俺は、「うす」とだけ言って向かいに腰掛けた。
一瞬背中に集まった視線が、また徐々に霧散していくのを感じながら、「今日はなんだ」と訊いた。
46: 本 ◆LaKVRye0d.:2017/1/30(月) 02:57:04 ID:loeHvyRIOA
863 :本 ◆oJUBn2VTGE :2013/08/23(金) 20:48:31.35 ID:/4sM9Swo0
その子は音響というハンドルネームで、ネット上のオカルト関係のフォーラムに出入りしている変な子だった。
かく言う俺も、かつてその手の場所には良く出入りしていたが、もう興味も気力も絶えて久しく、ほとんど足を踏み入れなくなっていた。
「瑠璃ちゃんが帰ったよ」
音響がカレーの注文を終えてから口を開いた。
「帰ったって、ニューヨークへか」
「うん」
そうか。あの子はもうこの街からいなくなったのか。
俺は音響と双子の姉妹のような格好をしていた少女のことを思い出す。
あの不思議な瞳をした少女は一年半前にふいにこの街にやって来て、それを待ち構えていた恐ろしい災厄を、はからずも自ら招き寄せたのだった。それも様々なものを巻き込んで。
その時のことを思い出して、ゾッと鳥肌が立つ。この街にじっと潜んでいた、見えざる悪意のことをだ。
今でも現実感がない。
それと関わったがために去って行った人たち。そして死んでいった人たち。頭の中で指折り数えても、どこか夢の中の出来事のようだ。
確かに人となりは浮かぶ。伝え聞いたとおりに。そして会ったことがある人は、その顔も。しかし、どれもまるでぶ厚いガラスの向こう側にある景色のようだ。
怪物の生まれた夜に集った人たちはもう全員いなくなってしまった。それだけではない。ヤクザも。通り魔も。あの吸血鬼でさえ。
一人、一人と、順番に。時に、まったく無関係であるかのように、ひっそりと。だが、確実にその見えざる悪意は、敵対したすべての存在をこの街から消していった。
その誰もが俺なんかよりずっと凄い人たちだった。なのに。なのにだ。
思わず怖気(おぞけ)で身体が震える。
そんな恐ろしい相手から、最後の標的である瑠璃という名前のその少女を、俺と音響の二人だけで死守する羽目になったのだ。今にして思っても考えられない事態だ。
頼みの綱である俺の師匠さえ、その時点ですでに使い物にならない状態だったのだから。
じっとりと手のひらが汗ばんでいる。思い出すだけでこれだ。
「卒業って、どうなったの」
音響がスプーンを置いて突然そう訊いて来た。
急に現実に引き戻される。そう。どこにでもいる、留年組の大学生の自分に。
47: 本 ◆LaKVRye0d.:2017/1/30(月) 03:00:09 ID:gGNvDtuvts
864 :本 ◆oJUBn2VTGE :2013/08/23(金) 20:51:31.78 ID:/4sM9Swo0
「あと二年はかかるな」
と答えると、「ダッサ」と言われた。
お返しに、お前はどうなんだ、と訊いた。
「今年受験だろ。こんなところで油売ってる暇があるのか」
「いいの。余裕だから」
「どこ受けるんだ」
「師匠んとこの大学」
「師匠って言うな」
この小娘は、このところ嫌がらせで俺のことを師匠と呼ぶのだ。もちろん全部知った上でのことなので、始末に悪い。明らかにニュアンス的に尊敬の成分はゼロだ。俺がそう呼んでいた時以上に酷い。
「ていうか、うちの大学が余裕かよ。腐っても国立だぞ」
それにそんなに余裕ならもっと上の大学を受ければいいじゃないか。
そう言おうとしたら、先回りされた。
「お母さんが、地元にしなさいって」
あっそ。
地元民の国立大生の女は学力的にワンランク上の法則ってやつか。アホそうな見た目に忘れてしまいそうになるが、こいつは帰国子女で英語ペラペラだったな。
住んだことのある国の言語を読み書きできるという、ただそれだけで、点数配分の多い課目で大きなアドバンテージになるというのは、ずるい気がする。
「そう言えば、あの角南さんは卒業?」
「ああ」
不貞腐れて頷く。普通の大学生は四年経ったら卒業するの!
そう言って、きつめのスパイスに痛めつけられた喉に水を流し込む。
「で、用件はなんだ。このあとデートでもしようってか」
この小娘に呼び出される時は、その九割が妙なことに首を突っ込んだ挙句の尻拭いのお願いだった。
「それなんだけどね」
音響はそう言って平らげたカレーの皿をテーブルの隅に押しやる。そして黒いふわふわしたバッグから一冊の本を取り出して目の前に置いた。
やはり残りの一割ではないらしい。
しかし出されたその本を見て、おや、と思った。見覚えがあるのだ。
48: 本 ◆LaKVRye0d.:2017/1/30(月) 03:03:28 ID:loeHvyRIOA
866 :本 ◆oJUBn2VTGE :2013/08/23(金) 20:52:53.03 ID:/4sM9Swo0
「『ソレマンの空間艇』じゃないか」
子どものころに読んだジュブナイルのSF小説だ。タイトルが印象的だったから覚えていたが、内容はすぐには浮かんでこなかった。
日本人の子どもが宇宙船に乗り込んで大冒険をする話だったような……
「へえ、そうなんだ」
なんとか思い出そうとしている俺を、全く興味なさげに音響は切って捨てた。
「自分で持って来たんだろ」
ムカッとしたのでそう言い返すと、音響は不思議なことを口にした。
「この本の内容のことなんだけど、この本のことじゃないの」
一瞬、うん? と目を上の方にやってしまった。なにか禅問答のような言葉だ。
「私の友だちから相談を受けたんだ。その子の弟のことで」
音響はそうしてその禅問答の説明を始めた。
◆
そのクラスメイトの女子生徒には小学生の弟がいた。
それがなんだか最近弟の様子が変だったのだそうだ。よそよそしかったり、話しかけると怒ったり。単に反抗期だと思っていたが、ある日弟の部屋に入ろうとすると、急になにかを隠して「出てってよ」と怒った。
背中に隠したのは本のようだった。どこからかいやらしい本を手に入れて見ていたのだろう。
なるほどそういうことか、と思ってその時はそれ以上深く詮索しないであげた。
ところが、その数日後、夜中にふと目が覚めてしまった彼女は自分の部屋から出てトイレに行った。
その途中、弟の部屋の前を通ったのだが、ドアが少し開いていた。いつもなら閉めてやりもせず、そのまま通り過ぎるところだが、中からなにかの気配を感じて彼女は立ち止まった。
弟が起きているのだろうか。
そう思ったが、電気は消えている。部屋は真っ暗だ。
そっとドアに近づき、隙間から中を伺おうとする。しかし、廊下側の明かりのせいで自分がドアの前に立つと、中からはきっと人が来たことが分かってしまうだろう。
そう思い、ドアのすぐ横に身体を貼り付けるようにして聞き耳を立てたのだった。
49: 本 ◆LaKVRye0d.:2017/1/30(月) 03:05:07 ID:gGNvDtuvts
867 :本 ◆oJUBn2VTGE :2013/08/23(金) 20:55:29.81 ID:/4sM9Swo0
その時、彼女の耳は奇妙な音を拾い上げた。
シャリ……
シャリ……
聞き馴染みのある音。
けれど今この状況では聞えるはずのない音。
彼女は妙な悪寒に襲われた。
シャリ……
シャリ……
紙の捲れる音。
紙の表面が指と擦れ合う音。
シャリ……
シャリ……
――――本を読んでいる時の音だった。
部屋の中は真っ暗なのに?
彼女は背筋を走る痺れに身を震わせる。
弟が布団を被ってその中で懐中電灯をつけているわけでもない。光も全く漏れないように布団を被っているなら、そんな繊細な音も部屋の外へ漏れ出ては来ないだろう。
弟は、暗闇の中で本を読んでいるのだ。
心臓がドキドキしている。彼女は思い出していた。弟の通う小学校で密かに語られている噂話のことを。
『夜の書』と呼ばれる本のことだ。学校の七不思議の一つだった。
図書館に一冊の本がある。それは昼間にはただの普通の本なのだが、夜みんなが寝静まってから一人で部屋を暗くしてページを捲ると、まったく違う本になるのだ。
真っ暗で何も見えなくてもその本は読めるのである。その本の中には、とても恐ろしくて、そしてゾクゾクするほど楽しい遊びの仕方が書いてある。
50: 本 ◆LaKVRye0d.:2017/1/30(月) 03:08:10 ID:loeHvyRIOA
868 :本 ◆oJUBn2VTGE :2013/08/23(金) 20:57:50.88 ID:/4sM9Swo0
最後まで読むと、信じられないようなことが起こるらしい。その先は色々な噂があってはっきりしない。
悪魔が出てくるとか、死神が出てくるとかいう話もあれば、本の言う通りのことをすると、窓の外にUFOが現れる、という話もあった。
未来や過去の世界に行った子どもの噂も聞いたことがある。
いかにも子どもっぽい噂話だ。
けれど彼女自身その小学校の卒業生だった。そしてその本を読んでしまったせいで頭が変になり、二階の教室の窓から飛び出して大怪我をした同級生が実際にいたのだ。
もっともその本を読んだせいだということ自体がただの噂話と言えば噂話だ。
しかし先生たちがそんな流言飛語を封じ込めようとすればするほど、みんなその噂を信じた。
結局その同級生が持っていた『夜の書』は大人に焼かれてしまった。けれど、もとからそんな本はないのだ。焼かれても別の本が暗闇の中でしか読めない『夜の書』になり、また誰かの手に取られるのを図書館の隅でじっと待っている……
彼女はドキドキしている胸を押さえ、ドアの横で必死に息を整えた。
そうして「なにしてるの」と言いながら、ドアを開けた。
51: 本 ◆LaKVRye0d.:2017/1/30(月) 03:11:24 ID:gGNvDtuvts
◆
店員がコップの水を入れに来たので、音響がそこで話を止めた。俺はテーブルに置かれた『ソレマンの空間艇』をまじまじと見つめる。
「で、そのお前の同級生の弟くんは、真っ暗な部屋でこれを読んでたってわけか」
「そう」
「どんな様子だったんだ」
「明かりをつけたら目が血走ってて、なんか訳の分かんないことを言ってたらしいよ。とにかく取り上げたら落ち着いたらしいけど」
「ふうん」
俺はテーブルの上の本に手を伸ばした。手に取ってパラパラと捲る。かなり古い本なのか、表紙や小口は色が褪せてしまっているが、あまり読まれてはいないようだ。中はわりに綺麗だった。
音響が少し驚いた顔で俺を見ている。
それに気づいて「なに」と訊くと、「ホントの話なんだけど」と言う。
「別に嘘だなんて言ってないぞ」
52: 本 ◆LaKVRye0d.:2017/1/30(月) 03:13:43 ID:gGNvDtuvts
870 :本 ◆oJUBn2VTGE :2013/08/23(金) 20:59:58.30 ID:/4sM9Swo0
だいたい、どんな信じ難い話でもそれなりに耐性はついている。
それに音響が持ってくるやっかいごとは、これまですべて実体を伴っていた。それが良いことなのかどうかは置いておくとしても。
「よくそんなあっさり触れるね」
呆れたように言われてようやく、ああ、そういうことか、と気づく。
普通の人の感覚ならば、そんな話を聞かされた後では気持ちが悪くて触れないのだろう。いくら昼間は普通の本だと聞かされていてもだ。
オカルトにどっぷりと浸かっていた日々が、意識しなくともこの善良な小市民たる俺の脳みそをやはり非常識側にシフトしてしまっているということか。
しかしこいつに言われると何故かショックだ。
「それで、どうしたいんだ」
本を置き、表紙をトントンと指先で叩く。「どうせ、その話聞かされて、なんとかするからって安請け合いしたんだろ」
『夜の書』というやつはある意味、夜の闇の中でしか実体がない存在だ。
今のこの『ソレマンの空間艇』にしたところで仮の宿主に過ぎず、燃やすなり破り捨てるなりしたって、図書館の別の本に寄生し直すだけということだろう。
少なくとも噂の構造がそうなっている。
「その話を聞かされて、なんとかするからって言っちゃったの」
あ、そう。
「で?」
「なんとかして」
「自分ですれば」
「お願い師匠」
わざとらしいお願いポーズを無視して、もう一度俺は本のページを開く。
「真っ暗なのに読めるって、どういう現象なんだ」
音響に向かって、「お前、読んだか」と訊く。
すると両手の指を胸の前で組んだまま、首を左右に振った。
「だって怖いの」
「嘘つけ」
「だって受験生だから」
「受験生だから?」
俺がそう問い返すと、音響は口の端だけで笑った。
「……面白かったら、やばいじゃん」
こいつも筋金入りだ。
あらためてそう思う。
53: 本 ◆LaKVRye0d.:2017/1/30(月) 03:18:42 ID:loeHvyRIOA
872 :本 ◆oJUBn2VTGE :2013/08/23(金) 21:03:09.85 ID:/4sM9Swo0
「で、お前の同級生も怖くて読んでない、と。……弟はなんて言ってんだ」
「ええと。とにかくなんでか読めたんだって」
実に有益な情報だ。すばらし過ぎる。
「弟はどうしてこの本がそうだと気づいたんだ」
「別に『夜の書』だと思って借りたんじゃないんだって。たまたま借りた本がそうだっただけってさ」
「それは、ちょっとおかしいぞ」
「なんで」
俺は少し頭の中を整理する。
「だったら、どうして部屋を真っ暗にして読んだんだ」
「え」
「部屋を暗くして読まないと、そもそもそういう本だと気づかないだろ」
そう言われて、音響はふうん、と唸った。
「さあ。たまたまなんじゃない?」
これ以上情報は出てきそうになかった。
「『夜の書』は一冊なのか」
「そう聞いてる」
つまりひとつの寄生体のような存在が、見つかって宿主の本を破棄されるたびに別の本へと移動しているということか。
その間に子どもたちを魅了し、危険な状態に追い込みながら。
それにしても。
と、俺はふと思った。「『夜の書』ってのは、小学生らしくないネーミングだな」と呟く。
噂の出所は案外教師なのかも知れない。
考え込んでいる俺を音響がじっと見ていた。
「なんだ」
「なんとかしてくれそう」
そう言ってまた両手の指を組んだ。
俺はそれを見ながら言った。
「ゴスロリって、そんな感情表現豊かでいいのか」
◆
その夜のことだ。
54: 本 ◆LaKVRye0d.:2017/1/30(月) 03:22:06 ID:gGNvDtuvts
874 :本 ◆oJUBn2VTGE :2013/08/23(金) 21:15:47.49 ID:/4sM9Swo0
俺は自分の部屋で一人、パソコン上でダービースタリオンというゲームをしていた。
いい競走馬が出来たので、それを育てるのに熱中していて、気がつくと夜の一時を回っていた。
時計を見た時、なにかすることがあった気がして軽く不安になる。
ああ、音響から預かった本のことだ。
それを思い出してホッとする。
心置きなくゲームに戻ろうとしたが、なんだかそういうわけにもいかない気がしてきて、しぶしぶセーブをしてからパソコンの電源を落とした。
どこに置いたかいな。と、部屋の中を見回す。
するとベッドの上に放り出してあった。
『ソレマンの空間艇』石川英輔 作
とある。
そう言えばどういう話だったか思い出そうしていたのが途中だった。
俺はこたつに移動し、本を広げた。
その本は、文夫という少年が学者先生と浅間山に登山に出かけた時に、ソレマン人と名乗る宇宙人のUFOに捕らえられ、冒険をすることになる話だった。
実は現生人類以前に存在した地球上の知的生命体であったソレマン人たちが、旅立った先の遠い宇宙で滅亡の危機に瀕していて、それを救うため、かつて彼らの先祖が地球に残したというある遺産を一緒に探す、という筋だ。
55: 本 ◆LaKVRye0d.:2017/1/30(月) 03:23:57 ID:loeHvyRIOA
子どものころに読んだ時は、SFというちょっと大人のお話という感覚でいたのだが、今読むとやはりジュブナイルであり、文体には違和感があった。こんなだったかなあ、と。
しかしそれでも読み始めると意外に面白くて、俺はそのまま読み進めた。すると物語が佳境に差し掛かったあたりで、ふいに妙な文章が出てきた。
《そんなことより、遊ぼうよ》
ん? とそこで止まった。
地の文からいきなり読者へ語り掛けてきたのだ。不自然なメタレベルの文章だ。
次の一文を見た瞬間、背筋に冷たいものが走った。
《うしろをむいてごらん》
地の文は続けて今この本を読んでいる俺に呼び掛けている。うしろをむいてごらん、と誘っているのだ。
これは……
気がつくとなんとも言えない嫌な耳鳴りがしている。空気がヒリつく。
呼び掛けの内容のことだけじゃない。俺は全く気づかなかったのだ。
今の今まで、同じ本を同じように読んでいるつもりだった。しかし、いつの間にか部屋の電気は消えていた。
56: 本 ◆LaKVRye0d.:2017/1/30(月) 03:28:10 ID:gGNvDtuvts
876 :本 ◆oJUBn2VTGE :2013/08/24(土) 00:25:28.47 ID:oCTAATKm0
部屋の中は真っ暗で、俺は一人闇の中に座り、本のページを開いていた。
あたりは、しん、としている。
明かりがないのに、本の内容が読める。
ゾクリとした。
これか。
俺は胸の中でそっと呟いた。
この感覚は確かに説明し難い。完全に視覚的なものではない。
普段この目で見ているように見えているわけではなかった。
だが、まるで視覚情報から抜き出されたような言語的な情報が直接頭の中に入り込んで来ている。
そしてそれが本来そこにあるべき視覚的情報を補い、あたかも幻覚のように文字を浮かび上がらせている。
頭で、目の前に文字があるように想像した状態がそれに近いだろうか。
闇の中で文字を想像した時、黒一色の世界に、同じ黒で文字が書ける。不思議な現象だった。
これだ。このことだ。
緊張しながら、今の状況を再確認する。なぜ部屋の電気が消えているのか。冷静に記憶をたどる。すると、直前に立ち上がり、電燈の紐を引っ張った自分を思い出す。
記憶が消えかけていたことにゾッとする。
思考でたどっても多分だめだった。直前の、立ち上がった身体の感覚がうっすらと、そしてそれでもまだ俺の脳に正しい情報を送ってくれたのだ。
なるほど。部屋の明かりは無意識に自分で消してしまうのか。消したという記憶とともに。
俺は異常な状況に背中をゾクゾクさせながら、《うしろをむいてごらん》という文字情報をもう一度確認する。何度確認してもそこに目を向けた途端、強制的に脳が文字のイメージを浮かび上がらせる。
振り向くか。
いや。
だめだ。
振り向いてはいけない。
そこには部屋の壁があるだけのはずだ。
だが、だめだ。
振り向きたいという欲求が、頭の中を嵐のようにぐるぐると回る。それでもその欲求が自分の中から出てきたものではないということが分かる。
57: 本 ◆LaKVRye0d.:2017/1/30(月) 03:31:57 ID:gGNvDtuvts
878 :本 ◆oJUBn2VTGE :2013/08/24(土) 00:29:15.16 ID:oCTAATKm0
耐え難い衝動に俺は耐えた。
そのページにはその文章だけが書いてある。
俺は次のページを捲らず、じっと考える。この異常な現象の根源のことを。
それは物質としてのこの本ではない。なぜなら燃やしても破り捨てても、『夜の書』は次の本へ移るからだ。
だったら根源とはなんだ。
このループはどうやって打ち破る?
思考が音もなく走る。
夜の書。
夜にしか読めない本。
夜にしか……
いつからかははっきりしないが、この怪現象が七不思議に数えられ、過去から現在までまだ続いているということは、現象を破るには誰もやっていないことをしなければならない。
考える。
考える。
なんだ。
それは、なんだ。
しばらく考えた後、俺は思考の流れを変えた。
逆はどうだ。誰もやっていないことをする、の逆。それは。
誰もがやったことをしない……
ハッとした。
誰もがやったこと。
誰もが。燃やした人も、ズタズタに破り捨てた人も。
誰もがやっていること。それをしなければいい。
俺はふいに、冷めていく自分に気づいた。
そうか。こんなことか。
肩の力がふっと抜けて、俺は闇の中で本を掴んだ。そのまま手探りでベランダのある窓の近くに持って行く。
そうして、本のページを開いたまま窓際に置いた。
欠伸をして、こたつに入る。最近は不精が過ぎてベッドにも入らず、こたつに首まで潜り込んで寝るのだった。
歯を磨いてないな、と思ったが、まあいいやと眠りに落ちた。
58: 本 ◆LaKVRye0d.:2017/1/30(月) 03:35:55 ID:loeHvyRIOA
879 :本 ◆oJUBn2VTGE :2013/08/24(土) 00:31:25.88 ID:oCTAATKm0
◆
次の日、目が覚めるとカーテン越しに朝の光が眩しいほど射し込んでいた。天気予報通りの快晴だ。
こたつからムクリと這い出て、俺は窓際の本を確認する。昨日置いたままの格好で、本は朝の陽光を浴びていた。
開いているページには、昨日のソレマン人の遺産に関する物語の続きが載っていて、奇妙な文章など一つも見当たらなかった。もちろんどのページにもだ。
怪異の源はいまひとつはっきりしなかったけれど、たいていの夜の怪現象はこいつには適わない。
朝の光には。
これまでに恐らく誰もがやってしまったこと。
それは本を閉じてしまったことだ。つまり、夜中に開いた『夜の書』としてのページを閉じてしまい、結果として怪異の根源が朝の光を浴びることがなかった。
そんなことで良かったのに。
まあ、こんなもんかね。
俺は一晩中こたつに包まっていてこり固まった筋肉をほぐすべく、大きな伸びをした。
59: 本 ◆LaKVRye0d.:2017/1/30(月) 03:37:17 ID:loeHvyRIOA
次の日の夜、俺はまた自分の部屋で『ソレマンの空間艇』を通して読んでみた。最後まで読んだが、特に異変は起こらなかった。
その後、電気を消してみたが、開いたページのあたりにはやはり何もなかった。暗闇があるだけだ。
念のためにもう一日様子を見てから、俺は音響を前回のカレー屋に呼び出した。
概要を説明し、本をテーブルに置いてからそっちへ押しやる。
「朝の光で、ねえ」
ふうん、という表情で音響は小さく頷いている。
「死んだの?」
本を指さしてそう訊くので、「たぶん」と答える。
「燃やした時と同じで、結局別の本に逃げてるとか」
「それはないな」
たぶん、と付け加える。
60: 本 ◆LaKVRye0d.:2017/1/30(月) 03:40:02 ID:loeHvyRIOA
880 :本 ◆oJUBn2VTGE :2013/08/24(土) 00:33:15.52 ID:oCTAATKm0
図書館の膨大に存在する本のどれかに逃げたかも知れない、なんて言われてもすぐには確認のしようがないが、そのことにはついては自信があった。
何故かと言われても上手く答えられないのだが、俺のこれまでの経験に裏打ちされたカンだ。
なにより、ループを破る方法を思いついた瞬間に冷めてしまった自分自身と、こたつに入って眠ったその俺になにも出来なかったという、怪現象としての、こう言ってはなんだが、しょぼさ、がそれを補強している。
音響も似たような感想を持ったのか、あっさりと納得したようだ。
「ありがとう。さすが」
さすが、の後、師匠のしの字が続く前に俺は被せて言った。
「お前、いつまでこんなことに首突っ込んで行くつもりだ」
するとキョトンとして、「だって」と言うのだ。
「だって、これからじゃない。大学に入ったら、もっと色々楽しいことできそうだし」
その言葉を聞いた瞬間、自分が老人になってしまったように感じてしまった。
61: 本 ◆LaKVRye0d.:2017/1/30(月) 03:41:36 ID:loeHvyRIOA
そうか、こいつはこれからなのか。
俺がオカルト道にどっぷりと浸かって無茶ばかりやっていたあの無軌道な日々が、こいつにはこれからやってくるのか。
自分にはもう戻って来ない時間が全方位に向かって開かれている少女に、目を開けられないような眩しさを感じて俺は目を逸らした。
「そういえば」
と、音響はカレーを掬おうとしていたスプーンを止める。
「昨日瑠璃ちゃんに会ったよ」
一瞬意味が分からず、「アメリカへ帰ったんじゃないのか」と言いそうになってから、「ああ、そういうことか」と一人ごちた。
「わたし、地元の大学に行くのはさ、瑠璃ちゃんと遊びたいってのもあるんだよね」
「あいつ、この街にしかいられないのか」
「うん」
そうか――
The king stays here,The king leaves here.
ふいに、頭の中に瑠璃の好きだった言葉が蘇った。
62: 本 ◆LaKVRye0d.:2017/1/30(月) 03:44:01 ID:loeHvyRIOA
881 :本 ◆oJUBn2VTGE :2013/08/24(土) 00:35:35.67 ID:oCTAATKm0
王は留まり、王は離れる。
自分の名前を紹介する時に、いつも好んでこの言葉を使っていた。
もちろん本名ではない。自分でつけた名前だ。
それは本来彼女の顔のある部位を端的に表す言葉だったが、ここに奇妙な符合が生まれていた。
I stay here, I leave here.
キングを自分に変えることで、生まれついて彼女に起こっているその不思議な現象を表す言葉になるのだ。それも、ニューヨークへ帰った彼女を表す時にはその言葉が逆転する。
面白いな。
俺は人間を取り巻く、目に見えない偶然というものや、運命というものを改めて感じた。
「今度会ったら、目を傷めないように気をつけろって言っておいてくれ」
「なにそれ。カラコンのこと? 瑠璃ちゃん、もうしてないよ」
音響が不思議そうにそう言う。
「いや、いい」
俺は、見えざる悪意の主要な標的となった四人の、ある共通点のことを考えていた。四人のうちの三人。それが偶然なのか、そうでないのか、すべてが終わった今でも分からないのだった。
63: 本 ◆LaKVRye0d.:2017/1/30(月) 03:45:54 ID:gGNvDtuvts
カレーを食べ終わったころ、腰を浮かしかけた俺に音響が言う。
「じゃあ、春からよろしくね、師匠」
相変わらず上から下まで黒尽くめの格好でそんなことを言うのだ。
腹の内を読み取れない表情で。
俺は一瞬、自分が別の人間になったような錯覚に陥り、うろたえた。
うろたえながらも、なんとか言い返したのだった。
「受かってから言え」
師匠だと? この俺が。
これまでただイタズラのようにそう呼ばれていたのとは違う、ぞわぞわする感覚があった。
これについては断じて運命ではない。と、思う。
しいて言えば……
しいて言えば、そう。
やっぱり、no fate ということになるんだろう。
(完)
64: 1 ◆LaKVRye0d.:2017/1/30(月) 03:47:04 ID:loeHvyRIOA
今夜は、以上です。
【了】
65: 1 ◆LaKVRye0d.:2017/2/3(金) 01:17:29 ID:z881GwDpBI
1です。次に投下するのは『ペットの話』です
ウニさんは最初『喫茶店の話』を書いた際、○○の話、というタイトルは「これは怖くない話です、だけど、伏線になったり登場人物の誰かに関係のある話ですよ」という意味で使っていたそうです
しかし次の『すまきの話』で一気に怖くなってしまったので、怖くても怖くなくても別にいいや、となってしまったようです
さて、この『ペットの話』は…?
66: ペットの話 ◆LaKVRye0d.:2017/2/3(金) 01:20:35 ID:UjZCWpAm.I
『ペットの話』
京介さんから聞いた話だ。
高校一年生の春。
私は女子高に入ってからできた友だちを、自分の家に招待した。ヨーコという名前で、言動がとても騒がしく、いつもその相手をしているだけでなんだか忙しい気持ちになるような子だ。
そのころの自分にできた、唯一の友だちだった。
私の家は動物をたくさん飼っていて、その話をすると「見たい見たい」と言い出してきかなかったのだ。
「でか。猫でか!」
リビングで対面するなり、ヨーコはそう言って小躍りした。
「名前は? 名前」
「ぶー」
「ぶー?」
妹や母親は『ぶーちゃん』と呼んでいる毛の長い猫だ。アメリカ原産のメインクーンという種類で、子猫の時に知り合いからもらってきたのだが、元々かなり大きくなると聞いていたのに、さらにこいつは底なしの食欲を発揮するに至って、実に体重は十キロを超えてしまっている。『ブマー』というのが彼の本名だが、家族の誰も今はそう呼ばない。
「重っ」
ヨーコはぶーを抱きかかえて嬉しそうに喚いている。ぶーは身じろぎするのもめんどくさい、というように眠そうな顔をしてされるがままになっている。
その騒ぎを聞きつけてラザルスが部屋の中にやってきた。
「あ、犬だ」
ウェルシュ・コーギーという種類で、とても賢い男の子だ。おとなしく、また言いつけをよく聞くので室内で飼っている。こげ茶色の背中に、胸は白い。手足が短くてちょこちょこと走るのでかわいらしい。成犬だけど小柄なので、猫のぶーと同じくらいの大きさに見える。
67: ペットの話 ◆LaKVRye0d.:2017/2/3(金) 01:22:09 ID:UjZCWpAm.I
ラザルスは舌を出しながら、ぶーを抱えたヨーコの周りをくるくると回転し始めた。ぶーは抱きかかえられたままその動きを目で追っている。
ヨーコは「わわわわわ」と言いながら同じようにきょろきょろしてはしゃいでいる。
うちには他にも「もも太」という名前の雑種のオス猫がいるが、いつも外に遊びに出ていてあまり家には帰ってこない。
「お姉ちゃん、お客さん?」
いつの間に帰ったのか、妹までも制服のまま顔を覗かせた。
「そうだよ。お前、いいから引っ込んでろ」
友だちに家族を見られるのが気恥ずかしくて、邪険に追い払うと、妹は「べ」と舌を出して顔をしかめて見せた。そして廊下から首を引っ込める。
ヨーコは驚いて目を丸くしていた。妹の消えた廊下の方を指差して「まじで?」と訊いてくる。そうだよ。と答えておいた。
それからひとしきりぶーとラザルスに遊んでもらった後、ヨーコは「他には? 他には?」と訊いてくる。
「あと、九官鳥の『ピーチ』と、ハムスターを二匹飼ってる」
私がそう言うと、ヨーコは少し顔色が悪くなった。「ハムスター飼ってんだ……」と強張ったような表情を浮かべる。
どうしたんだろう。
「いや、子どものころ毒ハムに噛まれてから、どうも苦手なのさ」
毒ハムスター? 冗談のわりには嫌に真剣な口調だった。
「好きなんだけどね」と空笑いをしている。よく分からない。
「見るだけ見るか?」と訊くと、「……うん。見るだけ見る」と言うので隣の部屋に案内する。
棚の上にオレンジ色のケージを置いていて、その中にゴールデンハムスターのつがいを飼っていた。そのころはなかなか子どもを生まないなあと思っていたのだが、後に分かったところによると、結果的に両方オスだったので無理からぬことだった。
68: ペットの話 ◆LaKVRye0d.:2017/2/3(金) 01:24:32 ID:UjZCWpAm.I
「かわいいなあ」
ヨーコは部屋の入り口のドアの後ろに隠れ、顔を半分だけ出してそう言う。そんなに離れていたらよく見えないだろうに。
「毒なんてないよ」
人に慣れているから、よほど気が立ってない限り、指を差し出しても噛まれることはなかった。しかしそう言って呼んでもヨーコは頭を振る。
後から知ったのだが、ヨーコはハムスターにアレルギーを持っていて、その抜け毛やフケにも反応して、咳き込んだり発疹が出たりする身体だった。以前友人の家でハムスターに噛まれた時にはショック症状を起こし、救急車で運ばれることになったのだそうだ。
それでもよほどハムスターが好きなのか、ヨーコにはその後も時々市内の百貨店にあるペットショップに行くのに付き合わされた。そんな時ヨーコは離れた場所からハムスターのコーナーをじっと見つめていて、その小動物たちがどんな様子か逐一私に訊いてきた。そのたびに私は苦笑しながらエサを食べる様子や小さな手の動きなどを身振り手振りで説明したものだった。照れくさいというより、正直恥ずかしかったが、嬉しそうなヨーコを見ていると、そんな思いもどこかへ行ってしまった。
「こっちがピー助だ」
私は部屋の隅にいた九官鳥のピーチを鳥籠ごと持ち上げて、ドアの方へ向かった。
ヨーコが部屋の中に入ってきそうになかったからだ。
「わー、かわいい」
そんなことを言うヨーコの脇をすり抜けて、元のリビングに戻る。ピーチは自分の居城が動き出したことに興奮して、頭を振りながら甲高い声でさえずっている。
背の低いタンスの上に鳥籠を乗せるとピタリと鳴きやみ、今度はここが城下町かい、とでも言うようなふてぶてしい顔で周囲を見渡した後、またピョロピョロと鳴き始める。
「ピースケちゃん」とヨーコが呼びかけると、ピーチはすぐに返事をする。
「ピーチャン、ピーチャン」
「男の子?」
「そう」
「ソウ、ソウ、ピーチャンイイコ、ピーチャンイイコ」
ピーチは鳴きながら鳥籠の中を歩き回る。
「ピー助、ももたろうは?」
私がそう言うと、首を傾げる。
「むかし、むかし、あるところに」
導入部分を口にすると、やがて真似をするように「ムカシ、ムカシ、アルトコロニ……」とやけに低い声で始める。ピーチはこれが得意なのだ。
69: ペットの話 ◆LaKVRye0d.:2017/2/3(金) 01:32:29 ID:z881GwDpBI
「オジーサント、オバーサンガ、スンデ、オリマシタ、ピョロピョロ……」
「すごーい。上手」
ヨーコが手を叩いて喜んでいる。
ピーチのももたろうは、結局猿を仲間にしたあたりでまた最初のムカシ、ムカシに戻ってしまい、鬼が島までは到着しなかった。
以前父親が頑張って教え込んでいた時には、鬼をやっつけて故郷に凱旋するところまで通して言えたのだが、少し時間が空くともう忘れてしまうものらしい。
私が分析するに、犬、猿、キジを仲間にする過程で、焼き回しというか、同じ展開が繰り返されるのが一番の原因ではないかと思う。
「オコシニツケタ、キビダンゴ、ヒトツ、ワタシニ、クダサイナ」という印象的なフレーズがあるが、犬を仲間にしたあと、また猿の時にも繰り返されるので、そこでわけが分からなくなるらしい。
それでもヨーコは大喜びで、餌をやっていいか、とせがんできた。仕方がないのでオヤツを少しだけあげることにして、大好きなひまわりの種をいくつかヨーコに持たせ、それを鳥籠越しに手ずから食べさせた。
ピーチがくちばしを伸ばしてくるたびにヨーコはきゃあきゃあと騒ぐ。
その騒ぎを訊きつけてまたラザルスが尻尾を振りながらリビングにやってきて、ふんふんとヨーコの足のあたりを嗅いで回る。
「ねえ、ピースケちゃんはどこかで買ったの? 人にもらったの?」
「ああ、親戚からもらった。三歳の時にもらって来て、今二年目だから、四歳か五歳くらいだな」
「ふうん。うちも九官鳥とかオウムを飼いたいなあ」
無邪気にそう言うヨーコに、軽いいじわるのつもりで私はこんなことを言った。
「でも、こいつはたまに気持ちの悪いことを言うぞ」
「ええ? 気持ちの悪いことってなに」
「……誰も教えてないこと」
それを聞いてヨーコは少し気味悪そうな顔をした。
そもそもピーチは親戚の家で飼われていたが、その家のお祖父ちゃんが亡くなった後、奇妙な言葉をさえずり始めたのだ。
「メシガマズイ。アジガシナイ。メシガマズイ」
「タバコガナイ。タバコヲスイタイ。タバコスワセロ」
いずれも亡くなる前の入院中に祖父が口にしていたことだ。そんな言葉を生前の祖父は家で口にしたこともなかったのに。
それだけではなく、まるで祖父そのもののように、小言めいたことを喋ることもあった。
「トイレノ、トハ、チャントシメナサイ」
「ヤサイハ、サイゴノ、ヒトカケマデ、ツカイナサイ」
などのような言葉だ。それらだけならば、普段から祖父が口にしていたので、ピーチが覚えていてもおかしくはないのだが、祖父が亡くなってまだひと月と経っていないころに、ふいにこんな言葉を発したのだ。
70: ペットの話 ◆LaKVRye0d.:2017/2/3(金) 01:34:45 ID:UjZCWpAm.I
「カミダナニハ、チャント、シロイカミヲ、ハリナサイ」
確かにピーチは神棚に白い紙を貼れ、と言った。家族は始めなんのことか分からなかったが、あまりその言葉を繰り返すので気味が悪くなり、近所の年寄りに訊いてみると、それは古来からの風習の一つだった。
神棚封じ、と言って、その家から人死にが出ると四十九日があけるまで白い紙で神棚を封じ、拝んだりもしてはいけないのだそうだ。
黒不浄、つまり死の穢れを神棚に近づけないためだ。
しかしそんなことは家族の誰も知らなかった。そんな慣習を知っているのは古い人である祖父くらいだったからだ。ピーチはまるで祖父が乗り移ったかのようにそのことを教えてくれたのだった。
そんなことが続き、気味悪がったその親戚の家はピーチを手放すことにした。そこで動物好きの私の両親の悪い癖が出て手を挙げ、うちにもらわれてきたという経緯だ。
前の家で喋っていたようなことも段々と口にしなくなり、というよりもうちの家族みんながこぞって好き勝手なことを覚えさせようとするのでトコロテン式に忘れていった。特に、親戚が怖がっていた、亡くなったお祖父ちゃんのような口ぶりの言葉は、うちに来てからはピタリと止まり、本当にそんなことを言っていたのかと逆に疑ったものだった。
しかし、親戚の話の裏付けは別のところからやってきた。ピーチがうちの家族になってから半年ほど経った時、急に「コロシテヤル」という汚い言葉をさえずり始めたのだ。
本人はいたって楽しそうにさえずっているのだが、聞いている方はゾッとした。
誰が教えたのか、犯人探しが行われたのだが、家族みんなが知らないという。私も身に覚えはなかった。
テレビを置いていない部屋で飼っていたので、勝手に覚えることはない。家族の誰かが教えたはずなのだ。犯人と疑われた妹が憤慨して、プチ家出をしたのを覚えている。
結局どこでその「コロシテヤル」という言葉を覚えてしまったのかは分からなかったが、ピーチはそのころから時おりそういう誰も教えていないはずの言葉をさえずるようになった。
71: ペットの話 ◆LaKVRye0d.:2017/2/3(金) 01:37:39 ID:UjZCWpAm.I
「コウエンノスナバ、ポシェットガ、オチテル」
「カキザワサンノ、ゴシュジン、ブチョウニナッタ」
「センキョカー、ウルサイ」
そのほとんどは他愛のないものだったが、みんな全く身に覚えがなく、それどころか誰も知らなかったような情報まであった。例えば、選挙カーがうるさい、とピーチが言った時点ではまだ、選挙カーはうちの家のあたりにはまだ来ていなかった。
いったいどうしてピーチがそんな言葉を喋るのか分からないので、気持ちが悪かった。
妹の説では、ピーチは言わば生きたラジオのようなもので、周波数のあった誰かの意思を受信してそれを自動的に口にしているのではないかとのことだった。
飼われていた親戚の家ではお祖父ちゃんが亡くなったが、その霊魂がまだその家に漂っていて、時々ピーチの口を借りて喋るのだという。
そんなわけあるか、と言ってやったが、動物は人間よりもお化けに対する霊感が強いのだと主張する。『猫のぶーちゃんだって、時々なにもない壁を見ている』というのがその補強材料だった。あれは確かに私もなんでだろうと思ったことがある。
妹が言うには、うちにやってきたピーチは近くにお祖父ちゃんの霊もいなくなったので、今では近所の人の思念や、浮遊霊の声を受信してしまっているのだ、ということだった。
そんなことを説明すると、ヨーコは嫌そうな顔をして後ずさった。
72: ペットの話 ◆LaKVRye0d.:2017/2/3(金) 01:40:08 ID:z881GwDpBI
「うそだあ」
今まさについばもうとしていたひまわりの種を引っ込められたピーチが、苛立ったように籠の枠を内側から噛んでガシャガシャと揺らせた。
「あたしそういうの苦手なんだから、やめてよね」
「悪い悪い」
私は笑ってそう言いながら、どこか胸の片隅でふと凍りつくような冷たいものに撫でられたような感覚をおぼえた。それは妹の主張する怪談めいた話とはまた別の、異質な想像であり、ある時ふいに自分の頭の中にするりと入り込んだそれは、ある種の茫漠とした不安と、眩暈とを私にもたらした。
それを思い出してしまったのだった。
「ああ、もう」
ヨーコは顔を強張らせた私に気づきもせず、頭を振りながら、ピーチにひまわりの種をもう一度あげようと手を伸ばす。
その足元ではまだラザルスが上目遣いに鼻先を近づけていて、そうしてあんまり匂いを嗅いでいるのが気になったのか、部屋の隅で丸くなっていたぶーまでが起き上がって反対のヒザ側から匂いを嗅ぎ始めた。
「ねえちょっと、なんかさっきからこの子たち、レディーに失礼じゃない?」
立ったまま変な顔をするヨーコに私は笑って言う。
「初めて見るような人には、いつもこうだよ」
「ほんとにぃ?」
「本当だ」
腕組みをしながら私は無駄に力強く断言した。
73: ペットの話 ◆LaKVRye0d.:2017/2/3(金) 01:44:51 ID:z881GwDpBI
◆
そんなことがあった数日後。
夜中にふと目が覚めた私は、喉の渇きを覚えて寝床から起き上がった。
いま何時だ?
明りをつけようとしたが、目が眩むのが嫌で結局そのまま歩いて自分の部屋を出る。
二階の廊下は階段の脇の小さな照明だけがぽつんと点いていて、その明りを頼りに一階に降りていく。
家族はみんな寝ていて家の中はしん、としている。私は足音を忍ばせて台所に入り、炊飯器についているディスプレイの青い光を頼りに冷蔵庫からお茶を取りだす。
コップ一杯を飲みきると一息ついた。
静寂に、耳の奥が甲高く鳴っている。夜中に目が覚めたのはいつ以来だろうかとふと考える。
家族を起こさないようにひっそりと台所を出て、忍び足で廊下を進んでいる時だった。
私の耳は、静寂以外のなにかをとらえた。
立ち止まり、それが聞こえた方向に目をやると、居間のドアが少し開いている。それが微かに揺れた気がした。キィ、という聞こえなかったはずの音を、頭の中で勝手に再生する。
普段から鍵を掛けるわけでもなく、また冷房や暖房をつけている季節でもないのでドアが半開きなのはいつものことだったが、私の直感はなにか得体の知れない予感を告げていた。
そっと近付いてドアの隙間を広げると、暗い室内がその奥にのびる。
「ピー助?」
声をひそめながら、九官鳥のピーチをいつもの愛称で呼ぶ。
×××
また、なにか聞こえた。
部屋の中から。
誰かの声だ。
ハムスターの鳴き声とは明らかに違う。人間の、声のように聞こえた。
「ピーチ?」
部屋の中に入り込むと、窓のカーテン越しに月の光が微かに差し込み、海の底のような暗い空間に奇妙な縞模様を浮かび上がらせていた。
×××
まただ。
また聞こえた。
部屋の隅にある鳥籠の方から。
鳥籠には黒い布を被せてある。光が入り込まないように。ピーチが寝る時にはいつもそうするのだ。
その黒い布の内側から、ぼそぼそという話し声が聞こえてくる。
ああ、ピーチが喋っている。人の言葉で。
私はわけもなく湧いてくる寒気が身体の表面を走り抜けるのを感じた。いったいなにを喋っているのだろう。
×××
私はゆっくりと近づきながら耳をすませる。
こんな時間にピーチはどうして起きているのだろう。たまたまだろうか。
74: ペットの話 ◆LaKVRye0d.:2017/2/3(金) 01:46:21 ID:UjZCWpAm.I
それともいつも起きているのだろうか。いつも家族が寝静まった深夜に、小さな籠の中でひとり、私たちの知らないなにかを話しているのだろうか。
妹の言葉が頭をよぎる。
ピーチは、ここにいない人や死んでしまった人の思念を受信して、それを言葉にして囀るのだと。まるでラジオのように。だから時おり、誰も教えていないはずの言葉を流暢に発するのだ。
今もそうなのだろうか。誰も教えていない言葉を、あるいは家族の誰も知らないはずの話を……
だったら、今この暗い部屋の中には目に見えない人間の言霊が漂っているのか。あるいは、見ることも、触れることもできない死んだはずの人間が今、この部屋の中に立っているのか。
鳥籠の形をした布の先に手が触れ、私は動きを止める。
妹の主張がもたらしたそんな恐ろしい想像がふいに希薄になり、また別の想像が自分の中のどこか暗いところから湧いてくるのを感じた。
妹の話をなかば笑いながら聞いた時、私はそれとは全く別の想像をしてしまっていた。とっさに気味の悪いそれを心の奥に押し込め、忘れようとしていた。今まで。
なのに。
私のした想像。いや、してしまった想像。
それは
夜中にふいに寝床から起きる私。
しかし私には意識がない。私としての意識が。
夢遊病のように階段を降り、鳥籠の前に立つ。
そしてその中に話しかける。
無意識の私が。いや、あるいは私という器の中に入り込んだ、もう一人の別の私が。
その言葉は
…………ソウムド…………
耳に入った音に、私は我に返った。
鳥籠の中から声が聞こえる。
押しつぶされたような声。ひどく聞き取りづらい。
私は息を飲んで耳をすませる。
布越しに声は続く。
75: ペットの話 ◆LaKVRye0d.:2017/2/3(金) 01:49:08 ID:UjZCWpAm.I
…………ミツカ…………
…………シキチ…………
…………ルノサン…………
ようやくそれだけが聞こえる。
それで声は止まり、しばらくするとまた同じ言葉が繰り返される。
…………ソウムド…………
…………ミツカ…………
…………シキチズ…………
…………ルノサンポシャ…………
やはり良く聞き取れない。
なぜか背筋がぞくぞくする。
…………ソウムドイ…………
…………ミツカイ…………
…………シキチズ…………
…………ルノサンポシャ…………
四つの言葉が繰り返されているようだ。いったいこれは誰の言葉なのか。
私ではない。そう直感が告げている。想像してしまっていたように、記憶のない時間、私自身がピーチに教えた言葉などではない。
ピーチ自身の言葉?
いや、それも違う。イメージが浮かぶ。鳥の、小さな頭は空洞で、遠くから目に見えない波のようなものが押し寄せてきて、その空洞の中で反響し、くちばしが言葉として再生する。誰もいない部屋で、誰にも聞かれず。
なぜこんなに怖いのだろう。ガチガチと歯が音を立てる。
悪意。
夜に滲み出る、目に見えない悪意が、ほんの気まぐれに寝静まった住宅街を通り過ぎていく。
そんな気がした。
…………キケン…………
…………キケン…………
…………ゼンイン…………
…………ケス…………
最後にそう言って、鳥籠の中の声はぴたりと止まった。
微かな月明かりの中に沈む部屋に、静けさが戻ってきた。私はハッとして腕を伸ばし、布を取り払うと、駕籠の中のピーチが驚いたように頭を振って小さく鳴いた。
不思議そうに首を傾げながら、口の中で小さくウロウロという低い声をこねている。それが私には、「我に返った」姿のように思えた。
仄かな月の光を反射し、ピーチの瞳が一瞬くるりとまたたく。それが妖しく艶かしい黒い宝石のように見えた。なにか、恐ろしいことが起こる前触れのようだった。
76: 1 ◆LaKVRye0d.:2017/2/3(金) 01:50:48 ID:UjZCWpAm.I
次の話は先日貼ったのより前に書かれた話です
順番が狂ってしまって申し訳ありません
前後編の為、貼るのに時間がかかりますが御容赦下さいませ
77: 風の行方・前編 ◆LaKVRye0d.:2017/2/3(金) 01:53:57 ID:UjZCWpAm.I
風の行方 前編
183 :風の行方 ◆oJUBn2VTGE :2012/05/11(金) 21:09:55.96 ID:wBpB+Oun0
師匠から聞いた話だ。
大学二回生の夏。風の強い日のことだった。
家にいる時から窓ガラスがしきりにガタガタと揺れていて、嵐にでもなるのかと何度も外を見たが、空は晴れていた。変な天気だな。そう思いながら過ごしていると、加奈子さんという大学の先輩に電話で呼び出された。
家の外に出たときも顔に強い風が吹き付けてきて、自転車に乗って街を走っている間中、ビュウビュウという音が耳をなぶった。
街を歩く女性たちのスカートがめくれそうになり、それをきゃあきゃあ言いながら両手で押さえている様子は眼福であったが、地面の上の埃だかなんだかが舞い上がり顔に吹き付けてくるのには閉口した。
うっぷ、と息が詰まる。
風向きも、あっちから吹いたり、こっちから吹いたりと、全く定まらない。台風でも近づいてきているのだろうか。しかし新聞では見た覚えがない。天気予報でもそんなことは言っていなかったように思うが……
そんなことを考えていると、いつの間にか目的の場所にたどり着いていた。
住宅街の中の小さな公園に古びたベンチが据えられていて、そこにツバの長いキャップを目深に被った女性が片膝を立てて腰掛けていた。
手にした文庫本を読んでいる。その広げたページが風に煽られて、舌打ちをしながら指で押さえている。
「お、来たな」
僕に気がついて加奈子さんは顔を上げた。Tシャツに、薄手のジャケット。そしてホットパンツという涼しげないでたちだった。
「じゃあ、行こうか」
薄い文庫本をホットパンツのお尻のポケットにねじ込んで立ち上がる。
彼女は僕のオカルト道の師匠だった。そして小川調査事務所という興信所で、『オバケ』専門の依頼を受けるバイトをしている。
今日はその依頼主の所へ行って話を聞いてくるのだという。
僕もその下請けの下請けのような仕事ばかりしている零細興信所の、アルバイト調査員である師匠の、さらにその下についた助手という、素晴らしい肩書きを持っている。
あまり役に立った覚えはないが、それでもスズメの涙ほどのバイト代は貰っている。
78: 風の行方・前編 ◆LaKVRye0d.:2017/2/3(金) 01:57:22 ID:z881GwDpBI
184 :風の行方 前編 ◆oJUBn2VTGE :2012/05/11(金) 21:12:15.96 ID:wBpB+Oun0
具体的な額は聞いたことがないが、師匠の方は鷹だかフクロウだかの涙くらいは貰っているのだろうか。
「こっち」
地図を手書きで書き写したような半紙を手に住宅街を進み、ほどなく小洒落た名前のついた二階建てのアパートにたどり着いた。
一階のフロアの中ほどの部屋のドアをノックすると、中から俯き加減の女性がこわごわという様子で顔を覗かせる。
「どうもっ」
師匠の営業スマイルを見て、少しホッとしたような表情をしてチェーンロックを外す。そしておずおずと部屋の中に通された。
浮田さんという名前のその彼女は、市内の大学に通う学生だった。三回生ということなので、僕と師匠の中間の年齢か。
実は浮田さんは以前にも小川調査事務所を通して、不思議な落し物にまつわる事件のことを師匠に相談したことがあったそうで、その縁で今回も名指しで依頼があったらしい。
道理で気を抜いた格好をしているはずだ。
ただでさえ胡散臭い「自称霊能力者」のような真似事をしているのに、お金をもらってする仕事としての依頼に、いかにもバイトでやってますとでも言いたげなカジュアル過ぎる服装をしていくのは、相手の心象を損ねるものだ。
少なくとも初対面であれば。
師匠はなにも考えてないようで、わりとそのあたりのTPOはわきまえている。
「で、今度はなにがあったんですか」
リビングの絨毯の上に置かれた丸テーブルを囲んで、浮田さんをうながす。
学生向きの1LDKだったが、家具が多いわりに部屋自体は良く片付けられていて、随分と広く感じた。師匠のボロアパートとは真逆の価値観に溢れた部屋だった。
「それが……」
浮田さんがポツポツと話したところをまとめると、こういうことのようだ。
彼女は三年前、大学入学と同時に演劇部に入部した。高校時代から、見るだけではなく自分で演じる芝居が好きで、地元の大学に入ったのも、演劇部があったからだった。
定期公演をしているような実績のあるサークルだったので部員の数も多く、一回生のころはなかなか役をもらえなかったが、くさらずに真面目に練習に通っていたおかげで二回生の夏ごろからわりと良い役どころをやらせてもらえるようになった。
79: 風の行方・前編 ◆LaKVRye0d.:2017/2/3(金) 01:59:53 ID:UjZCWpAm.I
185 :風の行方 前編 ◆oJUBn2VTGE :2012/05/11(金) 21:15:08.37 ID:wBpB+Oun0
三回生になった今年は、就職活動のために望まずとも半ば引退状態になってしまう秋を控え、言わば最後の挑戦の年だったのだが、下級生に実力のある子が増えたせいで、思うように主役級の役を張れない日々が続いていた。
下級生だけのためではなく、本来引退しているはずの四回生の中にも、就職そっちのけで演劇に命を賭けている先輩が数人いたせいでもあった。
都会でやっているような大手の劇団に誘われるような凄い人はいなかったのだが、バイトをしながらでもどこかの小劇団に所属して、まだまだ自分の可能性を見極めたい、という人たちだった。
真似はできないが、それはそれで羨ましい人生のように思えた。
そしてつい三週間前、文化ホールを借りて行った三日間にわたる演劇部の夏公演が終わった。
同級生の中には自分と同じように秋に向けてまだまだやる気の人もいたが、これで完全引退という人もいた。
年々早くなっていく就職活動のために、三回生とってはこの夏公演が卒業公演という空気が生まれつつあった。
だが、彼女にとって一番の問題は、就職先も決まらないまま、まだズルズルと続けていた四回生の中の、ある一人の男の先輩のことだった。
普段からあまり目立たない人で、その夏公演でも脇役の一人に過ぎず、台詞も数えるくらいしかなかったのだが、卒業後は市内のある劇団に入団すると言って周囲を驚かせていた。
誰も彼が演劇を続けるとは思っていなかったのだ。同時に、区切りとしてこれで演劇部からは引退する、とも。
その人が、夏公演の後で彼女に告白をしてきたのだ。
ずっと好きだったと。
なんとなくだが、普段の練習中からも粘りつくような視線を感じることがあり、それでいてそちらを向くと、つい、と目線を逸らす。そんなことがたびたびあった。いつも不快だった。気持ちが悪かった。
その男が、今さら好きだったなんて言ってきても、返事は決まっていた。
はっきりと断られてショックを受けたようだったが、しばらく俯いていたかと思うと、蛇が鎌首をもたげるようにゆっくりと顔を上げ、ゾッとすることを言ったのだ。
『髪をください』
口の動きとともに、首が頷きを繰り返すように上下した。
80: 風の行方・前編 ◆LaKVRye0d.:2017/2/3(金) 02:02:39 ID:UjZCWpAm.I
186 :風の行方 前編 ◆oJUBn2VTGE :2012/05/11(金) 21:17:21.65 ID:wBpB+Oun0
『せめて、思い出に』
そう言うのだ。大げさではなく、震え上がった。
「いやですよ。髪は女の命ですから」
と、最初は冗談めかしてごまかそうとしたが、それで乗り切れそうな気がしないことに気づき、やがて叫ぶように言った。
「やめてください」
男は怯んだ様子も見せず、同じ言葉を繰り返した。そして『一本でもいいんです』と懇願するような仕草を見せた。
彼女は「本当にやめてください」と言い捨てて、その場を逃げるように去ったが、追いすがってはこなかった。
しかしホッとする間もなく、それから大学で会うたびに髪の毛を求められた。『髪をください』と、ねとつくような声で。
彼と同じ四回生の先輩に相談したが、男の先輩は「いいじゃないか、髪の毛の一本くらい」と言って、さもどうでもよさそうな様子で取り合ってくれず、女の先輩は
「無駄無駄。あいつ、思い込んだらホントにしつこいから。まあでも髪くらいならマシじゃない? 変態的なキャラだけど、そこからエスカレートするような度胸もないし」と言った。
以前にも演劇部の女の同級生に言い寄ったことがあったらしいのだが、その時も相手にされず、それでもめげないでひたすらネチネチと言い寄り続けて、とうとうその同級生は退部してしまったのだそうだ。
ただその際も、家にまで行くストーカーのような真似や乱暴な振る舞いに出るようなことはなかったらしい。
そんな話を複数の人から聞かされ、今回はその男の方が演劇部から引退するのだし、髪の毛だけで済むのならそれですべて終わりにしたい。そう思うようになった。
それで済むうちに……
そしてある夜、寝る前にテレビを消した時、その静けさにふいに心細さが込み上げてきて、「よし、明日髪の毛を渡そう」と決めたのだった。
しかし、いざハサミを手に持ってもう片方の手で髪の毛の一本を選んで掴み取ると、これからなにか大事なものを文字通り切り捨ててしまうような感覚に襲われた。
一方的な被害者の自分が、どうしてこんなことまでしなければならないのか。
そう思うと、ムカムカと怒りがこみ上げてきた。
81: 風の行方・前編 ◆LaKVRye0d.:2017/2/3(金) 02:05:48 ID:z881GwDpBI
187 :風の行方 前編 ◆oJUBn2VTGE :2012/05/11(金) 21:18:48.09 ID:wBpB+Oun0
そうだ。なにも自分の髪の毛でなくとも良いのだ。同じくらいの長さだったら、誰のだろうがどうせ分かりっこない。
そう思ったとき目に入ったのが、部屋の衣装箪笥の上に飾っていた日本人形だった。
子どものころに親に買ってもらったその人形は、今でもお気に入りで、この下宿先まで持ち込んでいたのだった。状態も良く、いつか自分が着ることを夢見た綺麗な着物を清楚にまとっていた。
そっとその髪に手を触れると、滑らかな感触が指の腹を撫でた。確か本物の人毛を一本一本植え込んでいると、親に聞かされたことがあった。
これなら……
そう思って、摘んだ指先に力を込めると一本の長い艶やかな髪の毛が抜けた。根元を見ると、さすがに毛根はついていなかったが、あの男も「抜いたものを欲しい」なんて言わなかったはずだ。
少し考えて、毛根のないその根元をハサミで少しカットした。これで生えていた毛を切ったものと同じになったし、長さも彼女のものより少し長めだったのでちょうど良い。
黒の微妙な色合いも自分のものとほとんど同じように見えた。
それも当然だった。両親は彼女の髪の色艶と良く似た人形を選んで買ってくれたのだから。
次の日、男にその髪の毛を渡した。ハンカチに包んで。
「そのハンカチも差し上げますから、もう関わらないでください」
と言うと、思いのほか素直に頷いて、ありがとう、と嬉しそうに笑った。
最後のその笑顔も、気持ちが悪かった。カエルか爬虫類を前にしているような気がした。袈裟まで憎い、という心理なのかも知れなかったが、もう後ろを振り返ることもなく足早にその場を去った。すべて忘れてしまいたかった。
それから数日が経ち、その男も全く彼女の周囲に現れなくなっていた。
本人の顔が目の前にないと現金なもので、たいした実害もなかったことだし、だんだんとそれほど悪い人ではなかったような気がしはじめていた。
そして、メインメンバーの一部が抜けた後の最初の公演である、秋公演のことを思うと、自然と気持ちが切り替わっていった。
そんなある日、夜にいつものように部屋でテレビを見ている時にそれは起こった。
バラエティ番組が終わり、十一時のニュースを眺めていると、ふいに部屋の中に物凄い音が響いた。
なにか、硬い家具が破壊されたような衝撃音。
82: 風の行方・前編 ◆LaKVRye0d.:2017/2/3(金) 02:11:53 ID:z881GwDpBI
188 :風の行方 前編 ◆oJUBn2VTGE :2012/05/11(金) 21:20:52.18 ID:wBpB+Oun0
心臓が飛び上がりそうになった。うろたえながらも部屋の中の異常を探そうと、息を飲んで周囲に目をやる。
箪笥や棚からなにか落ちたのだろうかと思ったが、それらしいものが床に落ちている痕跡はない。そしてなにより、そんなたかが二メートル程度の高さから物が落ちたような生易しい音ではなかった。
もっと暴力的な、ゾッとする破壊音。
それきり部屋はまた静かになり、テレビからニュースキャスターの声だけが漏れ出てくる。
得体の知れない恐怖に包まれながら、さっきの音の正体を探して部屋の中を見回していると、ついにそれが目に入った。
人形だ。箪笥の上の日本人形。艶やかな柄の着物を着て、長い黒髪をおかっぱに伸ばし、……
その瞬間、体中を針で刺されるような悪寒に襲われた。
悲鳴を上げた、と思う。人形は、顔がなかった。
いや、顔のあった場所は粉々にくだかれていて、原型をとどめていなかった。巨大なハンマーで力任せに打ちつけたような跡だった。まるで自分がそうされたような錯覚に陥って、ひたすら叫び続けた。
浮田さんは語り終え、自分の肩を両手で抱いた。見ているのが可哀そうなくらい震えている。
「髪か」
師匠がぽつりと言った。
ゾッとする話だ。もし、彼女が自分の髪を渡していたら…… そう思うと、ますます恐ろしくなってくる。
なぜ彼女がそんな目に遭わなくてはいけないのか。その理不尽さに僕は軽い混乱を覚えた。
その時、頭に浮かんだのは『丑の刻参り』だった。憎い相手の髪の毛を藁人形に埋め込んで、夜中に五寸釘で神社の神木に打ち付ける、呪いの儀式だ。
藁人形を相手の身体に見立て、髪の毛という人体の一部を埋め込むことで、その人形と相手自身との間に空間を越えたつながりを持たせるという、類感呪術と感染呪術を融合させたジャパニーズ・トラディショナル・カース。
しかしその最初の一撃が、顔が原型を留めなくなるような、寒気のする一撃であったことに、異様なおぞましさを感じる。
83: 風の行方・前編 ◆LaKVRye0d.:2017/2/3(金) 02:16:37 ID:UjZCWpAm.I
189 :風の行方 前編 ◆oJUBn2VTGE :2012/05/11(金) 21:22:43.12 ID:wBpB+Oun0
「その後は?」
師匠にうながされ、浮田さんはゆっくりと口を開く。
「なにも」
その夜は、それ以上のことは起こらなかったそうだ。壊された人形はそのままにしておく気になれず、親しい女友だちに捨ててきてもらった。
怖くて一歩も家を出ることができなかったが、その友人を通してあの男が大学にも姿を現していないことを聞いた。
もしあいつが、渡したのが人形の髪の毛だったことに気づたら、と思うと気が狂いそうになった。もう私は死んだことにしたい、と思った。実際に、友人に対してそんなことを口走りもした。
私が死んだと伝え聞けば、あいつも満足してすべてが終わるんじゃないかと、そう思ったのだ。
喋りながら浮田さんは目に涙を浮かべていた。
「わたしにどうして欲しい?」
師匠は冷淡とも言える口調で問い掛ける。締め切った部屋には、クーラーの生み出す微かな気流だけが床を這っていた。
「助けて」
震える声が沈黙を破る。
師匠は「分かった」とだけ言った。
◆
僕と師匠はその足で、近所に住んでいた浮田さんの友人の家を訪ねた。頼まれて人形を捨てに行った女性だ。
彼女の話では、人形は本当に顔のあたりが砕けていて、巨大なハンマーで力任せに殴ったようにひしゃげていたのだそうだ。彼女はその人形を、彼氏の車で運んでもらって遠くの山に捨ててきたと言う。
「燃やさなかったのか?」
師匠は、燃やした方が良かったと言った。
友人は浮田さんと同じ演劇部で、以前合宿をした時に幹事をしたことがあり、その時に作った名簿をまだ持っていた。男の名前もその中にあり、住所まで載っていた。
84: 風の行方・前編 ◆LaKVRye0d.:2017/2/3(金) 02:20:27 ID:z881GwDpBI
191 :風の行方 前編 ◆oJUBn2VTGE :2012/05/11(金) 21:26:25.78 ID:wBpB+Oun0
「曽我タケヒロか」
師匠はその住所をメモして友人の家を出た。
曽我の住んでいるアパートは市内の外れにあり、僕は師匠を自転車の後ろに乗せてすぐにそこへ向かった。
アパートはすぐに分かり、表札のないドアをノックしていると、隣の部屋から無精ひげを生やした男が出てきて、こう言った。
「引っ越したよ」
「いつですか」
ぼりぼりと顎を掻きながら「四、五日前」と答える。ここに住んでいたのが、曽我という学生だったことを確認して、引越し先を知りたいから大家はどこにいるのかと重ねて訊いた。
すると、その隣人は「なんか、当日に急に引っ越すからって連絡があって、敷金のこともあるのに引越し先も言わないで消えた、って大家がぶつぶつ言ってたよ」と教えてくれた。
四、五日前か。ちょうど人形の事件があったころだ。その符合に嫌な予感がし始めた。
礼を言ってそのアパートから出た後、今度はその足で市内のハンコ屋に行った。以前師匠のお遣いに行かされた店だった。
師匠は店内にズラリとあった三文判の中から『曽我』の判子を選んで買った。安かったが、領収書をしっかりともらっていた。宛名が「上様」だったことから、これからすることがなんとなく想像できた。
ハンコ屋を出ると、案の定次の目的地は市役所だった。
師匠は玄関から市民課の窓口を盗み見て、僕に「住民票の申請書を一枚とってこい」と言った。
言うとおりにすると、今度は建物の陰で僕にボールペンを突きつけ、その申請書の「委任状」の欄を書かせた。もちろん委任者は「曽我タケヒロ」だ。
そして買ったばかりの判子をついて、「ここで待ってろ」と市民化の窓口へ歩いて行った。
そのいかにも物慣れた様子に、興信所の調査員らしさを感じて感心していた。なにより、ポケットから携帯式の朱肉が出てきたことが一番の驚きだった。前にも持っているところを見たことがあったが、こんなこともあろうかと、いつも持ち歩いているらしい。
どっぷり浸かっているな、この世界に。
しかしそれさえ、彼女の持つバイタリティの一面に過ぎないということも感じていた。
85: 風の行方・前編 ◆LaKVRye0d.:2017/2/3(金) 02:23:59 ID:z881GwDpBI
192 :風の行方 前編 ◆oJUBn2VTGE :2012/05/11(金) 21:28:18.48 ID:wBpB+Oun0
しばらく待っていると、浮かない顔をして戻ってきた。
「どうでしたか」と訊くと
「駄目だ。こっちに住民票自体移してなかった。蒸発の仕方から、転出届けは出してない可能性が高かったから、住んでたアパートの住民票さえ取れれば、戸籍と前住所が分かって、色々やりようがあったんだけど」
師匠はそう言いながら市役所の外へ歩き出す。
「大家をつかまえて、アパートに越してくる前の住所を訊き出しますか」
「いや、難しいだろう。住民票を市内に移してないということは、遠方の実家に住所を置いたままだった可能性が高い。カンだけど、曽我はまだこの街にいる気がする。
だから実家を探し出してもやつの足取りをたどれるかどうかは怪しいな。ま、逆に実家に帰ってるんだったら、実害はなさそうだ。とりあえず今すべきことは、最悪の事態を想定して、迅速に動くことだな」
となると、やっぱり大学と演劇部の連中に訊き込みをするしかないか。
師匠は忌々しそうに呟いた。
もし曽我がまだその近辺にいるのなら、それではこちらの動きも筒抜けになってしまう可能性があった。
「どうすっかなあ」
師匠は大げさに頭を両手で掻きながら歩く。
クーラーの効いていた市役所の中から出ると、熱気が全身に覆いかぶさってきて、息が詰まるようだった。そして太陽光線が容赦なく肌を刺す。
しかし、しばらく歩いていると、強い風が吹き付けてきてその熱気が少し散らされた。相変わらず風が強い。朝からずっと吹き回っている。
「昨日からだよ」
と師匠は言った。風は昨日から吹いているらしい。そう言えば昨日はほとんど寝て過ごしたので覚えていないが、そうだったかも知れない。
「そう言えば昨日、友だちが髪の毛の話をしてましたよ」
僕には、男のくせにやたらと髪の毛を伸ばしている友人がいた。高校時代からずっと伸ばしているというその髪は腰に届くほどもあって、周囲の女性からは気持ち悪がられていた。
本人は女性以上に髪には気を使っているのだが、長いというだけで不潔そうに見えるのだろう。だが大学にはそういう髪の長い男は結構多かった。いわゆるオタクのファッションの一類型だったのだろう。
86: 風の行方・前編 ◆LaKVRye0d.:2017/2/3(金) 02:27:36 ID:UjZCWpAm.I
193 :風の行方 前編 ◆oJUBn2VTGE :2012/05/11(金) 21:32:30.07 ID:wBpB+Oun0
その友人が昨日、自分の部屋にガールフレンドを呼んだのだが、あるものを見つけられて詰め寄られたのだという。
どうせ他のオンナを部屋に上げていた痕跡を見つけられたという、痴話喧嘩の話だろうと思ってその電話を聞いていると、案の定「髪の毛が部屋に落ちてるのを見つけられたんだ」と言う。
ふうん、と面白くもなく相槌を打っていると彼は続けた。
「それで詰め寄られたんだ。この短い髪の毛、誰のよ? って」
少し噴いた。なるほど、そういうオチか。彼女も髪が長いのだろう。
市役所の前の通りを歩きながらそんな話をすると、師匠はさほど面白くもなさそうに「面白いな」と言って、心ここにあらずといった様子でまだ悩んでいた。
僕は溜め息をついて、歩きながら自転車のハンドルを握り直す。またじわじわと熱さが増してきた。早く自転車にまたがってスピードを出したかった。
そう思っていると、また風が吹いてきてその風圧を仮想体験させてくれた。
「うっ」
いきなり顔になにがか絡み付いてきた。虫とか、何だか分からないものが顔にあたったときは、口に入ったわけではなくても一瞬息が詰まる。そのときもそんな感じだった。
なんだ。
顔に張り付いたものを指で摘んだ瞬間、得体の知れない嫌悪感に襲われた。
髪の毛だった。
誰の? とっさに隣の師匠の横顔を見たが、長さが違う。そしてそのとき風は師匠の方からではなく、全然違う方向から吹いていた。
髪の毛。
髪の毛だ。髪の毛が風に乗って流されてきた。
立ち止まった僕を、師匠が怪訝そうに振り返る。そして僕の手に握られたそれを見ると、見る見る表情が険しくなる。
「よこせ」
僕の手から奪いとった髪の毛に顔を近づけて凝視する。それからゆっくりと顔を上げ、水平に首を回して周囲の景色を眺めた。
風がまた強くなった。
心臓がドクドクと鳴る。偶然だろう。偶然。
87: 風の行方・前編 ◆LaKVRye0d.:2017/2/3(金) 02:31:34 ID:z881GwDpBI
195 :風の行方 前編 ◆oJUBn2VTGE :2012/05/11(金) 22:06:24.13 ID:wBpB+Oun0
そのとき、近くを歩いていた女子高生たちが悲鳴を上げた。
「やだぁ。なにこれぇ」
その中の一人が、顔に吹き付けた風に悪態をついている。いや、風に、ではない。その指にはなにかが摘まれている。
「なにこれ。髪の毛?」
「気持ち悪ぅい」
口々にそんなことを言いながら女子高生たちは通り過ぎていった。
髪。
偶然…… ではないのか。
師匠はいきなり自分の服の表面をまさぐり始めた。猿が毛づくろいをしているような格好だ。ホットパンツから飛び出している足が妙に艶かしかった。しかしすぐにその動きは止まり、腰のあたりについていたなにかを慎重に摘み上げる。
そして僕を見た。その指には茶色の髪の毛が掴まれている。
反対の手の指にはさっき僕の顔に張り付いた髪の毛。色は黒だ。
長さが違う。色も。どちらも師匠とも、僕の髪の毛とも明らかに違っていた。
「お前、その友だちの話」
「え」
「短い髪の毛誰のよ、って怒られた友だちだよ」
「はい」
「本当に浮気をしていたのか」
その言葉にハッとした。浮気なんかしていないはずだ。
今の彼女を見つけただけでも奇跡のような男だったから。
その部屋に、彼女のでも、自分のでもない短い髪の毛。
普通に考えれば誰か他の、男の友人が遊びにきて落としたのだろうと思うところだ。しかし、そう連想せずにいきなり詰め寄られたということは、なにか理由があるはずだ。
88: 風の行方・前編 ◆LaKVRye0d.:2017/2/3(金) 02:33:48 ID:UjZCWpAm.I
例えば、前の日に二人で部屋の掃除をしたばかりで、友人は誰も訪ねては来ていないはずだったとか。
だったらその髪の毛は、どこから?
僕は思わず自分の服を見た。隅から隅まで。
そして服の表面に絡みついた髪の毛を見つけてしまった。それも三本も。
ぞわぞわと皮膚が泡立つ。
89: 風の行方・前編 ◆LaKVRye0d.:2017/2/3(金) 02:37:30 ID:UjZCWpAm.I
196 :風の行方 前編 ◆oJUBn2VTGE :2012/05/11(金) 22:08:29.86 ID:wBpB+Oun0
どれも同じ人間の髪の毛とは思えなかった。よく観察すると長さや太さ、色合いがすべて違う。こうして、友人の服についた誰かの髪の毛が、部屋の中に落ちたのか。
そう言えば、今日自分の部屋を出たときから顔になにかほこりのようなものが当たって息が詰まることが何度かあった。あれはもしかして髪の毛だったのかも知れない。すべて。
空は晴れ渡っていて、ぽつぽつと浮かんだ雲はどれもまったく動いていないように見えた。上空は風がないのだろうか。
師匠は歩道の真ん中で風を見ようとするように首を突き出して目を見開いた。
そしてしばらくそのままの格好でいたかと思うと、前を見たまま口を開く。
「髪が、混ざっているぞ」
風の中に。
そう言って、なんとも言えない笑みを浮かべた。
「小物だと思ったけど、これは凄いな。いったいどういうことだ」
師匠のその言葉を聞いて、そこに含まれた意味にショックを受ける。
「これが、人の仕業だって言うんですか」
街の中に吹く風に、髪の毛が混ざっているのが、誰かの仕業だと。
僕は頬に吹き付ける風に嫌悪感を覚えて後ずさったが、風は逃げ場なくどこからも吹いていた。その目に見えない空気の流れに乗って、無数の誰かの髪の毛が宙を舞っていることを想像し、吐き気をもよおす。
「床屋の…… ゴミ箱が風で倒れて、そのままゴミ袋いっぱいの髪の毛が風に飛ばされたんじゃないないですか」
無理に軽口を叩いたが、師匠は首を振る。
「見ろ」
摘んだままの髪の毛を二本とも僕につきつける。よく見ると、どちらにも毛根がついていた。慌てて自分の身体についていたさっきの髪の毛も確認するが、そのすべてに毛根がついている。
ハサミで切られたものではなく、明らかに抜けた毛だ。
確かに通行人の髪の毛が自然に抜け落ちることはあるだろう。それが風に流されてくることも。だが、問題なのはその頻度だった。
師匠が、近くにあった喫茶店の看板に近づいて指をさす。そこには何本かの髪の毛が張り付いて、吹き付ける風に小刻みに揺れていた。
90: 風の行方・前編 ◆LaKVRye0d.:2017/2/3(金) 02:41:27 ID:UjZCWpAm.I
197 :風の行方 前編 ◆oJUBn2VTGE :2012/05/11(金) 22:11:04.43 ID:wBpB+Oun0
「行くぞ」
師匠が僕の自転車の後ろに勢いよく飛び乗った。僕はすぐにこぎ出す。
それから二人で、街なかをひたすら観察して回った。だが、その行く先々で風は吹き、その風の中には髪の毛が混ざっていた。
僕は自転車をこぎながら、混乱していた。今起こっていることが信じられなかった。現実感がない。いつの間にか別の世界に足を踏み入れたようだった。風は広範囲で無軌道に吹き荒れ、市内の中心部のいたるところで髪の毛が一緒に流されているのを確認した。
目の前で風に煽られ、髪の毛を手で押さえる女性を見て、師匠は言った。
「この髪の毛、どこからともなく飛んできてるわけじゃないな」
通行人の髪が強風に撫でられ、そして抜け落ちた髪がそのまま風に捕らわれているのだ。
師匠は被っていたキャップの中に自分の髪の毛を押し込み、僕には近くの古着屋で季節外れのニット帽を買ってくれた。もちろん領収書をもらっていたが。
師匠に頭からすっぽりとニット帽を被せられ、「暑いです」と文句を垂れると「もう遅いかも知れんがな、顔面を砕かれたくなかったら我慢しろ」と言われた。
顔面を?
まるであの人形だ。ゾクゾクしながらされるがままになる。
「よし」と僕の頭のてっぺんを叩くと、師匠は顔を引き締めた。
「追うぞ」
「え?」と訊き返すと、「決まってるだろ、髪を、集めてるヤツだ」
何を言っているんだ。
呆れたように師匠の顔を見ながら、それでも僕は自分の心の奥底では彼女がそう言い出すのを待っていたことに気がついていた。
「曽我ですか」
「タイミングが合いすぎている。わたしの勘でも、これは偶然じゃない」
想い人である浮田さんの髪を手に入れ損ねた男が、騙されたことに怒り狂い、無差別に人の髪の毛をかき集めている、そんな狂気の姿が頭に浮かんだ。浮田さんは家に閉じこもっていて正解だったのだろう。
しかし、丑の刻参りだけならまだしも、こんなありえない凄まじい現象を、ただの大学生が起こしているというのか。
91: 風の行方・前編 ◆LaKVRye0d.:2017/2/3(金) 02:45:58 ID:UjZCWpAm.I
198 :風の行方 前編 ラスト ◆oJUBn2VTGE :2012/05/11(金) 22:14:41.76 ID:wBpB+Oun0
「いや、分からん。曽我は浮田の髪の毛を手に入れたが、それが誰か他のやつの手に渡った可能性はある」
「他のやつって?」
「……」
師匠は少し考えるそぶりを見せて、慎重な口調で答えた。
「どうもこのあいだから、こんなことが多い気がする」
このあいだって。
口の中でその言葉を反芻し、自分でも思い当たる。師匠が少し前に体験したという、街中を巻き込んだ異変のことだ。
僕も妙な事件が続くなあ、と思ってはいたがその真相にたどり着こうなどとは考えつかなかった。その後も師匠にはそのことでしつこく詰られていた。
こういう大規模な怪現象が立て続くことに、師匠なりの警戒感を覚えているらしい。その怪現象のベールの向こうに、なにか恐ろしいものの影を感じ取っているかのようだった。
「どうやって追うんです」
少し上ずりながら僕がそう問うと、師匠は自分の人差し指をひと舐めし、唾のついたその指先を風に晒した。風向きを知るためにする動作だ。
「風を追う」
風が人々の髪の毛を巻き込みながら、街中を駆け回り、そしてその行き着く先がどこかにあると言っているのだ。
「でもこんなにバラバラに吹いてるのに」
「バラバラじゃない。確かに東西南北、どの方角からも風が吹いている。でも一つの場所では必ず同じ向きに風が吹いている」
師匠のその言葉に、思わず「あっ」と驚かされた。言われてみると確かにそうだったかも知れない。
「迷路みたいに入り組んでいても、目に見えない風の道があるんだ」
そうじゃなきゃ、髪を集められない。
そう言って師匠は僕の自転車の後輪に足を乗せ、行き先を示した。つまり、風が向かう方向だ。
ゾクゾクと背筋になにかが走った。恐怖ではない。感心でもない。
畏敬という言葉が近いのか。この人は、こんなわけのわからない出来事の根源に、たどり着いてしまうのだろうか。
力強く肩を掴まれ、「さあ行け」という言葉が僕の背中を叩いた。
92: 風の行方・後編 ◆LaKVRye0d.:2017/2/3(金) 02:50:35 ID:UjZCWpAm.I
風の行方 後編
225 :風の行方 後編 ◆oJUBn2VTGE :2012/05/19(土) 23:19:25.47 ID:13YZ4scB0
それから僕らは、師匠の感じ取る風の向かう先を追い続けた。
それは本当の意味で、目に見えない迷路だった。「あっち」「こっち」と師匠が指さす先にひたすら自転車のハンドルを向け続けたが、駅前の大通りを通ったかと思うと、急に繁華街を外れて住宅街の中をぐるぐると回り続けたりした。
かと思うと川沿いの緑道を抜け、国道に入って延々と直進したりと、法則もなにもなく、その先に終わりがあるのかまったく見えなかった。
そしてまた風に導かれるままに繁華街に戻ってきて、いい加減息が上がってきた僕が休憩しましょうと進言しようとしたとき、師匠が短く「止まれ」と言った。
そして後輪から降り、一人で歩き出した。
大通りからは一本裏に入った、レンガ舗装された商店街の一角だった。師匠の背中を目で追うと、その肩越しに二人の人間の姿があった。
女性だ。二人ともセーラー服を着ている。腕時計を見ると、いつの間にか高校生の下校の時間を過ぎていた。
二人は並んで立ち止まったまま、師匠をじっと見ている。二人ともかなり背が高く、目立つ風貌をしていた。
師匠が「よう」と気安げに声をかけると、髪の長い方が口を開いた。
「どうも」
少しとまどっているような様子だった。それにまったく頓着せず、師匠は親しげに語りかける。
「あの夜以来か。いや、一度会ったかな。元気か?」
「ええまあ」
短く返して、困ったような顔をする。
僕もそちらに近づいていった。
「この道にいるってことは、おまえも気づいたんだな」
師匠の言葉にその子はハッとした表情を見せた。
「危ないから、子どもは家で勉強してな」
やんわりと諭すような言葉だったが、見るからに気の強そうな目つきをしているその女子高生が反発せずに聞き入れるとは思えなかった。
そしてその子が口を開きかけたとき、
「どなた」
と、じっと聞いていた髪の短い方の子が、一歩前に出た。それは一瞬、髪の長い方を庇う様な姿に映った。薄っすらと笑みを浮かべた目が値踏みするように師匠に向けられる。
師匠がなにか言おうとして、ふと口を閉ざした。そしてなにかに気づいたような顔をしたかと思うと、すぐに笑い出した。
93: 風の行方・後編 ◆LaKVRye0d.:2017/2/3(金) 02:56:31 ID:UjZCWpAm.I
226 :風の行方 後編 ◆oJUBn2VTGE :2012/05/19(土) 23:22:45.51 ID:13YZ4scB0
そのとき、強い風が吹いて全員の髪の毛をなぶった。髪の短い方が、その髪を手で押さえながら、不快げに眉間を寄せる。
「おいおい、あのときの覗き魔かよ。憑りつかれてるのか思ったのに、仲良しこよしじゃないか!」
一人で笑っている師匠に、女の子たちの空気が凍りついた。
「なにを言っているの」
髪の短い方が冷淡に言い放つ。
「なにって、しらばっくれるなよ。ひっかいてやったろ」
指先を曲げて猫のような仕草を見せる師匠の言葉に、彼女は怪訝な顔をする。師匠もすぐに彼女の顔を凝視して、おや、という表情をした。
「おい。あんなつながり方しといて、無事で済むわけないだろ。目はなんともないのか」
言われた方は自分の目をそっと触った。細く長い指だった。
「なにを言ってるのかわからない」
「ノセボ効果を回避したのか? それともおまえ……」
髪の長い方は連れと師匠との言い合いに戸惑った様子で、口を挟めないようだった。
「おまえ、過去を見てたのか」
師匠の目が細められる。
異様な気配がその場に立ち込め始めたような錯覚があった。
「だったら悪かったな。初対面だ。どうぞよろしく」
からかうように師匠が頭をぴょこんと下げる。
髪の短い方が冷ややかな目つきでその様子をねめつける。
「もう行きましょう」
ただならない雰囲気に気おされて僕は師匠のジャケットを引っ張った。
「まあいいや。とにかくもう家に帰れ。分かったな、子猫ちゃんたち」
バイバイ、と手を振って師匠はようやくセーラー服の二人から離れた。
遠ざかっていく二人を振り返り、僕は師匠に訊いた。
「あの子たちは誰なんですか」
「さあ。名前も知らない。ただ、追いかけているらしい。同じヤツを」
髪の毛が風に流されていく先をか。こんなバカな真似をしているのは僕と師匠だけだと思ったのに。
「あんのガキ」
急に師匠がTシャツの裾をこすり始めた。その裾が妙に汚れていて、こするたびにその汚れが薄く広がっていくように見えた。赤い染み。まるで血のように見えた。
「なんです、それ」
「イタズラだよ」
94: 風の行方・後編 ◆LaKVRye0d.:2017/2/3(金) 03:00:43 ID:UjZCWpAm.I
227 :風の行方 後編 ◆oJUBn2VTGE :2012/05/19(土) 23:23:36.85 ID:13YZ4scB0
ガキのくせに。
師匠はそう呟いて、シャツの裾をくるくると巻いてわき腹でくくり、僕の肩に手を置いた。「さあ急ぐぞ。日が暮れる」
そう急かされたが、僕には師匠のへそのあたりが気になって仕方がなかった。
その後、さっきの二人が追いかけてくる様子もなく、また街なかをくるくると自転車で回り続けた。確かに同じ場所は通らなかったが、風の道が本当に一本なのか不安になってきた。
道がどこかでつながっていたとしたら、尻尾を飲み込んだウロボロスの蛇のように堂々巡りを繰り返すだけだ。
そして、あるビルの真下にやってきたとき、師匠は忌々しげに「くそっ」と掃き捨てた。
ビルを見上げると、十階建てほどの威容がそそり立っている。風は垂直に昇っていた。ビルの壁に沿って真上に。
これでは先に進めない。
ひたすらペダルをこぎ続けた疲れがドッと出て、僕は深く息を吐いた。目を凝らしても壁に沿って上昇した後の風の流れは見えなかった。
しかし師匠は「ちょっと、待ってろ」と言って近くのおもちゃ屋に飛び込んで行った。
そして出てきたときには手に風船のついた紐を持っていた。ふわふわと風船は浮かんでいる。ヘリウムが入っているのだろう。
「見てろよ」
師匠は一際大きく吹いた風に合わせて、紐を離した。
風船はあっと言う間に風に乗って上昇し、ビルの壁に沿って走った。そして五階の窓のあたりで大きく右に曲がり、そのままビルの壁面を抜けた。壁の向こう側へ回りこんだようだ。
僕と師匠はそれを見上げながら走って追いかけ、風船の行く先を見逃すまいと息を飲んだ。
だが、風船はビルの壁の端を回りこんだあたりで、風のチューブに吸い込まれるような鋭い動きを止め、あとはふわふわと自分自身の軽さに身を任せたかのようにゆっくりと空に上昇していった。
「しまった」
師匠はくやしそうに指を鳴らす。
そうか。風が上昇するときは、風船もその空気の流れに沿って上昇していくが、下降を始めたら、風船はその軽さから下向きの空気の流れに抗い、一瞬は風とともに下降してもやがてその流れから外れて、勝手に上昇していってしまうのだ。恐らくは何度やっても同じことだろう。
飛んで行く風船を見上げながら、僕たちはその場に立ち尽くしていた。これで道を指し示すものがなくなった。
気がつくとあたりは日が落ちかけ、薄暗くなっていた。
95: 風の行方・後編 ◆LaKVRye0d.:2017/2/3(金) 03:06:33 ID:z881GwDpBI
228 :風の行方 後編 ◆oJUBn2VTGE :2012/05/19(土) 23:24:38.31 ID:13YZ4scB0
「どうしますか」
焦りを抑えて僕がそう問い掛けると、師匠は難しい顔をした。
もう、零細興信所に持ち込まれた小さな依頼どころの話ではなかった。ありえないと思いつつも、起こりうる最悪の事態をあえて想定した時、この街に訪れるかも知れない最悪の未来は、凄惨なものだった。
想像してしまって、自分の顔を手のひらで覆う。
風の行き着く場所で大きな口をあけて、そのすべてを飲み込もうとしている怪物。その怪物が自らの口に飛び込んできた無数の人々の髪の毛を集めて、なにかをしようとしている。
ガーンッ……
金属性のハンマーの音が頭の中に走った。思わず顔を上げ、幻聴であったことを確かめる。
うそだろ。そんなことが現実に起こるのか。うそだろう。
助けを求めるように師匠の方を見たが、いつになく蒼白い顔をしていた。
「ガスか」
「え」
「着色したガス。それを流せば風の道が見える」
それだ。その思いつきに興奮して、師匠の手を取った。
「それですよ。いけます、それ」
しかし師匠は浮かない顔だった。
確かに着色ガスなどどこで手に入れたらいいのかとっさには分からない。しかし知り合いに片っ端から訊くとか、あるいは街なかのミリタリーショップにでも行けばあっさりと売っているかも知れない。
もしくは駄菓子屋で売っていたような煙玉でもいい。
少なくともここでビルを見上げているよりはマシだ。
しかし師匠は首を振る。そして自分の腕時計を指し示す。
「時間がない」
「なぜです」
「もう日が暮れる。なにかあるとしたら夜だ。確かに昨日から風は吹いていたけど、明らかに今日になってから強くなった。今夜、それが起こるかも知れない。
ここまでに掛かった時間を考えてみろ。わたしたちはスタートがどこかも知らないんだ。この先、どこまでこの風の道が続くのかも」
僕は口ごもった。
しかし腹の底から湧いてくる焦燥が、考えも無く口を開かせる。
「だったらどうするんですか」
96: 風の行方・後編 ◆LaKVRye0d.:2017/2/3(金) 03:13:47 ID:UjZCWpAm.I
229 :風の行方 後編 ◆oJUBn2VTGE :2012/05/19(土) 23:29:16.14 ID:13YZ4scB0
我ながら子どもがだだをこねるような口ぶりに、師匠は「なんとかするさ」と口角を上げた。
どれほど追い詰められても、この人はそのたびに常識を超えた解答を導き出す。正答、正しい答えではない、ただ複雑に絡まりあった事象を一刀で断ち切るような、解答をだ。
そんなとき、彼女の周囲には夥しい死と生の気配が、禍々しく、震えるように立ち込め、僕はそれにえもいわれない恍惚を覚える。
「行くぞ」
どこへ、ではなく、はい、と僕は言った。
◆
ビルの屋上は風が強かった。
いつもそうなのか、それとも今日という日だからなのか、それは分からなかった。時間は夜の十二時を少し回ったころ。
展望台として開放されているわけではない。ただこっそり忍び込んだのだ。高い場所から見下ろす夜景は、なかなかに壮観だった。
周辺で一番高いビルだから、その周囲の小さなビルの群れが月光に照らされている姿がよく見えた。そしてその下のぽつぽつと夜の海に浮かぶ小船のような明かりも。
師匠は転落防止のフェンスを乗り越えて、切り立った崖のような屋上の縁に腰をかけ、足を壁面に垂らしてぶらぶらと揺らしていた。
片方の手ですぐそばのフェンスを掴んではいるが、強風の中、実に危なっかしい。
僕は真似ができずに、フェンスのこちら側で師匠のそばに座り、その横顔をそっと窺っていた。
「…………」
持ち込んだ携帯型のラジオからニュースが流れている。
「続報、やらないなあ」
師匠が呟く。
さっき聴いたローカルニュースには僕も驚いた。
市内の中心街で、夕方に毒ガス騒ぎがあったというのだ。
黄色いガスがビルの回りに立ち込めて、周囲は騒然としたそうだ。
すぐにそのガスはただの着色された無害なガスと分かり、厳戒態勢は解かれることになったのだが、こんな平和な街でそんな事件が起こること自体が異常なことだった。
犯人はまだ分かっていない。しかしその誰かは、師匠と同じことを考えたのに違いないだろう。
騒動のあった場所は僕らが行き詰ったビルの前とは離れていた。しかしそんなトラップのような場所が一ヶ所とは限らない。僕らよりもかなり手前にいたのか、あるいはずっと先行していたのかも知れない。
97: 風の行方・後編 ◆LaKVRye0d.:2017/2/3(金) 03:20:51 ID:z881GwDpBI
230 :風の行方 後編 ◆oJUBn2VTGE :2012/05/19(土) 23:30:28.88 ID:13YZ4scB0
「だれでしょうね」
そう問うと、師匠は「さあ、なあ」と言ってラジオの周波数を変えた。
「あの子たちじゃない気がするな。まあ、この街にもこういう異変に気づくやつらが何人かはいるってことだろう」
そのガスをつかった誰かは、風の行き着く先にたどり着けたのだろうか。それとも出口のないウロボロスの蛇の輪に囚われてしまっただろうか。
僕は今日一日、西へ東へと駆けずり回った街を感慨深く眺める。この高さから夜の底を見下ろすと、地上のすべては箱庭のように見えた。現実感がない。
さっきまであそこで這いずり回っていたのに。急に得た神の視点に、頭のどこかが戸惑っているのかも知れない。
「で、このあと、どうなるんです」
なにも解決などしていなかった。それでもここでただこうしているだけだ。もう僕はすべてを師匠に委ねていた。
あの後、僕らはビルを離れ、師匠の秘密基地へ向かった。ドブ川のそばに立っている格安の賃貸ガレージだ。
部屋の中に置けない怪しげな収集物はそこに隠しているらしい。
シャッターを上げると、かび臭い匂いが鼻をついた。そして、感じられる人には感じられる、凄まじい威圧感がその中から滲み出していた。
その空気の中へ、どれで行くかな、などと鼻歌でも歌う調子で足を踏み入れた師匠はしばらくゴソゴソとやっていたかと思うと、一つの箱を持ってガレージの外に出てきた。
やっぱりこれだな。
そしてなにごとか呟いて、箱に施されていた細い縄の封印を解いた。呟いたのは、短い呪い言葉のようだった。
箱の中から現れたのは仮面だった。鬼のような顔をした古そうな仮面だったが、どこかのっぺりとしていた。
だがそのときの僕は、もっととてつもないものが現れたのだと思った。恐ろしさや、忌々しさ、無力感や、憤怒、そして嘆き。そうしたものが凝縮されたもの。
なにか、災害のようなものが現れたのだと。
身体が硬直して動けない僕を尻目に、師匠はその仮面の頭部に手をやり、そこに生えていた毛を一本毟り取った。
そう。その仮面には髪の毛が生えていた。いや、髪の毛というより、その部分の皮膚が仮面に張り付いて、剥がすときに肉ごとこそげ落ちてしまったかのようだった。
98: 風の行方・後編 ◆LaKVRye0d.:2017/2/3(金) 03:27:20 ID:UjZCWpAm.I
231 :風の行方 後編 ◆oJUBn2VTGE :2012/05/19(土) 23:32:01.44 ID:13YZ4scB0
髪は仮面の裏側にこびり付いた赤黒い肉から生えていた。
これでいい。
師匠はそう言ってまた仮面を箱に戻し、引き抜いた髪の毛だけをハンカチに包んで、行こう、と言った。
それから師匠はまた市街地に戻り、強い風が吹いている場所に立ってニヤリと笑ってみせた。
日は落ちて、街には人工の明かりが順々に灯っていた。
目深に被ったキャップの下の目が妖しく輝いている。
どうすると思う?
もう分かった。師匠がなにをするつもりなのか。
こうするんだ。
そう言ったかと思うと、ハンカチから出したさっきの髪の毛をそっと指から離した。それは風に乗り、あっと言う間に見えなくなってしまった。風の唸る音が、耳にいつまでも残っているような気がした。
「あの仮面は、なんだったんです」
風の舞う深夜のビルの屋上でフェンスを挟んで座り、僕はぽつりと漏らした。聞けばゾッとさせられるのは間違いないだろう。しかし聞かずにもいられなかった。
「あの面か」
むき出しの足を屋上からはみ出させ、前後にぶらぶらと揺らしながら師匠は教えてくれた。
「金春(こんぱる)流を知ってるか」
曰く、能の流派の一つで、主に桃山時代に豊臣秀吉の庇護を受けて全盛期を迎え、一時代を築いた家なのだという。
現代でも続くその金春流は、伝承によると聖徳太子のブレーンでもあった渡来人の秦氏の一人が伝えたものだと言われ、非常に古い歴史を持っている。
その聖徳太子が神通力をもって天より降ろし、金春流に授けたのが「天之面」と呼ばれる面だ。その後、その面は金春家の守護神として代々大切に祀られ、箱に納めた上に注連縄を張り、金春家の土蔵に秘されていたという。
天之面は恐ろしい力を持ち、様々な天変地異を起こしたと伝えられている。
人々はその力を畏怖し、厳重に祀り、「太夫といえども見てはならぬ」と言われたほどであった。
享保年間の『金春太夫書状』によれば、「世間にておそろし殿と申す面也」とされている。
99: 風の行方・後編 ◆LaKVRye0d.:2017/2/3(金) 03:33:05 ID:z881GwDpBI
232 :風の行方 後編 ◆oJUBn2VTGE :2012/05/19(土) 23:34:55.04 ID:13YZ4scB0
また、「能に掛け申す面にては御座(イ)無く候」とも記されているとおり、能の大家の守護神たる面にもかかわらず、能を演じるときに被られることはなく、ただ秘伝である『翁』の技を伝授された太夫のみが一代に一度のみ見ることを許されたという。
それは「鬼神」の面とも、「翁」の面とも言われているが、正体は謎のままである。時代の下った現代では大和竹田の面塚に納められているとも言われるが、その所在は判然としていない。
その「おそろし殿」と呼び畏れられた面が。「太夫といえども見てはならぬ」と称された面が……
「ちょっと、まってください」
ようやく口を差し挟んだ。
師匠は僕の目を見つめ返す。
「あの面には、その、肉が。ついていました」
能を演じる際に掛ける面ではない、と言われているのに、あきらかに誰かが被った痕跡があった。いや、それ以前に、それほど古い面ならば、人間の肉など風化して崩れ落ちていてしかるべきではないか。
「ニンゲンの肉ならな」
師匠は口元に小さく笑みを浮かべる。
いや、そもそも、どうしてそんな面を師匠が持っているのだ。
「話せば長くなるんだが。まあ簡単に言うと、ある人からもらったんだ」
「誰です」
「知らないほうがいいな」
そっけない口調で、つい、と視線を逸らされた。
なんだか恐ろしい。
恐ろしかった。
その面はただごとではない。自分自身がそれを見た瞬間に「災害のようなもの」と直感したことを思い出した。
そして次に、師匠がその面の裏に張り付いた肉から抜き取った髪の毛を、風の中に解き放ったときの光景が脳裏に蘇る。そのときの、風の唸り声も。
ゾクゾクと寒気のする想像が頭の中を駆け巡る。
髪の毛は風に乗って宙を舞い、街中を飛び続ける。まるで巨大ななにかが深く吸う息に、手繰り寄せられるように。
やがて髪の毛は誰かの手元にたどり着く。そして人間を模したヒトガタの奥深くに埋められる。それを害することで、その髪の持ち主を害しようとする、昏い意思が漏れ出す。
そして……
二十分か、三十分か。沈黙のうちに時間が経った。
100: 風の行方・ラスト ◆LaKVRye0d.:2017/2/3(金) 03:37:50 ID:z881GwDpBI
233 :風の行方 後編 ラスト ◆oJUBn2VTGE :2012/05/19(土) 23:37:16.82 ID:13YZ4scB0
深夜ラジオの音と、轟々という風の音だけが響く高層ビルの屋上で、僕はふいにその叫びを聞いた。
h ―――――――――………………
声にならない声が、夜景の中に充満して、そして弾けた。断末魔の叫びのようだった。
その余韻が消え去ったころ、恐る恐る街を見下ろすと、遥か地上ではなにごともなかったかのように車のヘッドライトが、連なる糸となって流れていた。
きっとあの叫び声が、悲鳴が、聞こえたのはこの街でもごくひと握りの人間たちだろう。
その人間たちは昼間の太陽の下よりも、暗い夜の中にこそ棲む生き物なのだ。
自分と、師匠のように。
「結局、曽我ナントカだったのか、別の誰かだったのか分からなかったな。黒魔術だか、陰陽道だか、呪禁道だか知らないが、たいしたやつだよ」
その夜の側から、師匠が言葉を紡ぐ。
「だけど」
相手が悪かったな。なにしろ国宝級に祟り神すぎるやつだ。
ひそひそと、誰に聞かせるでもなく囁く。
僕はその横顔を金網越しに見つめていた。落ちたら助からない高さに腰をかけ、足をぶら下げているその人を。
その左目の下あたりからは、いつの間にかぽろぽろと光の雫がこぼれている。そしてその雫は高いビルの屋上から、海のような暗い夜の底へと音もなくゆっくりと沈んでいく。
この世のものとは思えない幻想的な美しさだった。
われ知らず、僕はその光景に重ね合わせていた。見たこともないはずの、鷹の涙を。あるいは、夜行性の鳥類の涙…… 例えば、フクロウの流すそれを。
気がつくと、風はもう止んでいた。
(完)
101: 1 ◆LaKVRye0d.:2017/2/3(金) 03:38:52 ID:UjZCWpAm.I
今夜は、以上です
有難うございました
102: 1 ◆LaKVRye0d.:2017/2/3(金) 03:41:33 ID:UjZCWpAm.I
すみません、書き忘れていました
【了】
103: 保育園・前編 ◆LaKVRye0d.:2017/2/8(水) 00:25:40 ID:T1ubdC60Hs
『保育園』 前編
師匠から聞いた話だ。
土曜日の昼ひなか、僕は繁華街の一角にある公衆電話ボックスの扉を開け、中に入った。
中折れ式のドアが閉まる時の、皮膚で感じる気圧の変化。それと同時に雑踏のざわざわとした喧騒がふいに遮断され、強制的にどこか孤独な気分にさせられる。
一人でいることの、そこはかとない不安。
まして、今自分が密かな心霊スポットと噂される電話ボックスにいるのだという意識が、そのなんとも言えない不安を増幅させる。
夜の暗闇の中の方がもちろん怖いだろうが、この昼間の密閉空間も十分に気持ち悪い。僕は与えられた使命を果たすべく、緑色の公衆電話の脇に据え付けてあるメモ帳に目をやる。
メモ帳は肩の部分に穴があけられていて、そこに通した紐で公衆電話の下部にある金具に結び付けられている。
紐を解き、メモ帳を手に取る。何枚か破った跡もあるが、捲ってみると各頁にはびっしりと落書きがされていた。僕は頷いて、財布を取り出すとテレホンカードを電話機に挿し込む。
「えーと」
記憶を確かめながら、バイト先の番号を押す。
『……はい、小川調査事務所です』
この声は服部さんだ。
「あ、すみません、僕です。加奈子さんはいますか」
『……中岡さんのことですか』
「あ、すみません。そうです」
僕も、先輩にあたる加奈子さんもバイト用の偽名を使っているのだが、依頼人がいる場所でもついうっかり本名で呼んでしまいそうになることが多々あった。なるべく小川調査事務所でのバイト中は偽名で呼び合うように気をつけているのだが、正直徹底できていない。しかしバイト仲間の服部さんには時々それを嫌味であげつらわれている。服部さんはクスリとも笑わないので、嫌味なのか怒っているのか分からないのでとても怖い。
『代わります』
保留音に変わった。ワルキューレの騎行にだ。いつもイントロで終わってしまいメインラインを聴けない。だいたい二十五秒くらいで勇壮なメインラインに入るはずなのだが、『あたしだ』、ほらね。
静々と始まったイントロが盛り上がってきたところで、保留が解ける。
104: 保育園・前編 ◆LaKVRye0d.:2017/2/8(水) 00:28:19 ID:fM0cWOmgPI
『首尾はどうだ』
「手に入れました。これから戻ります」
『ご苦労。ボールペンも忘れるなよ』
そう言われて手で探るが、メモ帳を置いてあるあたりにはない。誰かに盗っていかれたのかと思ったら、足元に落ちていた。
拾ってから「じゃあ、これで」と言って受話器を戻す。
扉を押すとベキリという折れるような音とともに、気圧の変化と外のごみごみとした騒々しさがやってくる。
その瞬間にあっけなく孤独は癒され、拍子抜けしたように僕は太陽の下に足を踏み出した。
◆
大学二回生の春だった。
僕は繁華街から少し外れた通りを足早に進み、立ち並ぶ雑居ビルの一つを選んで階段を上っていった。
そのビルの三階にはバイト先である小川調査事務所という興信所がある。ドアをノックして中に入るとカタカタという音が静かな室内に響いていた。
フロアには観葉植物の向こうにデスクがいくつか並んでいて、二人の人物の顔が見える。
「お疲れ」
バイト仲間であり、オカルト道の師匠であるところの加奈子さんがやる気なさそうにデスクに足を乗せたまま雑誌を開いている。
105: 保育園・前編 ◆LaKVRye0d.:2017/2/8(水) 00:30:00 ID:T1ubdC60Hs
「……」
もう一人、ワープロを叩いていた服部さんが僕の方に一瞬だけ視線を向け、そしてまた何の興味も失ったようにディスプレイに目を落とす。相変わらず冷たい目つきだ。
嫌な空気が漂っている。
同じアルバイトの身ではあるが、服部さんは所長である小川さんの本来の助手である。それに対して師匠と僕はイレギュラーな存在であり、ある特殊な依頼があった時だけ呼び出される。
この界隈の興信所業界では『オバケ』と陰口を叩かれている奇妙な、そして時に荒唐無稽な依頼、つまり心霊現象が関わるような事件の時にだ。
霊感などとは無縁の服部さんからすれば、師匠のやっていることなど胡散臭いだけで、口先で依頼者を騙して解決したように見せかけている姑息なやり口に見えることだろう。
元々無口な服部さんは実際のところ何を考えているのか分からないのだが、師匠と仲が良くないのは間違いない。
106: 保育園・前編 ◆LaKVRye0d.:2017/2/8(水) 00:32:14 ID:T1ubdC60Hs
「メモは?」
師匠は雑誌を置いて、催促するように右手を伸ばした。
僕はポケットからさっき電話ボックスから回収したばかりのメモ帳とボールペンを取り出してデスクの上に置いた。
「ほほう」
師匠は身を乗り出してデスクの上のメモ帳を捲り始めた。
どのページにもゴチャゴチャと線が走り、色々な落書きが残っている。
三角形がいくつも重なった図形もあれば、グルグルと丸を続けたもの、そして割と上手なドラえもんの顔やかわいいコックさんを失敗してグチャグチャに消してある絵……
他にも形をとどめない様々な落書きがあった。
感心したような溜め息をつきながらメモを眺める師匠に、ようやく声をかける。
「それがなんなんですか」
「うん」
生返事で顔を上げもしない。
僕が知っているのはただ、あの電話ボックスに一人で入っていると、目に見えない何かに肩を叩かれたり物凄い寒気に襲われたり、あるいは足を掴まれたりする、という噂だけだった。
そして師匠がこっそりとその電話ボックスにメモ帳とボールペンを持ち込み、まるで備え付けのものであるかのように偽装して放置してから三日目の今日、僕に回収に行かせたのだ。
回収したメモ帳は電話口で訊いた用件をメモしたのであろう、破りとられた頁もあったが、ほとんどが落書き帳と化していた。
107: 保育園・前編 ◆LaKVRye0d.:2017/2/8(水) 00:34:28 ID:fM0cWOmgPI
「無意識にだ」
師匠がメモから視線を切らずに口を開く。
「人間は電話中にペンを取る時、電話の内容や、そこから連想したもの、あるいは全く関係がないようなその時頭に浮かんだものを書きつける。たいていは意味のない落書きだ。後からそれを見ると、自分でも描いたかどうか覚えていないような模様が残っていたりする」
いきなり師匠がメモ帳開いて僕の前に突きつける。
「そんな無意識下におきた現象がこれだよ」
その妙な圧力のある言葉に息を呑む。
メモ帳にはキノコのようなものが小さく描かれ、それがゴチャゴチャした線で消されていた。
「これもだ」
何頁かメモを捲り、またぐいと開かれる。
オカッパのような髪型の誰かの顔が描かれているが、失敗したのか途中で線が途切れている。
「そしてこれ」
ドキリとした。
別の頁に、さっきとはまるで違う筆致で頭のようなものが描かれている。
オカッパ頭が。
顔は描かれていない。頭の外殻だけの絵。
「お……女の子」
「そうだ」
師匠はニヤリと笑う。
僕は思わずメモ帳を受け取り、さっきのキノコのようなものの絵を見る。髪だ。あらためて確認するとキノコではなく明らかに髪の毛として描かれていた。
ドキドキしながら頁を捲っていくと、他にもそのオカッパのような髪型がいくつか現れた。
偶然。
にしては多すぎる頻度だ。
電話ボックスに入った不特定多数の通行人が無意識に握ったペン。それが描くものがたまたま同じであるという蓋然性は?
そしてそれが偶然ではないのだとすると、そこに描かれたものは一体……
生唾を呑んで僕は師匠を見る。
しかし彼女はへら、と笑うとメモ帳を摘むようにして取り上げた。
「だいたい分かったし、もういいや」
そうしてメモ帳をデスクの引き出しに放り込み、また雑誌を手に取った。読みかけた場所から頁を追い始める。
さっきまで興奮気味だったのに、すっかり興味を失っているようだ。この熱しやすく冷めやすいところが師匠の特徴の一つだった。
そんなやりとりの間にも事務所の中には服部さんが叩くキーボードの音が静かに響いていて、僕はふいにここがどこであるのかを思い出す。
「何時からでしたっけ」
僕が言うと、師匠は雑誌から目を逸らさずに壁を指さした。そこにはホワイトボードが掛かっていて、『所長』と『中岡』の欄に『十三時半、依頼人』という文字がマジックで走り書きされている。
もう少しでその時間だ。
「あれ、そう言えば所長は?」
「あれだよ。下のボストンで待ち合わせ」
ああ、そうか。思い出した。今度の依頼人は若い女性で、こんな妖しげな雑居ビルにある興信所などという場所にいきなり足を踏み入れるのを躊躇したのだ。
気持ちは分かる。
それでまずビルの一階にある喫茶店『ボストン』で所長と待ち合わせをしていたのだった。そこで少しやりとりをして、多少なりと安心してもらってから事務所まで招き入れる、という算段だろう。
この零細興信所の所長である小川さんは、服の着こなしからして随分くだけた大人なのだが、人あたりは良く、初対面の依頼人の緊張をほぐすようなキャラクターをしていた。
108: 保育園・前編 ◆LaKVRye0d.:2017/2/8(水) 00:37:17 ID:T1ubdC60Hs
「あ、やべ。お茶切れてたんじゃないか」
師匠はふいに立ち上がって台所の方へ小走りに向かった。
そしてガタゴトという音。引き出しをかき回しているらしい。
傍若無人な振る舞いをしている師匠だったが、何故かこの事務所ではコーヒーやお茶などを出す係を当然のように引き受けている。
女だから、などという固定観念で動く人ではないはずなので、意外な一面というところだろうか。
台所をひっくり返すような騒々しさに苦笑していると、服部さんがキーを叩く手を止め、ぼそりと呟いた。
「彼女は、この仕事に向いてない」
服部さんから僕らに話しかけて来ること自体まれなので、この部屋に他に誰かいるのかと一瞬キョロキョロしそうになったが、どうやらやはり僕に聞えるように言ったらしい。
「探偵には」
そう補足してから、服部さんはまたキーを一定のリズムで叩き始める。
自分の師匠が馬鹿にされたというのに、僕は何故か腹が立たなかった。
ただ服部さんがどうして今さらそんなことを口にするのか、そのことを奇妙に思っただけだった。
「でも、服部さんだって一緒に仕事したことあるでしょう。僕はあの人、凄いと思いますけど」
一応反論してみる。
確かに師匠はオカルト絡みの依頼専門なので、どうしても本来の興信所の業務とは異なる手法を取ることが多いが、その端々で見せる発想や推理力の冴えは探偵としても凡庸ではないと十分に思わせるものだったはずだ。
そんな僕の説明を聞き流していたように見えた服部さんだったが、またピタリと手を止め、眼鏡の位置を直しながら淡々とした口調で言った。
「名探偵に向いている仕事なんて、何一つない」
「え」
それってどういう意味ですか、と訊こうとした時、「あったー」という声がしてふにゃふにゃになったインスタント緑茶の袋を手に、台所から師匠が顔を出した。
「間に合った? 間に合った? セーフ?」
師匠が入り口のドアを見てそう繰り返す。
階段を上ってくる足音が聞こえる。
師匠と、そしてそのオマケの僕が呼ばれた依頼。
つまり、不可解で、普通の人間には解決できない不気味な出来事が、これからドアを開けてやってくるのだ。
109: 保育園・前編 ◆LaKVRye0d.:2017/2/8(水) 00:43:34 ID:HMJYUJcabU
◆
次の日、つまり日曜日。師匠と僕は市内のとある保育園に来ていた。
子どもの声のしない休日の保育園はやけに静かで、こんなところに入っていいのだろうかと不安な気持ちになる。
二階建ての園舎の一階、その中ほどにある部屋で僕らは座っていた。
床は畳ではなくフローリングで、開け放した園庭側のガラス戸から暖かな風と光が入り込んできている。ガラス戸からはそのまま外へ出られるようになっていて、すぐ前には下駄箱がある。横長の園舎の一階の部屋は全部で五つ。門を潜るとすぐ左手側に園舎の玄関があり、そこをつきあたりまで進むと、右手に真っ直ぐに廊下が伸びていてそのさらに向かって右手側に事務室、四歳児室、五歳児室、倉庫、調理室、という順で部屋が並んでいる。
また玄関の奥には二階へ上がる階段があり、玄関の下駄箱はその二階へ上がる人たちのためのものだった。階段を上るとまた廊下が真っ直ぐ伸びていて、右手側に遊戯室、0歳児室、一歳児室、二歳児室と並んでいる。
保育園の敷地は四角形で、おおよそ園庭と園舎とで半々に区切られている。門の真正面はその園庭側で、わずかな遊具と砂場、そしてその奥には花壇と小さな農園がある。
園庭側の周囲は背の高いフェンスで覆われており、そのフェンスの内側は木が並べて植えられている。残りの半分の園舎側はフェンスが途中で材質変更されたような形でブロック塀に切り替わり、それがぐるりとちょうど農園の手前まで周囲を覆っている。門を通り抜けてすぐ左手に進むと、園舎の玄関とブロック塀の間に隙間があり、裏側へ進むことが出来るが、途中に物置があるくらいで園舎の真裏にはブロック塀との間にほとんどスペースがなく、調理室の裏手のあたりでフェンスに阻まれ行き止まりとなっている。そしてその向こうはプールだ。出入りは園舎の廊下側からしか出来ないようになっている。敷地で言うと調理室の隣ということになる。
以上がこの保育園の概要だ。
110: 保育園・前編 ◆LaKVRye0d.:2017/2/8(水) 00:45:32 ID:pIgPmzpxL2
師匠は到着して早々、一通りの案内を頼み、ようやくその構造が頭に入ったところで一階にある一室に腰を落ち着けたのだった。
「で、ここは五歳児室というわけですね」
師匠が周囲の壁を見回す。
「はい」
女性が頷いた。
小川調査事務所に依頼人としてやって来た人で、悦子さん、という三十歳くらいの保育士だ。
「私が担任をしています」
悦子さんはいつもはエプロン姿なのだろうが、今日は私服だ。本来は休みである日なので当然か。
僕と師匠の前には悦子さんの他に三人の女性が座っている。
順に紹介される。
「あと、麻美先生が隣の三・四歳児室の担任、それから洋子先生が二階の二歳児室、由衣先生がその隣の一歳児室の担任です」
それぞれが緊張気味に会釈する。
お互いが先生と呼び合うのか。そう言えば自分が昔保育園に通っていた時もそうだったことを思い出して懐かしくなる。
悦子先生は見るからにしっかり者、という感じで喋り方や動きがキビキビしていて、明らかに他の先生を引っ張っているリーダー役だった。
「で、これが問題の写真ですね」
師匠の言葉に、全員の視線が床に置かれた一枚の写真の上に注がれる。
それはこの園舎の二階の窓から園庭に向かってシャッターを切った写真であり、雨に濡れてぬかるんだ園庭の中ほどに奇妙な丸い模様が浮かび上がっている様が写し出されている。
その丸い模様は直径二メートルほど。すぐそのそばにエプロン姿の女性が一人写っていて、園舎側から足跡が伸びている。
写真を見ながら、四人の若い保育士が息を呑む気配があった。
師匠が顔を上げ、そんな様子を意にも介さない口調ではっきりと言う。
「では、詳細な説明を」
111: 保育園・前編 ◆LaKVRye0d.:2017/2/8(水) 00:47:28 ID:pIgPmzpxL2
◆
先週の金曜のことだった。
その日は朝から曇りがちで、天気予報でも降水確率は50%となっていた。
空が暗いと気分も暗くなる。悦子先生は園庭で遊ぶ子どもたちを見ながら、ここ最近続く気持ちの悪い出来事のことを考えていた。
一階や二階のトイレでなにか人ではないものの気配を感じることがたびたびあった。
他にも花壇やプール、時には室内でさえ何か人影のようなものを見ることもあった。
先輩から聞いた噂によると、この保育園の敷地は元々、罪人の首をさらす場所だったとか……
悦子先生だけではなく、他の先生や、子どもたちまでも何か幽霊じみたもののを見てしまう、ということがあった。少なくともそんな噂がまことしやかに囁かれている。
お祓いをしてもらった方がいいんじゃないか。
先生の間からそんな意見も出たが、園長先生はとりあってくれなかった。
馬鹿らしい。子どもに悪影響が出る。
そんな言葉で却下された。
『だいたいねえ、うちは公立なんだから、そんなお祓いなんていう宗教的なものに予算がつくはずないでしょう?』
そんなことを言われたので、悦子先生は市の保育担当職員にこっそりと訊いてみたが、やはりそういう支出はできないのだそうだ。
公立だろうが私立だろうが、出てくるお化けの方はそんなことを気にはしてくれないのに。
理不尽なものを感じたが、どうしようもなかった。
ああいやだ。
そんなことを考えながら一瞬ぼんやりしていると、パラパラと雨が降り始めたらしく、子どもたちがきゃあきゃあと騒ぎだした。
112: 保育園・前編 ◆LaKVRye0d.:2017/2/8(水) 00:50:25 ID:pIgPmzpxL2
すぐにみんなを室内に引き上げさせる。そうこうしていると、お昼を食べさせる時間がきた。
それぞれの教室で食事を取っていると、外はかなり雨脚が強くなり風も少し出てきたようだった。
食事の時間が終わり、昼寝の時間になったが、子どもたちはカーテンの隙間から外の様子を見たがってなかなか落ち着かなかった。
「はい、もう寝るの!」
カーテンをジャッ、と閉め、たしなめると子どもたちはようやく布団に入る。
それから悦子先生は事務室とトイレに一度だけ立ち、それ以外は自分の五歳児室で子どもの寝顔を見ながら連絡帳などをつけて過ごしていた。
叩きつけるような雨音を聴きながら。
一度だけ外が光ったかと思うと雷が鳴って、その時だけは子どもたちを起こさないようにそっとガラス戸のところまで行って、カーテンの隙間から外を覗いたが、特に変わったことはなかった。
随分近くで鳴ったような気がしたのだけれど。
それからしばらくして昼寝の時間が終わった。
ちょうどそれに合わせるように、雨が止んだようだった。子どもたちにおはようと言いながらカーテンをあけると、外はまだ曇っていたが、遠くの空から光が射している。
ふと、園庭の一箇所に目が留まった。
地面になにかある。
なんだろう、と思いながらガラス戸を開け、サンダルをつっかけて外に出る。雨は降っていない。
しかし強く降った雨で、地面はかなりぬかるんでいる。泥にサンダルを引っ張られながら、園庭の中ほどまで進むと、悦子先生は自分の目を擦った。
え?
思わず呆けたような顔をしてしまう。
あまりに似つかわしくないものがそこにあったからだ。
<魔方陣>
そうとでも呼ぶしかないような模様が泥の中に描かれている。円の中に三角形だか四角形だかが重なったような図形、そして円の外周にそってなにか文字のようなもの……
「 」
悲鳴を上げた、と思う。
園舎から、ガラス戸が開く音がして、他の先生たちも顔を出した。子どもたちまで出てこようとしているのを、みんな必死で止める。
状況を把握した園長先生が物置の方へ走ったかと思うと、地ならしをするトンボを持って来て、すぐにその魔方陣のようなものを消し始めた。
そしてみんな部屋に戻りなさい、と怒ったように叫ぶ。
悦子先生は呆然としながら、頭の中に繰り返される声のようなものを聞いていた。
『だから言ったのに。だから言ったのに』
それは自分の声だったと思う。
でも。いやに他人事のような声だった。
113: 保育園・前編 ◆LaKVRye0d.:2017/2/8(水) 00:54:23 ID:pIgPmzpxL2
◆
「で、今日がその出来事があってから、ひいふう…… 九日目か」
師匠が指を折る。
気持ちの悪い話を聞いたばかりなのに平然としている様子はさすがというべきか。
「この写真は誰が?」
問い掛けに、洋子先生と呼ばれた一番若い保育士がおずおずと手を挙げる。
「私です。悦子先生の悲鳴を聞いたあと、カーテンを開けると、その…… 魔方陣みたいなものが見えて、ちょうど私、次の遠足の写真の担当だったからカメラをいじってるところだったんで」
「思わず、シャッターを切った、と」
「はい」
「これ一枚だけですか」
「はい。園長先生がすぐにトンボで消してしまったので」
「消した後の園庭の写真は?」
「撮っていません」
「そうですか。分かりました」
師匠は写真を手にして、少し考えているような顔をする。
「この写真をとったのは、二歳児の部屋からですね?」
「はい、ちょうどこの部屋の真上です」
「なるほど、ではこの魔方陣は、この部屋の正面に近い位置にあったわけですね」
そう言って師匠は立ち上がり、ガラス戸の方へ向かう。
開け放してあった戸から外へ出て、すぐ外にあった小さな板敷きから自分の靴を選んで園庭へ出て行った。
僕らもそれについていく。
数メートル進んで、写真と周囲を見比べながら「このへんですね」と言う。
当然だが、地面はすっかり乾いていて、泥に描かれていたという魔方陣のらしきものの痕跡すらない。
「ふうん」
師匠は怪訝な表情で地面を触る。そして首を傾げた。
その場所からは、部屋の正面側のフェンスや左手側の花壇まで、まだ十メートルほどもある。
「あそこから撮ったんですね」
師匠が園舎の二階を指さす。
園庭から見て、一番右端の部屋だ。一階の倉庫と調理室にあたる部分には二階がないためだった。そしてその二階にはテラスがなく、師匠の指さす方向には窓と壁だけが見えている。
「念のための確認ですが、これが描かれているところを、誰も見てないんですね?」
「はい」
「雨の降っていた時間は?」
「十一時から昼の二時までです」悦子先生が答える。「それ以外の時間は曇ってはいましたが、雨は降っていません」
それを聞いて、師匠が意味深に頷く。
「なるほど、呼ばれた訳が分かりましたよ」
じゃあ、部屋に戻りましょうか。
師匠にそう促されて全員、五歳児室に戻る。
114: 保育園・前編 ◆LaKVRye0d.:2017/2/8(水) 00:56:59 ID:pIgPmzpxL2
また同じような配置で床に座ったとたん、師匠が口を開く。写真を手にしたままで。
「これを、どう思ったんです」
先生たちは顔を見合わせる。
「園長先生は、たちの悪いイタズラだと」
悦子先生がそう答えたのを師匠はニヤニヤしながら聞いている。
「何年か前にあった、机を9の字に並べるイタズラ事件のことを思い出しますね」
師匠の言葉に僕もその出来事のことを思い出した。
確か東京の中学校で、夜のうちに何者かが校内に侵入し、何百という大量の机を運び出して校庭に並べた、という事件だ。
校庭から見ると、ただむちゃくちゃに放置された机にしか見えなかったが、屋上から見るとそれがアラビア数字の「9」の形になっている、という奇怪な事件だった。
そのことが全国的に報道されると、視聴者たちは素人探偵となってその事件の犯人や「9」の意味、そして動機について様々な推理がなされることになった。
規模はまったく違うが、保育園の園庭に奇妙な図形が描かれるというのは、その時のことを彷彿とさせるものがあった。
「イタズラねぇ……」
師匠はまだ笑っている。「あなたたちは、そうは思わなかった訳ですね」
みんな神妙な顔をして頷いた。
「理由はだいたい分かりますよ。まず、第一にこの保育園で以前から心霊現象のようなものが続いていたこと。そして第二に、この写真の、これですね」
師匠は写真の中の一箇所を指さす。
そこには魔方陣のそばで立ち尽くす悦子先生が写っている。
いや、師匠の指はそこから少し外れた位置、その悦子先生の足跡らしき小さな点々が園舎の方から伸びてきている部分に掛かっている。
「サンダルの足跡。雨が上がったばかりでぬかるんでいたので地面についていて当然です。しかし…… 問題はそれが一人分しかないこと。魔方陣に最初に気づいて外に出た悦子先生のものだけ、つまり、イタズラでこの魔方陣を作ったはずの人物の足跡が残っていないこと、それが問題なんですね」
師匠の言葉に保育士たちの顔が強張る。
115: 保育園・前編 ◆LaKVRye0d.:2017/2/8(水) 01:00:56 ID:pIgPmzpxL2
「園長先生はこんなことがあった後も、お祓いなんかしないの一点張りで。だから私たち、有志でお金を出し合って依頼をしたんです」
最初は神主さんに頼もうとしたのだが、魔方陣、というところが引っかかっていた。専門外ではないかと思ったのだ。それはお寺であっても同じだ。かといって西洋式の、たとえばエクソシストのような人にはツテがないし……
そんなことで悩んでいると、悦子先生の伯母にあたる人が「いい人がいる」と小川調査事務所を紹介してくれたのだという。
「またあの婆さんか」
師匠が顔をしかめた。以前師匠が心霊がらみの依頼を解決してからというもの、そのお婆さんは師匠のことをいたく気に入り、それ以来ことあるごとに無償の広告塔となり、その人脈の限りを尽くして宣伝をしてくれているらしい。
こちらからすると仕事が増えていいことなのだが、噂というものはどんな膨らみ方をするのか分かったものじゃない。
まるでテレビでよくやっている、効果てきめんの除霊のような真似事を期待されると困るのだ。
しかし、今回の依頼人は回りくどい師匠のやり方にここまでは辛抱強く付き合ってくれている。
「じゃあ今日のことは園長先生には秘密なわけだ」
師匠が笑ってそう言う。
なるほど。だから日曜日なのか。こんな依頼のことがばれないよう、保育園が空っぽになる休日にこっそり集まっている、というわけだ。
「ところで、さっき言った足跡って、どういうことです」
僕がそう言うと、師匠はふんと鼻で笑って、説明を始めた。
「この写真には悦子先生が魔方陣に近寄って行った時の足跡しか写っていない。確かに二階から撮影したものだから、見えにくいだけで実際は他の足跡はあったかも知れない。でもそうではないんでしょう?」
師匠が訊くと、悦子先生は頷く。
「私が外に出た時、他の足跡はありませんでした。後から思い出して、そうだったかも、というんじゃありません。私、その場にいる時から他の足跡がなかったことを変だと思ってましたから」
そう強く断言する。
116: 保育園・前編 ◆LaKVRye0d.:2017/2/8(水) 01:02:39 ID:HMJYUJcabU
「そして雨は十一時から降り始めて十四時で止んでいる。どの時点で地面に魔方陣が描かれたのかは、はっきり分からないけど、少なくとも雨が強く降っている時ではないないはずだ。だとしたら、こんなにくっきりと形が残っているはずがないから。では雨が止んだ後に描いたのか? それもおかしい。ぬかるんだ地面に、それを描いた人の足跡が残っていないんだから」
師匠の言葉の揚げ足をとるような形で僕は口を挟む。
「じゃあ雨が降っている間にそこまで歩いて行って、止んでから描いたとか」
「行きの足跡は消えたとしても、帰りの足跡は?」
そうか。
立ち去った時の足跡もないのなら、その後で雨によって消されたということになる。しかし魔方陣は消えていない。
「やっぱりおかしいですね」
雨が止んだ後で魔方陣を描いたのなら、そのイタズラをした誰かはどうやって足跡を残さずにその場を去ったというのか。
写真を見る限り、魔方陣は園庭の中ほどにあり、園舎からもフェンスからも花壇からも、そして門からもかなり離れている。一番近いフェンス側でも恐らく十メートルはある。とても一飛びに飛べるような距離ではない。
「竹馬で行ったとか」
僕の意見に呆れた顔をした師匠だが、一応確認する。
「竹馬はありますか」
「うちにはありません」
「まあ、かりにあったとしても、そんなことまでして足跡を残したくない理由はないでしょう。仮にまだ雨が降っていて、園児の昼寝の時間中だったとしても、先生の誰かがカーテンの外を覗けば間違いなく見つかってしまうこんな遮蔽物もない場所で、そんなイタズラを敢行しようというんですから。描いているところを見られてもかまわない、と思っている人ならそこまでして足跡だけを残したくない理由はないでしょう。逆に出来れば見られたくないと思っている人なら、これはスピード勝負です。そんな目立つ竹馬なんかに乗ってえっちらおっちら行くなんて考えられません」
「じゃあ、トンボみたいなもので自分の足跡を消しながら立ち去った、とか」
「む、なるほど」
僕の言葉に師匠は思案げな顔をして頷く。
すると悦子先生から反論が出た。
「だとしたら地面にナメクジが這いずったみたいな跡が残るんじゃないですか。そんなものありませんでした」
「ふうん。ではとりあえず足跡の問題は置いておくとして、もう少し確認したいことがあります」
師匠はそう言った後、ゆっくりと口を開いた。
117: 保育園・中編 ◆LaKVRye0d.:2017/2/8(水) 01:06:01 ID:pIgPmzpxL2
『保育園』 中編
「方法はともかく、誰がやったかということです。この中に犯人を知っている、という人は?」
反応がない。あたりまえか。
「では、まず考えるべきは部外者でしょう。この保育園の敷地の出入り口は、あっちの正門だけですね」
角度的に今いる場所からは見えないが、師匠は右手方向を指さす。
「そうです」
「普段は開けておくのですか」
「送迎の時間帯以外はほとんど開けません。それ以外の時間だと、出入りの業者さんが来た時とか……」
「その雨が降っていた時間帯も閉めていたと」
「はい」
「でも外からも開けられるんでしょう」
さっき来る時に、門の構造を見てきたのだ。
二メートル少々の長さの、下部についた滑車でスライドさせるレール式門扉であり、重そうではあったが、つっかえ棒になるバーをずらしただけで鍵をかける単純な仕組みになっていた。
外からでも手を伸ばしてさし入れれば、バーは操作できる。
「でも、門を動かせば凄い音がします」
かなり錆びてますから。
麻美先生と呼ばれた保育士が口を開いた。確か三・四歳児の担任の先生だ。
女性にしてはガッチリした体格で、袖から覗く腕などかなり太い。このメンバーではリーダー格の悦子先生に告ぐ二番手といったところか。
後の二人は年も若く、大人しそうにしていてまったく口を挟んで来ない。
「その音が聞えなかった、ということですね。雨が降っていて、戸を閉め切っていても聞えないものでしょうか」
「じゃあ試しに……」
麻美先生が立ち上がるとガラス戸から外へ出て行った。
僕らも戸口まで行って門の方を覗き込むと、麻美先生がふんと力を入れた瞬間に、門は物凄い音を立てながら横に滑り始めた。
僕は思わず耳を塞いだ。あまり好きな音ではない。
しかしなるほど、これなら雨が降っていて、かつ戸を閉めていたところでまず間違いなく聞こえるだろう。
118: 保育園・中編 ◆LaKVRye0d.:2017/2/8(水) 01:08:28 ID:HMJYUJcabU
「ありがとうございます。良く分かりました」
麻美先生が戻って来てから師匠は口を開く。
「でも門はそれほど高くありません。乗り越えようと思えば乗り越えられない高さではないはずです。それに園庭側の敷地の周囲のフェンスもいわゆる金網ですから、よじ登っていけば越えられるはずです。園舎側のブロック塀は足場のない外からだと厳しいかも知れませんが」
「それはそうですけど」
悦子先生が不満そうに言う。
「まあ、それだけ目立つリスクを負った外からの侵入者が犯人だとしても、やはり足跡の問題は残ります。門からもフェンスからも魔方陣は遠すぎますから」
師匠は部外者説を簡単に切り上げ、次の説に移した。
「では、次に園の先生の誰かが犯人である可能性は?」
おいおい、まだやるのか、と僕は思った。
悦子先生たちは心霊現象の専門家としての師匠の噂を聞いて解決のために依頼して来たのに、当の師匠はまるでこの事件がただのイタズラであるかのように聞き込みを続けている。
先生たちも鼻白んだ様子を隠さなかった。
「そんなことをするような人はいません」
悦子先生が代表してそう宣言した。
師匠は少し下手に出るようにおどけた仕草を見せて、
「もちろんそうでしょう、そうでしょうけど、これも必要な確認ですから」と話を続けた。
「その時いた職員では、今ここにいらっしゃる四人の他にどういった方が?」
不承不承、といったていで悦子先生が答える。
「まず園長先生です」
「ああ、そうでしたね。それで他には」
「主任保育士の美佐江先生。0歳児の担任が三人いて、時子先生と美恵子先生と理香先生。あと調理員の本城さんと青木さん。これで全員です」
「その調理員のお二人も女性ですか」
「そうです」
その日の職員全員が女性だったというわけか。保育園では珍しくないのかも知れないが。しかしメモしないと覚えきれないぞこれは。
僕が手帳に名前を書き付けている間に「臨時職員とかは?」と続けて師匠が問い掛ける。
これには麻美先生が答えた。「忙しくなる送迎の時間にだけ来てくれるパートの方はいますが、そのことがあった時間帯にはいませんでした」
「なるほど。では全部で、十一人と。『11人いる!』なんて漫画がありましたね」
師匠の軽口にどの先生も一瞬反応を見せた。
ちょうど世代ということか。かくいう僕も男だてらに読んだ口だが。
119: 保育園・中編 ◆LaKVRye0d.:2017/2/8(水) 01:11:16 ID:HMJYUJcabU
「まあそれはいいとして、問題の時間帯にそれぞれの方がどんなことをしていたか、分かる範囲で教えてもらっていいですか」
それから四人の保育士の話を聞いたところをまとめると、おおむねこういうことになるようだ。
十一時ごろ雨が降り出して、園庭で遊んでいた園児たちは全員室内に戻される。
それから昼の食事。保育士も一緒に食べるのだが、食育、といって園児の食事時間中も仕事のうちだ。
食事が終わると、絵本の読み聞かせをし、その後は園児たちを着替えさせて昼寝をさせる。この時点で十二時過ぎ。
園庭に出ていない二階の0歳児から二歳児の部屋でも十一時の昼食の後は、昼寝の時間だ。
先生たちは寝ている子どもたちの様子を見ながら、それぞれ部屋の中の自分の机で主に連絡帳をつけて過ごしている。
昼寝の時間中、十二時四十五分に簡単な打ち合わせのため、一度先生たちは事務室に集まっている。その際、0歳児の部屋からは代表で時子先生だけが参加している。
それ以外の時間は各先生ともトイレに立つぐらいで特に部屋の外に出ることもなかった。
園長と主任保育士は各部屋の食事や昼寝前の着替えなどを手伝い、別同部隊として自由に移動している。
昼寝の時間になると二人とも事務室にこもり、様々な雑事をして過ごしている。
なお、この二人の動きについては推測となるが、魔方陣発見後の証言から、少なくとも外へは出ていないようだ。
残る調理員二人については、園児の食事終了後、食器洗いなどの片付けのために調理室にずっといたらしい。このあたりの行動は日々のルーチンであって、ほぼ間違いのないところだそうだ。
「なるほど。だいたい分かりました」
師匠はそう言うと、僕も疑問に思っていたことを続けて口にした。
「先生の休憩時間はないんですか」
その言葉に悦子先生が反応する。
「ないんですよ! おかしいでしょう。昼食の時間だって食育だし、昼寝中もずっと子どもたちを見てないといけないし。連絡帳だってちゃんと書かないといけないのに、その昼寝の時間くらいしかないんですよ、書く時間。いつ休憩とったらいいんですか、私たちは」
日ごろからの不満が堰を切って出てくるのに、師匠は渋い顔をした。
「保育園によってはねぇ」と麻美先生が口を挟む。「園長先生とか主任とかフリーの先生が交代で子どもを見てくれて、順番に休憩取ってるとこもあるんだけど」
うちはねえ……
そんな溜め息をつきながら四人の保育士たちは顔を見合わせる。どうやら園長を中心とした今の体制に大いに不満を持っているようだ。
120: 保育園・中編 ◆LaKVRye0d.:2017/2/8(水) 01:13:45 ID:pIgPmzpxL2
それとなく師匠が話を振ると、今日来ていない0歳児の担任の三人と主任保育士は完全な園長派らしいことが分かった。
女性ばかりの職場だ。そういう人間関係のややこしさもあるのだろう。
まだまだ出てきそうな不満に、師匠は「まあまあ、とりあえずは分かりました」と話を一度切る。
「とにかく、雨が降っている間は誰も外に出ていないと、そういうことですね」
先生たちが頷くのを見回してから、師匠は続けた。
「では園児たちはどうでしょう」
これにもすぐに反論がある。
「出ていません。食事の時間も昼寝の時間もずっと私たちが部屋で見てたんですから」
「でも昼寝の時間には一度事務室に集まっているし、トイレに立った時間もあります」
「外は大雨ですよ。音も凄いです。カーテンを閉めてやっと寝かしつけたのに、子どもの誰かがガラス戸をあけて外へ出ようとしたら、他の子も起き出します。絶対に。打ち合わせは十分もかかってないです。その起きてしまった子どもたちが、私が戻ってきた時に一人残らず布団で大人しく寝てる、なんてありえません」
悦子先生の言葉に他の先生も頷いている。
「しかし出入り口はガラス戸だけじゃないでしょう。こっちの廊下側の戸から出て、玄関に向かえば、他の子を起こさずに外へ出られる」
この師匠の意見も鼻で笑われた。
「事務室の戸は開けっ放しです。しかも園長先生の机がすぐ横にあるから、子どもが廊下を通り過ぎようとしたら絶対に気づきます。昼寝の時間に外へ出ようとしたら、凄く怒られるので、子どもたちはみんな園長先生を怖がってます」
「分かりました。念のために訊きますが、その日、園長先生は誰も外へ出てないと言ってるんですね」
「はい」
なるほど。先生たちの間でも子どものイタズラの可能性は一応検討されたのか。しかしそれも園長の証言で否定された。
121: 保育園・中編 ◆LaKVRye0d.:2017/2/8(水) 01:15:54 ID:HMJYUJcabU
「一階の子どもたちはそれでいいでしょう。でも二階の子どもたちはどうです。この園舎の構造上、二階の階段から降りてくれば、事務室の前を通らずにそのまま玄関から外へ出られるのではないですか」
「二階の子は、一番上でも二歳児ですよ。その日の午前中も外ヘは出していません。一人で出て行くなんて…… 第一、外へ出ても二歳児にあんなもの描けるもんですか」
悦子先生の言葉に、僕もハッとした。
そうだ。魔方陣なのだ。
二歳児が五歳児だろうと、そもそもそんなものを子どもが描けるものだろうか。
思わずもう一度くだんの写真を覗き込む。
園庭に描かれた円の中には幾何学的な模様が浮かび上がっている。適当にイタズラで描いたものとは思えない。そこにはなんらかの意図が感じられる。
あらためて気持ちが悪くなってきた。
「これ、どうやって描いたんだろうな」
ふと思いついたように横から師匠がそう言う。
「木切れとかでガリガリやったんですかね」
「そんなもの落ちてるか、保育園に」
しかし手で描いたとも思えない。
「傘、じゃないでしょうか」
おずおずと、当の写真を撮った二歳児の担任の洋子先生が言う。
「その日は雨が降るかも知れないっていう予報だったから、みんな傘を持って来ていました。下駄箱のところの傘立てに一杯置いてありましたから」
なるほど。傘の先で地面をガリガリとやったわけか。
「傘立ては玄関のところと?」
「一階の部屋の外の下駄箱にもあります。一階の子はそこから出入りするので」
「傘か……」
師匠はそう呟いて立ち上がり、開け放しているガラス戸のそばに立って外を見つめる。
そしてくるりと振り返ると、「カーテンはすべて閉めていたんですよね」と訊いた。
外は大雨だったのだ。一階の部屋だけではなく、二階の部屋も、そして事務室や調理室もすべてカーテンが閉まっていたと、先生たちは証言した。
122: 保育園・中編 ◆LaKVRye0d.:2017/2/8(水) 01:17:54 ID:HMJYUJcabU
「子どもたちの傘はカラフルです。誰かがその傘を手にして地面に魔方陣を描こうとしたら、カーテンの隙間から見えてしまったりはしないですか。いや、もし魔方陣が描かれたのが雨が降っている間だったとしたら、その誰かは地面に描く道具としての傘だけではなく、自分がさすための傘も一緒に手にしたのではないでしょうか。だとすれば目立ちますね。ほんの少しでもカーテンの隙間があれば……」
先生たちの間に動揺が走った。
師匠はそれを見逃さない。
「なにかありましたね」
促されて悦子先生が口を開く。
「私が担任をしているアキラくんが……」
青いものを見た。
そう言っているらしい。
昼寝の時間に、ふと目が覚めたとき、ガラス戸のカーテンの隙間から青い色のなにかを見たのだと。雨の中に。
気にせずまた寝てしまったが、絶対に見たんだと言い張っている。
他の子は誰もそんなことを言っていない。五歳児のアキラくんだけの証言だ。
「青いもの、ですか。この部屋からですよね」
師匠は外を見つめる視線を険しくする。
園庭の向こうにはフェンス沿いに木が並んでいる。まさかその枝葉のことではあるまい。
「青い傘を持って来ている子は?」
という師匠の問いに、「いっぱいいると思います」という答えがあった。先生の中にも青い傘を持って来ている人は何人かいて、その日、玄関の下駄箱にも確実に青い傘はあったのだそうだ。
123: 保育園・中編 ◆LaKVRye0d.:2017/2/8(水) 01:19:38 ID:pIgPmzpxL2
「まあ、魔方陣と関係があると決まったわけでもありませんが」
師匠はそう言ったが、あきらかになにか疑っている顔だ。
「その日、十一時から二時までの間しか雨は降っていません。降り出してからはすぐにみんな園舎に入り、その後誰も雨が上がるまで外に出ていません。確実に言えることは、雨が上がって騒動が持ち上がった時、濡れた傘が一本、もしくは二本傘立てにあったとしたら、その傘を置いたのは雨が降っている間に外に出て魔方陣を描いた人物の可能性が高い、ということです」
師匠の言葉に僕は感心した。
そうか。その日、誰も傘は使っていないはずだ。使ったとすれば、こっそり外へ出る必要があった人物だけ。
濡れた傘が傘立てにあったとしたら、それはすなわち魔方陣を描いた犯人のものに違いないのだ。
そこまで考えて僕は、いや違う、と思った。犯人が自分の傘を使ったとは限らない。まして外部からの侵入者だとすれば当然だ。
しかも、保育士たちは揃って首を横に振った。誰も下駄箱の濡れた傘など確認していないのだ。
その騒動の中、そこまで知恵が回らなくても仕方がないと言えた。もはや唯一と言っていい物証も断たれたようだ。
しばし沈黙が降りた。
「あの…… そう言えば私、一度外を覗いたんですが、その時見たものがあるんです」
悦子先生が思い出したようにそう言った。
外が光って雷が鳴った時だ。ガラス戸のところまで歩いて、カーテンの隙間から外を覗いたら、緑色のタオルのようなものがフェンス際の木の枝に引っかかっているのが見えたのだと言う。
雨だけではなく、風も吹いていたのでどこかから飛ばされて来たのだろう。
124: 保育園・中編 ◆LaKVRye0d.:2017/2/8(水) 01:21:19 ID:pIgPmzpxL2
「青ではなく、緑だったんですね」
「はい」
なら無関係か。いや、元の青いものからして魔方陣と関係があるのかよく分からない。
「そう言えば私もそれ、見ました」
それまでずっと黙っていた由衣先生が口を開いた。一歳児の担任の先生だ。四人保育士の中で一番気が弱そうで、心なしか顔色も悪い。
「雷が鳴って驚いて振り向いたら、あの辺の木の枝にタオルが引っかかってるのが見えました」
外に向かって指をさした後、「緑色、だったと思います」と、そう付け加えた。
他の先生にも訊いたが、三・四歳児の担任の麻美先生は雷が鳴った時、カーテンの方は見たが、外は覗かなかったと言い、二歳児の担任の洋子先生は机でうとうとしていたのか、雷には気がつかなかった、と言った。
「魔方陣が見つかって騒ぎになった時には、その緑のタオルはありましたか」
先生たちは顔を見合わせる。
やがて悦子先生が口を開く。
「それどころじゃなかったから、はっきり覚えていませんが、あったと思います」
同じ木の枝に引っかかっていたはずだ、と付け加える。
「誰か拾った?」
などと先生たちは話し合い、結局誰もその後のことは分からず、また風でどこかへ飛ばされたのかも知れない、ということに落ち着いた。
「これにも写ってないかな」
師匠はそう言って、写真をまじまじと見つめる。
僕や他の先生たちも顔を寄せ合って魔方陣発見直後の写真を覗き込むが、フェンス際の木にはそれらしいものが見当たらない。
「ああ、でも幹に近い枝のあたりだったから……」
悦子先生が言った。
なるほど、二階から撮ったこの写真では角度的に生い茂る葉で隠れてしまって見えないのかも知れない。
125: 保育園・中編 ◆LaKVRye0d.:2017/2/8(水) 01:23:30 ID:HMJYUJcabU
結局なにも分からない。
僕は溜め息をついた。
「緑ねえ」
その時ふと思いついた。
その青いものを見た、というアキラくんがおじいちゃん子、おばあちゃん子ならもしかすると緑色をしたものを「アオ」と言ってしまうかも知れない。
お年寄りの中には「緑」のことを「アオ」という人もいるのだ。それを聞き慣れていた子どもならひょっとして……
だがそこまで考えて、はた、と思考が止まる。
だからなに、という感じだ。一応口にしてみたが、やはり師匠はそんな反応だった。
アキラくんが見たものが実際は緑のタオルだったとしても、誰かが傘を持って外にいたことを否定するものではない。もちろん傘を持って外に出ていた人はいなかったかも知れないし、いたとしてもその誰かが魔方陣を描くには足跡の問題が残ったままだ。
また沈黙がやってきた。
チチチ。
と、ガラス戸の外を小鳥が鳴きながら飛び去っていく。
嫌な静けさだ。
それから師匠が念のため、と言い置いて一階の廊下側から外へ出るもう一つの出入り口のことを確認する。
事務室の前を通らず、反対側へ進むと裏口の扉があり、その外はプールにつながっている。しかし普段は子どもたちが勝手にプールの敷地へ入らないように内側から鍵が掛けられており、その日も間違いなく施錠されていたという。そして開錠するための鍵は事務室にあり、園長が管理している。誰も持ち出せない。
また、五歳児の部屋と調理室との間にある倉庫も施錠されており、また仮に中に入れても窓すらなく、外へは出られない。
いよいよ手詰まりになってきた。
会話がなくなり、みんな考え込んだ表情で俯いている。
126: 保育園・中編 ◆LaKVRye0d.:2017/2/8(水) 01:26:06 ID:HMJYUJcabU
僕は師匠をつついて、ちょっと、と窓際へ誘った。
「どうするんです」
小声で訊くと、「なにが」と返される。
ここまでなにやら推理めいたことをしているが、結局なにも分かっていない。
オバケ事案を解決するための霊能力を期待されてやってきたはずなのに、これではどうやって決着をつけるつもりなのか。
そんなことをささやくと、ふん、と笑われた。
「いないものはしょうがないだろう」
「いないって、なにがですか」
「あれがだよ」
うすうす僕も感じていたが、あらためてそう言われると、やっぱり、という気になる。
ようするにこの保育園にオバケの気配を感じないのだ。
この魔方陣騒動の前からたびたびあったという怪談めいた話など、やはりただの噂だったのだろうか。
師匠は少し唸って、こう言った。
「ちょっと違うかな。なんかこう、残滓、残りカスみたいなものは感じるんだけど、もういなくなった、ってとこだな。まあ多少の悪さをする霊がいたとしても、もう消えちまったってんじゃ、どうせたいしたことないやつだっただろうし、今さらどうしようもないわな」
「魔方陣はそいつが?」
「さあなあ。もう分からん。人間がやった可能性の方が高いと思うけど」
師匠は溜め息をついた。
この場をどうやって収めるのか、なんだか心配になってきた。
127: 保育園・中編 ◆LaKVRye0d.:2017/2/8(水) 01:27:37 ID:pIgPmzpxL2
これだけ依頼人たちに時間を取らせて、結局なにも分かりませんでした、というのでは気まずい。気まずすぎる。
今も背中に無言のプレッシャーを感じる。
「とりあえず、もう悪霊の類はいなくなっていますから、これからは大丈夫です、とでも言いますか」
口先だけではまずそうなので、なにか小芝居の一つでもいるかも知れない。
しかし師匠は頭を掻きながら、「でもなにか引っかかるんだよな」とぶつぶつ言う。
そうしてしばらく考え込んでいたかと思うと、「んん?」と唸って外に飛び出した。
園庭の中ほどで立ち止まり、周囲を見回す。そして正面のフェンス際の木と、園舎とを交互に指さしてしきりに頷いている。
「ああ、そうか」
少し遅れて駆け寄った僕の耳にそんな言葉が入ってきた。
「おい、タオルを借りて来い」
師匠から僕に指示が飛ぶ。
「緑色のですか、青色のですか」
そう確認すると、「何色でもいい」という答え。その瞬間、僕は師匠がなにか掴んだということを感じた。
僕はすぐさま五歳児室に戻り、先生たちにタオルを貸して欲しいと頼む。
「これでいいですか」
悦子先生から渡された白いタオルを手に園庭へとって返すと、そのまま「あの木の枝に引っかけてこい」と言われる。
ちょうど五歳児室の正面の木だ。
僕は木の下に立つと、登れそうにないことを見て取り、タオルを丸めて幹に近い枝をめがけて投げつけた。
最初はそのまま落ちて来たが、何度か繰り返すと上手い具合に引っかかってくれた。
「これでいいですか」
と振り返ると、師匠が親指で園舎をさしながら頷いている。
128: 保育園・中編 ◆LaKVRye0d.:2017/2/8(水) 01:29:19 ID:HMJYUJcabU
二人して五歳児室に戻り、四人の保育士たちが見守る中でフローリングの床に腰を下ろした。
「さて」
視線を集めながら師匠が落ち着き払った態度でそう切り出す。
「雷が鳴った時に見たという、緑のタオルのことですが、あんな感じで木の枝に引っかかってたんですね」
保育士たちは、いったい何を言い出すのだろう、という怪訝な表情で見つめている。
「悦子先生、そうですね」
念押しをされてようやく悦子先生は頷いた。
「由衣先生、そうですね」
由衣先生も恐々、という様子で神妙に頷く。
「麻美先生、そうですね」
話を振られた麻美先生は、驚いたように「私は見ていません」と言った。
「洋子先生、そうですね」
洋子先生も、「私も見ていませんから」と返事をする。
全員の答えを聞き終えてから、師匠はもう一度その中の一人に向かってこう言った。
「由衣先生、あなたが犯人ですね」
ええ?
どよめきが走った。
僕にしてもそうだ。
「ち、違います」
怯えた表情で由衣先生が否定する。
「では少し思い出しましょうか。事件当日のことではありません。つい先ほどの証言です。悦子先生が『外が光って雷が鳴って、ガラス戸のところまで歩いて、カーテンの隙間から外を覗いたら、緑色のタオルみたいなものがフェンス際の木の枝に引っかかっているのが見えた』と言ったあと、由衣先生はこう言いました。『雷が鳴って驚いて振り向いたら、あの辺の木の枝にタオルが引っかかってるのが見えた』と」
師匠の言葉に誰も怪訝な表情を崩さない。
一体なにを言いたいのか、さっぱり分からないのだ。
129: 保育園・中編 ◆LaKVRye0d.:2017/2/8(水) 01:31:33 ID:HMJYUJcabU
「この二人の証言には決定的な違いがあります。雷が鳴った後の行動です。悦子先生は、ガラス戸のところまで歩いて、カーテンの隙間から外を覗いたら、タオルが見えました。しかし由衣先生は、驚いて、振り向いたらタオルが見えています。分かりますか。カーテンの隙間から覗いていないんですよ。さらに言えばガラス戸に近づいてもいない」
師匠は自信満々という表情でそんなことを言う。
「いいですか。雨が降っている間、園舎のすべてのガラス戸や窓にはカーテンが掛けられていました。このことはこれまでの証言から確かなはずです。カーテンを開けず、また隙間から覗き込みもしないで、園庭のあの木の枝にかかったタオルを見ることはできないはずなんです。もちろん……」
はじめから外にいた人を除いて。
師匠の目が細められる。芝居掛かっているが、ゾクリとするような色気があった。
しかし……
「そんなの、ただの言葉の綾じゃないですか」
由衣先生ではなく、悦子先生が気色ばんでそう抗弁する。疑われた本人の方は真っ青になって小刻みに震えている。
「いいえ。彼女はカーテンから外を覗いていない。雷に驚いて振り向いたとき、そのまま木の枝のタオルが見えたんです。証言の通りのことが起きたのです。それを今から証明して見せます」
そう言って師匠が立ち上がった。
130: 保育園・後編 ◆LaKVRye0d.:2017/2/8(水) 01:33:23 ID:pIgPmzpxL2
『保育園』 後編
キッ、となって悦子先生も立ち上がる。麻美先生も肩を怒らせながら立ち上がった。
それに遅れて洋子先生と由衣先生もおずおずと腰を浮かせる。
外へ出るのだと早合点した悦子先生がガラス戸の方へ向かいかけるのを、師匠が止める。
「こっちです」
そうして廊下へ出た師匠は玄関の方へ進んでいった。
三・四歳児の部屋の前を通り、事務室の前を通り抜け、玄関の奥にある階段の前で立ち止まった。
「上ります」
そう言ってから階段に足を踏み出す。僕らもそれに続いて階段を上っていく。
二階の廊下にたどり着くと、右手側に戸が四つ並んでいる。
遊戯室、0歳児室、一歳児室、二歳児室。
師匠は三番目の一歳児室の戸を開けた。由衣先生が担任をしている部屋だ。
一階と同じようにフローリングの床が広がっている。五歳児室よりも少し狭いようだ。位置で言うと、一階の三・四歳児室の真上ということになる。
休園日のためか、窓のカーテンが閉められていて少し薄暗い。
全員が部屋に入ったことを確認してから師匠がその窓際に近づいていく。
「仮に、です。雷が鳴った瞬間、たまたま窓際にいたとしましょう。それも窓に背を向けて。そして外が光る。雷が鳴る。驚いた由衣先生は振り向く」
師匠はそう喋りながら振り向いて、窓のカーテンに手を突く。
「おっと、まだ外は見えませんね」
嫌らしくそう言ってから、カーテンの裾をつかんで開け放つ。ジャッ、というレールを走る音がして、外の光が飛び込んでくる。
「さあ、カーテンは開きましたよ! タオルはどこに見えます?」
師匠は声を張った。
僕らは思わず窓際に近寄って、同じように外を見下ろす。
なんの変哲もない園庭の光景が眼下に広がっている。
131: 保育園・後編 ◆LaKVRye0d.:2017/2/8(水) 01:35:07 ID:pIgPmzpxL2
タオルは五歳児室の正面の木に引っかけたはずなので、隣の三・四歳児室の真上に位置するこの部屋からは少し左斜め前方に見えるはずだ。
みんなそちらの方向を見つめる。
しかし白いタオルは見えなかった。
先生の誰かが言った。
「ここからじゃ、角度が」
そしてハッと息を飲む。
師匠が写真を掲げて見せる。
魔方陣が写った園庭の写真だ。
「二階の部屋、正確には隣の二歳児室から撮影されたこの写真は、フェンス際の木まで写ってはいますが、葉が茂っているせいで、幹に近い枝にかかったタオルは見えません。悦子先生の証言では、魔方陣が見つかった時にもタオルはあったということでしたね。ちょうどこの写真が撮られた時です。なのに、写真には写っていない。葉が邪魔して見えないんですよ。二階の窓から構えたカメラからは」
師匠は両手の親指と人差し指でファインダーを作り、ニヤリと笑った。
「つまり、二階の窓からの視線ではね」
こんな風に。
そう言って、僕がさっき白いタオルをかけたはずの木に向かって「カシャッ」と口でシャッターを切った。
みんな驚いた顔で師匠を見ている。そしてその視線がやがて由衣先生に集まる。
「私じゃない!」
由衣先生はそう言ってその場にへたり込んだ。顔を覆ってわなわなと震えている。
「外には出ました。でも私じゃない」
そう呻いて、啜り泣きを始めた。
他の先生が「落ち着いて、ね?」と言いながら背中をさすっている。
師匠はその様子を冷淡に見下ろしている。
しばらくそうして啜り泣いていたが、ようやくぽつぽつと語り始めた。自分の口から、あの日あったことを。
132: 保育園・後編 ◆LaKVRye0d.:2017/2/8(水) 01:38:38 ID:HMJYUJcabU
◆
きっかけはその事件の数日前だった。
園児たちがみんな帰宅し、他の先生たちも順次帰っていった後、由衣先生は一人で園に残って、書きかけの書類を仕上げていた。
七時を過ぎ、その残業にもようやく目処がついたころ、ふいに来客があった。
スーツを着て、立派な身なりをしていたので、保護者が忘れ物でも取りに来たのかも知れないと思い、門のところまで出て行くと、その男性は頭を下げながら『沼田ちかの父です』と言うのだ。
沼田ちか。
その時初めて不審な思いが湧いた。
とっさにそんな子はうちにはいませんが、と口にしそうになった瞬間、その名前とそれにまつわる事件のことを思い出した。
数年前、この保育園に通っていた沼田ちかちゃんという女の子がいたことを。
片親だったその子は他の子と家庭環境が違うことを敏感に感じ取り、園でもあまりなじめなかったそうだ。
そして五歳児、つまり年長組になったころから、ようやく友だちの輪にも入れるようになり、毎日だんだんと笑顔が増えていった。
そんなおり、ある週末にお祖母ちゃんにつれられて、買い物に行こうとしていた時、歩道に乗り上げてきたダンプカーに二人とも跳ねられてしまった。居眠り運転だった。お祖母ちゃんの方は助かったが、ちかちゃんは内臓を深く傷つけていて、治療の甲斐なく亡くなってしまった。
当時担任だったという先輩の保育士からそのことを聞いて、とても胸が痛んだことを覚えている。
由衣先生は緊張して、『ちかちゃんのお父さんですか』と言った。
男性は静かに目礼して、懐からぬいぐるみを取り出した。
小さなクマのぬぐるみだった。
『ちかの好きだったぬいぐるみです』
これを、園庭に埋めてもらえないだろうか。
男性は深く頭を下げてそう頼むのだった。
133: 保育園・後編 ◆LaKVRye0d.:2017/2/8(水) 01:40:02 ID:HMJYUJcabU
『私は明日この街を去ります。せめてちかが、この街で生きていた証に』
由衣先生は最初断った。
しかし、繰り返される男性の懇願についに折れてしまった。
『ありがとう。ありがとう。きっとちかもお友だちと遊べて幸せでしょう』
涙を拭う男性の姿に、思わずもらい泣きをしてしまいそうになったが、男性が去ったあと、託されたぬいぐるみを手にして由衣先生は少し薄気味が悪くなった。
最後の言葉。まるであのお父さんは、このぬいぐるみがちかちゃん自身であるかのように話していた気がする。
どうしよう。
捨ててしまおうか。
そう思わないでもなかった。
しかし結局、由衣先生は、男性の想いのとおりそのクマのぬいぐるみを園庭に埋めてあげることにした。
捨ててしまうことで、お父さんの、あるいはちかちゃんの恨みが自分自身に降りかかって来るような気がしたのだ。
花壇の方へ埋めようかとも思ったが、誰かに掘り返されるかも知れない。それにお父さんは『園庭に』と言いながら、園庭の真ん中を指差して頼んでいたのだ。
フェンスの根元のあたりなどではなく、園児たちが遊ぶその園庭の真っ只中に埋めて欲しい。そういう希望なのだった。
由衣先生はその夜、苦労してスコップで穴を掘り、園庭の真ん中にぬいぐるみを埋めた。
そして上から土を被せ、何度も踏んでその土を固めた。最後に物置から出してきたトンボで地ならしをして、ようやくその作業が終わった。
どっと疲れが出て、残っていた書類も仕上げないまま、家路についた。
134: 保育園・後編 ◆LaKVRye0d.:2017/2/8(水) 01:42:33 ID:HMJYUJcabU
そんなことがあった数日後だ。
十一時ごろに雨が降り始め、わあわあ騒ぎながら子どもたちが園舎に駆け込んでいくのを二階の一歳児の窓から見ていた。
雨脚は強くなり、やがて土砂降りになった。
受け持ちの子どもたちに食事をさせ、そして寝かしつけている間も気はそぞろだった。
『雨でぬいぐるみが土から出てきたらどうしよう』
しっかり踏み固めたつもりでも、やっぱり周りの地面より柔らかくて土が流されてしまうのではないだろうか。
そう思うといてもたってもいられなかった。
もし園庭に埋めたぬいぐるみが園長先生にでも見つかったら、大目玉だ。ちかちゃんのお父さんにどうしてもと頼まれた、と言ってもそんな言い訳が通じないことはこれまでの付き合いでよく分かっている。
子どもがみんな寝てしまった後もしばらく迷っていたが、とうとう由衣先生は決意して部屋を出る。
二階から階段で降りると、すぐに玄関の方へ向かうと事務室からは見つからない。
傘立てから自分の青い傘を手に取り、それを広げながらサンダルをつっかけて外へ出る。
外はまだ黒い雲に覆われて薄暗いが、雨脚は少し弱まって来ているようだ。
ぬかるんだ土に足を取られながらもようやく園庭の中ほどまでやってくる。ぬいぐるみを埋めたあたりだ。
しばらく傘をさしたまま、その場で無数の雨が叩く地面を見回していたが、どうやらぬいぐるみは土から出てきてはいないようだと判断する。
大丈夫かな。
少しホッとして玄関の方へ戻っていく。雨に多少濡れても早足でだ。もしこの大雨の中、外に出ていることを他の先生に見つかると、言い訳が面倒だ。
もし見つかったら、鍵かなにかを落としてしまって探しにいったことにしよう。
そう考えながら歩いていると、ふいに視界に白い光が走り、間髪いれずに雷が鳴った。
それほど音は大きくなかったが、かなり近かった気がして思わず振り向いた。
しかし特に異変はなかった。
園舎に早く戻ろうと、玄関に足を向けかけたとき、一瞬、視界の端にあった木の枝に緑色のタオルがかかっているのが見えた……
135: 保育園・後編 ◆LaKVRye0d.:2017/2/8(水) 01:44:47 ID:HMJYUJcabU
◆
「私じゃないんです」
もう一度そう言って由衣先生は啜り上げた。
部屋に戻って、しばらく経ってから悦子先生の悲鳴に驚いて外を見てみると、雨が上がった園庭に魔方陣が描かれていたのだという。
さっき外に見に行った時には、そんなもの影も形もなかったのに!
そう思うと怖くなってしまった。
自分が外へ出ていたことを話してしまうと、ぬいぐるみのことがバレてしまうかも知れない。まして魔方陣を描いた犯人に疑われてしまうかも知れないのだ。
由衣先生は、外へ出たことを黙っていようと心に決めた。
悦子先生たちが怪奇現象専門の探偵にこの事件のことを依頼するといって盛り上がっていても、そっとしておいて欲しい、という気持ちだったが仲間はずれにされることが怖くて、流されるままにお金も出し、こうして休みの日に園へ出て来ているのだった。
「でも私じゃないんです」
声を震わせる由衣先生を見下ろしながら、師匠は困ったような顔をした。
あの顔は、謎が解けてないな。
僕はそう推測する。
そもそもこの事件には、魔方陣を描いた犯人が保育士の誰かであれ、園児であれ、また門扉やフェンスをよじ登った侵入者であれ、大雨の後、魔方陣がくっきり残っているのに、足跡が残っていないという重大な問題がある。
結局そのことはたな晒しにしたままだが、師匠的には雨の中外へ出ていた人物が見つかれば、そのあたりも勝手に告白してくれるだろうと踏んでいたに違いない。
しかし由衣先生は、自分ではないと言い張っている。
辻褄は一応は合っているし、ちかちゃんのお父さんのお願いから始まるあの話がとっさの作り話とも思えない。おおむね本当のことを言いながら、魔方陣を描いた部分だけを上手く端折って話したにしても、その動機や、足跡を残さずに魔法陣だけ残してその場を去ったウルトラCに関するエピソードがこっそり入り込む余地があるようにはとても思えなかった。
「うーん」
師匠は頭を掻いている。
そう言えば、ここ数日風呂に入っていないと言っていたことを思い出した。
困った末なのか、単に頭が痒いのか分からないが、しかめ面をして唸っている。
泣いている由衣先生の背中をさすっている他の先生たちも、困惑したような表情をしている。麻美先生など、露骨に不審げな顔だ。
136: 保育園・後編 ◆LaKVRye0d.:2017/2/8(水) 01:46:46 ID:HMJYUJcabU
「今の話が本当だとするとですよ」
師匠はようやく口を開く。
「雷が鳴って、五歳児の部屋から悦子先生がカーテン越しに外を見た時、まだ由衣先生は外にいたことになる。どうして見つからなかったのかという問題が…… ああ、いや、そうか。玄関の近くまで戻っていたら、角度的に五歳児室からは見えないか。ううん。まあとにかく、雨が弱まり始めたころ、まだ魔方陣は現れていなかったわけですよね。雷が鳴って、由衣先生が園舎に戻り、しばらくして雨が止む。その雨が止んだ二時ごろに悦子先生が外に出る。あまり時間がありませんね。一体誰がどのタイミングで、どうやって?」
後半はほとんど独り言のようになりながら、師匠がなにげなく窓の外を見た時、その動きがピタリと止まった。
「なにっ」
緊迫したその声に、思わず視線を追って窓の外を見下ろす。
園庭の真ん中。
さっきまでなんの異変もなかったその園庭の真ん中に、なにかがあった。
師匠が窓から飛び出しそうな勢いで身を乗り出す。
「うそだろ」
そんな言葉が僕の口をついた。
魔方陣だ。
魔方陣が、園庭の真ん中に忽然と現れていた。
馬鹿な。
タオルはどこに見えます?
師匠がそう言った時、みんな外を見ている。ついさっきのことだ。その時は間違いなくそんなものはなかった。
だが今、眼下に間違いなく魔方陣は存在している。
写真に写っているものにそっくりだ。
場所も、この部屋からは左斜め。つまり、五歳児室の正面のあたりであり、九日前に現れたというその場所とまったく同じだ。
背筋に怖気が走った。
なんだこれは。
保育士たちも言葉を失って悲鳴を飲み込んでいる。
由衣先生など、ほとんど気絶しかかっている。
「下に行け。誰も見逃すな」
師匠から短い指示が飛ぶ。
あれを地面に描いたやつのことか。
しかし今この園にはこの部屋にいる六人の他、誰もいないはずだ。誰かずっと隠れていたというのか。それとも侵入者? このタイミングで?
おかしい。明らかにおかしい。
僕たちの誰にも見られず、あの一瞬であんなものを園庭の真ん中に描くなんて、尋常じゃない。
ゾクゾクと寒気が全身を駆け回る。
しかしそんな僕を尻目に、身を乗り出していた師匠が窓枠に足を掛け、「早く行け」と叫んでそのまま窓の外へ消えた。
落ちた?
そう思って窓へ駆け寄ったが、その真下で砂埃の中、師匠が立ち上がるところが見えた。
受身を取ったのか。とんでもないことをする人だ。
だがそれを見てまだぐずぐずしているわけにはいかなかった。すぐさま部屋から出て廊下を抜けて階段を駆け下りる。
137: 保育園・後編 ◆LaKVRye0d.:2017/2/8(水) 01:50:15 ID:pIgPmzpxL2
一階に降り立ったが、廊下側にも玄関側にも人の姿はなかった。視界の隅、それぞれの部屋に誰が消えていく瞬間にも出会わなかった。
すぐに下駄箱の前を走り抜け、スリッパのまま外に出る。
左前方に師匠の姿が見える。
そちらに駆け寄ろうとするが、とっさに右手側の門扉を確認する。閉まったままだ。誰かが逃げていった様子もない。
あらためて師匠のいる方へ走り出すと、すぐさま怒鳴り声が飛んでくる。
「待て、うかつに近寄るな」
師匠が右手の手のひらだけをこちらに向けて、顔も見せずにそう言うのだ。
僕は思わずダッシュをランニングぐらいに落とす。
「誰も外へ出すな」
次の指示を聞いて、振り向くと玄関から保育士たちがおっかなびっくり顔を覗かせている。
「出ないでください」
僕がそう叫ぶと、びくりとしてみんな玄関に引っ込んだ。そしてまた顔だけを伸ばしてこちらを見つめる。
その様子を見てから、僕はゆっくりと師匠の方へ目を向ける。
足跡が乱されるのを恐れているのか、と一瞬思った。が、雨の日とは違い、もとから薄っすらとした無数の足跡で園庭は埋め尽くされている。これでは足跡は追えないだろう。
そう思ってまた師匠の方へ近づいていくと、その背中が異様な緊張を帯びていることに気づいた。気配で分かる。
あの緊張は、師匠が会いたくてたまらないものに出会えた時の、そして畏れてやまないものに出会えた時の……
「静かに、こっちに来い」
そろそろとした声でそう言う。
僕はそれに従う。
師匠の足元に魔方陣がある。
だんだんと近づいていく。
大きな円の中に、三角形が二つ交互に重なって収まっている。ダビデの星だ。
だんだんと近づいてくる。
そしてその星と円周の間になにか奇妙な文字のようなものがあり、ぐるりと円を一周している。
魔方陣。
魔方陣だ。
写真で見たものと同じ。
だが、僕はその地面に描かれた姿に、一瞬、言葉に言い表せない奇怪なものを感じた。
それがなんなのか。
何故なのか。
知りたい。
いや知りたくない。
足は止まらない。
師匠の背中が迫る。
キリキリと空気の中に刃物が混ざっているような感じ。
「見ろ」
師匠がそう言う。
僕はその横に並び、足元に描かれたその模様を見下ろす。
心臓を、誰かに掴まれたような気がした。
138: 保育園・後編 ◆LaKVRye0d.:2017/2/8(水) 01:52:32 ID:pIgPmzpxL2
足跡が、残っていなかったわけがわかった。
師匠が異様に緊張しているわけがわかった。
あの一瞬で、誰にも見られずにこれが描かれたわけがわかった。
傘じゃない。
傘の先なんかで描かれたんじゃなかった。
写真で見ただけじゃわからなかったことが、ここまで近づくとよくわかった。
その円は、重なった二つの三角形は、そして何処のものとも知れない文字は。
地面を抉ってはいなかった。
その逆。
土が盛り上がって作られている。
まるで誰かが、土の底、地面の内側から大きな指でなぞったかのように。
「うっ」
吐き気を、手で押さえる。
ついさっきまで、なにも感じなかったはずの園庭に、今は異常な気配が満ちている。とても『残りカス』などと評されたものとは思えない。全く異なる、底知れない気配。
地中から湧き上がって来る悪意のようなもの。
僕は地の底から巨大な誰かの顔が、こちらを見ているような錯覚に陥る。
そしてその視線は、気配は、すべて、緊張し顔を強張らせる師匠に向かって流れている。
その凍てついたような空気の中、師匠は滑るように動き出し、腰に巻いていたポシェットから小さなスコップを取り出した。そして魔方陣の中に足を踏み入れ、その刃先を円の真ん中に突き立てた。動けないでいる僕の目の前で、師匠は土を掘る。ガシガシ、という音だけが響く。
やがてその手が止まり、左手が地面の奥へ差し入れられる。
左手がゆっくりと何かを掴んで地表に出てくる。
人の手。
黒く、腐った人間の手。
ゾクリとした。
誰の手。
誰の。
だが師匠がそれを胸の高さまで持ち上げた瞬間、それが人形の手であることに気づく。
マネキンの手か。
土で汚れた黒い肌に、かすかな光沢が見える。肘までしかない、マネキンの手。
クマのぬいぐるみなどではなかった。どういうことなのか。
「トンボ」
師匠がボソリと言う。そして僕を促すように反対の手で招くような仕草をする。
意図を知って僕は振り向き、園舎の方へ走り出す。その場を離れたかった、という気持ちがないと言えば嘘になる。
地面の内側から描かれたような魔方陣。立ち込める異様な気配。魔方陣の中に埋められたマネキンの手。
ただごとではなかった。その場に立ち会うには、僕はまだ早すぎる。そんな直感に襲われたのだ。
139: 保育園・後編 ◆LaKVRye0d.:2017/2/8(水) 01:54:27 ID:HMJYUJcabU
走ってくる僕に、怯えたような表情をした保育士たちだったが、「トンボを借ります」と言うと、玄関から出てきて、裏手の物置へ案内してくれた。
取っ手の錆びついたトンボを引きずりながら園庭に出てくると、煙が立っているのが見える。師匠が魔方陣の上で、マネキンの手を燃やしているのだ。
黒い煙がゆらゆらと立ち上っている。
ポシェットに入っていたらしい小型のガスボンベにノズルを取り付けて、ライターで火をつけ、バーナーのように使っていた。
煙を吸わないように服のそでを口元に当てながら、師匠はそうしてマネキンの手を燃やしていった。
やがて燃えカスを蹴飛ばし、僕に向かって「トンボ」と言う。手渡すと師匠はためらいもなく魔方陣を消した。ワイパーで汚れを取るように。
地面がすっかりならされ、魔方陣など跡形もなくなったころ、師匠は僕に顔を向けた。
「解決」
そうして笑った。
だがその顔はどこか強張り、額から落ちる汗で一面が濡れている。
地中深くから湧き上ってくるようなプレッシャーもいつの間にか霧散していた。
140: 保育園・後編 ◆LaKVRye0d.:2017/2/8(水) 01:57:00 ID:pIgPmzpxL2
それからまた僕らは園舎に戻り、五歳児室で車座に座った。
保育士たちは、忽然と現れた魔方陣とそこから出土したマネキンの手に、今でも信じられないという様子で生唾を呑んでいる。
やがてクマのぬいぐるみを埋めた、と証言した由衣先生が、あんなものは知らないと喚いた。だが、現実に出てきたのはマネキンの手だ。
落ち着かせようと優しい言葉をかける悦子先生の横で、麻美先生が口を開く。
「私も聞いた話で、自信がなかったんだけど。やっぱり間違いない。沼田ちかちゃんは、確か母子家庭だったはず」
父子家庭じゃなくて。
それも蒸発などではなく、死別だったはずだ、と言うのだ。
ではあの夜、由衣先生の前に現れてぬいぐるみを託したの男は誰なのだ。そもそもそれは本当にぬいぐるみだったのか。
疑いの目が由衣先生に集まる。
「知らない。私知らない」
錯乱してそう繰り返すだけの由衣先生に、師匠は取り成すように告げる。
「記憶の混乱ですね。この園に巣食っていた霊の仕業でしょう。ですがそれももう終わったことです。元凶はさっき私が燃やしてしまいましたから。もう何も霊的なものは感じられません。これでおかしなことは起こらないはずです」
きっぱりとそう言った師匠に、先生たちはどこか安堵したような顔になった。
「もしなにかあったら、アフターサービスで駆けつけますよ。いつでも呼んでください」
その笑顔に、みんなころりと騙されたのだ。
解決などしていなかった。
これまでにこの保育園で起こっていた怪奇現象の原因は恐らく、師匠が感じていた『残りカス』の方だろう。
だがそれはもう消え去っている。
いつ?
たぶん、魔方陣が最初に現れた日。いや、ちかちゃんの父親を名乗る男が得体の知れないなにかを携えてやって来た日かも知れない。
それは、そんなごく普通の悪霊など、近づいただけで吹き飛ばされて消えてしまうような、底知れない力を持ったものだったのだろうか。
だが師匠はなにも言わなかった。
ただ僕たちはお礼を言われて、その保育園を出た。去り際、悦子先生がまだ泣いている由衣先生を叱咤して、「ほら、しっかりして。もう大丈夫だから」と肩を抱いてあげていた。
まあ、これはこれで良かったのかな、と僕は思った。
その帰り道、事務所へ向かう途中で、師匠は文具屋に立ち寄り、市内の地図を買った。
かなり詳細な地図だ。
そしてその場でそれを広げ、さっきの保育園が載っている場所に、マーカーで印をつけた。日付と、魔方陣の絵。そしてマネキンの手の図案を添えて。
「それをどうするんですか」
僕が訊くと、師匠ははぐらかすように言った。
「どうもしないよ。けど、なんとなく、な」
その時の師匠の目の奥の光を、僕は今も覚えている。なんだか暗く、深い光だ。
それを見た時の僕は、なんとも言えない不安な気持ちになった。
死の兆し。
それをはっきり意識したのは、その時が最初だったのかも知れない。
保育園【了】
141: 連想T ◆LaKVRye0d.:2017/2/12(日) 05:29:58 ID:QWoUZ5elQQ
連想T
541 :連想T ◆oJUBn2VTGE :2012/08/18(土) 22:32:27.18 ID:qKV0Rmwv0
師匠から聞いた話だ。
「二年くらい前だったかな。ある旧家のお嬢さんからの依頼で、その家に行ったことがあってな」
オイルランプが照らす暗闇の中、加奈子さんが囁くように口を動かす。
「その家はかなり大きな敷地の真ん中に本宅があって、そこで家族五人と住み込みの家政婦一人の計六人が暮してたんだ。家族構成は、まず依頼人の真奈美さん。
彼女は二十六歳で、家事手伝いをしていた。それから妹の貴子さんは大学生。あとお父さんとお母さん、それに八十過ぎのおばあちゃんがいた。
敷地内にはけっこう大きな離れもあったんだけど、昔よりも家族が減ったせいで物置としてしか使っていないらしかった。その一帯の地主の一族でね。
一家の大黒柱のお父さんは今や普通の勤め人だったし、先祖伝来の土地だけは売るほどあるけど生活自体はそれほど裕福というわけでもなかったみたいだ。
その敷地の隅は駐車場になってて、車が四台も置けるスペースがあった。今はそんな更地だけど、戦前にはその一角にも屋敷の一部が伸びていた」
蔵がね……
あったんだ。
ランプの明かりが一瞬、ゆらりと身をくねらせる。
◆
大学二回生の夏だった。
その日僕はオカルト道の師匠である加奈子さんの秘密基地に招かれていた。
郊外の小さな川に面した寂しげな場所に、貸しガレージがいくつも連なっており、その中の一つが師匠の借りているガレージ、すなわち秘密基地だった。
そこには彼女のボロアパートの一室には置けないようなカサ張るものから、別のおどろおどろしい理由で置けない忌まわしいものなど、様々な蒐集品が所狭しと並べられていた。
142: 連想T ◆LaKVRye0d.:2017/2/12(日) 05:34:13 ID:QWoUZ5elQQ
542 :連想T ◆oJUBn2VTGE :2012/08/18(土) 22:34:20.21 ID:qKV0Rmwv0
その量たるや想像以上で、ただの一学生が集めたとは思えないほどだった。興信所のバイトでそこそこ稼いでいるはずなのに、いつも食べるものにも困っているのは明らかにこのコレクションのためだった。
扉の鍵を開けてガレージの中に入る時、師匠は僕にこう言った。「お前、最近お守りをつけてたろ」
「はい」胸元に手をやる。
すると師匠は手のひらを広げて「出せ」と命じた。
「え? どうしてです」
「そんな生半可なものつけてると、逆効果だ」
死ぬぞ。
真顔でそんなことを言うのだ。たかが賃貸ガレージの中に入るだけなのに。僕は息を飲んでお守りを首から外した。
「普通にしてろ」
そう言って扉の奥へ消えて行く師匠の背中を追った。
どぶん。
油の中に全身を沈めたような。
そんな感覚が一瞬だけあり、息が止まった。やがてその粘度の高い空間は、様々に折り重なった濃密な気配によって形作られていると気づく。
見られている。そう直感する。
真夜中の一時を回ったころだった。ガレージの中には僕と師匠以外、誰もいない。それでもその暗闇の中に、無数の視線が交差している。
例えば、師匠の取り出した古いオイルランプの明かりに浮かび上がる、大きな柱時計の中から。綺麗な刺繍を施された一つの袋を描いただけの絵から。あるいは、両目を刳り貫かれたグロテスクな骨格標本からも。
「まあ座れ」
ガレージの中央にわずかにあいたスペースにソファが置かれている。師匠はそこを指さし、自身はそのすぐそばにあった真っ黒な西洋風の墓石の上に片膝を立てて腰掛けた。墓石の表面には、人の名前らしき横文字が全体を覆い尽くさんばかりにびっしりと彫り込まれている。
どれもこれも、ただごとではなかった。このガレージの中のものはすべて。どろどろとした気配が、粘性の気流となって僕らの周囲を回っている。
143: 連想T ◆LaKVRye0d.:2017/2/12(日) 05:40:47 ID:QWoUZ5elQQ
543 :連想T ◆oJUBn2VTGE :2012/08/18(土) 22:37:03.36 ID:qKV0Rmwv0
師匠がこの中から、世にも恐ろしい謂れを持つ古い仮面を出してきたのはつい先日のことだった。
あんな怖すぎるものが、他にもたくさんあるのだろうか。
恐る恐るそう訊いてみると、師匠は「そういや、言ってなかったな」と呟いて背後に腕を伸ばし、一つの木箱を引っ張り出した。見覚えがある。その古い仮面を収めていた箱だ。
もうあんな恐ろしいものを見たくなかった僕は咄嗟に身構えた。しかし師匠は妙に嬉しそうに木箱の封印を解き、その中身をランプの明かりにかざす。
「見ろよ」
その言葉に、僕の目は釘付けになる。箱の中の仮面はその鼻のあたりを中心に、こなごなに砕かれていた。
「凄いだろ」
なぜ嬉しそうなのか分からない。「洒落になってないですよ」ようやくそう口にすると、「そうだな」と言ってまた木箱の蓋を戻す。
師匠自身が『国宝級に祟り神すぎる』と評したモノが壊れた。いや、自壊するはずもない。壊されたのだ。鍵の掛かったガレージの中で。一体なにが起こったのか分からないが、ただごとではないはずだった。
「これと相打ち、いやひょっとして一方的に破壊するような何かが、この街にいるってことだ」
怖いねえ。
師匠はそう言って笑った。そして箱を戻すと、気を取りなおしたように「さあ。なにか楽しい話でもしよう」楽しげに笑う。
それからいくつかの体験談を語り始めたのだ。もちろん怪談じみた話ばかりだ。
最初の話は興信所のバイトで引き受けた、ある旧家の蔵にまつわる奇妙な出来事についてだった。
◆
かつて、本宅とその脇に立つ大きな土蔵との間には二つの通路があった。一つは本宅の玄関横から土蔵の扉までの間の六間(ろっけん)ほどの石畳。
144: 連想T ◆LaKVRye0d.:2017/2/12(日) 05:45:32 ID:QWoUZ5elQQ
544 :連想T ◆oJUBn2VTGE :2012/08/18(土) 22:40:30.83 ID:qKV0Rmwv0
そしてもう一つは本宅の地下から土蔵の地下へと伸びる、同じ距離の狭く暗い廊下。
何故二つの道を作る必要があったのかは昭和に暦が変わった時点ですでに分からなくなっていた。
ただかつて土蔵の地下には座敷牢があり、そこへ至る手段は本宅の地下にあった当主の部屋の秘密の扉だけだったと、そんな噂が一族の間には囁かれていた。
「あながち嘘じゃないと思うがな」
真奈美の父はよくそんなことを言って一人で頷いていた。
「あそこにはなんだか異様な雰囲気があるよ」
家族の中で、土蔵の地下へ平気で足を踏み入れるのは祖父だけだった。
かつて当主の部屋があったという本宅の地下も、今やめったに使うことのないものばかりを押し込めた物置になっている。
その埃を被った家具類に覆い隠されるように土蔵の地下へと続く通路がひっそりと暗い口を開けていた。
そこを通り抜けると、最後は鉄製の門扉が待っていて、錆びて酷い音を立てるそれを押し開けると、再び様々な物が所狭しと積み重ねられた空間に至る。
座敷牢があった、とされるその場所も今では物置きとして使われていた。ただ、本宅の地下と違い、本来蔵に納められるべき、古い家伝の骨董品などが置かれていたのだ。
土蔵の地上部分は戦時中の失火により焼け落ち、再建もせずにそのまま更地にしてしまっていた。
元々構造が違ったためか、地下は炎の災禍を免れ、そして地上部分に保管されていた物を、すでにその時使われていなかったその地下に移し変えたのだった。
一階部分が失われ、駐車場にするため舗装で塗り固められてしまったがために、その地下の土蔵に出入りするには、本宅の地下から六間の狭い通路を通る以外に道はなかった。
真奈美の祖父はその地下の土蔵を好み、いつも一人でそこに篭っては、燭台の明かりを頼りに古い書物を読んだり、書き物をしたりしていた。
真奈美はその土蔵が怖かった。父の言う、『異様な雰囲気』は確かに感じられたし、土蔵へ至るまでの暗く狭い通路も嫌で堪らなかった。
距離にしてわずか十メートルほどのはずだったが、時にそれが長く感じることがあった。途中で通路が二回、稲妻のように折れており、先が見通せない構造になっているのが、余計に不安を掻き立てた。
145: 連想T ◆LaKVRye0d.:2017/2/12(日) 05:49:57 ID:QWoUZ5elQQ
545 :連想T ◆oJUBn2VTGE :2012/08/18(土) 22:44:11.83 ID:qKV0Rmwv0
本宅から向かうと、まず右に折れ、すぐに左に折れるはずだった。しかし、一族の歴史の暗部に折り重なる、煤や埃が充満したその通路は、真奈美の幼心に幻想のような記憶を植え付けていた。
右に折れ、左に折れ、次にまた右に折れる。
ないはずの角がひとつ、どこからともなく現れていた。
怖くなって引き返そうとしたら、行き止まりから右へ通路は曲がっていた。さっき右に折れたばかりなのに、戻ろうとすると、逆向きになっているのだ。
その時、どうやって外へ出たのか。何故か覚えてはいなかった。
そればかりではない。たった十メートルの通路を通り抜けるのに、十分以上の時間が経っていたこともあった。幼いころの記憶とは言え、そんなことは一度や二度ではなかった。
そんな恐ろしい道を潜って、何故土蔵へ向かうのか。それは祖父がそこにいたからだ。真奈美はその変わり者の祖父が好きで、地下の土蔵で読書をしているのを邪魔しては、お話をせがんだり、お菓子をせがんだりした。
祖父も嫌な顔一つせず、むしろ相好を崩して幼い真奈美の相手をしてくれた。
その祖父は真奈美が小学校五年生の時に死んだ。胃癌だった。
死ぬ間際、もはやモルヒネも効かない疼痛の中、祖父がうわ言のように願ったのは、自分の骨をあの地下の土蔵に納めてくれ、というものだった。
祖父が死に、残された親族で相談した結果、祖父の身体は荼毘に付した後、先祖代々の墓に入った。ただ、その骨のひと欠片を小さな壷に納めて土蔵の奥にひっそりと仕舞ったのだった。
それ以来、土蔵の地下はよほどのことがない限り家族の誰一人として足を踏み入れない、死せる空間となった。
先祖代々伝わる書物や骨董品の類は、それらすべてが祖父の死の副葬品となったかのように、暗い蔵の中で眠っている。
墳墓。
そんな言葉が思い浮かぶ場所だった。
祖父の死から十五年が経った。
その日、真奈美は半年ぶりにその地下の土蔵へ足を運ぶ羽目になっていた。叔父が、電話でどうしてもと頼むので仕方なくだ。
146: 連想T ◆LaKVRye0d.:2017/2/12(日) 05:52:14 ID:KYyA7Wj2II
546 :連想T ◆oJUBn2VTGE :2012/08/18(土) 22:48:08.39 ID:qKV0Rmwv0
どうやら何かのテレビ番組で、江戸時代のある大家の作った茶壷が高値で落札されているのを見たらしい。
その茶壷とそっくりなものを、昔その土蔵で見たことがある気がするというのだ。
今は県外に住んでいる叔父は、お金に意地汚いところがあり真奈美は好きではなかったのだが、とにかくその茶壷がもし大家の作ったものだったとしたら親族会議モノだから、とりあえず探してくれ、と一方的に言うのだ。
親族会議もなにも、家を出た叔父になんの権利があるのか、と憤ったが、父に言うと「どうせそんな凄い壷なんてないよ。あいつも勘違いだと分かったら気が済むだろう」と笑うのだ。
それで真奈美は土蔵へ茶壷を探しに行かされることになったのだった。
本宅の地下に降り、黄色い電燈に照らされた畳敷きの部屋を通って、その奥にある小さな出入り口に身体を滑り込ませる。
そこから通常の半分程度の長さの階段がさらに地下へ伸びており、降りた先に土蔵へと伸びる通路があった。饐えたような空気の流れが鼻腔に微かに感じられる。
手探りで電燈のスイッチを探す。指先に触ったものを押し込むと、ジン……という音とともに白熱灯の光が天井からのそりと広がった。
壁を漆喰で固められた薄暗い通路は、なにかひんやりとしたものが足元から上ってくるようで薄気味悪かった。かつてはランプや手燭を明かりにしてここを通ったそうだが、今では安全のために電気を通している。
だが湿気がいけないのか、白熱灯の玉がよく切れた。そのたびに父や自分が懐中電灯を手に、薄気味悪い思いをしながら玉の交換をしたものだった。
今も真奈美の頭上で、白熱灯のフィラメントがまばたきをしている。
いやだ。まただわ。戻ったら、父に直してもらうように言わなければ……
今の家政婦の千鶴子さんは、どうしてもこの地下の通路には入りたくない、と言ってはばからなかった。
『わたし、昔から霊感が強いたちでして、あそこだけはなんだかゾッとしますのよ』
そう言って身震いしてみせるのだ。おかげでこの通路とその先の土蔵の最低限の掃除は家族が交代でやることになっていた。
147: 連想T ◆LaKVRye0d.:2017/2/12(日) 05:56:56 ID:KYyA7Wj2II
549 :連想T ◆oJUBn2VTGE :2012/08/18(土) 22:54:48.74 ID:qKV0Rmwv0
頼りなくまたたいている明かりの下、最初の曲がり角を越えると土蔵の入り口が見えた。そろそろと歩み寄り、小さな鉄製の扉を手前に引く。
きぃ……
耳障りな音がして、同時に真っ暗な扉の奥からどこか生ぬるいような空気が漏れ出てくる。扉は狭く、それほど大柄でもない真奈美でも、身を屈めないと入ることが出来ない。
真奈美は身体を半分だけ扉の中に入れ、腕を回りこませて壁際を探る。白熱灯の光が、暗かった土蔵の中に広がった。ホッと人心地がつく。
もはやそれを手に取る主のいない骨董品や古民具の類が、四方の壁に並べられた棚や箪笥の上にひっそりと置かれている。
本当に値打ちのあるものは終戦の前後に処分したと聞いているので、今残っているのはそれを代々受け継いできた自分たちの一族にしか価値のないもののはずだった。
真奈美は懐から写真を取り出す。ご丁寧にも叔父が、くだんの茶壷が紹介された雑誌の切抜きを送ってきたのだった。
それと見比べながら、壷などが並べられている一角を往復していると、どうやらこのことらしい、というものを見つけることが出来た。
なるほど、形や色合いは確かに似ている。しかし手に取ってみるとやけに軽く、まじまじと表面を眺めると造作も安っぽく思われた。
やはり叔父の思い違いだ。そう思うと少し楽しくなった。
茶壷を片手に、唯一の出入り口へ向かう。狭い扉をなんとか潜ると、一瞬心の中が冷えた気がした。
通路の白熱灯が切れている。
漆喰に囲まれた道の先が闇に飲まれるように見通せなくなっている。消そうとした土蔵の中の明かりはつけたままにしたが、それでも小さな扉から漏れてくる光はあまりにか細かった。
いやだ。
ここが地の底なのだということを思い出してしまった。こんな時のために土蔵の中に懐中電灯を置いてなかっただろうか。振り返って探しに戻ろうかと思ったが、面倒な気がして止めた。
たかだか十メートルていどの通路だ。障害物もない一本道だし、自分ももう子どもではないのだから、なにをそんなに怖がることがあるだろう。
148: 連想T ◆LaKVRye0d.:2017/2/12(日) 05:58:53 ID:KYyA7Wj2II
550 :連想T ◆oJUBn2VTGE :2012/08/18(土) 22:57:27.58 ID:qKV0Rmwv0
我知らず自分にそう言い聞かせ、真奈美は茶壷を胸に抱えて進み始めた。静かだ。耳の奥に静寂が甲高い音を立てている。
ほんの数メートル歩くと曲がり角があった。そこを右に曲がると、今度はすぐに左へ折れる。そこから先は直進するだけで元の入り口だ。けれど、そっと覗いたその先は光の届かない真っ暗闇だった。
ぞくりと肌が粟立つ。
口元が強張りそうになるのを必死で抑え、なるべく自然な歩調で前へ進んだ。左手を壁に沿わせながら、真っ直ぐに。
なんてことはない。なんてことはない。暗くたって大丈夫。
ほら。すぐに元の入り口だ。
ドシン
え……
ぶつかった。
誰かに。うそ。
全身に寒気が走った。
暗くて何も見えない。そこに誰がいるのかも分からない。
気配だけが通り過ぎていく。土蔵の方へ向かっているようだ。
真奈美はその場に根を張りそうだった足を叱咤して、小走りに入り口の階段の下まで進んだ。
そこまで来ると、頭上から微かな明かりが漏れてきていた。茶壷を抱えたまま階段を上り、ようやく物置部屋まで戻ってきた。
ここもまだ地下なのだと思うと、後ろも振り返らずに部屋を横断して一階へ上がる階段を駆けのぼった。
階段を上がった先にある居間では、父と母がテーブルを囲んでお茶を飲んでいた。
「お。あったか。お宝が」
こちらを見ながら、のん気そうに父がそう言った。
「ねえ、ここ今誰か降りてった?」
真奈美が早口にそう訊くと、父と母は怪訝そうな顔をしてかぶりを振った。
「貴子は?」続けて訊こうとしたが、隣の部屋からテレビの音とともに、その妹の笑い声が聞えてきた。
149: 連想T ◆LaKVRye0d.:2017/2/12(日) 06:01:09 ID:KYyA7Wj2II
551 :連想T ◆oJUBn2VTGE :2012/08/18(土) 23:06:34.39 ID:qKV0Rmwv0
悪寒がする。
家政婦の千鶴子さんは今日は来ない日だ。そして祖母は風邪を引いて一昨日から入院中だった。いつものことで、大した風邪ではないのだが。
ではさっき地下の通路でぶつかったのは誰なのか。
「ちょっと、気持ち悪いこと言わないでよ」
母が頬を引きつらせながら、無理に笑った。
「泥棒か?」
父が気色ばんで椅子から立ち上がろうとしたが、母が困ったように半笑いをしながらそれを諌める。
「ちょっと、お父さんも。わたしたち、ずっとここにいたじゃない」
そうして地下の物置へ降りる階段を指さす。
そうだ。物置には他に出入り口はない。父と母がずっといたこの居間からしか。その二人が見ていないのだ。誰も降りられたはずはない。ではさっき暗闇の中でぶつかったのは誰なのだ。
誤って壁にぶつかったのではない。壁にはしっかりと左手をついて歩いていたのだから。
震えてしゃがみ込んだ真奈美の背中を母がさすり、父は騒ぎを聞きつけて居間にやってきた貴子と二人で懐中電灯を手に地下に降りていった。
結局、小一時間ほど地下の物置と通路、そしてその先の土蔵をしらみつぶしに探索したが、異変はなにも見つからなかった。家族以外の誰かがいたような痕跡も。
最後に地下通路の白熱灯の玉を交換してきた父が、疲れたような表情で居間に戻ってくると家族四人がテーブルに顔をつき合わせて座った。
そして沈黙に耐えられなくなったように、妹の貴子が口を開いた。
「実はあたしもぶつかったこと、ある」
驚いた。さっき起きたことと全く同じような出来事が二年ほど前にあったと言うのだ。妹の場合は何の前触れもなく地下の明かりが消え、手探りで通路を引き返そうとしたら、得体の知れない『なにか』に肩が触れたのだと。
150: 連想T ◆LaKVRye0d.:2017/2/12(日) 06:03:23 ID:QWoUZ5elQQ
552 :連想T ◆oJUBn2VTGE :2012/08/18(土) 23:10:19.67 ID:qKV0Rmwv0
さらに驚いたことに、それから父と母も気持ちが悪そうにしながら、それぞれ似た体験をした話を続けた。数年前の話だ。
みんな気のせいだと思い込むようにしていたのだった。そんなことがあるわけはないと。しかしこうして家族が誰も同じ体験をしていると知った今、ただの気のせいで済むはずはなった。
「お祓い、してもらった方がいいかしら」
母がおずおずとそう切り出すと、父が「なにを馬鹿な」と怒りかけ、しかしその勢いもあっさりとしぼんだ。みんな自分の身に起きた体験を思い出し、背筋を冷たくさせていた。
そんな中、妹の貴子がぽつりと言った。
「おじいちゃんじゃないかな」
「え?」
「いや、だから、あそこにいたの、おじいちゃんじゃないかな」
地下の暗闇の中でぶつかったのは十五年前に死んだ祖父ではないかと言うのだ。
その言葉を聞いた瞬間、父と母の顔が明るくなった。
そのくせ口調はしんみりとしながら、「そうね。おじいちゃんかも知れないわね」「そうか。親父かも知れないな。親父は土蔵のヌシだったからな」と頷き合っている。
確かに祖父はあの土蔵が第二の家だと言っても過言ではないほどそこへ入り浸っていたし、死んだ後は自分の骨もそこへ葬ってくれと願ったのだ。
そして実際に遺骨の一部は小さな骨壷に納められて土蔵の隅に眠っている。
「おじいちゃんか」
真奈美もそう呟いてみる。皺だらけの懐かしい顔が脳裏に浮かんだ。
そして祖父との思い出の断片がさらさらと自然に蘇ってくる。
「おじいちゃん……」貴子が涙ぐみながら笑った。
幽霊を恐ろしいと思う気持ちより、優しかった祖父の魂が今もそこにいるのだと思う、やわらかな気持ちの方が勝っていたのだった。さっきまでの凍りついたような空気がほんのりと暖かくなった気がした。
しかし。
祖父の思い出を語り始めた父と母と妹を尻目に、真奈美は自分の中に蘇った奇妙な記憶に意識を囚われていた。
151: 連想T ◆LaKVRye0d.:2017/2/12(日) 06:05:55 ID:KYyA7Wj2II
557 :連想T ◆oJUBn2VTGE :2012/08/18(土) 23:12:25.00 ID:qKV0Rmwv0
あれは真奈美がまだ小学校に上がったばかりのころ。いつものように祖父に本を読んでもらおうと、あの薄暗い地下の道を通って土蔵へやってきた時のことだ。
文机に向かって古文書のようなものを熱心に読んでいた祖父が、真奈美に気づいて顔を上げた。そして手招きをしてかわいい孫を膝の上に座らせ、あやすように身体を揺すりながらぽつりと言った。
『誰かにぶつからなかったかい?』
幼い真奈美は顔を祖父の顔を見上げ、そこに不可解な表情を見た。頬は緩んで笑っているのに、目は凍りついたように見開かれている。
『ぶつかるって、だれに?』
真奈美はこわごわとそう訊き返した。
祖父は孫を見下ろしながら薄い氷を吐くように、そっと囁いた。
『誰だかわからない誰かにだよ……』
◆
オイルランプの明かりに照らされ、加奈子さんの顔が闇の中に浮かんでいる。黒い墓石の上に腰掛けたまま、足をぶらぶらと前後に揺らしながら。
「それで真奈美さんは我が小川調査事務所に依頼したわけだ。人づてに、『オバケ』の専門家がいるって聞いて」
「どんな、依頼なんです」
「調査に決まってるだろう。その誰だかわからない誰かが、誰なのかってことをだ」
加奈子さんは背後の木箱の中から黒い厚手の布を取り出し、ランプの上に被せた。その瞬間、辺りが完全な暗闇に覆われる。
締め切られたガレージの中は、夜の中に作られた夜のようだ。
うつろに声だけが響く。
「昔の飛行機乗りは、ファントムロックってやつを恐れたらしい。機体が雲の中に入ると一気に視界が利かなくなる。でもしょせん雲は微小な水滴の塊だ。
その中で、『なにか』にぶつかることなんてない。ないはずなのに、怖いんだ。見えないってことは。
152: 連想T ◆LaKVRye0d.:2017/2/12(日) 06:07:52 ID:QWoUZ5elQQ
565 :連想T ◆oJUBn2VTGE :2012/08/18(土) 23:16:29.89 ID:qKV0Rmwv0
白い闇の中で、目に見えない一寸先に自分と愛機の命を奪う危険な物体が浮かんでいるのではないか…… その想像が、熟練の飛行機乗りたちの心を苛むんだ。
その雲の中にある『なにか』がファントムロック、つまり『幻の岩』だ。自転車に乗っていて、目を瞑ったことがあるかい。
見通しのいい一本道で、前から人も車もなにもやってきていない状態で、自転車を漕ぎながら目を閉じるんだ。さっきまで見えていた風景から想像できる、数秒後の道。
絶対に何にもぶつかることはない。ぶつかることなんてないはずなのに、目を閉じたままではいられない。必ず恐怖心が目を開けさせる。人間は、闇の中に『幻の岩』を夢想する生き物なんだ」
くくく、と笑うような声が僕の前方から漏れてくる。
では、その旧家の地下に伸びる古い隧道で起きた出来事は、いったいなんだったのだろうね?
師匠は光の失われたガレージの中でその依頼の顛末を語った。
真奈美さんはそんなことがあった後、地下通路でぶつかったのは死んだ祖父なのだと結論付けた他の家族に、祖父自身もそれを体験したらしいということを告げずにいた。
そして自分以外の家族が旅行などで全員家から出払う日を選んで、小川調査事務所の『オバケ』の専門家である師匠を呼んだのだ。
ここで言う『オバケ』とはこの界隈の興信所業界の隠語であり、不可解で無茶な依頼内容を馬鹿にした表現なのだが、師匠はその呼称を楽しんでいる風だった。
真奈美さんからも「オバケの専門家だと伺いましたが」と言われ、苦笑したという。
ともあれ師匠は真奈美さんの導きで、本宅の地下の物置から地下通路に入り、その奥の土蔵に潜入した。その間、なにか異様な気配を感じたそうだが、何者かの姿を見ることはなかった。
土蔵には代々家に伝わる古文書の類や、真奈美さんの祖父がそれに関して綴った文書が残されていた。今の家族には読める者がいないというその江戸時代の古文書を、師匠は片っ端から読んでいった。
かつてそうしていたという真奈美さんの祖父にならい、一人で土蔵に篭り、燭台の明かりだけを頼りに本を紐解いていったのだ。
そしてその作業にまる一晩を費やして、次の日真奈美さんを呼んだ。
153: 連想T ◆LaKVRye0d.:2017/2/12(日) 06:12:44 ID:QWoUZ5elQQ
572 :連想T ◆oJUBn2VTGE :2012/08/18(土) 23:18:41.95 ID:qKV0Rmwv0
◆
「結論から言うと、わかりません」
「わからない、というと……」
「あなたがその先の地下通路でぶつかったという誰かのことです」
文机の前に座ったまま向き直った師匠がそう告げると、真奈美さんは不満そうな顔をした。霊能力者という触れ込みを聞いて依頼をしたのに、あっさりと匙を投げるなんて。
そういう言葉を口にしようとした彼女を、師匠は押しとどめた。
「まあわかった部分もあるので、まずそれを聞いてください。これは江戸後期、天保年間に記された当時のこの家の当主の覚え書きです」
師匠はシミだらけの黄色く変色した書物を掲げて見せた。
「これによると、彼の二代前の当主であった祖父には息子が三人おり、そのうちの次男が家督を継いでいるのですが、それが先代であり彼の父です。
そして長子継続の時代でありながら家督を弟に譲った形の長男は、ある理由からこの土蔵に幽閉されていたようなのです」
「幽閉、ですか」
真奈美さんは眉をしかめる。
「あなた自身おっしゃっていたでしょう。かつてここには座敷牢があったと。家の噂話のような伝でしたが、それは史実のようです。
この地下の土蔵……いえ、そのころは地上部分があったので、土蔵の地下という方が正確かも知れません。ともかく土蔵の地下にはその長男を幽閉するために作られた座敷牢がありました。
その地下空間は座敷牢ができる前から存在していましたが、もともとなんのための地下室なのかは不明なようです。
この覚え書きを記した当主は、自分の伯父にあたる人物を評して、『ものぐるいなりけり』としています。気が狂ってしまった一族の恥を世間へ出すことをはばかった、ということでしょう。
結局、座敷牢の住人は外へ出ることもなく、牢死します。その最期は自分自身の顔の皮をすべて爪で引き剥がし、血まみれになって昏倒して果てたのだと伝えられています」
遠い先祖の悲惨な死に様を知り、真奈美さんは息を飲んだ。それも、自分は今その血の流れた場所にいるのだ。
不安げに周囲を見回し始める。
154: 連想T ◆LaKVRye0d.:2017/2/12(日) 06:16:14 ID:QWoUZ5elQQ
579 :連想T ◆oJUBn2VTGE :2012/08/18(土) 23:21:00.63 ID:qKV0Rmwv0
「座敷牢で死んだ伯父は密かに葬られたようですが、その後彼の怨念はこの地下室に満ち、そして六間の通路に溢れ出し、やがて本宅をも蝕んで多くの凶事、災いをもたらしたとされています」
師匠は机の上に積み重ねられた古文書を叩いて見せた。
その時、真奈美さんの顔色が変わった。そして自分の両手で肩を抱き、怯えた表情をして小刻みに震え始めたのだ。
「わたしが………… ぶつかったのは…………」
ごくりと唾を飲みながら硬直した顔から眼球だけを動かして、入ってきた狭い扉の方を盗み見るような様子だった。
その扉の先の、地下通路を目線の端に捕らえようとして、そしてそうしてしまうことを畏れているのだ。
師匠は頷いて一冊のノートを取り出した。
「あなたのお祖父さんも、何度か真っ暗なこの通路でなにか得体の知れないものにぶつかり、そのことに恐怖と興味を抱いて色々と調べていたようです。
このノートは失礼ながら読ませていただいたお祖父さんの日記です。
やはり座敷牢で狂死した先祖の存在に行き着いたようなのですが、その幽霊や怨念のなす仕業であるという結論に至りかけたところで筆をピタリと止めています」
師匠は訝しげな真奈美さんを尻目に立ち上がり、一夜にして散らかった土蔵の中を歩き回り始めた。
「この土蔵には確かに異様な気配を感じることがあります。お父さんなど、あなたのご家族も感じているとおりです。亡くなったお祖父さんもそのことをしきりと書いています。
気配。気配。気配…… しかしその気配の主の姿は誰も見ていません。なにかが起こりそうな嫌な感じはしても、この世のものではない誰かの姿を見ることはなかったのです。
ただ、暗闇の中で誰かにぶつかったことを除いて」
どこかで拾った孫の手を突き出して、たった一つの扉を指し示す。その向こうには白熱灯の明かりが照らす、地下の道が伸びている。明かりが微かに瞬いている。また、玉が切れかかっているのだ。
それに気づいた真奈美さんの口からくぐもったような悲鳴が漏れた。交換したばかりなのに、どうして。呆然とそう呻いたのだ。
155: 連想T ◆LaKVRye0d.:2017/2/12(日) 06:18:52 ID:QWoUZ5elQQ
587 :連想T ◆oJUBn2VTGE :2012/08/18(土) 23:23:17.47 ID:qKV0Rmwv0
「あなたのお祖父さんはこう考えました。本当にこの家を祟る怨念であれば、もっとなんらかの恐ろしいことを起こすのではないかと。
確かにそのようなことがあったとされる記録は古文書の中に散見されます。しかし今ではそれらしい祟りもありません。にも関わらず、依然として異様な気配が満ちていくような時があります。
これはいったいどういうことなのか。そう思っていた時、お祖父さんはある古文書の記述を見つけるのです」
師匠は文机に戻り、その引き出しから一冊の古びた本を取り出した。
「これは、お祖父さんが見つけたもので、死んだ座敷牢の住人を葬った、当主の弟にあたる人物が残した記録です」
やけにしんなりとした古い紙を慎重に捲りながら、ある頁に差し掛かったところで手を止める。
「彼はこの文書の中で、伯父の無残な死の有り様を克明に描写しているのですが、その死の間際にしきりに口走っていたという言葉も書き記しています。ここです」
真奈美さんの方を見ながら、確かめるようにゆっくりと指を紙の上に這わせた。
「ここにはこう書いています。『誰かがいる。誰かがいる』と」
その時、すぅっ、と扉の向こうの地下道から明かりが消えた。
真奈美さんは身体を震わせながら地下道への扉と、師匠の掲げる古文書とを交互に見やっている。泣き出しそうな顔で。
「あなたにぶつかったのは、誰だかわからない誰か…… あなたのお祖父さんも言っていたように、わたしのたどり着いた結論もそれです。それ以上のことを、どうしても知りたいのですか?」
師匠は静かにそう言って真奈美さんの目を正面から見つめた。
◆
淡々と語り終えた師匠の声の余韻が微かに耳に残る。
俺は鼻を摘まれても分からない暗闇の中で、ぞくぞくするような寒気を感じていた。
そしてまた声。
156: 連想T ◆LaKVRye0d.:2017/2/12(日) 06:21:44 ID:KYyA7Wj2II
595 :連想T ◆oJUBn2VTGE :2012/08/18(土) 23:28:49.50 ID:qKV0Rmwv0
「土蔵から出ようとした時、地下道の白熱灯は消えたままだった。土蔵の中はたよりない燭台の明かりしかなかったので、入り口のそばの照明のスイッチを押したが、なぜかそれまでつかなかった。
カチカチという音だけが響いて、地の底で光を奪われる恐怖がじわじわと迫ってきた。代真奈美さんが持ってきていた懐中電灯で照らしながら進もうとしたら、いきなりその明かりまで消えたんだ。
叩いても、電池をぐりぐり動かしてもダメ。地面の底で真っ暗闇。さすがに気持ちが悪かったね。で、悲鳴を上げる真奈美さんをなだめて、なんとか手探りで進み始めたんだ。
怖くてたまらないって言うから、手を握ってあげた。最初の角を右に曲がってすぐにまた左に折れると、あとほんの五メートルかそこらで本宅の地下の物置へ通じる階段にたどり着くはずだ。
だけど…… 長いんだ。やけに。暗闇が人間の時間感覚を狂わせるのか。それでもなんとか奥までたどり着いたさ。突き当たりの壁に。壁だったんだ。そこにあったのは。
階段がないんだよ。上りの階段が。暗闇の中で壁をペタペタ触ってると、右手側になにか空間を感じるんだ。手を伸ばしてみたら、なにもない。通路の右側の壁がない。
そこは行き止まりじゃなく、角だったんだ。ないはずの三つ目の曲がり角。さすがにやばいと思ったね。真奈美さんも泣き喚き始めるし。泣きながら、『戻ろう』っていうんだ。
一度土蔵の方へ戻ろうって。そう言いながら握った手を引っ張ろうとした。その、三つ目の曲がり角の方へ。わけが分からなくなってきた。戻るんなら逆のはずだ。
回れ右して真後ろへ進まなくてはならない。なのに今忽然と現れたばかりの曲がり角の先が戻る道だと言う。彼女が錯乱しているのか。わたしの頭がどうかしてるのか。なんだか嫌な予感がした。
いつまでもここにいてはまずい予感が。真奈美さんの手を握ったまま、わたしは言った。『いや、進もう。土蔵には戻らないほうがいい』 それで強引に手を引いて回り右をしたんだ。
回れ右だと、土蔵に戻るんじゃないかって? 違う。その時わたしは直感した。
どういうわけかわからないが、わたしたちは全く光のない通路で知らず知らずのうちにある地点から引き返し始めていたんだ。三つ目の曲がり角はそのせいだ。
157: 連想T ◆LaKVRye0d.:2017/2/12(日) 06:24:44 ID:KYyA7Wj2II
600 :連想T ◆oJUBn2VTGE :2012/08/18(土) 23:32:38.41 ID:qKV0Rmwv0
本宅と土蔵をつなぐ通路には、どちらから進んでも右へ折れる角と左へ折れる角が一つずつしかない。そしてその順番は同じだ。最初に右、次に左だ。
土蔵から出たわたしたちはまず最初の角を右、次の角を左に曲がった。そして今、さらに右へ折れる角にたどり着いてしまった。
通路の構造が空間ごと捻じ曲がってでもいない限り、真っ直ぐ進んでいるつもりが、本宅側の出口へ向かう直線でUターンしてしまったとしか考えられない。心理の迷宮だ。
だったらもう一度回れ右をして戻れば、本宅の方へ帰れる。『来るんだ』って強引に手を引いてね、戻り始めたんだよ。ゆっくり、ゆっくりと。壁に手を触れたまま絶対に真っ直ぐ前に進むように。
その間、誰かにぶつかりそうな気がしていた。誰だかわからない誰かに。でもそんなことは起こらなかった。わたしがこの家の人間じゃなかったからなのか。でもその代わりに奇妙なことが起きた。
土蔵に戻ろう、土蔵に戻ろうと言って抵抗する真奈美さんの声がやけに虚ろになっていくんだ。ぼそぼそと、どこか遠くで呟いているような。そして握っている手がどんどん軽くなっていった。
ぷらん、ぷらんと。まるでその手首から先になにもついていないみたいだった。
楽しかったね。最高の気分だ。笑ってしまったよ。そうして濃霧を振り払うみたいに暗闇を抜け、階段にたどり着いた。
上りの階段だ。本宅へ戻ったんだ。真奈美さんの手の感触も、重さもいつの間にか戻っていた」
チリチリ……
黒い布の下でオイルランプが微かな音を立てている。酸素を奪われて呻いているかのようだ。
奇妙な出来事を語り終えた師匠は口をつぐむ。僕の意識も暗闇の中に戻される。息苦しい。
「その依頼は結局どうなったんです」
口を閉じたままの闇に向かって問い掛ける。
158: 連想T ◆LaKVRye0d.:2017/2/12(日) 06:27:23 ID:KYyA7Wj2II
604 :連想T ◆oJUBn2VTGE :2012/08/18(土) 23:34:33.10 ID:qKV0Rmwv0
「分からないということが分かったわけだから、達成されたことになる。正規の料金をもらったよ。まあ、金払いの悪いような家じゃないし。それどころか、料金以外にも良い物をもらっちゃった」
ガサガサという音。
「あった。土蔵で見つけたもう一つの古文書だよ」
何かが掲げられる気配。
「これは、そこに存在していたこと自体、真奈美さんには教えていない。彼女の祖父はもちろん知っていたようだけど」
それはもらったんじゃなくて勝手に取ってきたんじゃないか。
「なんですかそれは」
「なんだと思う?」
くくく……
闇が口を薄く広げて笑う。
「座敷牢に幽閉されていたその男自身が記した文書だよ」
紙をめくる音。
「聡明で明瞭な文章だ。あの土蔵で起こったことを克明に記録している。明瞭であるがゆえに、確かに『ものぐるいなりけり』と言うほかない。それほどありえないことばかり書いている。
彼は三日に一度、寝ている間に右手と左手を入れ替えられたと言っている。何者かに、だ。左腕についている右手の機能について詳細に観察し、記述してある。
それだけじゃない。ある時には、右手と左足を。ある時には、右足と首を。そしてまたある時には文机の上の蝋燭と、自分の顔を、入れ替えられたと書いている」
師匠の言葉に、奇怪な想像が脳裏をよぎる。
「わたしがこの古文書を持ち出したのは正しかったと思っている。危険すぎるからだ。これがある限り、あの家の怪異は終わらないと思う。そしてなにかもっと恐ろしいことが起こった可能性もある。
その座敷牢の住人は、最後には自分の顔と書き留めてきた記録とを入れ替えられたと言っている」
書き留めてきた記録? それは今師匠が手にしているであろう古文書のことではないのか。
159: 連想T ◆LaKVRye0d.:2017/2/12(日) 06:30:51 ID:QWoUZ5elQQ
609 :連想T ラスト ◆oJUBn2VTGE :2012/08/18(土) 23:36:36.02 ID:qKV0Rmwv0
「そうだ。彼はそこに至り、ついに自分の書き記してきた記録を破棄しようとした。忌まわしきものとして、自らの手で破こうとしたんだ。最後に冷静な筆致でそのことが書かれている。
それは成功したのだろうか。彼は顔の皮を自分で引き剥がして死んでいる。彼が破いたものはいったいなんだったのか。そして、現代にまで残るこの古文書は、いったい……」
ゆがむ。闇がゆがむ。
異様な気配が渦を巻いている。
「それからだ。わたしはよくぶつかるようになった。あの地下道ではなく、明かりを消した自分の部屋や、その辺のちょっとした暗がりで。誰だかわからない誰かと……」
ぐにゃぐにゃとゆがむ闇の向こうから、師匠の声が流れてくる。いや、それは本当に師匠の声なのか。
川沿いに立つ賃貸ガレージの中のはずなのに、地面の下に埋もれた空洞の中にいるような気がしてくる。
「そこで立って歩いてみろよ」
囁くようにそんな声が聞こえる。
僕は凍りついたように動かない自分の足を見下ろす。見えないけれど、そこにあるはずの足を。
今は無理だ。
ぶつかる。ぶつかってしまう。
ここがどこだかも分からなくなりそうな暗闇の中、誰だか分からない誰かと。
そんな妖しい妄想に囚われる。
沈黙の時間が流れ、やがて目の前にランプの明りが灯される。覆っていた布を取が取り払われたのだ。黒い墓石に腰掛ける師匠の手にはもう古文書は握られていない。
「この話はおしまいだ」
指の背を顎の下にあて、挑むような目つきをしている。
そして口を開き「おじいちゃんじゃないかな、と言えばこんな話もある」と次の話を始めた。その言葉に反応したように、またまた別の不気味な気配がガレージの隅の一角から漂い始める。
降り積もるように静かに夜は更けていった。
(完)
160: 連想T ◆LaKVRye0d.:2017/2/12(日) 06:32:03 ID:QWoUZ5elQQ
連想T 【了】
161: 1 ◆LaKVRye0d.:2017/2/12(日) 06:47:04 ID:QWoUZ5elQQ
この『連想T』は、スレ主お気に入りの作品のひとつです
グロいオバケが出て来て怖がらせるのは誰にでも書けますが、こう言う、何だかよく解らないけれど怖い、ただ暗いだけ、暗闇の中で誰かにぶつかっただけなのにとてつもなく怖くてゾクゾクする、
そんな怖さを書くのがウニさんはお上手だなぁと思います
プロになった方に上手は失礼かもしれませんが、下手なホラー作家にガッカリさせられた事は一度や二度では無いのでw
今一番怖いのは、このスレもしかして需要無い…?と言う事です(T_T)
162: 空を歩く男 ◆LaKVRye0d.:2017/2/17(金) 05:01:06 ID:ZOkUPycZYs
空を歩く男
668 :空を歩く男 ◆oJUBn2VTGE :2012/09/01(土) 23:03:50.75 ID:itFWmvQ50
(この話は、2011年の夏コミの時に、別サークルの同人誌に寄稿したものです)
師匠から聞いた話だ。
大学一回生の春だった。
そのころ僕は、同じ大学の先輩だったある女性につきまとっていた。もちろんストーカーとしてではない。
初めて街なかで見かけたとき、彼女は無数の霊を連れて歩いていた。子どもの頃から霊感が強く、様々な恐ろしい体験をしてきた僕でも、その超然とした姿には真似の出来ない底知れないものを感じた。
そしてほどなくして大学のキャンパスで彼女と再会したときに、僕の大学生活が、いや、人生が決まったと言っても過言ではなかった。しかし言葉を交わしたはずの僕のことは、全く覚えてはいなかったのだが。
『どこかで見たような幽霊だな』
顔を見ながら、そんなことを言われたものだった。
そして、綿が水を吸うように、気がつくと僕は彼女の撒き散らす独特の、そして強烈な個性に、思想に、思考に、そして無軌道な行動に心酔していた。
いや、心酔というと少し違うかも知れない。ある意味で、僕の、すべてだった。
師匠と呼んでつきまとっていたその彼女に、ある日こんなことを言われた。
「空を歩く男を見てこい」
そらをあるくおとこ?
一瞬きょとんとした。そんな映画をやっていただろうか。いや、師匠の言うことだ。なにか怪談じみた話に違いない。
その空を歩く男とやらを見つければいいのか。
「どこに行けばいいんですか」と訊いてみたが、答えてくれない。なにかのテストのような気がした。ヒントはもらえないということか。
「わかりました」
そう言って街に出たものの、全く心当たりはなかった。
空を歩く男、というその名前だけでたどりつけるということは、そんな噂や怪談話がある程度は知られているということだろう。
正式な配属はまだだが、すでに出入りしていた大学の研究室で訊き込みをしてみた。
163: 空を歩く男 ◆LaKVRye0d.:2017/2/17(金) 05:03:52 ID:wBv.pXEq1w
669 :空を歩く男 ◆oJUBn2VTGE :2012/09/01(土) 23:06:25.24 ID:itFWmvQ50
地元出身者が多くないこの大学で、同じ一回生に訊いても駄目だ。地元出身ではなくとも、何年もこの土地に住んでいる先輩たちならば、そんな噂を聞き及んでいるかも知れない。
「空を歩く男、ねえ」
何人かの先輩をつかまえたが、成果はあまり芳しくなった。なにかそんな名前の怪談を聞いたことがある、というその程度だった。内容までは分からない。
所属していたサークルにも顔を出してみたが、やはり結果は似たりよったりだった。
さっそく行き詰った僕は思案した。
空を歩く、ということは空を飛ぶ類の幽霊や妖怪とは少しニュアンスが違う。しかも男、というからには人間型だ。他の化け物じみた容姿が伴っているなら、その特徴が名前にも現れているはずだからだ。
想像する。
直立で、なにもない宙空を進む男。
それは、なにか害をもたらすことで恐れられているようなものではなく、ただこの世の理のなかではありえない様に対してつけられた畏怖の象徴としての名前。
空を歩く男か。
それはどこに行けば見られるのだろう。空を見上げて、街じゅうを歩けばいつかは出会えるのだろうか。
近い怪談はある。例えば部屋の窓の外に人間の顔があって、ニタニタ笑っている。あるいはなにごとか訴えている。
しかしそこは二階や三階の高い窓で、下に足場など無く、人間の顔がそんな場所あっていいはずがなかった、というもの。
かなりメジャーで、類例の多い怪談だ。
しかし、空を歩く男、という名前の響きからは、なにか別の要素を感じるのだ。
結果的に空を歩いていたとしか思えない、というものではなく、空を歩いている、というまさにその瞬間をとらえたような直接的な感じがする。
…………
そらをあるくおとこ。
そんな言葉をつぶやきながら、数日間を悶々として過ごした。
◆
「知ってるやつがいたよ」
と教えてくれたのは、サークルの先輩だった。同じ研究室に、たまたまその話を知っている後輩がいたらしい。
164: 空を歩く男 ◆LaKVRye0d.:2017/2/17(金) 05:07:35 ID:wBv.pXEq1w
670 :空を歩く男 ◆oJUBn2VTGE :2012/09/01(土) 23:09:40.92 ID:itFWmvQ50
さっそく勢いこんで研究室に乗り込んだ。
「ああ、空を歩く男ですよね」
「知ってる知ってる」
僕と同じ一回生の女の子だった。それも二人も。どちらも地元出身で、しかも市内の実家に今も住んでいるらしい。
優秀なのだろう。うちの大学の学生で、地元出身の女性はたいてい頭がいいと相場決まっている。女の子だと、親があまり遠くにやりたくないと、近場の大学を受けさせる傾向がある。
その場合、本来もう少し高い偏差値の大学を狙えても、地元を優先するというパターンが多い。そんな子ばかりが来ているのだ。つまりワンランク上の偏差値の頭を持っている子が多いということになる。
「なんだっけ。幸町の方だったよね」
「そうそう。うちの高校、見たって子がいた」
「高校に出るんですか」
「違う違う。幸町だって。高校の同級生がそのあたりで見たの」
バカを見る眼で見られた。説明の仕方にも問題がある気がするのだが。
とにかく聞いた話を総合すると、このようになる。
『空を歩く男』はとある繁華街で、夜にだけ見られる。
なにげなく夜空を見上げていると、ビルに囲まれた狭い空の上に人影が見えるのだ。
おや、と目を凝らすとどうやらその人影は動いている。商店のアドバルーンなどではない。ちゃんと、足を動かして歩いているのだ。
しかしその人影のいる位置は周囲のビルよりさらに高い。ビルの間に張られたロープで綱渡りしているわけでもなさそうだった。
やがてその人影はゆっくりと虚空を進み続け、ビルの上に消えて見えなくなってしまった。明らかにこの世のものではない。
その空を歩く男を見てしまった人には呪いがかかり、その後、高いところから落ちて怪我をしたり、もしくは高いところから落ちてきたものが頭に当たったりして怪我をするのだという。
「その見たっていう同級生も怪我をした?」
「さあ。どうだったかなあ」
首を捻っている。
どうやら最後の呪い云々は怪談につきもののオマケようなものか。
165: 空を歩く男 ◆LaKVRye0d.:2017/2/17(金) 05:14:46 ID:wBv.pXEq1w
671 :空を歩く男 ◆oJUBn2VTGE :2012/09/01(土) 23:11:05.06 ID:itFWmvQ50
伝え聞いた人が誰かに話すとき、そういう怪異があるということだけでは物足りないと思えば、大した良心の呵責もなく、ほんのサービス精神でそんな部分を付け足してしまうものだ。
ツタンカーメン王の墓を暴いた調査隊のメンバーが次々と怪死を遂げたという『ファラオの呪い』は有名だが、実際には調査隊員の死因のみならず、死んだということさえ架空の話である。
その『呪い』はただの付け足された創作なのだ。発掘調査に関わった二十三人のその後の生死を調査したグループの研究では、発掘後の平均余命二十四年、死亡時の平均年齢七十三歳という結果が出ている。
なにも面白いことのない数字だ。
しかし、そんな怪異譚を盛り上げるための誇張やデタラメはあったとしても、ハワード・カーターを中心に彼らが発掘したツタンカーメン王の墓だけは真実である。
空を歩く男はどうだろうか。
そんな人影を見た、ということ自体は十分に怪談的だけれども、どこか妙な感じがする。
因縁話も絡まず、教訓めいた話の作りでもない。そこから感じられる恐ろしさは、その後のとってつけたような怪我にまつわる後日談からくるものではないだろうか。
なんだか本末転倒だ。つまり肝心の前半部分が、創作される必然性がないのである。
すべての要素が、こう告げている。
『空を歩く男は、実際に観測された』と。
その事実から生まれた怪談なのではないだろうか。
錯覚や、なにかのトリックがそこにはあるのかも知れない。
話を聞かせてくれた二人に礼を言って、僕は実際にその場所へ行ってみることにした。
◆
平日の昼間にその場所に立っていると変な感じだ。
繁華街の中でも飲み屋の多いあたりだ。研究室やサークルの先輩につれられて夜にうろつくことはあったが、昼間はまた別の顔をしているように感じられた。
表通りと比べて人通りも少なく、店もシャッターが閉まっている所が多い。道幅も狭く、少し寂しい通りだった。
なるほど。どのビルも大通りにあるビルほどは高くない。良くて四階、五階というところか。
166: 空を歩く男 ◆LaKVRye0d.:2017/2/17(金) 05:22:05 ID:wBv.pXEq1w
672 :空を歩く男 ◆oJUBn2VTGE :2012/09/01(土) 23:13:47.16 ID:itFWmvQ50
聞いた話から想像すると、この東西の通りの上空を斜めに横断する形で男は歩いている。恐らくは北東から南西へ抜けるように。
その周囲を観察したが、特に人間と見間違えそうなアドバルーンや看板の類は見当たらなかった。
当然昼間からそれらしいものが見えるわけもなく、僕は近くの喫茶店や本屋で日が暮れるまでの間、時間をつぶした。
太陽が沈み、会社員たちが仕事を終えて街に繰り出し始めると、このあたりは俄かに活気づいてくる。店の軒先に明かりが灯り、陽気な話し声が往来に響き始める。
その行き交う人々の群の中で一人立ち止まり、じっと空を見ていた。
曇っているのか月の光はほとんどなく、夜空の向こうにそれらしい影はまったく見えなかった。
仮に…… と想像する。
この東西の通りでヘリウムが充満した風船を持ち、その紐が十メートル以上あったら。その風船が人間を模した形をしていたら。そして紐が一本ではなく両足の先に一本ずつそれぞれくっついていたとしたら。
下から紐を操ることで人型の風船がまるで歩いているよう見えないだろうか。
今日と同じように月明かりもなく、下から強烈に照らすような光源もなければ、周囲のビルよりも遥かに高い場所にあるその風船を、本物の人影のように錯覚してしまうことがあるのではないだろうか。
その人影に気づいた人は驚くだろう。そしてそちらにばかり気をとられ、その真下の雑踏で不審な動きをしている人物には気づかないに違いない。
誰がなぜそんなことを? という新たな疑問が発生するが、とりあえずはこれで再現が可能だという目星はついた。
結局その後小一時間ほどうろうろしてから、飽きてしまったのでその日はそれで帰ったのだった。
次の日、師匠にそのことを報告すると、呆れた顔をされた。
「情報収集が足らないな」
「え?」
「風船かも知れないなんて、誰でも思いつくよ」
師匠は自分のこめかみをトントンと指で叩いて見せる。
「だいたい人影は最終的に通りのビルを越えてその向こうに消えてるんだ。下から操っている風船でどう再現する?」
167: 空を歩く男 ◆LaKVRye0d.:2017/2/17(金) 05:27:33 ID:ZOkUPycZYs
674 :空を歩く男 ◆oJUBn2VTGE :2012/09/01(土) 23:16:30.24 ID:itFWmvQ50
あ。
そのことを失念していた。今さらそれを思い出して焦る。
「ちゃんと噂を集めていけば、その人影を見た人間が呪われて、高い所から落ちて怪我をするというテンプレートな後日譚が、別の噂が変形して生まれたものだと気がつくはずなんだ」
「別の噂?」
空を歩く男の話にはいくつかのバージョンがあるのだろうか。
「あの通りでは、転落死した人が多いんだよ。飲み屋街の雑居ビルばかりだ。酔っ払って階段から足を踏み外したり、低い手すりから身を乗り出して下の道路に落下したり。
何年かに一度はそんなことがある。そんな死に方をした人間の霊が、夜の街の空をさまよっているんだと、そういう噂があるんだ」
しまった。
たった二人から聞いて、それがすべてだと思ってしまった。怪談話など、様々なバリエーションがあってしかるべきなのに。
あと一度しか言わないぞ。
そう前置きして、師匠は「空を歩く男をみてこい」と言った。
「はい」情けない気持ちで、そう返事をするしかなかった。
◆
それから一週間、調べに調べた。
最初に話を聞かせてくれた同じ一回生の子に無理を言って、その空を歩く男を見たという同級生に会わせてもらったり、他のつても総動員してその怪談話を知っている人に片っ端から話を聞いた。
確かに師匠の言うとおり、あの辺りでは転落事故が多いという噂で、それがこの話の前振りとして語られるパターンが多かった。
実際に自分が目撃したという人は、その最初の子の同級生だけだったが、あまり芳しい情報は得られなかった。
夜にその東西の通りでふと空を見上げたときに、そういう人影を見てしまって怖かった、というだけの話だ。
それがどうして男だと分かったのか、と訊くと『空を歩く男』の怪談を知っていたからだという。
168: 空を歩く男 ◆LaKVRye0d.:2017/2/17(金) 05:30:37 ID:wBv.pXEq1w
675 :空を歩く男 ◆oJUBn2VTGE :2012/09/01(土) 23:19:22.75 ID:itFWmvQ50
最初から思い込みがあったということだ。暗くて遠いので顔までは当然見えないし、服装もはっきり分からなかった。ただスカートじゃなかったから……
そんな程度だ。見てしまった後に、呪いによる怪我もしていない。
ただ記憶自体はわりとはっきりしていて、彼女自身が創作した線もなさそうだった。その正体がなんにせよ、彼女は確かになにかそういうものを見たのだろう。
これはいったいなんだろうか。
本物の幽霊だとしたら、どうしてそんな出方をするのだろう。地上ではなく、そんな上空にどうして?
霊の道。
そんな単語が頭に浮かんだ。霊道があるというのだろうか。なぜ、そんな場所に? 少しぞくりとした。見るしかない。自分の目で。考えても答えは出ない。
僕はその通りに張り付いた。日暮れから、飲み屋が閉まっていく一時、二時過ぎまで。しかし同じ場所に張っていても、周囲を練り歩いても、それらしいものは見えなかった。
焦りだけが募った。
死者の気持ちになろうともしてみた。あんなところを歩かないといけない、その気持ちを。
気持ちよさそうだな。
思ったのはそれだけだった。
目に見えない細い細い道が、暗い空に一本だけ伸びていて、その道から落ちないようにバランスをとりながら歩く……
落ちれば地獄だ。かつて自分が死んだ、汚れた雑踏へ急降下し、その死を再び繰り返すことになる。
落ちてはいけない。
では落ちなければ?
落ちずに道を進むことができれば、その先には?
人の世界から離れ、彼岸へ行くことができるということか。そんな寓意が垣間見えた気がした。
その通りに張り付いて二日目。
僕は少し作戦を変えて、飲み屋街のバーに客として入った。そこで店を出している人たちならば、この空を歩く男の噂をもっとよく知っているかも知れないと思ったのだ。
169: 空を歩く男 ◆LaKVRye0d.:2017/2/17(金) 05:34:49 ID:ZOkUPycZYs
676 :空を歩く男 ◆oJUBn2VTGE :2012/09/01(土) 23:23:22.41 ID:itFWmvQ50
仕送りをしてもらっている学生の身分だったので、あまり高い店には行けない。
女の子がつくような店ではなく、カウンターがあって、そこに座りながらカクテルなどを注文し、飲んでいるあいだカウンター越しにマスターと世間話が出来る。そんな店がいい。
このあたりでは居酒屋にしか入ったことがなかったので、行き当たりばったりだ。とにかくそれっぽい店構えのドアを開けて中に入った。
薄暗い店内には古臭い横文字のポスターがそこかしこに張られていて、気取った感じもなくなかなか居心地が良さそうだった。控えめの音量でオールディーズと思しき曲がかかっている。
お気に入りのコロナビールがあったのでそれを注文し、気さくそうな初老のマスターにこのあたりで起こる怪談話について水を向けてみた。
聞いたことはある、という返事だったが実際に見たことはないという。入店したときにはいた、もう一人の客もいつの間にかいなくなっていたので、仕方なくビール一杯でその店を出る。
それから何軒かの店をハシゴした。
マスターやママ自身が見たことがある、という店はなかったが、従業員の中に一人だけ目撃者がいた。そしてそれとなく店内の常連客に話を振ってくれて、「そう言えば、昔見たことがあるなあ」という客も一人見つけることができた。
しかし話を聞いても、どれも似たり寄ったりの話で、結局その空を歩く男の正体もなにも分からないままだった。
せめて、どういう条件下で現れるのか推測する材料になれば良かったが、話を聞いた二人とも日付や天気の状況などの記憶が曖昧で、見た場所も人影が進んだ方角もはっきりとしなかった。
ただ、夜中に足場もなにもない非常に高い上空を歩く人影を見た、ということだけが一致していた。そして特にその後、事故などには遭わなかったということも。
一軒一軒ではそれほど量を飲まずに話だけ聞いて退散したのだが、聞き込みの結果が思わしくなく、ハシゴを重ねるごとに酔いが回り始めた。
何軒目の店だったか、それも分からなくなり、かなり酩酊した僕がその地下にあったロカビリーな店を出た頃にはもう日付が変わっていた。
「ちくしょう」
170: 空を歩く男 ◆LaKVRye0d.:2017/2/17(金) 05:41:05 ID:ZOkUPycZYs
678 :空を歩く男 ◆oJUBn2VTGE :2012/09/01(土) 23:24:58.38 ID:itFWmvQ50
という、酔っ払いが良く口にする言葉を誰にともなく吐き出しながら、ふらふらと狭い階段を上り、地上に出る。
空を見上げても暗闇がどこまでも広がっているだけで、何の影も見当たらなかった。そのときだった。
「にいさん、にいさん」
そう後ろから声を掛けられた。
振り返ると、よれよれのジャケットを着た赤ら顔の男が手のひらでこちらを招く仕草をしている。
「なんです」
このあたりでは尺屋、という民家の一室を使った非合法の水商売があるのだが、一瞬、その客引きではないかと思ったが、しかしこう酔っ払っていては仕事になるまい。
「さっき、中であの怪談の話をしてたろう」
ああ、なんださっきの店にいた客か。しかしどうしてわざわざ店を出てから声をかけてくるんだ?
そんなことを考えたが、それ以上頭が回らなかった。
「だったら、なんれす」ろれつも回っていない。
「知りてえか」
「なにを」
「空の、歩きかた」
男は酒焼けしたような赤い顔を近づけてきて、確かにそう言った。
「いいですねえ。歩きましょう!」
「そうか。じゃあついてきな」
ふらふらとしながら男は、まだ酔客の引かない通りを先導して歩き出した。五十歳くらい、いやもう少し上だろうか。
変なおっさんだ。
さっきロカビリーな髪型のマスターが他の客に声をかけても、誰もそんな怪談話を知らなかったのに。なんであのとき黙ってたんだ。あれ? そもそもあんなオッサン、店にいたかな。
そんなことを考えていると、おっさんが急に立ち止まり、また顔を近づけてきてこう言った。
「あそこにはな、道があるんだ。目に見えない道が。でも普通の人じゃあ、まずたどり着けないのさあ」
171: 空を歩く男 ◆LaKVRye0d.:2017/2/17(金) 05:46:57 ID:wBv.pXEq1w
679 :空を歩く男 ◆oJUBn2VTGE :2012/09/01(土) 23:26:43.71 ID:itFWmvQ50
おや?
おっさんの言葉ではなく、なにか別の、違和感があった気がした。
正面から顔を見ると、頬は肉がタブついていて、はみ出した鼻毛と相まってだらしない印象だった。しかしどこか愛嬌のある顔立ちだ。
そのどこに違和感があったのだろう。まあ、いいや。
アルコールがいい感じに脳みそを痺れさせている。
「周りのビルより高い場所だ。そんなところに道なんてあるわけがない。そう思うだろ。でもなあ、そうじゃあないんだ。あの道はな……」
「北の通りの、高層ビルからでしょう」
おっさんは驚いた顔をした。
「おおよぅ。わかってんじゃねえか兄ちゃん」
そうなのだ。
この東西の通りに面したビルは高くとも四、五階だ。しかし離れた通りのビルにはもっと高いものがある。その北の通りに面した高層ビルから伸びているのだ。その空の道は。
酔いにかき回された頭が、ようやくそんな単純な答えにたどり着いていた。
そしてもっと南の通りにも高いビルがある。そこまで伸びているのか。あるいは、そのまま人の世界ではない、虚空へと伸びていく道なのか。
「霊道なんでしょう」
負けじと顔をおっさんの鼻先に突き出す。しかしおっさんは、にやりと笑うと「違うねえ」と言った。
「本当に道があるんだよ。いいからついてきな。知ってるやつじゃなきゃ絶対に分からない、あそこへ行く道が、一本だけあるんだ」
そしてまた頼りない足取りで繁華街を進んでいく。
なんだこのおっさんは。意味がわからない。しかしなんだか楽しくなってきた。
「さあ、こっちだ」
おっさんは三叉路で南に折れようとした。
「ちょっとちょっと、北の通りでしょ。そっちは南」
たぶん目的地は北の大通りの、屋上でビアガーデンをやっているビルだ。方向が違う。
しかしおっさんは不敵な笑みを浮かべて人差し指を左右に振った。
「北に向かうのに、そのまま北へ向かうってぇ常識的な発想が、この道を見えなくしてんだよ」
172: 空を歩く男 ◆LaKVRye0d.:2017/2/17(金) 05:51:22 ID:ZOkUPycZYs
682 :空を歩く男 ◆oJUBn2VTGE :2012/09/02(日) 00:04:30.97 ID:xOvjnYct0
そんなことを言いながらふらふらと南の筋に入り、やがてその通りにあったビルとビルの隙間の細い路地へ身体をねじ込み始めた。太り気味の身体にはいかにも窮屈そうだった。
だめだ。酔っ払いすぎだ、これは。
「いいから、ついてこい。世界は折り重なってんだ。同じ道に立っていても、どこからどうやってそこへたどり着いたかで、まったく違う、別の道の先が開けるってこともあるんだ」
うおおおおおおおおお。
そんなことを勢い良くわめきながら、おっさんは雑居ビルの狭間へ消えていった。なんだか心魅かれるものがあった僕も、酒の勢いを駆ってついていく。
それから僕とおっさんは、廃工場の敷地の中を通ったり、古いアパートの階段を上って、二階の通路を通ってから反対側の階段から降りたり、
居酒屋に入ったかと思うと、なにも注文せずにそのまま奥のトイレの窓から抜け出したりと、無茶苦茶なルートを進みながら少しずつまた北へ向かい始めた。
ますます楽しくなってきた。街のネオンがキラキラと輝いて、すべてが夢の中にいるようだった。
気がつくと、また最初の幸町の東西の通りに戻っていた。随分と遠回りしたものだ。
「どうやって知ったんですか、この空への道」
「ああん?」
先を歩くおっさんの背中に問い掛ける。
「おれも、教えてもらったのよ」
「誰から」
「知らねえよ。酔っ払った、別の誰かさぁ」
おっさんも別の酔っ払いから聞いたわけだ。その酔っ払いも別の酔っ払いから聞いたに違いない。空を歩く道を!
その連鎖の中に僕も取りこまれたって、わけだ。光栄だなあ。僕も空を歩くことができたら、今度は師匠にもその道を教えてやろう。
そんなことを考えてほくそ笑んでいると、おっさんは薄汚れた雑居ビルの階段をよっちらよっちらと上り始めた。ほとんどテナントが入っていない、古い建物だった。
最上階である四階のフロアまで上がると、奥へ伸びる通路を汚らしいソファーやらなにかの廃材などが塞いでいた。
173: 空を歩く男 ◆LaKVRye0d.:2017/2/17(金) 05:54:41 ID:wBv.pXEq1w
683 :空を歩く男 ◆oJUBn2VTGE :2012/09/02(日) 00:05:27.69 ID:itFWmvQ50
「おい、通れねえぞ」
おっさんがわめいて僕に顎をしゃくって見せるので、仕方なく力仕事を買って出て、障害物を取り除いた。
また気分よくおっさんは鼻歌をうたいながら通路を進む。やけに長い通路だった。さっきの東西の通りから、一本奥の通りまでぶち抜いているビルなのかも知れない。
その鼻歌はなにか、酒に関する歌だった。どこかで聞いたことはあるが、世代の古い歌だったので、タイトルまでは思い出せなかった。
なんだっけ?
酒の、酒が、酒と。
そんなことを考えていると、ふいに、頭に電流が走ったような衝撃があった。
あ。
そうか。
違和感の正体が分かった。
急に立ち止まった僕に、おっさんは振り返ると「どうした、にいちゃん」と声をかけてくる。
そうか。あの時感じた違和感。おっさんが僕に顔を近づけて、あそこには目に見えない道がある、と言ったときの。
あれは……
足が震え出した。そしてアルコールが頭から急に抜け始める。
「どうしたぁ。先に行っちまうぞ」
その暗い通路は左右を安っぽいモルタル壁に囲まれ、遠くの非常灯の緑色の明かりだけがうっすらと闇を照らしていた。
おっさんはじりじりとして、一歩進んで振り返り、二歩進んで振り返り、という動きしている。
僕はアルコールが抜けていくごとに体温も奪われていくのか、猛烈な寒気に襲われていた。
そうだ。
おっさんは、息がかかるほど顔を突き出したのに、酒の匂いがしなかった。あの赤ら顔で、千鳥足で、バーから出てきたばかりなのに。そのバーに、そもそもあのおっさんはいなかった。
今日ハシゴした他の店にも。客からあの話を訊くことも目的だったので、すべての店でどんな客がいるか観察していたはずなのだ。
なのに、おっさんは僕が空を歩く男の話を訊いて回っていたことを知っていた。まるで目に見えない客として、あのいずれかのバーにいたかのように。
174: 空を歩く男 ◆LaKVRye0d.:2017/2/17(金) 05:56:58 ID:wBv.pXEq1w
684 :空を歩く男 ◆oJUBn2VTGE :2012/09/02(日) 00:07:40.66 ID:xOvjnYct0
「どうした」
声が変わっていた。
おっさんは冷え切ったような声色で、「きなさい」と囁いた。
ガタガタ震えながら、首を左右に振る。
通路の暗闇の奥で、おっさんの顔だけが浮かんで見える。
沈黙があった。
そうか。
小さな声がすうっと空気に溶けていき、その顔がこちらを向いたまま暗闇の奥へと消えていった。
それからどれくらいの時間が経ったのか分からない。
金縛りにあったかのようにその場で動けなかった僕も、外から若者の叫び声が聞こえた瞬間に、ハッと我に返った。酔っ払った仲間がゲロを吐いた、という意味の、囃し立てるような声だった。
僕は気配の消えた通路の奥に目を凝らす。
そのとき、頬に触れるかすかな風に気がついた。その空気の流れは前方からきていた。
三メートルほど進むと、その先には通路の床がなかった。一メートルほどの断絶があり、その先からまた通路が伸びていた。
ビルとビルの隙間に、狭い路地があった。長く感じた通路は、一つのビルではなく二つのビルから出来ていた。
崖になっている通路の先端には、手すりのようなものの跡があったが、壊されて原型を留めていなかった。向こう側の通路の先も同じような状態だった。
知らずに手探りのまま足を踏み出していれば、この下の路地へ落下していただろう。四階の高さから。
生唾を飲み込む。
最後に「きなさい」と言ったおっさんの顔は、あの断絶の向こう側にあった。
そうか。僕は導かれていたのだ。折り重なった、異なる世界へ。
ビルとビルの狭間へ転落する僕。そして別の僕は、自分が死んだことにも気づかず、そのまま通路を通り抜け、導かれるままに秘密の道を潜り、あの空への道へと至るのだ。高層ビルの屋上から、足を踏み出し……
そこは壮観な世界だろう。
遥か足元にはネオンの群れ。大小の雑居ビルのさらに上を通り、酔客たちの歩く頭上を、気分良く歩いて進む。
175: 空を歩く男 ◆LaKVRye0d.:2017/2/17(金) 06:00:34 ID:ZOkUPycZYs
685 :空を歩く男 ラスト ◆oJUBn2VTGE :2012/09/02(日) 00:08:48.45 ID:xOvjnYct0
夜の闇の中に、目に見えない一筋の道がある。それは折り重なった別の世界の住民だけにたどることの出来る道なのだ。
はあ。
闇の中に冷たい息を吐いた。
僕はビルの階段を降り、通行人の減り始めた通りに立った。もう夜の底にわだかまった熱気が消えていく時間。人々がそれぞれの家へ足を向け、ねぐらへと帰る時間だ。遠くで二度三度と勢いをつけながらシャッターを閉めている音が聞こえる。
そして僕は振り仰いだ星の見えない夜空に、空を歩く男の影を見た。
◆
「殺す気だったんですか」
師匠にそう問い掛けた。
そうとしか思えなかった。師匠はすべて知っていたはずなのだ。かつての死者が新しい死者を呼ぶ、空へ続く道の真相を。
いくらなんでも酷い。
そう憤って詰め寄ったが、そ知らぬ顔で「まあそう怒るな」と返された。
「まあ、ちゃんと見たんだから合格だよ。優良可でいうなら、良をあげよう」
なんだ偉そうにこの人は。ムカッとして思わず睨むと、逆に寒気のするような眼に射すくめられた。
「じゃあ、優はなんだっていうんですか」
僕がなんとか言い返すと、師匠は暗い、光を失ったような瞳をこちらに向けて、ぼそりと囁く。
「わたしは、空を歩いたよ」
そして両手を、両手を羽ばたくように広げて見せた。
うそでしょう。そんな言葉を口の中で転がす。
「臨死体験でもしたって言うんですか」
僕が訊くと、師匠は「どうかな」と言って笑った。
空を歩く男 【了】
176: 信号機 ◆LaKVRye0d.:2017/2/19(日) 01:27:42 ID:niLTnM81LA
『信号機』
夜だった。
サークルの後輩の家で酒を飲み、深夜一時を回ったころに「じゃあな」と自転車に跨って一人家路についた。
通り過ぎる市街地は人影もまばらで、暗くて顔も見えない人々はしかし皆一様に白い袋を手にしている。コンビニの袋なのだろう。
学生の多い街だ。繁華街からは外れた場所をこんな時間に出歩いている人が寄るところといったら決まっている。
自分もこの帰路の途中、どこのコンビニに寄るべきか、頭の中に地図を広げ始める。
しかし自分の頭の中だと言うのに厚い紙が入念に折り畳まれていて上手に広げられず悪戦苦闘していた。やはり酔っているのだろう。
赤信号が見えてブレーキをかけた。
交差点だ。
車など一台も見えないが、黄色の点滅ではない。信号機は普通のパターンのようだ。
片側一車線で、この時間帯なら全方位黄色の点滅でいいだろうに。
そんなことをぶつぶつと頭の中でつぶやきながらそれでも自転車を降りて信号が変わるのを待った。
我ながら順法意識の低い学生のこと。普段なら赤信号だろうが、車が迫っていようが、いけると判断したら渡るのに、その時は酔いで頭の中がシンプルになっていた。
赤は止まれ。青は進め。……黄色はなんだったか。まあいい。
立ったままうとうとしかけて、歩行者用信号機から赤いマークがふっ、と消えたのに気づき、あ、進まなきゃ、と思う。
その時、なんの前触れもなく自分のすぐ横を誰かが先に通り過ぎた。
あれ? 他に人がいたかな。
そう思って前を見たが、街灯に薄っすらと照らされた白と黒の縞模様が道路に伸びているだけで、人の姿はどこにもなかった。
では通り過ぎた誰かはどこに行ったのか。
ぼんやりと顔を正面に向けると歩行者用の信号機が目に入った。動きの鈍い頭の中に氷の一片がさし込まれたように、感覚が急にクリアになった。
ゾクリ……
首筋に走る、嫌な感覚。
その時、自分の頭の中に走馬灯のように思い出されたことがあった。そうだ。あれは、師匠から聞いた話だった。
177: 信号機 ◆LaKVRye0d.:2017/2/19(日) 01:30:21 ID:niLTnM81LA
◆
その日、僕は加奈子さんと市内のハンバーガーショップで昼食をとっていた。
二階の窓際の席に陣取り、道行く人々を見下ろしながら心にうつりゆくよしなしごとをそこはかとなく語り合っていると、ふいに加奈子さんが右手遠方を見つめ、「うん?」と首を傾げた。
「なんですか」
僕も一面ガラス張りの窓からそちらを覗き込むが、特に変わったことはないように見えた。
「あそこ、信号のとこ。一人いるだろ」
そう言われてよく見ると、遠くの横断歩道のところに、一人だけ誰か立っているのが見えた。
もう一度言う。よく見ると、つまり目を凝らしたら見えたのだ。
ぼんやりと視線を向けただけでは見えなかった。その誰かは。
「お化けがいるなあ」
加奈子さんはコーラのカップから伸びるストローを噛みながらぼんやりとそう呟く。
この距離で良く気づくものだ。感心ながらまじまじと見ていると、その横断歩道で立ち止まっている誰かはまったく動き出す様子がなかった。
信号が変わって、通行人が一斉に歩き出してもその人物だけはその場に立ち止まったままだった。また別の人々が横断歩道の前に溜まり、再び信号が青になってもその光景が繰り返される。何度もだ。
「あれ何してんのかなあ」
「何してるんでしょうね」
「おい」
「え」
加奈子さんが急に顔をこちらに向けた。
「ちょっと言って、訊いてこい」
「は?」
ストローから口を離したかと思うと、カップを持つ手から人差し指だけを立ててこちらに向ける。
「だから、今からあそこ行って、何してんのか訊いてこい」
「はあ」
しぶしぶ立ち上がる。
加奈子さんは冷めかけたポテトの欠片を指先で探りながらまた窓の外に目をやっている。
僕は飲み物や食べかけのバーガーを残したまま一人だけで階段を降り、ハンバーガーショップの外に出る。
178: 信号機 ◆LaKVRye0d.:2017/2/19(日) 01:33:24 ID:niLTnM81LA
また階段を上り、戻って来た時も加奈子さんは同じポーズで窓の外を見ていた。
席に着くと、心なしか僕のバーガーが小さくなっている。持ち上げてじっと眺めていると、「どうだった」という声。
「ええと。なんか、信号を待っているそうです」
「信号? 何度も青になってるじゃん」
「いや、それが歩行者用の信号って、人間が歩いてるマークが青で、真っ直ぐ立ってるマークが赤じゃないですか」
「そうだな」
「自分は違うそうです」
「は?」
「いや、ほら。足が……」
「ないからって?」
師匠は呆れたように顔をしかめる。
「はい。信号が進んでいいマークに変わらないからずっと待ってるとかなんとか……」
「お化け用の信号なんてあるか!」
バカじゃないの。
師匠はテーブルを叩く。
「じゃああいつ、ずっとあそこで待ってるつもりか」
「さあ。たぶん」
窓の向こうに目をやると、横断歩道のところにまだその人影がじっとしているのが見えた。歩き出す人々からぽつりと一人離れて。
「あいつ死にたてなのかな」
「さあ。たぶん」
僕は小さくなったように見えるバーガーの、キツネ色のパンズの上に残る小さな歯型を眺めている。
加奈子さんは何かぶつぶつ言っていたが、やがて顔を上げて口を開いた。
「いくらなんでも、そんなことでこの先やっていけるのか」
怒ったような口調だった。
知りませんよ、そんなこと。
加奈子さんはいきなり立ち上がった。
「説教してくる」
そして僕が止めるのも聞かず、さっさと階段を下りていってしまった。
残された僕は溜め息をついてから向かいの席の食べ物を漁ろうとした。
しかしポテトの欠片一つ残ってはいなかった。
179: 信号機 ◆LaKVRye0d.:2017/2/19(日) 01:35:21 ID:niLTnM81LA
戻ってきた加奈子さんは、少し不機嫌そうだった。
「どうでした」
この窓から見ていた限りでは、横断歩道の前で身振り手振りで加奈子さんが何か言っている間にその人影は消えてしまった。
白昼に、人間が一人消えてしまったことよりも、誰もいない場所に一人で喚いている女性に対して道行く人々は気味の悪そうな視線を向けている。
元々僕ら以外の誰にも見えていないのだ。その生真面目なお化けは。
「駄目だ。びびって消えた」
「優しく言わないからでしょう」
「別に怒鳴ったわけじゃない。教えてやっただけだ」
「教えるって、なにをですか」
師匠はそこで、持ち上げたコーラのカップの予想外の軽さに驚いた顔をしてから、ニヤリと笑って、言った。
「信号の渡り方」
そうして、「お化けの」と付け加えてからテーブルに空のカップを置いた。
180: 信号機 ◆LaKVRye0d.:2017/2/19(日) 01:38:13 ID:niLTnM81LA
◆
ゾクゾクしている。首筋が。
トットット…… 心臓の音が早い。そのリズムでアルコールを含んだ血液を全身に流している。
なのに頭は酩酊から冷めている。
街灯の明かりしかない夜の交差点。横断歩道の信号が変わり、夜目にも毒々しい赤い『止まれ』のマークが消えたばかり。
しかし動けない。歩き出せないでいる。
信号機は消えたままなのだ。赤だけではなく、青も。
どちらの明かりも消えたままだった。
歩行者用だけではない。自動車用の信号機も灯が消え、暗闇の中にぼんやりとその無機質な姿が浮かび上がっている。
真夜中、時間が止まったような光景だった。ただ目に見えない気配だけが、無人の横断歩道を渡って行く。
ついて行ってはいけない。それだけは分かった。
噂は聞いたことがあった。市内で、夜に信号がすべて消えたら動いてはいけない。人ではないものが、通り過ぎる時間だから……
その噂は、数年前から聞かれるようになったという。わりに新しい噂話だ。けれど広まるのは一瞬だ。口から口へ、耳から耳へ。
自転車のハンドルを支えながら、色と、音のない世界でじっと立ち尽くしている。気配が横断歩道の向こうへ消えて行くまで。
その間、頭の中に地図を広げる。夜の街の網目のように張り巡らされたすべての路地を幻視する。
そこには目に見えない噂話が音にならない囁きとともにゆっくりと流れている。
やがて我に返ると、青い歩行者のマークが点灯していることに気づく。
遠くから大きな猫の目のようなヘッドライトが減速しながら近づいてくる。
ペダルに足を掛けると、薄暗い横断歩道の向こう側で目に見えない誰かがもうそこで待っているような気がして、ひくりと息を飲んだ。
181: 趣味の話 ◆LaKVRye0d.:2017/2/19(日) 01:40:37 ID:niLTnM81LA
『趣味の話』
師匠から聞いた話だ。
僕の師匠は実に多趣味な人だった。
もちろんオカルト道の師匠であるからして、その第一はオカルトであるのだが、他にも色々なものに凝っていた。
中でもスポーツは大好きで、野球、プロレス、水泳、登山、ビーチバレー、短距離走と、節操なく手を出していた。
いずれも見るだけはなく自分でやっているのであって、そのバイタリティと運動神経には驚かされる。
特に足の速さは一級品であり、主に逃げ足などに活用されていた。
この不思議な魅力を持つ人物のことをもっと知りたくて、彼女を知る人に片っ端からインタビューを試みたことがあった。
曰く、
足が速い。
幽霊が見える。
金を貸している。
寝癖が爆発していることがある。
案外いいヤツ。
逃げ足速すぎ。
何を考えているのか分からない。
逃げる野良猫に追いついているのを見た。
ときどき気持ちの悪いことを言う。
キレると怖い。
女ジャイアン。
諦めが悪い。
ずうずうしい。
殺しても死なない。
金を貸していた気がする。
凄く足が速い。
食べ物をたかるのはやめて欲しい。
頭は良い。
痴漢したオッサンに一瞬でノーザンライトスープレックスをきめていた。
怪談話が好き。
お巡りさんに追いかけられているのを見た。
上から目線がひどい。
知ったかぶりをする。
足が速い。
教授に色目を使っている。
…………
182: 趣味の話 ◆LaKVRye0d.:2017/2/19(日) 01:42:59 ID:niLTnM81LA
等々、その特徴として足が速いことを挙げる人が多かった。
陸上部でもないのに、大学生にもなって足の速さを披露する機会が多いということ自体、彼女の普通ではない様を如実に表している気がする。
また、スポーツ以外でも興信所のバイトで探偵まがいのことをしていたり、地区の消防団に入っていたり、と実に活動の幅が広い。
ただ、その本質は飽きっぽいのであり、長く続いている趣味の後ろには、手を出したものの三日と続かなかったようなものが山を作っている。
例えばホーミー。
モンゴルの伝統的な歌唱法と言うか、発声法で、唸るような低い声と同時に甲高い笛のような音が聞こえてくるという代物だ。
なにかのテレビで見たらしく、さっそく試してみたようだ。実際にその音が出ると嬉しくなったのか、さらなる練習を重ね、口ホーミーから喉ホーミー、腹ホーミーと、様々に使い分けることもできるようになっていた。
超音波的というか、ビリビリと響く、どこか金属製のものを思わせるその音を聞いていると、僕など頭が痛くなってしまったものだ。
ある時、その師匠の家に遊びに行くと、ボロアパートの部屋の前に猫がたむろしている。四、五匹はいただろうか。
野良猫と思しき彼らはみな一様に部屋の中が気になるようで、ドアの下の隙間を覗き込もうとしたり、壁際に積んでいたダンボールを踏み台にして部屋の窓を伺ったりしていた。
いったい何事かと、僕も一緒になって窓から中を覗き込むと、カーテン越しにちらりと師匠が部屋の真ん中でヨガのようなポーズで座っているのが見えた。
その時、窓ガラスが小刻みに揺れているのに気づいた。そして微かに響いてくる低い唸り声と、それに被さる金属的な音。
ホーミーの練習をしているらしい。いつの間にやら趣味が高じて、近所の猫が集まってくるほどになっていたようだ。
というか、なぜ猫が?
そのホーミーに凝っていたのも二、三週間のあいだだけだった。あまりに猫が集まってくるので、エサをやっているんじゃないかと近所から苦情が来たらしい。
183: 趣味の話 ◆LaKVRye0d.:2017/2/19(日) 01:46:10 ID:ki46t9YtMY
手品にハマッていたこともあったし、俳句に興じていた時期もあった。
ある時など、自分の寝言を記録していたことがあった。
師匠は元々寝言がやたら多いらしいのだが、ふと思いついて自分がどんなことを喋っているのか、それを記録してみることにしたらしい。
最初はラジカセで採ろうとしていたが、録音時間が足りず、人力をもってそれに代えることにしたという。
つまり僕だ。
「いいか。お前はずっと起きてて、わたしの寝言を一字一句聞き漏らさずに書き留めるのだ」
そんな宣言の後、師匠は布団を頭から被って寝始める。
その枕元にはノートと鉛筆を持って座っている僕、というシュールな絵面だ。時計は夜中の十二時をさしている。
確かに師匠は寝言を発していた。
むにゃむにゃむにゃ、というような文字化し辛いうわ言ばかりかと思っていたら、まれにはっきり聞き取れる内容のものもあった。
カナヘビがどうだとか、チェッコ・ダスコリがどうしたとか言っていたかと思うと、わたしからは名を与えるとか、ちょっとそこをどいてくれだとか、腹が減った、などというようなことをぼそぼそと口にしていた。
それらを黙々と書き留めていると、やがて誰かと会話しているらしい場面になった。
「らるふ、らるふ」と誰かに話しかけているらしいのだが、なにか怒っているような口調だ。
十分ばかり耳をそばだてて集中していると、ようやくなにを言っているのか分かった。夢の中で近鉄のラルフ=ブライアントに箸の使い方を説明しているのだ。
ブライアントはあまりに箸の使い方がヘタで、師匠がどれほど教えても上手く扱えないようだった。
だんだん「ボケ」とか「違うだろアホ」とか口調が汚くなり、「もう知らん。パンでも食ってろ」との捨てセリフを吐くに至った。
僕はそれを丁寧にメモしていく。
と、ノートに目を落としていたら、耳をつんざくような悲鳴が上がった。
心臓が止まりそうになるほど驚いた僕はひっくり返ってテーブルに頭をぶつけてしまった。
師匠が口元を抑えて跳ね起きた。目が大きく見開かれている。
「な、なにが。ど、どうしたんですか」
しどろもどろでそう訊くと、返事も出来ない様子で肩で息をしている。
「ラルフになにかされたんですか」
184: 趣味の話 ◆LaKVRye0d.:2017/2/19(日) 01:49:55 ID:niLTnM81LA
そう訊ねた僕に、怪訝な顔をして「ラルフってなんだ」と訊き返してくる。
「寝言で言ってたんですよ。夢を見てたんでしょう?」
僕が説明すると、師匠はひったくるようにノートを手に取り、自分の発した寝言を確認する。
寝ている師匠がなにか喋ったら、その内容と時間とをメモしてあるのだが、最初の一時間半ほどはすやすやと寝ていて、夜中の二時前くらいからぽつぽつと何ごとか寝言を言い始め、そして三時半現在でいきなり自分で悲鳴を上げて飛び起きた、という流れだ。
師匠の部屋の外はまだ暗い。電柱に取り付けられた街灯の微かな明かりがカーテン越しに見える。
「おい。この、パンでも食ってろ、ってのが最後か」
「はい」
「いつだ」
「いつって、ついさっきですよ」
「何分まえだ」
「何分というか、いきなり叫びだして起きる直前ですよ」
「直前……?」
師匠は真剣な表情になり、目を見開いたまま、なにかを思い出そうとするように額に手を当てた。
「夢が変わってる」
「は?」
「そんな、ブライアントが出てくるような楽しい夢じゃなかったぞ」
真顔でそう言われて、なんだかわけの分からないままに寒気がしてきた。
「どんな夢を、見てたんです?」
恐々とそう訊ねた。
師匠は右手をゆっくりと前に突き出して目に見えないなにかを探るような仕草をする。
「こう…… 誰もいない夜の街で、道路になにかが這いずったような跡があって、それを辿って行くと……」
そこで口ごもった。
続けようとしたようだが、手だけが宙を彷徨うばかりで言葉は出てはこなかった。
師匠は一瞬、身体を震わせたかと思うと、また布団に潜り込んだ。あっけにとられた僕は、しばらくその布団の膨らみを見つめていたが、いつまで経ってもそのままなので「ちょっと」と揺すった。
「なあに?」
「なあにじゃなくて」
気になるでしょう。
僕が促すと、布団の中から囁くような声でこんな言葉が返ってきた。
「なにかいるぞ」
この街に……
そうして布団が小刻みに揺れた。笑っているのか。怯えているのか。どちらとも知れなかった。
185: 趣味の話 ◆LaKVRye0d.:2017/2/19(日) 01:53:30 ID:niLTnM81LA
◆
そんなことがあってからしばらく後、師匠は今度は読唇術に凝り始めた。
僕はさっそく部屋に呼び出され、その練習相手を無理やりさせられていた。
「ほんじつは……せいてんなり?」
パクパクパク。
「かーる……るいす」
パクパクパク。
「がーたー……べると」
パクパクパク。
「とむ……と……しぇりー」
座って口パクをする僕の唇の動きだけを見てなにを言っているのか当てるのだそうだ。
それが正解なら僕は黙って頷くことになっている。外れなら左右だ。
師匠の手元にはどこで手に入れたのか、読唇術のハウツー本が握られている。
「おっ……ぱい?」
正解。
師匠はそこでちょっとタイムとばかり、両手を頭上でクロスさせた。
「なあ、さっきからなんか、ところどころエロい言葉を言わせようとしてないか」
ぶんぶんと頭を振る。
疑わしそうな目で睨みながら師匠は膝を付き合わせた姿勢に戻る。
「なんでも良いから喋るフリしろ、とか言われても逆になにを言って良いのか分かんなくなるんですよ」
抗議をすると、師匠は少し考え込み、やがて「じゃあ、プロ野球選手の名前縛りで行こう」と言った。
僕は真剣な表情でこちらを凝視してくる師匠のプレッシャーを感じながらゆっくりと口を動かす。
パクパクパク。
「くわた……ますみ」
パクパクパク。
「あいこう……たけし?」
パクパクパク。
「お……な……」
そこまで言いかけて、師匠はいきなり僕の左頬に平手打ちをかました。
「い、痛い」
びっくりして思わず喋ってしまった。
「いい加減にしろ、このボケ」
怒鳴りつけられた。
「オマリーって言っただけですよ。オマリー。阪神の」
「うそだ。絶対うそだ」
「うそじゃないです」
実はうそだった。
しばらく言い争ったが、白けてしまったのか、師匠はハウツー本を投げ出して立ち上がった。
186: 趣味の話 ◆LaKVRye0d.:2017/2/19(日) 01:56:41 ID:ki46t9YtMY
そして洗面所でジャージに着替えてきたかと思うと「走ってくる」と言う。
その手には何故かランプが握られている。手に提げるタイプの古色蒼然としたオイルランプだ。
吊り下げられたガラス瓶の中に灯は入っていない。
これも、師匠がこのところ日課にしている奇妙なランニングだった。
陽が落ちてからこの明かりのないランプを手に街中を走り回るのだ。
スッと師匠が取っ手を目の高さに掲げる。そして丸く膨らんだガラスの中の空洞を見つめる。
ガラス越しにその口元が歪むように笑う。僕はその様子を見てゾクリとする。
「じゃあ行ってくる」
そうしてドアから出て行く後ろ姿を見送った。
これから師匠は夜の街を、明かりのないランプを掲げて走る。人工の光で満ち、ほの白い陽炎で覆われたような夜を、そのランプで照らして行く。
何もない空のランプで。
何もないがゆえにそこから湧き出てくる、底知れない闇で、まがい物のような夜を照らすのだ。
そして走りながら呪文のようにこう繰り返す。
「幽霊はいないか」「幽霊はいないか」
…………
強烈な挑発だ。
かつて古代ギリシャの『樽の中の賢人』ディオゲネスは、太陽の出ている昼間にランプに灯をともし、人で溢れるアテネの街を練り歩いたという。
一体なにをしているのかと問われた彼はこう答えた。
『人間を探しているのだ』
彼は哲学者だったが、狂人ではなかった。
真に『人間』と呼ぶに値する人物がこの街にいるのか、という彼一流の痛烈な皮肉である。
その故事にちなんだ師匠の最悪の趣味がこれだ。彼女が馬鹿にし、けなし、挑発しているのは、この街に彷徨うすべての死者だった。
さすがにこの悪意に満ちたランニングのことを知った時には僕も鼻白んだが、あまりに執拗に繰り返しているので、何か裏の意味があるのではないかと思うようになっていた。
実際にそのランニング中の師匠の表情はどこか緊張を帯びたような様子だった。
幽霊はいないか。
一人になった部屋でそう呟くと、もの寂しさと同時に背筋になにか冷たいものがゆっくりと這い上がってくるのを感じた。
なにをするともなく待っていると小一時間ほど経ってからドアノブを誰かが掴んだ音がする。
「戻った」
187: 趣味の話 ◆LaKVRye0d.:2017/2/19(日) 01:58:44 ID:ki46t9YtMY
汗を湯気のようにまとって師匠が部屋に入ってくる。
同時に、その師匠が潜ってくるドアの外側の上部に、逆さになってこちらを覗き込んでいる顔があった。まるで二階の部屋から逆さにぶら下がっているかのような格好だ。
しかし現代の長屋とでも言うべきこのアパートには二階などない。三十代だか四十代だかの痩せこけた男の首だけが無表情にこちらを見ている。
奇妙なことに髪の毛は重力の方向に逆立っていない。なんとも言い難い嫌悪感とともに、一瞬、そういう絵がそこにあるような錯覚をおぼえた。
僕の視線に気づいた師匠が振り返る。
そしてその逆さまの男の顔を見上げたかと思うと、近くにあった箒を手に取り「しっしっ」と言いながら鼻先を払った。
顔は無表情のまま引っ込み、師匠はすぐにドアを閉じる。
「あー、疲れた」そう言ってランプを転がして、部屋の真ん中で仰向けに寝転がる。
僕はさっきまでそこにあった男の顔が頭から離れず、ドアの上部を恐る恐る見つめている。
師匠の悪趣味な挑発に対してどこからかついてきたのだろうか。
「どうした」
「さっきの首は……」
「雑魚だ。ほっとけ」
平然とそう言う。
しかしその次の瞬間、ドアノブが外から誰かに捻られた音がした。さっきの現実感のない絵のような存在とは明らかに違う、なにか恐ろしいものの気配。ドアが小刻みに揺さぶられたかと思うと、「ギッ」と音を立てて開きかける。
ざわっとした嫌な感じが体幹を駆ける。まずい。直感でそう思った。
師匠が跳ね起きた。
「どけ」
前にいた僕を弾き飛ばし、信じられないことにそのままの勢いでドアにドロップキックを敢行した。
凄い音がして、ドアが外側に弾ける。
ということは、やはりドアが開きかけていたのは間違いない。玄関口に転がった師匠は、その場を動けないでいる僕を尻目にすぐさま立ち上がると、さっきと同じ箒を手に持って「しっしっ」と部屋の外に向かって払う仕草をした。
しかし開いたドアの外には何も見えず、箒を持ったまま「ん?」と首を傾げて突き出そうとする。僕もその後ろから、部屋の外を覗き見ようとした。
いる。街灯のわずかな光に照らされて、なにかがいる。
アパートの敷地から立ち去ろうとする影。人ではなかった。それはすぐに分かった。
188: 趣味の話 ◆LaKVRye0d.:2017/2/19(日) 02:01:24 ID:niLTnM81LA
それは頭部があきらかに普通の大きさではなかったのだ。大きいのではない。逆に小さい。小さすぎた。
顎の上部あたりから先が、まるで切り取られたように、ない。後ろ姿からは、丁度うなじのすぐ上が何もない空間になっていた。
そんな状態で生きていられるわけがない。しかしその人影は、ふらふらとした足取りで去って行ったのだった。
師匠はその光景を見つめながら、おお、という感嘆符を残し、しばらくたたずんでいたが、ふいに僕の方を振り返ってこう言った。
「今のは、かなりやばいやつだな」
「最初の首だけ見えてたのとは別ですか」
「別だ。おまえ、見ただけで雑魚とああいうやばいのとの区別がつかないと危ないぞ」
危ないのか。しかしそれをわざわざ招いているのは師匠ではないのか。
招いている?
「もしかして、あのディオゲネスごっこは……」
そうだ。
師匠は頷いた。
「霊道を作ってんだよ」
そんなもの作るなよ!
そう突っ込もうとしたが、ゾクゾクとした寒気が背中を走り抜けた。その中に歓喜に似たものが入り混じっているような気がした。
街中の死者の霊を冒涜し、挑発して追って来させているのだ。その意味を知り、反応した連中が同じ道をたどり、やって来る。
ディオゲネスごっこに出くわさなかったやつも、他の霊が進む方向に惹かれて何も知らずにやって来る。この部屋にだ。
「なんでそんなこと」
「なんでって。見たいだろ」
「なにを」
「なんか、すごいやつ」
あっさりそう答えた。探して見に行く手間が省けるじゃないか、という顔だ。
呆れてしまって、思わず乾いた笑いが漏れた。
189: 趣味の話 ◆LaKVRye0d.:2017/2/19(日) 02:04:16 ID:niLTnM81LA
「大丈夫なんですか」
そんなすごいやつを毎回箒で撃退するつもりなのか。
そう問うと、師匠はニヤリとしてこう答えた。
「会いたいやつは、たぶんそんな撃退するとかいうレベルじゃないやつなんだがな。でも全然来ないぞ」
その口ぶりは、なにか特定の存在を指しているようだった。
「どんなやつですか」
思わず生唾を飲み込みながら訊ねる。
師匠はドアを閉め、部屋の中に戻った。そうしてこちらに向き直りながら畳の上に胡坐をかいて両膝の上に手を乗せる。
「最近な、街に変な幽霊がいるだろ」
「変って、どんなのですか」
「手がないやつとか、腰のあたりが千切れてるやつとかだよ」
思い浮かべるが、そんなのを見ただろうか。
「さっきのやつみたいに、頭がないのもいる」師匠はそう言って嬉しそうに笑う。
ひとしきり笑った後で、身を乗り出して言った。
「食われてんだよ」
く…… 食われてるって。
絶句する。
「こないだ、駅の近くの郵便ポストの前ですごいのを見たぞ。足首だけの幽霊を。両足の脛のあたりから下しかないんだ。そんなのがずっとそこにいるんだよ。ほとんど意思も感じない。あれじゃあ個を保てないだろうから、じきに消えるだろうな」
手のひらを床にかざして、このくらい、と足だけの幽霊の様子を示す。
師匠は、この街の幽霊がなにかに食われているというのだ。
胸が嫌な高鳴り方をしている。
僕は想像してしまっている。今この瞬間にもなにか得体の知れない存在が、この部屋の屋根をかぱりと開けて、中にいる僕らをつまみあげ、大きな口に放り込んでしまうのを。あるいは、小さな蟻のようなものがどこからともなく現れ、僕の顔に群がったかと思うと、一瞬でそこだけ白骨化してしまうのを。
そんな荒唐無稽なイメージが次々と脳裏をよぎる。
「なにかがいるんだ」
そうひとりごちて、彼女は視線を床に落とし、考え込むような顔で沈黙した。
190: 1 ◆LaKVRye0d.:2017/2/19(日) 02:05:42 ID:ki46t9YtMY
今夜は、以上です。【了】
191: 桜雨 ◆LaKVRye0d.:2017/2/22(水) 04:30:50 ID:pIgPmzpxL2
『桜雨』 前編
大学一回生の冬だった。
駅の構内で甘栗を売るバイトをしていた俺は、鼻唄をうたいながら割れ栗を見つけては廃棄廃棄と呟きつつしゃがんで口に放り込む、ということを繰り返していた。
甘栗にはシーズンがあり、中国から新栗が入荷されてくる秋から冬にかけて、それまでの古い栗から味がガラリと変わり、甘みが俄然強くなる。これが美味い。実に美味い。
駅の裏で甘栗を焼く仕事もしていたので、皮が弾けて黒い石が入り込んだ割れ栗を廃棄するという名目のもと、人の目もないテントの下で片っ端から食べまくってもいた。
しかしそれだけ食べても太る気配がなかった。立ち仕事をしているから、というのもあるが、一番の要因は『お通じ』ではないかと思っている。栗に含まれている食物繊維がそうさせるのか、とにかく快便なのだ。
そんな甘栗ライフなバイト中の俺は、売り場のハコの中から知っている人が通り過ぎるのを見かけた。
京介さんというオカルト好きのネット仲間だ。
「バイト帰りですか」と声をかけるとこちらに気づいて振り向いた。ダッフルコートに、赤いマフラーをしている。
京介というハンドルネームながられっきとした女性であったので、甘栗や焼き芋のごときものは好きに決まっている。
「新栗ですよ」とにこやかに言うとノコノコと近づいてくるではないか。ふふふ。
だが買わせようという腹ではない。
最近京介さんの家に遊びに行くたびに、洗面台のところにある体重計の針を少しずつ進めるというイタズラを敢行していたのだが、それがバレてブッ飛ばされたばかりだった。
その間、会うたびに心なしかげっそりとしていった様子を見ていた俺は、彼女もそれなりにウエイトを気にしているのだと知ったのだった。
であるので、お詫びも兼ねて甘栗をおすそ分けしようと思ったのだ。しかしさすがに売り物は配送量で管理されていたので大量に人にあげるとバレてしまう。
「少し時間ありますか。もうすぐバイトあがるんで」
目配せで俺の意図を読み取ったのか、京介さんは素直にうなずいて、すぐそばで行われていた催事を物色し始める。
それから十分ほどして定時となったので店を片付け、売り上げをJRの社員に確認してもらっていると、すぐ目の前で「松尾先生!」という京介さんの声が聞えた。
これから改札に入ろうとする人の中に知った顔を見つけたらしい。いつもは淡々としているその声が、どこか踊るようなリズムを帯びている気がして意外な感じだった。
先生と呼んだ人と、そのまま立ち話を始めたようだが、俺はもう店長のところへ行かなければならない。
その場を立ち去りながら、京介さんのようなかつての不良娘が学校の先生と親しげに喋っているのが不思議でならなかった。卒業後には軋轢も懐かしい思い出に変わるということか。
192: 桜雨 ◆LaKVRye0d.:2017/2/22(水) 04:32:57 ID:HMJYUJcabU
店長に今日の報告をした後で、新栗をお世話になっている人にあげたいと言うと、大量に袋につめてくれた。もちろんタダだ。見た目は小男だが、なかなか太っ腹な人だった。
それを持って駅の地下に戻ると、ちょうど京介さんが改札をくぐる『先生』に手を振っているところだった。
「栗です。あまったんで、どうぞ」
近寄って手渡すと、「ありがとう」と受け取りながら、ずっと改札の方を見ている。
俺もその後ろ姿が人の波に消えていくところを見つめる。
「中学か、高校の時の先生ですか」
「ああ。高校の時の担任だ。松尾先生。私たちはザビエルって呼んでたけど」
京介さんは懐かしそうに目を細める。
「久しぶりだったけど、変わってないな」
京介さんは高校の授業などサボってばかりだったはずなので、その当時の担任ならどう考えても衝突をしていたはずだ。
訊いてみると、やはりそのザビエルは学校生活の敵であり、よく怒鳴られたのだそうだ。そのころのことを思い出してだんだん腹が立ってきたのか、憎々しげに腕組みをした。手に提げた甘栗の袋がガサリと音を立てる。
「ザビエルって、面白いあだ名ですね」
俺がそう言うと、京介さんはふっ、とやわらかな表情になり、「そうだな」と口を開いた。
そうしてゆっくりと思い出を紡ぐように語り始めたのだった。
193: 桜雨 ◆LaKVRye0d.:2017/2/22(水) 04:34:20 ID:HMJYUJcabU
◆
京介さんから聞いた話だ。
桜が咲いていた。
踏みしめた土の感触。足の裏に感じる柔らかな弾力が、凍てついた冬が去って行ったことを告げている気がする。
家の近くの川沿いに並木があり、それがなんの木なのかいつもは意識することはないのだが、肌寒さが薄れ、吹き付ける風の中にもなにか柔らかいものが通ったある日、気がつくとその枝の先に白い花が咲いていた。
立ち止まって見上げていると、なんとも言えない気持ちになる。どうして桜だけが特別なのだろう。春という、別れと出会い、そして終わりと始まりの節目の時期に咲く花だからだろうか。
白の中に数滴の血を混ぜたような、見る人を落ち着かなくさせる、ほのかな色をしているからだろうか。
私は寒いのは嫌いだ。
寒いくらいなら暑い方が良い。十一月ごろに感じる肌寒さは、これから否応なしに日々寒さが増していく死刑宣告のように感じられて、救いのない気持ちになる。
でもそれは実際には死刑宣告ではなく、懲役刑であって、その刑期がついに明ける日がやってきたのだった。
もちろん、肌触りが変わったとは言っても、今日の寒さもまだまだ私には辛い。
それでも、桜が咲いているというそれだけで、なにもかも許して生きていける気がする。
194: 桜雨 ◆LaKVRye0d.:2017/2/22(水) 04:37:04 ID:pIgPmzpxL2
中学校を卒業して、地元の女子高に入学したばかりのころだ。
着ている制服が変わっただけで、中身はなにも変わっていないはずなのに、周囲に求められるものは随分変わってしまった。
親からは「もう高校生なんだから、しっかりしなさい」という小言を聞かされることが増え、学校からは「高校生の自覚」という、よく分からないものを持てと言われる。
くだらない。
そう思う一方で、なにか自分でも変えていきたいという意識が確かにあったのだと思う。
私は高校生になったことを期に、タバコの本数を減らすことを密かに心に誓った。さっそく校舎の裏に、人気のない絶好のスポットを見つけた時も、本数は控え目にしたのだ。
気分が良かった。
友だちも出来た。ヨーコという、よく喋る元気な子だ。その元気の良さと行動力に振り回されているというのが本当のところだけれど、悪い気分ではなかった。
そうして、私の高校生としての日々がゆっくりと進み始めたある日、下校途中に校門から出たばかりのあたりで大きな囃したてるような声が聞こえて、思わず顔を上げた。
「あ〜、ザビエルがコレと歩いてる〜」
私のすぐそばにいた二人組の女子生徒が指を立てながら、ちゃかしたように歓声を上げている。上級生のようだった。
その視線の先を見ると、見覚えのあるハゲ頭が目に入った。
「教師に向かって、からかうようなことを言うんじゃない」
そんなことを捲し立てながら、ハゲ頭は怒ってこちらにやってこようとした。
二人組はさほど慌てた風もなく、わざとらしく「キャー」と言いながら、校舎のほうへ逃げ戻って行った。
ハゲ頭は「まったくあいつらは」と吐き捨てるように呟いたあと、連れの女性にヘコヘコと頭を下げた。
「すみませんね、野田先生」
女性の方はいいえと言いながら笑っていた。
美女と野獣だと、私は思った。
はた目にもつり合いが取れていないし、現に相手にされていないように見えた。その卑屈な態度も逆効果だと気付かないのだろうか。
遠くないであろうその失恋を思うと少しかわいそうになった。
195: 桜雨 ◆LaKVRye0d.:2017/2/22(水) 04:39:13 ID:HMJYUJcabU
ザビエルは私のクラスの担任だった。
もちろんあだ名だが、この『先生のあだ名』というやつは先輩から後輩へと代々受け継がれるもののようだ。
一度その学校へ赴任すれば、最初につけられたあだ名がずっとついて回るらしい。
ザビエルも、最初からザビエルだった。
部活の先輩がそう呼んでいるのを聞いたクラスメートが広めて、三日目には完全にクラスに定着してしまった。
ザビエル自身もそう呼ばれていることは知っているし、諦観というのか、面と向かって呼ばれでもしない限り、いちいち取り締まろうという気はないようだった。
私はこのザビエルには少々含むところがある。
高校生になって最初の土曜日に、私はヨーコと二人で繁華街をぶらついていたのだが、いきなり後ろから声をかけられた。
振り返るとザビエルがいて、「こんなところでフラフラするんじゃない」とか、「街には誘惑が多いから」とか、そういうくだらない説教をはじめた。
生徒指導の担当でもないくせに、たまたま街で出会った私服の生徒を、どうして目の敵にするのだろう。
別になにか悪さをしようというわけでもないのに。少なくとも私の善悪感においてはだ。
むしろそっちこそなにかやましいことがあって、その照れ隠しなんじゃないかと勘ぐってしまう。
勘ぐっただけではなく、ヨーコはそれを口にしたので、説教が長くなってしまった。
そんなこともあって、ザビエルは私の敵だった。タバコも学校では相当に気をつけて吸わないといけなかった。
しかし、あとで分かったのだが、ザビエルは偶然街にいたのではなく、いつも繁華街を警戒して歩いているらしい。
そういう担当でもないのに、自発的に生徒の非行を未然に防ごうという、実に素晴らしい教師としての自覚、そして行動だった。
こういう一方的な善意が一番迷惑だ。
一度平日にホテルから出るところで出くわして心臓が止まりそうになったことがあった。こちらが先に見つけたので、すぐに身を隠して事なきを得たが、こんなところまで張っているとは、本当に気が抜けない「センコー」だった。
196: 桜雨 ◆LaKVRye0d.:2017/2/22(水) 04:41:21 ID:HMJYUJcabU
私の学校は街なかにあり、その近くの公園にホームレスが一人住み着いていた。
みんなからはヒロさんと呼ばれていた。
わずかな遊具がちらばる公園の一番隅に段ボールで陣地を張って生活していた。
登下校の際に街を抜けるルートを取ると、必ずその公園の前を通るのだが、はじめはこういう生活をしている人自体が珍しくてしげしげと見ていて、やがてそのヒロさんのキャラクターに惹かれるようになった。
テレビで見る都会のホームレスたちは、独自の世界、そしてテリトリーを作っていて、自分たち以外の社会と目に見えない壁を形成しているように思える。どちら側から作った壁なのかは分からないが、それを越えてくるものには警戒し、必要がなければその壁の向こうの世界は、「ない」ものとして視線も向けない。少なくとも私にはそう感じられた。
しかしこのヒロさんは、いつも公園の前を通る人に挨拶をするのだ。
明るい声で「おはようございます」と。
私も初めて声をかけられたときは、人の生活空間をじろじろ見ていたという罪悪感で、返事ができなかった。
ただヒロさんの方には嫌味や悪意がないのはすぐ分かった。いつもにこにこしていて、その前歯が欠けた顔を見ていると、こちらまでつられて笑ってしまう。
ただ、昼でも夜でもその「おはようございます」という挨拶が変わらないので、「おや?」と思った。
そして、気がついてそういうフィルターを通して見ると、納得した。
ヒロさんには知的障害があった。
「おはようございます」だけは言い慣れているせいか流暢なのだが、それ以外の言葉を喋ろうとするとひどくどもった。吃音症と言うのか。
たまに他の人から話しかけられると、「うん、うん」と言ってにこにこするだけで、どこまで理解しているのかよく分からない。
都会と違って、そうした人を対象にした日雇い仕事や炊き出しなどもないはずだった。
空き瓶を拾って歩いているのを見たことはあったが、それだけで食べていけるのだろうか。
出来あいの弁当を食べているのを見たことがあるので、近所のコンビニやスーパーから残り物を分けてもらっているのかも知れない。
しかし私がこの不思議と追い出されることのない奇妙な公園の住人に惹かれた本当の理由は、彼の右手にあった。
197: 桜雨 ◆LaKVRye0d.:2017/2/22(水) 04:44:35 ID:HMJYUJcabU
ヒロさんはいつも右の手のひらを握りしめている。拳骨を作っているというよりも、何かを握りこんでいるような格好だった。
最初は何を持っているのだろうと不思議に思っただけだったが、やがていつ見ても同じように握っていることに気がついた。
「おはようございます」と挨拶をする時も、空き瓶を拾って歩いている時も、弁当を食べている時も、公園の手洗い場で顔を洗っている時も、いつもその右手はグーの形に握ったままだった。
指や手のひらがまったく使えないから、ほとんど右手は役に立たない。左手で何かをする時に、添えるくらいだ。
拾ってきたものをボロボロの布袋に詰め込もうとしている時に、右手が使えないせいでなかなか上手くいかず、見ているこっちがもどかしくなった。
昔読んだ野口英世の伝記からのイメージで、火傷かなにかのせいで指が張り付いて治らないのだろうかとも思ったが、その指の血色の良さからすると、どうも違うようだった。
「あー、それ、知ってるよ」
真相を教えてくれたのはヨーコだった。
「うち、お母さんもこの学校の卒業生なんだけど、そのころからいたらしいよ」
母親から聞かされたというのはこんな話だった。
ヒロさんは昔、幸せの妖精を捕まえたのだそうだ。その右手で。手のひらを開けると妖精は逃げてしまうので、逃げてしまわないようにいつも右手は握ったまま。
朝、昼、晩、起きている時も、寝ている時も、いつもいつでも。
「だってさ。いや、噂じゃなくて、ホントに本人がそう言ってたの聞いたんだって。うちのお母さん」
幸せの妖精か。
私はそれを聞いて、心のどこかに針が刺さったような痛みを覚えた。
ヒロさんは、その幸せの妖精を逃がさないようにずっと手を握りしめているのか。そのせいで、きっと仕事もできなくなっただろう。ホームレスをしていく上でも、具合の悪いことばかりあったに違いない。
それが幸せな人生なのだろうか。
「バカよ、バカ。でもロマンティックね。幸せの妖精をつかまえたホームレス!」
ヨーコは空に手をかざして、太陽をつかもうとする仕草をした。
198: 桜雨 ◆LaKVRye0d.:2017/2/22(水) 04:46:07 ID:pIgPmzpxL2
私は以前読んだ星新一のショートショートを思い出していた。
見知らぬ鍵を拾った男が、その鍵で開けることのできる扉を探して人生を送る話だ。
まだ見ぬその扉の向こうを夢見ながら。
扉が見つからないまま、やがて年老いた彼はついにその鍵に合う扉を自ら作った。
そして開かれた扉からは女神が現れ、望みをかなえてあげようと言う。
彼は答える。「老人に必要なものは思い出だけだ。そしてそれは持っている」と。
いつかその鍵で扉を開けることを夢見て生きてきたその人生そのものが、他の何にも替えがたい大切なものだったということか。
美談だと思う。しかしヒロさんの場合はどうだろうか。
ヒロさんが、拾った大量の雑誌を道端でぶちまけてしまったのを見たことがある。左手だけで不器用に一冊一冊拾っていたその小さな後ろ姿を思い出して、少し哀しくなった。
四月も半ばを過ぎた。
新しい集団生活に最初は硬かったクラスメートたちも少しずつ打ち解けてきたようだ。
もちろん私には関係のない話だ。私は気の置けない友人が一人いればそれでいい。
そんな私とは違い、ヨーコは充分に社交的で、今後クラスの中心になっていきそうな垢抜けたグル―プの子とも普通におしゃべりをしていた。
しかし私の性格を見抜いたのか、そのグループに無理やり私を繋ごうとはせず、放課後には「いっしょに帰ろ」と私の所へ一人でやって来るのだ。
変わらないでいいよ。
そう言われているような気がした。
199: 桜雨 ◆LaKVRye0d.:2017/2/22(水) 04:49:09 ID:HMJYUJcabU
並んで歩きながら一方的に喋るヨーコの声を、どこか心地良く聴きながら、私も変われるだろうかと、そんなことを思っていた。
そのヨーコが「今日は用事があるから」と先に帰ってしまった日、私は一人で学校からの帰り道を歩いていた。公園の前を通りがかった時、数人の男の声が聞えてきた。
公園の中に他校の制服を着た数人の男子学生がたむろしていて、下品な笑い声を上げている。たまにこの辺りでだべっているのを見かける連中だ。いわゆる不良グループなのだろう。髪か、柄Tか、ピアスか。示し合わせたかのように全員なにかしらの校則違反をしている。
わざわざ我が女子高の近くでたむろするのは、それに不純異性交遊を加えたいからだろうが、現にうちの生徒らしい女子がそこに混ざっているのを何度か見かけたことがある。揃ってタバコを吸っていた。仲の良いことだ。私もタバコは吸うが、その時間は誰にも邪魔はされたくない。
ようするに彼らにとってタバコを吸うという行為は、それ自体が目的なのではなく仲間を作り、そしてそれを維持するためのイニシエーションなのだろう。
なんにせよ私には関係のないことだ。
その時も、横目で眺めただけで通り過ぎようとした。
だが、彼らが公園の奥の段ボールハウスからヒロさんを引きずり出そうとしているのが目に入り、思わず足を止めた。
「センパイ、センパイ。人生についてちょっと教えてくださいよ」などとからかいながら、ヒロさんの家を足蹴にしていた。ヒロさんはうーうー、と呻きながら両手を合わせて許しを請うような仕草をしていたが、右手は例のごとく拳を握ったままなので奇妙な格好になってしまっていた。それを見てまた彼らは喜んで囃し立てる。
「おい、オッサン。それ、なんだよ」「立会い前の構えかよ」「ショーリンジ、ショーリンジじゃね?」「すげー。やる気満々」
そうして一人がヒロさんを小突いた。ひょー、という頭の悪そうな歓声が上がる。
200: 桜雨 ◆LaKVRye0d.:2017/2/22(水) 04:51:27 ID:pIgPmzpxL2
私は公園に足を踏み入れた。
「ねえ。やめたら」
不良たちは揃って私を見る。
「はあ?」
一人が顔を突き出しながら一歩前に出る。一際頭の悪そうなやつだ。
しまった。なんで首突っ込んでんだろ。
思わず周囲を見回すが武器になりそうなものはない。棒切れでもあれば三、四人ならなんとかなるんだが…… すでに後悔し始めている。
なにか下品なことを言いながら、男が顔を近づける。私は緊張していて、意味が頭に入らない。
ヨーコならこんな時どうするだろうか。ふとそんなことが浮かんだ。
きっと痴漢だ、痴漢だと大きな声で叫ぶだろう。そして近所の家から顔を覗かせた人に、助けてと手を振るのだ。
無理だな。私には。
役にも立たない結論が出たところで、目の前の男たちがヘラヘラ笑いながら地面に唾を吐いて私の横を通り過ぎて行った。
助かった。そう思うとホッとして膝の力が抜けた。彼らはそのまま公園を出て行ったようだ。
ヘタに口答えなどしなかったから良かったのだろうか。何を言われたのか良く覚えていないのだが。
そうだ。ヒロさんは?
前を見ると、草むらに蹴飛ばされていた数少ない家具である鍋を、小さな身体を折り曲げて拾っていた。
「大丈夫?」
「うんうん」
私の言葉に振り向いて照れくさそうに頷いている。いつも公園を通りがかるたびに『おはようございます』と挨拶をしてくれているが、私のことは覚えてくれているのだろうか。
近くのベンチに腰掛け、ポケットから煙草を取り出す。「ヒロさん、吸う?」
私の申し出に、目を丸くして左手を左右に振った。どうやら元々吸わないらしい。勝手なイメージで、ホームレスの人たちはみんなタバコと酒が唯一の生きがいみたいになっているものだと思っていたのだが。
公園の手洗い場で鍋を洗い始めたヒロさんの小さな背中を見ながら、咥えたタバコに火をつける。
201: 桜雨 ◆LaKVRye0d.:2017/2/22(水) 04:53:44 ID:pIgPmzpxL2
「ヒロさん。それ、右手、なにを握ってるの」
口にしてから気づいた。さっきの不良どもと同じようなことを言っている。そんなつもりはないのだが。
慌てて、別に嫌だったら答えなくていいよ、と付け足した。
するとヒロさんはニッコリ笑うと、大事なものだ、というようなことを言った。
「幸せの妖精?」
うんうん。
前歯の欠けた顔で笑う。
ヨーコの言っていたとおりだ。ヒロさんは、ずっと昔につかまえた幸せの妖精を逃がさないためにその右手をいつも握り締めているのだ。
「ねえヒロさん」
祖父くらいの歳のその公園の住人に、いったいなにを言おうとしたのか。高校に上がったばかりの小娘が、訳知り顔で他人の生き方を否定するようなことを?
私は口をつぐみ、自分の手のひらを見つめる。ヒロさんは不思議そうにしている。
ふとこんな話を思い出した。
妖精が現れることで有名なある村を訪れた人が、村人にこう訊ねた。
『あなたは妖精を信じますか』
村人は『いいや、信じない』と答えた。
さらに彼は出会った村人に次々と同じ問い掛けをしたが、みんな同じように『信じない』と答えた。
不思議に思った彼は、最後に出会った村人にこう訊いた。『この村には本当に妖精が現れるのだという噂を聞いて訪ねて来たのですが、あなたがたはみんな妖精を信じないと言う。これはいったいどういうことでしょう』
村人は答えた。
『あたりまえさ。このあたりの妖精はみんなひどい嘘つきなんだ。誰が信じるものか』
……そんな話だ。
信じる、という言葉がダブルミーニングになっているジョークだ。
新調したばかりらしい綺麗な段ボールハウスは朝方に降った雨でもう湿ってしまっている。
幸せの妖精か。ヒロさんがつかまえたのが、本当にそうであればいい。
そう願わずにはいられなかった。
202: 桜雨 ◆LaKVRye0d.:2017/2/22(水) 04:55:41 ID:HMJYUJcabU
「小学生みたいなことを」
帰りのホームルームの時間にザビエルはぼそりと言って黒板消しを掴んだ。
黒板の隅に傘の絵があり、その下に『松尾・野田』という名前が書いてある。さっきザビエルが教室に入ってくる前にあの辺でたむろしていた連中の誰かが書いたのだろう。
いい加減、からかわれている方が飽きてしまったのか、最近は反応が鈍い。溜め息をつくだけで、犯人を探そうともせず、サッサと消してしまった。何ごともなかったかのように連絡事項を伝えて、日直に合図をする。
起立、礼、着席、の号令の後で「ああ、それから、山中はこのあと職員室に来なさい」と付け加えた。
なんだ。もうタバコがばれたのか。
私は少し緊張した。
「ちひろちゃん、大丈夫?」
ヨーコが近寄ってきた。「大丈夫、大丈夫」気楽に手を振るが内心はそうでもなかった。するとヨーコは心配そうに余計なことを教えてくれた。
ザビエルが、ある特殊な性癖を持っている、という噂である。ようするに女子高生が好きらしい、というのだ。
「ふ」
鼻で笑ってしまった。
ザビエルは元々バレーボールをやっていて、国体にも出たことがあるような選手だったのだが、この高校のバレー部の顧問には、すでに大先輩にあたる教師が居座っていた。教師は必ず一つは部活の顧問を割り当てられるようになっているので、ザビエルはしぶしぶ新聞部の顧問を受け持っているが、ほとんど放し飼い状態で全然部室にも顔を出さないらしい。
ヨーコいわく、合法的に女子生徒と肉体的接触ができるバレー部には今でもこだわりがあり、今の顧問のヒヒジジイを蹴落とす策を練っているとのことだった。また暇な分、生徒指導の担当のごとく、街を徘徊して我が校の生徒の弱みを握ろうと精力的に活動している……
まことしやかにそう教えてくれた。
弱みか。
タバコがばれたとして、即座に停学をくらうのと、なんらかの取り引きを吹っかけてくるのと、どちらがマシだろうか。
私はヨーコの頭を撫でてやり、職員室に向かった。放課後の職員室は、まだ教師たちが机に大勢残っていた。ちらほらと生徒の姿も見え、ざわざわした雰囲気に包まれている。
203: 桜雨 ◆LaKVRye0d.:2017/2/22(水) 04:59:02 ID:HMJYUJcabU
「お、山中。こっちだ」
ザビエルが手招きしている席へ向かうと、「あー、なんだ。ちょっとこっちへ」と歯切れ悪く立ち上がり、奥に設えられた応接室へ連れて行かれた。
いよいよまずいな。先を歩く背中を見ながらそう思った。
テーブルの前に座ると、ザビエルは溜め息をついて口を開く。
「見たぞ」
動揺する。が、それをなるべく気取られないように平静を装った。なにを見たのか分からないが、ただのカマかけの可能性もある。
「なんのことですか」
「こないだ、街で」
じっと試すように私の顔を見る。
街? 校内で吸っているタバコのことではないのだろうか。
「その…… そういうホテルが並んでいるところでお前の姿をだ」
「なんのことか分かりません。家に帰る近道にそういう通りがありますけど」
焦る。このあいだホテルから出るときに先にザビエルを見つけて隠れた時があったが、あの時向こうにも気づかれていたのだろうか。
「…………」
真正面から目の奥を見つめられる。逸らしたら負けだ。睨まないように、しかし思い切り目に力を入れて見つめ返した。
しばらくそのままの格好で二人とも動かなかったが、やがてザビエルの方が根負けしたように息を吐くと「分かった」と言った。
「あの辺は治安が悪い。通らないようにしなさい。変な連中に声をかけられたことはないか」
それからは何度も聞いたようなお説教を繰り返し、ようやく開放されそうになった。雰囲気を察して腰を浮かしかけたところで、ふと思いついてこちらから訊いてみた。
204: 桜雨 ◆LaKVRye0d.:2017/2/22(水) 05:00:35 ID:pIgPmzpxL2
「先生。街へ行く時に通る公園で、ホームレスがいるでしょう」
「ああ。いるな」
「珍しいですよね。この辺でホームレスなんて」
ザビエルもこの辺が実家だと聞いたことがあった。昔からヒロさんのことを知っているのかも知れない。
「人には事情があるんだ。じろじろ見たりするんじゃないぞ」
どうやら知ってはいるようだ。しかし不機嫌そうにあっさり話を打ち切った。大人にとっては、ホームレスなど地域の不安要素に過ぎないのだろう。関わりたくない、壁の向こうの住人だ。まして教師にとっては、生徒に教えたくない社会の矛盾そのものなのかも知れない。
「そんなことより、山中。おまえちょっとその髪、長すぎないか」
ザビエルはそう言いながらいきなり腕を伸ばして、私の頭を触ろうとした。
「触るな」
思わず鋭い口調でその手を払う。バシンという強い衝撃があった。
しかしすぐに我に返り、「すみません」と謝った。せっかく終わりかけた説教が伸びるかも知れない。
ザビエルは驚いた様子で振り払われた自分の手と私の顔を交互に見ていたが、「とにかく、髪はあまり長くならないようにしなさい」と、取り繕うように言って立ち上がった。
私はホッとして頭を下げる。よかった。
でもヨーコのせいだ。女子生徒が好きなどと変なことを言うから、とっさにそれが頭をよぎってしまった。自分にもあんなに嫌悪感があるなんて思わなかった。
頭を軽く下げて職員室を出て、教室に戻ると、まばらになったクラスメートたちの中にヨーコの姿もあった。どうやら待ってくれていたらしい。
「大丈夫だった? 一緒に帰ろうぜい」
その頭にチョップを食らわす。
「痛っ」
「街、行こう」
教師の説教など、知ったことではない。髪は伸ばすし、タバコは吸うし、不良行為も色々する。そのどれも、自分が自分であるために、あたりまえにしているだけのことだ。自分の中で、守るべき善悪の境界を持って、何が悪いんだ?
「なによう」
ヨーコは頭を庇いながら笑っていた。
205: 桜雨 ◆LaKVRye0d.:2017/2/22(水) 05:02:48 ID:pIgPmzpxL2
初々しい四月も終わり、私たちもどうやらこの高校生活とやらがしばらく続くらしいということを実感し始めていた。
学校の外にも、ようやく暖かさが出てきた。今年は桜の開花も遅く、街を歩く人たちの服装もどこか重たかったが、月が替わると同時に明るい色合いの軽めのよそおいが見られるようになった。
ペコリ、という紙のへこむ音がする。
放課後、校門のそばに隠れるように立って表通りを伺いながら紙パックのコーヒー牛乳を飲みつつ、そんなことを考えていた。
今日はヨーコが早退している。風邪を引いたらしい。しかしちょうどよかった。あの騒がしいコがいると、今日は色々とめんどくさい。
コーヒー牛乳を飲みきったころ、ザビエルの姿を見つけた。帰宅する生徒たちの挨拶に、「まっすぐ帰れよ」などと返しながら街の方へ足を向けている。
私はその背中が見えなくなる前に校門から出て、そっと後をつける。尾行だ。刑事ドラマでやっているようなやつ。
そんな暇なことをしているのには少し理由があった。
あの職員室に呼び出された時以来、私はザビエルにかなりマークされていた。二週間と経たない間に、街で二回も出くわしたのだ。特に後ろめたいこともないのに、そのたびによく分からない論法の説教をされて帰宅させられた。
それだけではなく、校内でもなにかにつけて声をかけてきて、実にうっとうしかった。幸いタバコは控えるようにしていたので、そちらはなんとかバレてはいないようだったが、その、どこにいても安心ができない息が詰まる感じは凄く不快だった。
そうこうしているうちに、私は気づいた。
ザビエルが街を巡回しているのは、新聞部の顧問をするのが嫌で暇にまかせてやっていると言うには、異常とも言える頻度だということに。ほぼ毎日なのではないだろうか。
これはおかしい、と思った。なにか隠しているような気がする。生徒にも、あるいは学校にも?
そう思った私はザビエルを尾行してみることにしたのだ。それが第一の理由。もう一つは、やはり私も暇だということだ。
206: 桜雨 ◆LaKVRye0d.:2017/2/22(水) 05:05:11 ID:pIgPmzpxL2
さすがに運動をしていただけあって、ザビエルの歩き方はシャキシャキしている。見つからないように離れて後をつけているが、何度も見失いそうになった。
特に街へ抜ける手前の公園のある道は見通しが良く、そのせいでかなり離れて歩かないといけない。街へのルートはいくつかあったが、そこを選んだところまでは確認したので、あとはどうせ一本道だ。後でダッシュすればいいか、という軽い気持ちでザビエルの姿が見えなくなったのを見計らいながら進んだ。
公園の前を通りがかった時、その入り口のあたりに空き缶がいくつか転がっているのが見えた。スナック菓子の袋も地面に落ちている。誰かがだべっていた跡だ。
またあいつらか。そう思って公園の奥の方を覗き込むと、ヒロさんのダンボールハウスはなにごともなくそこにあり、荒れたような形跡は見当たらなかった。
少し安心して、ザビエルの尾行を続けようとした時、空き缶が転がっている場所に、見慣れないものが落ちているのに気づいた。
オレンジ色の小さなビニール製の袋だ。空き缶の影に隠れるようにしてそこにあった。食べ残しのお菓子でもなさそうだったので、なんだろう、としゃがんで手に取る。
ふいに遠くから防犯ブザーのような音が聞こえた。
道の先だ。
袋をポケットに放り込んでそちらに向かった。すると電信柱のあたりに学ランを着た数人の男子がたむろしているのが見えた。目を凝らすと、小さな携帯用の防犯用具を手に、ふざけあっているようだった。
あいつらだ。
思わず緊張する。いつかヒロさんに絡んでいた不良グループだった。顔を覚えられていたら、面倒なことになるかも知れない。
しかし引き返して別の道を通るとなるとかなりの時間ロスだ。ザビエルはすでに先に行っている。これでは完全に見失ってしまう。
しかしそもそもザビエルがここを通ったのなら、ああいうやつらこそ「家に帰れ」と指導するべきじゃないのか。他校の生徒だからと言って見逃しているのだとしたら、そのダブルスタンダードは不愉快だった。
207: 桜雨 ◆LaKVRye0d.:2017/2/22(水) 05:06:51 ID:HMJYUJcabU
ともあれ、このまま進むしかないと判断した私は、なるべく自然体で歩き、彼らの方を見もせずにその横を通り過ぎた。
ちょうど真横に来た時に防犯ブザーが甲高く鳴り響き、肩がびくりとしたが、彼らの方はそのおもちゃに夢中で頭の悪そうな声を上げながらこちらに気づきもしないようだった。
「ぺっ」
通り過ぎた後で、私は唾を吐いた。我ながら子どもじみたことだと思って少し恥ずかしくなる。そしてザビエルの後を追って、急ぎ始めた。
途中、慌てた顔をした女子生徒が小走りに私の横を通り過ぎた。どこかで見た顔だと思ったが、思い出せなかった。
『桜雨』 前編 (終)
208: 桜雨 ◆LaKVRye0d.:2017/2/22(水) 05:08:17 ID:HMJYUJcabU
『桜雨』 後編
結局、尾行は失敗した。見つかってしまったのではなく、見失ったのだ。
まあこんなものか。
そう思って、私はついこの間ヨーコと一緒に見つけたクレープ屋でショコラクレープを買った。食べながら街をうろうろする。そうして気がついたことは、一人だとこうしていてもあまり楽しくないということだった。
「あいつ、風邪早く治るかな」
あの騒々しさが嫌いではなかった自分に少し驚く。
CDでも見て帰るか……
そう思ってCDショップのある方へ足を向けようとした時、いつかザビエルに見つかりそうになったホテル街が近くにあることを思い出した。
そう言えば、今までにザビエルに遭遇したのもこの辺りばかりだった気がする。もしかするとまた近くにいるのではないかと思い、CDショップは後回しにしてその通りに足を踏み入れた。
昼間はやけに閑散としている印象だ。通りに面した飲み屋らしい店にはほとんどシャッターが下りている。
そんな中、くたびれたジャンパーを着た中年の男が道の真ん中に立って、通行人をじろじろと見ていた。いかがわしい店の呼び込みにしても、声掛けさえしていない。たまに見かけるが、いったいああいう人はこの街でどんな役割があるというのだろう。垣間見る大人社会は、まだまだ不思議なことばかりだった。
それにしてもザビエルはどうしてこんなところをうろうろしているんだろう。補導ならゲームセンターでも巡回している方が現実的だ。こんな場所で行われる不良行為など、生徒の中のごく一握りだろうに。
ふと、ヨーコに聞かされた無責任な噂話が耳の奥で再生される。
ザビエルの特殊な性癖のことだ。女子高生が好きだなどという。私にはそんな風には見えなかった。あの落書きの相合傘の方がよほど信憑性がある。
しかし。この嫌に空疎な昼間のホテル街を歩いていると、なんだか変な空想が湧いてくるのだった。髪を触られそうになったことを思い出し、不快な気持ちになる。
と言って、ザビエル自身が心底嫌いな訳ではない。
そんなことを思いながらザビエルの顔を思い浮かべる。ただ、変な噂を立てられた中学の時の暗い思い出が蘇るのが嫌だった。
209: 桜雨 ◆LaKVRye0d.:2017/2/22(水) 05:10:09 ID:pIgPmzpxL2
「ねえ、ちょっと」
ぼうっとしていた時に、ふいに横から声をかけられて驚いた。
「ここでなにしてるの。その制服、女子高だよね」
若い男だった。小洒落た服を着ていて、髪は黄色く染めている。
「別に」
なるべく無表情であしらおうとしたが、男はいやに身体を近づけてくる。「ねえ」
「別に」
そう言って離れようとするが、しつこかった。場所が場所だけに、少し怖くなる。周囲の目もかなぐり捨てて、走って逃げたほうがいいのか、一瞬迷った。
しかしその次の瞬間、背後から鋭い声が上がった。
「なにしてるっ」
驚いて振り向くと、少し前に見失ったザビエルがいた。
その剣幕に驚いて、若い男はへへへ、とバツの悪そうな乾いた笑いを残して去って行った。助かった、と思うと同時に、やっぱりいた、という嫌な感想が脳裏をよぎった。
「大丈夫か」
そう言って近寄ってくるのが、さっきの男と同じくらい不快で、思わず身体を硬くする。
「なにかされなかったか」
第一声が、だから言っただろう、という押し付けがましい説教ではなかったのが唯一の救いか。
「はい」そう返事をした後の、第二声は「だから言っただろう」だった。
そしてうんざりした私に向かって、第三声が続いた。
「なにか買わされそうにならなかったか」
緊張を帯びた声に、ドキリとする。
買わされる?
なにかの影が頭の中を走った。心臓が高鳴り始める。
「買うって、なにを?」
「なにって、その……」
ザビエルは困惑した顔で、口ごもった。
私は直感に従い、自分のスカートのポケットに入っているものを取り出した。
「これですか」
そのオレンジ色の袋を見た瞬間、ザビエルの顔色が変わった。なにか言い出そうとする前に、私はその機先を制する。
「さっき拾いました」
「なっ……」
と言って絶句する。
「ど、どこでだ。吉永かっ?」
210: 桜雨 ◆LaKVRye0d.:2017/2/22(水) 05:12:22 ID:pIgPmzpxL2
いきなり口をついて出てきた脈絡もない名前に、また私の脳裏を暗い影が走る。
吉永。
二つ隣のクラスの女子にそういう名前の子がいた。顔ははっきりとは思い出せない。しかし、分かった。
あの、公園を出た後ですれ違った女子生徒がそうだ。青ざめた顔で慌てながら走って来た子。
そんな確信があった。
だったら……
寒気が体中を駆け抜けた。
「あの公園」
そう言いながら、私はオレンジ色の袋を投げる。それを落とさないようにうろたえながらキャッチしようとしているザビエルを尻目に、私は走り出す。
すべてが最悪のタイミングであり、最悪の組み合わせだった。
嘘だろ。
思わずそんな言葉を口をつく。
さらに間の悪いことに、その通りを抜ける先には見覚えのある顔が二つ並んでいた。その女子生徒二人は、凄い形相で走ってくる私に驚いて道を開けようとした。
見られていた。
これは偶然?
いや、どちらでもいい。
私は急ブレーキをかけて、その二人にすばやく声をかける。
「どうして囃し立てないの」
いつか校門のところでザビエルをからかっていた上級生だ。相合傘の落書きをされるような教師二人をからかうように、こんなところに二人でいるところを見てからかわないのだろうか。
「え? だって、捕まって説教されてたんでしょ」
二人はそう言って顔を見合わせる。
なぜ? どうして、そんな好意的な見方をしてくれるのか。ホテル街に二人でいたというのに。
私は、ヨーコから聞いたあの噂を早口で捲くし立てる。すると二人は笑い出して、ないない、とばかり手を振る。
「わたしら、一年の時、ザビエルが担任だったけど、それはないわ」
それを聞いて、いい加減なヨーコの言うことを真に受けてはいけない、ということを学んだ。
「ありがとう。じゃあね」
そうしてまた私は走り出す。
走った。とにかく走った。
もっと走りやすい靴を履いてくるんだった、と後悔したが、それでも必死で走り続けた。地元の強みで、いくつかショートカットをしながら街なかを駆け抜けた。
息を切らせながら、あの公園へ向かう直線の道へ入る。
嫌な予感が全身を覆っている。これまでに見てきた不吉なパーツパーツが、最悪の組み合せでそこにあるのだ。
電信柱のところには、もう不良たちはいなかった。
その横を走り抜ける。
公園がすぐ先に見えた。
「ヒロさんっ」
そのままのスピードで公園の中に駆け込むと、胸に突き刺さるような光景が目に飛び込んできた。
211: 桜雨 ◆LaKVRye0d.:2017/2/22(水) 05:14:22 ID:pIgPmzpxL2
「ヒロさん!」
あのダンボールハウスはめちゃくちゃに壊されていた。なけなしの家具は土の上に散らかされている。
そしてその中にヒロさんは傷だらけになってうずくまっていた。
駆け寄って頭を抱く。
うう。と言ってヒロさんは唸った。
服は破かれ、顔や胸元などに殴られたり、蹴られたりしたような跡がある。ところどころに血が滲んでいる。
なにか言おうとしていた。しかし割れて血が滴っている唇はぶるぶると震えてなかなか言葉にはならなかった。
怒りが、私の身体の芯の部分に灯った。
「しっかり!」
その時の私には救急車を呼ぶ、という当然のことが浮かばなかった。背丈は伸びたが、それだけ子どもだったのだろうと思う。
公園の中を見回したが、他に誰の姿もなかった。暴行した犯人はすでに立ち去った後だ。
入り口のところに目をやると、こちらを恐々と覗き込んでいる三人組の女の子たちが目に入る。
「なにがあった?!」
私は声を張り上げる。女の子たちはびくりとして後ずさりしそうになった。小学生だろうか。
「お願い。教えて」
その必死な言葉に反応してくれたのか、その中の一人がおずおずと近づいてきて他の二人もそれに続く。
彼女たちが震える声で教えてくれたのは、私の想像したとおりのできごとだった。
セーラー服の女子生徒と学ランを来た数人の男子が公園にやってきたかと思うと、入り口の辺りでわめき出し、いきなりダンボールハウスを襲撃して、中からヒロさんを引きずり出した。
そして殴る蹴るの暴行を加えたと言うのだ。
ヒロさんは顔を庇いながら必死で助けを求めたが彼らは聞き入れず、何ごとか叫びながら殴り続けた。
『拾っただろう』『返せ』
そんな言葉だったと、女の子たちは言った。
私は自分が殴られたような気持ちになった。ハッとしてヒロさんの手を見る。右手の先を。
212: 桜雨 ◆LaKVRye0d.:2017/2/22(水) 05:16:31 ID:HMJYUJcabU
そこは、何度も踏みつけられたように皮膚の下が青くなり、表面にも擦過傷がたくさんできていた。
そしてその手のひらは開かれ、ぶるぶると震えている。なにがあっても、どんなに辛い思いをしても握ったままだった手のひらが。
「おのれ」
思わず口にした激しい言葉に、女の子たちが泣きそうな顔をしてびくっとする。
吉永という私と同じ一年の女子生徒は、あの不良たちの仲間だ。どこかで見たことがあると思ったが、やつらとつるんでこの辺りでだべっているのを見たのだった。
そして私がザビエルを尾行していた時に公園の入り口で見たのは、吉永と彼らが座り込んでいた跡だった。不良たちと別れて街へ向かった吉永は、落し物をしたことに気づく。それも重大な落し物だ。
それを手に入れるのに、警察の目を掻い潜らないといけないような代物。それも最近はある一人の教師が勘付いてそのあたりを巡回している。そんな危険を冒してやっと手に入れたモノなのに、落としてしまったのだ。
吉永は焦って引き返す。もちろん、さっき座り込んでいた、あの公園にだ。そこしか考えられない。途中で電信柱の辺りにまだたむろしていた男たちに声をかけて、一緒に公園に駆け込む。
しかし、ない。
オレンジ色の袋は落ちていない。クスリの袋は。他の缶ジュースや菓子袋はそのままなのに。
公園の中には誰もいない。
213: 桜雨 ◆LaKVRye0d.:2017/2/22(水) 05:17:56 ID:HMJYUJcabU
いや、いる。
住み着いているホームレスが。汚らしい、落ちているものなら何でも拾う、社会のゴミが。
彼らはヒロさんを家から引きずり出し、暴行した。『拾っただろう』『返せ』と言いながら。
そして握り締めた右手に気づき、開かせようとする。ヒロさんは抵抗する。余計に興奮した彼らは『返せよ』とわめきながら暴行を続け、ついには無理やりに拳を開かせる。
数十年、握り締め続けた手のひら。
幸せの妖精をつかまえた手のひら。
そのために、人生のすべてを投げ打った、手のひらを。
「くそ」
私は地面を殴りつけた。
『バカよ、バカ。でもロマンティックね。幸せの妖精をつかまえたホームレス!』
ヨーコの言葉が頭の中をよぎる。
これがその結末か!?
目の前がチカチカとする。酸素が足りない。ちくしょう。なんなんだこれは。
ふいに腕の中のヒロさんが跳ね起きた。
「ごめんなさい」
そう言って、地面の上を這いずり始める。
「ごめんなさい。ごめんなさい」
怪我をしたことなど忘れたかのように、地面の土を払いながらまばらに生えた雑草を掻き分ける。
「ごめんなさい。もうなくしません。ごめんなさい」
そんな言葉を繰り返しながら。
私は呆然としてそれを見ていたが、我に返ると、肩のあたりを抱きしめた。
「もういいよ。もういい。ヒロさん。もういいんだ」
ヒロさんの生き方を呪縛しつづけたものが、なんのなのか分からない。他人が口を出していいこととも思えない。しかし、その時の私にはそうすることしかできなかった。
それでもヒロさんは抱きしめる私に抵抗して、地面を探り続けた。なにも見えていない。その目には、なにも見えていなかった。
涙が出た。こんな涙、私の中にあったのか。それが不思議だった。でも、それでもなお、なにも見えていなかったのは、私の方だったのだ。
214: 桜雨 ◆LaKVRye0d.:2017/2/22(水) 05:19:54 ID:HMJYUJcabU
やがて女の子の一人が、家から持ってきたらしい救急箱を私たちへ差し出した。近所の子なのだろう。
ハッとして、私は力ずくでヒロさんを止めると、その傷口に応急処置を始めた。子どものころからずっと剣道をやっていたので、この手のことには慣れている。
それぞれの傷は思ったより深くなく、見た目の無残さも半ばは元々のホームレスとしての格好が自然にそう見えさせたものだった。
少し落ち着いて、私は女の子たちに水を汲んでくるように頼んだ。
そうして、一通り傷口の消毒を終えたころ、公園の入り口の方から「放せ」という声が聞こえた。目をやると、ザビエルがあの吉永という女子生徒の首根っこを掴んでこちらに引き摺ってくるところだった。
「放せよ」
そうわめく声には力がなかった。頬には打たれたような赤い跡がある。捕まえているザビエルの服にも乱れがあった。二人とも息が上がっている。
「山中。鍵だ」
ザビエルがそう叫んだ。
「ヒロさんは、鍵を持っていたらしい」
え?
私は自分の耳を疑った。
鍵? どういうこと?
「そうだな」
ザビエルに詰問され、不貞腐れたように吉永は頷く。
「こいつらは、ヒロさんが自分たちのものを拾ったと勘違いして、無理やり手を開かせたら、鍵を握っていたって言うんだ」
どこへやった?
続けてそう訊くザビエルに、吉永は「知らねえよ。ドブの方に投げたんだよ」とわめいた。
鍵?
ヒロさん、そうなのか。
「ヒロさん」
私の呼びかけに、傷だらけの小さな身体が反応する。
頷いた。頷いた!
取り返しはつく。まだ。取り返しはつく。
私は立ち上がった。
「どこだ」
吉永はゆっくりと指をさす。
こいつに落とし前をつけさせるのは後だ。
そちらへ向かって歩き出した私に、ザビエルが「ほう」と目を見開くと「たいした不良娘だな」と言った。そうして自分の服の裾をまくり始める。
グレーチング、というのか、公園の外の側溝を覆う格子状の金属の蓋を取り外し、私たちはドブさらいを始めた。
吉永はそれを手伝おうとはしなかったが、逃げようともしなかった。ただ地面に座り込んで呆けたようにそれを見ていた。
215: 桜雨 ◆LaKVRye0d.:2017/2/22(水) 05:21:29 ID:HMJYUJcabU
やがてその騒ぎを聞きつけて数人の女子生徒がやってきた。うちの生徒たちだ。
彼女たちはなにが起こっているのか分かっていないはずなのに、しばらく遠巻きに見ていたかと思うと、同じように腕まくりをしてドブに手を突っ込み始めた。
「鍵。鍵を探してくれ」
ザビエルが泥のついた顔でそう言う。
そうして側溝という側溝の蓋をすべて剥がし、私たちはドブさらいを続けた。
「先生〜」
そんな声がして、汗だくのジャージ姿の男が駆け寄ってくる。
誰かが言いつけに行ったのか、ランニング中と思しき我が校の陸上部の一行だった。先頭に立つのは顧問の男性教師。
「手伝いますよ」
ザビエルは「すみません」とだけ言って一瞬顔を上げると、また泥の中に腕を差し入れる。
「こんなことなら任せてください」
陸上部の顧問は上気した声でそう言うと、後ろに控える陸上部員たちに「おい」と声をかける。
ええ〜、という悲鳴のようなものが上がったが、しぶしぶという様子でみんな腕まくりを始める。
ヒロさんもドブの方へ近寄ろうとしていたが、何人かの女子生徒たちが押しとどめながら私がやりかけた応急処置の続きをしてくれていた。
泥の中で汗にまみれ、私は不思議な気持ちに包まれていた。なんだろう。これはなんだろう。
そう思いながら、額の汗を拭った。
216: 桜雨 ◆LaKVRye0d.:2017/2/22(水) 05:23:37 ID:pIgPmzpxL2
「あった」
誰かが叫んだ。
そちらを見ると、陸上部のジャージを着た生徒が手を空にかざしている。
「あったあ」
周りのみんなが歓声を上げた。
その手の中のものは、そばにいたザビエルの手に渡る。ザビエルはホッとした顔でドブから足を抜き、「ヒロさん」と声をかけた。
『人には事情があるんだ。じろじろ見たりするんじゃないぞ』
不機嫌そうにそう言っていたその口が、今そんな優しい言葉を発するのが不思議だった。自分のマークしていた女子生徒の不良行為が、こんな事態を引き起こしたということに罪悪感を覚えていたからなのか。
いや。
私はその横顔を見て、違う、と思った。
ザビエルは、この公園の小さな住人を昔から知っていて、私と同じように気にかけていたのだろう。ただ、その生き方にお前たちみたいな子どもが気安く関わるなと告げて、思いやっていたのだ。
今はなぜかそれが分かるのだった。
「ヒロさん」
もう一度そう言って、ザビエルはヒロさんの元へ歩み寄った。そしてその手にそっと、銀色の小さな鍵を握らせようとした。
しかしヒロさんはその右手の手のひらの上に鍵を乗せたまま、それをしげしげと眺めている。
どうしたんだろうと思って、みんなそれを遠巻きに見つめている。
おっおっ、と嗚咽が漏れた。
子どものような無垢な顔をしたまま、その瞳から涙がぽろぽろとこぼれていった。
そしていつもの声で、つまり、つまりしながらヒロさんは喋り始めた。誰に聞かせるでもなく、自分とその鍵のことを。
私たちは息を飲んでそれに聞き入った。
いつにも増したどもりぐせのために聴き取りづらかったが、時間をかけて紡いだのはこんな物語だった。
217: 桜雨 ◆LaKVRye0d.:2017/2/22(水) 05:26:30 ID:pIgPmzpxL2
◆
春。
桜が咲いていた。
山を越えた遠くの村で生まれたヒロさんは、流れ流れてこの街にやってきたのだった。
まだ若かったヒロさんは、頭は良くなかったが、身体は健康だったので色々な仕事をした。荷物運びのような単純な力仕事が多かった。
頭の良い人にいいように使われて、お給料をあまりもらえないこともあったが、それでもなんとか自分ひとりが食べていけるくらいには頑張っていた。
そのころは労働者の住むドヤ街のような場所があり、そこの木賃宿に逗留して日々を過ごしていた。
ヒロさんは桜が好きだった。
このかわいい白い花を見ていると、故郷を思い出すのだ。ふるさとにあったどんなものよりも、この花が懐かしかった。
ヒロさんはその日も、街外れにあったお気に入りの空き地で横倒しになったドカンの上に腰掛けて、敷地の隅にあった桜の木を見ていた。
仕事は昨日で「もう来なくていい」と言われたので、その日は一日なにもすることがなかった。明日からまたご飯を食べられるように、なにか働き口を見つけなくてはならなかった。
でも今日は、いいや。
そう思って桜を見ていた。
その白い花はもう散りかけていた。明日には全部散ってしまっているかも知れない。
はらはらと、風に乗って花びらが舞う。
今日はこの友だちを見ていよう。
そう思ったのだった。
すると、いつの間にかなんとも言えない良い匂いがしてきて、思わず振り向くとドカンの端にもたれかかるようにして一人の女の人が微笑んでいた。
ドキドキした。
清潔そうな赤い服を着たその人は、とっても綺麗だった。
「なにをしているの」
そう問い掛けられた。
「さくらを、みてるんです」
女の人は「わたしも見て良い?」と訊いた。さらさらと長い髪が風に揺れた。
「いいです。さくらはみてもへりません」
我ながら上手な言い方ができた、と思った。そう思うと嬉しくなった。
女の人はクスリとかわいらしく笑うと、隣に座った。
そうして二人で同じ桜の木を見ていた。
いつまでも、いつまでも見ていた。
そのあいだも、ずっと桜の花びらは静かな春の空を舞い続けた。
綺麗だった。なにもかも。息が苦しいくらい。
218: 桜雨 ◆LaKVRye0d.:2017/2/22(水) 05:27:57 ID:pIgPmzpxL2
「減ってくね」
女の人はぽつりとそう言った。
ヒロさんは少し悲しくなった。
「へっても、またかえってきます」
「どこから」
ヒロさんは答えられなかった。来年の春に、きっとまた桜は咲く。そう言いたかったのに。
赤い服の女の人は、優しい顔をして近づいてきた。
そうして胸元から細い鎖を取り出して、その先についていたものをゆっくりと外した。
銀色の小さな鍵だった。
ヒロさんは襟元に女の人の首筋が見えたとき、ドギマギしてしまった。
思わずそっぽを向こうとしたヒロさんの右手の手のひらの上に、その鍵が乗せられた。
「約束」
「え」
ヒロさんは顔を戻す。
すると目の前に女の人の顔があって、やっぱりそっぽを向きたくなった。
「約束。減っても、帰ってくるんでしょう」
「うん、うん」
ようやくそれだけを言った。
女の人は目を細めて笑う。
「それを、また見たいから」
そう言って手のひらをゆっくりと握らせる。手の暖かい感触にヒロさんの心臓はドキドキとしていた。
「二人で、咲いた桜をもう一度、ここで見る。その約束の証に」
その笑顔がいつまでも、瞼の奥に残った。
記憶が色あせても、それでも時が止まったように。
いつまでも。
それから、ヒロさんの暮らしは少し変わった。今まではただ食べていくために生きていたのに、胸の中のどこか奥、なによりも大事な場所にその約束がどくんどくんと息をしていた。
そのために働いた。つらいことがあっても、この街で。
219: 桜雨 ◆LaKVRye0d.:2017/2/22(水) 05:29:32 ID:pIgPmzpxL2
一年が過ぎた。
ヒロさんは、騙されたり、嘘をつかれたりしながら、泥にまみれる日々の暮らしの中でほんの少しの蓄えを作っていた。
また桜の木が花を咲かせると、仕事を止めてあの空き地にやってきた。そして日がな一日、ドカンの上に腰掛けて桜を見ていた。
ドキドキしながら。
あの人にまた会えるかも知れないから。
あの人がいつここにやって来ても会えるように、桜が散るまでの間、ずっとここにいられるようにこの一年を頑張ってきたのだ。
三日が経った。
五日が経った。
一週間が。そして二週間が経った。
そうして散っていく桜を見ていた。
一人で。ドカンの上に腰掛けて。
桜の花は黒い枝の先から、ひらひらとひらひらと少しずつ減っていった。
右手に握った鍵をそっと見る。するとほのかに胸の奥が暖かくなった。
『二人で、咲いた桜をもう一度、ここで見る。その約束の証に』
その言葉が耳の中に蘇った。
約束。
そう。
へっても。またかえってくる。
約束。
その瞳の先に、花びらは舞い続ける。
五年が経った。
それからずっとヒロさんは、毎年桜の咲く季節にはあの空き地に行って、一日中座り込んでいた。桜は散ってもまた来年には花を咲かせる。あの約束は果たせないままだったが、その言葉を胸にこの街で生き続けた。
ある冬の日の晩に、木賃宿に帰ってきたヒロさんはお尻のポケットが破れていることに気がついた。なにかに引っ掛けてしまったのか、大きな穴が開いている。その穴から、いつも肌身離さず持っていたあの鍵を落っことしてしまっていた。
ヒロさんは半狂乱になってあたりを探した。けれど見つからなかった。
何度も何度も謝った。ごめんなさい。ごめんなさい。もうなくしません。もうなくしませんから、どうか出てきてください。そうして泣きながら探し続けた。
あの鍵がなくなった後のことなんて考えることができなかった。もう人生の一部になっていたのだった。
220: 桜雨 ◆LaKVRye0d.:2017/2/22(水) 05:31:45 ID:HMJYUJcabU
鍵が出てきたのは二日後だった。同じ飯場で働いていた仲間が「これ、おめえのじゃねえか」と持ってきてくれたのだ。
掘り返していた土砂の中に見つけたのだという。ヒロさんがいつも大事そうに持っていたのを覚えていてくれたのだ。
ヒロさんは感謝した。神様なんているのか分からなかったので、ただただ空に向かって感謝した。
そして誓ったのだった。
もう二度となくしません。この手に握って。けっして。
新しい約束がそうして生まれた。
それからのヒロさんは、右手を開かなくなった。どんなことがあっても。それまでしていた仕事もできなくなった。哀れに思った昔の仲間が、わずかばかりのお金や食べ物をくれたが、それもいつまでも続かなかった。みんな身体をギリギリまで痛めつけながら働いていたのだ。
彼らもやがて一人、二人と、どこかへ去って行った。社会の最下層で、泥水を啜って生きていたような仲間たちだった。それなのに、いったい、どこへ行けるというのだろう。
その中でも一番底の底にいたヒロさんは、それでもその街で生きていた。見ず知らずの人になにかを恵んでもらう暮らし。落ちているものを拾って、それを頭を下げ下げ誰かに買ってもらう暮らし。
お金が払えなくなって、木賃宿も追い出された。寒さに凍えて街を彷徨い、たどり着いたのはあの空き地だった。そこにありったけのボロをまとって横になった。凍てつく夜空は澄んでいて、星が一面に輝いていた。
221: 桜雨 ◆LaKVRye0d.:2017/2/22(水) 05:33:15 ID:pIgPmzpxL2
春が来る。
また桜が咲く。
それだけを思って眠りについた。
それからの暮らしは、誰とも共有できないヒロさんだけの思い出だった。つらい、しんどい、などという生易しい言葉では語れない、長い、長い日々。
それでも春は来た。そして桜は咲いた。そのたびにのそのそとねぐらから這い出て来て、待ち続けた。あの人が、あのころと変わらない笑顔でやってくることを。
いつか交わした約束は、たぶん夢じゃなかったはずだから。
…………
時代は移り変わる。
世の中にはヒロさんの知らない便利なものが増え、道行く人々もすんなりと足が伸びて、みんなお洒落な格好をして楽しそうにしている。そんな様子を見ていると、ヒロさんも楽しかった。
しかし空き地の桜の木はある日、タクチカイハツとやらが進む中で切られてしまった。ヒロさんは必死で抵抗したが、大きな身体の若者たちにかなうはずもなかった。半分の大きさになった空き地はやがて公園になった。
横倒しのドカンもなくなったが、そこはもうヒロさんの住処だった。呆然としながらも、そこで暮らすしかなかった。
それから何年かしてヒロさんは親切な人に小さな桜の苗木をもらった。それを公園の隅に植えた。そして他の草や木に栄養を取られないように、気をつけながら少しずつ育っていくのを見守ってきた。それが今、ヒロさんの背丈を越えるほどになって、公園の隅に小さな枝を伸ばしている。
へっても、かえってくる。だから、二人で、咲いた桜をもう一度、ここで見る。
そんな約束を、昔した気がする。
222: 桜雨 ◆LaKVRye0d.:2017/2/22(水) 05:34:55 ID:pIgPmzpxL2
◆
どもりながら、なにかに取り憑かれたかのように訥々と語る、ヒロさんの物語が終わった。
周りにいた何人かの女子生徒が涙を浮かべている。声を上げて泣いている子もいた。
かつてヒロさんが、たった一度だけ会った女性と大切な約束を交わしたその場所に私たちは立っていた。
吉永も泣いていた。地面に突っ伏して。
ザビエルが話し終えたヒロさんの手を取った。
そしてその手を胸元に引き寄せ、祈るようにそっと目を閉じる。その唇からやわらかな言葉が紡がれる。
「 心の貧しいものは幸いです。天の国はその人ものでしょう。
悲しむものは幸いです。その人は慰められるでしょう。
柔和なものは幸いです。その人は地を相続するでしょう。
義に飢え渇いているものは幸いです。その人は満ち足りるでしょう。
あわれみ深いものは幸いです。その人はあわれみを受けるでしょう。
心のきよいものは幸いです。その人は神を見るでしょう。
平和をつくるものは幸いです。その人は神の子どもと呼ばれるでしょう 」
そして目を開き、ヒロさんの瞳を見つめてこう言った。
「 義のために迫害されている者は幸いです。天の国はその人のものなのだから 」
そこだけ時が止まったかのように、私には思えた。
ザビエルのあだ名の意味を今さらのように思い出す。フランシスコ・ザビエル。十六世紀に日本へやってきたカトリックの宣教師。日本人なら誰でも知っているような日本史を彩る有名人だ。
その先人をなぞらえたあだ名は、熱心なキリスト教徒であり、それを学校でも公言してはばからないことからつけられたものだった。生徒の間にも、その教えにちなんだ説教をすることで知られていた。もっとも、私たちにはどれもやぼったい、似たようなお説教にしか思えなかったのだが。
なのに、今ヒロさんの手を握りながら口にした言葉はどれも、とても美しく聞えた。
223: 桜雨 ◆LaKVRye0d.:2017/2/22(水) 05:37:24 ID:pIgPmzpxL2
「やく、そく」
ヒロさんがそう呟いた。
目には大粒の涙がこぼれている。
ヒロさんは手にした鍵をザビエルに渡そうとしていた。
「え?」ザビエルは戸惑ってそれを受け取れないでいる。
「かえってきた」
ヒロさんはぼろぼろと涙を流しながら、確かにそう言った。そして公園の隅にある一本の痩せた木を震える指でさし示す。黒い樹皮。春だというのに、すっかり花が散ってしまっているその木。
いや、あった。残っていた。枝の先に、言われないと気づかないような小さな花びらが、それでも懸命に。
その時私は、ザビエルも今、赤い服を着ていることを初めて認識した。泥にまみれているが、確かに赤い服だった。そして…………
ヒロさんの涙で滲んだ視界の中で、今きっとザビエルのことが、あのいつか出会った髪の長い女性に見えているのだろう。
あのころのままの、優しい笑顔をして。
そうに違いない。
ザビエルはその艶やかな長い髪をそっと整え、にっこりと微笑むと、「小さな桜ね。でもかえってきた。約束どおり。なにもかも、あなたのおかげよ」とささやいた。いつもの体育会系の延長のようなぞんざいな喋り方とは全く違う。よそ行きの声。いや、それが本当の声だったのかも知れない。
ヒロさんは何度も頷いていた。何度も、何度も。
「でもこれからは」
ザビエルは少し声をつまらせて、それからまた微笑んだ。
「あなた自身のために生きて」
そうして止まっていた時間がようやく動き出したのだった。
一際強い風が吹いて、泥水に濡れた私たちの服を冷たく撫でた。陸上部の顧問が首にかけたタオルで頭を拭いている。額の上の辺りに泥がついて、それがそこにないはずの髪の毛に見えた。なんだか可笑しい。
私は目の前に視線を戻し、声を掛けようとして、一歩前に出た。
「ザビ…… じゃなかった、野田先生」
ザビエルはヒロさんの手を握ったまま私の方に顔を向けた。こんなに綺麗な人だったっけ。私はふと、そんなことを思った。
224: 桜雨 ◆LaKVRye0d.:2017/2/22(水) 05:39:16 ID:pIgPmzpxL2
次の日、ヒロさんはもうあの公園にいなかった。山を越えた先にあるという故郷に帰ったのかも知れない。
霧雨のような雨が降っていた。昨日の夜半から降り始めた雨は、今朝まで断続的に続き、道路や家の屋根やねをすっかりと濡らしていた。
私はその中を傘もささずに自転車を漕いで駅に向かった。
会えないことは分かっていた。それでも駅の構内に立った。濡れた髪をハンカチで拭きながら。
ヒロさんは、あの年老いた小さな身体をひょこひょこと動かして、ここから旅立っていったのだろうか。元気でいてほしい。どこか知らない、その場所でも。
『義のために生きる、の、義(ぎ)って、どんな意味だ』
私はあの後でザビエルに聞いた。
『義は、そうだな。古い言葉で、ディカイオシュネーと言って、正しいこと。そして誠実であるということ。だ。どうした。キリスト教に興味があるのか』
『ばーか』
そんな言葉を選んだザビエルにも、深い意図はなかったのかも知れない。
ただ、そんなことのために生きた人が、いつか報われるといい。私はそれだけを思った。
甲高い音が鳴った。
構内アナウンスが列車の出発を告げたのだ。足元に目をやると、花びらが落ちているのに気づく。小さな白い花は、踏みつけられて足跡の形に床に張り付いていた。
桜が咲くころに降る雨のことを、桜雨というそうだ。そしてそれは、桜の花を散らせる雨でもある。
例年より開花が遅かったせいで、もう五月だと言うのにほんのわずか残っていた桜は、それでも昨日からの雨ですべて散ってしまっただろうか。
目の前で列車がゆっくりと動き出す。
顔を上げると、ホームには列車の窓に向かって手を振る女の子がいた。列車の窓からは、同じような年恰好の女の子が、やはり身を乗り出して手を振っている。
春は出会いの季節であり、別れの季節でもある。
こうしてこの駅のホームは、この春に幾度もの別れを見届けたことだろう。そして手を振り合う人々の間に交わされる新しい約束を。
私には、踏みつけられ、泥に汚れて地面に押し付けられた白い花が、新しい約束たちの、その証のための刻印のように思えてならなかった。
225: 桜雨 ◆LaKVRye0d.:2017/2/22(水) 05:41:05 ID:HMJYUJcabU
◆
京介さんの昔話が終わった。
俺はザビエルと呼ばれていた女性が去っていった改札の向こうを見つめる。
「ザビエルの本名は、松尾先生じゃなかったんですか」
「うん?」
なんだ、分からないのか。そんな顔で京介さんは苦笑した。
「美女は、野獣と結婚したんだよ」
どうやら、相合傘は本当に成就したらしい。
コレと、か。俺は親指を立てて苦笑する。
つまり、ザビエルこと野田先生は、ずっと一途に言い寄っていた陸上部の顧問である松尾先生の求愛を受け入れたということだ。そして姓も松尾に変わった。
「それから旦那の方が別の学校に移ったけど、ザビエルの方は私たちの学校に残ったんだ。私なんて三年間もずっとあいつが担任だったんだぞ」
その間、ずいぶん叱られたらしい。なにしろひどい不良娘だったのだから。
「寒いな」
京介さんはそう言って、マフラーを首に巻き直す。
「栗、ありがとう」
まだ仄かな過去の余韻が残る中、京介さんは小さく手を振り、颯爽と身を翻して、人でごった返す駅の地下を歩み去って行った。
春か。
冬支度の人々の群の中に消えて行く京介さんの背中を見つめながら、俺もまた、心のどこかで新しい春を、もう待ち始めていた。
(完)
226: 桜雨 ◆LaKVRye0d.:2017/2/22(水) 05:42:03 ID:pIgPmzpxL2
桜雨 【了】
227: 1 ◆LaKVRye0d.:2017/2/24(金) 04:01:29 ID:XCDLmSFIGs
スレ主ではなく、いち読者、いちファンとしての感想ですが、
これは美談ではなく私にとっては非常に胸糞が悪かったです
ヒロさんの昔話に出て来た赤い服の女性は、純朴な肉体労働者に“自分から”約束を押し付けておきながら、何故、何十年もの間、一度たりとも姿を現さなかったのか?
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「減ってくね」
女の人はぽつりとそう言った。
ヒロさんは少し悲しくなった。
「へっても、またかえってきます」
「どこから」
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この会話だけ見ても不愉快になります。無神経な女だな、と
大抵の美人は、自分が美人である事を知っています
それを鼻にかけたり武器にしたりするかしないかで本当の美人か、醜く見えるかが変わって来ますが
この女性は単に思い付きでヒロさんをからかっただけではないかと邪推すらしてしまいました
ザビエルのお陰でヒロさんが最後に救われ、報われたのは唯一の救いですが、
約束を守り続けた為に失った数十年は戻って来ない…
それを思うと悲しくなりました
さて、また近日中に次の話を投下しますので暫しお待ち下さいませ
228: 風の谷の名無しか:2017/2/25(土) 17:56:31 ID:V/D6yqwJ1g
お疲れ様です
さすがの叙述トリックでした
229: 1 ◆LaKVRye0d.:2017/2/26(日) 03:32:48 ID:qQQzqfVdfw
有難うございますm(__)m
お1人でも読んで下さる方がいらっしゃればやる気が出ます
今後とも宜しくお願い致します
230: 1 ◆LaKVRye0d.:2017/2/26(日) 03:35:34 ID:qQQzqfVdfw
貼り付けた話の一覧です
特定の話だけお読みになりたい方はご参照下さい
>>2-3 田舎(一部)
>>7-10 『絵』《T》
>>11 『絵』《U》
>>12-24 『絵』《V》
>>29-42 月と地球
>>44-63 本
>>66-75 ペットの話
>>77-91 風の行方・前編
>>92-100 風の行方・後編
>>103-116 保育園・前編
>>117-129 保育園・中編
>>130-140 保育園・後編
>>141-159 連想T
>>162-175 空を歩く男
>>176-180 信号機
>>181-189 趣味の話
>>191-207 桜雨・前編
>>208-225 桜雨・前編
231: 剣道の話 ◆LaKVRye0d.:2017/2/26(日) 03:57:42 ID:qQQzqfVdfw
剣道の話
大学一回生の秋だった。
旅行の打ち上げと称して四人の仲間で集まり、カラオケに行ったことがあった。
俺の田舎での恐ろしい体験を共に乗り越えた仲間だ。
なのに最初から妙にギクシャクして盛り上がりに欠けた。
京介さんが持ち歌っぽい「天使の休息」を歌った後に師匠が「古いな」と呟いたあたりから雲行きが怪しかったのだが、その師匠がセクハラのつもりなのか「おっぱいがいっぱい」という歌を歌ったことに対し、女性陣がまったくのノーリアクションだったことがその変な空気に拍車をかけた。
師匠は黙々とセクハラソングばかりセレクトして歌い、「金太の大冒険」で一層ボックス内を寒々とさせた後に「どうして吉田松陰物語が入ってないんだ」とインデックスに一人で切れたりしていた。
その後カラオケ屋を出て近くのハンバーガーショップでテーブルを囲んだときも、なんかもうとっとと解散しようぜ的な雰囲気が漂っていた。
しかしどういう会話の流れだったか判然としないが京介さんと師匠が二人とも剣道をやっているという話になって、俺は素直に感心していたのであるが、kokoさんがぼそりと一言呟いたときに(あ、まずい)と直感した。
「どっちが強いのかしら」
232: 剣道の話 ◆LaKVRye0d.:2017/2/26(日) 04:06:12 ID:qQQzqfVdfw
それはまずいでしょうよ。
あきらかに。
案の定、二人ともピクリと反応し、顔を強張らせながら子どもじみた牽制が始まった。
「まあ、やってたっていっても高校卒業してからはあんまりやってないしね。でもまあ、女子と男子じゃ比べようがないっていうか、競技としても混合でやることなんてまずないし、あんまり意味無いんじゃないかな」
「そうかな。私は今でも道場に通ってるけど、稽古は男子とでも普通にやるよ」
「いや、そうじゃなくて、ほら、男子と女子と試合が別れてるって時点で、そもそも勝負が成り立ちにくいくらいのナニが……ほら、身体的な差が……あるわけじゃない?」
「個人と個人を比べるのに、それぞれが属している集団を持ち出すって時点で、核心に触れたくない理由でもあるのかと勘繰ってしまうがな」
「へえ。一般論に話を落とすのは、優しさでもあるってことがわからないやつもいるんだな」
「……それは、どういう意味なのかな」
「いや、そのままの意味でしょ」
ああ。
いやだ。なにこの大人げなさは。
いつものことと高をくくりながらも、ネタがネタだけに血を見ずには終わらないような気がしていたが、やはりそういう方向へ話が向いていった。
「じゃあ、一週間後、私の道場で。逃げるなよ。ほんとに一週間でいいのか」
「いいよ。ブランクっていうほどのものじゃないし。もちろんハンデっていうほどのものでもないよ」
「ホント、いちいち勘に触るな、このオトコは」
「キミほどじゃないよ」
「しね」(1注:原文では“し”は漢字でした)
「竹刀で死なせるものなら見せて欲しいね。そもそも竹刀は稽古での殺傷を防ぐ目的でかの剣聖上泉信綱が……」
「うるさい」
とにかく、そんな調子で決闘の日取りが決まった。俺は見届け人ということになったようだ。
ハンバーガーショップを出て解散する時、kokoさんに
「どっちが勝つんですか」
と囁いてみた。するとどうでも良さそうな口調で、
「分からないから訊いたのよ」
……そりゃそうですね。
233: 剣道の話 ◆LaKVRye0d.:2017/2/26(日) 04:10:26 ID:9gYoXiEfsA
一週間後、俺は「中町剣友館」という看板の前に師匠と並んで立っていた。
思ったより大きな道場で、建物の古さといい、なかなか雰囲気があった。
京介さんが子どものころから通っているという道場だ。
隣の師匠をちらりと覗いたが、その横顔には微かな緊張の色がある。
格好は紺の胴着に袴。背中には防具が入っているらしい袋と、竹刀の形をした袋を担いでいる。
なにも家から胴着を着てくることはないと思うのだが、「敵の陣地で悠長に着替えてられるか」とのこと。
かなりの意気込みだ。
立場上、俺がどちらか一方の味方をするのも変なのだが、場所が師匠にとっては完全にアウェーなのでどうしても師匠よりの立ち位置になってしまう。
「そんな剣道の道具、持ってたんですね。知りませんでした」
「男が武道をひけらかすものじゃない」
言葉は妙にカッコいいが、ようするに押入れで埃を被っていたのだろう。
俺の勘ではたぶん師匠の負けだ。
玄関から入るなり、師匠が大きな声で「たのもう」と言った。
おお。世界に入り込んでいる。
しかし応答はなかった。出迎えも。
少し気まずい思いをしながら薄暗い建物の中を進み、物音のする方へ進むと広い板張りの空間へ出た。
「お、来たな」
道場の中にはわずかな人影しかなかった。全部で三人。全員が防具を身に付けている。
そのうちの一人が面を取りながらこちらに近づいてきた。
「ようこそ。私が当館の主、中町です」
男性だった。剥げ頭に、肉付きのいい顔。五十、いや六十代か。差し出されたその手を慎重に握る師匠。
その後ろから、同じく面を取りながら京介さんが歩み寄ってくる。
ふわりと顔のまわりに湯気が立った。汗が滴っている。
234: 剣道の話 ◆LaKVRye0d.:2017/2/26(日) 04:14:06 ID:9gYoXiEfsA
「逃げなかったな。見直したぞ」
軽く頭を振りながら言う。
ガランとした道場の中を見回した師匠に、中町さんは笑顔を浮かべた。
「ああ、今日の練習は晩からです」
そういえば今は平日の昼間だった。大学生をしていると時々常識的な曜日や時間の感覚が薄れてしまう。
京介さんが後ろを振り返りながら声を上げた。
「そういや、おまえは今日はどうしたんだ」
道場の奥で素振りをしていた人の動きがピタリと止まる。面がこちらを向いた。
「そうりつきねんび」
「え?」
「創立、記念日」
男の子の声。よく見ると小柄だ。防具に包まれた体はパッと見では年齢不詳だが、どうやら中学生くらいのようだ。学校が休みだということか。
「ギャラリーは少ないほうがいいでしょう」
中町さんはタオルで顔を拭きながら、「準備をなさいますね。どうぞご自由にお使いになってください」と道場の中を示した。
「素振りはしてきました」と師匠は京介さんの方を見ないようにしながら、足元の板張りを確かめるように踏みしめる。
「摺り足だけさせてください」
そう言って、荷物を置くと板張りの上をすべるように歩き始めた。
真剣な表情だ。
俺はその様子を見ながら道場の壁際に腰を下ろした。
京介さんは汗を拭きに行ったのか、控え室らしい板戸の向こうに消えていった。
中庭らしい方に面した窓から、光の筋が伸びて道場の床を照らしている。天井が高い。
師匠の動きに合わせて、キュッ、キュッ、という小気味良い音が響く。
木の匂いがする。
剣道か。
やったことはないし、目の前で見るのも初めてだった。
中町さんがじっと師匠の足運びを目で追いかけている。なぜかその首の動きが怪訝そうに傾げられているように見えた。
235: 剣道の話 ◆LaKVRye0d.:2017/2/26(日) 04:16:55 ID:qQQzqfVdfw
俺は不安になった。
師匠が本当に剣道など出来るのか、という不安だ。その道の人の前で恥を掻くのは見たくなかった。
しかし師匠は平然とその視線を受け流している。
やがて足を止め、俺のすぐ隣に置いてあった道具袋の方へ近づいてきて竹刀を袋から取り出した。
そこへ中町さんから声が掛かる。
「打ち込みくらいはしておいた方がいいでしょう」
師匠は迷うような表情を見せたが、ゆっくりと頷いた。
「あ、基立ちやりますよ」
奥で素振りをしていた少年がこちらにやってくる。
師匠は道具袋を開け、防具を取り出した。そばに寄ると、お香の匂いがした。防臭のためだろうか。
垂れと、胴と、面と、小手。
師匠はそれらを順番に身に着けていく。
なんだか、目の前で師匠ではない別の何かに変わっていくようだった。
完全武装を遂げた師匠はふっと、息をつくと竹刀を手に取り、道場の中ほどへ進んでいった。
同じ格好の男の子もそちらへ向かう。
「打ち込みでいいですか。それとも掛かりですか」
「いや、互角で頼む」
面の奥からそんな言葉が出てくる。
236: 剣道の話 ◆LaKVRye0d.:2017/2/26(日) 04:21:06 ID:qQQzqfVdfw
一瞬ハッとしたような雰囲気がもう片方の面から漏れた気がした。
けれどすぐに少年は竹刀を構え、「分かりました」と元気な声を張り上げた。
互いに礼をしたあと、二つの竹刀が音を立てて交差した。
オオ、と声が漏れてしまう。どうやら試合形式の稽古のようだ。
二、三度打ち合ったかと思うと、ガツンと鈍い音を立てて二人の身体がぶつかる。
「ウォーッ」という凄まじい声が師匠から上がり、俺は思わずビクリとする。それに呼応して「キョェェーッ」という甲高い声がもう片方から上がる。
その迫力に俺は腰が引けてしまった。
おいおい。ほんとに剣道やってるよ。
そんな間抜けな感想が頭に沸いてくる。
もしかして師匠、強いんじゃないか。
そう思いながら見つめていると、いつの間にか控え室から出てきた京介さんが、壁際を遠回りしながら俺のそばへやってきた。
袴を翻してストンと姿勢良く腰を下ろす。背筋が綺麗に伸びている。
視線は道場の真ん中で竹刀を合わせている二人へ向けられている。俺は横目で京介さんの顔を伺う。
「どうですか」
「……なにが」
前を向いたままだ。
「勝てますか」
「この二人の勝敗か」
「いえ……」
京介さんが、師匠に、です。
237: 剣道の話 ◆LaKVRye0d.:2017/2/26(日) 04:23:57 ID:qQQzqfVdfw
そう言おうとすると、遮られた。
「見てればわかるよ」
ビシィッ、という激しい音がして師匠の竹刀がガクンと揺れる。少年の放った小手が師匠の左手に入ったらしい。
間髪居れずに二人はガツンとぶつかり、鍔迫り合いが始まる。そして離れ際に、一瞬の隙を衝いてまた師匠が小手を決められた。
速過ぎてよく分からないけど、たぶん。
あれ? 師匠、もしかして押されてる?
本番の前にもうメッキが剥れてしまうのか。
すると京介さんが横でぽつりと言った。
「思ったよりやるな」
その間にも竹刀を持った二人は目まぐるしく動き、お互い面を狙って相打ちした後、くるりと首を振った少年が身体を沈ませながら師匠の胴を打ち抜いた。
そばに立っている中町さんが頷いたのを見ると、綺麗な一本だったようだ。
だめじゃないか、師匠は。
そう思うと、なんだか酷い脱力感に襲われた。
しかし京介さんは依然興味深そうにその様子を見つめている。
「これ、あの子の方が優勢なんですよね」
念のために確認する。
「あたりまえだ。あの変態が勝てるわけがないだろう。ユータはこのあいだ中学の県大会の個人戦で優勝したばかりだ」
おいおい。先に言ってくださいよ。それメチャメチャ強いんじゃないですか。
238: 剣道の話 ◆LaKVRye0d.:2017/2/26(日) 04:28:00 ID:qQQzqfVdfw
その小柄な身体をあらためて見つめる。
驚くと同時に師匠がかわいそうになった。
京介さんと戦う前のほんのウォームアップのつもりで竹刀を合わせたのに、こんな子どもに良いようにやらてしまうなんて、きっとわけが分からず混乱しているに違いない。
「オォォォォッ」
という雄叫びとともに、師匠がなんとか面を打ち返した所でお互い動きを止めた。そして礼をして別れる。
少年は面を取りながら、「いやあ、強いですね」などと嫌味を感じさせない口調で師匠に話かける。師匠の方は息が上がっているのか、返事ができないようだった。
これから本番だというのに、実にまずい雰囲気だ。最後の面打ちも、素人目に、華を持たせてくれたようにも見えた。
案の定、京介さんは「ふ」と口元を緩めている。
「あの子、強すぎますよ」と俺は抗議をした。相手が県の中学チャンプだなんて知らない師匠は、今ごろショックを受けているに違いない。必要以上に自信喪失していなければいいが。
心配しているその横で、京介さんはスラリと立ち上がった。
その無駄のない動きは、錆一つない日本刀が鞘から抜き放たれたようだった。
「そうかな」
口唇からそんな言葉がこぼれ出る。
そうかなって、明らかに強すぎですよ。素人が見ていても分かるくらいに。
続けてそう抗議しようとしたときに、京介さんはスッと足を運び始めた。
「私の方が強いよ」
そう言い残して。
239: 剣道の話 ◆LaKVRye0d.:2017/2/26(日) 04:33:00 ID:9gYoXiEfsA
その後は無残なものだった。
息を整えた師匠が京介さんと正対し、竹刀の先を合わせた後は一方的な展開だった。
五分三本勝負と申し合わされていたのだが、師匠はものの一分で二本を先取されてしまい、早々に負けが決まってしまった。
俺の隣に座った少年が解説してくれたところによると、一本目は「出小手」、二本目は「面返し胴」という技で決まったらしい。
師匠は往生際悪く「もう一勝負」「もう一勝負!」と食い下がり、承知した京介さんに完膚なきまでにボコボコにされていた。
さっきの少年との試合形式の稽古の時よりも打ち合うことが少なく、あっと言う間に決まってしまっている印象だった。
師匠は中段、京介さんも中段に構えていたが、途中から師匠の方だけ下段に構えを変えた。どうやら防御に重きを置いた構えらしいのだが、全くそれが奏功していないようで、相変わらず面に胴に小手にとバンバン打ち込まれていた。
「あのお姉さん、強いの?」
恐る恐る訊いてみると、少年は「そうですねぇ」と少し考えてから答えた。
「段位で言うと四段ですけど、公式戦ではそれほど実績がないですね。中学の時は凄かったらしいですけど。でもたぶん今の方が強いですよ。前回の全日本の予選でも二回戦で警察剣連の優勝候補の人に当たっちゃって負けちゃいましたけど、内容自体は惜しかったですしね」
四段?
四段というと、剣道三倍段の法則からすると十二段の空手家で互角という強さではないのか。
頭の中で金色の帯を締めた空手家と京介さんが向き合っているバカな絵面が浮かんでしまった。
「まあ、僕の方が強いですけど」
少年は可愛い顔をしてさらりとそんなことを言った。屈託のない笑顔だった。
240: 剣道の話 ◆LaKVRye0d.:2017/2/26(日) 04:35:52 ID:9gYoXiEfsA
しかし師匠を尺度に考えると、どう考えても京介さんの方がボコボコにしている。さっきはそんなに手を抜いていたというのだろうか。
「面あり!」
中町さんの掛け声が道場内に響く。
正面から面を打とうとした師匠に対し、京介さんは左へ身体を捌きながら相手の竹刀を払い上げるように流して、開いた面へ素早い一撃を見舞ったのだ。「面すりあげ面」という技らしい。
「あれ、得意技なんですよ。僕もよくやられます」
少年は何も持っていない両手を胸の前で握って竹刀を操る動作をする。しかしその首が訝しげに捻られた。
「でもなんか、あの人の動き、変なんですよね」
「変って?」
そう問うと、「ううん」と唸って師匠の動きを凝視する。
「僕とやってたときはもっとまともな動きだったと思うんですけど。なんていうか、今は要所要所で妙な動きが入るんですよね。それもだんだん酷くなってる」
ほら、あの間。
そんな風に指をさされたが、なにがなんだかさっぱり分からない。
試合は十本以上京介さんが連取して、六連勝だか七連勝だかしたあたりで中町さんが「勝負あり」と言った後、「もうよかろう」とお互いに諭すような口調で告げた。
師匠は力が抜けたように天を仰いだ後、ゆっくりと頷いた。京介さんもそれに倣い、互いに礼をした。
師匠はこちらへ引き上げてきながら、全身で息をしていた。相当に疲れているようだ。「くそう」と悔しそうに吐き捨てながら面を外す。顔中から汗が滴り落ちている。
241: 剣道の話 ◆LaKVRye0d.:2017/2/26(日) 04:38:48 ID:qQQzqfVdfw
防具を外し終わった師匠に、中町さんが歩み寄ってきてこう言った。
「剣道ではありませんな」
師匠はこわばったような、それでいて薄ら笑いのような表情を浮かべて「修行が足りませんでした」
とだけ返事をした。
中町さんは少し険しい顔をした後で、力を抜いたように溜め息を一つつくと「お疲れ様でした」とねぎらった。
そしてお互いに頭を下げて、離れる。
妙なやりとりだった。
京介さんは道場の真ん中に立ったまま、面を外してこちらを見ている。
あれほど圧倒的に勝ち切ったというのに、その表情は哀れむでも蔑むでもなく、かと言って高揚感や達成感も微塵も感じられないような複雑なさまを見せていた。
ただ、その相貌は何試合も連続で戦ったばかりだというのに紅潮を見せず、それどころか異様なほど蒼白だった。そしてその両目は息を飲んだように師匠を見つめている。
まるでギリギリの命のやりとりをしたばかりとでも言うように。
242: 剣道の話 ◆LaKVRye0d.:2017/2/26(日) 04:40:30 ID:qQQzqfVdfw
師匠はその視線から目を逸らし、持参した袋から着替えを取り出し始める。
「あっ」
こもった熱気に気がついて少年が窓に駆け寄る。
そうして開け放った窓から心地よい風が吹いてきて、汗に濡れた二人の髪を揺らした。
板の間の、どこか懐かしいような木の香りがした。
243: 師事(再生) ◆LaKVRye0d.:2017/2/26(日) 04:44:55 ID:qQQzqfVdfw
『師事(再生)』
(・ω・)
同人誌『師匠シリーズの4』に掲載する予定のリメイクのお話の一つだよ。
先行公開するよ。
リメイクはタイトルをどうしようかな、と思っていたけど、悩んで悩んで17秒ほど悩みぬいて、ついに本来のタイトルの後に(再生)とつけることにしたよ。
(・ω・)
リメイクは基本的に加筆・修正だけをしているよ。
もちろん結末は変わらないよ。
でももし変わっていたら……
今年死ぬはずのあの人が関わっていそうだね。
そう言えばもう、最後の蝋燭は消えたのかな。
244: 師事(再生) ◆LaKVRye0d.:2017/2/26(日) 04:47:57 ID:qQQzqfVdfw
僕が海沿いのド田舎から某中規模都市の大学に入学したころ。
とりあえず入ったサークルにとんでもない人がいた。
元々霊感は強い方で、子どものころから心霊体験は結構している方なのだが、大学受験期にストレスからか、やたら金縛りにあっていて色々と怖い目にあってばかりだった。
そのせいでもあるのだが、オカルトへの興味が急激に高まっていた時期で、サークルの人々が引いているにも関わらず嬉々としてそんな話をしていると、ある先輩が「キミィ。いいよ」と乗って来てくれた。
その先輩は院生で仏教美術を専攻している人だった。
普段はあまりサークルにも顔を出さないらしいのだが、新歓時期ということもあって呼び出されていたようだ。
上回生や、おどおどした入部希望者、見るからに冷やかし目的のチャラチャラした見学者など、人でごったがえしている部室内で、その先輩は一人冷ややかに一歩引いた位置から周囲を眺めていた。
その探るような視線がどこか近寄りがたい雰囲気を醸し出していたので、最初から気になっていた。
245: 師事(再生) ◆LaKVRye0d.:2017/2/26(日) 04:50:27 ID:9gYoXiEfsA
しかし思いのほか、その先輩が人垣を掻き分けるように身を乗り出して来たので驚いてしまった。
それから問われるままに自分が体験した様々な怪奇譚を語っていると、その一つ一つに楽しげな笑みを浮かべ、「そいつは災難だな」などと寸評をくれるのだった。
すっかり意気投合してしまい、見学にいったその日の夜にドライブに連れて行ってもらった。
他の新入生たちは上回生に引っ張られて、学裏と呼ばれる学生向きの定食屋街に連れ立って行ったのだが、僕とその先輩だけは別行動となった。
正直、ドライブに誘われた時は迷った。他の部員たちと離れ、サークルの中でも浮いている存在であるということがひしひしと伝わってくる先輩と二人で行動するというのは、今後このサークルにおける自分の立ち位置が決定付けられるような気がしたからだ。
そしてその予感は外れていなかった。
246: 師事(再生) ◆LaKVRye0d.:2017/2/26(日) 04:53:16 ID:qQQzqfVdfw
「何か食うか」
駐車場に学内の駐車場にとめてあった先輩の軽四に乗り込むと、そう訊かれた。
もう日も落ちてあたりは暗くなっていた。
「なんでも食います」
そう答えると、「じゃあファミレスだな」と妙に嬉しそうにシートベルトを締めるのだった。
それから、ほかにどんな怖い体験をしたのか根掘り葉掘りと訊かれながら、随分と遠くのファミレスにやって来た。
そこは郊外のガストで、車から降りて看板を見上げながら「なんでここなんですか?」という表情を浮かべていると、先輩はぼそりと言った。
「ここな、出るよ。俺のお気に入り」
ファミレス自体人生で始めてという田舎者の僕は、それでさえ緊張しているというのに、出るって、出…… 出るんですか。
あらかじめ予約してあったとでもいうような足取りで、店員の案内も待たずに先輩は一つのテーブル席に向かった。僕も追いかけて、向かいに腰掛ける。
メニューを見るのもそこそこに、適当に注文した料理がやって来ると、箸を握った瞬間、先輩がこう言った。
「俺が合図したら俯けよ。足だけなら見えるはず」
こちらを向きもせず、スパゲッティをズルズルと啜りながら、その咀嚼の合間にだ。
247: 師事(再生) ◆LaKVRye0d.:2017/2/26(日) 04:57:00 ID:9gYoXiEfsA
そんなことを言われて飯が美味いはずがない。
これはなんの冗談なんだ。
もやもやした気分のまま、皿の上のライスをもさもさ食ってると、急に耳鳴りがした。
どこか目に見えない場所で歯車だらけの大きな機械が急に駆動を始めたような、そんな感覚。
出る。
自分の経験則に照らし合わせて、それが分かった。その空間の気圧が変わるように、あるいは磁場が変わるように、何か普通ではないものが現れる瞬間だった。
冷や汗が出始めて、箸を握る手が止ると先輩が言った。
「おい。俯けよ」
慌ててテーブルに目を落した。
その姿勢のまま動けず、しばらくじっとしてると、視線の右端、テーブルのすぐ脇を白い足がすーっと通り過ぎた。
まるで現実感がなかった。その足は床を踏んでいなかった。
248: 師事(再生) ◆LaKVRye0d.:2017/2/26(日) 05:00:00 ID:qQQzqfVdfw
いきなり肩を叩かれて我に返った。
「見たか?」
先輩が紙ナプキンで口元を拭きながらそう尋ねてくる。
僕が頷くと、
「今のが店員の足が一人分多いっていう このガストの怪談の出所。俺は足以外も全部見えるんだけどな。まあ、顔は見ない方が幸せだ」
そう言って平然と水の入ったコップに口をつける。
なんなんだ、この人は。
「早く食べろ。俺、嫌われてるから」
僕もかなり幽霊は見る方だと自認していたが、こいつはとんでもない人だと、この時はっきり分かった。
その後、僕が食べ終わるまでの間、白い足は僕らのテーブルの周りを三回往復した。
ガストを出たのちは、怪談話をしながら通ると必ず霧が出る山道だとか、先輩お気に入りの山寺巡りなどに連れまわされて、もはや自分がどこにいるのかさっぱり分からなくなっていた。
249: 師事(再生) ◆LaKVRye0d.:2017/2/26(日) 05:05:32 ID:9gYoXiEfsA
市内からは多分出ていたのだろう。
池だか沼だかが横に広がるあぜ道のようなところで、先輩は路肩に車を止めた。
辺りには明かりらしい明かりもなく、車のエンジンを切り、ライトを消すと周囲は静まり返っていた。
「あの」
しっ……
小さく指を口に当て、先輩はあぜ道の先に目を凝らす。何か見えるのだろうかと僕も
フロントガラスに顔を近づけるが、真っ暗な視界の先に消防の屯所かなにかの赤いランプだけが微かに瞬いているだけだった。
じっと息を潜めていると、夜の中に自分の身体が沈んでいくような錯覚をおぼえ、どうしようもなく不安な気持ちになった。
春とは言え、深夜には気温がかなり下がり、肌寒さに鳥肌が立っていた。
どれほどの時間が過ぎたのか、ふいに車のすぐ横を誰かが通り過ぎた。
人が。
いや、それははたして人だったのか。
暗闇の中を黒い影が行く。人相風体も定かではない。
僕は怯えて車の窓越しにじっとそれを見ている。
こんな時間に、出歩いていることだけが異様なのではなかった。
こんな時間にあぜ道に止まっている車が気持ち悪くないはずはない。なのにそれを避けようともせず、すぐ脇を通り過ぎながら、なおその車内を伺うでもなく、ただ目に映っていないかのようにその誰かはゆっくりとした足取りで真っ直ぐ去って行った。
遠ざかり、暗さに慣れた夜目にもその影が全く識別できなくなってから深く息を吐いて、僕は隣の先輩に声をかけた。
「あれは、なんですか」
250: 師事(再生) ◆LaKVRye0d.:2017/2/26(日) 05:09:45 ID:9gYoXiEfsA
先輩はハンドルに両手を覆い被せるように体重を預けたまま、少し眠そうに答える。
「さあ、なあ」
その口ぶりに違和感を覚え、僕は重ねて訊いた。
こんなところに車を止めてわざわざ待っていたのだから、あれがなんなのか知らないはずはない。そんなことを。
しかし先輩は予想だにしなかったことを言うのだった。
「霊道なんだよ、ここ」
え。
寒気がした。ずっと感じていた異様な感覚を言葉にされてしまったような。
「霊道って言葉はあんまり好きじゃないんだがな」
そう呟いたのに、しばらくたってからようやく僕は反応する。
「どうしてですか」
「道って言うと、往来って言葉があるように、行き来するものみたいじゃないか」
「それがどうしたんですか」
「見たことがないんだ」
そう言って先輩は、フロントガラス越しに黒く潰れたようなあぜ道の先をじっと見つめる。
「戻って来たやつを」
僕は息を止める。外にはなにかを告げる山鳥の声が遠く微かに響いている。
「ここだけじゃなくて、霊道って言われているどの場所でも。だから、道って気がしないんだ」
「だったら……」
なんですか。
そんな言葉が口の中で掠れた。
先輩は顔を動かさず、視線だけを僕に向けた。そして「穴だな」と言った。
穴。
落ちて行く、戻れない穴。
その言葉を聞いた瞬間、僕は僕が今いる場所から少しだけ自分が浮いているような錯覚に陥った。いきなり不安定な空間に放り込まれたような。
そこでは僕らが日常を生きる世界と、寸分たがわず、でもどこかがほんの少し違う、そんな異界と重なりあっている。僕らが道と認識している同じものが、穴のように口を開け、静かに人ではないなにかを飲み込んでいく。
そんな想像に身体を震わせ、助手席のシートに深く座り直す。
「最後のやつだけか」
ふいに先輩がそう訊いてきた。
最後の?
それを聞いた瞬間、僕は自分が思い違いをしていたことを知った。全身の鳥肌がさらに増した。
先輩はこう訊いたのだ。
見えたのは、最後に通ったやつだけか?
嘘だろ。
そう思って先輩を見据える。
しかし彼はふ、と鼻で笑うように言うのだった。
「まあ、いい」
先輩には見えていたのだろうか。
車を止めてからじっと息を潜めていた間、静まり返った暗闇の中、窓の外を通る無数の黒い影たちが。
僕が寒く、寂しいあぜ道としてしか感じていなかったその空間を、彼は……
251: 師事(再生) ◆LaKVRye0d.:2017/2/26(日) 05:12:04 ID:9gYoXiEfsA
朝日が山の端から射し込み始めたころに、僕はその奇妙なドライブからようやく解放された。
「じゃあな」
眠そうに、手を挙げきらないで左右に振る。ウインドウが閉まり、オイル交換をサボっているような白い煙を吐き出して、ボロ軽四が朝焼けの中へ走り去って行った。
それ以来僕はその先輩を師匠と仰ぐことになったのだった。
奇妙なもの、恐ろしいもの、気持ちの悪いもの、悲しいもの。
そのどれも、僕らの日常のほんの少し隣にあった。
「じゃあ、行こうか」
彼が僕を振り返り、そう言うとき、日常のほんの少し隣へと通じる扉が開く。
人生で一度しかない僕の大学生活のすべてが、そんなもので彩られていった。
それは、彼の失踪まで続くのだ。
252: 1 ◆LaKVRye0d.:2017/2/26(日) 05:13:55 ID:9gYoXiEfsA
今夜は、以上です 【了】
253: 風の谷の名無しか:2017/3/1(水) 11:47:35 ID:crCuSTTIzw
更新ありがとうございます、お疲れさまです
254: 1 ◆LaKVRye0d.:2017/3/2(木) 11:36:51 ID:sga91xbolw
お読み頂き有難うございますm(__)m
また今日にでも次の話を投稿しますので、お楽しみ頂けましたら幸いに存じます
255: 窓の向こう(異聞) ◆LaKVRye0d.:2017/3/2(木) 14:04:41 ID:OzMS.RB7HM
『窓の向こう(異聞)』
同人誌『師匠シリーズの4』に載せたお話です。誰かの過去です。あと、私ごとですが、昨日うちの猫が死にました。学生時代から一緒に暮していた猫でした。癌と告知されてから1年半。二日に一度大嫌いな病院に連れて行かれるのを察知するようになり、ちょうど予約時間になると家のどこかに隠れるようになっていました。隠れ場所もどんどんと凝ったものになり、家族が家中を本気で探しても見つからず、予約をキャンセルする羽目になったことが何度もありました。机の裏。本棚の隙間。紙袋の中…… 今もどこかに隠れているような気がします。なにしろかくれんぼの天才だったので。生きている姿をビデオに納めておこうと、初めてビデオカメラをネットで注文していましたが、間に合いませんでした。今夜とどいたダンボール箱を開けて、今カメラを手にしています。さて。なにを撮ろうか。
256: 窓の向こう(異聞) ◆LaKVRye0d.:2017/3/2(木) 14:06:40 ID:OzMS.RB7HM
公園で遊んでいた女の子を攫ったのはペットの犬を亡くしたからだった。
家の地下室で飼いはじめたものの、ちっとも懐かないので両目を潰してみた。すると少女はすっかり従順になり、ペットとして相応しい態度をみせはじめたのだった。
食事は一日二回。仕事に行く前と帰った後に与えた。
出入り口は一つだけ。私が現れそして消える、鍵の掛かったドア。
少女に名前はない。私はペットに名前をつけない。
二年が経った。
ふと思いついて地下室の壁に羽目殺しの窓を打ちつけた。
もちろんただの飾りだ。向こうには何もない。
少女にはこういった。
「窓の向こうは海だよ」
257: 窓の向こう(異聞) ◆LaKVRye0d.:2017/3/2(木) 14:09:20 ID:OzMS.RB7HM
五年が経った。
精神安定剤として与えたペットの猫を抱えて少女はいつも窓の前に座る。
そして膝の上の猫に、窓の向こうの海のことを嬉しげに語りかけるのだ。
聞こえるはずのない潮騒を聞きながら。
◆
私はいつものように地下室のドアを開け、そして内から鍵をかけた。
ふりかえると少女が手で顔を覆って泣いていた。
猫が逃げてしまったといって泣いていた。
私は硬直した。猫がいない。
部屋はシンプルだ。隠れられる家具などなにもない。
ただ一つのドアの鍵は私しか開けられない。
そして確かにそれは今私が開けるまで閉まっていた。
少女の手をつかんで、なぜ猫がいない、と問い詰めた。
すると、窓の向こうへいってしまったと、あたしが海のことをあんまり話すから行ってしまったのだと、そう言って少女は泣くのだった。
私は羽目殺しの窓を調べた。
やはり開いた様子などない。開いたとしてもただ壁があるだけだ。
そして壁の向こうは地中なのだ。地下室なのだから。
ではなぜ猫がいない。
私は苛立って少女の髪をつかみ、耳元に口をよせた。
「いいか、窓の向こうに海なんかありはしない」
そして苛立ちに任せ、秘密をすべてぶちまけた。
「この部屋の外にはなにもない」と。
だから猫がどこかに行くはずはない。なのに、なぜ猫がいない。
私は執拗に問い詰めたが、少女は泣くだけだった。
私はまさかと思いながらも地下室の外を調べるためドアに向かった。
鍵を開けてノブを回す。
開かなかった。そんなはずはない。
焦ってノブを引っ張るが、根が生えたように微動だにしなかった。
確かに鍵は開けている。さっき入ってきたばかりのドアだ。どういうことなんだ。
ドアに体当たりをした。ズシンという重い感触が肩に残る。まるで、その向こうに土がみっしりと詰まっているかのようだった。
そうして体当たりを繰り返すうち、私は不思議な感覚に襲われていった。
この部屋の外には何があったっけ……
なぜか、それが思い出せない。
ズシン
ズシン
ドアの表面だけが、安っぽい部屋の飾りのように微かに揺れ続けた。
(完)
258: 雲 ◆LaKVRye0d.:2017/3/2(木) 14:13:37 ID:MTtPtGwQAc
386 :雲 前編 ◆oJUBn2VTGE :2013/08/30(金) 22:56:46.20 ID:1HZDzmsI0
師匠から聞いた話だ。
大学二回生の夏だった。
ある時期、加奈子さんという僕のオカルト道の師匠が、空を見上げながらぼんやりとしていることが多くなった。
僕の運転する自転車の後輪に乗り、あっちに行けだのそっちに行けだのと王侯貴族のような振る舞いをしていたかと思うと、ふいに喋らなくなったので、そうっと背後を窺うと、顔を上げて空をじっと見ていた。
「なにか面白いものがありますか」
と訊くと、「……うん」とは答えるが、うわの空というやつだった。
僕も自転車を止め、空を見上げてみたが雲がいくつか浮かんでいるだけで特に何の変哲もない良い天気だった。
その雲のうちの一つがドーナツのように見えたので、ふいに食べたくなり「ミスドに行きませんか」と訊くと、やはり「……うん」とうわの空のままだった。
連れて行くとドーナツを三つ食べたが、やはりどこか様子がおかしかった気がする。
そんなことが続き、何か変だと思いながらも特に気にもしていなかったある日、師匠が「面白い人に会わせてやろう」と言いだした。
この師匠は、妙な人間に知り合いが多く、僕にもその交友関係の全貌は把握しきれていない。大学教授や刑事、資産家など一部にまともな人もいるが、その多くが奇人変人のたぐいだった。
もちろん奇人の大学教授や変人の資産家もいたので、ようするに多種多様だったということだ。
その時会わせてもらった人はその中でもトップクラスの人物と言える。何しろ、プライベートで修験者の格好をしているのだ。もちろん修験者ではないのに。
そのうえ頬と顎には何十年ものなのかというほどの髭を生やしたい放題に生やし、日焼けした顔には皺が幾重にも深く刻まれている。
確実にレストランには入れないタイプの人だった。
とにかくその日、僕は師匠に連れられて山に登った。わりと近く、高さもそれなりで頂上まで登ると市内を一望できる山だ。
普通なら市民の絶好のハイキングコースになりそうだが、途中道が険しいところがあり、そのせいかあまり人気がないようだった。
頂上まであと少しというところで師匠はふいに現れた枝道の方へ入った。すぐ脇に『ここから先、私有地』という立て札が朽ち果てた姿を晒している。
259: 雲 ◆LaKVRye0d.:2017/3/2(木) 14:16:14 ID:MTtPtGwQAc
387 :雲 前編 ◆oJUBn2VTGE :2013/08/30(金) 22:59:47.48 ID:1HZDzmsI0
私有地と言うからには植林でもしているのかと思えば、杉やヒノキの類はろくに生えておらず、竹や名前も知らない潅木が鬱蒼としているばかりだった。
その道の先に小屋のようなものが見えてきた時には、まさか、と思ったが師匠はその小屋に歩み寄ると「せんせい、いるか」と声を掛けたのだ。
こんなところに住んでいる人がいるのか、と思って唖然とした。生活用品を買おうと思ったら、そのたびにこの山を登り降りするのか?
その生活を思うと、まともな人ではないのは確かだった。もっとも別荘なのかも知れない。こんなボロボロの山小屋を別荘にする人の気も知れないが。
「わたしがきたよ! せんせい」と師匠は大きな声で呼びかけたが返事はない。玄関の扉にはドラム式の鍵が掛かっていた。
師匠は小屋の周囲をぐるぐると回り、中の様子を伺っていたがどうやら留守らしいと判断したのか、もときた道を戻り始めた。下るのかと思ったが、枝道の所まで戻ると、また頂上の方へ登り始める。
そうして少し歩くと、潅木の藪が開けた場所に出た。とても見晴らしが良い。頂上はまだ先だが、十分市内をパノラマで見下ろすことが出来る。
切り立った崖になっている場所の突端に大きな平たい岩があり、その上に薄汚れた白っぽい服を着ている人物が座っているのが見えた。
「せんせい、やっぱりここか」
師匠は親しげに呼びかけながら近づいていく。僕もくっついて行って、間近に見たその人物がくだんの修験者風の老人だった。
あ、別荘じゃなくて、住んでる人だ。
見た瞬間にそう思った。
「なんだ、わた雲か」
老人は落ち窪んだ目でうっそりとこちらを向いた。
鈴懸と呼ばれる上衣、袴に足元は脚絆。これで法螺貝でも持てば完全に山伏なのだが、生憎手に持っているのはコップ酒だった。
「お前は実に可愛げのない弟子だ」
そう言って髭の奥の口をもぐもぐとさせる。
「なにか持って来たか」
「はい」
師匠は僕に向かって顎をしゃくってみせる。慌てて背負っていたリュックサックからさっき買ったばかりのいいちこを取り出す。それもパックの徳用のやつだ。
260: 雲 ◆LaKVRye0d.:2017/3/2(木) 14:20:53 ID:OzMS.RB7HM
388 :雲 前編 ◆oJUBn2VTGE :2013/08/30(金) 23:03:09.87 ID:1HZDzmsI0
恐る恐る差し出した僕の手からひったくるようにして奪い取ると、老人はその麦焼酎の蓋を開け、口をつけて飲み始めた。
ストレートか。昼間からなにやってるんだこの人は。
あっけに取られて見ている僕に、老人はじっとりした視線をくれた。
「こいつはなんだ」
「わたしの弟子ですよ。先生の孫弟子です」
「ほう」
老人はいいちこをあおりながら髭に滴る液体を拭きもせず、僕を睨みつける。
「ならば、見せてやらねばならんの」
「是非お願いします」
孫弟子?
思わずうろたえたが、老人は酒臭い息を吐きながらのそりと腰を上げ、いいちこのパックを置いてからこちらを振り向く。
「名前は」
「まだありません。是非付けて下さい」
師匠がそう言うと、「ふむ」と唸って髭をさすりながら、老人は僕に『肋骨』という名前を授けた。
なにがなんだか分からない。
「よし。よおく見ておれ」
老人は平らな岩の上で立ち上がったまま、空の一点を指差した。
雲?
その指の先には一片の小さな雲があった。そして見ている僕らの前で老人は両手を空に突き出した。
そしてなにか目に見えない力でも飛ばそうとするかのように、その手を何度も突き出したり引いたりし始めた。手のひらは開かれ、顔は下からねめつける様に雲を睨んでいる。
ええい。えええい。
髭の下の口から、凄みのある掛け声が響いてくる。
あ、これは。と、僕は思った。どこかで見たことのある光景だ。老人が気だか念力だかを送っている雲が、だんだんと小さくなり始めた。
雲消し名人か。
そんな人をテレビで見たことがある。まさか生で見られるとは。
笑ってはいけないと思いながらも、喉から鼻の奥にかけて自然に空気が噴き出しつつある。
えええええい。
余韻に浸るように両手がぶるぶると震え、その遥か彼方で雲は見事に消えた。
261: 雲 ◆LaKVRye0d.:2017/3/2(木) 14:28:48 ID:OzMS.RB7HM
389 :雲 前編 ◆oJUBn2VTGE :2013/08/30(金) 23:05:46.32 ID:1HZDzmsI0
どんな編集をしているのか分からないテレビ番組とは違う。実際に目の前で雲は消えた。笑いは引っ込まなかったが、驚いた気持ちも確かにあった。
「さすがですね、せんせい」
師匠が拍手をする。
さらに岩の上に上がり、老人の横に並ぶと、「わたしもやっていいですか」と言って腕まくりをした。
「じゃ、あれで」
そう言ってさっきと似たような雲を指さした。
老人はその雲と師匠を交互に見ながら、「お前は実に可愛げのない弟子だ」と言った。けれど満足げに頷くと、自分は別の雲を指さし、えええい、と両手を前に突き出した。師匠もその横で、目標に定めた雲に向かって両手を突き出す。
はたから見ていると、一体何の儀式か、と思うような動きを二人とも繰り返している。
表情は真剣なのだが、どこか楽しそうだ。
ええい。
えいやあ。
えええい。
なんの。
おおりゃあ。
ぼけおらあ。
どりゃあ。
ぼけこらあ。
なにがこらあ。
たここらあ。
……
掛け声もだんだんとエキサイトして来る。そのエキサイトぶりに比例して雲は薄くなっていく。そして両者の標的は、五分ほどもすると、完全に空から消えてしまった。
「恐れ入りました」
師匠が頭を下げる。わずかの差だったが、老人の雲の方が先に消えたようだ。
「やるのう、わた雲」
足元に置いてあったいいちこをひとあおりして、老人は僕の方を見た。
「肋骨もやれい」
こうだ。
老人は肩で息をしながら、また次の雲に狙いを定めて両手を空に伸ばした。
262: 雲 ◆LaKVRye0d.:2017/3/2(木) 14:32:51 ID:MTtPtGwQAc
390 :雲 前編 ◆oJUBn2VTGE :2013/08/30(金) 23:09:39.11 ID:1HZDzmsI0
師匠も楽しそうに空を眺めながら、僕にも「さあ雲を選べ」と言う。
なんだか自分にも出来そうな気がして、輪郭のくっきりしたハンバーグに似た形の雲を選び、「あれでやってみます」と言って念をこめた。
五分後、どれほど念を送っても僕の選んだ雲は小さくなるどころかむしろ大きくなっていた。
老人と師匠の雲はまたキレイさっぱり消えてしまったというのに。
「全然駄目だ」
老人は僕の姿勢を矯正し始める。
足の位置、手の形、そして目つき……
どれだけ教わっても、僕の雲は一向に消えなかった。
師匠が含み笑いをしている。
たっぷり一時間ほどそうして特訓をした後、なんとか一つの雲を消すことに成功した。
変な感動があり、胸が熱くなった。
「ありがとうございました」
「うむ」
老人は仙人のような髭をしごきながらひとしきり頷くと、腰を下ろしていいちこを飲み始める。それから三人で座り込み、山上から見える景色をぼんやりと眺めていた。
見上げれば空には様々な形の雲が浮かんでいる。見下ろせば眼下に市街地の雑多な景観が遠く広がっている。
なんだか妙に穏やかな時間だった。
小一時間、大の大人が一生懸命雲を消して疲れ果てている。お金は掛からないし、誰も傷つけない。そして誰も得をしない。
いつの間にか胡坐をかいたまま老人は居眠りを始めている。この奇人変人の鑑のような人物を横目で見ながら、僕は改めて師匠の交友関係の意味不明さに感慨深い思いを抱いていた。
その師匠が欠伸をしながら立ち上がった。少し遅れて船を漕いでいた老人が顔を上げる。
「せんせい、帰るよ」
「そうかね」
老人は少し残念そうに言った。そして肋骨をちゃんと教えてやれと注文をつけた。師匠は分かりましたと頷く。
「あ、それから」と師匠が姿勢を正して老人の顔を見つめる。そうしてしばらく何も言い出さなかった。
「なんだ」
痺れを切らして老人の方から訊ねる。
263: 雲 ◆LaKVRye0d.:2017/3/2(木) 14:36:56 ID:OzMS.RB7HM
391 :雲 前編 ◆oJUBn2VTGE :2013/08/30(金) 23:13:15.54 ID:1HZDzmsI0
師匠はようやく口を開いた。
「せんせいは、この街で誰よりもたくさん空を見てますよね」
その問い掛けに、当然だと言わんばかりに老人は無言で大きく頷く。
「だったら」
師匠は軽い口調で続けた。いや、軽い口調を装って、そして装い切れずにいた。僕は何故かそれが分かり、前触れもなくゾクリと肌が粟立った。
「だったら、最近、空がどこかおかしいと思いませんか」
老人の目つきが変わった。眉間に皺が寄り、眼の奥に火が灯ったかのようだった。
「言うな、わた雲」
「例えば、あの」
「言うな」
鋭い口調で老人は言い捨てた。空の向こうを指差そうとしていた手を、師匠は静かに下ろす。
老人の身体が微かに震えている。アルコールのためではない。その身体から漏れ出る怯えの色を僕は確かに感じていた。
「また来ます」
師匠はゆっくりとそう言うと、僕に「帰ろう」と合図をした。しかし僕は得体の知れない畏怖に身体が貫かれている。
下ろしたばかりの師匠の指先が残像となって、脳裏に蘇る。その先には空にゆったりと浮かぶ、大きな雲があった。
ドーナツの形に似ていた。
◆
帰り道、師匠は種明かしをしてくれた。雲消しの種だ。
「消せるのは積雲なんだよ」
それも発達し切れなくて消滅しかかってるやつを選ぶんだ、と言う。
説明してくれたことによると、積雲というやつはもっともポピュラーな雲で、比較的低層に出来るのだそうだ。
大気中の水蒸気が凝結し、雲になる高度を凝結高度というらしいが、上昇気流により、その高度を越えた雲粒たちが順に目視できる雲になっていく。だから何もない空に急に雲が発生したように見える。
さらに上昇気流が続くと、下から押し出されるトコロテンのように次々と凝結高度を越えていく水蒸気によって積雲は上方へと成長していく。
264: 雲 ◆LaKVRye0d.:2017/3/2(木) 14:42:36 ID:OzMS.RB7HM
392 :雲 前編 ◆oJUBn2VTGE :2013/08/30(金) 23:15:09.51 ID:1HZDzmsI0
成長が続くと雄大積雲や積乱雲という雲になっていくのだが、多くは上昇して来る湿度の高い空気の塊が途絶えることで成長が止まり、やがて水分が周囲の乾燥した空気に溶け込んで行くことで積雲は消滅する。
この発生から消滅までの過程は非常に短く、積雲はわずか数分で消えてしまうことがある。
「そういう消滅しかけてるやつを見つけたら、あとはどんなポーズ取ってようが勝手に消えてくれるからな」
そう言って師匠は笑った。
なんだ、やっぱりインチキじゃないか。僕はさっきの老人の姿勢などに関する厳しい直接指導を思い出し、釈然としなかった。
「まあ、ああいう人なんだ。許してやれ」
「どういう人なんですか一体」
ああいう雲消しを気功術の修練だとか言って、新興宗教にハマるような人たちを集めて『奥義』を伝授し、謝金をせしめてでもいるのだろうか。
胡散臭いことおびただしい人物だが、実際に目の前で雲が消えると妙に説得力がある。そんな詐欺もありえなくはないと思った。
しかし師匠は笑って手を顔の前で振った。
「あのじいさんは元バイク屋のおやじだよ。なかなか手広くやっててな、隠居して息子夫婦に店を譲ったあとは楽隠居の身で、好きなことをしてるってわけだ」
そして元々林業をしていたという先祖伝来の土地があの山にあったのをいいことに、そこに小屋を建てて半ば住み込みながら日がな一日現世とは掛け離れたような生活を送っているのだとか。
「雲消しはただの趣味だよ。何年か前に地元のテレビ局が取材に来て、消してるところが放送されたもんだから、自分もやりたいっていう連中が弟子入り志願に結構やって来てな。
金も取らずに気軽に教えてくれるっていうんで、しばらくはちやほやされてたみたいだけど、今じゃすっかり飽きられて、訪ねて来る弟子も私くらいだ」
「勝手に孫弟子にしないでくださいよ」
聞くと、肋骨、というのは雲の種類らしい。肋骨雲という雲だ。魚の骨のような形をしているやつらしい。
正直もっといい名前にして欲しかった。
「わた雲、は可愛らしい名前ですね」
師匠は頷く。
265: 雲 ◆LaKVRye0d.:2017/3/2(木) 14:48:52 ID:MTtPtGwQAc
393 :雲 前編 ◆oJUBn2VTGE :2013/08/30(金) 23:18:36.62 ID:1HZDzmsI0
「わたしはテレビ放送される前からの弟子だからな。高校時代に押しかけたから。やっぱり可愛いんだろ。後からの連中は『もつれ』だとか『扁平』だとか、変な名前ばっかりつけられてる。
傑作なのはハゲた中年のオッサンにつけた『無毛』だな。本当は無毛雲って、れっきとした積乱雲の一種なんだけど…… 怒って帰ったらしい」
おかしそうに言う。
それから少しの間沈黙があった。僕はおずおずと口を開く。
「最後の」
「ん。なんだ」
「最後に言ってた、空がおかしいってのは、なんですか」
師匠は山道を下りながら、つ、と足を止め、僕を振り返った。
「言うなって、言われたからな」
さっきまでの冗談めかした表情ではなかった。また得体の知れない不安が腹の底から湧き出てくる。
空って、この空が何だって言うんだ?
僕は思わず天を仰ぐ。夏らしい、冴え冴えとした青が頭上高く広がっている。なにもおかしなところなどない。
師匠もつられるように空を振り仰ぐ。山道の両脇から伸びる高木の枝葉が陽光を遮り、僕らの目元にモザイク模様に似た影を落としていた。
師匠は目を細めながら空を指差し、「あの一つだけ離れた雲を見てみろ。周囲が毛羽立ってるだろ。ああいうのがこれから消える積雲だ。覚えとけ」
「はあ」
きっと生きて行く上で何の役にも立たないだろう。そういう知識を僕は師匠からたくさん詰め込まれて、毎日を過ごしていた。
それから数日後のことだ。
僕はそのころ読唇術にハマッていた師匠の練習にしつこくつき合わされていた。
「おい、今日はエッチな言葉を言わせようとしたらだめだぞ」
「分かってますよ」
パクパクパク。
口だけを動かし、声には出さずに喋っている振りをする。それだけで師匠はある程度は言葉を言い当てられるようにはなっていた。
266: 雲 ◆LaKVRye0d.:2017/3/2(木) 14:56:20 ID:OzMS.RB7HM
395 :雲 前編 ◆oJUBn2VTGE :2013/08/30(金) 23:25:37.41 ID:1HZDzmsI0
深夜の十二時を回っていた。蒸し暑い師匠の部屋で差し向かいになること二時間以上。
延々とパントマイムのように口だけを動かしているのも飽きてくる。だから、多少のイタズラを混ぜるのだが、師匠にはその冗談がなかなか通じない。
パクパクパク。
パクパクパク。
「……お前、それは……」
師匠が難しい顔をして僕を睨んでいる。
外は雨が降り始めたようだ。安アパートの屋根を叩く雨音が嫌に大きく聞える。負けじと大きく口を開けた。
パクパクパク。
パクパクパク。
『上杉達也は、朝倉みなみを愛しています。世界中の誰よりも』
タッチという漫画の有名なセリフを模写しているのだが、名前の部分を多少変えてあった。手近な二人に。
師匠が黙ったままなので、もう一度繰り返そうとした時だ、ふいにあたりが暗くなった。
僕は最初、日が翳ったのだ、と思った。
夏の昼下がり、大きな雲が空を通り過ぎる時にあるような、あの感じ。
まさにあれだ。
……
凍りついたように時間が止まる。僕と師匠の二人の時間が。
部屋の中を日の翳りがゆっくりと移動している。その境目が分かる。畳の上を、暗い部分が走っていく。
やがて暗くなった部屋にいきなり明るさが戻る。暗い影が落ちているところが、僕らの上を通り過ぎ、部屋の隅まで行くと、同じゆったりしたスピードのまま壁の向こうへと去って行った。
何ごともなく、部屋は元に戻った。
ドッドッドッドッドッ…………
心臓の音がとても大きく聞える。僕の身体は凍りついたように動かない。唾を飲み込もうとして、喉が攣りそうになっている。
くは、という声が出た。
向かい合っていた師匠も、目を見開いて身体を硬直させている。
なんだ、今のは。
理性が答えを探すが、まったく見つからない。
267: 雲 ◆LaKVRye0d.:2017/3/2(木) 14:59:03 ID:OzMS.RB7HM
396 :雲 前編 ラスト ◆oJUBn2VTGE :2013/08/30(金) 23:28:38.43 ID:1HZDzmsI0
頭上を、分厚い雲が通り過ぎた。
それだけのはずだ。一瞬、日が翳り、そして雲が通り過ぎて周囲に明るさが戻った。
ただそれだけの。
なんの変哲もない出来事だ。
今が、夜でさえなければ。
「うそだろ」
師匠が顔を強張らせたまま一言そうつぶやく。
ここは部屋の中なのだ。そして深夜十二時を回っている。当然部屋の明かりをつけている。天井にぶらさがる丸型の蛍光灯。明かりはそれだけだ。
その蛍光灯には全く異常は感じられない。ずっと同じ光度を保っている。消える寸前の瞬きもしていない。
外は雨が降っている。暗い夜空には厚い雲が掛かっているだろう。その雲のはるか上空には月が出ているかも知れない。けれど、人工の明かりに包まれたアパートの室内に一体どんな力が作用すれば、ないはずの日が翳るなんてことが起こり得るのか。
じっと同じ姿勢のまま息を殺していた師匠が、ふいに動き出す。
「なんだ今のは」
焦ったような声でそう言うと、異常を探そうとするように窓に飛びつく。カーテンを開け、窓の外を覗き込むが、ガラスを雨垂れが叩くばかりでなにも異変は見つからない。
師匠は窓から離れると、靴をつっかけて玄関から飛び出した。僕も金縛りが解けたようにようやく動き出した身体でそれに続く。
268: 雲 ◆LaKVRye0d.:2017/3/2(木) 15:04:14 ID:OzMS.RB7HM
407 :雲 後編 ◆oJUBn2VTGE :2013/09/06(金) 22:25:48.72 ID:kIaSDyGu0
外は雨だ。額に、顔に、大粒の雫がかかる。雨脚はさほど強くないが、空を見上げようとしても、なかなか目を開けられない。
それ以前に、真っ暗な空にはどれほど目を凝らそうとも何も見えなかった。
目を細めていた師匠が「くそっ」と短く叫ぶと、家の中に取って返した。一分と経たずに飛び出してきたその手には、車の鍵が握られていた。
「来い」
師匠は僕にそう言うと、駐車場へと駆け出す。
「こんな雨の中、どこ行くんです」
僕は追いかけながら叫ぶ。心臓がドクドク言っている。さっきまでの穏やかな時間はどこに行った? ていうか、返事は?
エンジンが掛かる音を聞きながら助手席に飛び乗る。
「傘も何も持って来てないですよ」
運転席の師匠に訴えるが、師匠は親指で後部座席の方を示し、「合羽と傘は常備品だ」と言って車を急発進させた。
フロントを叩く雨粒を跳ね飛ばしながら、ボロ軽四は住宅街をありえない速度で走る。急ハンドルを切っている間に電信柱が迫るのが見えて思わず仰け反った。
「な、ちょ、な……」
何か喋ろうとすると、舌を噛みそうになる。これほど乱暴な運転は珍しい。どうして師匠はこんなに焦っているんだ?
幹線道路に出て、さらにスピードが上がる。しかし右へ左へという横へのGがなくなったので、ようやく一息ついた僕は「なんなんですか。どこに行くんです」と訊いた。
「通ったんだよ!」
師匠がハンドルにしがみつきながら叫ぶ。
ゾクリとした。
通った。そうだ。さっきの、室内が一瞬暗くなる現象。あれは、何かが通ったのだ。雨雲で覆われた上空を、巨大な何かが。まるで無いはずの光源を遮るかのように。
ぞわぞわと肌が浮き立つ。何度も経験した小さな怪異とは、全く違う。いつもの日常とほんの少しだけずれた不思議な出来事なら、これほど師匠が取り乱すことはない。
そんなものと比較にならない。人知の及ばない、何か。
僕は雨だれが車の屋根を打つ音に聞き耳を立てる。
「どこへ行くんです」
もう一度その問いを投げかけると、「山」という短い答え。
「なぜです」としつこく訊くと、うるさいな、という感じで師匠は「ここに居たんじゃ、よく見えないからだ」と言った。
269: 雲 ◆LaKVRye0d.:2017/3/2(木) 15:11:03 ID:MTtPtGwQAc
408 :雲 後編 ◆oJUBn2VTGE :2013/09/06(金) 22:28:16.09 ID:kIaSDyGu0
「山の方は、風下だ。降り始めてからまだたいして経ってない。雨雲がまだ到達してない可能性が高い」
雨雲が到達していなかったら、なんだと言うんだ。重ねてそう訊ねようとして、その前に答えに思い当たった。
見たいのだ。師匠は。一体何が上空で起こっているのか。あるいは、空の下の街で、今何が起こっているのか。
そして車線変更をした瞬間、数日前に登ったばかりの山に向かっていることに気づく。師匠がせんせいと呼ぶ、雲消し名人のいる山にだ。
車が山道に入る手前で、雨脚が急に弱まりやがて完全に止んでしまった。雨雲の先端を抜けたのだ。
水気を失ったワイパーが耳障りの悪い音を立てる。くねくねと曲がりくねる山道をガードレールすれすれで登り続け、前回の登山口に差し掛かったが、止まらずに通り過ぎた。道は悪くなったが、まだ車で先へ行けるようだ。
途中、師匠がふいに口を開いた。
「お前、気づかなかったか」
「何にです」
「雲だよ。雲。空に、変な雲が浮かんでたろ」
「変な雲?」
いつのことだろう。そう思って訊いてみると、師匠は「このところずっとだ」と吐き捨てるように言った。
「ドーナツみたいな形の雲だ」
何故かゾクッとした。確かに見ている。最近、何度か。しかしそんな食べ物に似た形の雲なんて、お腹が空いていたら何でもそう見えるってだけのことじゃないのか。
「ずっと見たか」
「え?」
「そのドーナツ雲をずっと見てたか」
「ずっとは、見てないです」
そう答えた僕に、師匠は奇妙なことを言った。
「穴の位置が変わっていない」
見続けていたら分かることだ。
師匠は険しい顔のままで言う。
「楕円形に近い形の大きめの積雲が、風に流されている間に、急に先端が凹むんだよ。その凹みが内側に入り込んで来て、先端がまた雲で塞がる。それで穴が出来るんだ。
雲はドーナツに似た形になる。穴の位置はどんどん風上の方へ移動していく。雲が動いていくのに、穴の絶対位置が変わらないからだ」
270: 雲 ◆LaKVRye0d.:2017/3/2(木) 15:14:37 ID:OzMS.RB7HM
409 :雲 後編 ◆oJUBn2VTGE :2013/09/06(金) 22:31:14.76 ID:kIaSDyGu0
穴の位置が変わらない? どういうことだ。
雲は風に乗って流れて行く。
空全体が流れて行く中で、絶対位置というものが意味するものを考える。その時、頭の中に奇怪な想像が浮かんだ。
そんな、馬鹿な。ありえない。
思わず口に手を当てていた。
流れる空における絶対位置とは、地上の位置のことだ。地上の同じ地点の上空に、雲の穴が出来ている。
そこから導き出される絵が……
脳裏に瞬く前に、師匠が車を止めた。
「行くぞ」
「ちょっと待って下さい」
僕は後部座席にあるはずの傘と合羽を探したが、見つからなかった。常備品が聞いて呆れる。
師匠は平然とドアを開けて外に出た。慌てて僕も飛び出して、追いかける。雨は降っていないが、あたりは真っ暗だ。車から持ち出した懐中電灯で前方を照らしながら師匠が早足に進む。
行き止まりに見えた舗装道から、奥の藪を抜けると前回歩いた覚えのある山道に出た。かなりショートカット出来ている。その道を二人で急ぐ。もちろん登る方へだ。
足元が良く見えない分、ガサガサという下生えの感触が気持ち悪い。蛇の尻尾を踏んでしまっても分からないだろう。
そうして十分かそこらは歩いただろうか。
『ここから先、私有地』という立て札が懐中電灯の明かりに浮かび上がったが、その枝道には入らず、僕らは先へ進んだ。
やがて道が開け、左側が崖になっている場所に出る。街が一望できる絶景だ。崖の側まで近づくと、遠くの地上に小さな星のような光が微かに輝いているのが見える。街の明かりだった。
崖の手前の平らな岩の上に、立っている人影がある。
「せんせい」
師匠が呼びかける。するとその修験者姿の老人が振り向いた。
「何をしに来た、わた雲」
声が嗄れていた。口にした瞬間、ゴホゴホと咳き込む。
「あ……」
そんな老人が屈む姿にも目を向けず、師匠は真っ直ぐ前を見て絶句し、呆然と立ち尽くした。
空が。
真っ暗な空がある。
271: 雲 ◆LaKVRye0d.:2017/3/2(木) 15:18:07 ID:OzMS.RB7HM
410 :雲 後編 ◆oJUBn2VTGE :2013/09/06(金) 22:32:57.75 ID:kIaSDyGu0
暗さに慣れた僕らの目には、そこに浮かぶ巨大な入道雲の姿がかろうじて捉えられる。闇と同化する夜の雲の群の中に、その雄大な輪郭がわずかに浮かび上がっている。
山の上の雲の切れ間から覗く微かな月光のためだった。
入道雲の底は、明かりもまばらな街の上空を覆っている。巨大な蓋のように。その雲の底から、異様なものが突き出ていた。
「手…… 手だ……」
思わず僕は呻くように呟いた。声が震えた。目を細めてもっとよく見ようとする。
手だ。
巨人の手が、漆黒の入道雲の底から出ている。
いや、雲だ。あれも。
巨大な手のように見える形の奇怪な雲。長い棒と、少し膨らんだ手のひら、指。肘から上の部分が下向きに伸びている。
この距離からでも分かる。夜の暗さに混ざり合いながら、密度の違う黒が、そんな形をしているのが。
「じじい、あれはなんだ」
師匠が前方を見据えながら、前回のようなどこか柔らかい物腰を取り払って、鋭い口調で問い質した。
「……雲だ」
「本当に雲か」
老人は小刻みに震えながら小さく頷く。
「び……尾流雲だ……いや、違う。違う。形は近いが、あれは、あれは…… 馬鹿な。あんな形の……」
「おい、じじい。なんだ。はっきりしろ。あれはなんだ」
師匠が詰め寄って老人の方を揺する。
「ろうと」
「なに?」
「ろ……漏斗雲だ……!」
「漏斗雲って、竜巻になるやつか?」
師匠はそう言って崖の方を振り返った。
僕も岩の先に近づき、限界まで身を乗り出す。全神経を集中して目を凝らすと、雲の底から伸びる手の先が少し見えた。
腕の部分は筒状になっている。そしてその先は何本かに分かれていて、まるでそれが指のように見える。何かを掴もうとしているみたいに広がって、地上に降下しようとしていた。
「漏斗雲って確か、積乱雲とかの底から降りてきて地面に降りたら竜巻になるやつだな。あんなでかいのか」
272: 雲 ◆LaKVRye0d.:2017/3/2(木) 15:21:52 ID:MTtPtGwQAc
411 :雲 後編 ◆oJUBn2VTGE :2013/09/06(金) 22:35:20.00 ID:kIaSDyGu0
師匠が問い掛けると、老人はいきなり「ええええい」と叫んだ。
そして両腕をいっぱいに突き出し、「消えろ」と喚く。
雲消しだ。
だが前回見た時より、なにか違う。腰を落とし、右手と左手を交互に突き出し。その両手が交差する瞬間に、なにかの印を結ぶ。そして一定のリズムで両手の押し引きを繰り返し始めた。
「あんな、指みたいな形になることがあるのかって、聞いてるんだ」
師匠が怒鳴るが、全く耳に入っていない様子で、老人は雲消しの動きを繰り返している。
あんな巨大な雲が消せるのか。
師匠は種明かしをしていたじゃないか。消せるのは、いや、正確に言うと、消えるのは消滅しかけの小さな積雲だけだと。
僕は立ち尽くし、呆然と目の前に広がる信じ難い光景を見ていた。闇の中に異様な密度を持って浮かんでいる巨大な入道雲。真っ黒なその姿は何とも言い難いような禍々しさを秘めていた。
中国の古い物語を読んでいると、「不吉な雲気」が空にあるのをみて、凶兆だとする話がよくあったことを思い出した。
不吉な雲気とはどんなんだろうと思っていたが、もしそんなものが本当にあるのなら、目の前のこれがそうだろうという確信に似た思いが浮かぶ。
「ふざけるな」
師匠が誰にともなく吼える。
頬を震わせ、両手を強く握り締めている。
「やめろ…… やめろ!」
そしてその視線の先には恐ろしい巨人の手が。
巨人の手?
その時、僕の脳裏に光が走った。この山上に登る途中で浮かび掛けたイメージが、再来したのだ。
ドーナツ型の雲。
その穴。
穴の位置は変わらない。風に流れる雲に逆らって、穴の位置だけが。地上の同じ地点の上空に、必ず穴がある。
見えてくる。見えてきた。イメージが勝手に、透明なものの、ありえないはずの輪郭を絵取っている。
巨人だった。
目に見えない、巨大な人型のなにかが、じっとそこに立っている。円筒のように雲を刳り貫いて。そして雲はドーナツの形になる。見えない巨人は途方もなく大きい。遥か上空にある雲を突き抜けている。一体どれほどの大きさなのか想像もつかない。
273: 雲 ◆LaKVRye0d.:2017/3/2(木) 15:25:47 ID:OzMS.RB7HM
413 :雲 後編 ◆oJUBn2VTGE :2013/09/06(金) 22:39:42.77 ID:kIaSDyGu0
巨人。巨人……
僕は身体の芯が震えた。そんなものが存在するはずがない。師匠がこのあいだ巨人について調べていたことが、なにかの予兆のようなものだったのか。
「やめろ」
師匠が食い破ろうとするような目付きで、目の前のありえない光景に身を乗り出す。
真っ黒な雲の底から伸びる手が、渦を巻きながら同時にその指先を幾本も地上に垂らそうとしている。
あれが地上に落ちたら、竜巻が発生するというのか。鈍重な雲の下にいる人々は、その迫る危機に気づかず、眠っているのだろうか。
惨事の予感が身体を貫く。恐怖が押し寄せてくる。
こんなことがあっていいのか。
ガチガチと歯の根が合わない。
ただの自然現象ではないことは直感で分かる。では、自然現象ではない自然現象とは、一体なんだ?
一体なにものにこんなことが起こせるというのか。
その時、ハッと気づいた。
指の先にばかり目を奪われていたが、その上部にある腕の部分はなんなのだ。もし。もし、あの指がすべて地上に落ち、竜巻を無差別に発生させたとしても、それで終わるのか? 指が地上に落ちた後、腕がそのまま降下したとしたら……
とてつもない大きさだ。
あれが、竜巻になるのか。うそだろ。
想像しただけで、目の前が真っ暗になった。
師匠を振り返る。
しかし同じ格好のまま、立ち尽くしているだけだ。
どんな心霊現象にあっても、師匠ならなんとかしてくれる。そんな幻想を抱いていた。でも、こんな、こんなものは。どうしようもないじゃないか!
目の前で起こる異常な現象をここで見ていることしかできない。
僕らは日常の隣にある不思議な世界を何度も見てきた。それは日常のほんのちょっとしか隙間から覗くことができたし、時には日常に影響を及ぼすこともあった。だがそれは僕たちに違和感を、恐怖を抱かせるだけの現象に過ぎなかった。
しかし、今目の前で起ころうとしていることは、日常とそういう世界の間の境界線が破れてしまうことに他ならなかった。
「えええええい! ええええええええい!」
老人が一心不乱に雲を消そうとしている。
274: 雲 ◆LaKVRye0d.:2017/3/2(木) 15:30:52 ID:OzMS.RB7HM
414 :雲 後編 ◆oJUBn2VTGE :2013/09/06(金) 22:40:56.18 ID:kIaSDyGu0
ぽつり、と僕の額に雨の粒が落ちた。雨雲が移動して来たのだ。街なかを濡らしていた雨雲が、風に乗ってここまで。
ぽつ、ぽつ、と雨が岩の上に落ちる音が聞えてくる。
傍観者だった。
僕は無力で、見ていることしかできなかった。恐怖に身体を縛られながら。
思わずその場にへたり込んだ。岩の冷たさが、尻のあたりに伝わってくる。
や…… め…… ろ……
師匠は押し殺した声でそう言うのを隣で僕は聞いていた。
その時だ。
僕の中に別の感情がふいに浮かんできた。
なんだこれは。
一瞬、周囲の音が消える。真っ暗な描画の世界で、僕の中に浮かんだ感情の正体を見つめようとする。しかし厚いベールの奥にあったのは、恐怖だった。恐怖に支配された身体の中に、さらに恐怖が潜んでいた。
や
め
ろ
一音節ずつの言葉を聞きながら、別の種類の恐怖がだんだんと大きくなって行く。
それは目の前の異常現象に対するものよりも、大きくなりつつあった。
首の中に無数の鉄の欠片が混ざり込んだように、ギシギシと音を立てている気がする。僕は、すぐ隣を振り向けなくなっていた。すぐ隣に立っているはずの人を。
雨が強くなり始めた。髪に、額に、肩に雨粒が落ちてくる。
影の群。闇に浮かぶ顔。声だけの死者……
どんな心霊現象にも、対応してきた。解決し、消滅させ、時に逃走し、けっして負けなかった。
しかし。
だめだ。
これだけはだめだ。
これだけは止めてはだめだ。
275: 雲 ◆LaKVRye0d.:2017/3/2(木) 15:36:38 ID:MTtPtGwQAc
416 :雲 後編 ◆oJUBn2VTGE :2013/09/06(金) 22:43:50.40 ID:kIaSDyGu0
僕は自分の中に育ち始めたその別種の恐怖を抑えながら、声にならない声をあげる。背後からは老人の掛け声がいやに空疎に響いてくる。
さっきまで目の前の異常な自然現象に、止まってくれという無力な念を送っていた僕の思考が、完全に反転した。
止まるな。
止まるな!
ガタガタと膝が震える。たった二メートル隣が振り向けない。
その僕の視界の端に、微かな光の粒子が見えた気がした。
◆
どれくらい時間が経っただろうか。
全身を大きな雨粒が叩いている。周囲はますます暗くなり、視界が利かなくなった。空に稲光が走る。
その瞬間、老人が動きを止め、僕のすぐ横に顔を突き出した。
「消えおった」
そう言って絶句する。
驚いて僕も雨雲の彼方に目を凝らすが、もう何も見えない。すべてが漆黒の海に沈んでしまったかのようだ。
「消えた」
師匠も僕のすぐ前に足を踏み出し、上気した声をあげる。
「風だ。雨雲が流されて、途切れたんだ」
目を見開いて僕を振り返る。濡れた髪が額に張り付いているけれど、いつもの師匠だった。僕も立ち上がった。
そうか。
今いる山の方角が風下だ。雨雲がこちらへ到達して、街の方はあの巨大な入道雲、つまり積乱雲の下から逃れたんだ。
だが、あの奇怪な現象までがこちらにやって来るわけではない。それが直感で分かる。
なぜなら、何度も見たドーナツ雲の穴は地上から見たその位置が固定されていたからだ。
「あれ」は多分、そこを動けない。そして雲にしか影響を与えられない。雲さえ途切れてしまえば、何も出来ない。
それも、普通の積雲ならその位置にいくらあっても無力だ。元々竜巻を起こすポテンシャルを持った積乱雲があって初めて地上に破壊的な力を及ぼすことが出来るのだ。
なぜかそれが分かる。
276: 雲 ◆LaKVRye0d.:2017/3/2(木) 15:40:45 ID:JnGbXyEaJs
417 :雲 後編 ラスト ◆oJUBn2VTGE :2013/09/06(金) 22:44:40.24 ID:kIaSDyGu0
人知を超えた力で捻じ曲げられた気流が、雲が、その力から逃れたのだった。
「消したぞ。わた雲。どうだ」
老人が両手を振り回しながら喚く。その時、稲妻が走り、光で空が切り裂かれた。直後に轟音が響く。
「まずいな。雷雨だ」
師匠はそう言って、老人の肩を抱えた。
「せんせい、山小屋に非難しましょう」
「わしが消したのだ!」
老人は上ずった声でそう繰り返した。
「行くぞ」
師匠は僕に目配せすると、口に懐中電灯を咥え、老人を半ば引きずるようにして山を降り始めた。
僕は岩を降りる時に足を滑らせてしまい、尻餅をついた。師匠の持つ懐中電灯の光が遠ざかりつつあるのに焦り、慌てて立ち上がる。ますます雨が強くなる山道を恐る恐る降りて行く。
僕は一度だけ背後を振り返った。
視界がなくなり、もう地上の光も何一つ見えない。その上空にあった入道雲も。あの手のような形のものも。
ただ、僕の頭は想像している。
雨雲の彼方にそびえ立つ、とてつもなく巨大な人影を。
それは透明で、けっして目には見えない。しかし、顔の位置にある、何もない空間がこちらを向いている。それが今、僕らのことを見ている。
その凍るような視線を背中に感じながら、僕は縮こまりそうな足の筋肉を叱咤し、師匠の後を追い掛けた。
(完)
277: 1 ◆LaKVRye0d.:2017/3/2(木) 15:46:38 ID:pxB8hyNJFE
今日は、ここまで
短編〜前後編位の長さは2話纏めて、
3分割以上の話は1話ずつ投稿しようと思っています
ペースは週に2回位
あくまで目安ですけれどね
読んで下さっている皆様、有難うございます
【了】
278: 溶接 ◆LaKVRye0d.:2017/3/6(月) 03:23:14 ID:gnmyXvpANA
『溶接』
大学一回生の冬。
俺は自分の部屋で英語の課題を片付けていた。その頃はまだ、それなりに授業も出ていたし、単位もなんとか取ろうと頑張っていた。
ショボショボする目で辞書の細い字を指で追い、構って構ってとちょっかいを出してくる子猫の小さい手を掻い潜りながら、ようやく最後のイディオムを翻訳し終えた。疲れた目を押さえ、テキストを仕舞う。
もう夜の一時半を回っている。寝ようかと思い、欠伸をしたところで部屋の隅のパソコンが目に入った。そう言えばここ何日かインターネットに繋いでいなかったことを思い出す。
パソコンの前に座り、電源を入れると、とりあえずオカルトフォーラムを覗いてみることにする。
そこは地元の人々が集う場所だった。本来は黒魔術などの西洋系のオカルトに関する話題を扱う場所なのだが、常連たちもあまり堅いことを言わないので、そんな話に限らず、みんな割と何でも話している。
その時も、話題は心霊スポットに関するもののようだった。
ログを遡って流れを確認していると、伊丹さんという人が突発的なオフを提唱していたらしい。突撃オフというやつだ。伊丹さんは男性で、商科大の三年生だった。
『その廃工場の地下に、なんのためにあるのか分かんない空間があるんだって』
伊丹さんは隣の市の外れにあるという廃工場にまつわる噂話をどこからか仕入れて来ていた。
「ユキちゃん。前のご主人様が遊ぼうってさ」
俺はパソコンの前に座ったまま、そばに来た子猫をつかまえて抱き上げる。メスの白猫で、ついこの間、その伊丹さんの家からもらって来たばかりだった。
最近伊丹さんのアパートに野良猫が住み着いていたのだが、それが子どもを四匹も産んだとのことで、俺を含む知り合いに片っ端から声をかけたらしい。
『なんか、だだっ広い地下室の床に血みたいな染みがあって、夜中にそこへ行くと血の上にぼうっと立ってる幽霊が見えるんだって』
279: 溶接 ◆LaKVRye0d.:2017/3/6(月) 03:27:03 ID:j8TyQ/9PDE
そんな書き込みの後で、今から突撃するから参加者募集、と続けていた。
タイムスタンプを見ると一時間以上前だ。何人か反応していたが、今からは無理、という声ばかりだった。
そして三十分ほど前に、『う〜ん、じゃあツレと二人で行って来る』という伊丹さんの書き込みがあった。それが最後だ。
その後で、別の誰かが『今来た。もう行っちゃった? 俺も行きたかったな。なんか場所よく分かんないし、報告待ちにするわ』と書いてあったが、それにも反応はなかった。
「前のご主人様はもう遊びに行っちゃったみたいだねえ」
子猫に話しかけながら身体を前後に揺する。
その頃はまだ、出先から携帯電話でネットの掲示板を更新する、というような文化はなかったので、オフ組が自分の家に戻るのを待つしかなかった。
俺もその廃工場への突撃がどうなったか気にはなったが、猛烈に眠くなってきたので、今夜はもう寝ることにした。
だから、その後のひと騒動を知らずにいたのだった。
次の日の夜のことだ。
俺が自宅でぼんやりしていると、PHSに電話が掛かってきた。出ると、みかっちさんというハンドルネームのオカルトフォーラム仲間からだった。
なにか面白いことがあったから、来いということらしい。テンションが高くて半分くらい何を言っているのか分からなかったが、とりあえず混ざることにした。
寒波が来てるとかで、外はやけに寒かった。遊ぼうとワキワキしている子猫を残し、精一杯の厚着をして部屋を出ると、俺は自転車に跨って目的地に向かった。
いつものオフだと、だいたいファミレスか居酒屋、あるいはcoloさんというハンドルネームの女性が住んでいるマンションの一室に集まるのだが、その日は和気さんという男性のアパートが集合場所だった。
和気さんはオカルトフォーラムの管理人で、普段はあまりオフなどには出てこないのだが、最古参ということもあり、常連の中でも一目置かれた存在だった。というか、むしろフォーラムの創設者だったからか。
一度だけ部屋に行ったことがあるのだが、とても物静かな人だった。
雰囲気は全然違うのだが、容姿がどこか俺のオカルト道の師匠に似ていて驚いたことを覚えている。
280: 溶接 ◆LaKVRye0d.:2017/3/6(月) 03:30:22 ID:gnmyXvpANA
寒空の下うろ覚えの道を進み、ようやくそのアパートにたどり着いた。
ノックすると、ドア越しに人の話し声が聞えて来る。構わず中に入り、「ちわ」と言いながら靴を脱いだ。
「お、来た、少年」
みかっちさんが手を振っている。
部屋の中は暖房が効いていて暖かかった。あまり広くない一室に数人が車座になっている。
全員見知った顔だった。いつもはファミレスなどでオフをするのだが、一部の常連たちはさらにその後、反省会などと称して誰かの家に集まり、二次会を開くのだ。
誰が呼んだか、密かに『闇の幹部会』などと呼び習わされていたりする。俺も若輩の身ながら、なぜかその一員に入れてもらっているのだが、ようするに気の合う仲間で集まっているだけだった。
今日集まっていた仲間は俺を除いて全部で四人。
みかっちさん、ワサダさん、という女性陣に、和気さんと伊丹さんという男性二人。このうちワサダさんと和気さんは社会人だった。
あれ?
伊丹さんと言えば……
俺は昨日の突発的な突撃オフのことを思い出した。あの後どうなったのだろう。ツレと行くって言っていたけれど。
その時、俺は前に座っている伊丹さんの様子がおかしいことに気がついた。目に隈が出来ていて、表情がどこか切羽詰っている感じだ。そしてしきりに貧乏ゆすりをしている。
僕の顔を見ても、「猫元気?」とも訊いてこなかった。なんだか気まずい雰囲気だ。
「ええと、今来たヒトもいるから、もう一度見てみる?」
沢田さんが提案する。
「そうね。見よう見よう」とみかっちさんが頷く。
「じゃあ、最初からでいいかな」
和気さんが自分の部屋のビデオデッキを操作し始める。どうやらみんなでビデオを見ていたらしい。
部屋にいた全員が、身を乗り出すようにしてテレビ画面に目をやる。一瞬砂嵐が映った後、ビデオが始まった。
281: 溶接 ◆LaKVRye0d.:2017/3/6(月) 03:32:34 ID:j8TyQ/9PDE
◆
最初は懐中電灯が暗い夜道を照らしている場面だった。画面が揺れている。歩きながら撮影しているようだ。
『ええと、もう映ってんのこれ?』
伊丹さんの声がする。
『ほら』という別の男性の声とともに画面が動き、伊丹さんがアップで映った。懐中電灯を当てられている顔だけが暗闇に浮かび上がっている。
『おい、眩しいって』と手のひらで庇った後、少し明かりの焦点の位置がずれる。
『ええと、いま藤原と二人で心霊スポットに向かってまぁす。クッソ寒いでぇす』
そう言う口の端から白い息が出ているのが映っている。
『噂の廃工場の秘密の地下室へ突撃する決定的瞬間を撮るために、藤原を無理やり誘ってまぁす』
そう言いながら、伊丹さんは歩き始める。
カメラはしばらく伊丹さんの横顔を映していたが、やがて前を向き、行く先の暗い道を映し始めた。
『まだついてんの、それ』
『おう』
画面の外から声だけが聞こえる。
『今回は、残念ながら他の人の参加はありません。突発すぎたので反省です。二人だけなので、ちょっと怖いです』
『ていうか、なあ、これ道あってんの?』
『あってるって。ええと、さっきまでちょっと迷ってましたが、ここまで来たら後は一本道らしいんで、多分大丈夫でぇす』
ザッザッザ…… という二人の足音をマイクが拾っている。
舗装されていない道らしい。山の中だろうか。懐中電灯の明かりが二本、揺れながら地面ばかりを照らしている。
『さっきから、なんか山鳩?の声がしてます。結構怖い雰囲気です』
伊丹さんの声がそう言った後、『寒っむう』と続けた。確かに山鳩の声が遠くで聞えていた。
それからしばらく二人は黙ってしまい、ただ画面が前に進みながらガサガサと揺れていた。
その場面が淡々と続いていたかと思うと、ふいに電話の着信音が聞えた。立ち止まり、カメラが伊丹さんを映す。
『あ。もしもし。伊丹ですけど』
携帯電話を耳にあて、伊丹さんが誰かと話している。
『あ、掲示板見てくれた人っすか。どうも、始めまして。良かった。こっち二人で心細かったんで。今どこです。え? 先? うっそ。まじ?』
そこでカメラが振り向き、前方を映した。しかし懐中電灯の明かりには、何もない道だけが浮かび上がっていた。
『そっち何人ですか。三人? え? 男二人? うちと一緒だ。ていうか、なんかもうそこ着いてないスか』
伊丹さんが、「行こう」と手で合図する。
カメラが進み出し、また上下に揺れる。
『そうそう。それが廃工場ですよ。間違いないスよ。うちら、二、三分前に石碑みたいなところを曲がったんですけど、後は一本道ですよね。後どのくらいで着きますか』
暗闇に伸びている道のバックで、伊丹さんの声が聞えている。
『ちょ、ちょ、ちょっと待ってよ。一緒に行こうよ。待っててよ』
伊丹さんが焦った声を出す。そしてカメラが早足になる。
『蓋? 蓋があんの? 鉄製? あ、多分それ。その下が。ていうか、もうちょっとで着くから一緒に行こうよ。抜け駆けはなしだって。おい』
携帯電話に向かって大きな声で呼びかけたが、向こうからの反応がないようだった。
『もしもし、もしもし』
くっそ。先越された。
伊丹さんは毒づくと、カメラの前に出た。その背中を追って、映像は続く。
二、三分ほど経っただろうか。ずっと木立ばかり照らしていた光が、無機質な壁に反射した。苔むしたなにかの建物だ。
282: 溶接 ◆LaKVRye0d.:2017/3/6(月) 03:35:47 ID:j8TyQ/9PDE
『どっちだ』
カメラの先を行く伊丹さんが懐中電灯を振りながら入り口を探す。
『あ、こっちこっち』
そしてカメラを手で招きながら壁を回り込む。その先に左右二枚の横開きの大きな扉があり、片方の扉の下部が潰れ、斜めに傾いでいるせいで、ひと一人が十分出入り出来る隙間が出来ていた。
『おおい。いますか』
伊丹さんが懐中電灯をその隙間に差し入れながら声を掛ける。
そうしておっかなびっくりといった様子で、自分の身体を隙間に滑り込ませた。すぐに隙間から顔が覗き、『入れるか?』と訊いて来る。
『いける』
カメラもそれに続いて隙間から入っていった。
元は一体何の工場だったのか、中はほとんどもぬけのからで、錆びたドラム缶がいくつかと、破れ目から砂がこぼれている白い袋が隅の方に転がっていた。
工場の中を見回している一瞬、音が消えた。他の人影も見えない。画面から冷え冷えとしたものが漂って来る。
一部が破れたトタン屋根の天井から一筋の月光が降りて来て、床の中央に満月のような模様を描いていた。雨も吹きさらしなせいか、そこだけ床が汚らしい色に変色している。
『あれじゃないか』
伊丹さんが手に持った明かりを、左奥の隅に向ける。
近づいていくと、木なのか金属なのか見た目で判別がつかない建材のようなものが積まれているその脇に、蓋が見えた。
カメラが近寄り、斜め上からその姿を映す。網のような模様のついた金属製の蓋だ。
縦横五十センチくらいの四角い形状をしている。かなり大きい。人が十分出入り出来そうな大きさだ。
伊丹さんがゴン、ゴン、と蓋を叩いた。
『いますか』
しばらく待ったが反応がなかった。
『これ持ち上がるのか』
カメラから声が掛かると、伊丹さんは顔を上げる。
『さっきの人が、開けてたからな。電話からギィーッて聞えたから。こう、ガポっと持ち上げるんじゃなくて、どこかの縁が固定されててそこが軸になって持ち上げるタイプじゃないかと……』
そう言いながらまた蓋に目を落とした瞬間、『えっ』と絶句した。
『ちょっと待てよ!』
建物の中に悲鳴に似た声が響く。
『なんでこれ溶接されてんだよ!』
大きくぶれた後で、カメラがさらに蓋に近づく。そして地面との境目を映し出す。
コンクリートの地面に鉄製の縁取りがあり、その内側にまるでマンホールのような質感のずっしりした蓋があるのだが、本来であれば、持ち上げる時のとっかかりとなるはずの穴が縁取りに沿って開いているはずだった。
しかし、その蓋には穴の痕跡はあるものの、縁取り全体にそって溶接をされていて、穴も完全に塞がっていた。
283: 溶接 ◆LaKVRye0d.:2017/3/6(月) 03:38:22 ID:gnmyXvpANA
『どういうことだよこれ』
伊丹さんは息を飲みながら、また蓋を叩いた。
『おおい。いるのか。おおい』
『おい、落ち着けって』
カメラからそう声が掛かるが、髪を振り乱して顔を上げると、伊丹さんは嗚咽のような声を絞り出した。
『開けて入ったんだって。電話のやつが言ってたんだよ。先に降りとくって! ギィーッ、ゴトッって音がして、電話が切れたんだよ! さっきのやつ、入ってんだって。この中に』
その切羽詰ったような表情に気おされたように、カメラが一瞬引いた。
なんとかして蓋を開けようとしているが、力を入れるとっかかりさえない状態だった。
ゴン、ゴン。
蓋を叩く鈍い音が聞える。
『誰が塞いだんだよ、これ』
喚く伊丹さんの様子がただならないことに気づいたのか、カメラが床の上に置かれ、画像が一瞬乱れる。
斜めになった画面の端で二人の人影がもつれあっている。
『落ち着けって。そんな一瞬で溶接できるわけないだろ。勘違いだって』
しばらく言い争いをしていたが、カメラマンの説得にようやく落ち着きを取り戻し始めた伊丹さんが『そうだな』と呟いた。
それからもう一度カメラは肩に担がれ、廃工場の中の探索が始まった。しかし、それ以外に蓋らしいものは何一つ見当らなかった。もちろん、地下室への入り口も、何一つ。
その後、斜めに傾いた扉から外に出て、廃工場の外側の敷地をしばらく探索していたが、結局蓋や地下への入り口はおろか、さっきまでここにいたという二人組みの痕跡も全く見つけられなかった。
廃工場に背を向け、元来た道を引き返しながら、無言のままビデオは終わった。
◆
和気さんがビデオデッキの停止ボタンを押した後、しばらく沈黙があった。まるでビデオの続きのように。
みかっちさんが重い空気を振り払うように、明るい声を出す。
「というわけで、伊丹くん勘違いの巻、でした」
のまっき、という発音が場違いに聞えた。
「だったら、あの電話はどこから掛けてたんだよ」
伊丹さんが苛立った声を上げる。
「だから、イタズラだって。どっか別の場所から適当に掛けてただけだったんよ」
「だけど、俺が今どこにいますかって訊いたら、斜めに傾いた扉の前にいるって言ったんだぞ。で、中に入った後、左の奥の方に蓋みたいのがあるって、言ってたんだ」
怯えた表情で伊丹さんは捲くし立てた。
284: 溶接 ◆LaKVRye0d.:2017/3/6(月) 03:41:28 ID:gnmyXvpANA
「実際俺たちが着いた時も、全く同じだったじゃないか」
「ええと。それは」
みかっちさんが口ごもったところを、和気さんが落ち着いた口調で繋いだ。
「以前行ったことがあったんじゃないかな」
「そうそう。それ。行ったことあった人が、イタズラで電話したんだって」
「なんでそんなことするんだよ」
「人が怖がるのが面白いんじゃないの」
みかっちさんは伊丹さんの目の前で口を半月状にして笑った。
「笑うな!」
伊丹さんが声を荒げかけると、すぐさまワサダさんが止めに入る。
「まあまあ、人の家で喧嘩しちゃだめ。……ところで、その電話して来た人って、ホントに知らない人?」
伊丹さんは相手の名前は分からない、と言った。
「向こうがはじめましてって言うから、そう思っただけだよ」
でも、聞いたことがない声だった。
そう言って手元の携帯電話に視線を落とす。
「ちょっと、その相手の番号見せてよ」
そう言って顔を寄せたみかっちさんに、伊丹さんは着信番号が表示された画面を見せた。
「090‐9733‐…… ふうん、私も知らないなあ」
俺も覗き込んだが、やはり見たことのない番号だった。少なくともフォーラムの常連の誰かではなさそうだ。
「リダイアルしても出ないんだっけ?」
みかっちさんに訊かれて、伊丹さんは携帯電話のボタンを押す。耳にあててしばらく待っていたが、首を横に振って「ほら」とこちらに向けた。
『……電波の届かない場所におられるか、電源が入っていないため、お繋ぎできません』
そんな言葉が電子音で流れて来ていた。
「それでね、管理人の特権のアクセス解析の話なんだけど」
和気さんがぼそりと言う。
「そうそう、それを聞くところだったんだ!」
無邪気なみかっちさんの言葉に苦笑しつつ、和気さんは続けた。
「前に何回も説明したと思うけど、アクセス解析じゃあどこのだれが掲示板を見てたかってのは分からないんだよ。せいぜいプロバイダとOSの種類、それからブラウザは何を使っているのかってことくらいしか分からないんだ」
「ホントにぃ? 個人情報ダダ漏れじゃないの?」
「まあ、会社とか、官公庁から繋いでる場合は、ズバリの名前が分かることもあるけど」
「でもIPアドレスってのがあるんじゃないですか。それも分かるんでしょう」
ワサダさんが横から口を出すと、和気さんは頭を掻いた。
「う〜ん。詳しい説明は省くけど、基本的にはIPアドレスはその都度取得するから、同じ人でも毎日違うよ。といっても、ある程度この人かなって絞れることもあるけど。でもそれも、リアルで知ってる常連で何度も来てる人だったらって話で、一見さんならどこの誰かなんて警察でもないと調べられないと思うよ」
「下手したら、その警察沙汰なんですって!」
伊丹さんが余裕のない声でそう言った。
「地下に閉じ込められてるかも知れないんですよ」
ううん。と伊丹さんはまた頭を掻いている。
「でもさ、あの蓋見たでしょ。完全に溶接されてたじゃん。絶対昨日今日されたんじゃないよ、あれ。ずっと前からだって、明らかに。だったらあの中に入れるわけないよ」
「それはそうだけど!」
「夜遅いから、もうちょっと静かにね」
ワサダさんが常識人らしいたしなめ方をする。
その時、玄関のドアをノックする音が響いた。ついで、ドアの開く音と、「ちわ。遅くなった」という声。
285: 溶接 ◆LaKVRye0d.:2017/3/6(月) 03:45:09 ID:gnmyXvpANA
常連の一人で京介さんというハンドルネームの女性だった。部屋に入ってくるなり、「キョースケぇ」と言ってみかっちさんが抱きつこうとする。
それを武道家らしい最小限の動きでひらりとかわし、平然とした口調で「で、なにがあったの」と言った。
この人が来るだけで場の空気がなんとも言えない安心感に包まれるので不思議だった。
京介さんが来たので、また最初からビデオを見ることになった。俺は二度目だったが、一度目の時にあまりじっくり見られなかった蓋のアップのシーンを今度は砂被り席で見た。
その時、気がついたことがあった。蓋は確かに縁に沿って溶接されていて、穴も完全に塞がれていたのだが、その縁のところになにかが映っているのが見えたのだ。
「ここ、止めてもらっていいですか」
和気さんが一時停止ボタンを押してくれた。
すると固まった画面の左端のあたりに、黒い線のようなものがあるのだ。ちょうど蓋の丸い縁どりの端から外へ向かって伸びている。
銅線?
一瞬そう思ったが、懐中電灯の光に照らし出されたそれが、やけに細くて柔らかく曲がりながら何本にも分かれているように見えた。
「髪の毛だ……」
思わずぼそりとそう口にすると、伊丹さんの押し殺した悲鳴が聞えた。
「え。なによ髪の毛って」
みかっちさんがテレビの画面に掻き付くように前に出る。
「これが? そうかなあ」
そう言われると自信がなくなってくる。
「やばいよ、これ。まじやばい」
伊丹さんが尋常ではないうろたえ方をしている。
「俺、気づいてなかった。こんなのあったなんて」
髪の毛だとすると、縁から出ているということは溶接された隙間から出ていることになる。それが一体どういう状況なのか想像して、ゾクリと寒気が走った。
「でもこれ、長くない?」
ワサダさんが呟いた感想を耳にすると、確かにそう思えた。男にしては長すぎると。しかし伊丹さんはそれを聞いた途端に余計に怯え始めていた。
「やっぱり女がいたんだよ。女が。俺が最初に電話でそっち何人ですか、って訊いた時、後ろで女の声がしたんだ。間違いない。だから三人かって訊いたのに、男二人だっていうから、あれ? って思ったんだ」
なんだそれは。そんなことさっきまで言ってなかったじゃないか。
俺がそう指摘しようとしたことを、三倍くらいの分量に増やしてみかっちさんが言いつのった。
「それは……」
伊丹さんが言いづらそうにしながら、「これ以上変に思われたくなかったし」と呟いた。
「後から辻褄あわせしようとすんなって!」
と、みかっちさんが辛らつな言葉を口にすると、和気さんがおもむろに手を挙げる。
「あ、それ、僕は聞いてました。最初に伊丹君から相談受けた時、確かにそう言ってましたよ。女の人もいたみたい、って」
しいん、と部屋の中が静かになった。
「なによそれ」
みかっちさんが気味悪そうに言った。
俺も何ともいない気持ち悪さに襲われていた。直前まで電話で話していた相手が、廃工場の溶接された蓋の下に閉じ込められているっていうのか? それも髪の毛が挟まれた状態で。
想像するだけで寒気がしてくる。
安全なはずの和気さんの部屋の中にいるのに、油断できない恐怖感に圧迫されそうになっていた。
その空気を破ったのは京介さんだった。
「行ってみるか」
286: 溶接 ◆LaKVRye0d.:2017/3/6(月) 03:49:30 ID:gnmyXvpANA
こともなげにそう言った京介さんの腕に、みかっちさんが抱きつく。
「行くの、キョースケ? 今から? まじで」
鬱陶しそうにそれを振りほどき、伊丹さんに顔を向ける。「これ、場所はどこ」
「本当に行くんですか」
俺も驚いて立ち上がった。
しかしその答えもすでに分かっていた。そういう人だと、分かっていたからだ。
そうなると、次に取るべき俺の行動も自ずと限定されて来る。
「キョースケに着いて行く人!」
やけに元気にみかっちさんが手を挙げながらそう言った時、俺も迷わず右手を挙げていた。
◆
結局、廃工場に行くことになったのは、京介さんとみかっちさん、当事者の伊丹さんと俺の合計四人だった。
「ここで待機してようか」と言ったワサダさんに、「あんた彼氏いるんだから、二人きりは駄目だって。帰んなよ。しっし」とみかっちさんが追い立てるようにして帰らせた。
みかっちさんが和気さんのことを狙っているという噂はどうやら本当のように思えた。
四人が乗り込んだ伊丹さんの車で深夜の国道に入り、しばらく走った。そこからはただでさえ地元民ではない僕にはさっぱり分からなくなったが、とにかく都市部から外れた狭い田舎道を一時間くらい走ってようやく目的地にたどり着いたのだった。
「ここから歩くよ」
伊丹さんが懐中電灯を手に持ちながら車のドアを閉めた。
カメラは藤原さんという伊丹さんの友人の持ち物だったので、今はない。四人はその幹線道路から外れた何もない山道を静かに進んでいった。
途中、何もない道端に急に石碑のようなものが現れた。伊丹さんが緊張するのが分かる。
「こっち」
そうして石碑の角を回り込むようにして、枝道へ入った。車がやっと一台通れるくらいの狭い道だ。こんなところに工場なんて、不便で仕方がないだろうに。
一体なんの工場だったのだろうと思いながら俺は舗装もままならないその砂利道を黙々と歩いていった。
どこからともなく山鳩の声が聞える。こんな夜中なのに、鳥が起きているということが不思議だった。
京介さんを相手にしきりと話しかけていたみかっちさんの口数も減り始めたころ、ようやく建物の影が見えてきた。
ビデオに映っていたのと同じだ。真否はともかく、心霊スポットという噂が立つほどの建物だ。夜の山の中にいきなりその姿が現れると、さすがに不気味な迫力があった。
「こっち、こっち」
伊丹さんがビデオの再現のように手でみんなを招きながら壁を回り込み始めたので、その不気味さが一層増したように感じた。
朽ちた壁が続く中に、横開きの大きな扉が見えてきた。
「この中だ」
声が震えて上ずっている。
「こ、この中ね」
みかっちさんが確認するように言うと、京介さんの背中を押しながら進もうとしている。その先には斜めに傾いて片側が半分開きかけているように見える扉が見えた。
さすがに京介さんも少し嫌そうに「押すなバカ」と言うと立ち止まり、扉の中の様子を伺いながらゆっくりと近づいていった。
287: 溶接 ◆LaKVRye0d.:2017/3/6(月) 03:54:36 ID:gnmyXvpANA
四人それぞれが持った懐中電灯の明かりが扉の隙間に集中する。そこからなにか気味の悪いものが顔を出しそうな気がして、ゾッとする。
「入るぞ」
そう宣言したかと思うと、京介さんが扉の隙間からスルリと中に消えていった。俺もおっかなびっくり後を追う。
中はむっとするような黴臭い匂いが立ち込めていて、ビデオで見ただけのものとは違う臨場感が、恐怖心を圧迫してくる。廃工場の中を懐中電灯の丸い光が、大きな人魂のように彷徨う。
人の気配はどこにもなかった。物音と言えば、自分たちの息遣いと背後から扉を越えてくる残りの二人の足音だけだった。
床の真ん中あたりに月の光が落ちている。見上げると、トタン屋根の天井の一部に丸い穴が開いていた。その落ちてくる淡い光が、どこか非現実的で幻想的な雰囲気を生んでいた。
「あっちだ」
伊丹さんが懐中電灯を左手側の隅に向ける。京介さんを先頭に足音を殺しながらゆっくりとそちらに歩いていく。
ドキン、ドキン、と心臓が高まり始める。転がったドラム缶の影になにか動いたような気がする。しかし、それが恐怖心の生み出す錯覚だということも分かる。
「これか」
京介さんが立ち止まったその足元を見ると、そこには蓋があった。
金属製の蓋だ。冷え冷えとした地面にまるで張り付くように据えられている蓋だった。人間が一人、出入りできるほどの大きさの。その下には、地下へと伸びる階段があるのだろうか。
だが、蓋は溶接されていた。この目で見るとはっきりと分かる。何年、いや十年以上も前からこの蓋は、こうして溶接された状態で誰にも開けられることもなく、ここで時の経過とともに緩やかに朽ちていったのだろう。
「髪が」
みかっちさんが短い悲鳴のようにそう言った。
再び目を落とすと、蓋の溶接された縁から人間のものと思しき髪の毛のようなものが生えているのに気づく。
ゾクゾクと寒気が増す。この感じはやばい。やばい。頭の中でそんな警戒音が鳴っている。
しかし、京介さんが俺を見てこう言った。
「抜いてみろ」
「なんで俺ですか」
思わずそう言い返すと、「他人の髪の毛なんて触りたくない」と言うのだ。どこかずれている気がする。
「いいからやれ」
有無を言わせぬ口調でそう命令されると、従わざるを得ない。メンバー的にも俺がやるしかないのだろう。
真っ青な顔でぶるぶる震えている伊丹さんを振り返り、改めてそう思った。
髪の毛のように見えるものは、蓋の縁から少しずつ束になり、何条かに分かれて出ていた。
俺は息を止めて、その髪のひと束を指先で摘んだ。その瞬間思った。
髪だ。
あきらかに人の髪だった。
そして同時に気づく。こんなにたくさん髪の毛があっただろうか。ビデオで見た時よりも多い気がする。
それに、一度は蓋の縁をガリガリと指先で掻き、なんとか持ち上げるための取っ掛かりになりそうな場所を探していた伊丹さんが、その時全く気づいていなかったというのが不可解だった。
増えている?
溶接された蓋の、ないはずの隙間から生えている髪の毛が?
そんな、馬鹿な。
288: 溶接 ◆LaKVRye0d.:2017/3/6(月) 03:58:02 ID:j8TyQ/9PDE
周りは静かだった。伊丹さんは蓋の下へ声を掛けようとしない。いるんですか、とは。
俺は震える指先で、摘んだままの髪をそっと引っ張った。
ずるり。
抜けた。数本の髪が、わずかな抵抗のあと、抜けた。その抵抗が、溶接によるものなのか、それとも、別のなにかによるものなのかは分からない。
思考がそれ以上深くならないように、俺は軽い口調で「抜けました」とその長い髪の毛を翳して見せた。
その瞬間、悲鳴が上がる。伊丹さんとみかっちさんだった。
「毛根が」「毛根があるじゃない!」
二人とも、まるでそれが今ヒトの頭皮から抜けたばかりであることの証明のように驚愕している。
「おい、落ち着け」
京介さんがそう言ってみかっちさんの肩を抱く。
伊丹さんは胸ポケットから携帯電話を取り出した。そしてボタンを押してから耳に押し当て、すぐさま「出ろよ。なんとか言えよ、おい」と捲くし立てた。
「どこにいるんだよ。電話出ろよ!」
薄ら寒い廃墟の中に、その声が響く。
だが次の瞬間、「あ」と言って動きが止まった。伊丹さんは目を泳がせなら「着信音が聞える」と呟く。
リリリリリリリ……
リリリリリリリ……
携帯電話の着信音が、どこからともなく聞えて来る。
俺は身体を硬直させ、摘んでいた髪の毛を取り落とす。
みかっちさんが叫び声を上げた。伊丹さんも、わああ、と叫んで耳を塞ぐ。
全員の視線が蓋に向かっている。いや、蓋ではない。その下にあるはずの空間に。
着信音はそこから聞えているのだ。溶接され、人が入れないはずの地下から。
その時、ドラム缶が蹴り飛ばされる物凄い音がした。
金属の塊がひっくり返り、打ちっぱなしの床に打ち付けられる、ゴワンゴワンという轟音が。それは携帯電話の着信音など耳の奥から一瞬で吹き飛ばされるような音だった。
飛び上がらんばかりに驚いた俺は、その音のする方へ目をやった。
そこでは京介さんが、右足の踵を上げ、痛そうに顔をしかめている。ドラム缶を蹴ったのは京介さんだった。
だが、一体なぜ?
そう考えるより早く、京介さんは瞬時に身体を反転させ、右手を伸ばして伊丹さんの携帯電話をもぎ取った。そして一瞬だけ耳に当てると、唖然とする俺たちにその携帯電話のディスプレイを翳してみせる。
「聞いてみろ。相手には届いてない」
俺は携帯電話を受け取りもせず、ただ耳を近づけて『……電波の届かない場所におられるか、電源が入っていないため……』というメッセージを聞く。
「幻聴だ」
その言葉にハッとする。
耳を澄ましたが、確かに聞えない。空のドラム缶が立てた騒々しい音にかき消され、携帯電話の着信音は完全に途絶えていた。始めからそんな音が存在していなかったかのように。
289: 溶接 ◆LaKVRye0d.:2017/3/6(月) 04:02:33 ID:gnmyXvpANA
京介さんは手にした携帯電話のディスプレイにふと目を落とし、ボタン操作をした後で、険しい表情をした。
「……おい」
そうして押し殺したような低い声で言うのだ。
「伊丹。この相手、誰だ」
伊丹さんを睨みつける。
その訊き方はどこか奇妙な気がした。それが分からないから、こうしてこんなところまでやって来ているはずなのに、この場面で何故そんなことを?
あまりの展開にバクバク言っている心臓を胸の上から押さえつつ、俺は京介さんと伊丹さんを交互に見た。
京介さんは携帯電話をゆっくりと伊丹さんの方へ向け、その表示された画面を前に突き出した。
『木だ 弘子』
そこにはそんな文字が書いてあった。
「間違えて掛けたんじゃないな。昨日のその時間に、着信があった番号だ。ビデオで見た通り、その後お前からリダイアルをしている」
名前?
なぜアドレスに名前が入っている?
しかし、名前の下に表示された番号を見ると、確かにさっき和気さんの部屋で見せられた番号なのだ。
あの時は、番号だけが表示されるモードだったらしい。しかし、着信履歴や送信履歴ではこうして名前までちゃんと表示されていた。
木だ 弘子
田んぼの田がひらがなになっている。まるで慌てて打ち込んだかのようだ。
見覚えのない名前だった。
混乱して、俺は伊丹さんを見た。
「分からない」
真っ青な顔をしてぶるぶる震えながら、頭を抱えている伊丹さんがその手をガリガリと動かしている。
「分からない!」
伊丹さんが叫んだ瞬間、ゴトリ、という音が響いた。
思わず床に転がっているドラム缶に目をやったが、もう動いてはいない。一体何の音だ、と思い周囲を見回そうとした時だった。
「上!」
みかっちさんが叫んで、天井を指さした。
見上げると、屋根に開いた穴が半月状になっている。さっき見た時には、丸い形だったはずなのに。
床に落ちた光も、半月の形になっている。
ゴトリ……
また音がして、半月が三日月になった。差し込む月の光も、細くなって行った。
穴の真下の床は雨が吹きさらしだったためか、変色している。そこに落ちる白い月の光が、か細くなって行くにつれ、床の染みがドス黒くなって行くように見えた。まるで血の跡のように……
290: 溶接 ◆LaKVRye0d.:2017/3/6(月) 04:06:36 ID:gnmyXvpANA
ゴトリ……
天井の穴はさらに小さくなる。まるで、蓋を閉じているような動きだった。
そう思った瞬間、恐怖心が爆発的に増殖した。凍りついたように足が固まる。蓋が。蓋をされてしまう。出口がなくなる!
硬直した俺を、いや、全員をその金縛りから解いたのはやはり京介さんだった。
「出るぞ」
そう言って全員の肩を強く叩き、上ではなく、水平方向にあった出口への脱出を促した。
懐中電灯で照らされるまで、完全にその扉のことが頭から消えていた。あの天井に開いた穴が唯一の出口であるかのような錯覚を、埋め込まれていたのだった。そのことにゾクリとする。
俺たちは走った。
傾いた扉に異変はなく、来た時と同じように隙間に身体を滑り込ませ、外に出ることができた。
廃工場の外で、四人揃っていることを確認した後、すぐにその場を離れながら、京介さんは「もう帰るぞ」と有無を言わせない口調で言った。みんな神妙な顔で頷いた。
来た道を戻るあいだ、京介さんは伊丹さんの携帯電話のアドレスから『木だ 弘子』を削除した。
そうしてようやく持ち主に電話を返すと、「本当に知らないやつか」と訊く。
伊丹さんは何度もつんのめりそうになりながら、それでも早足で歩きつつ「し、知らない」と真剣な表情で答えた。
「どうしてその名前で登録した?」
「……分からない。覚えてない」
伊丹さんはその後も終始そんな調子だった。
車を止めてあった場所に辿り着いたが、持ち主が運転できる精神状態になかったので京介さんがハンドルを握った。結局無事に帰路につくことができたのだが、俺もどこか浮き足立っていて、一体なにが起こっていたのかという好奇心よりも、危険から離れたいという心理の方が勝っていたのだった。
その日はそのまま解散になった。車の中でも皆無口で、廃工場での出来事を語り合うこともなかったのは、本能的に避けるべき危機を知っていたのだろう。怪異は、あの廃工場という空間だけで完結していないのかも知れなかった。何故なら、結果的に伊丹さんは俺たちをつれてもう一度あそこに呼び寄せられたのだから。
目に見えない怪異の伸ばす糸が、身体のどこかにこびり付いているような気がして、どうしようもなく気持ちが悪かった。
「あのビデオは処分するよ」
伊丹さんが別れ際、ぽつりとそう言った。
291: 溶接 ◆LaKVRye0d.:2017/3/6(月) 04:10:01 ID:j8TyQ/9PDE
◆
次の日、俺はオカルト道の師匠に、昨日の事件の顛末を語った。一晩寝て起きただけで、喉元過ぎれば、というやつだ。
師匠は面白そうに聞いていたが、トタン屋根の破れ穴が閉じて行くように見えたくだりで、「どうして僕も呼んでくれなかった」と言って悔しがった。
この人は多分、こういうことに首を突っ込んでいつか死ぬんだろうと思った。
そうしてさらに数日が経ち、伊丹さんもようやくオカルトフォーラムに顔を見せるようになった。『猫元気?』と訊かれ、『今ぼくの横で寝てます』と答えた。
その後、師匠に会った時、ふいに「そういえば、行って来たぞ」と言われた。
どうやらあの廃工場へ行って来たらしい。それも蓋を開けたというのだ。
驚いて「どうやって?」と訊くと、知り合いの工場から工業用の切断機を借りて、持って行ったとのこと。
「蓋の縁に髪の毛が挟まってたとか言ってたけど、僕が行った時は見当たらなかったよ」
「そんなことより、蓋の下はどうなってたんですか」
髪の毛がなかったというのも気にはなったが、蓋の下のことを聞きたかった。
散々もったいぶった後、あっさりと「なんにもなかった」と聞かされた時には嘘だろう、と思った。
292: 溶接 ◆LaKVRye0d.:2017/3/6(月) 04:12:14 ID:gnmyXvpANA
噂にあったような地下室などはなく、いや、正確にはかつてあったのかも知れないが、蓋のすぐ下はコンクリートで埋められ、人が一人入れるか入れないか、という空間しかなかったのだと言うのだ。
「なんか、ねずみか何かの骨が散らばってたけど。それだけ」
そう言って空気が抜けるように笑った。
「屋根の穴ってのも普通に開いてたし、集団で幻覚でも見たんじゃない?」
昔、女の子が殺されて捨てられてたって場所なんだし、恐怖心からそういう集団心理が働いてもおかしくないと、鹿爪らしくそう言う。
そんなこと初耳だった。
「あれ? そういう噂知らなかった? 僕が調べた限りでは、工場が潰れた直後くらいに、敷地内で身元不明の十六、七歳の女の子が白骨状態で見つかったとか。まあ裏は取ってないけど。犯人も見つからずじまいだったって話」
「その殺された子って、もしかして木田弘子とかって名前だったんだじゃないですか」と訊ねると、師匠は「さあ」と首を振るだけだった。
(完)
293: ウサギ ◆LaKVRye0d.:2017/3/6(月) 04:16:11 ID:j8TyQ/9PDE
『ウサギ』
大学一回生の秋だった。
サークルの飲み会があり、安い居酒屋の飲み放題コースで十人ほどの仲間がだらだらと喋っていた。
そのうち、小学校と中学校が一緒だったという二回生の男の先輩二人が、いつもの暴露話を始めた。お互いのかつての悪事や、若気のいたりの恥ずかしい話をバラしあっては自爆していたのだ。
それでも毎回なのでさすがにネタがなくなって来たらしく、その日はあまり盛り上がらずに別の話題に移りかけていた。
そんな時、川村という方の先輩がふいに、「思い出した」と言って喜色を顔に浮かべ、もう一方の小松先輩の肩を叩いた。
「お前、ルルの亡霊を見たって言ってたろ」
川村さんはそう言って、クスクス笑っている。
「ル、ルルの、ルルのお化けが出た! って教室に転がり込んで来ただろ。あれは傑作だった」
笑われた小松さんはムッとした顔で反論した。
「本当に見たんだって。俺だけじゃねえよ。他にも何人か見てんだから」
「うそつけ。見たってやつもいたけど、全員ただの怖がりだろ」
「本当だって。学校の手前の角んとこにあった草むらで。間違いなく、殺されたルルだった」
殺された、という言葉にみんな興味を引かれ、始まりかけていた別の話題そっちのけで、なになに、と顔を寄せて来た。
かく言う俺も、詳しい話を聞きたかった。ただ俺の場合は、その手前の、亡霊という単語の方に興味を引かれたのだったが。
「ルルってのは、小学校のころ学校で飼ってたウサギだよ」
小松さんが説明を始める。
小松さんと川村さんが通っていた小学校では、校庭の隅に金網張りの飼育小屋があり、多い時で七匹ほどのウサギが飼われていた。どれも白いウサギで、そのすべてがメスだった。
教育の一環として生徒が交代で飼育係を勤めていたのだが、その可愛らしい姿に係の子ども以外の子も、頻繁に金網に張り付いてはチュッチュッチュと声を掛けたりしていた。
しかし、ある時そのうちの一匹が首を切り取られた無残な姿で発見されたのだった。子どもたちが受けたショックは相当なものだった。それは教員などの大人たちも同じだったが。
294: ウサギ ◆LaKVRye0d.:2017/3/6(月) 04:20:06 ID:j8TyQ/9PDE
犯人は見つからなかった。
変質者の犯行が疑われたが、どうしてウサギを、それも首を切って持ち去るなどという凶行に至ったのか、分からないままだった。
だが、事件はそれだけで終わらなかった。一ヵ月後に、また別のウサギが首なし死体となって飼育小屋で発見されたのだ。
「結局全部で三匹だっけ。一ヶ月おきくらいに続けて起きたよな」
「今だったら絶対警察入ってるよ。いくらウサギでも、連続首狩りなんて、異常だよ。結局犯人見つからずじまいだったっけ」
小松さんがそう訊ねると、川村さんは頷いた。
「そう、つかまってない。俺なんてさ、発端のさ、最初に首切られたユキの時の飼育係だったんだけど……」
「ちょっと待った。発端といえば、その首狩り事件の前に、マリーってウサギが攫われたのが最初だよ。俺、その時の飼育係だったから、朝来て金網の中が一匹少なかったのが凄いショックだったの覚えてる」
「それは逃げたんじゃなかったっけ?」
「違う、違う。金網にどこも穴は開いてなかったし、最初の首狩りと同じで入り口の落し金をちゃんと戻してあった。人間の仕業だよ」
「そうだっけ。とにかく、俺が最初の首狩りの時の飼育係で、第一発見者だったんだよ。いなくなってた、とかいうのとレベルが違うよ。首がないんだぜ。朝来てさあ、普通にエサをやろうと金網の中に入ったら、奥の方に一匹うずくまってて動かないのがいるじゃない? 近づいて起きろーってつついたら、首がなかったんだよ。小学校五年生だぜ。トラウマものだよ」
「それが、ユキっていうウサギだったんですか」
俺が口を挟むと、二人は頷いた。
確かにそれはトラウマになりそうだ。横たわる首のないウサギの白い身体を頭の中に思い浮かべ、俺は鳥肌が立った。
「全部白いウサギだったんだろ。よくどいつがどいつとか分かるな」
同じ二回生の先輩が横からちゃちゃを入れた。
するとそこは二人とも息を合わせて反論するのだった。
「お前、ウサギの飼育係やったことないだろ。あれで一匹一匹顔が微妙に違うんだ。ちょっと太いやつもいたし。ルルみたいに耳の形が変なやつだっているんだ」
「俺も全部覚えてたなあ。ウサギの顔と名前は一致してたぞ」
川村さんが小松さんの後を受けてそう言う。
「もうちょっと詳しく聞かせてもらっていいですか」
僕は首狩り事件とルルの亡霊のことが気になって、話の続きを促した。
まとめると、こういうことになるようだ。
295: ウサギ ◆LaKVRye0d.:2017/3/6(月) 04:24:46 ID:gnmyXvpANA
◆
最初の首狩り事件があったのは、小学校五年生の秋。
ユキという名前のウサギが夜のうちに落し金をあげて飼育小屋に侵入した何者かに首を切り取られ、死体として発見された。
発見者は飼育係だった川村さん。
騒ぎになったが、死体はすぐに用務員によって片付けられ、本格的な犯人探しも行われなかった。
二度目の事件はその一ヶ月後に起きた。ララという名前のウサギが、一度目の事件と同じく夜のうちに首を狩られて殺されていた。発見者は飼育係だった田辺という名前の女子生徒だった。
さすがにことの深刻さに気づいた学校側は、いのちの尊さを諭す授業などを取り入れて生徒たちを疑いつつ、PTAに向けては周辺の不審者対策のため職員による見回りを増やしたことを訴え、また父母による生徒の登下校の見守り強化をお願いした。
そして飼育小屋の鍵も、誰でも開けられる落し金から、数字錠に換えられた。
なにごとも起こらないまま、事態も沈静化していくかと思われた矢先の一ヶ月後、三度目の事件が起きた。
松野という名前の男子生徒が飼育係の割り当てだったその日、朝のエサをやろうと飼育小屋にやって来た時、ルルというウサギの首なし死体を金網の中で発見したのだった。
数字錠は開けられ、扉の金具に引っかけられただけの状態だった。
数字錠が開けられていたことから、番号を知っていた飼育係や関係の職員が疑われたが、生徒のイタズラで金具の裏に開錠のナンバーが小さく書かれていたことが分かって、それもうやむやになってしまった。
いずれの事件でも共通しているのは、日替わりの飼育係が第一発見者だったことと、犯人が見つからなかったこと。
そして、ユキ、ララ、ルルと続いた被害ウサギの首がすべて持ち去られていたことだった。
結局、事件は三度目で終息したようで、それ以上ウサギが減ることもなかった。
ただ、三度目の事件のあと二、三週間くらい経ったころに、殺されたはずのルルの亡霊を見た、という生徒が何人か現れて、子どもたちの間に軽いパニックを巻き起こしていた。
どれも草むらなどで遠目に見ただけというあやふやな目撃談だったが、そんな異常な事件が続いた後だっただけに、子どもたちは怖がった。
教師たちに叱られても、しばらくそんな噂が尾ひれをつけながらまことしやかに流れていたが、六年生に上がるころにはやがてそれもいつの間にか忘れ去られていった。
296: ウサギ ◆LaKVRye0d.:2017/3/6(月) 04:29:48 ID:gnmyXvpANA
◆
「ルルの亡霊に首はあったかな」
川村さんと小松さんの思い出話がひと段落ついたころ、じっと聞いていた大学院生の先輩が口を開いた。
「首、ですか」
亡霊を見たという小松さんが眉根を寄せたが、すぐに返事をした。
「ありましたよ。耳の形でルルだってわかったし」
「どんな形?」
「右の耳が、こう、外に開いててデカく見えるんですよ。あと、その右耳の先が少し切れてて二股みたいになってました」
「ふうん」
訊ねた先輩はそう頷きながら、テーブルの大皿から枝豆を取り分ける。
俺はその人の顔色を伺う。明らかに何か思いついた時の顔だった。俺のオカルト道の師匠だ。こういう怪談じみた話が大好きで、いつもは喜んで蒐集するのだが、この時は少し様子が違っていた。
「そんな事件の後なのに、首なしウサギの亡霊って話にならなかったのは不思議だね」
何か含みを持ったような言い方だった。それを感じ取った小松さんが、「どういうことですか」と訊ねる。
「いや、子どもって、やっぱりそういう噂が好きだからね。首なしウサギの亡霊って、いかにもな話じゃないか」
「だから、噂とかじゃなくて僕は本当に見たんですって」
師匠はテーブルを叩いて力説する小松さんをなだめにかかる。
「まあまあ。それを嘘とは言ってないよ。他の子も何人か見たんだろう。首なしウサギの話をする子はいなかったかな」
「いませんでした」
小松さんが答えると、川村さんが「でも、俺首なしウサギのお化けの噂も聞いたことあるぞ」と言った。
「それ、六年生になってからだろう。見てもないやつが調子に乗って言ってただけだって」
その小松さんの反論を聞いてから、師匠はゆっくりと頷いた。
「噂が伝播する流れを考えると、どうやら最初の目撃が真実のようだね。首なしという、その事件の因果にふさわしい姿が噂の中に現れるのが後半からだったということは、前半の目撃談は、因果の物語というよりも、むしろ観察の結果という即物的なものだったということが推測できる」
師匠の言葉を聞いていたその場の全員が狐につままれたような顔をしていた。
「それって、市内の南の方の小学校?」と師匠が尋ねた。
「そうス」
「最初の首狩り事件の時、ユキというウサギの死体の第一発見者は川村君だったね」
「はい。そうスけど」
「どうして首がなかったのに、それがユキの死体だと分かった?」
師匠に訊かれ、川村さんは少し考える仕草をした。
「それは…… 俺、全部のウサギの区別がついたから、ユキがいないって気づいて……」
「死体を見てユキだと分かったんじゃないんだね」
「まあ、はい。確か一匹だけデブがいましたけど、他はわりと同じような体格だったから」
「つまり、顔で区別していたと」
「あと、耳ですね。よく仲間同士で喧嘩してたから耳がちょっと切れてるやつが多かったんで」
「ふん。首がなくなってたからユキかどうかはすぐに分からなかったけど、他のウサギが全部いたから、消去法で殺されたのはユキだと分かったと。なるほど。じゃあ二度目の事件の…… なんだっけ、ララだっけ。そのララの時はどうだった?」
「ええと、確か、その日の飼育係の田辺さんが朝からララが殺されたって騒いでて、飼育小屋に行ったら、実際ララ以外全部揃ってたんですよ」
「ララもその一匹いたっていうデブウサギじゃないんだね」
「デブいやつはサニーとか、そんな名前のやつでした。そいつは最後まで無事でしたけど」
「ということは、やっぱりその時も殺されたのはララだと消去法で分かったと」
師匠は一人満足げに頷いている。
297: ウサギ ◆LaKVRye0d.:2017/3/6(月) 04:32:34 ID:j8TyQ/9PDE
「三度目の事件は?」
「同じですよ。その日の係の松野って子が、朝のエサをやろうとしたら首なし死体が転がってて、ルルが殺されたって言って半狂乱で喚いてました」
「それも消去法で?」
「そうです」と今度は小松さんが頷いた。「僕も朝から駆けつけましたけど、ルルの耳は大きいし目立ちましたから、あの耳が小屋の中に見えなかった時点で、あ、ルルがやられた、って分かりました」
「ふうん」
師匠は大きく頷くと、自分に集まっている注目を平然と無視して目の前の皿の唐揚げにかぶりついた。
咀嚼しているのをみんな見ているが、妙な空気が漂っていた。一度聞いた話を再度詳しく聞いただけだったが、なんのためのやりとだったのか、誰も分からないのだ。
「ちょっと」
俺は隣の席にいた師匠の服を引っ張った。
「なんだ」
「なんだって、そっちがなんなんですか。消去法がどうとか、それがどうしたっていうんです?」
小声で問い詰めると、師匠はおしぼりで口を拭い、あっけらかんとした口調でこう言うのだ。
「だから、ルルは殺されてなかったって話でしょ」
「はあ?」
その場の何人かの口から同じような響きの声が漏れた。
「簡単な話だよ。一度目の首狩り事件で、犯人はあらかじめ用意していたウサギの首なし死体を飼育小屋に投げ込んだんだ。そうしてユキを攫った。ユキがいないのに気づいた川村君が、ユキが殺されたって騒ぐ。そして二度目の事件では直前に首を切り取っておいたユキの死体を飼育小屋に入れて、ララを攫った。そしたら飼育係の田辺さんがララが殺されたって騒ぐ。三度目も同じことで、攫っておいたララの首を切り取ってから飼育小屋に放り込んで、代わりにルルを攫った」
唖然とするみんなの前で、師匠は淡々と、まるで見てきたような口調で語った。
298: ウサギ ◆LaKVRye0d.:2017/3/6(月) 04:35:29 ID:gnmyXvpANA
「そこで事件は止まったから、ルルは死んでなかったし、亡霊と騒がれたのは生きてるルルを見ただけ」
師匠は当たり前のようにそう言って枝豆を口に放り込みながらビールジョッキを傾けた。
「ちょっと待ってください。そんなことって……」
小松さんと川村さんが揃って絶句する。
それを横目に酔った何人かが、「わけわかんね」と言って顔を見合わせて笑っている。
「首がないんじゃ、どのウサギが殺されたのか、消去法で判断するしかなかったんだろう? それを逆手に取られたんだよ」
そこで、小松さんが何かに気づいたように身を乗り出した。
「じゃあ、じゃあ、最初のユキの時、あらかじめ用意していたウサギの首なし死体っていうのは……」
「そう。自分で言ってたじゃない。事件の発端はマリーが攫われたことだって」
「最初の首なし死体は、マリーのものだったんですか!」
師匠はつまらなそうに頷くと、「たぶんね」と言った。
「なんでそんな入れ替えなんてことがわかるんですか」
川村さんが納得いかない表情でなおも食い下がる。すると師匠は急に自分の向かいの席でテーブルにつっぷして寝ていた仲間の肩を叩いた。
「起きろーっ」
んが?
叩かれたその男は涎を垂らしながら顔を上げた。師匠はその間抜け面を見ながら、話を続ける。
「最初の事件の時、川村君が朝ウサギにエサをあげようとして飼育小屋に入った時に、同じことを言ったんだろ。『起きろーっ』って」
川村さんは訝しげにしながらも「そうですけど」と言った。
「そんなことを言いながら近づいて、うずくまっているウサギの身体をつつくまで首が切り取られていることに気がつかなかったってことはさ」
師匠はテーブルについた涎の跡を指さしながら言った。
「血がぶちまけられてないよね」
あ。
川村さんからそんな呟きがこぼれた。
「首を切り取られてるのに、血がほとんど出ていなかった。ということは、首切りの犯行現場はその飼育小屋じゃないし、おそらく学校内ですらない。どこか別の場所で首を切って、その死体を飼育小屋に持ち込んだというなら、殺されたのはその飼育小屋にいたウサギじゃなくてもいいじゃないか。例えば、一ヶ月前に小屋から攫ってこっそり自宅で飼っていたマリーって名前のウサギでも」
ま、あくまで推測の域を出ないけど。
299: ウサギ ◆LaKVRye0d.:2017/3/6(月) 04:37:10 ID:j8TyQ/9PDE
師匠はニヤニヤと笑いながら、唖然としている小松さんの方へ向き直った。
「後は前の事件で攫って飼っていたウサギを犯行の直前に殺し、次のウサギと入れ替えるってことを繰り返していたわけだ。で、たぶん三度目の事件の時に攫ったルルに逃げられるかして、それを生徒に見られ、亡霊の噂が立ち、犯人はそこで犯行を止めた」
そんなところだろう。
そう言って締めくくった師匠をみんな気持ち悪いものでも見るような目で見つめていた。
◆
飲み会がお開きになってから、俺は外で師匠を捕まえて訊ねた。
「途中で、市内の南の方の小学校かって訊いてたでしょう」
「ああ。そうだよ」
「知ってたんですか」
俺は疑っていた。えらそうに推理を披露していたが、この人は最初からその事件のことを詳しく知っていた可能性がある。全部知っていながら回りくどく、そしてまるで自分の手柄のように推理を開陳していたのではないか。そう思ったのだ。
しかし師匠ははぐらかすように笑う。
「知らないよ」
その言葉をそのまま信用できるはずもなかった。むしろ真犯人の可能性だってあるのだ。
思い切ってそういう言葉をぶつけると、師匠は鼻で笑った。
「僕はそのころまだ県外だってば。地元出身じゃないんだから。知ってるだろう」
馬鹿にするようにそう言った後で、ふいに声を落とした。
「南の方でね、見たことがあるんだよ」
その様子があまりに真剣に映ったので、俺まで声を落とした。
「見たって、なにをです」
「何年前だったかな。そのあたりを散策してたら、道端でね。見たんだ。そうだな、見た目は四十歳くらいだったかな。服装もこざっぱりしていて、普通のどこにでもいるようなおじさんだった。でもね、その人が歩いている後ろから、ウサギの首がわらわらついて来てるんだ。もちろんこの世のものじゃないよ。見えてたのは僕だけだろう。百匹とか、二百匹とか、そんな数のウサギの首が、首だけが、這いずりながらおじさんの歩くすぐ後ろをついて来ていた。おじさんも全然気づいてない。今思い出してもぞっとする光景だね」
それを聞かされた僕も想像してしまい、腹に詰め込んだビールを吐きそうになる。
「ウサギの亡霊って聞いて、あれかな、と思ったんだよ」
師匠は声を落としたまま囁いた。
「僕が見たそいつが犯人だとしたら、首なしウサギの亡霊が出たなんて噂は、見間違いかなにかに決まってる」
首の亡霊がそっちにいるのに、胴体の方の亡霊が別の場所に出ているとしたら、僕はむしろそのことの方が怖いね。
そう言ってニヤリと笑うのだった。
(完)
300: 1 ◆LaKVRye0d.:2017/3/6(月) 04:39:00 ID:j8TyQ/9PDE
いつも有難うございます
今日は、以上です
【了】
301: 1 ◆LaKVRye0d.:2017/3/11(土) 23:41:59 ID:.b2ry9Rk3M
前回から少し間が空いてしまい申し訳ありません
今夜も2話投下します。宜しくお付き合い下さいませ
302: 医者の話 ◆LaKVRye0d.:2017/3/11(土) 23:44:37 ID:.b2ry9Rk3M
『医者の話』
師匠から聞いた話だ。
大学2回生の夏。
僕はオカルト道の師匠である加奈子さんに連れられて、ある豪邸の前に来ていた。
「医者に会いに行く」
と言っていたので、バイトをしている興信所とズブズブに繋がっている、松崎という闇医者(闇医者の定義はよく知らないが、僕のなかでは完全にそうだった)のところに行くのかと思っていた。
しかし、僕の運転する自転車の後輪に立ち乗りをして、あっちに行け、こっちに行けという指示を出している師匠に従っていると、だんだんと高級住宅街のほうへ向かうではないか。
もちろん松崎医師の診療所の方角とは違う。
そう思っていると、ふとつい先日あった、小人を見る人が増えている、という謎を追っていたときの出来事を思い出した。
大学病院に潜入したとき、いつも迷惑をかけている看護婦の野村さんがこんなことを言っていた。
『そう言えばあなた、最近また検査をさぼってるでしょう。真下先生も心配してるんだから、ちゃんと受診しなさい』
あのときも気になっていたが、詳しく訊こうとしてもはぐらかされて、師匠は答えてくれなかった。
自分の体のことを。
なにか持病があって、病院にかかっているのだろうか?
いつも必要以上に元気で、エネルギーに満ち溢れている加奈子さんが、いったいなんの病気なんだろう。
確かに食生活は、生活費困窮問題もあり、いいとは言えないが、そんなものをものともしない日ごろの健康優良ぶりを見ていると、まあ、心配するようなことではないか、と思ってしまう。
しかし、ときに垣間見る、いつもと違う横顔。精気がない…… いや、精気が失われていくような、妖しい魅力を秘めた横顔を思い出すたび、小さな不安が胸のなかで育っているのを感じるのだった。
303: 医者の話 ◆LaKVRye0d.:2017/3/11(土) 23:46:39 ID:igNubrZ3Ko
「ここだ」
師匠の言葉に、自転車のブレーキをかける。
閑静な住宅街で、自分ではほとんど通ることがない。大きな家が並んでいて、あの辺りにはお金持ちが住んでいる、という印象しかない。
目の前に延びる、高い石塀に取り付けられた表札を見ると、『鹿田』とある。
「鹿田実(シカタ ミノル)って言って、去年退官した、うちの大学の元医学部教授だよ。医学部長だった人だ」
そう言えば、そんな名前を聞いたことがあるような気がする。
というか、師匠はそんな人とも面識があるのか?
うちの大学の医学部は、近隣の県の医学界では非常に影響力を持っていて、うちの大学から医師の派遣を受けられるかどうかで、その他多くの病院の命運が決まる、というのを聞いたことがある。
当然、各地域の医学界では、うちの大学派閥が幅を利かせていて、他の大学の医学部でも、トップ人事に関しては常にうちの大学の出身者かどうかが考慮される、という話だった。
医学部長といえば、医学部のトップだ。大学付属病院の院長とどっちが偉いのかは知らないが、とにかく、このあたり一帯の医学界では頂点とも言える位置にいた人、ということなのだろう。
師匠はどうしたらそんなに、と唖然としてしまうほど、他学部の教授、助教授に顔が利く。人たらし、という言葉があるが、まさにそれを地で行く人だった。
この僕にしたところで、初めて会ったときから、ずっとたらされている。
304: 医者の話 ◆LaKVRye0d.:2017/3/11(土) 23:52:08 ID:igNubrZ3Ko
「あれー? 洗濯物出てないなあ。約束しといたのに。いるかな」
師匠は目深にかぶっていたキャップの先を人差し指で上げて、眩しそうに豪邸の2階を眺めた。今日は日射しのとても強い、いい天気だった。
玄関の門の向こうに広い庭が見えていて、鮮やかな色の芝生が敷き詰められている。
医者は儲かるんだな、と至極つまらない感想が頭に浮かんだ。
チャイムを鳴らすと、インターホンから低い声が聞こえて来た。
『入りなさい』
ガチャン、という音がして、重そうな門の鍵が開いた。遠隔操作できるのか。
2枚になっている格子戸のような門の片方を押して、敷地のなかに入った。
芝生の間に延びる道を通って、本玄関までたどり着くと、なかからドアが開いた。
「久しぶりだな」
背の高い老人が現われ、響くような低い声で師匠に話しかけてきた。
これが鹿田教授か。いや、もう退官しているのだから、鹿田博士というべきかも知れない。
「ご無沙汰していました」
師匠は深々と頭を下げた。まるで怒られているようだった。
「君はだれかね」
え、僕ですか。
うろたえながら、金魚のフンです、と言おうとして思いとどまり、結局「後輩です」と無難なことを言った。
博士は小さく鼻息を吐いたかと思うと、師匠と僕とを見比べてから、「よかろう」と言った。
「来たまえ」
そうして、僕たちは豪邸のなかに招き入れられた。
応接室に通されて、しばらく待っていると、家政婦らしい若い女性が飲みものを持ってきた。僕と師匠は2人ともコーヒーを頼んだ。なかなかの味だった。
305: 医者の話 ◆LaKVRye0d.:2017/3/11(土) 23:55:46 ID:.b2ry9Rk3M
コーヒーを飲み終わるころ、鹿田博士がようやく応接室に入ってきた。
「待たせてすまんな。一区切りをつけていた」
解剖か実験か、なにかそんなことをしていたのだろうか、と思ったが、服装は白衣ではなく、さっきと同じ白い開襟シャツとズボンという格好だった。ということは、書き物かなにかだろう。
「野村君から、話は聞いているぞ。検査に来ていないそうだな」
鹿田博士がそう言いながら僕らの向いのソファに腰掛けると、また家政婦の女性が応接室に入ってきて、博士の前にカップを置いていった。紅茶だった。
「信用ができない」
師匠は握った右の拳を、左の手のひらで包んでそう言った。
「どういうことだ」
「真下先生に、私の体をいじらせたくない」
師匠のその言葉に僕はドキリとする。私の体、という言葉にだ。
「真下君は私の良き教え子だ」
鹿田博士はカップを置いて、ソファに深く腰掛け直した。
「私だと思って、検査を受けなさい」
諭すような鹿田博士の言葉に、師匠は黙った。僕はその横で、いったいなんの話をしているのだろうか、とドキドキしていた。
鹿田博士は鷲鼻で、彫りの深い顔立ちをしている。その鋭い目で射竦められると、肉食獣に睨まれた小動物のような気持ちになってしまいそうだった。
物腰や口調は紳士的ではあったが、どこか威圧的な男だった。年齢相応に老人と呼ぶにはあまりに油断ならない、そんな雰囲気を持っていた。
師匠はそんな鹿田博士の視線を真っ向から受け止めて、口を開いた。
「私の主治医は、鹿田教授だけだ」
「そう言ってもらえるのは嬉しいが、私はもう一線を退いた身だ。日がな一日、好きな本を読んでいるだけの老人だよ」
「鹿田総合病院の理事長が、隠居職ですか」
「そうとも。入り婿に用意された最後の椅子だ。せいぜいゆっくり座らせてもらうとしよう」
「私の主治医は、それでも鹿田教授だけですよ。なぜなら、ほかの医者なら、私を病気だと診断しないからです」
306: 医者の話 ◆LaKVRye0d.:2017/3/11(土) 23:59:02 ID:.b2ry9Rk3M
「どういう意味かね」
「わかるでしょう」
師匠は緊張した面持ちで鹿田博士の顔を見つめた。
博士はため息をついて、僕のほうを見た。
「彼は知っているのかね」
「さあ。なにしろ鈍感なやつですから」
そんな話をされても、なんのことかさっぱりわからない。蚊帳の外に置かれて、気持ちが悪かった。
「どういうことですか」
「こういうことだよ」
僕の問い掛けに、師匠は短くそう言うと、テーブルの上にあった重そうなガラスの灰皿を掴んだ。そしてそれを振り上げた瞬間、鹿田博士が鋭い声を上げる。
「やめたまえ」
その声に師匠がぴたりと静止する。そして苦笑いを浮かべて、「冗談ですよ」と言って、振り上げた灰皿を下ろした。
そのやりとりの意味もわからない僕は、うろたえるばかりだった。
「検査は継続して受けなさい。これからも、できるだけの便宜は図るつもりだ」
博士は、便宜、という言葉を強調するように言った。
師匠にはわかる符牒なのだろう。しかし、師匠は首を振った。
「真下先生は信用できない」
「なぜそう思うのだ」
博士が問い掛けると、師匠は少し黙った。そしてしばらくして、まったく違うことを口にした。
「角南グループってのは、本当に力を持っているんですね。春にちょっとしたことがあって、いろいろ調べていたんですけど。本業の建設会社以外にも、物流や教育分野なんかにも、手を広げている。いわゆる地方財閥だ。ウソか本当か知りませんが、GHQから財閥解体指令を受けるリストから、最後の最後で漏れたとかなんとか…… とにかく、庶民には全体像の把握すら難しい大資本です。そのグループ企業のなかに、うちの医学部とは深い繋がりのある、ヤクモ製薬がありますね」
CMでよく耳にする名前だ。ヤクモ製薬とは、市内に本社を構える製薬会社だ。いわゆる全国企業ではないが、地元では有名な会社だった。
「ヤクモ製薬は、うちの大学の医学部の大スポンサーだ。どの研究室だって、ヤクモの出資や補助金なしではやっていけない。金だけじゃない。人の交流も含めて、ヤクモと医学部、そして大学病院は不可分の関係です。その関係は、近隣のほかの病院や研究機関、他大学の医学部のなかの派閥にも影響を与えています。医師会の構成にもね」
師匠の意味ありげな目つきに、鹿田博士はやれやれ、といった表情を浮かべる。
307: 医者の話 ◆LaKVRye0d.:2017/3/12(日) 00:01:34 ID:igNubrZ3Ko
「教授は東大医学部出身ですよね。うちでは外様だ。そして、鹿田総合病院を抱える、医療法人鹿鳴会グループの会長の娘婿として、大きな名声と力と金を持って、医学部内の権力闘争に勝った。これはヤクモ記念病院を筆頭に、大小たくさんの系列病院を持つ、医療法人ヤクモ会と、鹿鳴会の代理戦争だ。鹿田教授が医学部長の席についてから、うちの大学や大学病院も多少ヤクモとの距離を置きましたね。県外資本がかなり入ったと聞きました。それでも、ヤクモがうちの医学部の、『筆頭株主』だってことは揺るぎません。医学部のトップにヤクモの息がかかっていない、というのは、鹿田教授という特異な人物がいたからこそ生まれた、一時的な現象に過ぎない。そうでしょう?」
「……医学部の内情のことまで、よく調べたものだ」
「教授の退官後は、またヤクモとべったりの医学部長になりましたね。大学病院の院長も即交代でした。ここからはまた、ヤクモの一方的な巻き返しの時間です。さて、免疫病理学の権威だった鹿田教授の薫陶を受け、病理部長に登りつめた真下助教授……いえ、もう教授でしたね。その彼が、鹿田教授という後ろ盾を失った今、学内でどんな立場にいるか、ご存知ですか」
「なにが言いたいのだね」
「ヤクモにしっぽを振り始めるのに、十分な条件が揃ってるってことです」
「……彼は今も私の優れた教え子だ。医学部長の井坂君も、バランス感覚を持った人物だ。どこで訊き込んだのかわからないが、君は組織内のゴシップを真に受けすぎている」
「私の回りに、どうにも気に食わない動きをしているやつがいるんですよ。春にあった、ちょっとした事件で例の角南グループの角南家と関わりを持ってしまいましたが、その関連だと思っていたんですけどね。ヤクモ製薬が角南家の意向を受ける立場にある、とすると、その絵面がもう少し複雑になるんですよ」
鹿田博士は、淡々と語る師匠をじっと見つめている。
「私の『病気』のデータが、渡ってしまっている可能性があるってことです」
「そんなはずはない」
鹿田博士の静かな返答に、師匠は一瞬、悲しそうな表情を浮かべた。
「もうあそこは、あなたの城じゃないんです」
「……」
その言葉を吟味するように押し黙った博士は、やがてゆっくりと口を開いた。
308: 医者の話 ◆LaKVRye0d.:2017/3/12(日) 00:05:15 ID:.b2ry9Rk3M
「君の不安はわかった。そうならないようにしよう。データもこちらに完全に引き上げる。これからは、検査も大学病院へ行かなくていい。ここへ来たまえ。私が診る」
その言葉に、師匠は嬉しそうに頷いた。
「ありがとうございます」
鹿田博士はソファに背中を預けて、深く息をついた。
「君という患者と出会ってから、どのくらいになるかな。まだほんの子どもだったのに、今ではもう、私をやり込めるようになったか。この歳になると、時の流れの加速を感じざるを得ないよ。看護婦の野村君が、わけのわからないことをまくしたてながら、この手を無理やり引っ張って、引き合わせてくれたのが、私にはまるで昨日のことのようだ」
博士はじっと自分の手を見つめている。
細く長い指をしていた。雰囲気に飲まれていた僕には、その指を含む手のひら全体が、1つの芸術品のように見えた。
「教えてください、教授」
「私はもう教授ではないよ」
「名誉教授になったんじゃないんですか」
「そんな呼称に、たいした意味はない」
「とにかく、お聞かせください。次の衆院選は、来年ですよね」
「解散がなければ、再来年だ」
「あるでしょう。これでも新聞はよく読むんです。その来年にあるはずの衆院選には、角南家の御曹司が出るという噂を聞きました。2区で。それは医療法人ヤクモ会の現理事長、角南大輝のことですか」
「なぜ私に訊くのだ」
「教授は、医学科長だった時期に、県医師会の理事をしていたそうですね。大学からのお目付け役として、送り込まれていた。そして、大学を退官し、鹿田総合病院の理事長に就任した今、再び県医師会の理事の職についている。そして来年にはもう県医師会のトップの席に座る、という噂を聞きましたよ」
「そんな噂は初耳だな。理事にしても、めんどうな世話役を押し付けられただけだ。医学部長時代の横紙破りが、今になって色々祟ってきているのだ」
「どんなに謙遜しても、県医師会の理事長の座は、1つの権威です。それも強大な実体を伴った。……衆院選を来年に控え、医療法人を出身母体にした新人候補が、医療、福祉系の大票田である県医師会の事実上のトップに、挨拶をするのは当然でしょう」
「立場的には、仇敵とも言える間柄なのだがね」
「だからこそです。角南大輝は、2区の王にして首相候補とも言われる代議士のHに勝つために送り込まれる刺客だ、という噂です。県医師会は前回の選挙ではHの支援に回りました。その陰には、ヤクモ会が、つまり角南家の力が働いていたことは周知の事実です。その角南家が、今度は自ら候補を立ててきた。Hから県医師会を引き剥がすために、ドロドロの策謀が繰り広げられることは、想像に難くありません。どんな手でも使うでしょうね。たとえ仇敵に、塩を送ることになっても」
309: 医者の話 ◆LaKVRye0d.:2017/3/12(日) 00:08:13 ID:.b2ry9Rk3M
博士はやれやれ、というジェスチャーをしてため息をついた。
「女子三日会わざれば、即ち更に刮目して相待つべし、か。いっぱしのジャーナリスト気取りかね。私は、隠居した老人だよ。静かに本を読んでいたいだけの」
「これは私のカンです。ヤクモ会の角南大輝は、いえ、角南家はどこかキナ臭い。関わらないほうがいい。それをビンビン感じるんですよ」
博士はすく、と立ち上がった。
「さあ、もうおしゃべりは終わりだ。政治家である前に、私は医師だ。君の主治医だ。違うかね」
来なさい。
博士はそう言って、廊下の向こうへ着いてくるようにと、師匠を促した。
生まれついて、人に命令を与えることが体に染み付いたかのような、そんな威厳があった。
別室で検査をするらしい。
小一時間、応接室で1人待たされて、僕はなにがなんだかわからない不安に苛まれていた。
鹿田博士と一緒に戻ってきた師匠は、いつもと変わらない様子だったが、博士のほうの顔色は曇っているようにも見えた。
「待たせたな。帰ろうか」
そう言って帰り支度をする師匠をちらりと見てから、博士は僕に話しかけてきた。
「君は、彼女のパートナーかね」
パートナー?
その奥深い言葉の意味を図りかねて、答えられずにいると、博士は続けた。
「性交は控えたまえ」
はい?
今日一番の衝撃に、瞳孔が広がりそうになった。
「ちょ、ちょっとなに言ってんの教授。人を性病みたいに言わないでよ」
師匠が慌てた様子でまくしたてる。
「命に関わる、と言っているんだ」
真剣な表情で、博士は師匠をたしなめた。
「違うからな。そういう病気じゃないから」と師匠は早口で僕に言ったあと、「やめてよ教授。こいつ、そういうんじゃないし。弟みたいなやつなんだ」と身振り手振りで訴えた。
せいこうはひかえたまえ。
せいこうは。
せいこう。
せいこう。
……
そんなやりとりの横で、僕の頭のなかには、その言葉だけが何度もリフレインされていた。
310: 医者の話 ◆LaKVRye0d.:2017/3/12(日) 00:13:05 ID:igNubrZ3Ko
◆
「ちょっと、待ってください。加奈子さんって、エイ……」
人体の免疫機構にかかわる病名を言おうとして、口ごもった。
なんだか、はばかられて。
師匠の過去の話を聞いていた俺だったが、思わず口を挟んでしまった。それも中途半端に。
話の腰を折られた師匠は、回想に身が入り過ぎていたことに気がついたのか、恥ずかしそうに居住まいを正した。
「違うよ。本当に、そういう病気じゃなかった。というか、むしろ……」
師匠はそう言いかけて、言葉を見繕うような顔をした。
「むしろ、それを病気と呼べるかどうか疑問だね。本人自身が、ほかの医師ならそう診断しない、と言ったように」
「どういうことですか」
俺の問い掛けに、師匠はすぐ答えなかった。
しばらく目を閉じて、なにかを思い出そうとしていた。
そして目を開けたかと思うと、なにやら難しい話を始めた。
「鹿田博士って人は、もう亡くなってしまったんだけど、凄い人だったらしい。僕の師匠は、権力抗争だの、政治力だの、そんなことばかり強調して言っていたけど、医師として、そして研究者としても立派な実績を残している。大学の付属機関だった病理学研究センターの所長もしていて、免疫病理学の世界では大変な権威だったそうだ。博士は、細胞診の基本的な染色法であるパパニコロウ染色を改良して、僕の師匠の検体を調べていた。シュプライト染色、と名づけていたそうだよ。『シュプライト』は妖精という意味だね。元になったパパニコロウ染色ってのは、基本的に細胞核を青藍色に、細胞質を朱色、橙色、緑色に染め分けて、調べる手法だ。ところが、僕の師匠の検体に含まれるある物質が、従来の染色法になじまないために、わざわざ研究して確立したのが、そのシュプライト染色だ」
「なんですか、その、ある物質って」
師匠は、そうだな、と言ってどこまで言おうか吟味しているような顔をした。
「細胞のなかに、普段は普通の細胞として働いているけど、ある瞬間を境に、まったく別のものに変質する細胞があったんだ。博士は、その細胞の正体を調べるため、シュプライト染色を施したんだけど…… 特定の細胞のなかにだけ、青黒く染まる奇妙な細胞質が存在していることに気づいた。博士はその細胞質をシュプライト変異体と名づけた。博士は、その変異体の性質を徹底的に調べ上げた。その結果、これは現代医学における『エラー』だと言ったそうだ。そうしてそれ以上の研究を放棄した。もちろん学会での発表はおろか、学内でも秘匿していた」
「エラー、ですか」
俺は、きょとんとしてオウム返しをした。
師匠は頷いて続ける。
「まるで夜のような色に染まるその細胞質を含む、特定の細胞群…… その細胞を博士は、夜の細胞、『Night Cell』と呼んでいた」
ナイト・セル。
なんだか、教育テレビの科学講座を見ているような気持ちになる。小難しい話だ。
「よくわかりませんが、それが加奈子さんの病気と、どういう関係があるんですか」
「だから、それを病気と呼んでいいのかもわからないんだって」
「だったらなんなんですか」
師匠はその問いに、はぐからかすような薄ら笑いを浮かべたあと、ぽつりと言った。
「特異体質」
(完)
311: MMO ◆LaKVRye0d.:2017/3/12(日) 00:16:30 ID:.b2ry9Rk3M
『MMO』
大学6回生の春だった。
そのころ俺はオンラインゲームにはまっていた。
単位が足らず、卒業が延びに延びていたが、去年それなりに頑張ったおかげで目処がつき、大学生活最後の1年は好きなだけゴロゴロしようと心に決めていた。
趣味だったパチンコも真剣にやれば生活費くらいなら稼げるようになったので、バイトもやめた。大学の研究室は、卒論のために顔は出していたが、指導教官と最低限のやりとりをするだけで、後輩連中などろくに顔も覚えていない有り様だった。
とにかく2年も卒業が遅れると、知り合いや友人が格段に周囲から消える。所属サークルは元々足が遠のいていたし、去年あたりからなぜか女子部員がやたら増えて、かつてのもっさりした雰囲気がすっかり変わってしまっていた。 何度か顔を出したが、居場所のなさを痛感して、ここも自然に足は遠のいた。
ネットのオカルト系フォーラムにもまったく関わらなくなっていたし、あれほど参加していたオフ会も今ではあるのかすらわからない。
かくして立派な引きこもりの誕生だ。
その生活を如実に表す、当時手遊びに書いた詩の一部を紹介しよう。
…………
ドアを乱暴に閉め
僕は真っ先に台所の蛇口をひねる
パチンコ屋でしみついたタバコの匂い
喧騒に包まれた冒険を終え
懐にはささやかな勝利と
つめこんだ寿司とがある
僕は一心に手を洗う
毎日はアメーバのようだ
懐の勝利は明日には消え
寿司は明後日には出て行く
…………
その、アメーバのような毎日に突然訪れた、新しい世界が『MMORPG』大規模多人数型オンラインRPG。いわゆるネットゲーム、オンラインゲームだった。
312: MMO ◆LaKVRye0d.:2017/3/12(日) 00:20:02 ID:igNubrZ3Ko
5回生の秋ごろに、情報収集のため、ネット掲示板2ちゃんねるのパチンコ・パチスロ板を徘徊していると、『こんなクソ台より、ネトゲやれ』という書き込みとともに、オンラインゲームの公式サイトのアドレスが貼られていた。
なにげなくクリックしたのが、結果としてまさかこんなことになろうとは……
どハマリした。
元々テレビゲームのRPGは好きで、子どものころからよくやっていたが、町にいるキャラクターたちがみんな、自分と同じ生きた人間が動かしている世界という、引きこもりには夢のような仮想空間がそこにあったのだ。
家から出ることなくだれかと会話し、冒険し、楽しげな企てに参加することができる。そんなオンラインゲームは、絶賛留年中の大学生の膨大なヒマと人恋しさを、無尽蔵に吸い取り続けた。
俺がGと呼んでいたそのMMOは、日本におけるオンラインゲームの草分け的なゲームで、グラフィックはファミコンに毛が生えた程度だったが、そんなものでも物珍しさにユーザーが大挙してやってきた。
町のすぐ隣のマップでは、ときどき沸いて出てくるスライムに裸のキャラクターたちが群がり、素手で殴りつけてはドロップする棒切れやパンを奪い合って、プレイヤー同士が喧嘩をしていた。
パンや棒を売ってお金を貯め、武器や防具の装備が整った人から順に次のマップの新しいモンスターに戦いを挑みにいった。
自分も裸のキャラが必死でスライムを殴っているところに無理やり割り込み、装備した棒切れで止めを刺して経験値やお金をゲットした。恨まれても気にしなかった。
バッタの群生相を思った。無数の群の中で生まれ、群の中で育つ個体は、気性が荒く、攻撃的になる。そうしないと生きていけないからだ。
313: MMO ◆LaKVRye0d.:2017/3/12(日) 00:22:33 ID:igNubrZ3Ko
寝る前にパソコンの電源を落とし、自分の部屋を振り返ると、さっきまでの喧騒はどこにもなかった。冷え冷えとして、平穏な空間。明かりを消して布団に潜り込み、今日一日ひとことも言葉を発していない自分に気づく。その静けさのなか、密封型ヘッドホンから解放されたはずの頭には、耳鳴りが続いていた。群生相の羽音が。
その音に耳を塞ぎながら、俺はもうあっちの世界に戻りたがっていた。
その噂を初めて聞いたのは、2ちゃんねるのGスレだったと思う。
『平原の洞窟の5階に、幽霊が出る』
そんな噂がまことしやかに語られていた。
大学6回生の春ごろには、Gも当初より実装されたマップも増え、狩場の選択肢が増えたことで人々の集まる場所も分散して人口密度が緩和されていた。
雨後のタケノコのようにギルドが乱立し、運営側ではなくプレイヤーが自発的に宝探しイベントを主催したり、様々な試みがGの世界を広げていた。
平原の洞窟は最初に開通したダンジョンだったが、階層によってモンスターの強さがまったく異なる仕様だった。特にその5階に生息するモンスターはゲームバランス上、異常ともいえる強さで、1対1はおろか、高レベルプレイヤーが束になっても勝てなかった。そんなモンスターがマップ中をうようよしているのだ。
あるとき、当時最強と呼ばれていたギルドのうち2つが手を組み、決死の討伐部隊を差し向けたことがあった。ドロップ覚悟でレアアイテムを装備した戦士や魔法使いが30人以上で平原の洞窟の5階に集まり、戦いを挑んだのだ。狩り場に設定した場所からモンスターの数を減らすための囮部隊が全滅するまでの間に、ブラックドラゴンとエレメンタルを1匹ずつ倒すことに成功したが、得られた経験値とアイテムを吟味した結果、彼らは「狩り場には適さず」と判断を下した。
それ以来、平原の洞窟の5階はモンスターだけが蠢く、無人の空間だった。
そんな場所に『幽霊が出る』という噂があるのだ。
ゲーム内の知り合いにも聞いてみたが、見たことがある、という人がいた。
それらの話を総合すると、平原の洞窟の5階の奥のほうのマップで、見たことのない装備をした戦士系のキャラが1人でたたずんでいるというのだ。それも恐ろしいモンスターがマップ狭しとうろついているなかで。
モンスターはそのキャラに無反応で、固有の敵対テリトリー内に入っても戦闘行動を起さず、あろうことかそのキャラと重なりあってそのまますり抜けていたという。
314: MMO ◆LaKVRye0d.:2017/3/12(日) 00:25:29 ID:.b2ry9Rk3M
『死に跳び』と呼ばれるテクニックがある。ダンジョンで狩りをしてレベルが上がったあと、経験値ダウンのペナルティがない状態で装備を外し、わざとモンスターに殺されることでデメリットなく町の墓場に跳ばされる技だ。町に瞬間移動するアイテムを節約するための技だが、平原の洞窟ではわざわざ5階まで行って死に跳びをする人が結構いた。
どうせ死ぬなら普段は近づけないモンスターにオーバーキルされたい、という変態的な発想だが、その気持ちはわからないでもなかった。
モンスターは殺されて数が減っても一定時間経つと、マップ上のどこかに自動的に沸いてくる。だから普通はモンスターを1つの個体として認識することはないのだが、平原の洞窟の5階の、それも最深部にいるモンスターたちはマップ開通以来、一度も殺されておらず、同じ個体が何ヶ月にもわたって同じ場所でうろついているのだ。実際にはメンテナンスでサーバーが落ちて復旧するときに、新しく沸いたものとしてステータスを再設定されている可能性はあったが、同じモンスターがずっといる、と思った方がロマンティックだ。そんなレジェンド的なモンスターたちに殺されるため、わざわざ回避技術を駆使して最深部へ向かう人が後を絶たなかった。
その知り合いも、装備を落とさないよう裸で最深部まで到達し、モンスターに囲まれて彼らの吐き出す毒煙のエフェクトが画面を覆うなかで、その戦士を見たというのだ。
『立ったままで動かなかったけど、なんか喋ってた』
『なんて?』
『わかんない。文字化けしてた』
短い言葉だったという。
自分がマップに入ってきたのに合わせて話しかけてきた、と知り合いは言った。バグで未実装のグラフィックが貼り付いてるという説もあったが、この「話しかけてきた」という目撃談がいくつかあるために、幽霊などという噂が一人歩きしているのだった。
なんらかの理由でそこに置かれているノンプレイヤーキャラクターだという説もあったが、その話しかけてくるタイミングから、リアルタイムで人間が操作をしているとしか思えないという感想が多かった。
そしてその言葉はほんの一言で短く、しかも文字化けをおこしているというところまでみんな同じだった。
その噂が気になって、2ちゃんねるのGスレや有名プレイヤーのブログなどをいろいろ調べてみたが、幽霊を見たという話はあっても、その場面を保存したスクリーンショットが出てこなかった。
プレイ動画を保存するような文化は、まだない時代だ。しかしスクリーンショットはみんなよく撮っていて、手に入れたレアアイテムの自慢やギルド対戦の結果をそれで報告したりしていた。
なぜ幽霊の画像が出てこないんだろうと不思議に思っていたが、あるプレイヤーのHPの日記を読んでいて、ゾクリとした。そこには、平原の洞窟5階の幽霊に出くわした、という話と、スクリーンショットを撮ったのに、あとで確認すると画像ファイルが壊れていたという話が書き込まれていた。
一枚だけ開けたという画像が貼られていたが、原型をとどめないほど乱れていて、なにが映っているのかまったくわからなかった。
315: MMO ◆LaKVRye0d.:2017/3/12(日) 00:28:14 ID:.b2ry9Rk3M
少し怖くなった。
モンスターに認識されないだとか、すり抜けただとか、それがありえないとは言っても、理由はともかく運営側がそういうものとして特別に設定しているとしたら、不思議でもなんでもない話だ。けれど、PCの機能で保存したものまで壊れているとすると、それは俄然として怪談じみてくる。
オカルトからすっかり離れて、隠者のような生活をしていたのに、こんなところで怪談に出会うとは。
それを思うと自嘲せざるを得なかった。
ある日、平原の洞窟で狩りをしていて、戦士のレベルが上がったので、5階に『死に跳び』をしにいってみることにした。
もちろん幽霊を見てみたかったのだ。噂を聞いてから何度か挑戦してみたが、どうしても途中でモンスターに殺されてしまった。一瞬でも触られたらほぼ即死なのだが、遠距離でもドラゴン系のモンスターの魔法でHPをごっそり持っていかれてしまうのだ。
その日は、死んで落としてしまうことを覚悟で、魔法に耐性のある装備を身につけ、チャレンジした。
真っ暗なマップのなかを、おどろおどろしいBGMが流れている。間違って普通の狩り場にたった1匹でも現われてしまったら、阿鼻叫喚の地獄をもたらすだろう恐ろしい巨大モンスターが、そこには数え切れないほど蠢いている。
モンスターごとの固有のテリトリーを冒さないようギリギリで避けながら、ひたすら奥へ奥へと進んだ。
そのMMOの世界にどっぷり浸かっていた俺は、まるで自分自身がその恐ろしいダンジョンを歩いているような恐怖感を味わいながら、ついに最深部に到達した。
そこはまるで魔王の広間とでもいうべき空間で、壁に囲まれた袋小路だった。巨大な松明のオブジェが並んでいる周囲を、このMMO世界が生まれて以来、一度も死んだことのない魔神たちが歩いている。
316: MMO ◆LaKVRye0d.:2017/3/12(日) 00:31:23 ID:.b2ry9Rk3M
ゾクゾクしながら足を踏み入れると、すぐに彼らに認識され、挨拶代わりの毒のブレスを吐かれた。じわじわHPが削られていくが、毒での即死はない。かまわず突っ込んだその先に、だれかいるのが見えた。
戦士だ。見たことのない剣をもった戦士が、見たことのない鎧を着て立っていた。
シフトキーを押して、名前を確認する。しかし、戦士の下にはなんの文字も表示されなかった。
戦士がなにか喋った。
会話ログに文字化けした短い言葉が残る。逃げ場のない空間で魔神たちに囲まれて、やがてやってくる不可避な死を待つだけの自分には、その文字化けした言葉がまるで呪いの言葉のように思えてゾクリとした。
なにか喋り返そうとしたが、とてもキーボードを叩く余裕はなかった。迫ってくるモンスターたちの射程範囲から、ギリギリで逃げ続ける。名前のない戦士は、まるでそこにいないかのようにモンスターたちから無視されている。
俺は素早くショートカットキーを押し、いつもマクロ登録してある言葉を吐いた。
『遺品よろw』
内容はなんでもよかった。反応が見たかったのだ。
立ったまま動かない戦士は、俺の言葉に返信した。それもやはり文字化けしていたが、さっきよりほんの少し長かった。さっきが一言だとすると、今度は二言。そして、文字化けのなか、語尾に顔文字を思わせるAAの痕跡。
俺は確信した。ノンプレイヤーキャラクターじゃない。そこに、だれかがいる。
次の瞬間、さっきの毒とは比べ物にならない凶悪なブレスを四方八方から浴びせられ、俺は即死した。おそらく10回死んでもお釣りがくるダメージを受けたはずだった。そして……
(お前はだれだ)
暗転する画面を見ながら、俺は幽霊に語りかけていた。
◆
1週間後、俺は珍しく自転車に乗って少し遠出した。JRの線路を越えた先に大きなスーパーがあり、そこは食料品が安いのだ。バイトを辞めた今では、少しでも節約をする必要があった。パンやバナナ、牛乳など、ゲームをしながら片手間に食べられるものばかりを選んで買った。
317: MMO ◆LaKVRye0d.:2017/3/12(日) 00:35:20 ID:.b2ry9Rk3M
完全にオンラインゲームに依存しており、そののめり込みぶりは相当な重症だった。寝ても覚めても考えるのはゲームのことばかりだ。ちかごろはパチンコに行く暇も惜しんで、仮想空間での冒険に没頭していた。
パソコンのある机の前に座ったまま手が届くよう、冷蔵庫の位置を変え、トイレに立つ時間以外は延々とオンラインゲームをプレイしていた。
30時間ほどぶっ通しでプレイすることもしばしばで、疲れ果てて寝るときも目覚まし時計を3時間後に設定して布団に入る徹底振りだった。寝るときはすべて仮眠、が日常のキーワードだった。
その日も、買い込んだ食料を自転車のカゴに乗せ、MMO世界の入り口である部屋へ急いでいた。
我が大学前の通りを抜けるとき、ふと見覚えのある自転車が停まっているのを見つけてペダルをこぐ足を止めた。
そこは学生が集うゲームセンターで、俺も1、2回生のころはよく遊びに来ていたものだ。
もうどのくらい来ていないだろう。アーケードゲームのラインナップも知らないものばかりになっているに違いない。
すぐに出てくるつもりだが、食料を盗まれないように念のため、入り口の自動ドアからよく見える位置に自転車を停め、ゲームセンターのなかに入った。
薄暗い店内で、たくさんの学生たちがたむろしている。メダルゲームやUFOキャッチャーの類を置いていない、割と硬派な店だ。格闘ゲームがメインで、人気台の近くには大勢の若者が囲むようにして対戦を眺めている。
そんな店だから当然のことだが、男ばかりだ。狭い空間に男たちがひしめき合い、仲間内で奇声をあげているやつらもいる。ほとんどなにを言っているのかわからない。少しゲームセンターから離れた身からすると、異様な空間だということを再認識させられる。
「このキスケ、ウソをつく男に見えますか!」
そんな奇声を耳にして、そちらに近づいてみる。ギルティギアという格闘ゲームらしい。人気があるらしく、その一角はとりわけ人だかりができていた。
筐体の画面を覗き込むと、紙袋を被った変な男が倒れていて、その前で貴公子然としたキャラクターが細身の剣を持って決めポーズを取っている。
勝ったほうのプレイヤーが立ち上がってあげたその奇声に、周囲はやんやの喝采だった。
318: MMO ◆LaKVRye0d.:2017/3/12(日) 00:38:05 ID:.b2ry9Rk3M
筐体の前に座るそのプレイヤーは小柄で、ボサボサの頭を無造作な手つきでボリボリ掻いている。前髪は伸ばし放題で、ほとんど目元まで隠れていた。そしてなぜか大型のヘッドホンを耳につけている。
服装は上下ともジャージだったが、ヨレヨレで、その下からシャツが左側の半分だけはみ出ている。一見してだらしない格好だった。
「くっそー」という声とともに、反対側の筐体の男が席を立ち、すぐに別の男が入れ替わりに座った。
改めて、なんとも言えない気持ちの悪さを感じた。
しかし、すぐに自分の顎に手をやり、その無精ひげの手触りに、(他人のことは言えない)と苦笑する。オンラインゲームにハマッて世捨て人同然の暮らしをしている己を省みての、冷静な評価だった。
立ち上がっていた小柄なプレイヤーが、また席に座ろうとした瞬間、俺と目があった。向こうの目は髪で隠れて見えないが、反応からすると間違いなく目が合ったのだろう。ギョッとしたようだった。
すぐに新しい対戦に入ったが、剣を持ったキャラクターの動きは悪く、あっという間に修道女のようなキャラクターに連敗してしまった。
さっきの勝ち名乗りの威勢はどこに行ったのか、小柄なプレイヤーはそそくさと立ち上がり、次の人に席を譲った。そして、俺のほうに歩み寄ってくる。
「おまえ、なにやってんの」
こちらからかけた言葉に、「しーっ、しーっ」と人差し指を口に立てて、そいつはそのまま店の外へ向かった。
ゲームセンターを出てから、改めて俺はその格好を上から下までしげしげと見回した。
「なんでわかったんですか、師匠」
さっきと声色が違う。男の声から、女の声に変わった。
俺が『音響』と呼んでいる小娘だった。この春で大学2回生になったはずだ。
「あいつら、大学の同級生なんですよ。私だって全然気づかないでやんの」
そう言って、顎を店内に向ける。ボサボサの前髪の奥で、目が笑っていた。
「なのに、なんでわかったんですか」
音響は、大学に入ってから興信所でバイトを始めていた。雑居ビルのなかにある、服部調査事務所という小さな興信所だ。
音響は形から入るのが好きなのか、尾行用に変装の練習をいつもしている。服部所長直伝の尾行術だそうだ。
319: MMO ◆LaKVRye0d.:2017/3/12(日) 00:40:39 ID:.b2ry9Rk3M
中学、高校時代は常にゴスロリ姿をしていたが、今ではその格好をあまり見なくなった。
去年、つまり大学1回生の秋に、大学の学園祭でミスキャンパスのコンテストがあったのだが、音響はそれにゴスロリ姿で参加し、惜しくも2位になったのだそうだ。
その際、「もう駄目だ」と言って、壇上から逃げたという話を人づてに聞いた。
なぜ逃げたのかよくわからないが、とにかくそれ以来ゴスロリをやめたのかも知れない。
「どこでバレたんだろう」
音響は自分の格好を眺めてぶつぶつ言っている。
耳につけている大きなヘッドホンから、シカシカと音が漏れているのに気づいて、俺は「よく音楽聴きながら人と喋れるな」と言った。
ジャージの上着のポケットからヘッドホンまで、黒いコードが延びている。
「音楽じゃないです」
そう言って音響はヘッドホンを耳から外して、差し出してきた。俺はそれを受け取り、片方の耳にくっつける。
ヘッドホンからは、外国語の会話が流れていた。
英語じゃない。ドイツ語でもない。何語だ。これは。
変な顔をして耳を傾けている俺を見て、音響は「スペイン語です」と言った。
そう言えば、こいつは高校時代からアメリカに語学留学するくらい英語が得意だった。大学ではフランス語を習っていると聞いていたが、それだけではなく、さらに他の国の言語まで身につけようとしているのか。凄いバイタリティだ。
感心していると、音響は自分の自転車を見て、なにかに気づいたようだ。
「これか!」
そう言って、悔しがっている。
「まあ、そういうことだ。つめが甘いな」
俺はそう言って、ヘッドホンを返そうと差し出したが、音響は自転車に目を落とし、「リバーシブルにできないかな」などと呟いていて、気づかない。
仕方なく、ヘッドホンを無理やり元の場所に戻そうとすると、ボサボサの髪で耳が隠れていた。数年来のつきあいの気安さで、なんの気なしに髪をどかしながらヘッドホンを取り付ける。
その瞬間、髪の毛に隠れていた、こめかみの下あたりに伸びる傷が目に入った。刃物傷だ。
心臓が冷たくなる。
俺のなかの負い目が、体のなかでモゾリと顔を上げる。嫌な記憶が蘇りかけるのを抑えようとした。
320: MMO ◆LaKVRye0d.:2017/3/12(日) 00:43:29 ID:igNubrZ3Ko
音響は「やん」などと言ってヘッドホンに手をやったが、俺の様子に気づいて体を起した。
「最近思ったんですけど」
音響は傷が隠れるように髪を直しながら、軽い口調で言った。
「『助けて』って言葉は、どこの国の言語でも短い音節なんです。英語だと、『ヘルプ』だし、フランス語なら『オスクール』、スペイン語なら『ソコーロ』、中国語なら『ジゥミンア』と言ったりします。言葉の成り立ちにかかわらず、悠長に言えない言葉だから、短いんだと思います。『熱い』とか『痛い』も同じです。『助けて』が短かければ短いほど、その国で生きることの過酷さを表しているような気がするんです。いつか、『助けて』が冗談みたいに超長い国に行ってみたい。そこで暮そうとは思わないけど、そこで暮す人たちを見てみたい」
こいつは、強いやつだ。
助けられなかった俺の、負い目がそう囁く。
音響はヘッドホンを外し、自転車のカゴに放り込んでいた帽子を入れ替わりに手に取って、頭をねじ込んだ。
ちかごろ愛用のハンチング帽子だ。いかにも探偵らしい帽子だった。俺は自転車よりも、むしろこちらで持ち主がわかったのだった。
「おまえ、似てきたな」
俺のオカルト道の師匠が後生大事に隠し持っていた黒いキャップを見つけたとき、音響にあげたはずなのだが、やつは断固としてそれを被らなかった。
これを被るべき人間は別にいる。そう言っていた。
「え。なんです?」
「いや……」
俺は今晩予定されているオンラインゲームの大型イベントのことを考えた。早く帰って、祭りに備えないと。
「じゃ」
そう言って立ち去ろうとした俺に、音響は「師匠、今夜ヒマですか」と訊いてきた。
321: MMO ◆LaKVRye0d.:2017/3/12(日) 00:47:09 ID:igNubrZ3Ko
「凄い心霊スポット見つけたんです。久しぶりに一緒に行きましょうよ」
ニコリとしてそう言うのだ。
「忙しい。無理」
「うそでしょう。ゲームばっかやってると、バカになりますよ」
食い下がる音響を振り切って、俺は家路に就いた。
『師匠』ねえ……。
師匠らしいことなんてした覚えがない。音響は放っておいても1人で成長していった。
彼女は服部調査事務所で、『オバケ』と呼ばれる奇妙な事案を、時に失敗しながら、少しずつ解決していた。
その興信所が小川調査事務所という名前だったころに、その周囲を彩った『写真屋』や、『情報屋』などといった人間たちが、いま音響の周りに再び集い始めていた。
まだまだ頼りないところもあるが、彼女の進むべき先を、まばゆいばかりの輝きが照らしている。
俺はその輝く道に背を向けて、自転車のペダルをこぐ足を速めるのだった。
◆
「うそだろ」
フィールド上で固まった俺の氷魔法使いを見て、キーボードをガチャガチャと叩く。ラグ落ちだ。
テレホーダイというNTTのサービスがある。夜の11時以降の電話料が定額になるというものだ。インターネットに長時間接続するオンラインゲームプレイヤーは、よくこのサービスを使っていた。そのため、この『テレホタイム』には大勢のプレイヤーが大挙してMMO世界にやってくるので、サーバーが重くなるという弊害あった。
俺はウインドウズキーを押してGを強制終了させた。俺のパソコン上はGの世界が完全に動きを止めているが、他の人から見るとはそうではない。止まっているのは俺だけだ。いくら無抵抗でも、そこそこのレベルに達している俺の氷魔法使いを殺せるモンスターは、そのマップにはいないはずだったが、他のプレイヤーになにをされるかわからない。アイテムを盗む『ルーター』や、プレイヤーキャラクターを狙って殺しにくる『PK』といった迷惑なことをするやつらが、G世界には溢れていた。
322: MMO ◆LaKVRye0d.:2017/3/12(日) 00:51:28 ID:.b2ry9Rk3M
「急げ急げ」
俺はデスクトップのGアイコンをクリックして、再度オンラインの世界に入り込む。
今夜から明後日まで、フィールドのモンスターが一定の確率で特殊な宝箱を落とすようになっているのだ。稀少なアクセサリー類をゲットしたという報告が、すでに2ちゃんねるのGスレに書き込まれ始めている。
もう1台のパソコンでそれらの情報を確認しながら、俺は同時進行でGをプレイしていた。いざとなったら、デュアルプレイもできる。
今日はテレホタイムを加味しても接続プレイヤーがめちゃくちゃ多い。祭り状態だった。いやがおうにもテンションが高まる。明日卒論指導があるはずだが、俺は早くも家から出ない方向で予定を変更しつつあった。
卓上の携帯電話が鳴った。
画面を見ると、音響からの着信だった。とりあえず無視していると、かわりにメールがきた。
『かわいい弟子が遊びにきたよ』
そして外からドアを叩く音が聞こえてきた。
「師匠、いるのはわかってるんだ。でてこい」
ガンガンとドアを叩く音と、そんな声が聞こえる。
何時だと思ってるんだ。近所迷惑な。時計を見るとちょうど日付が変わるところだった。
「心霊スポット行こうよ。今度のは凄いから。おい、こら聞いてんのか師匠」
ガチャガチャ。ガンガン。
「女の子が夜中に部屋の外で1人なんて、物騒ですぞ!」
うるさい。
それどころじゃないんだ。今、宝箱から最強の指輪ゲットの報告があって、その真偽でスレが荒れている。マジなら、卒論指導どころじゃない。明後日までノンストップで狩りを続けなきゃ。
「今日は瑠璃ちゃんも来てるよ。久しぶりでしょ、師匠。凄いよ瑠璃ちゃん。今日凄い綺麗な格好だよ。美女ッスよ。ハリウッド女優みたいになってるよ!」
天の岩戸か。
心のなかで突っ込みながらも、俺はマウスを操作する手を止められない。
本当に瑠璃が来ているなら、鍵を開けられるはずだ。その気配がない以上、音響のブラフに決まっている。
「でてこい師匠。ネトゲばっかやるな。現実を直視しろ」
直視しているよ。仮想現実こそが俺の居場所だという現実を。
ドアを叩く音が急に小さくなった。そしてフェイドアウトするように、そのままなにも聞こえなくなった。
帰ったのか?
そう思いながらオークたちをまとめて殺せる地形へ誘導していると、携帯にメールがきた。音響からだ。
323: MMO ◆LaKVRye0d.:2017/3/12(日) 00:53:32 ID:.b2ry9Rk3M
『師匠、今どこっスか』
少しして、2通目。
『今、友だちと駅裏のカラオケに来てたんですけど、師匠に似た人がいて』
そこで文面が切れている。すぐに3通目が来た。
『今夜は家にいるんですよね』
なにをやってるんだ、こいつは。さっきまで俺の部屋のドアを叩いていたのに、カラオケにいたと言い張っている。わけがわからない。
おれは、いえを、でない、はやく、かえれ。
そんな文面で、素早くメールを返した。
すぐに返答が来る。
『やっぱ他人の空似かぁ。すっごい似てたけど』
それきり静かになった。
しかし5分ほどして、また音響からメールがきた。
『あなた、だれ』
その一言だけ書かれている携帯の画面を見て、考えた。
どうやら、カラオケ屋で見た俺に似ているというヤツのほうが本物だったらしい。なるほど。
それはそれとして、ケルベロスにアイスミサイルを叩き込む仕事を続けていると、またドアの外から喚き声が聞こえてきた。
「師匠! 普通気になるでしょ、こんなメールきたら。なんでそこで無視できるの。びっくりだよ!」
ガンガン。
いい加減しつこいな。仮にメールが本当だったとしても、俺は今忙しいんだ。
「オバケ見ようよぅ!」
音響は泣き落としに入った。声の位置が下がったので、床に崩れ落ちているらしい。芸が実に細かい。
しかし俺は、なにを言われても響かなかった心に、なにか棘のようなものが刺さったことを感じていた。
オバケ。
オバケか。
幽霊ならこのG世界にもいるぞ。平原の洞窟の5階に。すっかり忘れていた。1週間前に、俺はそいつと会った。
324: MMO ◆LaKVRye0d.:2017/3/12(日) 00:57:41 ID:.b2ry9Rk3M
なにかが繋がりそうだ。
なぜだろう。ドキドキしてきた。
幽霊。
文字化け。
見たことのない装備。
『助けて』って言葉は、どこの国の言語でも短い音節なんです。『ヘルプ』『オスクール』『ソコーロ』『ジゥミンア』
……
俺はハッとして、狩りを中断し、テレポート用のコマンドを打ち込んで平原の洞窟へ飛んだ。
最強装備のまま、5階へ突入する。
真っ暗なフィールドとドロドロとした音楽が、プレイヤーの心を折ろうとする。人間の力が及ばない怪物たちが闊歩する世界を、俺はたった1人、必死で踏破した。
そして。
そのダンジョンの最深部で、幽霊を見た。戦士の姿をしている。1週間前と同じだ。
俺を見た瞬間、戦士はなにか喋った。やはりそれは文字化けをおこしている。
この文字化けは、もしかして日本語以外の言葉で書かれたものが、対応したフォント環境のない俺のパソコン上で表示できないせいで発生しているのではないか。
そしてこのGと呼ばれるMMOは、韓国で開発されたゲームだった。最初は韓国と台湾でそれぞれ運営されていたが、日本版がサービス開始されるころ、先行していたその2つのサーバーは経営上の理由で閉鎖されてしまっていた。
次々と新しいMMOが開発されるなかで、顧客離れをおこして破産したのだという。
サーバーの閉鎖により、育てたキャラクターや、獲得したレアアイテムが文字通り消えてしまったのだ。このG世界に今やどっぷり浸かっている俺には、その韓国や台湾のプレイヤーたちの怒りや悲しみは痛いほどわかる。
幽霊。
その消えてしまったはずのサーバーのキャラクターのデータが、なんらかの理由でこちらのサーバーに表示されているのだとしたら……。
見たことのない装備をしているのは、あちらのほうがゲーム世界の時間がはるかに進んでいるからだ。ずっと先に開放されるはずの、高レベル用装備なのかも知れない。
モンスターに認識されず、すり抜けをおこし触れることもできないのは、やはりデータの幽霊だからか。あの戦士は、言葉だけでこの世界と繋がっている。
325: MMO ◆LaKVRye0d.:2017/3/12(日) 00:58:44 ID:.b2ry9Rk3M
ハッとした。プレイヤーだ。ただのデータじゃない。プレイヤーがいるんだ。
必死で魔神たちの攻撃をかわしながら考える。
新しい幽霊。
絵にとりつく幽霊。写真に、そしてビデオに映る幽霊。そして今オンライン世界という、新しい概念のなかに生まれた、新しい幽霊。
おまえは、幽霊なのか。
戦士の向こうにいるはずの、マウスを持つ手に語りかける。
俺が1週間前に撮ったはずのスクリーンショットは、後で確認するとやはりデータ破損をおこしていて、開けなかった。
心霊スポットでカメラが壊れた。そういうことなのか。
袋小路のマップ上を逃げ回る俺のディスプレイには、文字化けした単語が会話ログに張り付いている。そのダンジョンの最深部にやってきたプレイヤーたちに、何度も何度も語りかけてきたその短い言葉。
『助けて』ではない。
俺たちのサーバーではだれも到達していない高レベル装備をつけて、今まで一度も死んだことのない強大な魔神たちがひしめいているこんな恐ろしい空間にいることの意味。
俺たちが、死んで貴重なアイテムをドロップしてしまわないよう、裸でやってくるこの場所に、見たこともない武器を持って立っていることの意味。
日常の光景なんだ。
普通のフィールドでみんなそれぞれ好きな狩り場を持つように。ここが、彼らの狩り場なんだ。
だから、そこにやってきた新しいキャラクターに対して向けられる、短い、短い言葉は。
『あそぼ』
一緒に、狩りをしようと誘っている。
ふいに、それがわかった。理屈じゃない。通じない言葉の向こうに、人間として持っている心が、それを受け取った。
韓国語や台湾の言葉はわからない。でも、きっとそれは短い言葉に違いない。そう思ったのだ。
顔の見えないそのだれかは、こんな暗い、ダンジョンの最も深い場所で、いなくなってしまった他の仲間たちがやってくるのを、たった1人で待っている。
俺は立ち止まって、チャット機能をアクティブにする。なにを返事しようとしたのか。きっと相手には読めないのに。自分でもわからない。
次の瞬間には、モンスターの強力な攻撃を受けて俺の氷魔法使いは即死した。
画面が暗くなる。ローディング用の絵が表示されている。
「遊ぼうよぅ、師匠。うぇえええん」
ドアの外では音響がまだ喚いている。
俺はGからログアウトし、パソコンの電源を落とした。バキバキに硬くなった肩や腰をぐるぐると回し、ゆっくりと立ち上がる
鍵を開け、ドアを押すと、音響が立っていた。ハンチング帽子に、シャツとジャケット、パンツはチェック柄だ。今日はちゃんと目が出ている。それにしても探偵じみた格好だった。コスプレにしか見えない。格好から入るこいつらしかった。
「ウソ泣きでした」
「わかってる」
俺は、首を傾けて、体のなかに響くボキボキと鳴る音を聞いた。
(完)
326: 1 ◆LaKVRye0d.:2017/3/12(日) 01:00:45 ID:igNubrZ3Ko
『医者の話』『MMO』
【了】
327: 1 ◆LaKVRye0d.:2017/3/18(土) 02:59:35 ID:/vcnLMBLkI
また暫く間が空いてしまいました、申し訳ありません
今夜は上下の京介編の話をご紹介します
328: 1 ◆LaKVRye0d.:2017/3/18(土) 03:02:23 ID:/vcnLMBLkI
訂正。上下の京介編の話と、書籍版の2話をご紹介します
329: 赤:2017/3/18(土) 03:03:51 ID:uojtOBMxmY
『赤』(書籍版)
双葉社『師匠シリーズ 師事』に載ったお話です。
最終校了版ではないので、誤字脱字等あったらすみません。
あと、データを貼り付けた時点で文頭位置などがバラバラになってしまったのを
手作業で直したりしているので、変なところがあるかも知れませんがご容赦を。
あと、前にも書きましたが、商業目的でない限り、転載は自由にしていただいて構いません。
リンクじゃなくて、文字貼り付けでも可( ・ω・ )
330: 赤:2017/3/18(土) 03:05:20 ID:/vcnLMBLkI
『赤』(書籍版)
大学1回生の秋だった。
土曜日だったので、俺は家で昼間からネットに繋いでいろいろ覗いていた。やがていつものオカルトフォーラムに入り込み、同じように暇をしているメンバーたちと雑談を交わす。
話題は2年後に迫るノストラダムスの大予言の終末についてだった。この夏も散々語り合ったのに、まだ話題が尽きないというのが凄い。これほど後世で有名になるとはノストラダムス氏自身は予見していたのだろうか。
伊丹 :なんか最近、LUCAってよく聞くなぁ
名無し :なにそれ
ドラ :あー聞くわ。るか
みら吉 :救世主とかいうやつですね
名無し :あんごるもあの大王はどうしたんだ!
ドラ :それはそれなんじゃね
ひとで :なにそれ聞いたことない
伊丹 :1999年にLUCAが降臨するって。うわさ
ひとで :初耳だ。どこに降臨すんの
ドラ :おらが街に!
名無し :おらがまちにローカルヒーローきた
ひとで :ルカによる福音書と関係あるの?
名無し :聖書暗号説きた
みら吉 :『また日と月と星とに、しるしが現れるであろう。地上では、すべての民が悩み、海と高波のなすとどろきに
怯え惑い、人々は世界に起ろうとする災厄に、恐れと不安を抱く。もろもろの天体が揺り動かされるからである。そのとき、大いなる力と光輪をともなって、人の子が雲に乗ってやって来るのを、人々は見るであろう』 ……ルカによる福音書第二十一章より 以上コピペ
名無し :ルカってつづり違わね? Lucam
ドラ :スザンヌ・ヴェガの『ルカ』は
伊丹 :それはLUKA
ひとで :懐かしい! 泣けてきた
…………
331: 赤 ◆LaKVRye0d.:2017/3/18(土) 03:07:40 ID:/vcnLMBLkI
たしかに俺も聞いたことがあった。LUCAという名前を。
この夏、ノストラダムスの大予言の話をしていると必ず耳にした。そのたびに少し奇妙な気持になった。
なぜなら、中学、高校時代も散々ノストラダムスの話を見たり聞いたりしてきたのに、その間一度もそのLUCAという名前を聞いたことがなかったからだ。
つまり、ここ1年ほどで急に出てきた話なのではないか。しかし、オカルトフォーラムの過去ログを見ていると、それ以前からちらほらとその名前が出ていた。
不思議だった。大学の先輩などにも訊いてみると、以前からLUCAの名前とその噂を知っている人は多かった。なんだかムズムズする。これではまるで本当にローカルヒーローではないか。
卓上のPHSが鳴った。師匠だった。行くところがあるが、一緒に来ないかというのである。
「行きます」
そう言って俺はログアウトし、PCの電源を切る。
ブラックアウトする画面のなかに、『L・U・C・A』の文字だけが最後まで残っているような気がして、目を擦った。
外に出ると秋晴れの空が広がっていて、気持のよい風が吹いていた。待ち合わせ場所に着き、師匠と2人、自転車で街なかを走り出した。
「そうそう。今夜、『赤い館』に行くからな」
師匠が自転車をこぎながら思い出したように言う。俺は、おお、赤い館と呟く。よく噂を聞く心霊スポットだ。今まで場所がよくわからなかったが、さすがに師匠は知っているらしい。
332: 赤 ◆LaKVRye0d.:2017/3/18(土) 03:09:27 ID:uojtOBMxmY
しかし……と、その師匠の横顔を見ながら思う。
これほどオカルトにどっぷりと浸かり、昼と夜となく徘徊しては退廃的な快楽に溺れていて、バイトなどほとんどしていなかったはずなのに、師匠が金に困っている様子を見ることがほとんどなかった。
それどころか、どこから入手しているのかも分からない怪しげなオカルト関係のアイテムを家に溜め込み、ことあるごとに新作を俺に見せびらかしてくる。
どこにそんなものを買う金があるのだろう。
住んでいるアパートはたしかにボロ屋だが、それを差っ引いてもまだ帳尻が合わない。俺など日々の暮らしにキュウキュウで、駅で甘栗を焼いたり売ったりするバイトをしていた。さらにバイトを増やそうかと考えているくらいだ。
当の本人は口笛など吹きながら、ある場所に差しかかったところで、自転車の速度を緩めた。
「ここだ」
顔を上げると、板壁が左右に伸びていて、その向こうに日本家屋の一部が見えた。敷地内には木が生い茂っている。
大きなお屋敷だ。そう思いながら自転車をゆっくりと走らせていると、板壁は続く続く……どこまでも続いていた。だんだんと、唖然としてくる。
どんな豪邸だ!
想像できないほどの広大な敷地を持った屋敷なのだ。ただ土地が広いだけではない。敷地をぐるりと囲む木々のその向こうに、家屋の一部が常にちらちらと見えている。
このおっさん、まさか……。
なぜ金に困っていないのか、ということについて考えを巡らせていたばかりだったので、思わず勘繰ってしまった。
333: 赤 ◆LaKVRye0d.:2017/3/18(土) 03:11:44 ID:/vcnLMBLkI
ようやく玄関らしき門にたどり着き、そこで師匠はインターホンを押した。その通話口で、ただいま、とは言わなかった。またちょっとホッとする。
大きな木製の門が開き、その向こうに長い石畳が見えた。その正面には、明らかにこの家の家族ではなさそうな老人が正装をして頭を下げている。
執事、という単語どころか、家令という言葉が似合いそうな人物だった。
お帰りなさいませ、おぼっちゃま、とは言わなかった。ちょっとホッとする。
玄関のそばに自転車を停め、わけもわからないままに敷地のなかを案内された。一度日本家屋のなかに靴を脱いで入ったはずだが、また外に出る。用意されていた外履きを履いてだ。
広大な敷地の庭のなかに屋敷があり、その屋敷のなかにさらに庭があった。
静かな空間だった。築山があり、大小さまざまな庭石があり、苔むした草木があり、水鳥が毛繕いをしている大きな池があった。きめの細かい玉砂利のなかの石畳を進み、ここは本当に市内かと目を疑う。
奈良か京都の寺社の敷地内ではないのか。見上げると、すがすがしい秋の空に小さな雲がいくつか浮かんでいる。電線の1つも見えない。
途中の木々や何重もの家屋の壁に吸収されるのか、車などの文明の音はなに1つ聞こえてこない。
静謐な箱庭のような場所だった。
334: 赤 ◆LaKVRye0d.:2017/3/18(土) 03:13:58 ID:/vcnLMBLkI
「こちらです」
箱庭のなかに平屋の建物があった。玄関を抜けると、木の香りのする廊下を通り、和室に通された。天然の明かりのよく入る部屋だった。
部屋の奥に、老人が座っていた。和服を着ている。黒く重そうな木の机で、なにかを書いていた手をピタリと止めた。
「よく来た」
その声で、ここまで案内してくれた執事だか家令だかが無言で頭を下げ、部屋から出ていく。
「どうも」
師匠がぞんざいな口調で返事をする。そして俺を指し示して「こいつは弟子みたいなやつです」と言った。
老人は俺に一瞥をくれると、それきり興味をなくした様子で師匠を見つめた。
「かわりはないか」
「ないです」
老人と正対した位置の座布団に師匠と並んで座っているが、なんだか落ち着かない。師匠はさっきまで口笛など吹き機嫌が良さそうだったのが嘘のように、仏頂面をして胡坐をかいている。
「あれがどこぞに出てくる気配は」
「ないですよ」
「……」
老人は失望も落胆もした様子もなくただ頷くと、和服の裾から懐紙を取り出し、咳き込んで痰を取った。
「心臓に管を通してな」
枯れ木のような手が胸元を指さした。なにかの器具が取りつけられているのか、服が少し盛り上がっている。ペースメーカーというやつだろうか。
師匠は老人から目をそらし、強張った顔で俯いたままひとことなにか呟いた。
僕の裏切られた心臓よ
そう聞こえた気がした。
「あれが現れたら、知らせよ」
会見はなにも起こらないままに、もう終わりのようだ。師匠にならって僕も頭を下げ、その老人が1人でいるには広すぎる部屋を出る。
帰り道、来たときと同じように正装の老執事が先導するあとをついていく。玄関の門へ続く長い石畳まで来たとき、老執事が封筒を師匠に差し出した。なにも言わず、師匠はそれを受け取る。金だ。俺は直感した。
335: 赤 ◆LaKVRye0d.:2017/3/18(土) 03:15:55 ID:/vcnLMBLkI
頭を下げる老執事に背を向けて門のほうへ向かおうとすると、門のそばに停めていた自転車のところに、女性がしゃがみ込んでいた。
近づくと顔を上げる。知った顔だったので驚いた。
「やっぱり」
彼女はそう言って笑った。角南さんという大学の同級生だ。髪を染めている大学生ばかりのなかで、今どき珍しいくらい艶のあるショートの黒髪がトレードマークだった。
今日は動きやすそうなパンツに、秋物のセーターを着ている。
「見たチャリだと思ったんだよな」
そんなことより、俺はどうして彼女がここにいるのか、ということが不思議でならなかった。それをぶつけると、あっさりと言うのだ。
「ここ、わたしんち」
なんてこった。あの、学業もそこそこにバイトに明け暮れている彼女がこんな家のお嬢さんなのか。
罰ゲームで、周りに好奇の目で見られながらゲーセンの脱衣麻雀を、ギャラリーなしでクリアさせられていた彼女が。最初の全体コンパで炸裂した奇矯な言動が伝説となり、学部で知らない人はいないといわれる彼女が!
今日一番の衝撃に頭を殴られて、かなり混乱していた俺は、「そう。よかったね」などという間の抜けた感想を吐くと、そんなやりとりなど無視して先に門をくぐろうとしている師匠を慌てて追いかけた。
「今度遊びに来いよぉ」という声を背中に聞きながら。
336: 赤 ◆LaKVRye0d.:2017/3/18(土) 03:18:36 ID:/vcnLMBLkI
その夜だ。
俺は師匠と『赤い館』と呼ばれる郊外の廃屋に来ていた。元々ラブホテルだったというその建物は、ケバケバしかったであろう外観の面影は残しつつ、今は汚れきって灰色に染まっていた。
赤い館という名前の由来は、オーナーの1人娘が赤い服や赤い装飾品を好んだことによるらしい。ホテルの外装も一面真っ赤だったそうだ。
そのホテルが経営難で廃業するときに、一家全員である一室に篭り、火を放って心中したという噂がある。
そのとき焼け死んだ娘の霊が今もこの敷地に漂い、興味本位で廃屋に乗り込んでくる輩を襲ってくるのだそうだ。
「それも、赤いものを身につけている人間を襲ってくる」
師匠が声を潜めて、敷地に足を踏み入れていく。秋だというのに、上はTシャツ1枚という格好だ。僕もそれに合わさせられている。長袖なのが救いか。
ただ、白のシンプルなTシャツなのだが、ワンポイントとして胸元にだけ別の色があしらわれている。もちろん赤だった。この心霊スポットに挑むにあたっての師匠からの支給品だ。
このおっさんは……。
かすかな月光の下で、荒れた敷地と、その向こうの廃屋が一面の灰色に沈み込んでいる。そこへ静かに歩を進めながら、あきれて喉元まで出かかった言葉を飲み込む。
かわりに出た言葉は、「あの金、なんなんですか」だった。今さら答えてくれるとも思わない。
「老い先短いジジイの妄想に、つき合ってやってるだけだ」とだけ返ってくる。
「出た!」
師匠が短い言葉を発した。その視線の先を追うと、なにか黒い塊が、半分傾いた玄関ドアの隙間からどろどろと漏れ出てくるところだった。
ゾクッとする。
黒い塊は、宙を飛んで一直線にこちらに向かってきた。早い。瞬間に足が硬直し、動けない。
「やばい」
師匠が玄関のほうを向いたまま、身構える。俺はその隣で目を閉じそうになる。
異様な気配をまき散らしながら、黒い塊は俺たちの頭上に迫った。
見上げた先に、髪の毛。振り乱した髪の毛が塊のなかに見えた気がした。
覆いかぶさってくるかと思った次の瞬間、漏れ出るような悪意が硬直した。黒い塊が戸惑うように輪郭がぼやけた。その隙をついて、師匠が俺の肩を叩きながら振り向いて走り出す。
逃げた。逃げた。なにかが再び迫ってくる気配を背中に感じながら。2人で走って逃げた。
337: 赤 ◆LaKVRye0d.:2017/3/18(土) 03:21:07 ID:uojtOBMxmY
「見たか、見たか」
走りながら師匠が興奮してわめく。Tシャツの胸元を何度も指さしている。
俺もつられて、走りながらTシャツを見下ろす。月の明かりにその胸元が見えた。白地に、赤いワンポイント。文字だ。そこだけ赤い生地で文字が書かれている。
『黄色』
師匠のは『青』という文字だ。
「幽霊にもストループ効果が通用したぞ!」
バカだこの人。
必死で走りながら、あらためて思った。
バカすぎる!
謎めいて、わからないことだらけで、過去のことを語るのをためらう人だった。しかし、今は、今のところは、仕方ないので、百歩譲って、とりあえず、それだけで、いいかな、と思った。
338: 館 ◆LaKVRye0d.:2017/3/18(土) 03:22:54 ID:/vcnLMBLkI
『館』 上
潮騒を聞いている。
暗い海がその向こうにある。
空には一面の星。水面にはその欠片が揺れている。
春はようやくやってきたが、夜はまだまだ肌寒い。
「最後の1本だ」
何度目かになる言葉のあと、マッチの明かりが一瞬、海辺の闇を深くする。
煙草の匂いを嗅ぐことで、脳裏にはその匂いと結びついた記憶が滔々と湧いてくる。
いろいろな話をした。
いろいろなところへ行った。
別の世界へと通じているかも知れない扉を開けて。彼女との冒険も今日で終わり。終わり。終わり。
俺は彼女の横顔を見る。
彼女は夜空を見ている。
さっきのホテルでのことが蘇りかけて、頭を振る。
岸壁に2人腰掛けて、とりとめもない話をする。
こんな時間もいつか終わる。
「なあ、知ってる星座はあるか」
煙草を持った手が空を指す。
空に散りばめられた光に目を凝らしたけれど、星と星とを繋ぐ線は見えなかった。
「ありません」
オリオン座ならわかるんだが。あれは冬の星座だ。
「こんなとき、星座の話のひとつやふたつでもサラッとできれば、ロマンティックなのにな」
「すみません」
今度覚えよう。
そうして沈黙がやってくる。岸壁を撫でる波の音が大きくなる。煙草の吸殻を靴で踏むときの、赤く小さな火花が転がるのが見えた。
「あいつも、どんな気持ちで夜空を見ていたんだろう」
遠くを見るような声でそう言った。
「知らない星を」
◆
339: 館 ◆LaKVRye0d.:2017/3/18(土) 03:24:36 ID:uojtOBMxmY
京介さんから聞いた話だ。
「なんでそうなるんだ。第7室には太陽しかいないのに」
「よく見なさい。第1室に火星が入っているでしょう。オポジションで凶相よ。この場合は配偶者に、あなたとは別の男女関係が生まれやすいことを示しているの」
「これが180度か? ちょっとずれてるじゃないか」
「何度説明したらわかるの。メジャーアスペクトのオーブは広いの! これは5度だから範囲内よ」
おばさんが机を叩く。
私は机の上の紙を睨みつけている。12個に切り分けられたケーキのような形が描かれている。
ホロスコープというやつだ。西洋占星術で使う、自分の生まれた瞬間の星の配置を表したもの。
その星の配置がその人の人生を支配するというのだ。
「あー、だめだ。頭が煮えそう」
私は鉛筆を放り出して頭を抱えた。
目の前の紙の上に、私の人生のすべてがある、なんて言われても、どうやってそれを読み解いていくのかのハードルが高すぎる。
タロット占いなら、引いたカードの配置でその人の、そのときどきの、かつ特定の分野のことを自在に占うことができるのに、西洋占星術は基本的に、定められたその人の人生をただ解き明かしていく作業だ。
考えてみれば恐ろしい。これは恐ろしいことだ。知れば知るほど、そのことがわかってくる。
「休憩しましょうか。紅茶淹れてあげる」
おばさんが小太りの体を揺すって立ち上がる。その後ろ姿を見ながら私はため息をついた。
アンダ朝岡という名前のこの占い師と出会ったのは、今年の夏のことだった。街中を襲った不気味な怪奇現象を追っていた私は、その先で4人の人物と出会った。全員が、私と同じようにその怪奇現象の根源を追っていた。
この街のなかでたった1人、私だけが気づいていて、だからこそ私がなんとかしないといけない。そう思っていた。
しかし、この街で昼ひなかにお互いにすれ違っても気づかないけれど、その日常の仮面の下に、非日常の世界を見通す目を秘めている人々がいたのだ。私のほかにも。
そのことが、なぜか嬉しかった。
『今度会ったら、タダで占ってあげるわよ』
偶然街ですれ違ったとき、その夜に交わした約束を彼女は覚えていた。
340: 館 ◆LaKVRye0d.:2017/3/18(土) 03:26:33 ID:uojtOBMxmY
「あら、あなた」
50年配の女性にいきなり声を掛けられて、とまどったが、すぐに思い出した。
けれどそれは相手の顔を思い出しただけだった。なにしろお互いに名前も知らなかったのだから。
2人で苦笑して、あらためて自己紹介をした。
彼女は《アンダ朝岡》と名乗った。聞いたことのある名前だった。地元の情報誌で星占いのコーナーを持っている人だ。その星占いは、街に迫りつつあったその怪奇現象に、私が気づくきっかけにもなっていた。
いま時間あるでしょ、とアンダ朝岡は言って、無理やり私を自分の店に連れていった。
『アンダのキッチン』
そんな名前の、駅に近いビルの1階のテナントに入っている、小洒落た店だった。まるで喫茶店のような店構えだったが、実際に軽食を注文して、それを食べてリラックスしながら占いの相談をする、という珍しいスタイルだった。
料理が上手いのか、占いが上手いのか、あるいはその両方なのかわからないが、とにかく結構流行っている店らしかった。
アンダはタロットなどの占いもするけれど、西洋占星術がメインだった。しかしそのタロットにしても、私がかじっている知識よりはるかに詳しい。さすがにこの道で食べているプロだな、と思う。
再会したその日は、私のことを占う、というより、占いに興味を持っていると言った私に、あれこれとアドバイスをしてくれた。
ただの客としての対応とは明らかに違っていた。私を見つめるその優しげな瞳には、秘密を共有する仲間としての親しみが込められているような気がした。
「また遊びにいらっしゃい」
帰るとき、そう言われた。紅茶の風味が口のなかに甘く残っていて、また来てもいいな、と思った。
341: 館 ◆LaKVRye0d.:2017/3/18(土) 03:28:43 ID:uojtOBMxmY
それから、2度、3度と店に顔を出していると、いつの間にか私は彼女の教え子になっていた。
後継者などというつもりは毛頭なかった。ただ自分の知らない西洋占星術という占いに興味を持ったのだ。
トランプやタロットを使った神秘主義的なものとは違う、ホロスコープという生涯変わることのない出生時の星の配置……つまり運命の地図が、まず面前に示されるという、その潔さに、逆に途方もない奥深さを感じていた。
私は学校帰りに時間をつぶしたあと、『アンダのキッチン』が閉まる午後7時過ぎに顔を出し、客のいなくなった店内でいろいろなことを教えてもらう、という日々が続いていた。
「なあ、アンダ。これって、どういうことなんだ」
ある日、ローカル情報誌を広げてアンダを問い詰めた。
アンダが担当している星占いのコーナーだ。店と同じ、『アンダのキッチン』というコーナー名だった。
よく見るものと同じく、おひつじ座から始まる12星座ごとに、その月の運勢を占ったものだ。
以前の私は、素直に自分の誕生星座のところを読んでいた。あるいは、気になっている相手のところを。
しかし、西洋占星術をちゃんと習っていくと、こういう星占いとはまったく別物だということに気づいてきた。
まず第1に、西洋占星術ではホロスコープの起点となる第1室の支配星座は、その人が生まれた瞬間に東の地平線にあった星座なのだ。これを上昇宮(アセンダント)と言って、その人の本質を読み解くキーとなっているものだ。
私はみずがめ座のはずだったが、アセンダントを調べると、ふたご座だった。
今まで星座別の性格占いで、みずがめ座の欄に『常識やモラルに捉われない。推理力、洞察力に優れ、クールで気ままな性格』などと書いてあるのを見ては、当たっている! と思っていたのに。
しかし私が習う西洋占星術では、生まれた瞬間の太陽の位置を第1室に置くやり方はしなかった。
サン・サイン占星術といって、太陽の位置を起点にするやり方もあるらしいし、誕生日はわかっても、生まれた時刻がわからない場合に太陽を第1室に置くやり方もあるのは習ったが、アンダの西洋占星術では、明らかに太陽星座を重視していなかった。
まして、ホロスコープは、言わばその人の人生の地図のすべてであって、今月の運勢やら今週の運勢やらといった、狭い範囲を言い当てるものではない。
そういうことがだんだんとわかり始めて、あらためてあの星占いコーナーとの矛盾に気づいたのだ。
342: 館 ◆LaKVRye0d.:2017/3/18(土) 03:31:43 ID:uojtOBMxmY
「なあ。なんでこんな適当なことばっかり書いてんの」
私が情報誌を突きつけると、アンダはしばらく黙ったあと、にっこりと笑って言った。
「お坊さんがね。檀家さんに『昨日の夜、死んだ父が枕元に立ってこんなことを言うのです』って相談されたら、『それはあなたを守るために、心配しておっしゃっているのですよ』って言うでしょう。でもお釈迦様の教えでは、人間が死んだ後には霊なんかになってこの世にさまようなんてことは、言ってないの。でもその理屈を説いて、あなたが見たのは幻だ、錯覚だ、なんて言ってもその人は納得するかしら。そういうことの専門家だと思い込んで相談しにきているのに。そんなときに、相手に合わせてあげて、返事をすることを、なんて呼ぶか知ってる?」
「知らない。なんだ?」
「方便よ」
なんだそりゃ。
うそも方便ってやつか。
「ようするに金儲けのために、でたらめをでっちあげてるんだろう」
「でたらめじゃなくて、ほ・う・べ・ん」
アンダは指を立ててゆっくりと訂正した。
「これでも、ちゃんと私なりに研究してやってるのよ。方法は企業秘密だから、教えてあげないけど」
納得はいなかなかったが、それでも店では一貫してストイックな占いの手法を守っているようだった。
アンダはよく、自分のホロスコープを例にして私に説明してくれた。
「私のアセンダントはおひつじ座にあるけど、ルーラー(支配星)はなにかしら?」
「火星」
「そう。その火星が第8室にあるでしょ。セックスや死を司るハウスに、マレフィック(凶星)の火星があり、損なわれているということ。そしてこの火星が、さらに別のマレフィックの土星とスクウェアで、凶相を成しているわ。これは短命の相よ。さらに第8室のルーラーの冥王星が、マレフィックの天王星とオポジション。海王星とセミスクウェアよ。これがどういうことかわかる?」
ひどいな。
顔をしかめたら、アンダは「そうね」と言って続けた。
「天寿をまっとうする自然死ではないわね。間違いなく。せめてもの救いは、第8室がカーディナル・サイン(活動宮)じゃなくて、フィックスド・サイン(不動宮)だってことね」
「ええと、その場合は病院で死ぬとか、そういうこと?」
「少なくとも即死ではないと思うわ。だれかに看取ってもらえるなら、まだましね」
343: 館 ◆LaKVRye0d.:2017/3/18(土) 03:33:51 ID:uojtOBMxmY
自分の死について、あっけらかんと語るアンダを見ていると、なんだか不思議な気持ちになる。
自分で自分の西洋占星術を信じていない、というわけではないだろう。ただ、人の運命を、星の配置のなかに読み解くことを生業にしていると、そういう達観めいた心境に至ってしまうのだろうか。
数年前に起きた夫との死別という悲しいできごとまで、自分のホロスコープのなかに読み解いて説明をしてくれる彼女の横顔を見て、なんだか辛い気持ちになった。
学校の廊下で、間崎京子とすれ違った。
この高慢な秘密主義者は、あいかわらず私のかんに触るやつだったが、風のなかにだれとも知れない人間の髪の毛が混ざっているという、気持ちの悪いできごとのときに、図らずも一緒に組んでその謎を追ったりしていたせいで、このところ休戦状態にあった。
「よう」
そう言って通り過ぎようとしたら、向こうからそっと寄ってきて、打ち明け話をするように私の耳元に口を近づけた。
「最近、占いに凝ってるんですって?」
それを聞いてビクリとする。こいつはなぜそんなことを知っているんだ。
「どんな先生かしら。今度紹介してくださらない?」
「いやだ」
その言葉のあと、なにか理由をつけようとしたが、うまく出てこなかった。それが妙に気恥ずかしくて、とっさに出た言葉が「おまえ、何座だ?」という問いかけだった。
「あら、そういう占いなの」
間崎京子は興味を失ったような顔をした。
344: 館 ◆LaKVRye0d.:2017/3/18(土) 03:36:10 ID:/vcnLMBLkI
違う。そういう星座占いみたいな程度の低い占いじゃないんだ。
思わずそう言い訳をしようとしたが、(こいつに侮られることが、そんなに嫌なのか)ということに思い当たり、(だれが! 勝手に思ってろ!)と、我ながら天邪鬼なことを考えて、結果的に黙っていた。
すると間崎京子は、「私、星占いとか、占星術とか、好きじゃないのよね」と言いながら、両手を後ろに回して、すねたように足を蹴り上げる仕草をした。
「いいから、何座だ」
重ねて訊くと、くすり、と笑って言った。
「……くじら座」
なんだそれは。
何座かと訊かれて、「ヤクザ」と答えるのが、子どものころの定番ジョークだったが、これは、なんて中途半端な……。
「そうそう。今度、私の誕生日会をするの。あなたもご招待するから、きてね」
間崎京子はそう言って去っていった。
誕生日会?
あいつの?
そんなな女の子じみた行事に呼ばれるなんてことは、ここ数年なかった。しかも、あいつの?
その場に残された私は、痒くもない頭を掻きながら、立ち尽くしていた。
その日の放課後、アンダの店に寄ってから午後9時過ぎに家に帰ると、玄関に張り紙があった。
『ちーちゃんとまーちゃんへ。パパとママは、レストランでお食事をしてきます』
ずる賢そうな顔をした2人の似顔絵つきだ。母親が描いた絵だった。
妹のまひろはまだ帰ってきてないらしい。郵便受けにあった新聞とチラシを取り出してから鍵を開けて家のなかに入り、テーブルの上にそれらを投げ出す。
ふと、そのなかのチラシの文字に目が留まった。
『劇団くじら座』
地元の劇団の公演の案内チラシだった。そういえばたまに見る名前だ。
そう思った瞬間、昼間に間崎京子が言った変な言葉を思い出した。
『おまえ、何座だ?』
『……くじら座』
そうか。そういうことか。あいつも、そういう冗談を言うんだ。
なんだかおかしくて、声に出して笑ってしまった。
だれもいないリビングに自分の声だけが響く。
ひとしきり笑ったあとで、あのとき笑ってやらなくて悪かったな、と思った。
◆
345: 館 ◆LaKVRye0d.:2017/3/18(土) 03:38:27 ID:uojtOBMxmY
数日後、間崎京子は本当に私に招待状を持ってきた。誕生日会のだ。
11月20日。太陽星座なら、さそり座ということになる。私は一般的なさそり座の性格占いの内容を思い出す。
『排他的で秘密主義。嫉妬深く、執念深い。プライドが高く、洞察力、霊感に優れる……』
当たっているなあ。むしろこれしかない、という気もしてくる。やっぱり太陽星座でも十分当たるじゃないか。
そう思うと、こいつのアセンダント星座も知りたくなった。
「来てくださるかしら」
会場は本人の家となっている。
子どものころの記憶では、お誕生日会などと言って家に友だちを招待する子は、いいところの子どもだけだ。
間崎京子の家も一度見てみたかった。どういう環境でこいつみたいな子どもが育ったのかを。
「ほかにはだれが来るんだ」
「あとは私のクラスのお友だちが2人。あなたもお友だちを誘ってくれていいわ」
こいつの友だちということは、取り巻きの連中だろう。そんな完全アウェーに1人で乗り込んでいくのも、確かに気が引けた。
「考えとく」
そう答えると、間崎京子は嬉しそうに、「きっと来てね」と言った。
「なあ、おまえ自分が何時に生まれたか、知ってるか」
私は知らなかった。アンダの西洋占星術のホロスコープを作るうえでは、誕生時刻というのは必須の情報だった。
地球はぐるぐる自転している。誕生の瞬間の星の配置は、時刻によってまったく違ってしまうのだ。私はわざわざ母親に訊いて調べた。
私の問い掛けに、間崎京子はその場で生まれた日と時間をそらんじた。
朝6時か。これでこいつのホロスコープを作れるな。調べてやろ。
そう悪巧みをしていると、さっきの暗唱のなかに、おかしな部分があったことに気がついた。
生まれた西暦が、早生まれの私より2年古い。えっ、と思った。つまり1学年上なのだ。
「私、中学生のときに病気で1年休んだから」
「じゃあ、次で17歳の誕生日なのか」
なんだ。本当はイッコ上なのか。
やけに大人びていると思ったが、本当に年上だったとは。
驚いている私に、間崎京子は「じゃあ、きっとね」と言って去っていった。
私は思わず「ああ」と答えていた。
◆
346: 館 ◆LaKVRye0d.:2017/3/18(土) 03:40:45 ID:/vcnLMBLkI
11月20日はあっという間にやってきた。
なかばなりゆきで、行かざるを得なくなった感もあるが、とにかく私は京子の誕生日会に行くことにした。
悩んだ末に、一応友だちを誘ってみた。クラスでも浮き気味の私にとって、友だちと言えるのは高野志保という名前のクラスメートだけだった。
志保は物静かで目立たない子で、私の乱暴な態度や言葉づかいに怯えながらも、いろいろと心配してくれるやつだった。
特に間崎京子に関しては、今年の夏の初めにあった、ある事件のせいで、かなり過敏になっていて、その魔女のような女に深く関わろうとする私を、そっとたしなめる役目を果たしてくれていた。
なるべく気軽な感じを装って誘ってみたが、案の定、高野志保は「行かないほうがいい」と反対した。
「危ないよ」
真剣な表情でそう言うのだ。
危ないって……。
「おいおい。ただのお誕生日会だぞ」
そう言って気軽さを強調しようとしたが、志保の耳には入っていないのか、しばらく俯いていたかと思うとキッ、と顔を上げて、
「わかった。ついてく」
と決死の覚悟を決めたような表情で言うのだった。
なんだか私まで怖くなってくる。
20日は金曜日だったので、放課後、寄り道せずに家に帰ると、すぐに着替えて京子の家に向かった。途中待ち合わせたスーパーで高野志保と合流する。
志保はバレー部だったが、今日はさぼったらしい。バレー部の顧問のジジイが結構厳しいらしいから、大丈夫なのかと心配になる。
間崎京子の家は、市内の北の端にあった。志保の母方の祖母の家がこの辺りにあるらしく、土地勘があったので私は地図も見ずに、彼女についていくだけでよかった。
それどころか、志保は間崎京子の家を知っているという。
「間崎さんの家は有名なお屋敷なの」
明治維新のあと、子爵の称号を賜わった間崎家の先祖は、そのあと生糸の生産業に投資をして成功し、財を成したのだという。京子の曽祖父の代で、市内の中心地から引越しをして、郊外に西洋風の屋敷を建てたのだそうだ。
347: 館 ◆LaKVRye0d.:2017/3/18(土) 03:43:25 ID:uojtOBMxmY
「私のおばあちゃんも、若いころにお屋敷で女中をしてことがあるらしいの」
志保が今日のことを祖母に話すと、失礼があってはいけないと、まるで自分のことのように大慌てで、誕生日の贈り物を見繕ってくれたそうだ。
あやうく、お屋敷まで見送りについてくるところだった、と言って志保は笑った。
そんな栄華を誇った間崎家だが、第二次大戦のあとは斜陽の時代を迎えた。
手を出していた不動産業が失敗をして、借金を返済するためにいくつか持っていた会社をすべて手放し、零落の一途をたどったのだ。
さらに京子の祖父が死んだのを皮切りに、身内に若死にや事故死などの不幸が立て続いた。周辺の住民たちは間崎家の呪いなどと言って、陰で噂をしていたそうだ。
そういえば、京子は以前、母親は自分が生まれたときに死んだと言っていたな。
ほかにもそんな不幸がたくさんあったのか。
「間崎さんは、お父さんが船医で、いつも海外にいるから、ほとんど1人で、あの大きなおうちにいるみたい」
その父が、傾いた間崎家を立て直すために腐心するどころか、怪奇趣味というのか、変なものを買い集めることにばかり執着し、船医の仕事をしながら、世界各地でそういうものを探し回っているとの噂だった。
周囲の噂では、そのあやしげなものたちの呪いで間崎家はこうなってしまったのであって、かつての子爵家ももはや風前の灯、というのだ
「ほら、あれ」
志保が指さす場所はやや高台になっていて、その先に大きな建物の姿が見えてきた。
なるほど、大きい屋敷だ。
「私もあんまり近づいたことないけど、やっぱり変な感じがする」
348: 館 ◆LaKVRye0d.:2017/3/18(土) 03:46:44 ID:/vcnLMBLkI
噂では、間崎家の周辺は磁場が歪んでいて、へたに近づいて取り込まれてしまうと、帰れなくなる、というのだ。
酷い言われようだ、と思ったが、屋敷に近づくにつれてその気持ちが少しずつわかり始めた。確かに異様な感じがする。
説明しづらいが、リズムを変えずに歩き続けているのに、見えている屋敷が、なかなか近づいてこない気がするのだ。
まるで近づけさせまいとしているような……。
それでも歩き続けると、私たちは玄関らしきところにたどり着いた。
あらためて見ると、私たち庶民が住む普通の一軒屋の4倍か、5倍か、いやそれ以上ありそうな大きさの洋館だった。
2階建てのようだったが、見慣れた瓦屋根ではなく、尖塔のようなものがところどころに突き出ているのが見えて、3階建てくらいありそうな高さに思えた。たぶん、秘密の屋根裏部屋なんかもあるに違いない。
周囲をがっしりした石壁が覆い、その向こうに広い庭と洋館がある、という構造だった。
少し緊張しながら、石壁にはまったアーチ上の鉄製の門の前に立って、どうやって開けるのか観察していると、インターホンらしいものを見つけた。
ボタンを押してしばらくすると、『いらっしゃい』という声が聞こえた。
石壁の向こうで扉の開く音がして、やがて門のところまで足音がやってきた。そして、ガチャリ、という鍵の回る音がする。
「ようこそ。山中さん。来てくれてありがとう」
門を開けた京子は、黒い服を着ていた。ドレスと言ってもいいような、フォーマルな服だった。彼女のすらりとした長身によく似にあっていた。
ジーンズ姿のいつもの私服で来てしまった自分の体を思わず見下ろして、なんだか少し焦った気持ちになった。
「高野さんも。どうぞお入りになって」
促され、私たちは敷地内に足を踏み入れる。庭は広かったが、日本庭園のように築山や川などを模した緻密な趣向は見当たらなかった。
ただ、洋館を囲むように植えられている背の高い木々の群が、小さな森を作っているような気がした。
その森のなかへ、古い洋館が長い時間をかけてゆるやかに飲み込まれている……そんな気が。
349: 館 ◆LaKVRye0d.:2017/3/18(土) 03:49:37 ID:uojtOBMxmY
チャリ、という音に、ふと目をそちらへやると、京子の胸元には大きな鍵束が首から下げられていた。まるでネックレスのように。
玄関へ向かって歩きながら、京子は「これ? 家の鍵よ」と言って触り、チャリンチャリンという音を立てた。
いくつあるのだろう。大小織り交ぜて、10個以上はありそうだ。
昔よく、鍵っ子という言葉を聞いたが、ここまで露骨で大袈裟なものを見ると、逆になんだかファッションとして似合って見えるので、不思議だ。
「私のクラスメートはもう来てるわ。さあどうぞ」
両開きの玄関を開けて、私たちは洋館の中に招き入れられた。
もう日が暮れるころで、玄関ホールには明かりが灯っていたが、いやに薄暗い気がして私は目を擦った。
床は茶色の絨毯が敷き詰められていて、靴のまま上がっていいと言われたが、少し気が引けてしまった。
城のように豪華なシャンデリアが天井にあるのが見えたが、明かりは灯っていなかった。かわりに壁の両脇の上部に取り付けられたささやかな明かりが足元を照らしていた。
栄華のあとか。
私は絨毯の上を歩きながら、周囲の空間がボロボロと朽ちて崩れていくような錯覚を覚えていた。
古い映画で見るような、二階へと伸びる大きな階段の側を通り過ぎ、奥まったところにあった客室へ案内された。
部屋のなかでは京子のクラスメートが2人、所在なさげにソファに腰掛けていたが、私たちが現われたとたんに立ち上がり、頭を下げた。
私や志保に下げたのではない。この家の主に下げたのだ。緊張していることは痛いほど見て取れた。
350: 館 ◆LaKVRye0d.:2017/3/18(土) 03:52:17 ID:/vcnLMBLkI
取り巻きの連中のなかでもよりすぐられた2人なのだろうが、誕生日会に呼ばれたことが、彼女たちにとって本当に名誉なことだったのかは、知るよしもなかった。
京子は、「パパが海外にいて、今日は私1人しかいないから、十分なおもてなしができないかも知れないけれど、どうかゆっくりしていって」と言った。
普段は通いの家政婦がいるそうだが、今日は休みを取ってもらっているらしい。
「お料理は得意なの。今日は私が、腕によりをかけたものをご馳走するわ」
友だちを呼んだこんなときにこそ、家政婦に手伝ってもらえばいいのに、と一瞬思った。しかし、こいつは、自分の日常に触れられたくないのかも知れない、と思いなおした。
父親と遠く離れ、この大きな古い屋敷に家政婦とたった2人で暮している自分を、どこか恥じているような、そんな気がしたのだ。
「もう少し待っていてね。あと少しでできるから」
そう言って京子は部屋から出て行った。その仕草がいちいち優雅で、しゃくに障った。
「どうも」
などと、どこか気まずそうに会釈を交わしている、京子の友だちと志保たちから目をそらし、私はソファに足を組んで腰掛けて、ケッ、と口のなかで毒づいた。
料理が得意ねえ。
どうも信用ならなかった。
アンダと出会ったあの事件の夜、京子は私に言ったのだ。
『似顔絵を描きましょうか。私、絵は得意なのよ』
なにが絵は得意だ。結局描いてもらう前に事件がとんでもない結末を迎えてしまったので、うやむやになっていたが、あとで美術の時間に京子が描いた絵を見て、私はひっくり返りそうになった。
ギャグで言っていたのか。
そう思ったが、どうやら本人は上手に描けていると思っているらしかった。だから信用ならないのだ。
「あいつ、絵が下手なの知ってる?」
いじわるなことを言ってやりたくなって、友だち2人にそういいかけたときだ。
部屋の入り口にふいに京子が顔を覗かせた。驚いて立ち上がりそうになった。
「本を見て作ってるから、大丈夫よ」
そう言って、入り口にあった部屋の明かりを点けてから、また去っていった。もともと明かりは点いていたが、もう一段階明るいのがあったらしい。
最初はあえてそれを点けずに出て行ったような気がしてならない。自分が去ったあと、みんながどんな話をしているのか、確認するために。
351: 館 ◆LaKVRye0d.:2017/3/18(土) 03:54:28 ID:uojtOBMxmY
友だち2人は、心なしか青ざめているようだった。
私がなにを言おうとしていたか、見透かされていた。まいったな。あいつは、やっぱり油断ならない。
よけいにしゃくに障り、私は不機嫌になった。
本を見て作っているだと!
その本がネクロノミコンだとか、ゾハルの書だとかいう名前でなければいいけど!
それから小一時間経って、ようやく京子が呼びにきたときには、私は腹が減ってかなりイライラしていた。
もはや誕生日を祝おうという本来の目的を忘れ、飯食わせろ、という原初的な欲求しか頭になかった
客間を出て、やたら広い食堂に通された。ドラマとかで見るような馬鹿でかいテーブルがあって、その片方の隅に固まって料理が並べられていた。
お誕生日おめでとう、と言ってそれぞれ持参したプレゼントを渡す。志保のは、高そうな箱に入った万年筆だった。
かつてのこの家の格式を知っているお祖母ちゃんが、奮発して買ってくれたのだろうか。
私はというと、近所の雑貨屋で買った、可愛い猫の模様の便箋と、それとお揃いの柄のノートだった。明らかに私のが1番安い。
しかし、京子はなぜか私のプレゼントを受け取ったときに、1番嬉しそうにしていた。喜んでもらえて悪い気はしない。
そうして、いよいよ夕食会となったが、私の不安は杞憂だったようだ。すべて洋風だったが、どれもおいしかった。まるで高級レストランのコース料理のようだ。
本当にこいつが作ったのか?
鴨料理をほおばりながら疑いの目で見ていると、澄ました顔で微笑み返してくる。
352: 館 ◆LaKVRye0d.:2017/3/18(土) 03:59:47 ID:/vcnLMBLkI
服装といい、立ち居振る舞いといい、そして容姿といい……その絵に描いたような深窓の令嬢っぷりに、なんだか照れたような気持ちになってしまい、私はわざと乱暴に肉を噛み千切った。
私が3口食べる間に、志保と友だち2人は2口食べ、京子は1口しか食べななかった。
3分の1くらい私が食べた気がするが、とにかく出された料理をすべて片付けた。テーブルの上の空になった食器を眺めながら、私はもうこの家に用はない、という気になっていた。
「ケーキがあるけど、もう少し休んでからにしましょう」
なのに、そんなことを言うのだ。このお嬢様は!
そうして5人で別の部屋に移動した。
食堂のすぐ隣の部屋だったが、そこには暖炉があり、少し冷えるわね、と言うと京子はそれに火をつけた。
確かに12月を間近に控えて、寒気がやってきていた。部屋のなかに暖炉があると、その暖かさと仄かな明かりとで、なんだか穏やかな気持ちになるので不思議だった。
その部屋には、私が見ても名前もわからない洋画家の画集がずらりと並んでいて、興味があるらしい志保が最初は恐る恐る背表紙を眺めていたが、「どうぞご覧になって」という京子の一言で、目をキラキラさせた。
そして次々と手に取っては熱心に頁を開いていた。
京子の友だちは落ち着かない様子だったが、やがてテーブルの上にあった玩具に手を伸ばした。そして京子になにか習いながらいじっている。
暖炉のソファに陣取った私の遠目には、飛び出す絵本のように見えたが、どうやら違うらしい。厚い紙でできた玩具であるのは間違いないようだったが……。
「それ、なに」
私が訊ねると、京子は言った。
「『悪魔の3つの部屋』、というおもちゃよ」
テーブルに近づいて行くと、「ほら、こうして遊ぶの」と京子はそれを私のほうへ向けた。
厚紙の上に洋風の家が描かれていて、その下のほうに3つの扉がある。扉の部分は開くと外へ折れるようになっていて、やっぱり飛び出す絵本のような構造になっている。
その開け放たれた扉の向こうには京子の体が見えたが、そのうちの1つの扉から、毛むくじゃらなケモノのようなものが顔を覗かせていた。
やはり厚紙でできたそれは、牙と角が生えていて、悪そうな顔をしていた。これが悪魔ということらしい。
その悪魔を、扉の裏側の横のあたりにセットすると、正面から扉を開けたときに、その動きに連動して横から顔をひょこっと出す、という仕掛けになっているようだった。
玩具と呼ぶにも、あまりに他愛ないものだ。京子は子どものころにこれで遊んでいたのだろうか。
そう思っていると、京子はすべての扉を閉め、厚紙の家の後ろでごそごそとしたあと、「さあ、悪魔が隠れたわ。どの部屋かしら」と言った。
353: 館 ◆LaKVRye0d.:2017/3/18(土) 04:05:27 ID:uojtOBMxmY
おいおい。そんな子どもじみた遊びにつきあわせる気か。
呆れていると、「さあ、みんな裏を見ちゃだめよ。前に回ってちょうだい」とほかの3人まで巻き込み始めた。
その言葉に従って、4人とも厚紙の家の前に並んだ。
京子は満足そうに頷くと、口を開いた。
「悪魔のいる部屋の扉を開けてしまうと、食べられてしまうわ。悪魔のいない部屋を上手に選んで開けてね」
3つの扉のうち、セーフが2つ。アウトが1つ。純粋に3分の2でクリアできる、というしょうもない遊びだ。
私は真んなかの扉をぞんざいに指さした。金でも懸かっているなら京子の顔の表情を読むとか、もっと真剣にもなるが、あまりにもどうでもいい余興だった。
私が指さした扉を見下ろし、京子はしかしすぐにそれを開けなかった。そして玩具を抱えたまま、こんなことを言った。
「この家の主である私には、悪魔がどの部屋に隠れているか、わかるわ。だから、こんなヒントをあげる」
そうして、私が選んだ真んなかの扉ではなく、私たちから見て右側の扉に手を伸ばして、開けた。
その向こうには京子の黒い服と、首から下げた鍵の束が胸元に見えるだけで、悪魔の顔は覗いていなかった。
「この部屋は空よ。悪魔が隠れている部屋はあとの2つのどれか…… もう一度だけ選ばせてあげるわ。最初に選んだ真んなかの扉か。それとも左の扉に変えるのか。どちらでもいいわ。さあ、どうするの」
京子は子どもに諭すようにそう言った。
354: 館 ◆LaKVRye0d.:2017/3/18(土) 04:06:11 ID:uojtOBMxmY
単純なゲームのはずが、少し様相が変わった。
んん? ちょっと待てよ。
騙されたらシャクなので、冷静に考える。
これで1つの扉が開けられ、残る扉は2つ。3択が2択に変わったので、確率は2分の1になったのだろうか?
真んなかの扉と、左の扉。どちらも同じ2分の1なら、確率は同じだ。
本当にそうか?
自慢ではないが、数学の類は苦手なのだ。
最初に選んだ真んなかの扉は、選んだ時点では悪魔が隠れている確率は3分の1だったはずだ。今、京子は私が選ばなかった扉を1つ開けたが、そのことでどういう変化が起きたのか。
本当に2分の1になったのか?
少し考え込む。
京子は当然悪魔の位置を知っているわけだよな。
私が悪魔の扉を選んでいたとしても、選んでいなかったとしても、必ず私が選ばなかった扉のうち、1つが開かれる。そして悪魔の位置を知っている京子は、絶対に悪魔のいる扉を開かない。
ということは、扉を1つ開けた、という行為の結果に、最初の私の選択の意味を変える情報は、なにも含まれていないのではないか。
だとしたら、やっぱり真んなかの扉は最初から確率は変わっていない。3択のままじゃないのか。
で、それに対して左の扉は…… あれ? ううむ。これも3択のまま? いや、違うよな。3分の2の、さらに2分の1なのか?
あれこれ考えていると、頭がパンクしそうになった。こんな子どもじみたゲームで、いったいなにをやっているんだ私は。
京子の友だち2人は、完全に傍観に入っている。それに対して、私の隣でじっと考えている様子だった志保が、ふいに顔を上げた。
「左の部屋には、66%の確率で悪魔がいます」
だから、真んなかの扉のままでいい。
志保が続けてそう言いかけた瞬間、私はその口を塞いで、もう片方の手で左の扉を開けた。
志保と友だち2人はあっ、と言った。
左の扉の向こうには悪魔はいなかった。向こう側の景色が覗いているだけだった。
「左を選んでよかったわね。悪魔は真んなかの部屋に隠れていたみたい」
「どうして?」
志保が私に向かってそう訊いてきたが、言わずもがなだ。
私たちにとって悪魔は確率で存在していたが、裏側で見ている京子にとってはそうじゃない。
確率を追って自滅させるために、不均等な選択ゲームをさせたのだ。こいつの性格はよくわかっている。
私はその裏をかいただけだ。
355: 館 ◆LaKVRye0d.:2017/3/18(土) 04:09:02 ID:/vcnLMBLkI
「今度はこんなゲームもあるわ」
そう言って、京子は『悪魔の3つの部屋』を片付け、別のボードゲームのようなものを出してきた。
小さなチェスの駒のようなものを、星の形をしたボードに交互に刺して、陣地を奪い合うという、ずいぶんとレトロな感じの玩具だった。
「やっててくれ。ちょっとトイレ借りる」
京子にそう断って席を立つと、トイレの位置を身振り手振りで教えてくれた。1階と2階に2ヶ所ずつあるらしい。
全部教えてくれなくていいよ。ハシゴさせる気か。
暖炉のある部屋から出て、暗く薄ら寒い廊下に立つと気持ちがスゥッと冷えるのを感じた。
ここへ来るまで、あれだけ怯えていた志保がいつの間にか寛いでいる。本当に普通のお誕生日会に呼ばれたかのようだ。
あいつは、間崎京子だぞ。
あの、なにを企んでいるのかわからない、恐ろしい女がこの家に住んでいるんだ。普通の家であるはずはない。
356: 館 ◆LaKVRye0d.:2017/3/18(土) 04:11:31 ID:/vcnLMBLkI
かつての名家が没落して、今はほとんど帰ってこない父と娘の2人だけだというのに、この無駄に大きな屋敷を売り払いもせず、ずっと住み続けているのはなぜだ?
京子の父親が蒐集している、という怪奇趣味的なものたちは、いったいどこに隠してあるのか。
暖炉の部屋を離れ、廊下を進む。絨毯がどこまでも敷かれていて、足音がほとんど鳴らない。明かりは、壁際にぽつりぽつりとあるランプのような形のささやかなライトだけだ。
教わった場所にトイレはあったが、用を足したあと、遠回りして帰ることにする。
静かだ。広すぎて、食堂のそばの暖炉の部屋の音は聞こえてこない。
洋館は大きく3つの棟に分かれていて、さっきまで私たちがいた、玄関からまっすぐ伸びる中央館と、途中で左右に分かれる廊下を進んだ先に、それぞれ別館があるらしい。
私は、玄関から見て右側にある別館のほうへ、恐る恐る進んでみた。
明かりが点いていなかったので、廊下でスイッチを探り当てて点けたが、やはり暗い。天井に豪華な明かりの姿が見えているが、どこかに別のスイッチがあるのだろうか。それとも、もはや完全に使われていないのか。
掃除はしているのだろう。黴臭くはないが、それでもどこか陰気で空気が澱んでいるような気がする。来客もないに違いない。まったく使われることのない、化石のような空間なのだ。
廊下の壁際に大きな台が置かれ、その上に高級そうな陶器が据えられている。かつては花が飾られ、見るものを愉しませたのだろう。いまはひっそりと、空の陶器が口を開けているだけだ。
中央館にあった大きな階段ほどではないが、幅の広い階段が姿を現した。その下から上の階を窺ったが、真っ暗で先は見えなかった。
階段は上らずに、先へ進む。
廊下の右側の壁は庭に面していて、閉じられた窓のカーテンの隙間から、外にうっそうと繁る木々の影が覗いている。
左手側に部屋が見えてきた。
豪華な装飾の、重そうな扉がある。ゲスト用の部屋だろうか。横を見ると、その先にも同じような部屋と扉があった。
目の前にある扉の、横向きのバーになっている取っ手に手をかけ、押し下げてみる。
開いた。
なにげなく取っ手に触ったが、開くとは思わなかった。
戸惑いながら、なかを窺ってみる。
「だれか、いますか」
なにか声をかけないといけない気がしたが、我ながら間抜けな言葉が出てしまった。
しかし人の気配などまったくしない。この別館自体が、まるで遺跡のように人の痕跡が途絶えた空間なのだ。
357: 館 ◆LaKVRye0d.:2017/3/18(土) 04:13:34 ID:/vcnLMBLkI
キィ。
軋んだ音を立てて、扉が開いた。
部屋のなかは暗い。ちょうど廊下の向かいの壁に明かりがあったので、その光が私の背中越しに部屋のなかへと射し込んでいる。
自分の影が、部屋の床に伸びている。足を踏み入れると、廊下の絨毯とは違う弾力を感じた。同じように柔らかいが、なんだか妙な足ざわりの床だった。
部屋の真んなかに、椅子が見えた。テーブルは見当たらない。古そうなアンティークチェアだけが、ぽつんとこちらを向いて置かれていた。
近づこうとした瞬間だ。
私はふいに立ちくらみを覚えた。ぐらりと、足元が揺らいだ気がした。
毒?
とっさにそう思った。さっきの料理に、なにか仕込まれたのか。
間崎京子の冷たい顔が浮かび、すぐに消える。そんなまさか。
立っていられなくなって、私は目の前の椅子にすがりつくように腰を下ろした。
その、木製で革張りの椅子は、硬過ぎず、柔らか過ぎず、座り心地はかなり良かった。私が毎日家でご飯を食べている椅子などとは、材質も役割もまったく違うのだ。
暗闇のなかでじっと座っていると、段々落ち着いてきた。少し気分が悪くなっただけなのだろう。
毒……。
自分で自分の考えたことが可笑しくなって、苦笑してしまった。
だれもいない別館の、だれもいない部屋で、真っ暗ななか、1人でこうしていることがなんだか心地よくて、名残惜しい気がした。
どのくらい経ったのか。さすがにもう戻らないといけない、と思って椅子から腰を上げ、光のある廊下へと足を踏み出す。
また変な感触の床を歩き、部屋の外へ出た。扉を閉めるとき、光が失われていく部屋のなかで、取り残される椅子が妙に寂しそうに見えた気がした。
(下へ続く)
358: 館 ◆LaKVRye0d.:2017/3/18(土) 04:16:40 ID:uojtOBMxmY
『館』 下
私は来た道をたどり、中央館へ戻った。
そして暖炉の部屋に入ると、京子たち4人はまださっきのボードゲームに興じていた。
「あら、おかえりなさい」
遅かったわね、とは言われなかった。他人の家のなかを探索していたことが、ふいにひどく浅ましく思えて、京子から目をそらした。
ボードゲームは京子が勝ったようだ。志保は悔しそうな顔をしていた。ずいぶんと寛いだものだ。
「ケーキを食べましょうか」
京子がそう言って立ち上がる。そして、みんなで食堂へ移動した。
京子が用意していたケーキは、大きく立派なデコレーションケーキだった。さすがに自分で焼いたものではないだろう。
ローソクの演出はなかった。庶民のするような、そういう風習はないのだろうか。あるいはケーキの上に、私たちと違う17本のローソクが立つのが恥ずかしいのかも知れない。
ケーキを食べながら、なんとなく食堂の隅に置いてあった木製の人形の話になった。
京子がそのピノキオのような人形にまつわる恐ろしい逸話を口にした瞬間から、食堂に重苦しい空気が流れた。
京子の友だち2人も、志保も、笑顔が強張っている。
京子はその様子に気づいていないのか、無視しているのか、わからない顔で、この家にあるというそのほかの奇妙な物の話を始めた。
京子は嬉しそうだ。このほうが、私にとってはすっきりする。そういうやつなんだから。
京子が1人で喋り続けていると、やがて呪いの椅子の話になった。
「ザ・バズビー・ストゥープ・チェアってご存知かしら」
その場の全員が首を左右に振った。私はどこかで聞いたことがある気がして、黙って続きを待った。
「18世紀のイギリスで、トーマス・バズビーという男が殺人罪で絞首刑になったの。彼が愛用していた椅子が、残された妻によって処分され、20世紀のなかばにはバズビー・ストゥープ・インというパブに置かれていた。死を招く呪いの椅子と呼ばれて。度胸試しに多くの若者が座ったけれど、次々と突然の死を迎えたわ。その数は、椅子がパブにあった26年間で61人と言われている」
京子がそんなことを言うと、みんな自分の座っている椅子がその椅子じゃないか、とばかりに、そわそわし始めた。
359: 館 ◆LaKVRye0d.:2017/3/18(土) 04:19:40 ID:/vcnLMBLkI
「バズビーズ・チェアは、その逸話とともに、ヨークシャーにあるサークス博物館に寄贈された。今でもそこにあるそうよ。もうだれも座れないように天井から吊るされて、ね」
なんだ。この家にあるなんていうオチじゃないのか。ひょうし抜けしていると、京子は続けた。
「バズビーズ・チェアほど有名ではないけど、私のパパが昔、カルカッタで似たような逸話のある椅子を手に入れたの。『フェレイクシアの恋人』という名前の椅子なんだけど…… 女が座ると死ぬ、と言われているわ」
おい。
首筋がぞわぞわした。
「フェレイクシアというのは椅子を作った職人の名前だそうよ。彼は病気で若くして死んだのだけど、女性と一度も結ばれなかったことを、とても悔しがっていた。だから、死んでからも、彼が生前、死ぬ間際に作った椅子を見守り続けていて、腰掛けた女性を、あの世へ呼ぶんですって。自分の恋人にするために」
おい!
私は立ち上がり、テーブルを叩いた。
「そんな椅子を、普通の部屋に置いておくな!」
すべてわかってしまった私は、怒った。
京子はきょとんとした顔をしている。
「さっき、むこうのほうの別館で、その椅子を見たぞ。階段を通り過ぎたところの部屋だ。部屋の真んなかに普通に置いてあったぞ。あれがそうなんだろうが!」
それを聞いて、京子は目を見開いた。
「あなた、座ったの?」
やはりか。この女。どこまで計算ずくなんだ。表情や言葉から読み取れることは、あまり信用できない。
「あ、でも、うそよ。座れないわ。部屋には鍵がしてあるもの」
鍵だって? 鍵は掛かっていなかったじゃないか。
「開いていたぞ」
「そんなはずはないわ。いつも、開かないように鍵を閉めているから」
「家政婦が閉め忘れたんじゃないか」
いくら来客がなく、使っていないといっても、掃除ぐらいはたまにするだろう。
「そんな椅子がある部屋なのよ。戸締りには気をつけているわ」
こいつにしては、良識的なことだ。でも鍵は間違いなく開いていた。
「確かめてみましょう」
京子も立ち上がった。
首からネックスレスのようにかけた鍵束が、ジャラリと音を立てた。
360: 館 ◆LaKVRye0d.:2017/3/18(土) 04:22:53 ID:/vcnLMBLkI
「鍵はそれだけか」
「パパの部屋にもあるけど。部屋に鍵をかけているから。今は使えるのはこれだけ」
私たちのやりとりに戸惑っていた残りの3人も、立ち上がって一緒に食堂を出た。
京子を先頭に廊下を進みながら、私は志保に耳打ちをした。
「なあ。私がトイレに行っている間、だれか部屋から出なかったか?」
「えっ。出てないよ。ずっとゲームしてたから」
だれかが先回りして鍵を開けた、ということはなさそうだ。だったら、やっぱり最初から鍵は開いていた、ということになる。
私たちは廊下を折れて、別館のほうへ向かう通路へ入る。
そして別館の廊下に入り、階段の横を通り抜けて、左手にある部屋の扉の前に立った。
あれ? そのとき、なにか違和感を覚えた。
なんだろう。
答えが出る前に、京子が扉の取っ手に手をかける。バーを下げようとして力を入れたが、びくりとも動かなかった。
「ほら」
振り向いてそう言うので、私は「どけ」と体を入れ替えて、取っ手を握った。さっきと同じように開けようとしたのに、つっかえ棒の芯が入ったように、まったく動かなかった。
「どういうことだ」
京子が胸元の鍵束から、1つの鍵を選び、紐を伸ばして扉についた鍵穴に嵌めた。そして鍵を捻る。
ガコリ、というやけに大きな音がした。
「開けたわ」
その言葉も待たずに、私は取っ手を掴んで扉を開けた。
部屋のなかに足を踏み入れると、暗い部屋の真んなかに椅子はあった。
「『フェレイクシアの恋人』よ」
京子は、友人を紹介するかのように告げた。
さっきと同じ椅子。だけど違う。
椅子に近づこうとして、足を止める。
床が違う。今は普通の絨毯の感触だ。さっきの部屋じゃない。
「明かりを」
京子は言うとおり、入り口のそばにあったスイッチで明かりを点けた。
部屋が明るくなったが、なかは殺風景だった。椅子のほかには、特に目立ったものもない。両方の壁に数点掛かっている地味な絵と、奥のほうに衣装タンスのようなものがいくつか置いてあるだけだった。
椅子に近づこうすると、京子が言った。
「座っちゃ駄目よ。危ないわ」
バカにしたような口ぶりだった。
「この部屋じゃない」
私は踵を返すと、部屋を飛び出した。
そして右隣りにあった、さらに先の部屋の扉の前に立った。
こっちだ。
さっき、トイレのあと探索したときには、階段を通り過ぎたあとに、1つ目の扉に気づかなかったのだ。廊下が暗かったせいで。さっきの違和感は、階段から部屋までの距離がさっきより近かったから感じたのだ。
だからこの、階段から2つ目の部屋の扉が、さっき開けた、鍵の掛かっていなかった扉……。
361: 館 ◆LaKVRye0d.:2017/3/18(土) 04:25:42 ID:uojtOBMxmY
そんなことを考えながら、取っ手を握った感触に驚く。
動かない。
こっちの部屋も扉に鍵が掛かっている。
唖然として、右を見る。
もう1つ隣りの部屋だったのか?
廊下を先へ進んで次の部屋を探したが、部屋に行き当たらないまま、広間のような場所に出てしまった。
どういうことだ。
やっぱり最初の1つ目の部屋が、さっきの部屋なのか。だったらなぜ鍵が掛かっていのだ。志保は、だれも暖炉の部屋を出なかったと言った。この家にいるのは私たちだけのはずだ。
私が椅子に座ったその部屋を出たあと、だれが鍵をかけたのだ?
暖炉の部屋に戻ったあとは、食堂でケーキを食べるまでずっと5人揃っていた。京子の鍵束のネックレスもずっと首からかけていた。
私は混乱した。
広間に残りの4人がやってきて、私を怪訝そうな顔で囲む。
「どうしたの。山中さん」
志保が心配そうに声を掛けてきた。
「いや……なんでもない」
無理にそう言おうとすると、舌がもつれそうになった。
座ると死ぬ椅子だと?
そんなものに、なぜ私は座ったんだ?
あのとき、立ちくらみがした。全校集会で倒れる女生徒じゃあるまいし、日ごろ体を鍛えているこの私が、なぜそんなタイミングで?
じわじわと気味の悪い感覚が背中の辺りに広がっていく。
だれかに、暗く冷たい場所からじっと覗かれているような……。
「待って、山中さん。あなた、本当に椅子に座ったの?」
この声は、京子か。
私は顔を上げた。そして睨みつけるように京子を見る。
「座ったのね」
心なしか青ざめたような表情で京子は呟く。そして、じっと考え込むような仕草をした。
それからふいに急に口調を変えて、言った。
「さあ、みなさん。もう遅いわ。ご家族が心配なさっているかも知れない。もうお開きにしましょう。今日は私の誕生日会にきてくれて本当に嬉しかった。ありがとう」
有無を言わせない言葉だった。
京子は一方的に、自分で主催をしたこの誕生日会の終わりを告げた。
362: 館 ◆LaKVRye0d.:2017/3/18(土) 04:29:31 ID:uojtOBMxmY
京子の友人たちは戸惑いながらも「そうね、もう遅いから」などと言って足早に自分の荷物を取りに行った。
志保も強張った顔で頷いている。
帰り支度をしたあと、もう一度京子はお礼を言って、玄関までみんなを見送った。
そして私にだけ言ったのだ。
「山中さんは、気分が悪いみたいだから、もう少し休んでいくといいわ」
私は京子の意図を読み取って、「そうさせてもらう」と返事をした。
志保が心配そうになにか言おうとしたが、「大丈夫だから。帰り道も、もう覚えた」と、私はあえて突っぱねるように言った。
悪いな。ここからは、私と、こいつの時間だ。
玄関から出て行く3人を見送って、私と京子は館のなかに戻った。
「で、どういうことなんだ」
「……」
京子はなにかを隠している。そしてなにかを恐れているようにも見える。
どちらも信用できないが、鍵の掛かった部屋だけは本当に存在していた。
「紅茶を淹れるわ」
京子はそう言って食堂へ戻った。私もついていく。
だだっ広いテーブルの端に座っていると、いい香りを漂わせながら、2つのカップが目の前に置かれる。
なんだ。うまいな。一口ごとに緊張がほぐれていくような気がする。
しばらく2人とも無言で紅茶を飲んだ。
そうして私たちは、ほぼ同時にカップを置く。
「私の祖父には2人の妹がいたの。大叔母、ということになるのかしら。2人とも大人になる前に亡くなっていて、私もお会いしたことがないけど。その2人は双子で、見分けがつかないくらい似ていたそうよ。たぶん一卵性双生児だったのね。でもその双子は、性格は正反対で、おしとやかと活発。そのせいか、いつも喧嘩ばかりしていたそうなの。2人が病気で亡くなったあと、そんな妹たちのことを偲んで、祖父が、彼女たちが住んでいた部屋に、ある仕掛けをしたのよ。今でも私たちは、『双子の部屋』と呼んでいるわ。祖父はからくり細工が好きで、そんないたずらが、この家の色んなところに残っているの」
「なんだ、その仕掛けって」
「他愛ないものよ。2人の住んでいたそれぞれの部屋の鍵を、連動させたの。片方が開けば、もう片方が閉じる。片方を閉じれば、もう片方が開く。つまり、2つの部屋の鍵は、どちらかが必ず開いていて、もう片方は必ず閉まっているの」
「なんだその悪趣味な仕掛けは」
「部屋のなかはそっくり同じ。でも扉だけが反対なの。祖父は容姿が瓜二つだったのに、性格が正反対だった双子の妹と、その部屋を重ね合わせたのね」
363: 館 ◆LaKVRye0d.:2017/3/18(土) 04:33:33 ID:uojtOBMxmY
金持ちの考えることは本当に意味がわからない。退廃的な匂いがして、気持ちが悪い。
「待て、それがあの階段の先の2つの部屋か」
「そうよ」
階段の先にあった1つ目の部屋は、京子が開けようとして鍵が掛かっていた。だったら、そのとき右隣にあった2つ目の部屋は、鍵が掛かっていなかったんじゃないか?
京子が鍵を開けて、私たちが部屋のなかに入ったとき、隣の部屋の扉は連動する仕掛けのために、逆に鍵が掛かった。
そうか。だから1つ目の部屋を出て、隣の部屋の扉を開けようとしたとき、鍵が掛かっていたんだ。
京子が1つ目の部屋の鍵を開けたとき、やけに大きな音が響いたのはその連動する仕掛けのせいか。
だったら、私が椅子に座ってしまったあの部屋は、やっぱり2つ目の部屋だ。私たちが京子の手料理を食べている間もずっと、鍵が開いたままだったのだから。
なにが、『そんな椅子がある部屋なのよ。戸締りには気をつけているわ』だ。
「椅子は2つあったんだな」
そう問い掛けると、京子はゆっくりと笑みを浮かべて言った。
「ええ。そう。『フェレイクシアの恋人』は、まったく同じ2つ揃いの椅子なの。椅子職人の好きだった幼馴染が双子だったから、それにちなんで作られたそうよ」
双子。また双子か。そして、それは……。
「あなたも、双子よね。妹は、まひろさんとおっしゃったかしら」
「だったら、なんだ」
「椅子は、あなたを呼んだのかも知れない」
京子は妖しい微笑みを浮かべる。
座ると死ぬ椅子にか。悪い冗談だ。
「鍵が連動してるなら、必ずどっちかの扉は開いてるってことだろう。そんな部屋に、座ると死ぬ椅子なんてものを両方置くなんて、なにを考えているんだ」
性格が悪いにもほどがある。
ようやく、こいつの本性が見え始めた。
「そんな危険なことはしないわ。確かに、2つの部屋それぞれに椅子は置いてあるけど、間違って座ってしまわないように、安全策は講じているし」
「どこがだ。現に私は……!」
「座ったの?」
また、京子が緊張した顔つきになった。
「あの椅子は本物よ。この家に来てからも、3人死んだわ。パパの従姉妹と、使用人と、そして…… 私の母。座った順に死んでいった」
なんだ、その表情は。やめろ。私も。私も……。
座ったんだぞ。
「案内するわ。来て」
京子は立ち上がった。食堂を出て行くので、仕方なくついていく。
また薄暗い廊下を通って、中央館から別館のほうへ向かう。同じ道順で階段の前を通り、そして双子の部屋の前にやってきた。
「こっちの、左の部屋にはいつも鍵を掛けているの」
さっき部屋を出たときにも、ちゃんと閉めたらしい。
京子はガコガコと取っ手を揺すって見せている。
「じゃあ、右の部屋の鍵はいつも開いてるんだろう。そっちにある椅子はどうするんだ」
「ええ、危ないわね。だから、大丈夫なようにしてあるの。バズビーズ・チェアと同じように」
なに? なんだそれは。
364: 館 ◆LaKVRye0d.:2017/3/18(土) 04:36:15 ID:uojtOBMxmY
私たちは双子の部屋のうち、右側の部屋の前に進んだ。
さっきは左の部屋の鍵を開けたせいで、連動して鍵が掛かってしまったので、こっちの部屋は結局扉を開けていない。
けれど、トイレの帰りに私が迷い込んだのは、間違いなくこの部屋だ。
「言ったでしょう。サークス博物館に展示されているバズビーズ・チェアは、調子に乗っただれかが座ってしまわないように、こうしてるって」
京子は鍵の掛かっていない扉の取っ手を掴むと、サッと開け放った。
そして壁際のスイッチを点け、部屋に明かりが灯る。
私は目の前に広がる光景を、信じられなかった。
呆然として、口が利けない。
絨毯の敷き詰められた床には、なにもない。
天井に、椅子が張り付いている。重力に逆らっているかのように、天井を床にして逆さに据えられているのだ。
「なんだこれは」
ようやくそんな言葉を搾り出した。
「博物館のバズビーズ・チェアは、天井から吊るしてあるだけらしいけど。うちは気軽に触ることさえできないように、天井に逆さまに打ち付けてあるの」
日本家屋と比べてはるかに天井が高く、そこに打ち付けられた椅子には、たしかにジャンプでもしないと触ることはできない。
しかし……。
「本当にあなたは座ったの?」
京子がそう訊ねてくる。疑っているのではない。まるで、なにか得体の知れないものを、恐れているかのような表情だった。
空間がぐにゃりと歪むような錯覚があった。
自分が今立っている場所が、ふいにひどく不安定なところのような気がして、立ちくらみがした。
「椅子が、あなたを呼んだのね? そうでしょう」
馬鹿な。
そんなこと、あるはずがない。天井に逆さまに打ちつけられた椅子に座るなんて。
「やっぱり隣の、1つ目の部屋か。私がさっき入ったのは。どんな細工をしたんだ」
2つの部屋の扉の鍵が連動している、なんていう妙な仕掛けがあったんだ。他にもなにか仕掛けがあるに違いない。私が部屋を出たあとに、勝手に鍵が掛かったと考えるほうが、天井の椅子に座ったなんていう現象より、ずっと現実的だ。
「いいえ、ほかに仕掛けはないわ」
「うそをつけ。あんなところにある椅子に、どうやって」
激高してそう喚きかけた私の目に、奇妙なものが飛び込んできた。
椅子の足の少し手前。天井に変な模様があるのだ。
天井には、壁紙というのか、パネルというのか、柔らかそうなシートがその一面を覆っている。その絨毯のような見た目の綺麗なシートに、荒れているような跡があった。それも、入り口から、椅子の足までの間に伸びている。
あれは……
私は口を押さえた。叫びそうになったのを必死にこらえたのだ。
365: 館 ◆LaKVRye0d.:2017/3/18(土) 04:39:43 ID:uojtOBMxmY
足跡だ。
わたしの。
天井に、私の足跡がついている。
あの椅子に座るときに、やけに床の感触がおかしいと思っていたのは、そのせいなのか。
京子も、私の視線の先を見て、目を見開いて驚いている。
「出ましょう」
動けなくなっていた私を、京子が肩を貸すようにして歩かせる。
ふらふらしながら、促されるままに歩き続けて、私たちは中央館のほうへ戻った。まるで逃げるように。そして中央館のなかほどにあった大きな階段を上り、奥まったところにある1つの部屋に入った。
「離せ。もう歩ける」
京子の手を振りほどいて、近くにあった椅子にドシンと腰を下ろした。
「ここは私の部屋よ。落ち着いて」
京子はそう言って、部屋の明かりをつけた。
広い部屋だった。高校生の女の子が住む部屋とは思えない。殺風景だとか、そういうことではない。部屋の壁際に、大きな柱時計がこちらを取り囲むように並んでいたのだ。その数は10や20ではなさそうだ。
今度はなんだ。もういい加減にしてくれ。どっと疲れたような気持ちになって、深く息をついた。
「暖房をつけるわね」
京子は部屋の隅にあった、古そうな暖房器具らしいものにスイッチをいれた。
「なんだこの時計の墓場は」
自分でそう言ってから、気がついた。よく見ると、どの時計も動いている気配がなかった。それどころか、指している時刻がどれもバラバラなのだ。
壁に掛かっているものもあるが、ほとんが、その胴体に大きな振り子を抱えた、床に据え置くタイプの柱時計だった。
昔の映画のなかでしか見ないような代物だ。
それらが整然と、ひっそり立ち並んでいる光景は、まるで墓石の群のように見えた。
「アンティーク時計よ。子どものころから好きで、パパにねだって集めたの」
京子は勉強机らしきものの前にあった椅子に座って、こちらを向いた。
366: 館 ◆LaKVRye0d.:2017/3/18(土) 04:42:53 ID:uojtOBMxmY
「人の作ったものは、いつかみんな死ぬ。時計にとっては、針が動かなくなるときがそうね。人の作った機械が、人の見ていない、だれもいないところで、ひっそりと死んでいく。形ある無生物の死を、生物のそれのように定義づけることは難しいわ。でも私は、時計の死の潔さがとても好き」
そう言って、視線を正面の一際大きな柱時計に向ける。
ガラス張りの胴体の向こうに、長い振り子が幾本か覗いている。上部にある時計部分には、豪華な装飾が施されていたが、短針と長針は張り付いたように2時半を指していた。
「自分が死んだ時間を、指している」
ハッとした。
その京子の声の響きが、とても心地よかったからだ。こいつの言葉は、蠱惑的だ。
「いつまでも、自分の死んだ時間を指し続けているのよ。どの時計も、すべて。なんだか、美しいと思わない?」
退廃的だ。没落したかつての子爵家という血筋と、この館の古びた空気がこんな娘を育てたのか。
私は、この女の作り出す妖しい空間に取り込まれないように警戒心を強める。
「あの椅子は、本物なのか」
「ええ。本物よ。この家で起きた3つの死も」
ただ……
京子は言いよどんだ。
「ただ、なんだ」
「フェレイクシアに、恋人と見初められた人間は、今までに何人いたかしら。座ってしまっても、全員が全員死んだわけではないわ。この家でも、パパは新しくきた家政婦には、必ず座らせていた。もちろん、なにも説明しないでね」
最悪だ。こいつの父親は。
「でも、死んだのは1人だけだった。若くて、とても綺麗な人だったそうよ」
「私なら、大丈夫だといいたいのか」
「そんなことないわ。あなたは綺麗よ。たぶん、自分が思っているよりも、ずっと」
虫唾が走った。こいつにそんなことを言われたくない。
「椅子の呪いは不安定ね。人が移り気であるように」
そう言ったあと、京子はふいに鍵束を掴んだ。
367: 館 ◆LaKVRye0d.:2017/3/18(土) 04:46:14 ID:uojtOBMxmY
「あなたが入って、そして椅子に座った部屋は、本当は左の部屋だったのかも知れない。あとで掛かっていた鍵のことは私にもよくわからないけれど。この家では、不思議なことがときどき起こるから」
「持ち主も把握し切れてない、カラクリ細工だらけだってのか。でも椅子が床にあるほうの部屋だったとしても、私が椅子に座ったのは間違いないんだ」
どうしてくれる、と言いそうになって、それはこらえる。
すると京子は変なことを言うのだ。
「言わなかったかしら。左の部屋の椅子は、レプリカなのよ」
なんだと? 聞いてない、そんなことは。
「パパのガールフレンドに椅子の話をすると、怖いもの見たさでどうしても座りたがるから、そっくりに作ったレプリカのほうで満足させてあげていたそうよ」
「ちょっと待て。だったらなぜ、そのレプリカの部屋のほうに必ず鍵をかけていたんだ」
「ほかに大事なものを置いているからよ」
「大事なもの?」
左の部屋にあったものを思い出してみる。
たしか洋服箪笥のようなものと、小さな地味な絵がいくつかあっただけだ。私がそう言うと、京子は「そんな風に言われると、レンブラントがかわいそうね」と笑った。
そう言えば、右の部屋には天井の椅子以外、なにもなかった気がする。
「だったら、椅子が2つ揃いだと言ったのはウソか。椅子を作った変態野郎の幼馴染の双子の話も?」
そうか。双子の話に持っていったのは、私にあてはめるためか! そもそもなぜ、こいつが双子の妹、まひろのことを知ってるんだ。
一方的に男に片思いされて、知らないうちになにもかも調べられる女性の気持ちが、わかった気がする。気色が悪い。
そう思って鳥肌を立てていると、京子は首を振った。
「椅子は2つ揃いよ。フェレイクシアの双子の幼馴染への執着の話も本当」
「だったら、もう1つの椅子はどこにあるんだ」
そう怒鳴ってから、体の中に嫌な予感が走った。
こいつ……
私から、その言葉を引き出したな。
汗が皮膚の上に湧き出てくる。自分が座っている椅子の感触が、艶かしく躍る。
368: 館 ◆LaKVRye0d.:2017/3/18(土) 04:49:27 ID:uojtOBMxmY
部屋に入ってきたあと、無意識に腰掛けたこの椅子は、どんな形をしていた?
思い出そうとしても、思い出せない。自分の体を見下ろそうとしたが、首の油が切れたようにうまく動かなかった。
京子は笑って、立ち上がった。
「私が愛用しているわ」
京子のドレスのスカートがそこをどくと、座っていた椅子が見えた。見覚えがあった。同じ椅子だ。
なんてやつだ。
私は唖然として固まった。
こいつは、やっぱり普通じゃない。
「椅子の呪いも、弾くことは可能よ。私と同じ場所に、あなたも来ることができる」
京子はそう言って、こちらに右の手のひらを伸ばした。
弟子を導く、教導者であるかのように。
「願い下げだ」
とっさにそう言い返した。
「そう」
京子はさほど残念そうでもなく、伸ばした手を下ろす。そしてまた、あの椅子に腰掛けた。平然と。
「今この街で、途方もなく大きな呪いが蠢いているわ」
こちらを見るでもなく、京子はひとり言のように淡々と語った。
「目に見えない、とても邪悪ななにかが。……いったい、なにが起ころうとしているのかしら。私は、見届けたいと思っているの。この街の、未来を」
京子は指を交差させ、その上に顎を乗せた。前にも見たことがある。無意識にする仕草なのかも知れないが、彼女の意思の形を表しているかのようで、とても似合って見えた。
369: 館 ◆LaKVRye0d.:2017/3/18(土) 04:52:15 ID:/vcnLMBLkI
沈黙が降りた。
無数にある時計から、時を刻む音はなにも聞こえない。
すべてが古い灰につつまれていく。石化していくような時間だった。
やがて私は腰を上げた。
「帰るの」
「ああ」
「今日はありがとう。来てくれて」
「……誕生日、おめでとう」
今日、まだ一度も言っていなかったような気がして、そう言った。
「ありがとう」
京子はふっ、と息を漏らした。
それから玄関まで送ってもらって、外に出た。
あの椅子のある別館のほうが気になりはしたが、意地でも振り返らなかった。もうなにが本当で、なにが嘘なのかわからない。
すっかり遅くなってしまった。さすがに親に怒られるかも知れない。
空には一面の星空が輝いていた。私の住む市街地から少し離れたせいか、街の明かりが少なくて、その分、星がよく見える。
ふと思いついて、玄関に立っている京子を振り返った。
「お前、さそり座生まれだよな。さそり座の女って、歌になるくらい酷い言われようだけど、お前に関しては当たってると思うぞ」
それを聞いて、京子は露骨に不快そうな顔をした。
「お前のホロスコープを確認してみたけど、お前が生まれた瞬間に、東の地平線にあった星座は、やっぱりさそり座だったよ。上昇宮って言うんだ。お前の本質を表しているのが、それなんだ」
やりかえしてやった。
単純に、そう思って気が少し晴れた。すると京子は、「くだらない」と言ってため息をついた。
「お前、占いが好きなのに、どうして占星術は嫌いなんだ」
私よりはるかに色々な占いに長けているのに、どうしてなんだろう。素直にそう思った。
「そうね」
京子はそう言って星空を見上げた。
つられて私も空を見る。
「私が子どものころ、夜にこうして庭に出ていたの。そばにはだれもいなかったわ。みんな家のなかにいた。私だけ外で、そのとき庭にあった木馬に乗っていた。なぜそうしていたのか覚えていないわ。パパに怒られて拗ねていたのかも。何時くらいだったのかしら。急に地面が揺れたのよ」
「地震か」
私は、自分が子どものころに経験した地震のことを思い出そうとする。しかし、あまり記憶に残っていない。
370: 館 ◆LaKVRye0d.:2017/3/18(土) 04:55:34 ID:/vcnLMBLkI
「すごい揺れだった。地面がひっくり返るかと思うくらい。木馬から転げ落ちて、私は泣き叫んだわ。痛かったし、強かった。おうちも揺れていて、今に崩れ落ちそうだった」
そんな大きな地震があったか? 私の家も同じ市内だというのに、まるで思い出せなかった。
「揺れが収まって、私は泣き止んだ。家に入ろうとして、立ち上がったとき、奇妙なことに気がついたの」
京子は空を指さした。
「星の配置が変わっていた」
冗談めかしたような言葉だったが、その声は緊張を帯びたようにかすかに震えていた。
「空の星が、すべてでたらめな形に変わってしまっていたのよ。目を擦ったわ。でも見間違いじゃなかった。私は星が好きな子どもだったの。星座の本を片手に、夜空を見るのが好きだった。遠く離れた星ぼしを結びつけ、古来から人々がつむぎだした物語を空に浮かべて、夢想するのが好きだった。なのに、その夜、たった一度の地震のあと、そのすべてが狂ってしまったのよ。私は怖くなった。いったいなにが起こったのかわからなくて、また泣いてしまった。そして家に帰って、パパに抱きついたの。地震のせいで空が揺れて、星がずれてしまった。そんなことを口走ったと思うわ。なのに、パパは私の頭を撫でてこう言ったの。『大丈夫。地震なんて起きていないし、一晩寝れば空も元通りになるよ』って。泣く子どもをあやす言葉でも、ちょっとおかしいと思わない? 空の星のことはともかく、地震が起きてないって言うなんて。でもそれは、その言葉の通りだった。地震は起きていなかったのよ。次の日、だれに聞いても、友だちに、先生に、道行く大人に聞いても、だれ1人、地震のことを覚えていなかった」
京子は力なく笑った。
371: 館 ◆LaKVRye0d.:2017/3/18(土) 04:59:52 ID:uojtOBMxmY
私は背筋がゾクゾクとしていた。なぜだろう。子どものころの、荒唐無稽な話なのに。
「次の夜も、その次の夜も、星の形は変わってしまったままだった。太陽や月、火星や土星……太陽系の星はそのままだった。でも遠くの星は、どれも似ても似つかない配置になってしまっていた。なのにそれを、だれも不思議に思っていなかった。あの地震と同じように、みんなの記憶まで変わってしまっていたの。街の本屋で星座の本を買ったわ。どの頁にも、私の見たことのない星座がちりばめられていた。怖かった。怖くてたまらなかった。私が……私だけが、別の世界に紛れ込んでしまったみたいで」
それは、本当なのか?
そう訊こうとして、ためらわれた。あまりに真摯な声と、表情だったから。
「黄道12星座も変わってしまっていたわ。計算尺座も、大猫座も、帆掛け船座も、なくなっていた。あの可愛いねずみ座も、気高い銃士座も。みんなみんな。うお座やてんびん座はあったわ。でも似ても似つかない形になってしまっていた。クルミ座はどこにいったの? 大きく手を広げた山猿座はどこに? あの、全天を睥睨する13の赤色巨星の群、魔王座は……?」
京子は早口でそう捲くし立てると、そこで息を止め、ゆっくりと吐き出した。
「雑誌で星占いのページを開いても、私はどこを見ていいかわからないの」
京子はこちらを見て笑った。泣いているような笑顔だった。
私はそのとき初めて京子の心に触れたような気がした。
「お前の本当の星座は……」
くじら座よ。
あのとき、冗談だと思った言葉が脳裏に蘇る。
京子ははにかむように俯いた。そして、もう空を見なかった。
一面の星空の下で、私はなにか謝る言葉を探していた。けれど、それは余計なことのようにも思えた。
そのかわりに、京子の胸元を指さした。鍵束の首飾りを。
「それ、変だぞ。いくつ部屋があるのか知らないけど、マスターキーを作ったほうがいいよ」
照れ隠しだった。あまり深い意味もなく、最初から思っていたことを口にしただけだった。
372: 館 ◆LaKVRye0d.:2017/3/18(土) 05:02:48 ID:/vcnLMBLkI
京子は自分の胸元を見下ろして、少し気を緩めたように微笑んだ。
「パパはマスターキーを使っていたけど、私はこっちのほうが好きなの」
「変わったやつだ」
笑ってやった。少しでも救われればいいと思って。
すると、京子は玄関口に立ったまま、鍵束を右手でチリンと鳴らして言った。
「マスターキー…… 本当の意味で、『支配者の鍵』と呼べるものはそんな即物的なものではないわ」
「なんだそれは」
「たとえば……」
京子は、目を閉じてゆっくりと言った。
「ひらけゴマ」
その瞬間、京子の背後、玄関の向こうの館のなかから、体に響くような音が聞こえてきた。
ガガコン……。
鈍く響く、重層的な金属音だった。まるで無数の扉の鍵が、いっせいに開いたような。
私は慄然として、耳に反響するその音の意味を考える。
京子は目を開き、私をまっすぐに見つめた。
「気をつけて帰ってね」
なんなんだ、こいつは。
今のは、祖父が作ったという仕掛けなのか。それとも……?
全身に鳥肌が立ったまま、私はその館を後にした。まるで逃げるように。
帰り道、京子の言っていた、星の配置が変わったという話のことを考えた。子どものころの荒唐無稽な記憶だと、笑い飛ばすのは簡単だ。ディティールが細かすぎるのが気持ち悪いが。
けれどそこには、あいつがあいつである、その根源を垣間見た気がする。
あいつは自分を異邦人だと言ったのだ。
1人なんだ。
そうか。
クラスで取り巻きたちに囲まれていても。誕生日会で、ハピバースデーと歌ってもらっていても。
そのことが、ストンと胸に落ちるようにわかった。
そして私は、彼女の部屋で、まっすぐに差し出された手のことを思った。私が握り返さなかった、あの手のひらのことを。
(完)
373: 1 ◆LaKVRye0d.:2017/3/18(土) 05:06:50 ID:uojtOBMxmY
今日の書き込みで最初2〜3回酉を忘れましたが、間違いなく本人です
赤(書籍版)、館(上・下)
【了】
374: 失踪 ◆LaKVRye0d.:2017/3/26(日) 00:25:01 ID:F.ceRSUuyA
『失踪』(書籍版)
双葉社『師匠シリーズ 師事』に載った分です。
テンプレ:商業目的でない限り、転載は自由にしていただいてかません。リンクじゃなくて、文字貼り付けでも可( ・ω・ )もぐー
375: 失踪 ◆LaKVRye0d.:2017/3/26(日) 00:26:54 ID:F.ceRSUuyA
師匠との話をこれから語っていくつもりだけれど、一晩で語り尽くせるものではない。長く、とても長くなるだろう。だから、先に一連の出来事の1つの結果である、師匠の失踪について書いておきたい。
かの聡明なシェヘラザートは、床をともにした女の首を夜明けに刎ねるという残酷な王に、美しく奇妙な物語を一夜一夜語り続けた。千夜を生き延びるため、続きはまた明日に、と添えて。
師匠との話は、そんな大それたものではないし、いつあなたが飽きてしまい、頁を閉じることでこのささやかな物語を終わりにしてしまうかもわからない。
そのとき、頁を閉じるあなたの手を止め、その耳を再び傾けさせるのは、この物語の向かう結末を知りたい、という渇望だろうか。
先に言ったように、彼の失踪は1つの結果に過ぎない。
本当に語りたいのは、彼がなにを愛し、なにに怒り、なにを夢想し、なにを嘆き、なにを笑い、なにに失望し、なにに焦がれ、なにに敗北したのか。そのすべてであり、それらを取り巻く人々のことなのだ。
この話は彼と出会った大学1回生の春から始まる。やがて舞台は追想の過去へと戻るはずだ。そしてその眩しく輝く時代の破滅と絶望を経て、時計の針は再び未来へと進み始めるだろう。
なんだか照れくさくなってきたのでこの辺にしておくけれど、1つ、追記したいことがある。
ここには、すべてではないけれど、幽霊やお化けにまつわる話がたくさん出てくる。
もし、あなたが夜寝る前に読んでしまい、どうしても怖くなってしまったなら、静かに目を閉じて欲しい。そしてある言葉を思い出して欲しいのだ――。
376: 失踪 ◆LaKVRye0d.:2017/3/26(日) 00:28:31 ID:F.ceRSUuyA
◆
俺が大学3回生のとき、師匠はその大学の図書館司書の職についていた。
その年の夏ごろから師匠はかなり精神的に参っていて、よく「そこに女がいる!」などと言っては、なにもない空間に怯え、ビクビクしていた。
俺にはなにも感じられなかったが、師匠ほど霊感が強くないので見えないだけだと思って一緒にビビっていた。
秋のことだった。そのころ俺は師匠とはめったに会わなくなっていたが、あるときたまたま学食で一緒になって同じテーブルについた。
「後ろの席、何人見える?」
師匠が急にそんなことを言いだした。夜9時前で学食はガラガラ。後ろのテーブルにはだれも座っていなかった。
「なにか見えるんですか?」と訊くと、「いるだろう? 何人いる?」とガタガタ震えだした。
しかしなにも見えない。耳鳴りもないし、出るとき特有の悪寒もない。俺は困惑した。
俺は少し考えてから、「大丈夫です。なにもいませんよ」と言った。すると師匠は安心したような顔をして、「そうか。よかった」と言ったのだ。
そのとき、確信した。霊は後ろの席になどいない。師匠の頭に棲みついているのだと。
さっきの狼狽などなにもなかったかのように師匠は淡々と親子丼に箸を伸ばす。俺は、どうしようもない悲しい気持に襲われ、目の前の料理が喉を通りそうになかった。
その3日後に師匠は失踪した。職場である図書館になにも言わず、ただ辞職願いを残して。探すなという置手紙もあったそうだ。それを知っても俺は動けなかった。
自分でもなぜだったのかわからない。なぜだったのだろう。ふと思い返しても、探さない理由は思い浮かばない。
しかし、探し出していったいどうしようというか、それも思い浮かばなかった。結局、師弟関係はそのときもう終わっていたのだろう。
師匠の家庭は複雑だったらしく、叔母という人がアパートを整理しにきた。
凄く感じの悪い人で、親友だったと言ってもすぐ追い出された。普通、友人に失踪前の様子くらい訊くだろうに。結局アパートはあっという間に片付けられ、空になった。
そして予約でもしてあったのか、すぐに次の住人が入った。部屋から出てくるところを見たが、チャラついた格好の若者だった。師匠や俺の関わったようなものとは全く無縁の世界を生きているやつだろう。
そうして師匠のいた空間は、いつの間にか次々と別のもので埋まっていった。
377: 失踪 ◆LaKVRye0d.:2017/3/26(日) 00:29:51 ID:F.ceRSUuyA
俺が大学に入ったころ、所属していたサークルでまことしやかに流れていた噂がある。師匠に関する噂だ。
「あいつは人を殺してる」
冗談めかして先輩たちが言っていた。たぶん真実ではないかと思う。
師匠は酔うとよく口にしていたことがある。
「結局のところ、死体をどこに埋めるか。それがすべてだ」
自分に関する噂に悪乗りして、わざわざサービスをしていたのは明らかだったが、そんな話をするときの目がやたら怖かったのを覚えている。
師匠の車でめぐった数々の心霊スポットのことが思い出される。
とある山にある、皆殺しの家という名所に行ったとき、彼はこんなことを言っていた。
「不特定多数の人間が深夜、人目を忍んで行動する。そして怪奇な噂。怨恨でなければ、個人は特定できない」
聞いたときはただ気持ちが悪いだけで、なにを言っているのかよく分らなかった。しかしたぶん師匠は「恨みもなにもなく、ただ殺した人間」の死体をどこに埋めるのがいいか、という話をしていたのだ。
心霊スポットに埋めるのがいい。そううそぶく彼は、助手席に乗る俺を露骨に怖がらせようとしていた。
深夜そんな心霊スポットを巡る日々に、ドロドロとした疑念と畏怖を加えたのだ。実に悪趣味だ。だが、それさえある種の隠れ蓑だったような気がする。
以前、俺は師匠に連れられて、車で北に1時間以上かかる山間の町に行った。そこには、『もどり沼』とれる奇怪な場所があった。かつて天狗が空から落ちてきたという伝説があるのだそうだ。
やがて神社にまつられるようになった天狗のグロテスクな話を道みち聞かされて、俺は気分が悪くなった。『もどり沼』というのも、空から落ちてきた天狗にまつわる場所らしい。
「散々探してやっと見つけたんだよ」
深夜だった。車を降り、山に分け入って道なき道を進んだ。頼りない懐中電灯の明かりが照らし出す前方に、ぼんやりとした光が見えた気がした。ついで、水の生臭い匂いが漂ってくる。
「これが?」
沼だった。小さな沼が、人けのない山中に月の光を反射していた。
「そうだ。もどり沼だ。地元の人でも、もう知る人が少ないという曰くつきの場所だ。天狗を祀った神社が少し離れた場所にあるんだが、そこに由来と逸話が古文書で伝えられている」
378: 失踪 ◆LaKVRye0d.:2017/3/26(日) 00:31:39 ID:di6NFRnXyA
◆
沼の底に、大昔天狗が落とした珠(たま)が眠っているという。
かつて美しい泉があったその土地は、漏れ出る珠の呪力で沼となり、瘴気に満ちた恐ろしい場所になってしまった。
村人も寄りつかなくなったその沼に、ある日、流行り病で妻に先立たれた男がやってきた。この世をはかなみ、あとを追って死のうと思ったのだ。
淵に来るだけで命を吸われるような禍々しい瘴気が充満する沼に、男は足を踏み入れようとする。その前に、妻の形見である髪の毛の房を沼へ投げ入れた。
するとどうだろう。沼の中央がぶすぶすと沸き立つように揺れ、赤子の悲鳴のような恐ろしい声が、どこからともなく聞こえてきた。男は驚き、そばにあった潅木の裏に身を隠した。
波立つ沼がやがて静かになったころ、平らかな水面にいつの間にか人の顔が浮かんでいた。妻の顔だった。そう気づいた男は水に飛び込み、妻を沼の中から引きずり出した。
天狗の落としたという珠の力であろう。死人となったはずの妻があの世から戻ったのだ。
だが、妻は男の呼びかけに応えなかった。姿かたちは妻そのものだったが、その中には魂が宿っていなかったのだった。やがてなにも言わぬまま、人の形をしたものはモロモロと崩れ、泥に還っていった。あとには髪の毛の房だけが残っていた。
あまりの恐ろしさに山を駆け下りて逃げ出した男は、死ぬことをやめた。そしていつしか新しい妻を娶ることになった。
その暮らしは、つつましいながらも満ち足りた日々だった。新しい妻は器量こそ悪かったが、よく働き、男を立て、舅、姑を敬う、よくできた女だった。
数年の月日が経ったある日のこと、男は新しい妻を誘ってあの沼にやって来た。そして、拾って隠していた亡き妻の髪の毛の房を沼に投げ入れ、ついで新しい妻を沼に突き落とした。
泳ぎの達者であったはずの新しい妻は、もがきながら沼の底へ沈んでいった。まるでだれかに足を掴まれ、引きずり込まれているかのようだった。いつかのように沼は沸き立って揺れ惑い、やがて静かになると昔の妻の顔が水面に現れた。
男が沼から引っ張り出すと、妻は呆然としていたが、しばらくすると呼びかけに応え始めた。確かに妻だった。死んだはずの。今度こそ死人があの世から戻ったのだ。
男は妻の身体を抱き、咽び泣いた。
379: 失踪 ◆LaKVRye0d.:2017/3/26(日) 00:33:51 ID:F.ceRSUuyA
「酷い話ですね」
俺の感想に師匠は頷かなかった。かわりに、「ただの古い言い伝えだ」と呟いた。そうして、今でも腐ったような臭気を放つ沼にゆっくりと近づいていった。
「言い伝えにはまだ続きがある。男の話を伝え聞いたこの地方の庄屋が、若くして死んだ1人娘をあの世から呼び戻そうとして、同じことをしたんだそうだ。しかしうまくいかなかった。
娘の姿かたちをしたものは現れたが、魂が宿っていなかった。そしてあっという間に泥に還ってしまった。
女中を騙して沼に沈めたが、やはり同じだった。土地の代官もその話を聞いて同じことをした。息子を生き返らせようとして。やはり駄目だった。何人沼に沈めても。しかし、最初の男のほかにも、死人を蘇らせることに成功した者もいた」
師匠は沼の淵にしゃがみ込んで、淡々と語る。
「何が違ったんですか。死んだ人間を蘇らせるのに成功した人と、失敗した人で」
疑問を口にした俺に、師匠は薄ら笑いを浮かべ、「人の魂がどこから来るのかって話だ」と言った。そしてまともに答えないまま、沈黙した。
風でガサガサと木々が揺れる音があたりに渦巻いていた。俺は沼から離れた場所で立ち尽くしている。師匠は沼の淵にしゃがんだままちらりと振り返り、「来ないのか」と言った。
俺は首を左右に振り、あとずさる。いったいなにを恐れたのだろう。死人が蘇るなどというこんな与太話を?
「さて、帰るか」
立ち上がり、師匠は変に明るい声を出した。しかしその眼の奥に渦巻く暗い光を見た気がして、俺はもう一度あとずさった。
師匠の車のトランクを一度こっそり開けたことがある。しかし袋に詰まった土くれがあっただけで、なにも面白いものは隠していなかった。そのときのことをどうしても思い出してしまった。
師匠には恋人がいたが、俺が大学3回生になるときに県外で就職が決まり、去っていってしまった。カンのいい人で、そのころ狂いつつあった師匠から逃げたのかも知れなかった。
しかし、同じように卒業して去っていった先輩たちのなかで、不思議なことに彼女だけはその後、音信不通になってしまった。携帯電話も番号が変わってしまったのか、通じなくなった。師匠も連絡が取れないと言って心配していた。その心配が本心であればいいが、人の心の中は覗けない。
夜をさまよい、心霊スポットを、人の死の色濃い場所を巡り続けた彼は、いったいなにを求めていたのか。失踪した先には、求めるものがあったのだろうか。今はもうわからない。
380: 失踪 ◆LaKVRye0d.:2017/3/26(日) 00:35:23 ID:F.ceRSUuyA
師匠の忘れられない言葉がある。
俺が初めて本格的な心霊スポットに連れていかれ、怯えきっているときに師匠がこう言った。
『こんな暗闇のどこが怖いんだ。目をつぶってみろ。それがこの世で最も深い闇だ』
眠れない夜に、今でもその言葉を思い出す。
381: 幽霊物件 ◆LaKVRye0d.:2017/3/26(日) 00:38:26 ID:F.ceRSUuyA
『幽霊物件』
師匠から聞いた話だ。
大学2回生の春だった。
僕はバイト先の興信所である小川調査事務所のデスクに腰掛けて、所長ととりとめもない話をしていた。
「鮭のムニエルならいいんですよ。鮭のムニエルなら」
「いや、他のムニエルも駄目ってわけじゃないよ」
「ええ、それはそうですよ。まあなんでもそれなりに美味いわけですし」
「しかし、なんでもムニエルにすれば良いってもんじゃないよね」
「それですよ。結局」
お互いの溜め息を聞いて、顔を見合わせる。
さっきからやり玉に上がっているのは、僕の調査員のバイトの先輩である加奈子さんの手料理のことだった。
加奈子さんは生活費に困窮すると、人に食べ物をたかる悪癖があった。ただ奢らせるわけではなく、一応手ずから料理は作ってくれる。その料理の腕もそれなりに上手いので、けっして悪い気はしない。ところが、基本的にめんどくさがりなので、いつも似たようなメニューになるのだ。それがムニエルだった。
もともと魚が好きらしいのだが、とにかく調理方法といえば切り身に小麦粉をまぶしてバターで両面をカリッと焼く、ムニエル。ムニエル。ムニエル。ひたすらにムニエルなのだ。
定番の鮭のムニエルに、サバのムニエル。アジのムニエルに、タラのムニエル。ヒラメにカレイにスズキにタイ……。
とにかくなんでも小麦をまぶしてバターで焼き、レモン汁をぶっかければいいという実に短絡的な料理ばかりなのだ。
確かに簡単な料理なのであまりハズレはないのだが、さすがにこうもムニエルばかりだと、一緒に食べているこっちはその常習性に閉口してくる。それどころか、もはやなんの魚なのかよくわからないものまでムニエルとして出してくるのだ。
382: 幽霊物件 ◆LaKVRye0d.:2017/3/26(日) 00:40:35 ID:di6NFRnXyA
「ボクはムニエルのムニエルというのを食わされたことがあるよ」
所長の小川さんがボソリと言った。
加奈子さんはこの小川調査事務所のオフィスでも、据付の台所を使って料理を作ることがあるのだが、やはりムニエルばかり出してくる。
「僕なんかムニエルを食べさせられました」
「ム……ムニエルを?」
お互い絶句して、(何のだよ)という突っ込みをあえて飲み込んだまま沈黙が流れた。
その加奈子さんは今、タカヤ総合リサーチという大手興信所に依頼人を迎えに行っている。そこは小川所長が昔所属していた興信所で、独立した今でも付き合いがあり、ときどき仕事を回してもらっているのだ。
ただし、ただの依頼ではない。この業界では『オバケ』と呼ばれる、どこにも相手にされないような奇妙な依頼だ。今回の件も、タカヤ総合リサーチに持ち込まれたおかしな依頼に対し、普通ならやんわりとお断りしてお引取りいただくところを、市川さんというベテラン事務員の機転でこちらに連絡をもらったのだった。
『オバケ』事案専門の調査員である加奈子さんなら、なんとかできるかも知れないという希望的観測のために。
ムニエルを作る人、という肩書き以上に僕は、このオカルト道の師匠でもある彼女の行動に、発想に、思考に、信念に、そして推理に、ゾクゾクするような期待を抱いている。
「あ、帰ってきたな」
所長の言葉に振り向くと、階段を登ってくる二人分の足音が聞こえてきた。
◆
「で、結局どうなさりたいんですか」
小川所長が額に手をやって髪をかき上げる仕草をした。『まいったな』というときにするポーズだ。確かに、今回の依頼はただの依頼ではなかった。隣で聞いている師匠も難しい顔をしている。
「だから、僕の借りてる部屋に幽霊がいる。ルームシェアと同じ状態だから、遺族に半分家賃を負担させたい。簡単な理屈でしょう」
383: 幽霊物件 ◆LaKVRye0d.:2017/3/26(日) 00:45:20 ID:F.ceRSUuyA
応接机の向かいに座る男は、苛立ってそう繰り返した。
依頼人のその男は三好健二という名前で、30歳独身。1ヵ月ほど前から、市内のあるアパートの1階に越してきて、住み始めたのであるが、その部屋に幽霊が出たのだそうだ。
驚いて、紹介した不動産屋に文句を言いに行くと、幽霊が出るなどという話に、まったく取り合ってくれない。嘘だというなら見にこい、と言って無理やり不動産屋の親父を部屋に連れてきたものの、どこにもそんなものは見えないと言われ、いい加減にしてくれと逆切れをされる始末。
『そんなにこの部屋が気に食わないなら、出て行けばいいでしょう』
不動産屋は、今なら敷金を全額そのまま返すとまで言ったのだが、依頼人の三好は部屋から出ることを拒んだ。理由は、勤務先であるスーパーマーケットと目と鼻の先にあるこの物件を、やっと見つけたばかりだというのに、幽霊ごときのために手放したくない、というものだった。
幽霊をなんとかしてくれ、と言っても、そもそもそんなものはいない、という不動産屋とのやりとりでは埒が明かず、ついに彼が出した結論は、勝手に居座っている幽霊にも部屋代を半分出させるという、おかしな落としどころだった。
「あの部屋で死んだ人の幽霊ですよ。間違いなく。そういう事故物件って、貸すときには事前に説明しないといけないはずでしょう。それを黙って貸しといて、バレた後で気に食わないなら出て行けって。そりゃあ横暴ってもんですよ、横暴」
三好はテーブルをバン、と叩いた。
「まあ、落ち着いてください」
小川所長が、やんわりとそう言って今の衝撃で少しこぼれたお茶を持ち上げ、おしぼりでテーブルをサッと拭いてから、もう一度差し出した。
「……すみません」
三好は鼻息を吐き出してから、お茶に手を伸ばして口をつけた。
彼がお茶を置くのを待ってから、師匠が口を開いた。
384: 幽霊物件 ◆LaKVRye0d.:2017/3/26(日) 00:51:01 ID:F.ceRSUuyA
「不動産屋は、その部屋で人が死んだということ自体を認めていないんですか」
「そうですよ。人が死んだりしたことなんてなかったって」
「なのに、部屋に幽霊が出るんですか」
「疑っているのか!」
「いやいや、そういうわけじゃないですよ。私もそういう幽霊がらみの話は専門ですし」
小川調査事務所を訪ねてくる『オバケ』事案の依頼人は、たいていほかの興信所を門前払いされてから、最後の最後に流れ着くようにしてやってくるので、信じてもらえないということに関して非常にコンプレックスを持っている。なので、いつも気を使うところだった。
しかし、だからと言ってそんな話を鵜呑みにできるわけはない。なにかの見間違いや、ただの気の迷いということだって、往々にしてあるのだから。
「ええと、その、事故物件のことですがね」と小川さんが言った。
「宅建法に『重要事項説明義務』って言うのがありましてね。まあ、よくトラブルになるんですけど、そういう死亡事故があったとかいうようなことは、賃貸借契約における主観的瑕疵というものになりうるので、契約に際して、借り主に説明をしないといけないということになっています」
「俺も自分で調べたけど、書面で交付しないといけないんでしょ。もらってないですよ。そんな書類」
「いや、ちょっと違いますね。直接35条の案件だったらそうですけど、例えば自殺みたいな不慮の死亡事故の場合は、47条のほうの告知義務になって、口頭でもOKのはずです」
「なんだかよくわかんないけど、口頭でも聞いてないよ!」
「ええと。よく言われるんですけど、1人挟めば2人目はOKっていう慣例がありましてね。その部屋で死亡事故があっても、次に借りる人にさえ説明すれば、さらにその次の人が借りる時には説明しなくていいっていう基準があるんですよ。次の人で問題がなければ、いつまでも延々と引きずらなくてもいいでしょっ、てことでそういう慣習になってるみたいです。まあこれも正確には根拠のないガイドラインみたいなもので、それなら訴えられても大丈夫かなという程度のものらしいですけどね。借りた人数にかかわらず、5年は実質的に告知義務がある、とかいう話も聞いたことありますけど、とにかくこの街の不動産屋はだいたい、1人挟めば2人目はOK、ってことでやってるみたいですよ」
「そんな横着なこと許されないでしょ!」
三好はまた興奮して身を乗り出した。
「いや、まあそれも自発的に説明するかどうかという話だから、三好さんがそういう事実があったのかきちんと問い合わせているのに、嘘をついて隠しているというのは完全にアウトだと思いますよ。それは不動産屋もわかってるはずですけどね」
「だったらどういうことなんですか」
「……」
ようするに、実際のところその部屋でそんな人死にがでるようなことはなかった、ということではないだろうか。
小川さんもはっきりそう言うべきか、迷っているような表情を浮かべていた。
385: 幽霊物件 ◆LaKVRye0d.:2017/3/26(日) 00:53:31 ID:di6NFRnXyA
「とにかく、現に幽霊は出るんですよ。俺の部屋に。お札とかもらってきて、貼り付けても全然効きやしない。追い出せないなら、遺族にそいつの家賃分を肩代わりさせないと気が済まないんだよ。家賃っていう名目じゃなくても、迷惑料でもなんでもいいよ。なのに、不動産屋の親父がなにも教えてくれないから、どこに言いに行けばいいかもわからないんだ!」
三好は大きな声で言いたいことを言い切ったからか、少し満足げな顔をして、椅子に深く掛けなおした。
「ね。だから、探して欲しいんですよ。幽霊の遺族を。別に幽霊を問い詰めろなんて言いませんよ。現にそこで人が死んでるなら、調べればわかるはずでしょ。興信所なら」
気持ちの悪い猫撫で声でそう言う三好に、小川さんは苦笑いを浮かべてから師匠の方を見た。
「では、ご依頼はその部屋で死んだ人の遺族を探し出す、ということでよろしいですね」
多少回り道をしたが、依頼内容を整理すると、わりに耳慣れたものになった気がする。
師匠の言葉にようやく三好は頷いて、「お願いします」と言った。
◆
しかし、この依頼人はどこかズレている、というか変なところでクソ度胸が据わっているなあ、と僕は感心してしまった。
幽霊が出るのには目を瞑るから、遺族から迷惑料をせしめたいというのだ。幽霊が出るとわかっていながら、そこで住み続けようという神経が信じられない。
聞くと、やはり子どものころからそういう幽霊のたぐいはよく見るのだそうだ。霊感が高じて、どこかが麻痺してしまっているのだろうか。
料金の説明などをしたあと、調査に係る契約書を交わした。
「今から部屋に伺ってもいいですか」
師匠がそう提案すると、三好は頷いた。事務所の壁掛け時計を見ると、まだ昼の三時だった。まだ幽霊が出る時間帯ではないかも知れないが、師匠なら昼間でもそういう存在を見ることができる可能性が高い。もちろん、本当にその部屋に幽霊がでるとすれば、であるが。
そうして小川所長を残し、依頼人の三好と師匠と助手の僕、という3人で問題のアパートへと向かった。結構遠かったが、三好が歩いてきていたので、帰りのための自転車を押しながら一緒に歩いて行くことにした。
道々、師匠はいくつかの質問を依頼人にぶつけた。
「その部屋にあなたが入る前に住んでいた人のことは調べたんですか」
「ああ。不動産屋に、前の住人がどこのだれで、いったどこへ引っ越していったのかを訊いたんだけど、個人情報だからとか眠たいことヌカしやがって、どうしても教えてくれないんだよ。仕方ないから、両隣の部屋の人とかに訊いたら、なんか近くの弁当屋でパートをしてた、五十歳くらいのおばさんが1人で住んでたって」
「そのおばさんが……ってことはないんですか」僕がそう訊くと、三好は首を横に振った。
「その幽霊、おばさんじゃないから」
さっきも事務所で師匠が、具体的にどういう幽霊が出るのか訊ねても妙に歯切れが悪かったが、やはりあいまいなことしか言わない。
なぜだろうと訝しく思っていると、師匠が続ける。
386: 幽霊物件 ◆LaKVRye0d.:2017/3/26(日) 00:56:40 ID:F.ceRSUuyA
「そのパートのおばさんに、話を訊きにいってはいなんですね」
「ああ。どこに行ったか知らないし。でも、それはあんたらの仕事のうちに入るだろ」
師匠は頷いた。
「そのアパートの他の住民たちも、あなたの部屋で幽霊が出ることについて、なにか知っているようなことはなかったんですね」
「そうだよ。だれか死んだなんて話は聞いたことがないって、みんな言っている」
いらいらした様子で三好は自分の頭を指さし、くるくると回してみせた。そのまま強張った半笑いで、なにか言おうとしていたが、結局なにも言わずに黙った。
やがて僕らは問題のアパートに到着した。建てられてから20年は経っていそうな、2階建ての木造アパートだった。住宅街の一角にあり、近くにも似たようなアパートがいくつか散らばっている。
「この部屋だよ」
4部屋ある1階の、右から2番目のドアに向かって近づいて行き、三好は鍵を開けた。
「散らかってるけど」
そう言って玄関で靴を脱いだ三好に続いて、僕らはドアのなかへ入った。
師匠が靴を脱ぎながら言う。
「昼間でも見えることはありますか」
三好はその言葉に振り返り、「さあ」と言って、またはぐらかすような強張った表情を浮かべると、「どうぞ」と僕らを室内へ誘った。
散らかっているとは言ったが、玄関から入ってすぐの台所は綺麗に片付けられていて、食器の洗い物などは見当たらなかった。
しかし部屋に入って僕はすぐに気づいた。その部屋全体を覆う、なんとも言えない薄暗さに。台所の左手には風呂場とトイレのドアがある。そして正面には居間へ通じるドアがあった。上半分に四角いすりガラスが嵌っている。
そのガラス越しに漂ってくる暗さは、今がよく晴れた昼の3時過ぎだということを、一瞬忘れさせるような気がした。
確かに薄気味が悪い感じだ。
師匠の横顔を窺うと、少し緊張したような面持ちで、足音を殺すようにしてそろそろと進んで行く。
三好が正面のドアノブを回して、その向こうの部屋に入っていった。僕らもそれに続く。
そこは洋間で、8畳ほどの広さのなかに、あまり多くない家具類が収まっていて、一見してゆったりとした印象を受けた。その向こうはベランダへ通じる窓だ。1Kということになるが、単身者には十分な広さの部屋に思えた。
しかし、窓から漏れる光は暗い。窓のカーテンに落ちる黒い影は、向かいの建物が遮蔽物となっているためにできているようだ。
387: 幽霊物件 ◆LaKVRye0d.:2017/3/26(日) 00:59:15 ID:F.ceRSUuyA
「すぐそばに4階建てのマンションがあってな。日当たりが悪いんだ」
僕の視線に気づいたのか、三好が自嘲気味にそう言った。
師匠と僕はさらに1歩、2歩と進んで居間に足を踏み入れ、慎重になかを見回した。確かに明かりをつけていない部屋は薄暗く、どことなく気味が悪かった。生唾を飲んでドキドキしながら幽霊の痕跡を見つけようとしたが、そういうものはどこにも見当たらなかった。
少しホッとして、僕は口を開いた。
「この部屋、ひと月いくらぐらいなんですか」
「共益費入れて5万弱だな」
5万円か。日当たりは悪そうだけど、駅からもそんなに遠くないし、室内も意外と小綺麗で、そこそこいい物件のようだ。自分の職場からも近いとなると、確かに手放したくないという気持ちもわかる気がする。
「カーテン開けていいですか」
僕がそう言うと、三好は「ああ」と言って自分から窓に近づいた。カーテンを開け、窓のロックを外す。
サッシの上を窓ガラスが滑り、外の光こそあまり射し込んではこなかったが、気持ちのよい風が室内に入ってきた。
やや肌寒い風が頬を撫で、吹き抜けていく。
そうして生まれた空気の流れで、入ってきた部屋のドアが背後でバタンと閉まる音がする。
なにも喋らなかった師匠がその瞬間に振り返る。僕もつられてゆっくりと振り向くと、閉じたドアの前に首吊り死体がぶらさがっていた。
「えっ」
思わず後ずさり、転びそうになる。まったく予期していなかった光景に、心臓が爆発するように鳴る。首吊り死体だと?
「こ、こんな」
絶句した僕の横で、師匠が身構えたまま好奇の笑みを浮かべる。
「ほんとに、見えるんだ」
三好が強張った声をあげる。
こいつ、試しやがった!
幽霊について多くを語らなかったあの態度は、本当に僕らが幽霊を見ることができるのか確かめるためだったのだ。
首吊り死体は、この世のものではなかった。物質として、そこにぶらさがっているわけではない。だが、伸びた首、伸びた舌、表面に膜が張ったように光を失った瞳…… どれもそこにありありと見えるのだった。
ゾクゾクする悪寒に、足が竦む。
首吊り死体の霊からはなんの意思も感じられない。まるでただ、冷たい肉の塊としてそこにあるようだ。
「こいつか」
師匠が、首吊り死体の霊から視線を逸らさずに訊ねる。
「そう」
「こうしているだけなのか」
「そうだよ」
「昼も、夜も?」
「いや、昼間に見えるのは珍しいな。だいたい夜だ」
「ずっといるのか」
「出たり、消えたりだ」
師匠からさっきまでの依頼人に対する敬語が消し飛んでいたが、真剣な口調に違和感がまったくなかった。
388: 幽霊物件 ◆LaKVRye0d.:2017/3/26(日) 01:03:52 ID:di6NFRnXyA
霊は女だった。髪が肩まであって、それが顔に掛かっているが、まだ若い女だということはわかった。師匠がゆっくりとドアに近づき、その顔を下から覗き込む。頭はドアの上部、天辺に近い位置にある。霊はそのドアに背中をぴったりつける形で首を吊っていたが、いったいどうやっているのだろう。
もやもやと不安定に霊体の輪郭がぶれるなか、僕は目を擦りながらもっとよく見ようと意識を集中した。すると、彼女の首に掛かった細い紐のようなものが、その頭上に伸びていて、ドアと天井とのわずかな隙間から向こう側へと消えていた。
師匠が慎重な手つきで、彼女の体の脇にあるドアノブを握ると、静かにこちら側へ引いた。首吊り死体の霊をぶらさげたドアは、まるでなんの荷重もないかのようにゆっくりと開いていった。
ドアの上部の隙間へ消えていた紐の続きは、台所側には存在していなかった。どうやら霊は、居間の側にしか現れていないようだ。
しかし師匠は、首吊りの構造を把握したらしい。
「台所側のドアノブに紐の先端を括りつけ、ドアの天辺を通すことで、そこを支点にして体重を支える構造だな。で、ドアを閉じてから、たぶんこっちの居間の側のドアのすぐそばで椅子かなにかを台代わりにして立ち、天井にできるだけ近く頭を持ってきておいて、喉の下に通して輪っかにした紐の先端をキツく調整してから、その台を蹴ったと。こういう手順だな」
なるほど。それなら1人でも首を吊れるし、ドアを動かしても首吊り死体は落ちたりしない。
僕が頷くその横で、依頼人が感心した様子で口を尖らすような表情を浮かべた。すりガラスの向こうが嫌に暗かったのは、死体の霊の背中がそれを覆っていたからなのか。
師匠は再びゆっくりとドアを閉め、居間のなかほどに3人並んで立った。
「これ以上のことは、なにも起こらないんだな」
「そう」
「それにしても、あんた、いい根性してるな」
そうだ。こんな気持ちの悪い霊と1ヵ月も同居しているなんて。
「最初は寝られなかったさ。友だちの家に泊めてもらったりして。でももう慣れた」
変に自慢げな口調に、師匠は同調をせず、むしろ諌めるように言った。
「いや、こんな状況はまずい。いつからこの霊がこうしているのか知らないが、いずれ変質する可能性はある」
「へ、変質って……」
男は不安げに師匠を見る。
「昼間からこんなにはっきり出る霊は、かなり強い存在理由を持っている。簡単には消えていかないし、状況からして完全にこの部屋に地縛している。今はなんの意志も感じられなくても、今後もずっとそうかなんてなんの保証もない。たとえば夜寝ているときに……」
師匠はそう言って、三好に右手を伸ばした。
「手が自分の方へ伸びてきたら、どうする」
「よ、よせ」
三好は師匠の右手を避けるようにあとずさった。
「まあ、根本的な解決ができるかどうかわからないけど、この霊が生前ここで首を吊った経緯を調べないと、どうにもならないな。とりあえず予定通り、彼女が何者なのかを調べるとしよう」
僕はその霊を前にして平然と喋っている師匠を、信じられない思いで見ていた。
389: 幽霊物件 ◆LaKVRye0d.:2017/3/26(日) 01:06:55 ID:F.ceRSUuyA
そのドアにぶら下がった姿を見ていると寒気が止まらず、早くこの部屋から出たくてたまらなかった。
しかし師匠は霊に近づいて、よりじっくりと観察を始めた。自分の手帳に、鉛筆でその姿のスケッチをしている。
「プロなんだな」
三好がぼそりと言った言葉が聞こえたのか、聞こえなかったのか、師匠は淡々と観察を続ける。僕も一応、自分の手帳を広げ、目に付いた状況を書き留めていった。
だがその間も、悪寒が止まることはなかった。首吊り死体の霊のすぐ目前にこうして立ち、じっと観察しているなんていう異常な状況が、自分でも信じられなかった。一かけらの意思も感じられない、抜け殻のような霊がしかし、僕が手帳に目を落としたその一瞬に、冷たい手を僕の首筋に伸ばしてきていたら……。
そんな想像をしてしまうと、生きた心地がしなかった。
しばらくして、師匠が「うん?」と一声唸った。その声にドキリとする。
「どうしました」
僕が恐る恐る師匠の手帳を覗き込むと、鉛筆の先が、スケッチされた死体の首の辺りで、トントンと紙の上に打ち付けられている。
「おかしいぞ」
鉛筆の動きを止め、師匠が死体の霊を指さした。その喉の辺りをだ。細い紐が首に食い込んでいる。僕はそもそものこの状況の異様さに、今さらあえて指摘するほどのおかしさがどこにあるのかわからず、首を傾げた。
「爪痕がない」
師匠はそう言って喉に食い込んだ紐の周囲を、手にした鉛筆で指し示す。
「そうこん?」
爪あとのことか。喉に、確かにそんなものは見当たらない。しかしさっきから、見えている霊体の濃度がだんだんと薄れてきていて、僕には正直もうあまり精密には見えてない。というか、ぼんやりとしている。首筋にそんな爪のあとなど、ここにある、と指摘されてもわからないかも知れない。
「首吊り死体の特徴として、全体重が首に掛かった瞬間に頚骨を骨折して意識を失った場合などを別として、窒息の苦痛に紐や縄が食い込んだ喉を、掻き毟った痕跡が残っている場合が多い。どんなに死のうという意識が強い人間でも、実際に死に迫る苦しみのなかに陥ると、なんとかその苦しみから逃れようと足掻いてしまうものだ。だからこそ、確実に死ぬため、逃げ出せないように足場を蹴り倒して、人は首を吊るんだ」
ここを見てくれ。
師匠はそう言ってぶら下がる霊の左手首を指し示した。そこにはリストカットのあとが幾重にも残っていた。僕もそれには気づいていて、自殺を思い立った彼女が死のうとして、手首を切ったもののなかなか死に切れず、何度か繰り返したあと、とうとうドアを利用して首を吊ることでその思いを完遂したと、そういうストーリーを頭に描いていた。
390: 幽霊物件 ◆LaKVRye0d.:2017/3/26(日) 01:10:41 ID:di6NFRnXyA
「霊体がどのようにして現れるかは、霊自身の選択だ。あるいは無意識のそれにせよ。彼女がためらい傷を身体に残したまま現れていることは、彼女がそれをことさら秘匿しようとしていないことを示している。そして衣服の緻密さなどからも死の瞬間の身体の状況を正確に再現しようとしていることもわかる。なのに、喉を掻き毟ったあとがない。これは不整合だ」
爪もこうしてあるのに、と師匠は彼女の指先の辺りを顎でしゃくって見せる。
「だったら、一瞬で気絶したんじゃないですか。首の骨が折れて」
僕のその指摘に、師匠は頭を振った。
「彼女は見てのとおり痩せている。体重はかなり軽いだろう。室内のドアのこんな窮屈な仕掛けで、高い木の枝から首に縄をかけて飛び降りるケースみたいに、一瞬で首の骨が折れたり、失神したりするだろうか」
蓋然性を考えると、違和感がある。
そう言って師匠は険しい顔をした。
「だったら」
僕はそう言いかけて、あとに続く言葉を飲み込んだ。師匠があえて口に出さないその言葉を、自分から言い出すことに恐怖を覚えたのだ。
もし想像してしまったとおり、これが自殺に偽装した他殺死体だとしたならば、この霊の持つ意味がまったく変わってしまうのだから。
依頼人の三好もそのことに気づいたようで、表情を硬くして言葉を失っている。
押し黙って考え込んでいる僕たちの目の前で、ドアにぶら下がる霊体の姿が徐々に希薄になり、静かに溶けるように消えて行こうとしていた、
「消える」
僕がそう呟いた瞬間に、霊は消えた。もう見えない。三好と師匠の目を見たが、2人とも頷いた。どうやら消えてしまったようだ。
391: 幽霊物件 ◆LaKVRye0d.:2017/3/26(日) 01:13:46 ID:di6NFRnXyA
しかし、三好が言っていたように、元々現れたり消えたりする霊らしいので、一時的に消えたのだろうと思われた。霊のバイオリズのことはよくわからないが、そういうことは経験上よくあった。
そのまましばらく待ってみたが、やはり首吊り死体の霊は現れなかった。
それから師匠と僕は三好を部屋に残して、このアパートの住人を順番に訪ねて回り、聞き込みを行った。
わかったことは、1ヵ月前に三好がこの部屋へ引っ越してくる前は、近所の弁当屋でパートをしていた、田坂という名前の50年配の女性が住んでいた、ということ。そしてその前に住んでいたのがだれだったのか、だれも知らない、ということだった。
と言っても、訊ねたときに住人が部屋にいたのは三好を除く7つの部屋のうち、4つの部屋だけだった。そこで師匠は自分の名刺に102号室に関する情報が欲しい旨を書き付けて、残り3つの部屋の玄関ドアの下の隙間からなかに滑り込ませた。
最後に付け足した『薄謝進呈』という言葉がどこまで効果を発揮するかは、神のみぞ知る、というところだ。
そして次に先住者がパートをしていたという弁当屋に歩いて行った。その弁当屋はよく見るチェーン店で、夕方のかき入れどきの直前という、ギリギリ客が途絶えているタイミングで訪ねた僕らを、いかにもベテランという佇まいの60歳くらいの女性店員が出迎えた。
「ああ、田坂さん? 覚えてるもなにも、辞めてからまだ3ヵ月よ。まだもうろくはしてないわ。あはは。え? どうして辞めたかって訊かれてもね。……家庭の事情って私は聞いたけどね」
師匠が興信所の名刺を渡し、田坂さんの住んでいた部屋で昔起こったかも知れないある事件のことを調べている、と告げると興味津々という様子で身を乗り出してきた。
「今の連絡先、私知ってるわよ。こっちからは教えられないけど、今本人が家にいたら、あなたたちのこと話してみましょうか」
そうして彼女は頼みもしないのに、店の電話を使ってどこかに掛け始めた。
弁当屋のパートという同じ場所でのルーチンワークをこなしている日常に、興信所の人間がある事件について調べていると言って訪ねてくるという、テレビドラマのなかのような展開に、少なからず興奮しているらしい。
やがてかしましい挨拶を電話口で交わしたあと、女性店員は「はい」と言って受話器をこちらに預けてきた。師匠が電話に出て、しばらく話していたが、やがて礼を言って受話器を返した。店員は「もういいの?」と言いながらまた電話に出て、甲高い声で相手とやりとりしたあとで、チンと切った。
事件とやらのことを詳しく訊きたがっている彼女を、上手くなだめすかして、師匠と僕は弁当屋をあとにした。
「田坂さんはシロだな」
「関係なさそうですか」
「ああ」
102号室の前の住人である田坂さんは、4年ほど前からその部屋に1人で住み始め、弁当屋でパートをしていたが、3ヵ月前に郷里の母親が倒れたのでパートを辞め、介護のために実家へ帰ったのだそうだ。
そして2ヶ月ほどの空き家期間を経て、今回の依頼人である三好が不動産屋の紹介で102号室を借りた。そして1ヵ月経って今にいたる、ということになる。
392: 幽霊物件 ◆LaKVRye0d.:2017/3/26(日) 01:16:48 ID:di6NFRnXyA
肝心の、田坂さんの前にだれが住んでいたのか、という問題については、残念ながらなにもわからなかった。
田坂さんが覚えていたのは、自分が越してくる前は、しばらく空き家だったらしいということだけだ。
ただ、学生が多く、住人の入れ替わりが激しいあのアパートのなかで、2階の204号室の住人は、パン屋でバイトをしている陰気な男らしいのだが、恐らく自分より前からあそこにいたはず、ということだった。
思い出してみると、204号室は不在で、名刺を放り込んだ部屋だった。なんとかして、その男に話を訊く必要がありそうだ。
「田坂さんは、幽霊なんて見たことがないってさ」
ずいぶん直球で訊いたものだ。しかし、それが本当だとするならば、あの102号室の幽霊は、田坂さんが出て行った3ヵ月前から、三好が越してくる1ヵ月前までの、およそ2ヵ月間に空き部屋に侵入し、首を吊ったということになる。
「いや、そもそも幽霊なんて、生まれてこのかた一度も見たことがないそうだ。だから、ずっと部屋のなかに現れていたのに、気づいていなかった可能性もある」
なるほど。見ない人はとことん見ないものだ。ましてあんななんの主張もしない霊ならば、坂田さんがあの部屋の住人であった間、存在しないも同然だった可能性は高い。
そうして、僕や師匠のように霊感の鋭敏な三好がやってきてから、再びあの霊の存在が再開された、というわけだ。
そう考えていて、ふと、嫌な予感がした。
もしそうだとしたら、あの霊は4年以上前からあの部屋にいたことになるが、そこには4年間という時間の経過による安定性が保証されていないことになる。
なぜなら、霊体は僕らのような霊感の強い観察者の存在によって、逆に影響を受けることがあるのだ。霊感の強い三好がやってきて1ヵ月。つまり観察される対象となって、まだ1ヶ月ということだ。ということは、ああいう、ただそこに現れるだけの無害な存在として安定しているとは、まだ言い難いのではないか。
そのことは、出たり消えたりする、という三好の証言とも一致する。
なんだか不安な気持が増してきた。胸が静かに高鳴り始めている。
そうだ。三好は、昼間に出るのは珍しい、と言っていた。たまたまだ、としか思わなかったが、本当にそうだろうか。今日は師匠がいた。あの底の知れない霊感を秘めている師匠がいたのだ。その師匠に反応して現れたのではないだろうか。
だとしたら、今あの霊は非常に不安定な状態にあるのかも知れない。
変質、という言葉が脳裏に浮かんでゾクリとした。
「一度アパートに戻る」
同じことを考えていたのか、師匠はそう言うと、心なしか早足になった。部屋には今、三好が1人でいる。久しぶりの休みを取ったから、掃除をしておきたい、と言っていた。
その背中を、いつの間にか現れた首吊り死体の霊が、じっと見つめている。さっきは自分の足元を見下ろしていたはずなのに。
その両手が苦しげに蠢き、後ろを向いた三好の背中に、どろどろと伸ばされる。指先が届かないはずのその距離が、なぜか縮まっていく……。
ああ。
思わずそんな恐ろしい妄想を頭から振り払う。
歩いてアパートに戻った僕たちは、すぐに三好の部屋を訪ねた。
393: 幽霊物件 ◆LaKVRye0d.:2017/3/26(日) 01:20:23 ID:di6NFRnXyA
「大丈夫か」
「え、なにが」
三好は取り込んだ洗濯物を畳んでいる最中だった。首吊り死体の幽霊は出ていないようだ。
師匠は、この部屋の先住者だった田坂さんから聞いたことを説明した。
「204号室の男か。確かに暗そうなやつだったな。ほとんど見ないけど、昔からずっといるなら、この部屋のことも知ってるかも知れないな」
頷いている三好に、師匠が忠告をした。
「この件が片付くまで、だれか友だちの家にでも泊めてもらうのがいいと思う」
「そうかな」
三好は不承不承頷いた。
「少なくとも、夜は家にいないほうがいい」と言って、師匠は「さあ、次は不動産屋だな」と僕に目配せをした。
やっぱり行くのか。無駄足だと思うが。
借り主が訊きに行っても、個人情報をタテに前に住んでいた人が誰なのか教えてくれなかったのだ。それが前の前の住人のことだと言っても同じことだろう。
しかし師匠は三好に不動産屋の場所を聞いて、「よし、行こう」と僕をせかした。来るときには歩いてここまで押してきた自転車にまたがると、師匠はその後輪の車軸に足をかけた。
そうして2人乗りで走ることしばし。回りに更地が目立つ場所にその不動産屋はあった。
『オキワ不動産』という屋号が見える。
「こんにちは」
ガラス戸を開けてなかに入ると、奥の事務机にいた眼鏡を掛けた小太りの中年男が、読んでいた雑誌を置いて顔を上げた。
「学生さん?」
そう訪ねる不動産屋に師匠は首を振って、「ちょっと尋ねたいことがあるんです」と言った。とたんに不動産屋の親父の顔が曇る。
三好の依頼を受けた興信所の者だと名乗って名刺を渡し、あの部屋でなにか事件がなかったか、そして前の前の借り主はだれだったのか訊ねた。
親父は不機嫌そうに、「何度来ても教えられない。そんな事件もなかった」と繰り返すだけだった。
師匠は、頭のおかしい依頼人に変なことを頼まれて、こっちも困っている。幽霊の遺族に家賃を半分払わせるなんて無茶なことは絶対させないし、できるわけもないけど、落としどころがないとあの依頼人も納得しない。このオキワ不動産にも何度も来て迷惑を掛けることになる。任せてくれたら、元の住人に迷惑を掛けるようなことのないように上手くやるから、教えて欲しい。
そう言いつのったが、親父は首を縦に振らなかった。
「ケチ。ばか」
師匠は最後にはアカンベをして捨てセリフを吐くと、顔を真っ赤にした親父に追い出された。
師匠から「おい、もう1回行って、ドケチって言ってこい」という指示があったので、僕は1人でそれに従う。
飛んできた消しゴムの黒いプラスティックケースを避けながら、その不動産屋を後にした。
「さて、次はどうしようかな」
僕の運転する自転車の後輪に乗っかって、師匠は妙に楽しそうだ。
「あの。考えたんですけど。市内で若い女性が首吊り自殺って話だったら、ニュースとか新聞に出てる気がするんですよね。僕、こないだ事務所のスクラップ記事を分類ごとに整理して、ファイリングしたんで、ひょっとしたら見つけられるかも知れませんよ」
僕の提案に、師匠は賛同した。
「よし、手分けしよう。そっちはそっちで探してみろ。私は三好のアパートに戻って、もう少し周辺を探る」
師匠が自転車を持っていた方がいいだろうということで、僕は歩いて小川調査事務所に戻ることにした。
「おい、これ持っていけ」
師匠が紙を渡そうとする。首吊り死体の霊をスケッチしたものだった。かなり上手い。本当に器用な人だった。
「大丈夫です。僕だって見えましたから」
変な自尊心で断ろうとしたが、「いいから持っとけ」と押し付けられた。
「じゃ、後で」
師匠と別れ、僕は歩き出した。
394: 幽霊物件 ◆LaKVRye0d.:2017/3/26(日) 01:24:48 ID:F.ceRSUuyA
事務所に着くと、小川所長がデスクに座ったまま居眠りをしていた。
これでかつては大手興信所のタカヤ総合リサーチの敏腕調査員だったというのだから、本当かと疑いたくなる。
僕は新聞記事のファイルが詰まった棚を眺めて、そこから『事故・自殺・変死』という分類のものを抜き出した。そして自分のデスクでそれを広げる。
この事務所を開設した数年前からのものが多かったが、それ以前のものもある。所長が個人的に収集していたのだろうか。『自殺』というインデックスを貼った項目があり、そこに地元で起こった自殺に関する報道記事が集められていた。所長の指示で僕が整理したものだ。労働が報われたような気になる。
しばらくファイルをめくっていると、小さな記事に目が留まった。
『○○日午後1時ごろ、○○市下内田の会社員、田岡章一さんの次女、早苗さん(17)が、自宅アパートで自殺しているのを家族が発見し、119番通報した。警察では事件性はないものとして動機などを調べている』
これだけの記事だった。しかし、その横に添えられていた顔写真に僕の目は釘付けになった。あの首吊り死体の霊だ。間違いない。
念のために師匠が書いたスケッチを見たが、特徴を良く捉えている。同一人物に違いなかった。
ただ、生きていたころの彼女は、モノクロの紙面のなかで学生服を着て微笑んでいる。あの嫌に暗い部屋で見た、生気のない表情とは違う、可愛らしい笑顔だった。
新聞は地元紙の夕刊で、当日昼の出来事だったので、恐らく入稿ギリギリのニュースだったのだろう。自殺の様子など、詳細は不明なままだ。翌日以降に後追い記事がないかと思ったが、そのスクラップには閉じられていなかった。
日付は5年前の今ごろだった。
田岡早苗。生きていたら22歳くらいか。名前がわかった。これは大きな収穫だ。
僕は興奮して三好の家に電話を掛けた。番号は依頼の契約書に書いてあった。
「はい、もしもし」
三好が出たが、師匠が近くにいたので呼んでもらった。
「わかりましたよ! どこのだれなのか」
記事の内容を説明すると、師匠は怪訝そうな声を出した。
「下内田? ここは岩田町だぞ」
指摘されて気づいた。そういえばそうだ。
もう一度記事を読み直す。
『下内田の会社員、田岡章一さんの次女、早苗さん(17)が、自宅アパートで自殺……』
そうか。自宅アパートという言葉で誤解したが、早苗さんは実家から出て、岩田町のあのアパートで一人暮らしをしていたのではないだろうか。確かに、あの三好が住むアパートは単身者向けで、家族が住むには狭すぎるだろう。
そう説明すると、師匠は「不正確な記事だな」とぶつぶつ言いながらも「よし、こうしよう」と提案した。
「岩田町のアパートがあくまで田岡早苗の一人暮らし先だったなら、下内田にはまだ家族が住んでいる可能性が高い。父親の名前もわかっているし、広い地区じゃない。そのあたりでちょっと聞き込みをしたら家はわかるだろう。今日はもう日が暮れるから、明日朝から行ってみよう」
その言葉に顔を上げると、通りに面した窓からいつの間にか夕日が射し込んでいた。
小川所長は机についたまま、まだ寝ている。なんの夢を見ているのか、やけに嬉しそうな寝顔だった。
「今日はもう帰っていいぞ。ご苦労だった」
師匠からそんな言葉があった。
395: 幽霊物件 ◆LaKVRye0d.:2017/3/26(日) 01:27:44 ID:F.ceRSUuyA
電話を切って、今日あったことを考えてみる。
幽霊が出る、というアパートに行き、実際にその幽霊を見るだけでなく、それがどこのだれなのか探し当てたのだ。こんなことができる興信所がほかにあるだろうか。
それを思うと、その一員であるということが無性に誇らしかった。
◆
次の日、僕と師匠は2人で下内田という地区に向かった。
土曜日だ。朝から春の気持のよい風が吹いていた。
昨日二手に分かれた師匠のほうは、大して収穫がなかったようだ。結局、パン屋で働いているという204号室の男は帰ってこず、名刺に書いた薄謝進呈にひかれての連絡もないままだった。
三好は忠告どおり友人の家に泊まりに行き、その部屋を空けた。もう慣れたよ、とうそぶいていたが、師匠の言う「霊の変質」という言葉に恐れを抱いたに違いない。ただ、師匠は夜もしばらくその部屋で見張っていたらしいが、首吊り死体の霊は出なかったという。
眠そうな顔をしながら歩く師匠と、下内田の住宅街で少し聞き込みをすると、すぐに田岡章一の家は分かった。
「あの家か」
田岡、という表札のある家の前に立つ。
「さて、どういう作戦で行くかな」
いろいろシミュレートしたが、師匠が1人で訊ねて行って、「早苗さんとは同級生で親友だったが、しばらくぶりに地元に帰ってきたので、線香をあげさせて欲しい」と頼むのがいいだろう、ということになった。そして自殺の様子や背景をそれとなく訊き出す、という作戦だ。
僕もついて行きたかったが、師匠と僕と早苗さんが同い年の同級生だというのは、少し無理があったので、田岡家の人に余計な疑念を抱かせないため、仕方がなかった。というより、師匠は僕がボロを出すのを恐れたのかも知れない。そう思うと、少し悔しい。
「じゃあ行ってくる」
田岡家の玄関へと向かう師匠の背中を見送った。
しばらく待たないといけない、と思っていたが、思いのほか10分と経たずに師匠が家から出てくる。
その後ろでピシャン、と乱暴に玄関の戸が閉められた。
失敗したな。師匠の浮かない顔を見て、そう思った。
「あ〜、駄目だ」
開口一番そう言って。悔しそうな顔をする師匠が説明するところによると、家には早苗さんの母親がいて、父の章一氏は不在だったそうだ。
線香を上げるところまではなんとか上手くいっていたが、自殺の話になると、とたんに母親の態度が硬化した。
早苗は親友の私になにも言わないまま、あんなことが起きてしまった。あのときのことは、自分もとても悲しくて今でも引きずっている、と母親の気持に同調しようとしたが、けんもほろろの扱いで、結局詳しいことはなにも訊き出せなかったという。
その動機さえわからなかった。
396: 幽霊物件 ◆LaKVRye0d.:2017/3/26(日) 01:32:38 ID:F.ceRSUuyA
「だけど、学校がわかったぞ」
早苗さんが当時通っていたのは市内の公立高校だった。そして1人だけだが、当時の友だちの名前もわかったらしい。母親がぽろりとこぼしたのだった。
「話を聞けるといいけど」
師匠はそう呟くと、「よし、行くぞ」と僕の自転車の後ろに乗った。
次に向かった先はタカヤ総合リサーチだった。依頼人の三好が最初に相談に行ったところだ。そこから小川調査事務所へ下請けに出された、という形だ。
『タカヤ総合リサーチ』という大きな看板を掲げたビルに、2人で乗り込んで行くと、受付にいた事務員の市川さんが「あら」と言って手を振る。
「どう? あの依頼、上手くいってる?」
「まあぼちぼちです。それで、市内の公立高校の住所録か卒業アルバムを見せて欲しいんだけど」
「たぶんいいと思うけど、所長がいるから直接訊いてみたら」
市川さんは奥の部屋を指さした。
どうも、と言って師匠はその部屋へ向かう。所長室だ。重厚感のある木目の浮き出たドアをノックすると、「どうぞ」という返答。
「こんにちは」
なかに入ると、いかにも高級そうな材質の大きな机に、初老の男性が背筋を伸ばして座っていた。
所長にしてオーナーでもある高谷英明だ。
いつも忙しい人で、事務所にいるのは珍しかった。
「よう。加奈ちゃん。儲かってるか」
読んでいた書類を置いて立ち上がり、健康的に日焼けした顔に皺を浮かべて笑いかけてくる。精力的な男だった。常にエネルギーが身体のなかから噴き出しているようで、頭に白髪が混じっているその年齢を感じさせない。そしてなにより憎らしいことに、濃い顔立ちの男前なのだ。ちょっと外を歩けば、道行く主婦などコロリと参ってしまいそうだ。
「お、助手の坂本くん、だったかな。君も儲かってるか!」
この人はこれが口癖なのだ。けっして下請け興信所のバイトの助手、という我が身をからかっているわけではない。はずだ。
ちなみに、この人は僕の本名を知っているはずだが、ちゃんとバイト用の偽名で呼んでくれる。できた大人だった。爪の垢を煎じてどこかの所長に飲ませたい。
397: 幽霊物件 ◆LaKVRye0d.:2017/3/26(日) 01:36:47 ID:di6NFRnXyA
「市内の公立高校の卒業アルバムを見せて欲しいんですが。生徒の家の連絡先がわかるものを」
「加奈ちゃんの頼みじゃ、断れないな」
高谷氏は机から鍵を取り出すと、所長室を出た。向かう先は2階にある資料室だ。鍵を開けてもらい、なかに入ると、整然と並ぶ棚の1つに目当てのものがあった。
棚には様々な装丁の背表紙がずらりと並んでいるが、そのすべてが小中高校の卒業アルバムだった。聞いたことのある名前が多い。おそらく市内のめぼしい学校が揃っているのだろう。どうやって入手したのかわからないが、ここまでやるのか、と思うと恐ろしくなった。この興信所という稼業がだ。
師匠は目当ての高校の目当ての学年のものを探し当て、その場で開く。高谷氏からは見えない角度で。そして情報を記憶したのか、すぐに頁を閉じた。
「ありがとうございました」
「もういいかのかい」
「ええ」
もう一度礼を言って僕らは資料室を後にした。
「どうだい、小川くんのところは」
1階に降りたところで、高谷氏が訊いてきた。師匠は苦笑して「楽しいですよ」と答える。
「自由にさせてくれるし」
「それにしてもオバケの専門家か……。『オバケ』なんて本当はババをつかんでしまったときの言葉なんだけど。まさか、それを専門にするなんて、考えもしなかったな。加奈ちゃんがうちに来てくれたら、そんな依頼が外へ流れずに済むなあ。どう? バイト代、倍出すけど」
倍!
師匠が小川さんからいくらもらっているのか知らないが、その倍とは太っ腹だ。それだけ師匠の能力は貴重なのだろう。
「考えときます」
師匠は笑ってそう答えたが、表情はどこか硬かった。『倍出すけど』という言葉を聞いたとき、師匠が一瞬見せた険しい目つきに、僕はついこの間の心霊写真にまつわる事件のことを思い出していた。
師匠は松浦というヤクザから料金を5倍出すと言われ、依頼を引き受けることを強要されたのだった。たぶんそのときのことが頭をよぎったのだろう。
「ま、気が向いたらいつでも声を掛けてくれ。なんなら、小川くんごと引き受けてもいいよ」
高谷氏はそんな大きなことを言って、爽やかに笑った。
◆
タカヤ総合リサーチを出て、近くの公衆電話から電話を掛けた。
自殺した田岡早苗の親友だったという吉田直美という女性の家だ。師匠は同窓会の幹事に成りすまし、その家の母親から吉田直美の住むマンションの電話番号を聞き出した。
そして次にその番号に電話すると、はたして本人が出たのだった。
狭い電話ボックスに無理やり2人で入り、いったい師匠はどうするのか、と固唾を飲んで至近距離から見守っていると、驚いたことに単刀直入、それも「興信所です」と名乗ったではないか。
398: 幽霊物件 ◆LaKVRye0d.:2017/3/26(日) 01:38:58 ID:F.ceRSUuyA
すると思いのほか、相手は饒舌になった。
『えー、なになに? 早苗のお姉ちゃんの結婚相手から? そんな調査ほんとにあるんだ! すっごおい。え? 自殺の理由? ううん。言っていいのかな。……いや、違う違う。そんなんじゃない。誤解されるくらいなら言うけど、悪い男に騙されたのよ。私はやめとけって言ったんだけど、早苗聞く耳持たなくて。なんかどんどんドツボに嵌っていった感じ。いや、でも、私だけじゃなくてみんな知ってたよ。最後のあたりは《首吊って死んでやる》って口癖にみたいに言ってたし。リスカもしてたな』
そこまで喋ったところで、吉田直美の声はトーンダウンした。そのころのことを思い出して、悲しくなったのか。
『でも早苗ほんとに好きだったんだよ。その男のこと。高校生のころってさ、思い込むと一直線だから…… その男?年上の大学生だったと思うけど、どこのだれかは知らない。早苗、絶対みんなに教えなかったし』
僕はすぐそばで、息を飲んでその会話を聞いていたが、その声がどんどん暗くなっていくのがわかった。
『あ、やっぱりごめんさない。あの、ごめんなさい』
そう言って、一方的に電話は切られた。
「あ、もしもし。もしもし?」
師匠はため息をついて、受話器をフックに戻した。吐き出されてくるテレフォンカードを掴みながら、「やっぱり男か」と言う。
これで動機はわかった。騙されたのかどうかはわからないが、痴情のもつれによる衝動的な自殺だ。一見は、だが。
僕は考えていたことを口にした。
「早苗さんの首吊り死体の喉には、もがいたときにつくはずの爪の痕がなかった。ということは、自殺に偽装した他殺の可能性がある。でしたね」
「ああ」
「首を吊って死ぬ、と周囲にもらすほど思いつめていた彼女が、実際に首を吊った死体で発見されたら、当然自殺と判断されますよね」
痴話喧嘩がこじれ、死ぬ死ぬと喚く早苗さんが邪魔になった男なら、そう考えるはずだ。
ただの幽霊がらみの依頼だったはずなのに、恐ろしい真相が現れ出そうな、不穏な気配が漂い始め、僕は背筋が冷たくなってきた。
399: 幽霊物件 ◆LaKVRye0d.:2017/3/26(日) 01:42:17 ID:di6NFRnXyA
「警察を舐めないほうがいい。そんな憶断だけで捜査はしない。自殺と判断したのなら、それなりの根拠があるはずだ。たとえば……」
師匠は考えるそぶりを見せた。
「たとえば、あの部屋が密室だったなら」
密室殺人!
ミステリーではよく見る言葉だが、そんなものと現実に関わるなんて、信じられない。僕は唖然として師匠を見つめた。
「そんな目で見るなよ。たとえばの話だ。でもあの首の吊り方、妙に機械的な仕掛けだっただろう」
そうだ。背中側のドアノブを使った滑車のような吊り方だった。天井の高くない賃貸アパートの部屋での首吊りとはいえ、ほかにもやりようがあるような気がする。そして機械的な分、密室状態においても、なにか偽装工作が可能な気がしてしまうのだった。
自殺を報じた新聞記事では、家族が発見した、とあった。ということは、おそらく合鍵で入ったのだろう。連絡がつかなくなった娘を心配して。
そして、鍵の掛かっていた室内で、娘の変わり果てた姿を見つけてしまう。窓にも鍵が掛かっている。アパートの部屋だ。他に出口はない。
自殺――。
本当にそうなのか。
僕はゾクゾクしながら息を吐いた。
「さて、その辺の警察側の判断を聞いてみますかね」
師匠が言ったその言葉に驚く。
「どういうことですか」
「このあと1時に約束してるんだよ」
不破という刑事と会う約束を取り付けているのだという。本当に根回しが早い。
不破は西警察署の刑事で、階級は巡査部長。よく師匠とつるんでいる不良刑事だった。僕も何度か会ったことがある。
不破から当時の捜査情報を得るのなら、今朝以降にやっていた情報収集は無駄だったのではないか、という思いが湧いてくる。
しかし師匠は、甘いな、と言った。
「市川さんとか、看護婦の野村さんみたいな世話好きのおばちゃんに甘えるのとは、わけが違う。刑事に作る借りは最低限にしたほうがいい」
そういうものだろうか。
不破刑事とは市内の『ジェリー』という喫茶店で待ち合わせをしていた。西署からは離れている。土曜日で非番だからだろうか。家に近いのかも知れない。
師匠と2人で4人掛けの席について待っていると、少し遅れて不破がやってきた。
入り口のドアを開けた瞬間から、店内の視線が一斉にそちらに向いた。白っぽいスラックスに縦ストライプのシャツ、そして黒いジャケット。かなり空いた胸元にはチェーンが覗いている。短く刈りそろえた頭に、周囲を威圧する鋭い目つき。右目の眉の上には刃物でついたらしき古傷がある。
どう見てもカタギの人には見えない。それが不破刑事だった。
強張った顔で接客に向かったウエイトレスを片手で制して、彼は僕らのところにやってきた。
向かいの席に乱暴に腰を下ろし、「よう」と言った。そして水とおしぼりを持ってきたウエイトレスに、「ブレンド」とだけ言ってこちらに向き直る。
「仕事中だから、長居はできねえぞ」
不破はおしぼりで顔を拭きながらそう言った。
400: 幽霊物件 ◆LaKVRye0d.:2017/3/26(日) 01:45:16 ID:di6NFRnXyA
えっ。非番じゃないんだ……。
改めてその格好をまじまじと眺める。西警察署、通称西署の刑事第二課二係主任。それが不破巡査部長の肩書きだった。
刑事第一課が強行犯や盗犯の係で、二課は知能犯や暴力犯の係だ。そのなかでも二係は暴力犯を担当しており、ようするに対ヤクザの部署にいるということだ。ヤクザ相手の仕事をするには、刑事も舐められないようヤクザばりの格好をしないといけないのだろうか。
「儲かってるか?」
水を一息に飲んだ後で、不破がそう訊いてきた。それを聞いて師匠が苦笑いをする。さっき会ったばかりのタカヤ総合リサーチの所長の物真似だったからだ。
「まあ、ぼちぼち」
師匠がそう言うと、不破は「いいよなあ。自営業は。公務員はつらいぜ。何人挙げたところで、金にならねえ」と大袈裟にため息をついてみせた。
「うちの所長が言ってましたよ。不破は刑事臭が抜けるまで10年はかかるから、こっちに来ても役に立たないって」
「けっ。デカ臭が染み付く前にケツまくったヤツに言われたかねえよ」
青びょうたんが。不破は吐き捨てるようにそう言った。
小川所長と不破刑事は警察学校の同期だった。飄々とした小川さんと、元暴走族だったという強面の不破は、なぜかウマが合ったらしく、配属先が分かれても、いつもなにかにつけて、つるんでいたそうだ。
それぞれ所轄署に卒配されたあと、努力の甲斐あって2人とも念願の刑事になれたが、南署の盗犯係でキャリアをスタートさせた不破に対し、小川さんは県警本部の刑事部捜査第一課で強行犯の係に抜擢された。バリバリのエース部署である。
しかしそこでの活躍も、巡査部長に昇進していた27歳のときに唐突に終わりを迎える。
県警本部の捜査第一課長だった高谷警視が、県警を突然退職し、親戚がやっていた興信所を買い取って、開業をしたのだ。そのときに、部下だった小川さんが引き抜かれる形で、合わせて退職をしたのだった。いずれ県警のナンバー2である、警務部長の席は確実、と言われていた切れ者の高谷警視の退職は、県警内部でも憤りの声とともに、なぜ、どうして、という疑問符を持って迎えられた。
しかし、そのあと興信所は短期間に発展を遂げ、今ではタカヤ総合リサーチとして自社ビルを構えるにいたっている。そんな辞め方をしたにもかかわらず、県警とのパイプを維持している高谷所長の才覚がそうさせたのだろうか。
401: 幽霊物件 ◆LaKVRye0d.:2017/3/26(日) 01:52:05 ID:di6NFRnXyA
不破は刑事を辞めた小川さんと一時は絶交状態だったらしいが、今ではまた付き合いが復活しているらしい。
こんなところが小川所長の来歴のはずだが、そのタカヤ総合リサーチも辞めて、いまやボロい雑居ビルの小さな事務所で昼間から居眠りをしている姿を見ている僕には、いまいち信じられないところだった。
しかし、そんな小川所長のつてもあって、師匠はこうして現役の刑事である不破と、一定の協力関係を築いている。とは言っても、よくある刑事と民間協力者の、紙のように薄っぺらい関係とは少し違っているようだ。
所轄でもその手段を選ばない豪腕を恐れられ、また同時に鼻つまみ者である不良刑事の彼もまた、師匠の『オバケ事案』に関する能力を知っていて、面白がっている人間の一人だった。
「で、田岡早苗の件だがな」
不破が懐から手帳を取り出した。
「自殺だ。事件性はねえよ」
「当時の資料をあたってくれたのか?」
不破は首を横に振った。
「そんなに暇じゃねえよ。人をあたっただけだ」
当時の捜査員に聞き込みをしたということか。
「警察は、喉の爪痕がないことは気づいていたのか」
師匠の問い掛けに、不破は怪訝な顔をした。
「爪痕だと? なんのことだ」
「首を吊ったときの、ためらい傷だよ。喉を掻き毟った痕がなかったんじゃないのか。それを見逃さなかったら、他殺の疑いも出ていたはずだ」
「なにを言ってやがる」と不破は馬鹿にしたように笑った。「田岡早苗は自宅の風呂場で手首を切っての失血死だぞ」
「なにっ?」
師匠と、そして僕も驚いて身を乗り出した。
「首吊り自殺じゃないんですか!」
そう言った僕をギロリと睨んでから、不破は手帳に目を落とした。
「当時田岡早苗は下内田のアパートで親子3人暮らし。その日は両親ともに外出していて不在。夕方帰宅した母親が浴室でぐったりしている娘を発見、119番通報し、救急病院に搬送されるが、死亡が確認された。3時間ほど前に、調理用カッターで手首を切って自殺を図ったものと断定された」
「岩田町のアパートじゃないのか」
「あん? なんだ岩田町って」
不破は手帳をめくるが、そんな言葉はどこにも出てこないらしい。
402: 幽霊物件 ◆LaKVRye0d.:2017/3/26(日) 01:53:40 ID:di6NFRnXyA
師匠と僕は顔を見合わせた。なにがどうなっているんだ。
「自殺の理由は?」
「どうやら進学のことを巡って、家庭内で揉めていたらしい。そのころは娘もノイローゼ気味で、自殺をほのめかすようなことを口にするようになっていたから、親も気が気じゃなかった。そんな最中の出来事だとよ」
以上だ、というように不破は手帳を閉じて、コーヒーに口をつけた。
師匠は険しい顔をして、考え込んでいた。僕らが見た、あの岩田町の三好の住むアパートに出る首吊り死体の霊は、いったいなんなのだ。
顔は完全に新聞に出ていた田岡早苗と一致していた。はずだ。
先に記事のほうを見ていたら、思い込みでそう見えてしまうこともあったかも知れない。しかし僕らはアパートの霊のほうを先に見ているのだ。記事の写真を見てから記憶が改ざんされたわけでもない。師匠の描いたスケッチがその証拠だった。
師匠はそのスケッチを取り出し、不破に見せた。首を吊っている田岡早苗の姿をだ。
不破は手帳に挟んであった写真の白黒コピーと見比べて、唸った。
「本人だな。おまえ、これをどこで見たんだ」
師匠は岩田町のアパートの住所と部屋番号を告げてから、言った。
「この部屋に田岡早苗の幽霊が出ている。彼女が自殺した時期に、この部屋に住んでいた人間のことを調べて欲しい」
「幽霊って、おまえ本気でいってんのか」
「私たちは、そこでその女が自殺したと思っていた。いや、首を吊っていたのに、喉に掻き毟った痕がなかったから、自殺に見せかけた他殺の可能性もあると」
「おいおい。もう終わった事件だぞ。それが今さら実は死因が別で、しかも死亡場所も偽装した殺人だった、ってのか。そんなわけあるかボケ」
口汚く言い切った不破に、それでも師匠は引かずに顔を突き出した。
「あんたらが、刑事として仲間の捜査を信じているように、私も私の目を信じている」
テーブルの上に身を乗り出し、自分の瞳を指さして師匠は言った。
不破は気圧(けお)されたように椅子に深く座りなおし、「けっ」と言ってコーヒーを飲みきった。
「小川によろしくな。また律子さんの手料理食いてぇ、って言っといてくれ」
立ち上がった不破に、「おい」と師匠は被せたが、「仕事なんだよ、こっちはよ」とそっけなく返された。
「丸山って警部、いるよな。西署に」
「なに?」
師匠からさっきまでとまったく違う話を振られ、不破はリズムを崩したようにぎこちなく振り返った。
「こないだ、色々裏話教えてもらったよな。石田組の松浦のこと。その松浦が、丸山警部によろしくってさ」
不破の顔色が変わった。
「不破さんの、隣のシマにいたよな。丸山警部。刑事第一課長じゃなかったか」
「おい」
「小川所長が県警本部にいたときの主任かなにか、とにかく上司だったって聞いたことあるぞ。でもって高谷さんの元部下か。今でも刑事畑の一線で活躍しているそんな人に、ヤクザがなにをよろしくなんだろうな」
「おい、やめろ」
不破が静かに言った。店内の空気が冷たくなったように感じて、僕は息を飲んだ。師匠も口をつぐんで不破を見つめている。
「お前は、その目で、見られるものだけを見てればいい」
そう言い捨てて、不破は喫茶店をあとにした。
代金はあいつらにつけろ。
ウェイトレスにそういうジェスチャーをしながら。
403: 幽霊物件 ◆LaKVRye0d.:2017/3/26(日) 01:59:47 ID:di6NFRnXyA
「……どうします」
行ってしまった不破を見送ってから、僕は師匠に話しかけた。
「どうなってやがる」
師匠は不機嫌そうな顔でズボンのポケットに両手を突っ込み、ズズズと椅子に沈み込んだ。
喫茶店を出たあと、僕らは小川調査事務所に一度戻ることにした。
「お疲れさん。調査は順調かい」
小川所長は事務所のデスクで1人、足の爪を切っているところだった。
「不破刑事が、律子さんの手料理食べたいってさ」
「ふうん。また家に呼んでやろうかな。……って、あいつ、まさか、りっちゃん狙ってんじゃないだろうな!」
律子さんというのは、小川所長の奥さんだ。僕も家にお邪魔した時に会ったことがある。事故で右足が不自由になってしまっていて、いつも杖をついている人だった。タカヤ総合リサーチの高谷所長の一人娘でもある。
いつもは飄々としている小川さんだったが、律子さんのことになると血相を変えるので面白い。
「トーマがね。不破が大好きで家にきたら喜ぶんだ。なんであんな危ない男が好きなのかね」
そう言ってぶつぶつと呟いている。
トーマというのは小川さんの1人息子だ。この春に小学校1年生になったばかり。おとなしくて可愛らしい子だった。
「お、そう言えば、204号室のニシノって人から電話があったよ。今日は家にいるってさ」
小川所長のその言葉に、師匠は指をパチリと鳴らした。
「わからないな。男だったってことしか覚えてない」
「表札の名字だけでも覚えてないですか」
「……」
204号室の男、西野は黙って首を振るだけだった。
依頼人である三好の借りている102号室に、弁当屋のパート田坂さんの、さらに前に住んでいたはずの人間の情報を、聞き出そうとしたのだが、空振りに終わりそうだった。
404: 幽霊物件 ◆LaKVRye0d.:2017/3/26(日) 02:04:21 ID:F.ceRSUuyA
「女性が出入りしていたなんてことはないですか」
「見たことはないと思う。自信はないけど」
そんな実にならない会話をしばらく交わしたあと、師匠は『薄謝』の入った封筒を、惜しそうな顔をしながらしぶしぶ西野に渡した。
「あーっ、クソ。陰気なやつだったな」
204号室を出た後、師匠はそんな悪態をついた。その足で102号室の前に行ってみたが、鍵が掛かっていて入れなかった。
三好は今日、夕方8時過ぎまで仕事があると言っていた。さすがに合鍵までは預かっていない。
「今日はもういいや」
「いいんですか。晩にまた出てきてもいいですよ」
「ちょっと手詰まりな感じだしな」
師匠は他人ごとのようにそう言うと、大きな欠伸をした。
次の日だ。日曜日、僕は電話で師匠のアパートに呼び出された。部屋に上がると、開口一番、師匠は「ハードボイルドだぜ」と言って笑う。
手に手帳の切れ端のようなものを持っている。朝、それが郵便受けに入っていた様子を再現して、延々と笑っていた。
手帳のメモには、市内の住所と『酒井良平』という名前だけが記されていた。他にはなにも書かれていない。たぶん、というか間違いなく不破刑事がくれた情報なのだろう。僕らがこれだけ苦戦したことをこんな風にあっさりと。
さすがにプロだ。感心していると、師匠は「しかし、デカへの借りは高くつくぞ。今度やらせろ、って言われたらどうしよう」と真剣な表情で冗談めかしてそう言うのだった。
それから昼時を狙って、僕らは酒井良平の家へ向かった。
405: 幽霊物件 ◆LaKVRye0d.:2017/3/26(日) 02:05:27 ID:di6NFRnXyA
岩田町からは車で十五分くらいの距離にあるマンションだった。特に作戦を打ち合わせることなく、師匠は部屋のチャイムのボタンを押した。
『はい』
インターフォン越しに、男の声がした。
「酒井さんですか。興信所のものです。実は、亡くなった田岡早苗さんのことで少し、お話をうかがいたくて参りました」
向こうで、息を飲んだ気配があった。
師匠は「しっ」というジェスチャーを僕に見せながら、黙っていた。
しばらく沈黙が続いていたが、やがてガサガサという音が扉の向こうから聞こえてきて、ドアがゆっくりと開いた。
「なんなの。わけわかんないこと言って」
ドアから顔を覗かせたのは、肩口まである長髪をなびかせた優男だった。年齢は20歳後半くらいか。5年前に大学生だったという、早苗さんの友人からの情報と合致する。
「お時間は取らせませんので、少し上がらせていただいてよろしいですか」
「いやいやいや、ちょっとなに言ってんの。わけわかんないんだけど」
酒井はそう言いながら、うろたえたような様子を見せた。動揺している。本当になにを言っているのかわからないなら、もっと気持ち悪そうな顔をして、帰れと言ってドアを閉めればいい。しかし、彼はドアから出てきて、僕らのことを観察していた。僕でもビンゴだということはわかった。
「5年前に早苗さんが亡くなったとき、あなたは岩田町のアパートに住んでましたよね。そのときのことを詳しく訊きたいんですけど」
わざと声の音量を上げて喋っている師匠に、酒井は動揺を隠し切れない様子だった。そして、階段のあたりでこちらを怪訝そうに窺っている住民の視線に気づき、酒井は、「ちょっと、入って」と言った。
「ありがとうございます。お時間は取らせません」
師匠は澄ました顔でそう言って、僕にウインクをした。
406: 幽霊物件 ◆LaKVRye0d.:2017/3/26(日) 02:11:12 ID:di6NFRnXyA
◆
その日の夜。僕らは102号室の依頼人の部屋にいた。
目の前には月明かりに浮かび上がった首吊り死体がある。いや、実体はない。首吊り死体の霊だ。
生前、田岡早苗と呼ばれた女子生徒だった。今ではただ、寒々とした部屋でなにも言わずドアに背中をつけてぶら下がっている。口から出た舌はだらりと伸び、それでも苦痛の表情を浮かべず、ほぼ無表情で目を見開いている。ぞっとする姿だった。
「会ってきたよ。あなたの恋人に。酒井良平。大学生だったんだね。高校生だったあなたには、ずいぶん大人に見えたんだろうね」
師匠はその首吊り死体の霊に語りかける。
「遊び人だったんだな。あなた以外にも付き合っている女は何人かいたみたいだ。一度部屋に上げたのも、気まぐれだったってさ。そんなまだ子どもの女子高校生が、結婚してくれないと死ぬ、なんて思いつめちゃって、困ったって。もう別れる、なんて言っても聞きやしない。死ぬ死ぬ死ぬの繰り返し。だったらしね(1注:原文は漢字です)って言ったんだってね。リストカットは致死率の低い自殺方法だ。成功率は5%もないくらい。何度か未遂を繰り返したある日、あなたはとうとう本当に死んでしまう」
開け放ったベランダの窓から、さらさらと木の葉を揺らす風の音がする。張り詰めたような月の光を背負い、師匠は真っ直ぐに前を見据えて続ける。
「自分の家の浴槽に身を横たえて。たった1人で。酒井良平はそのニュースを見て、驚く。それでも自分には関係がないと、言い聞かせて。でも次の日の夜。あなたはこの部屋で首を吊った。死んでなお、恋人に自分の思いの深さを知って欲しかったから。どれほど愛していたかを、知って欲しかったから。あなたは、霊魂になってから、首を吊ったんだ。舌が伸びているのは、ドラマで見たことがあったから。首吊り死体について知っていることは、無意識に再現した。そうなるはずの死体になりきるために。でも喉の爪痕は知らなかったんだね」
師匠は静かに語り掛ける。
田岡早苗の霊は、なんの表情も浮かべないままだ。
「酒井良平は驚いた。死んだはずのあなたの霊が部屋に現われたことに。そして次の日、すぐさま引越しをする。あなたは彼の引っ越し先を知らない。次の日の夜もこの部屋に出た。首吊り死体の霊として。だれもいない部屋に。次の日も、その次の日も。だれもいないこの部屋に。そうして数年が経ち、住人が入れ替わっても、あなたはこの部屋に現われた。思いは消えない。消えていない。恋人はあなたの元を去ったけれど、ほかにどうしようもなかった。いつかまた、恋人がこの部屋に戻ってきて、俺が悪かった、結婚しようと言ってくれるかも知れない。その日が来るまで、あなたはこの部屋から離れられなかったんだ」
違うかな。
師匠は首を軽く傾けた。死体の霊は何も語らない。
407: 幽霊物件 ◆LaKVRye0d.:2017/3/26(日) 02:14:19 ID:F.ceRSUuyA
「だけどあなただって本当はわかっている。恋人はもう戻ってこない。あいつは、たくさんいる女友だちの1人としてしか自分を見てくれていないことも。高校生はめんどくせえ。友人にそう言っているのを、あなたに聞かれてしまったこともあったんだってね。あいつは女たらしのクソ野郎だ。私も話していて胸糞が悪くなったよ」
師匠はそこで言葉を切り、ゆっくりと酒井良平の住所を告げた。
「あいつは今、そこにいる。もうこの部屋に出るのはよせ。でも、今のあいつの部屋に行くのもよしなよ。くだらないから。なにもかも」
師匠は右手を挙げて見せた。手のひらから、拳にかけて包帯が巻かれている。
「話していて、つい手がでちまった。まさか殴るつもりはなかったんだけどな。あなたのやりたかったこととは、違うだろうけど。ちょっとは気が晴れたかな」
師匠がそう笑いかけると、首吊り死体はゆらりと揺れた。
「あ」
見ている僕らの前で、その姿が徐々に薄くなっていった。存在が揮発していく。音もなく、溶けるように。すべてが消え行くその瞬間、表情のないその頬に、一筋の涙が流れたような気がした。
「消えた」
息を飲んですべてを見守っていた依頼人の三好が、そう呟いた。
「消えた」
もう一度繰り返す。
いつもの霊の消えるときとは、あきらかに様子が違うのだろう。今度は本当に、そして永遠に消えてしまったのかも知れない。
「凄いな、あんた」
三好は真剣な表情で師匠を見つめる。僕もまた、同じ気持だった。
「多分、もう出ないと思うよ。一応念のため、今夜はまた友だちのところにでも泊めてもらって、この部屋にはいない方がいい」
明日また見にくる、と言って、師匠と僕は102号室を出た。
「あ〜、終わったぁ」
師匠は両手を上げて伸びをしながらそう言った。
「幽霊が首を吊るなんて、そんなことがあるんですね」
僕がそう言って感慨深い溜め息をついていると、師匠はこちらを振り返る。
「盲点だったな。浮遊霊なら色々な現れ方をするけど、ああいう一見典型的な地縛霊に見えるやつが、そういうことになるなんて。思いつかなかった。奥が深いな」
この世界は。
そう言いながら、師匠は右手の包帯をクルクルと剥がし、近くのゴミ袋に投げ捨てた。
(完)
408: 1 ◆LaKVRye0d.:2017/3/26(日) 02:16:14 ID:F.ceRSUuyA
失踪(書籍版)、幽霊物件
【了】
409: 風の谷の名無しか:2017/4/2(日) 08:28:58 ID:7NpPPkRlYk
いつもありがとうございます!
加奈子さんの亡くなった原因は、いつかとりあげられるのかな〜
410: 1 ◆LaKVRye0d.:2017/4/4(火) 02:46:32 ID:xvjAz8nVuI
>>409
有難うございます
私が把握してる限りでは未だ死因は出て来ませんが、いずれ書いて下さると信じて待ちます
すみません、次の更新予定作品は前・中編しか書かれておらず、後がまだ無いので後回しにしようかと思っていましたが、
現在発表されている話の残りがもう僅かなので、やはり書かれた順にしよう…とバタついている内に随分お待たせしてしまいました
一週間を目安に次の更新の予定ですが、いつもお待たせして申し訳ありません
411: 風の谷の名無しか:2017/4/27(木) 00:33:06 ID:78sJZ6mQ/g
帰って来るの待ってるよー
保守保守
412: 風の谷の名無しか:2017/5/12(金) 08:44:58 ID:Q1b1gahRH.
お帰りお待ちしてます♪
413: 風の谷の名無しか:2017/5/18(木) 16:35:08 ID:ei9QG12O.w
保守
414: 風の谷の名無しか:2017/6/4(日) 23:54:06 ID:yYo5iIviSU
保守保守
415: 風の谷の名無しか:2017/6/12(月) 18:06:00 ID:T1T6IXCxRQ
保守
ずっと待ってます!!
416: 風の谷の名無しか:2017/6/21(水) 00:14:46 ID:7iX.2xWtjE
保守
417: 風の谷の名無しか:2017/7/7(金) 13:04:22 ID:1ZO2afkhOQ
ほしゅ
418: 風の谷の名無しか:2017/7/27(木) 02:22:40 ID:3i5sHT.5WI
ほす
419: 風の谷の名無しか:2017/8/19(土) 01:18:07 ID:a7TtWoh1Kk
保守
420: 風の谷の名無しか:2017/9/6(水) 04:02:06 ID:Vu4LcD4XH.
待ちます
421: 風の谷の名無しか:2017/10/4(水) 21:31:35 ID:a0tuh2oODQ
ほしゅ
422: 名無しと申します:2018/7/16(月) 00:00:12 ID:UYS2vbUMHY
あ
423: 令和最初の名無しさん:2019/8/25(日) 18:51:42 ID:xGb3eNc5qw
保守
424: 令和最初の名無しさん:2019/10/27(日) 17:37:48 ID:EDMJho3bZ2
ほ
425: 東京名無しンピック2020:2020/10/19(月) 21:51:18 ID:DVkLhpvj66
し
426: 東京名無しンピック2021?:2021/3/8(月) 16:22:40 ID:xAYhXhB8y.
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