「出来、たー……!」
オフィス用の椅子を限界まで倒してのけ反ると、背骨と腰の辺りからばきぼきと嫌な音が鳴った。
うん。リアルだ。
ひとりで納得しながら腕を伸ばしていると、窓口に立っていた結さんが振り返る。
「お疲れ様、今日のノルマは終わりよ」
「死んでるのにドライアイになりそうですよ」
「私だって死んでから書類仕事する羽目になるとは思わなかったわよ」
お腹は空かない、でも眠れる。
肉体はないはずなのに、仕事をすれば疲れるし、物に触れることもできる。
死後の世界というものは、全くおかしな場所だった。
87: 1:2011/12/25(日) 20:31:56 ID:7l16fIcLfY
一緒に階段を降りながら、結さんの待つ事務所に向かう。
自分より小さい身長と歩幅に、妙に昔のことを重ねてしまって、俺はくだらない思いを振り払おうと口を開いた。
「現世はどうだった?」
俺は触れても構わないものかと思案しながら、特に話題もないので尋ねた。
美郷はんー、と考え込むように顎に手を当てて、言葉を欠片にする。
「分からなく、なった、かも。色々」
「そっか」
彼女の歩幅に合わせながら、俺は歩く。
色々と掘り下げることは、気が引けるような気がした。
88: 1:2011/12/25(日) 20:32:45 ID:7l16fIcLfY
「あたしね、高橋じゃなくなるっぽかった」
美郷が言う。
俺ははっとして彼女の横顔を見つめた。
「そう決まったから、お母さんは愚痴ったみたい。皮肉だよね、やっと終わったのに、終わった瞬間にキレちゃってたなんて」
俺は美郷を高橋さんと呼んだことを後悔した。
そっか、と相槌を打つことはできなかった。
「なんかね、不思議」
美郷が遠くを見つめながら、ぽつぽつと続ける。
「あたしはもうあそこにいないのに、生きてた頃よりも、ずっと存在感があるの」
89: 1:2011/12/25(日) 20:33:24 ID:7l16fIcLfY
恨んでいるようでも、悲しんでいるようでもなかった。
美郷の様子はどちらかと言えば、呆けているように見えた。
「……着いたよ」
俺は静かに彼女を遮る。
そうしている内に俺らは、事務所の前にまでやって来ていた。
扉を開けてやれば、美郷がどうも、と言ってそこを抜ける。
後は結さんの領域だった。
90: 1:2011/12/25(日) 20:33:58 ID:7l16fIcLfY
「久しぶりね、美郷ちゃん」
結さんが窓口からくるりと椅子を回して振り返る。
美郷は一週間前の別れ方でも思い出したのか、少しきまりが悪そうにぺこりと頭を下げた。
「憩、応接室」
「留守番してたなら開けといてくださいよ」
俺が文句を言うと、知ったことかと言わんばかりに結さんが伸びをする。
「うわ今ばきっていったばきって」
「知りませんよ」
美郷が来てもなお態度の変わらない結さんに若干の不安を覚えつつ、仕方ないので俺は準備に向かったのだった。
91: 1:2011/12/26(月) 14:55:08 ID:7l16fIcLfY
湯気の立ち上るティーカップ。
相も変わらず結さんは、優しい色のミルクティ。
それを静かに吹き冷まし、満を持して結さんが切り出した。
「思っていたのと、違ったでしょう」
最初から核心を突いた言葉に、俺は身体を硬くする。
美郷はきゅっとセーターの裾を握って、小さく頷いた。
「お母さんが、泣いてたんです。あんなに嫌がって、押し付けあっていたのに」
美郷はまだ戸惑っているようだった。
視線が揺れて、手元に落ちる。
92: 1:2011/12/26(月) 14:55:47 ID:7l16fIcLfY
「ふたりとも、あたしのために押し付けあってた。進路のことや、一緒にいられる時間を考えて」
自分がいない場所でそう言っていた、と美郷は言った。
口実ではなかったのだと、そういう意味なのだろう。
「こんなことになるなんて、って。部屋、揉めてる間もずっと綺麗だったのに、すごく荒れてて」
そこで美郷は黙り込んだ。
口をはくはくと動かして、でも声にならなかった何かを、呑み込んだようだった。
93: 1:2011/12/26(月) 14:56:22 ID:zfaQV.HN9M
「……学校の、お友達は?」
結さんが穏やかに尋ねる。
美郷はゆるゆると首を振った。
「友達だなんて思ってませんでした。だってトイレに行った瞬間に、その子の悪口を言うようなグループだったから」
だから期待なんてしていなかったと美郷は言い切った。
随分と殺伐とした交友関係だと思いながら、俺は紅茶を啜る。
「でも違った。あたしが死んでから何日も経つのに、昼休みのお喋りもしてなかった。あたしの席も、ちゃんと残ってたんです」
美郷の声が微かに震える。
94: 1:2011/12/26(月) 14:56:50 ID:zfaQV.HN9M
当然のことだと思う、クラスメイトの自殺に対する反応として。
でもそれは彼女にとって当然ではなかった。
「あたしが落ちたとこ、花束が置いてあって。先生がやったのかと思ってたら、グループの子がひとりで、こっそり置いてた」
美郷がやがて俯く。
結さんはそれを、じっと見つめていた。
「……分かったでしょう。君は死ぬべきじゃなかった」
結さんが口を開く。
美郷は何も言わなかった。
95: 名無しさん@読者の声:2011/12/26(月) 23:03:45 ID:6BiIRiFOyc
(´;ω;`)美郷ちゃん…
CCC
96: 1:2011/12/27(火) 00:56:48 ID:7l16fIcLfY
>>95
支援、感謝でつ
美郷は、タイミングや運が悪くて、
途中で直せたはずなのに、少しずつ拗れちゃって、
本当はこんなことにならずに済んだのに、って感じなんだ
なんとなく、書きながら
97: 名無しさん@読者の声:2011/12/27(火) 08:23:16 ID:o6D2/o4bEU
支援
良作に出会えたことに感謝
98: 1:2011/12/27(火) 14:40:11 ID:agmpcxXNZc
>>97
ありがとう
こっちこそ、読んでくれる人がいて感謝
99: 1:2011/12/27(火) 14:42:51 ID:agmpcxXNZc
「悲しむ人が、いたのよ」
結さんが重ねて告げた。
もう美郷の紅茶は冷めてしまったろうかと、俺は動かされていない様子のカップを見つめる。
美郷の指は、ずっとセーターを握ったままだ。
結さんはもう一度、彼女の名前を呼んだ。
「美郷ちゃん」
「――、だって」
美郷がきっと顔を上げる。
目元を赤くして、必死で何かを堪えているようだった。
100: 1:2011/12/27(火) 14:43:22 ID:agmpcxXNZc
「だって今更、知ったところで何になるんですか?自分で死んでからっ、そんな、勝手に」
堰を切ったように言葉が零れ落ち、美郷は顔を歪めた。
「死ななきゃよかった、なんて。今になって思ったって、全部遅いよ。こんな、後悔するくらいだったら、気付かなきゃよかった……!」
泣き出す一歩手前、ギリギリのプライドが、辛うじてそれを阻んでいるように見えた。
もうやり直せない。
それがこの世界で、最も残酷なことだと俺は思う。
どんな間違いを犯しても、生きている限りは何度でもやり直せる。
じゃあ、死んでからは。
101: 1:2011/12/27(火) 14:43:50 ID:agmpcxXNZc
「……気付いたことが、大切なのよ」
結さんが諭すように語る。
「でも、」
「確かにここに来てしまったら、もう戻れない。だったら前に進まなくちゃ。君は行かなきゃいけない」
結さんはテーブルに手をかけて、美郷をまっすぐに見つめていた。
美郷は何か言いたげにしていたが、やがて諦めたようにそれを受け止めて、こくりと小さく頷く。
ああ、彼女は行くことに決めたんだ。
俺は取り残されたような気持ちでふたりを見ていた。
102: 1:2011/12/27(火) 14:44:27 ID:agmpcxXNZc
「いちばん奥のホームよ。ずっと歩いていくの、ずっと、振り返らずにまっすぐに」
結さんが美郷に切符を握らせる。
美郷はそれをしっかりと受け取ると、目元を染めたまますっくと立ち上がった。
「――ありがとう、ございました」
深々と、俺らに向かって一礼。
顔を上げた美郷は、泣きそうな笑顔をしていた。
そのまま彼女は踵を返す。
事務所を出て行こうとする美郷の背中に、俺は耐えきれず声を投げ掛けた。
「美郷ちゃん!」
103: 1:2011/12/27(火) 14:45:42 ID:/5FRZFy.DE
言えた、と俺は内心胸を撫で下ろす。
結さんではない声に驚いて振り返った美郷に、俺は意を決して続けた。
「もう二度と、自殺なんてしちゃ駄目だよ」
言い終えた俺を、不思議そうな顔で美郷が見る。
やがて彼女は眉根を寄せて、それを隠すようにくしゃりと笑ってみせた。
「できませんよ、もう、二度と、」
おにーさん変な人、と美郷が声を上げて笑う。
そして彼女は笑いながら、一粒だけ涙を落とした。
104: 1:2011/12/27(火) 14:46:20 ID:/5FRZFy.DE
「……良い仕事するじゃない、憩も」
美郷が去った後の応接室で、結さんが深くソファに沈み込む。
俺はと言うと、結局一口も付けられなかったティーカップを片付けながら返した。
「何のことやら」
「まーとぼけちゃってやーらしー」
「結さんそれオバサン臭いです」
ぐさりと言葉で突き刺すと、面白いくらいの素早さで結さんが黙り込む。
うん、面白い。
「なんだ、もうちょっと落ち込んでるかと思ったわ」
「それを言うなら結さんだって」
むくれたようにソファの上で足を抱え込む結さんにそう切り返すと、結さんはまさかと言って俺を見上げた。
105: 1:2011/12/27(火) 14:46:53 ID:/5FRZFy.DE
「伊達に何十年も窓口やってないわよ。小娘ひとり送り届けるくらい何てことないわ」
「泣きそうだったくせに」
「おー、この口が人のこと言えるか?」
生意気な口め、と俺の頬に手を伸ばそうとする結さんをあしらいつつ、食器を給湯室に運ぶ。
美郷は今頃、もう行ってしまっただろうか。
結さんは、先に進んでも生まれ変われないと言う。
だから俺は、まだ進みたいとは決して思えないけれど。
ティーカップの中身は、もう飲み干されることはない。
俺は流し台に紅茶を捨てた。
願わくは、彼女の行く先に幸多からんことを。
106: 1:2011/12/28(水) 12:04:13 ID:agmpcxXNZc
事務所に溢れ返っている、あの雑多な書類について話そう。
書類のほとんどは、死んでからこちらの世界に来た人の、個人情報が満載の記録だ。
名前のほかに、生年月日や経歴といった基本情報、死因や現世行きの履歴などこの場所特有の項目などがある。
本人の記入と結さんの手書きで作られた記録は、見ているだけでもなかなか面白い。
中でも特に読み応えがあるのは、結さんによる備考欄だった。
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