「出来、たー……!」
オフィス用の椅子を限界まで倒してのけ反ると、背骨と腰の辺りからばきぼきと嫌な音が鳴った。
うん。リアルだ。
ひとりで納得しながら腕を伸ばしていると、窓口に立っていた結さんが振り返る。
「お疲れ様、今日のノルマは終わりよ」
「死んでるのにドライアイになりそうですよ」
「私だって死んでから書類仕事する羽目になるとは思わなかったわよ」
お腹は空かない、でも眠れる。
肉体はないはずなのに、仕事をすれば疲れるし、物に触れることもできる。
死後の世界というものは、全くおかしな場所だった。
2: 1:2011/12/11(日) 16:15:09 ID:YW2VpLC90c
「お、頑張ったじゃない。偉い偉い」
ひょこりと顔を出した結さんが、パソコン画面を覗き込む。
画面に表示された記録は1ヶ月分ほど進み、机に山積みになっていた書類も何とか片付いていた。
「この分だともーちょい行けそうよね。ノルマ増やす?」
「勘弁してくださいよ」
俺は力なく苦笑する。これでも疲れていた。
こちらの世界に来た、つまり亡くなった人達の死因や命日の記録をパソコンに打ち込むのが俺の仕事だ。
恐ろしいことにこの事務所の記録は、このデジタル化の時代に全て紙媒体で残っていてかなり煩雑である。
3: 1:2011/12/11(日) 16:15:40 ID:YW2VpLC90c
流石に一定期間保存したものは廃棄していたらしいけれど、それでも膨大な量が残っていて。
「それにしても、よくこの量を書類で管理してましたね。逆に感心します」
目頭を押さえながらぼやくと、結さんがちっちっと指を振る。
「だって管理できてなかったもの」
「おい責任者」
「本棚から溢れちゃあねえ、仕方ないでしょう」
他人事のように笑う結さんは、実際今は他人事なのだろう。
記録の管理を俺に任せた今、彼女の仕事相手は書類ではなかった。
4: 1:2011/12/11(日) 16:16:11 ID:YW2VpLC90c
「すみませーん」
結さんの肩越し、壁に空いた窓口から人の呼び掛けが聞こえた。
「はいはーい、ただいまー」
結さんが大声で返事をしながら、慌てたように立ち上がる。
俺はすっかり凝った肩を揉みほぐしながら、いってらっしゃいと呟いた。
「いってきます」
振り向きざまに結さんが、にっと笑って俺の額を小突く。
いい年をして、子供みたいな悪戯が好きなものだ。
俺は額に触れながら、彼女の後ろ姿を見送った。
5: 1:2011/12/11(日) 16:16:42 ID:YW2VpLC90c
「ああ、はいはい現世行きね、一回しか行けないけど良いの?……そう、じゃあここに必要事項記入して」
結さんの声を聞きながら、そうかここは現世じゃなかったと改めて思う。
実感が湧かなかった。
この事務所には雑多なファイルが散乱していて、筆記用具が散らかっていて、俺の目の前にはパソコンまである。
ありふれた光景。その辺のビルの一室に、普通に存在するような。
でも俺は、窓口の向こうの雑踏に、生身の人間がいないことを知っている。
俺も、もちろん結さんも、生者ではないことを知っていたのだ。
6: 1:2011/12/11(日) 16:17:11 ID:YW2VpLC90c
「……はいありがとう。何日発行しとく?一週間で足りる?……そう、じゃあ二週間にしておくわ」
慣れた動作で書類にペンで書き込むと、結さんは素早く判子を押した。
「じゃあこれ切符ね。失くしちゃ駄目よ、再発行できないから」
窓口の隙間から、結さんが切符を差し出すのが仕草で分かった。
天国から地上まで降りるのが、あんな紙切れ一枚で許されてしまうのが面白い。
ここが果たして天国と呼べるものか、俺には甚だ疑問であるけれど。
7: 1:2011/12/11(日) 16:17:43 ID:YW2VpLC90c
「世田谷区なら3番線ホームの電車から行けるわ。ええ、亡くなった場所に着くから、期限内に戻って来てね。悪霊になっちゃうわよ」
結さんが冗談めかして笑う。
窓口の向こう、少し緊張していた客も笑ったようだった。
「……お気をつけて。良い旅を」
結さんが静かに頭を下げると、客は小さく会釈して去って行った。
きっとこのまま電車を待って、最後の別れを惜しみに行くのだろう。
俺は唇を噛んで、遠ざかる後ろ姿を見詰めていた。
8: 1:2011/12/11(日) 16:18:13 ID:YW2VpLC90c
東京ターミナル駅総合案内事務所。
そこが今、俺のいる場所だ。
所謂あの世が駅の形をしているなんて思ってもみなかったけれど、いつの間にか馴染んでいる自分がいた。
窓口の向こう側で、行き交う人の群れ。
死んでから成仏するまでの間の、まだ行き先を躊躇っている人達が、ここには集まっている。
幽霊として現世に戻るにしろ、覚悟を決めて次の場所に向かうにしろ、彼らの行く先を導くのは、総合案内事務所の責任者。
それがこの、結さんだった。
9: 1:2011/12/11(日) 16:21:29 ID:7cMpp1kMaE
「はあ、疲れたわ」
結さんがこきこきと首を回しながら帰ってくる。
そのままどっかと椅子に体を預けると、仰向けのまま俺に向かって要求した。
「憩、お茶淹れて。甘ーいミルクティ」
「嫌ですよ」
「いーこーいー」
駄々っ子のようにじたばたする結さんは、果たして自分の年齢を分かっているのだろうか。
二十代後半程に見えるが、それは享年らしい。
この仕事を始めて二十年近くなるというから、つまり実年齢は。
10: 1:2011/12/11(日) 16:22:01 ID:7cMpp1kMaE
「何をそんなに見てるのかしら?」
「いっ」
脳天に強烈な一撃を食らって見上げれば、結さんが丸めたファイルを片手に仁王立ちしていた。
「そんなに見詰められて……お姉さん照れちゃう」
「誰がお姉さんとごめんなさいやめてくださいすいません」
「分かればよろしい」
うむ。と腕組みをした結さんが、ファイルを放り出して給湯室に向かう。
どうやらお茶は自分で淹れるらしかった。
11: 1:2011/12/11(日) 16:22:26 ID:7cMpp1kMaE
「それにしてもさあ」
湯気の立ち上るマグカップで、両手を温めながら結さんが言う。
そもそも何で死んでるのに飲めるのか、なんて疑問はとうの昔に忘れてしまった。
おこぼれに与かって熱い紅茶を啜る俺を、不躾な視線が上から下まで這い回る。
「……何ですか」
何だこれさっきの仕返しか。と思いながら尋ねると、結さんはミルクティを吹いて冷ましながら問い掛けた。
「憩ってなんで死んじゃったんだっけ」
12: 1:2011/12/11(日) 16:22:54 ID:7cMpp1kMaE
随分とまあ直球な、と俺は思わず溜め息をついた。
「そんな質問、生まれてこの方されたことがありませんよ」
「だって死ななきゃできないもの」
さらりと答える結さんに、それも最もだと納得してしまう。
でも、だからと言って今日の天気を話すように聞かれても、と思う。
「確か交通事故でしょ、書類にあったの」
「はい、自転車で飛び出したところを、トラックにポーンと」
この人に気遣いを求めても無駄だと諦めて、俺はそのことを話し始めた。
13: 1:2011/12/11(日) 16:23:22 ID:7cMpp1kMaE
今でも鮮明に思い出す。
耳元を切る冷たい風、真っ暗な闇を切り裂いたライト、つんざくようなクラクションと、世界が反転して、最後に見たのは逆光の人影だった。
「完全な俺の不注意でしたね、トラック運転手の人に悪いことしました」
「駄目じゃない、飛び出しちゃあ」
「急いでたんですよ、日付変わりそうだったから」
彼女の誕生日だったんです、と紅茶を流し込みながら付け加える。
そういえば祝えずじまいだったと、今になって気が付いた。
14: 1:2011/12/11(日) 16:23:52 ID:7cMpp1kMaE
俺の感傷をよそに、結さんが嬉々として俺ににじり寄る。
「ねえ憩、そう言うの何て言うか教えてあげよっか」
「はいはい、何ですか」
「りあじゅう」
結さんがどや顔で言い放つ。
俺は無言で椅子ごと後ずさった。
「え、ねえちょっと何その反応。こないだ死んだばっかの女子高生に聞いたんだけど」
「数十年単位で遅れてる人が無理しないで下さい」
「何それオバサンだって言いたいの?」
こめかみに青筋を立てる結さんに口先だけで否定して、マグカップを庇いながら逃げる。
窓口から甲高い声が聞こえたのは、そのときだった。
15: 1:2011/12/11(日) 16:24:29 ID:7cMpp1kMaE
「すーいませーん!あのー!」
音程の高い、明らかに子供の声でなされた呼び掛けに、結さんはわざとらしく舌打ちをしてみせると俺をひと睨みして窓口に向かった。
危ない、危ない。
ちょうど良すぎるタイミングに、にやつきながら結さんを見送ると、俺は残った紅茶を一気に飲み干した。
「はい、お待たせ。何かしら、君」
子供相手にくるりと変わった営業用の声に吹き出しそうになりながら、耳を澄ませる。
「あの、おれ、もう一回この世に戻りたいんですけど!」
「駄目」
即答した結さんに、子供は不満げに大声を上げた。
16: 1:2011/12/12(月) 12:18:01 ID:7cMpp1kMaE
「なんで!」
「駄目なもんはだーめっ」
窓口の向こうで駄々を捏ねる子供になんとなく興味をひかれて、俺は席を立った。
「あのね、ひとり一回しか行けないの。君もうこないだ行ったでしょ、もう行けないわよ」
「でもっ」
結さんはすっかり応対する気をなくしたようだった。
窓口の椅子で足を組み、はぁーあと溜め息をつく。
「でもおれ、行かなきゃならないんだ。もう一回、どうしても行きたいんだ」
「みんな同じよ、でも我慢している」
子供が言葉に詰まる。
ようやく視界に入った彼は、下を向いて拳を握り締めていた。
17: 1:2011/12/12(月) 12:18:38 ID:7cMpp1kMaE
「……じゃあいいよ、おれ勝手に行く!」
子供がくるりと踵を返す。
「あっ、こら!待ちなさい!」
結さんが慌てて立ち上がるも、子供はあっという間に駅中央ホールの雑踏に消えた。
わあ大変。
半ば面白がってそれを眺めていると、結さんが唐突に俺を振り向く。
「憩、ちょっと追い掛けてきて」
「嫌ですよ面倒臭い」
「あの子成仏できなくなるわ。上司命令よ」
「結さんいつから俺の上司に」
まあ立場的には上司だけど。
鋭い睨みをきかせる結さんの無言の圧力に負けて、俺は渋々案内事務所の扉に手をかけた。
18: 1:2011/12/12(月) 12:19:13 ID:XaSSnJluPk
「みーつけた」
立ち止まったところを、後ろから。
元気があっても所詮は子供、捕獲するのは簡単だった。
「あってめえ、離せよ!」
「やだよ俺が怒られるもん」
「はーなーせ!」
「こんにゃろ、はたちの体力舐めんなよ」
じたばたともがく子供を抱え上げて来た道を戻る。
危ないところだった。
どうやったのか改札口をすり抜けて、彼は駅ホームへの階段にまで来ていた。
19: 1:2011/12/12(月) 12:19:47 ID:XaSSnJluPk
「結さん、捕まえましたよ」
はい、と子供の首根っこを掴んでつき出すと、結さんはご苦労と言って満足そうに口角を上げた。
「さーもう逃げらんないわよ、観念しなさい」
「やだ!放せ!」
相変わらずぎゃあぎゃあとうるさい子供の両腕を掴んだまま、結さんが俺に指示する。
「憩、応接室開けといて。ついでにココアでも淹れてあげて」
「こっ子供扱いすんな!」
「するわよ、ガキ。たっぷりお話聞かせてもらうわ」
悪の親玉のような台詞を楽しげに言う結さんと急に青ざめた子供に背を向けて、俺は給湯室に足を運んだ。
20: 1:2011/12/12(月) 22:11:54 ID:XaSSnJluPk
温め直したミルクティとココアを持って部屋に入ると、流石にもう大人しくなった子供がソファに鎮座していた。
「気が利くじゃない」
ふたりの前にマグカップを置くと、結さんが表情を緩める。
子供の方は、目の前に置かれたココアと結さんの顔を、戸惑い気味に見比べていた。
「よし、じゃあ名前から聞きましょうか」
俺が隣に腰を下ろすのを見計らって結さんが切り出す。
子供は少し警戒したようにこちらを窺いながら、漸く口を開いた。
21: 1:2011/12/12(月) 22:12:40 ID:XaSSnJluPk
「……神山、大地」
「大地くんね、分かった」
結さんが手元の書類を見ながらふんふんと頷く。
いつの間にか結さんは彼の記録を探し当てていたらしかった。
「心臓の病気で亡くなってるのね、あんなに走って大丈夫だった?」
「別に、もう死んでるし」
大地は怪訝そうに結さんを見上げた。
初っぱなから叱られるとでも思っていたのか、居心地が悪そうにもぞもぞとソファの上に座り直す。
22: 1:2011/12/12(月) 22:13:18 ID:XaSSnJluPk
「そりゃそうよねえ、私だって死んでから風邪引いたことないし」
「知りませんよ」
俺が挟んだ突っ込みは華麗に無視される。
結さんはペンを顎に当てながら、書類の文字を目で追った。
「んー、現世滞在は三日間。二ヶ月くらい前に行ってるわね、合ってる?」
大地が頷く。三日とはなかなか短い。
結さんも同じことを思ったのか、片眉を吊り上げながら大地に尋ねた。
「結構短いけれど、それで用は足りたのかしら?」
「分かってたから。おれも、お母さんも」
23: 名無しさん@読者の声:2011/12/12(月) 23:53:23 ID:dqvzbTqV8Y
結っていうネーミングが素晴らしい
(´・ω・`)っC
24: 1:2011/12/13(火) 11:54:50 ID:XXnWtGX0ys
>>23
支援さんくす!
微妙に悩んだ甲斐があるってもんです(^ω^ )
25: 1:2011/12/13(火) 22:31:36 ID:XaSSnJluPk
大地はそのときのことを思い出しているのか、少し辛そうに顔を歪めた。
「おれさ、病気重くて。もうすぐ死ぬってことも知ってたから、帰ってもやることなんてないと思ってたんだ」
なるほど難病系か、と俺はひとりで納得した。
事故かと思ったが、この年齢で亡くなったのはそういう理由らしい。
「死んだのは仕方ないし、みんな悲しんでくれてたけど、やっぱり仕方ないって感じだった」
結さんは指一本動かさずに大地の話に聞き入っている。
俺は余所見をしたのが申し訳なくなって、大地に視線を戻した。
26: 1:2011/12/13(火) 22:32:30 ID:XaSSnJluPk
「でも、おれ、忘れてたんだ、約束したこと。お母さんの誕生日、今年はちゃんと祝うよって。でも、……」
「その前に、ここに来てしまったのね」
結さんが、詰まった言葉の続きを受け取る。
大地はばつが悪そうにまた頷いた。
「お母さん、祝って欲しかったって泣いてた。あと二ヶ月と少しだったのに、約束したのにって」
祝えなかった誕生日。
それを知って俺は、喉が締め付けられるような思いがした。
27: 1:2011/12/13(火) 22:33:10 ID:XaSSnJluPk
大地の母親の誕生日は、まだ来ていない。
俺は間に合わなかったけれど、彼なら。
「だから、どうしても行きたいんだ。おれ、このままだったら嘘つきになっちゃう」
大地が顔を上げて、きっと結さんを睨み付ける。
結さんは表情を変えないまま、凪いだ瞳で大地を見つめ返していた。
「仕方のないことなのよ。死ぬのはいつか、誰にも分からない」
「でも!」
「君はもう、一度現世に帰ってしまった。一度きりの権利を、もう使ってしまったのよ」
結さんはきっぱりと言い切った。
取り付く島もなかった。
28: 1:2011/12/13(火) 22:33:54 ID:XaSSnJluPk
耐えきれず俺は口を挟む。
「結さん、そんな無慈悲な」
「憩は黙ってて」
すげなく制止されて俺は口を噤んだ。
依然として真顔のままの結さんが、続けて語る。
「私は総合案内事務所の責任者なのよ。そんなこと、許可できる訳がない」
結さんは頑なだった。
ずっと気丈に結さんを睨んでいた大地も、ついに視線を落とす。
「そんな……」
大地の小さな声が、応接室の机に落ちて、吸い込まれていった。
29: 1:2011/12/13(火) 22:34:31 ID:XaSSnJluPk
「そうよ、認められない。この書類に、君が現世に降りた記録が確かに残っている」
結さんは立ち上がると、手にした書類をかざして見せた。
悔しそうにそれを見つめる大地の前で、何故かくるりと踵を返す。
「……結さん?」
結さんは淀みない足取りで応接室を出ると、雑多な机の横にしゃがみこむ。
追い掛けて部屋から覗き込む俺と大地の目の前で、おもむろに結さんは。
書類をシュレッダーにぶちこんだ。
30: 1:2011/12/14(水) 12:12:50 ID:zfaQV.HN9M
「あ――っ何してんすか!!」
真っ先に声を上げたのは俺だった。
冗談じゃない、何てことを。
慌てて駆け寄ってもシュレッダーは書類を半分以上飲み込んでしまっていて、もう復元は無理そうだった。
「ちょっと結さん!酷いじゃないですかこれ、まだパソコンに記録移してないのに!」
「それなら好都合、もう記録はどこにも残ってないわね」
にっ、と結さんが口だけで笑う。
「書類なんて、最初からなかったのよ」
31: 1:2011/12/14(水) 12:13:25 ID:zfaQV.HN9M
あ、と思わず声が漏れる。そういうことだったのだ。
大地が現世に戻った記録は存在しない、だから行ったことがあることにはならない。
「……って、乱暴すぎやしませんか」
「何のことかしら、私は何もしてないわよ」
しゃあしゃあと言い放つ結さんに、頭を抱えたくなる。
実際頭を抱えた俺の横を通って、結さんは大地に歩み寄った。
「……という訳だから、君の記録を新しく作るわ。現世に行ったことは?」
視線の高さを合わせて、にこりと笑う。
大地は大きく目を見開いて、結さんのことを見ていた。
32: 1:2011/12/14(水) 12:13:53 ID:zfaQV.HN9M
「ない!」
「分かったわ。あっちで手続きするから、必要事項書いてね」
結さんが窓口の方に大地を促す。
しかし大地は少し迷ったように足を止めると、俺らに向き直って大きく口を開いた。
「あのっ、ありがとう、ございました!」
大声の感謝に結さんと顔を見合わせて、俺は笑顔を零す。
「何のことやら」
「変なこと言うわねえ」
俺たちがくすくすと笑う間で、大地は照れくさそうに頭を掻いていた。
33: 1:2011/12/14(水) 12:14:28 ID:zfaQV.HN9M
「……良かったんですか、あんなことして」
静かになった事務所の中、画面から目を離さずに問い掛ける。
また冷めてしまったミルクティをちびちびと飲みながら、結さんは白い天井を仰いだ。
「駄目よねえ、普通」
「駄目なんじゃないですか!」
キィを打つ手を止めて振り向けば、結さんが舌を出す。
「しちゃったもんは仕方ない。てへぺろ」
「おい」
そろそろ突っ込みにも疲れてきましたよ、と軽口を叩けば結さんがマグカップを置いた。
34: 1:2011/12/14(水) 12:14:56 ID:zfaQV.HN9M
「だって君、泣きそうなんだもの」
結さんがぽつり、言葉を落とす。
俺は静止した手をゆっくりとキーボードに戻すと、かたん、とエンターキィを押した。
「……そうでしたか?」
「ええ」
結さんは綺麗に笑った。
俺はまだ、点滅するカーソルを見つめたままでいる。
「君に免じて特別よ。部下思いの良い上司でしょ」
結さんが鼻歌でも歌い出しそうな様子で席を立つ。
俺は彼女がマグカップを持って恐らく給湯室に歩いて行くのを、気配だけで感じていた。
35: 1:2011/12/15(木) 18:10:02 ID:/UGBUXLJ6g
いつも静かなこの事務所が、今はさらに静けさを増す。
応接室のソファで仮眠するという結さんが部屋を出てから、俺はひとり今日とてパソコンの打ち込み作業を続けていた。
真面目で仕事熱心だとか、そういう訳ではない。
ただ、ここに来てから、他にやることなんて何もないから。
「あ――……」
とはいえ疲れた。眼球が限界だ。
少し気分転換をしようと立ち上がると、何を引っ掛けたか、山積みの書類がばさばさと雪崩れ落ちる。
そういえば、切っ掛けは書類雪崩れだった。
俺は書類を拾い集めながら、しばし追憶に耽ることにした。
36: 1:2011/12/15(木) 18:10:46 ID:/UGBUXLJ6g
俺が結さんと出会ったのは、現世に降りた直後だった。
正確に言うと現世行きの手続きをするときに話したはずだが、そのときには受付の人くらいの認識しかしていなかったから、多分。
折角のチャンスを踏みにじって無駄にして、何もできなかった。
そんな思いにとらわれながら、そういえば戻ってきたら報告に行かなくてはいけなかったと機械的に足を進める。
辿り着いた窓口には、うず高く積まれた書類の山に隠れるようにして、受付の女の人が座っていた。
37: 1:2011/12/15(木) 18:11:33 ID:/UGBUXLJ6g
「ん、あれ?さっきの子よね。もう帰ってきたの」
「……、はい」
彼女が驚いたように俺を見上げた。
俺が頷くと、そう、とだけ言ってペンを置く。
そのまま書類の山を念入りに調べると、呼吸を整えて、ある一束を勢いよく抜き取った。
「……完璧だわ」
「何やってんですか」
山はびくとも動かない。
俺は呆れて溜め息をついた。
38: 名無しさん@読者の声:2011/12/15(木) 19:08:20 ID:GH7i5DEIyQ
支援〜!
次するときはあげていい?(´・ω・`)
39: 1:2011/12/16(金) 10:35:18 ID:A1avxOZkx2
>>38
支援ありがと(・∀・)
さげてんのは気分なんで、いつでもドゾー
40: 1:2011/12/16(金) 10:38:15 ID:/UGBUXLJ6g
「現世はどうだった?」
書類に何やら書き込みをしながら彼女が尋ねる。
俺は少し嫌悪を覚えながら、別に、と呟いた。
「特に何も」
「次に進んで行けそうかしら」
「進むって……?」
もう俺は死んでいる。
二十年間と少し生きて、死んで、その次と言ったら。
「生まれ変わったり、するんですか」
41: 1:2011/12/16(金) 10:38:48 ID:/UGBUXLJ6g
問い掛けると、彼女はペンを持ったままけたけたと笑った。
「多いのよねえ、そういう質問」
「どうなんですか」
俺は重ねて尋ねた。語調が強くなるのを感じた。
彼女は俺を一瞥して、ペンを置く。
「どんな人間だって死ねば一緒よ」
フラットな声が、鋭く、さくりと、酷くまっすぐに突き刺さった。
「生まれ変わりなんて器用なこと、ある訳がないじゃない」
42: 1:2011/12/16(金) 10:39:17 ID:/UGBUXLJ6g
はい手続き完了、行っていいよと彼女が書類を山に戻す。
でも俺はその場を動かなかった。
「俺は、生まれ変われないんですか」
「そっくりそのまま魂が転生、なんてことはないわよ」
まあ私も経験したことないけどね、と無責任にも彼女が言う。
俺は息を吐いて、きつく握った拳を解いて、それから、少し迷ってもう一度、手のひらを握り締めた。
生まれ変われないらしいという情報は、自分にとっては由々しき問題だった。
ならばせめて、と俺は口を開く。
「ここに、留まることは?」
43: 1:2011/12/16(金) 10:39:45 ID:/UGBUXLJ6g
彼女は眉をひそめた。
「健康的な考え方じゃないわよ、それ」
「知っています」
また面倒な子が来たものね、と頭を抱える彼女に負けじと見つめていると、彼女はあのね、と前置きをしてから語りだした。
「ここはね、人生の終着点なの。命が尽きる場所で、次の命との境界」
とん、と彼女は物のない僅かなスペースで机を叩いた。
終着点。そんなことくらい分かっていた。
「分かるでしょう?本来、留まるべき場所ではないのよ」
44: 1:2011/12/16(金) 10:40:17 ID:B7K.t.o2jo
「それでも、俺は」
引き下がる訳にはいかない。
俺は生まれ変わらなくてはいけなかった。
それが無理でも、せめて俺のままでいなくちゃならなかった。
「強情ね……」
やれやれと彼女が頭を抱える。
その拍子に腕が、横に積まれた書類の山を、盛大に引っ掛けた。
45: 1:2011/12/17(土) 12:14:51 ID:YW2VpLC90c
「っぎゃあああ!?」
色気も糞もない叫び声を上げて彼女が視界から消えた。
椅子に座った彼女の座高より高い位置から落ちてきた書類が、机の上を埋め尽くす。
山はひとつやふたつではなかったらしく、崩れた山の隣からも次々と書類やファイルが滑り落ちて。
いっそ見事な雪崩だった。
46: 1:2011/12/17(土) 12:15:31 ID:YW2VpLC90c
「……大丈夫ですかー」
恐る恐る声をかけると、何とか彼女が頭を引っこ抜く。
「またやっちゃったわ……」
どうやら日常茶飯事らしい。
そのまま書類の上に突っ伏す彼女に気が抜けてしまって、俺は乾いた笑いを漏らした。
「それにしても、何でまたこんな」
「仕方ないでしょう、たくさん記録があるんだから」
「それにしたって、パソコンに保存するとか」
俺の言葉に、彼女が無言で背後を指差す。
その先では雑然としたオフィス机の上に、完全に書類に埋まったキーボードらしき物が覗いていた。
47: 1:2011/12/17(土) 12:16:07 ID:YW2VpLC90c
「使わないんですか」
「私の機械オンチを舐めないでほしいわ」
どや顔で言い放つ彼女に呆れ返る。
データを打ち込むくらい、誰にでも出来そうなものだけれど。
散乱した書類を取り上げた彼女が、ふと俺に向き直る。
「……そうだ、君、パソコン使える?」
唐突な質問に、俺は少したじろいだ。
「一応、使えますよ。これでも理工学系なんで」
「それは好都合」
彼女がにっと口を吊り上げる。
最高に良いことを思い付いたとでもいうような、楽しげな笑顔だった。
48: 1:2011/12/17(土) 12:16:38 ID:YW2VpLC90c
「君を雇うわ、中谷憩くん」
手にしたペンを突きつけて、彼女が高らかにのたまった。
あまりに突然で一方的な雇用宣言に、俺は思わず聞き返す。
「はあ?」
「君、ここに残りたいならちょうど良いじゃない。残っていいわよ、暫くはね」
「ていうか、何で俺の名前」
「書類に書いたでしょ。君はここに居られる、私は書類を片付けてもらえる。はいギブアンドテイク完成」
「ええー……」
そんな軽いノリでと思わなくもないが、よくよく考えれば確かに良い話かもしれない。
49: 1:2011/12/18(日) 18:24:58 ID:7cMpp1kMaE
「君が残るべきでないことは変わらない」
彼女が続ける。
俺はそっと耳を傾けた。
「だからここで働いて、色々な話を聞くといいわ。……きっと前に、進みたくなる」
彼女の言うことの真意を、俺ははかりかねていた。
既に命を失って、存在すら危うい自分が、完全に形をなくすことを望むようになるとは、到底思えなかった。
それでも。
「……よろしく、お願いします」
俺はきっぱりと前を向いて言い切った。
50: 1:2011/12/18(日) 18:25:51 ID:7cMpp1kMaE
この先に行きたくなるかなんて、今の俺には分からない。
きっとそんなことはないだろうとさえ思っている。
それでも結論を待って、とりあえずはこの場所に残れることは有り難かった。
「決まりね」
彼女が書類をまとめながらにこりと笑顔を作る。
「これから君の肩書きは、東京ターミナル駅総合案内事務所副責任者」
「いきなりですか」
「ここ、私しかいないもの」
しゃあしゃあと衝撃的な発言をする彼女に、やっぱりやめようかと思ったのは秘密だ。
51: 1:2011/12/18(日) 18:26:34 ID:7cMpp1kMaE
「……言うのが遅れたわね。私の名前はユイ。結ぶ、って書く方の結よ」
彼女――結さんが、居住まいを正して向き直る。
「よろしくね、憩」
何故だか結さんが目を伏せて、それから俺を見て、少し痛そうに、とても綺麗に笑ってみせるものだから。
「こちらこそ」
その訳も聞けないままに俺は、出来るだけ誠実に頭を下げたのだった。
52: 1:2011/12/18(日) 18:27:14 ID:7cMpp1kMaE
「あーよく寝た……」
ふわあ、と辛うじて妙齢の女性にあるまじき大欠伸をかました結さんを横目に、おはようございますと呟く。
「おはよう。憩は元気ねえ」
「まあ若いので」
「嫌味かコラ」
そうは言っても然程怒っていないようで、結さんは相変わらず眠たそうに机の周りを徘徊する。
毛布を被ったまま、端を引き摺って歩き回る姿は滑稽にも見えるが、本人は気にしていないようだった。
53: 1:2011/12/18(日) 18:28:46 ID:7l16fIcLfY
あの日の表情の理由を、俺は今も聞けずにいる。
尋ねるような機会もなかったし、どう切り出せば良いのかも分からない。
何より、果たして踏み込んで良い領域なのかも分からなかった。
「いーこーいー」
「今度は何ですか」
「てい」
呼ばれて振り向くと、顔面に何かが直撃する。
いきなり何するんですか、と文句を言いながら見てみると毛布だった。
54: 1:2011/12/18(日) 18:29:18 ID:7l16fIcLfY
「っしゃ!」
「何なんですかもう……」
毛布が命中したのが余程嬉しかったのか、結さんがガッツポーズをとる。
流石に使っていたのとは別の毛布を投げたらしく、まだ端を引き摺ったままの結さんがご機嫌で給湯室に向かう。
「たまには休みな、若者よ」
給湯室から体半分だけを出して、結さんがひらひらと手を振った。
全くこの人は、大人なんだか子供なんだか。
「分かってますよ」
俺は小さく苦笑してから、毛布を抱えて席を立った。
55: 名無しさん@読者の声:2011/12/18(日) 21:03:50 ID:0GgQbx5.dA
支援っ
ときに作者さま、SS絵スレで描かせて頂いてもよろしいでしょうか…?
もし許可を頂けるなら、キャラクターの外見イメージ等あれば教えて頂けると嬉しいです
56: 1:2011/12/19(月) 14:02:55 ID:XaSSnJluPk
>>55
むしろ描いてくれるんですか((;゚Д゚)))余裕でおkっす、お願いします
キャラのイメージとかは特にないので、好きにやっちゃってくだしあ(^ω^ )
支援ありがとでした!
57: 1:2011/12/19(月) 15:10:54 ID:/UGBUXLJ6g
東京ターミナル駅が存在するのは、死後の世界、所謂あの世である。
つまり総合案内事務所の利用者は、全員が死者であって。
必然的に落ち着き払った年配の方が多くなる訳で、さらに言えばそういう人々は大抵すんなり死を受け入れる訳で。
結果どうなるかと言うと、目立っていたり問題を抱えていたりする客のほとんどが、比較的若い人々になるのだ。
「ねえ君、本当にいいの?」
慌てたような結さんの声に窓口を見れば、案の定相対していたのは制服姿の女子高生だった。
58: 1:2011/12/19(月) 15:11:32 ID:/UGBUXLJ6g
「いいんです、あたし未練とかないし。それより早く成仏させて下さいっ」
女子高生がつんけんとした口調で結さんに食って掛かる。
結さんは貼り付いた笑顔で必死に宥めようとしていた。
「でも親御さんとか悲しんでるんじゃない?現世に行って、最後に顔くらい見てくるべきよ」
「はぁ?あんな親悲しむ訳ないし!後処理とか世間体気にするだけですよ、どーせ」
これはまたひねくれた子が来たものだ。
面倒な客の対応は、大方予想がつくようになっている。
俺はおもむろに立ち上がると応接室の鍵を開けた。
59: 1:2011/12/19(月) 15:12:10 ID:/UGBUXLJ6g
「そう言わずに……落ち着きましょうよ」
あーめんどくせえ、と結さんの背中に書いてあるのがそろそろ見えてきた。
その間に俺は、紅茶で構わないだろうかなどと思案しながらとりあえず湯を沸かす。
「じゅーぶん落ち着いてますっ。あたしはただ、一刻も早く幽霊脱出したいの!」
「でもほら、皆突然のことで、きっとショックを受けてるわ」
いよいよヒートアップしてきた言い合いを聞き流しながら接客用のティーカップを出していると、女子高生が急に声を硬くした。
「突然じゃないですもん。だって」
瞬間、きんと冷えた言葉が耳を貫いた。
「死んでやる、って言ってきたんだから」
60: 1:2011/12/20(火) 12:42:06 ID:XaSSnJluPk
結さんが一瞬硬直する。
自殺ということか。
「お話の途中で失礼します」
俺はすかさず窓口の方に近寄ると、女子高生に会釈した。
「こんな場所でも何ですから、中にいらしたらいかがですか」
そう提案すると結さんは、はっとしたように俺を振り返る。
「憩、応接室」
「開いてます」
「ならよろしい」
結さんはいつものペースを取り戻したようだった。
女子高生に向き直ると、びしりとペンを突き付ける。
61: 1:2011/12/20(火) 12:43:01 ID:XaSSnJluPk
「という訳だから中で話しましょう」
「何でそんな面倒なこと、」
「成仏させたげないわよ」
結さんの脅しに、女子高生がぐっと詰まる。
どうやらこのままで居るのは嫌らしい。
「……分かりました」
「おっけー、行きましょ。あと憩、沸騰してるわよ向こう」
「あっ」
不覚。
俺はぐらぐらに沸いたやかんの火を止めに、慌てて給湯室に走ったのだった。
62: 1:2011/12/20(火) 12:43:58 ID:XaSSnJluPk
「えーと、高橋美郷さん享年十七歳。高校二年生?」
「はい」
結さんが書類を見ながら確認をとる。
女子高生は随分と大人しくなって、紅茶のカップを口に運んでいる、が。
「……なんか嫌ですね享年て言い方」
「うるさいわよ」
叱られた。思ったことを言っただけなのに。
俺は大人しく口を噤んでいることにした。
63: 1:2011/12/20(火) 12:44:27 ID:XaSSnJluPk
「一体何があったの?」
結さんが単刀直入に尋ねる。
美郷は拗ねたようにセーターの裾を弄りながら、ぼそぼそと呟いた。
「別に、大したことじゃ」
「そんな訳はないでしょう」
結さんの声がふいに優しくなる。
「こっちに来てしまったからには、もう現世のことは変えられないわ。でも、話を聞くことならできる」
俺はちらりと結さんを見た。
ああ、この人は、助けようとしているんだ。
64: 1:2011/12/20(火) 12:44:54 ID:XaSSnJluPk
「話して、くれないかしら」
美郷はゆらゆらと目を泳がせて、相変わらずほつれたセーターの裾をもてあそんでいた。
どうして迷っているのか、何を思っているのか、外からでは何も、見ることはできないけれど。
「……親が、離婚するんです」
ぽつり、そう言ってからは、美郷は驚くほどすんなりと事情を話し始めた。
65: 名無しさん@読者の声:2011/12/20(火) 18:07:03 ID:lcY6txYbiA
支援!!
(`・ω・)つCCCCCC
66: 1:2011/12/21(水) 09:41:34 ID:XXnWtGX0ys
>>65
あざす!!(`・ω・´)
支援してくれる人愛してるペロペロ
67: 1:2011/12/21(水) 10:03:57 ID:4SVeeV6rxk
「あたしの家、あんまし親が仲良くなくて。そこまで酷いのされたことはないけど、八つ当たりとか、とばっちりは昔から」
口火を切ってしまえば後はもうなすがままで、美郷は特にためらう様子もなく話し続ける。
「世間体気にする人達だったから学校には行かせて貰えたけど、親はもう頼りにならなかった」
かたん、と結さんがカップを置く。
もう必要ないとでも言うように、手にした書類を揃えて、そっと机に伏せた。
「離婚の話が始まったのは、もう一年も前のことです」
美郷は記憶の糸を手繰るように、遠くを眺めながら事の顛末を語り出した。
68: 1:2011/12/21(水) 10:04:32 ID:4SVeeV6rxk
「離婚は大方順調みたいでした」
美郷は言う。
セーターの裾はもう弄らずに、ただきつく握り締めるのみになっていた。
「お金のことも、特に揉め事もなさそうで、どんどん話は進んでいった。でも」
美郷が言葉を切る。
「あたしのことだけは、言い争っているようでした」
69: 1:2011/12/21(水) 10:05:12 ID:4SVeeV6rxk
耐えきれず俺はカップを取り上げた。
口に中身を流し込めば、やや冷めた苦い液体が喉を通って落ちる。
「……毎晩、聞こえるんです。あたしを押し付けあう声が」
美郷は笑顔を貼り付かせた。
そうせずには、いられなかったのかもしれない。
「収入が多いあなたが引き取るべきだ、母親が世話をするべきだって、それだったらいっそひとりで生きてくって言ったのに、それは許してもらえなかった」
諦めたような笑顔は不気味だった。
70: 1:2011/12/21(水) 10:05:41 ID:4SVeeV6rxk
「他のことでは何も揉めてなかったのに、あたしだけ。……成績は、下がりました」
俺はカップをソーサーに置く。
かちん、と陶器の触れ合う音が、静かな部屋にやけに大きく響いた。
「自分で色々やって、学校では普通な振りをしてたんですけど、あたしの学校、頭良いとこだから、必死でやんないとついてけなくて」
あたし馬鹿だから、と美郷が自嘲気味に笑う。
でもそんな頭の良い学校に、入ったのは彼女の努力ではないんだろうか。
「成績は下がるし繕えなくなるし、薄々同じグループの子にも感付かれて」
彼女は同級生のことを、友達とは呼ばないようだった。
71: 1:2011/12/22(木) 11:47:22 ID:agmpcxXNZc
「……限界でした、そろそろ」
疲れきったように美郷が呟く。
ここでは言っていなくとも、心の奥底にはもっと沢山の、渦巻いている思いがあるんだろう。
その全てに押し潰されそうになって、それでも彼女は足掻いていたんだろう。
「ある日帰ると、珍しく母親だけが家にいて、居間のソファでぐったりと座っていました」
美郷の声がふいに感情を失くした。
口振りで、その日が近付いていることが分かった。
「何してんの、って聞いたら、休憩中、って言われて。疲れてんの、って言うと、誰かさんのせいで、って」
72: 1:2011/12/22(木) 11:48:04 ID:agmpcxXNZc
「お母さんの愚痴は、そこから始まりました。第一あの人が家庭に関わらなかったのがいけなかいとか、女が子育てするのを当然と思ってるとか」
美郷の指先は、既に白くなっていた。
強く握りすぎて血の通わなくなってしまった手を心配しながら、俺は話に聞き入る。
「あんたもそう思うでしょう、って言われたんです。あんたもあの父親が、無責任な人だって、って」
握り締めた拳とは裏腹に、淡々と美郷は語る。
「そこでぷつん、て切れちゃって。あたし言ってやりました。無責任なのはお母さんの方だ。産んで育てて養っといて、今更それはないんじゃないって」
73: 1:2011/12/22(木) 11:48:40 ID:agmpcxXNZc
美郷は依然として平坦な口調で語る。
表情はないに等しく、その目は据わっていた。
ただひとつ、握り締めた手だけが、かたかたと震えていて。
「産まなきゃよかったじゃん、って。最初から責任取れないなら産むなって、それで」
「もういいわ」
美郷が弾かれたように結さんを見る。
結さんは酷く傷ついたような顔をしていた。
「……もう、いい」
美郷が黙りこくる。
俺は何も言えなかった。
74: 1:2011/12/23(金) 13:42:45 ID:A1avxOZkx2
結さんが目を伏せて、ティーカップを口元に運ぶ。
器は違えど、いつも通りのミルクティ。
彼女はゆっくりと口からカップを離すと、そっとソーサーの上に戻した。
「飛び降り自殺、だったわね。どこから?」
「……学校の、屋上」
ばつが悪そうに美郷が答える。
結さんはもう一度書類を手に取って、そう、と呟いた。
「美郷ちゃん、あなたやっぱり戻りなさい」
結さんが言うと、美郷がばっと顔を上げる。
75: 1:2011/12/23(金) 13:43:42 ID:A1avxOZkx2
「ちょ、お姉さん今の話聞いてた?あたしは戻っても、やることなんてないんですっ」
「いいから戻りなさい」
結さんは断固として命じた。
「あなたの都合なんて知らないわ。必要だと判断したから行ってもらう。切符ならここにあるわよ」
「そんな身勝手な」
「勝手で結構。早く行きなさい」
いつの間に用意していたのか、現世行きの切符を結さんがちらつかせる。
美郷は先程とは打って変わって、顔を真っ赤にして身を乗り出した。
76: 1:2011/12/23(金) 13:49:02 ID:/5FRZFy.DE
「分かってないでしょ、あたしがどんなに……!」
「私の知ったことではないわ」
「ちょっと、結さん」
それはあまりにあまりなんじゃないか、と思って口を挟むも、結さんは俺を相手にしない。
ずいと美郷に額を突き合わせて、一段と低い声で呟いた。
「言うこと聞かないと――生き返らすわよ」
途端に美郷の肩が揺れた。
「そんなこと、できる訳……」
「さあどうかしら。私これでも責任者だから」
結さんがにこりと、気味が悪いほど完璧に笑う。
77: 1:2011/12/23(金) 13:49:37 ID:/5FRZFy.DE
「折角ここまで来たのに、全部逆戻りよ?あなたは死に切れなかった根性なし、もっと面倒な人生が待ってるわ」
「…………っ!」
美郷が唇を噛む。
そのまま結さんと睨み合うこと、しばし。
「――分かったわよ行けばいいんでしょ行けば!」
机の上の切符をもぎ取って美郷が吐き捨てる。
大股で部屋を出る美郷を見送りつつ結さんは、分かればいいのよ、などと暢気にミルクティを飲んでいた。
78: 1:2011/12/23(金) 13:50:13 ID:/5FRZFy.DE
どたばたと大袈裟な足音が遠ざかるのを確かめて、気になっていたことをひとつ。
「……生き返らせたり、できるんですか?」
優雅にカップを口に運ぶ結さんを、見下ろしながら俺。
「やあね、はったりよ」
カップを離して顔色ひとつ変えずに、結さん。
いけしゃあしゃあと抜かす結さんに、とんだ狸がいたものだと、俺は密かに溜め息をついた。
79: 名無しさん@読者の声:2011/12/24(土) 00:23:14 ID:DBnsn4YRhE
許可ありがとうございます!
SS絵スレに上げさせていただきました(・∀・)
そして支援っ
80: 79:2011/12/24(土) 00:33:23 ID:tBLCdDOP22
下げ忘れ申し訳ありませんでしたorz
81: 1:2011/12/24(土) 00:41:21 ID:/UGBUXLJ6g
>>79
拝見しました!
素敵絵本当に感謝っす、嬉しさで布団ばすばすしたのはここだけの話www
sageは本当に気分なんで、気にせずageたいときにご自由にドゾ(・∀・)
支援感謝です
82: 1:2011/12/24(土) 12:15:40 ID:YW2VpLC90c
美郷が応接室を出ていってから、もう一週間になる。
彼女があれからどうしたのか、俺には見当もつかない。
「憩、そこのバインダー取って。赤いやつね」
要求に応えてバインダーを手渡すと、結さんはありがと、と言ってさっさと窓口の方に戻ってしまった。
結さんはあれから特に変わった様子もなく、いつも通りに業務をこなしている。
一度美郷について尋ねてみると、どうやら切符は一週間の滞在で発行したらしい。
まだこちらに戻っていないのであれば、今日辺りには帰ってくるはずなのだが。
83: 1:2011/12/24(土) 12:16:21 ID:YW2VpLC90c
「あ、そうだ憩ー」
「はいー?」
つられて語尾を伸ばしながら振り向くと、結さんがバインダーを見つめたままで言った。
「ホームまで迎えに行ってあげて。そろそろ帰ってくるから」
「え?」
「美郷ちゃんよ。一週間経ったでしょ」
絶対ギリギリまでいたはずよ、と結さんが何かの書類を抜き取る。
つくづくノリが軽いよなと思いつつ、俺を行かせようとする辺り気にしてはいるんだろう。
84: 1:2011/12/24(土) 12:17:05 ID:YW2VpLC90c
俺は分かりましたと返事をすると、データを保存してパソコンを切った。
「12番線ね、もうすぐ来るわよ」
「了解、行ってきます」
行ってらっしゃい、と気の抜けた挨拶を背中に受けて俺は事務所を後にする。
そういえばここで働き始めてから外に出ることが少なくなったと、なんとなく思った。
人と離れていた気分はしない。
あの場所には、色々な人が訪れる。
ただでさえ人の集うターミナルで、事情を抱えた人達がやって来る場所だからかもしれない。
85: 1:2011/12/24(土) 12:17:34 ID:YW2VpLC90c
中央ホールの人混みを抜けて、ホームに続く階段が並ぶ廊下へ。
こちらに来ると随分と人もまばらで、すれ違う人に思わず会釈する。
永遠に続くような廊下の手前から、俺は表示を見つつ順に数えていった。
こちら側から、数字の大きい方へ。
廊下の突き当たりに何があるのかを、俺はまだ知らない。
「12番線……っと」
教えられた番号に辿り着いて見上げると、階段の上の方からごうんごうんと車輪が滑る音が聞こえてきた。
86: 1:2011/12/25(日) 20:31:03 ID:7l16fIcLfY
「高橋さん」
年下の女の子をどう呼ぶか、迷った結果がこれ。
振り向いた彼女は驚いたように目を眇めて、俺を呼んだ。
「案内事務所の、おにーさん」
「覚えてて貰えて何より」
正直本当に自信はなかった。
俺空気だったからね、と笑ってみせると、美郷も確かにと言って笑う。
刺々しい雰囲気はもうなかった。
ただ無理をしている笑顔が、ひたすらにぎこちなかった。
87: 1:2011/12/25(日) 20:31:56 ID:7l16fIcLfY
一緒に階段を降りながら、結さんの待つ事務所に向かう。
自分より小さい身長と歩幅に、妙に昔のことを重ねてしまって、俺はくだらない思いを振り払おうと口を開いた。
「現世はどうだった?」
俺は触れても構わないものかと思案しながら、特に話題もないので尋ねた。
美郷はんー、と考え込むように顎に手を当てて、言葉を欠片にする。
「分からなく、なった、かも。色々」
「そっか」
彼女の歩幅に合わせながら、俺は歩く。
色々と掘り下げることは、気が引けるような気がした。
88: 1:2011/12/25(日) 20:32:45 ID:7l16fIcLfY
「あたしね、高橋じゃなくなるっぽかった」
美郷が言う。
俺ははっとして彼女の横顔を見つめた。
「そう決まったから、お母さんは愚痴ったみたい。皮肉だよね、やっと終わったのに、終わった瞬間にキレちゃってたなんて」
俺は美郷を高橋さんと呼んだことを後悔した。
そっか、と相槌を打つことはできなかった。
「なんかね、不思議」
美郷が遠くを見つめながら、ぽつぽつと続ける。
「あたしはもうあそこにいないのに、生きてた頃よりも、ずっと存在感があるの」
89: 1:2011/12/25(日) 20:33:24 ID:7l16fIcLfY
恨んでいるようでも、悲しんでいるようでもなかった。
美郷の様子はどちらかと言えば、呆けているように見えた。
「……着いたよ」
俺は静かに彼女を遮る。
そうしている内に俺らは、事務所の前にまでやって来ていた。
扉を開けてやれば、美郷がどうも、と言ってそこを抜ける。
後は結さんの領域だった。
90: 1:2011/12/25(日) 20:33:58 ID:7l16fIcLfY
「久しぶりね、美郷ちゃん」
結さんが窓口からくるりと椅子を回して振り返る。
美郷は一週間前の別れ方でも思い出したのか、少しきまりが悪そうにぺこりと頭を下げた。
「憩、応接室」
「留守番してたなら開けといてくださいよ」
俺が文句を言うと、知ったことかと言わんばかりに結さんが伸びをする。
「うわ今ばきっていったばきって」
「知りませんよ」
美郷が来てもなお態度の変わらない結さんに若干の不安を覚えつつ、仕方ないので俺は準備に向かったのだった。
91: 1:2011/12/26(月) 14:55:08 ID:7l16fIcLfY
湯気の立ち上るティーカップ。
相も変わらず結さんは、優しい色のミルクティ。
それを静かに吹き冷まし、満を持して結さんが切り出した。
「思っていたのと、違ったでしょう」
最初から核心を突いた言葉に、俺は身体を硬くする。
美郷はきゅっとセーターの裾を握って、小さく頷いた。
「お母さんが、泣いてたんです。あんなに嫌がって、押し付けあっていたのに」
美郷はまだ戸惑っているようだった。
視線が揺れて、手元に落ちる。
92: 1:2011/12/26(月) 14:55:47 ID:7l16fIcLfY
「ふたりとも、あたしのために押し付けあってた。進路のことや、一緒にいられる時間を考えて」
自分がいない場所でそう言っていた、と美郷は言った。
口実ではなかったのだと、そういう意味なのだろう。
「こんなことになるなんて、って。部屋、揉めてる間もずっと綺麗だったのに、すごく荒れてて」
そこで美郷は黙り込んだ。
口をはくはくと動かして、でも声にならなかった何かを、呑み込んだようだった。
93: 1:2011/12/26(月) 14:56:22 ID:zfaQV.HN9M
「……学校の、お友達は?」
結さんが穏やかに尋ねる。
美郷はゆるゆると首を振った。
「友達だなんて思ってませんでした。だってトイレに行った瞬間に、その子の悪口を言うようなグループだったから」
だから期待なんてしていなかったと美郷は言い切った。
随分と殺伐とした交友関係だと思いながら、俺は紅茶を啜る。
「でも違った。あたしが死んでから何日も経つのに、昼休みのお喋りもしてなかった。あたしの席も、ちゃんと残ってたんです」
美郷の声が微かに震える。
94: 1:2011/12/26(月) 14:56:50 ID:zfaQV.HN9M
当然のことだと思う、クラスメイトの自殺に対する反応として。
でもそれは彼女にとって当然ではなかった。
「あたしが落ちたとこ、花束が置いてあって。先生がやったのかと思ってたら、グループの子がひとりで、こっそり置いてた」
美郷がやがて俯く。
結さんはそれを、じっと見つめていた。
「……分かったでしょう。君は死ぬべきじゃなかった」
結さんが口を開く。
美郷は何も言わなかった。
95: 名無しさん@読者の声:2011/12/26(月) 23:03:45 ID:6BiIRiFOyc
(´;ω;`)美郷ちゃん…
CCC
96: 1:2011/12/27(火) 00:56:48 ID:7l16fIcLfY
>>95
支援、感謝でつ
美郷は、タイミングや運が悪くて、
途中で直せたはずなのに、少しずつ拗れちゃって、
本当はこんなことにならずに済んだのに、って感じなんだ
なんとなく、書きながら
97: 名無しさん@読者の声:2011/12/27(火) 08:23:16 ID:o6D2/o4bEU
支援
良作に出会えたことに感謝
98: 1:2011/12/27(火) 14:40:11 ID:agmpcxXNZc
>>97
ありがとう
こっちこそ、読んでくれる人がいて感謝
99: 1:2011/12/27(火) 14:42:51 ID:agmpcxXNZc
「悲しむ人が、いたのよ」
結さんが重ねて告げた。
もう美郷の紅茶は冷めてしまったろうかと、俺は動かされていない様子のカップを見つめる。
美郷の指は、ずっとセーターを握ったままだ。
結さんはもう一度、彼女の名前を呼んだ。
「美郷ちゃん」
「――、だって」
美郷がきっと顔を上げる。
目元を赤くして、必死で何かを堪えているようだった。
100: 1:2011/12/27(火) 14:43:22 ID:agmpcxXNZc
「だって今更、知ったところで何になるんですか?自分で死んでからっ、そんな、勝手に」
堰を切ったように言葉が零れ落ち、美郷は顔を歪めた。
「死ななきゃよかった、なんて。今になって思ったって、全部遅いよ。こんな、後悔するくらいだったら、気付かなきゃよかった……!」
泣き出す一歩手前、ギリギリのプライドが、辛うじてそれを阻んでいるように見えた。
もうやり直せない。
それがこの世界で、最も残酷なことだと俺は思う。
どんな間違いを犯しても、生きている限りは何度でもやり直せる。
じゃあ、死んでからは。
101: 1:2011/12/27(火) 14:43:50 ID:agmpcxXNZc
「……気付いたことが、大切なのよ」
結さんが諭すように語る。
「でも、」
「確かにここに来てしまったら、もう戻れない。だったら前に進まなくちゃ。君は行かなきゃいけない」
結さんはテーブルに手をかけて、美郷をまっすぐに見つめていた。
美郷は何か言いたげにしていたが、やがて諦めたようにそれを受け止めて、こくりと小さく頷く。
ああ、彼女は行くことに決めたんだ。
俺は取り残されたような気持ちでふたりを見ていた。
102: 1:2011/12/27(火) 14:44:27 ID:agmpcxXNZc
「いちばん奥のホームよ。ずっと歩いていくの、ずっと、振り返らずにまっすぐに」
結さんが美郷に切符を握らせる。
美郷はそれをしっかりと受け取ると、目元を染めたまますっくと立ち上がった。
「――ありがとう、ございました」
深々と、俺らに向かって一礼。
顔を上げた美郷は、泣きそうな笑顔をしていた。
そのまま彼女は踵を返す。
事務所を出て行こうとする美郷の背中に、俺は耐えきれず声を投げ掛けた。
「美郷ちゃん!」
103: 1:2011/12/27(火) 14:45:42 ID:/5FRZFy.DE
言えた、と俺は内心胸を撫で下ろす。
結さんではない声に驚いて振り返った美郷に、俺は意を決して続けた。
「もう二度と、自殺なんてしちゃ駄目だよ」
言い終えた俺を、不思議そうな顔で美郷が見る。
やがて彼女は眉根を寄せて、それを隠すようにくしゃりと笑ってみせた。
「できませんよ、もう、二度と、」
おにーさん変な人、と美郷が声を上げて笑う。
そして彼女は笑いながら、一粒だけ涙を落とした。
104: 1:2011/12/27(火) 14:46:20 ID:/5FRZFy.DE
「……良い仕事するじゃない、憩も」
美郷が去った後の応接室で、結さんが深くソファに沈み込む。
俺はと言うと、結局一口も付けられなかったティーカップを片付けながら返した。
「何のことやら」
「まーとぼけちゃってやーらしー」
「結さんそれオバサン臭いです」
ぐさりと言葉で突き刺すと、面白いくらいの素早さで結さんが黙り込む。
うん、面白い。
「なんだ、もうちょっと落ち込んでるかと思ったわ」
「それを言うなら結さんだって」
むくれたようにソファの上で足を抱え込む結さんにそう切り返すと、結さんはまさかと言って俺を見上げた。
105: 1:2011/12/27(火) 14:46:53 ID:/5FRZFy.DE
「伊達に何十年も窓口やってないわよ。小娘ひとり送り届けるくらい何てことないわ」
「泣きそうだったくせに」
「おー、この口が人のこと言えるか?」
生意気な口め、と俺の頬に手を伸ばそうとする結さんをあしらいつつ、食器を給湯室に運ぶ。
美郷は今頃、もう行ってしまっただろうか。
結さんは、先に進んでも生まれ変われないと言う。
だから俺は、まだ進みたいとは決して思えないけれど。
ティーカップの中身は、もう飲み干されることはない。
俺は流し台に紅茶を捨てた。
願わくは、彼女の行く先に幸多からんことを。
106: 1:2011/12/28(水) 12:04:13 ID:agmpcxXNZc
事務所に溢れ返っている、あの雑多な書類について話そう。
書類のほとんどは、死んでからこちらの世界に来た人の、個人情報が満載の記録だ。
名前のほかに、生年月日や経歴といった基本情報、死因や現世行きの履歴などこの場所特有の項目などがある。
本人の記入と結さんの手書きで作られた記録は、見ているだけでもなかなか面白い。
中でも特に読み応えがあるのは、結さんによる備考欄だった。
107: 1:2011/12/28(水) 12:04:57 ID:agmpcxXNZc
「……あれ、この書類こないだの」
ぺら、と山の頂上にある冊子を捲ると、その書類だけやけに最近のものだった。
どうやら紛れ込んでいたらしい。
俺はその書類を掴むと、後ろでくつろいでいた結さんに声をかけた。
「結さんこれ、置く場所間違ってませんか」
「ん、いつのー?」
「美郷ちゃんの奴です」
そう言いながらぱらぱらと捲ると、やけにみっちりと字の詰まった備考欄が目についた。
108: 1:2011/12/28(水) 12:05:53 ID:agmpcxXNZc
「あー、しくった。ごめんそれ、二番目の棚の上に積み上げといて」
「はあ」
備考欄には美郷が話した家庭事情や学校のことが詳細にメモされていた。
それを眺めながら生返事をすると、結さんが、聞いてるの、と尋ねる。
「聞いてないでしょ、明らかに」
「すいません」
「憩から聞いてきたのに」
ぷぅと結さんが頬を膨らませる。
その年でそれをやるかと思わなくもないが、備考欄に興味を惹かれたので突っ込みは保留にした。
109: 1:2011/12/28(水) 12:06:28 ID:agmpcxXNZc
「何読んでるの?備考欄?」
暇だったのか、ひょこっと顔を出した結さんが書類を覗き込む。
俺は特に拒否する理由もないので、座ったまま結さんにも見えるよう書類を広げた。
「毎回思ってましたけど、随分と詳しく書いてますよね」
「まあね、半分趣味みたいなものだから」
あれから長い時間が経ったという訳でもないのに、結さんは屈み込むと、懐かしそうに目を細めて紙に手を触れた。
「大地くんのもあるわよ、勿論もっと前の人も」
「知って、います」
ずっと記録に触れていれば、気付かない訳がない。
全て読んでいたら一向に仕事が進まないから、きちんと目を通したことはないけれど。
110: 1:2011/12/28(水) 12:07:26 ID:IZAkWz/mtQ
「……いいんですか。こんなに細かく書いたところで、どこにも残りませんよ」
パソコンに全部は入力してませんから、と俺は書類から目を逸らす。
パソコンに打ち込んでデータになった書類は捨ててしまう。
当然だ、溢れかえった書類を減らすために俺は仕事をしているのだから。
ただ、このびっしりと書き込まれた備考欄まで消し去ってしまうのは、とても勿体ないように思えた。
「いいのよ、覚えてるから」
全部ね、と結さんは、冗談とも本気ともつかない笑みを浮かべる。
111: 1:2011/12/29(木) 11:56:38 ID:XXnWtGX0ys
「何ていうか、日記みたいな?書くことが大事なのよね、流石に全員は無理だけど」
「そういうもんですか」
「そーいうもんよ」
結さんはどこから引っ張り出してきたのか、クッションを抱え込みにぎにぎと押し潰して遊んでいた。
俺はそれを横目に書類を閉じると、机の脇に横たえる。
記憶に残っていることは、俺も同じだった。
「ていうか、備考欄以外も割と面白いですよこれ」
俺はすっかり機械相手の作業にやる気をなくして、山積みの書類を片っ端から捲り始めた。
少しの休憩、後で頑張ればいいだろう。
利用者が訪れない限り暇そうな結さんは、相変わらずクッションを苛めながらいかにも興味津々といった様子で話に乗ってきた。
112: 1:2011/12/29(木) 11:57:32 ID:XXnWtGX0ys
「何なに、例えば?」
「死因とか」
「うっわ、悪趣味」
そんなことを言われても仕方ない。
死因が載った履歴書なんて、見たことがなかったのだから。
「がん、脳卒中に心筋梗塞、交通事故にその他災害……」
「読み上げないでー、お姉さん虚しくなっちゃう」
きゃー、と棒読みの悲鳴を上げる結さんに、何を今更と溜め息をつく。
113: 1:2011/12/29(木) 11:58:10 ID:XXnWtGX0ys
「俺らだって死んでるじゃないですか」
「君は慣れるのが早すぎるのよ。小学生みたいな理由で来たくせに」
「それ今関係ないでしょう!」
小学生の死亡事故原因第一位、自転車での飛び出し。
思わず噛みつくと、結さんはにやつきながら、まあ可愛らしいと口元に手を添えた。
全くこの人には、抵抗するだけ無駄なのかもしれない。
「そう言う結さんは、どうしてここに?」
そういえば聞いたことがなかったと、ふいに思い当たって俺は問うた。
結さんも十分、ここに来るにしてはまだ若い方なのだけれど。
114: 1:2011/12/29(木) 11:58:56 ID:XXnWtGX0ys
俺の質問に結さんは、ぴたりと手を止めて目を泳がせる。
「あー……何でだろうね?」
「ちょっと」
いくら何でも分からないというこては、と胡乱げに見ると、結さんは慌てて手を振って否定した。
「いや違うの、別に忘れてるとかじゃなくて、ちょっと分類が難しいだけなの!」
「いや大丈夫です、分かりましたから」
本気で忘れていると思った訳ではない。
結さんは小さく息を吐くと、自分の最期のことを語り始めた。
115: 1:2011/12/29(木) 12:00:05 ID:XXnWtGX0ys
「私、病弱だったから」
吹いた。初っ端から。
「ちょっと何笑ってんのよ」
「すいま……っ、せん」
妙にツボに入ってしまった俺は、笑いを噛み殺しながら続けてください、と促した。
結さんは片眉を吊り上げて握り拳をつくりながら、それでも続きを話してくれた。
「子供を生んだときにね、体が保たなかったのよ」
結さんは抱えたクッションをゆっくりと体から離すと、おもむろに俺の腕に預けた。
「……結さん母親だったんですか」
「一瞬だけね」
116: 1:2011/12/30(金) 10:44:45 ID:agmpcxXNZc
結さんがふっと目を和ませる。
俺は手渡されたクッションを握るでもなく、結さんを静かに見上げていた。
「まあせっかく授かったんだから、産んであげたかったし」
危なかったけど産んじゃった、と結さんは笑う。
「旦那は反対したんだけど、頑張って説得してね。結局私は死んじゃったけど」
「そんな、」
「覚悟の上よ」
誇らしげに胸を反らす結さんを、結局死んだから誇れないんじゃないかと思いつつ、それでも素直に尊敬する。
自分の命と引き換えに子供を産むのは、どんな気持ちだったんだろう。
117: 1:2011/12/30(金) 10:45:12 ID:agmpcxXNZc
「……お子さんは、お元気なんですか?」
俺はそっと思いを押し込めるように尋ねた。
結さんは少しの沈黙の後に、笑い混じりの吐息で答える。
「一度降りたときは、元気そうだったわ。旦那が面倒を見ててね、ちょうど言葉を話し始めた頃だったけれど」
和やかに語る結さんに、俺も自然と微笑ましい気分になる。
しかしその雰囲気は、一瞬にして打ち壊されることになった。
「も、すっごく可愛くて!何これうちの子赤ちゃんタレントになれるんじゃない?みたいな!まじで天使だったの!」
118: 1:2011/12/30(金) 10:45:39 ID:agmpcxXNZc
きゃーっと歓声を上げる結さんに、せっかく良い話だったのにと少し呆れる。
どんな可愛い子なんだろうか、ロリコンでなくとも気になるところだが。
多分この人親馬鹿だ。
そんなことを考えているうちにも、結さんの話は続く。
「あのね、私の遺影を見て、まーまーって言うの!お利口さんっていうか、教えた旦那に心からグッジョブっていうか!」
生きていたら、というか今でも確実に子煩悩な結さんに若干引きながら相槌を打つ。
ひとしきり話し終えると、満足したらしい結さんは細く長く息を吐いた。
「本当に、産んでよかったわ」
119: 1:2011/12/30(金) 10:46:12 ID:agmpcxXNZc
自分が死んでも、と俺は心の中で付け加える。
結さんの言葉には嘘なんてひとつも見つからなくて、清々しいまでにきっぱりと断言した横顔は澄んでいた。
「お腹を痛めて産んだ甲斐が、って奴ですか」
俺が笑いながら言うと、急に真顔になった結さんが眉をひそめる。
「いやでもあれは本当に痛かったわ、痛すぎて死ぬかと思った」
「死んでるじゃないですか!」
笑えない冗談を笑い飛ばして俺達は顔を見合わせる。
見た目は30にも行っていない結さんが、自分よりもはるかに大人のように見えた。
120: 1:2011/12/30(金) 10:46:52 ID:agmpcxXNZc
「お子さんに会いたいと、思わないんですか」
思ったことをそのまま口に出せば、結さんが一気にしかめ面になる。
「やあよこんな場所で、絶対会いたくない」
「ですよねー」
親子二代で早死にというのも如何なものか。
俺が失言に苦笑すると、結さんは少し困ったように眉尻を下げて、俺の手から忘れ去られていたクッションを取り上げた。
121: 1:2011/12/30(金) 10:47:23 ID:agmpcxXNZc
「そうね、でも――」
俺は奪われたクッションを目で追いながら結さんを見上げる。
結さんは俺と目が合うと、にこりと自然に笑ってみせた。
「あの子がよぼよぼのお年寄りになっていたら、会いたかったわ」
ああ、これが母親なんだ、と。
妙に腑に落ちるような気がして、俺は目を伏せた。
取り上げられたクッションの柔らかさは、まだ手のひらに残っている。
きっと幸せに暮らしているんだろうと、俺は彼女の子供に思いを馳せたのだった。
122: 1:2011/12/31(土) 16:30:17 ID:IZAkWz/mtQ
たまにはageてみたくなる。
そんな気分。
今年最後の更新にまいりましょー( ^ω^)
123: 1:2011/12/31(土) 16:31:18 ID:IZAkWz/mtQ
先日発掘したクッションは、晴れて結さんのお気に入りとなったらしい。
窓口仕事のときは結さんの背中に収まり、休憩中は腕に抱かれてむにむにと押し潰される。
そんなクッションが何故か今は、中身が飛び出さんばかりに締め付けられていた。
「あのですね、ですから貴方は亡くなってるんです。まずはそれを受け入れて頂かないと、こちらとしても対応が……」
「ふん、そんな馬鹿なことがある訳ないだろう。じゃあ何故俺はこのペンに触れるんだ」
知るかよそんなもん、と窓口に座る結さんの背中が毒づく。
机の下でクッションが、また一段と酷くひしゃげるのを見て、俺はやれやれと大きな欠伸をした。
124: 1:2011/12/31(土) 16:32:17 ID:XXnWtGX0ys
結さんが対峙しているのは、五十代半ばほどのおじさんだ。
生真面目そうなスーツ姿で、至って普通の常識人に見えるのだが。
「大体そんな阿呆な話が信じられる訳ないだろう。ここはどこの駅だ、責任者を出せ」
その生真面目さが仇となったようだった。
この調子でかれこれ十分が経つ。
結さんは貼り付いた営業スマイルの下でクッションに苛立ちをぶつけながら、辛抱強く同じ説明を繰り返していた。
125: 1:2011/12/31(土) 16:33:03 ID:XXnWtGX0ys
「ここは東京ターミナル駅、皆さんの死後の旅をお手伝いする場所です。貴方は亡くなっているんです」
「だから俺が死んでいる訳が」
まさに堂々巡りだった。
結さんがついに営業スマイルを崩して溜め息をつく。
「いい加減お分かりでしょう、現実を受け入れてください。いいお年なんですから、見苦しいですよ」
うわ言った、と俺は密かに身を縮める。
結さんの辛辣な言葉に、案の定男性は剣呑に目を細めた。
126: 1:2011/12/31(土) 16:33:58 ID:XXnWtGX0ys
「下っ端の分際で客に向かってその態度、詳細に報告してやるからさっさと責任者を出せ」
「私が責任者ですが何か?生憎と、規律を乱す利用者に注意を促すのも我々の仕事ですので」
「俺がそうだと言いたいのか」
「さあどうでしょうか」
ますます険悪になる雰囲気に、仲介に出るべきか迷う。
今俺が出て行っても状況を悪くするだけだろうけれど、果たしてこれ以上悪化することが有り得るのだろうか。
「ともかく、ここに必要事項を記入してください。話が進みません」
不機嫌を隠そうともしない結さんに、これはまずいと俺は立ち上がった。
127: 名無しさん@読者の声:2011/12/31(土) 17:05:38 ID:i20aHeWQRM
毎日見てるよ。支援
128: 名無しさん@読者の声:2011/12/31(土) 20:46:42 ID:adi9mYDq.Y
支援支援支援!!!
飛び切りの愛と期待を支援!!
どうしよwww
好み過ぎたwwww
これからの愛読書にします
129: ひととせ ◆EOQ3BRAmq.:2012/1/1(日) 13:05:13 ID:VMnJaffQ7E
名前変わってますが1です。
新年あけましておめでとうございます!(*゚∀゚)
昨年は大変お世話になりました。色々な方々に読んで頂いたり温かい言葉を掛けて頂いたり、とても幸せな一年でした。
今年も引き続き頑張って書いてゆきますので、何卒宜しくお願い致しますm(_ _*)m
すいません、これ以降は自分のキャラ作るの面倒になってきたので素に戻ります。コテもつけます。
敬語取るの難しいwwwww
130: ひととせ ◆EOQ3BRAmq.:2012/1/1(日) 13:05:50 ID:VMnJaffQ7E
>>127
支援ありがとうございます。すごい嬉しいです。
自分もずっと毎日見て頂けるように、毎日更新頑張らなきゃいけませんね!
今年もよろしくお願いします(*´ω`*)
>>128
IDにプギャーされたwww
愛と期待の支援ありがとうございます。正直押し潰されそうですw
今年もよろしくお願いします(´∀`*)
131: ひととせ ◆EOQ3BRAmq.:2012/1/1(日) 13:08:36 ID:tbpDYj2bNQ
「――そういう、人を見下した態度が気に食わないんだ」
男性が一際険しい顔をする。
そのまま振りかざした腕に、あ、やばい、と思ったのは一瞬のことで。
があん、と大きな音が響く。
咄嗟に庇った結さんの上、ちょうど俺の頭の辺り、窓口のガラスの上に、固く握られた拳が震えていた。
132: ひととせ ◆EOQ3BRAmq.:2012/1/1(日) 13:09:16 ID:tbpDYj2bNQ
安堵すると同時に、庇う必要などなかったことに気付く。
身体の緊張を解いて見上げてくる結さんにきまりが悪くなって顔を上げると、男性は驚いたように自分の拳を見ていた。
「……憩。大丈夫だから」
離れて、という結さんの声に、俺はようやく自分の体勢を思い出して身を引く。
男性はまだ何かを言いたげに口を開閉していたが、結さんと目が合うと、思い詰めたように舌打ちをして身を翻した。
「あっ、こいつ……!」
思わず声を荒げる俺を、冷静になったらしい結さんが制する。
「いいわ、憩、落ち着いて。今のは私が悪かった」
133: ひととせ ◆EOQ3BRAmq.:2012/1/1(日) 13:09:55 ID:tbpDYj2bNQ
結さんが自分を落ち着かせるように眉間を揉みほぐす。
俺も気持ちを鎮めようと一度深呼吸をして、それから結さんに向き直った。
「どうするんですか、あれ」
あれとは言わずもがなの男性のことである。
俺が投げ掛けると、結さんは小さく唸って腕を組んだ。
「やっぱり君が追いかけてくれないかしら。私が行っても刺激するだけだわ」
「懲らしめるんですか」
「いいえ、話を聞いてあげて」
結さんが静かに視線を上げる。
134: ひととせ ◆EOQ3BRAmq.:2012/1/1(日) 13:10:33 ID:tbpDYj2bNQ
「あの人少し、手を上げたことに戸惑っていたわ。きっと本意じゃなかったのよ」
本来悪い人間ではないはずだと、結さんは言い切った。
俺はそこまでお人好しな考えになれない。
でも、困惑したように拳を見つめたあの表情は、悪人には見えなかった。
「宮田敏明、五十六歳。それがあの人についての、情報の全てよ」
記入もしてくれないんだもの、と結さんが書類を持ち上げる。
俺はひとつ頷くと、行ってきますと言って案内事務所を後にした。
135: ひととせ ◆EOQ3BRAmq.:2012/1/2(月) 13:34:02 ID:99nh8st8DU
逃げるといっても駅構内のことである。
宮田の居場所は簡単に見つかった。
「宮田さん」
改札前の待合スペース、そこの長椅子に項垂れて座る宮田を視界に捉えて俺は歩み寄る。
宮田は俺の姿を認めるとぎょっとしたように腰を浮かせたが、少し迷って留まることにしたようだった。
「君は、さっきの」
「先程は上司が失礼しました」
自分で言っておきながら、その言葉がむず痒くて顔がひきつる。
136: ひととせ ◆EOQ3BRAmq.:2012/1/2(月) 13:34:40 ID:99nh8st8DU
人の言動にうるさそうな宮田に、俺まで面倒な小言を言われないか。
警戒しながら頭を下げると、やはり宮田も慎重にこちらを窺っているようだった。
「どうして追いかけてきたんだ。俺にまだ何か用か」
まだ信じていないのだろうか。
胡散臭い書類にサインなどしないぞ、と続ける宮田に、溜め息をつきたいのを堪えて。
「それもありますが、自分はお話を聞かせて頂きたくて伺いました」
俺は努めて冷静に話すよう心掛けた。
そうでもしないと横柄な態度を、すぐにでも見限ってしまいたくなった。
137: ひととせ ◆EOQ3BRAmq.:2012/1/2(月) 13:35:18 ID:99nh8st8DU
結さんの言葉だけを頼りに、俺は慎重に言葉を選ぶ。
「何かお悩みの、ようでしたから」
宮田はまだ俺を品定めするように眺めていた。
警戒を解くつもりはまだないようだ。
最初からこんなに難易度の高い人間に対応させるなんて、仕方ないとはいえ俺を仕向けた結さんを呪う。
冷静になった結さんだったら、この人を何とかできたのだろうか。
結さんなら、こんなときに何と言うだろうか。
「……俺は何もできない若造ですが、話を聞くことならできます。お力になりたいんです」
138: ひととせ ◆EOQ3BRAmq.:2012/1/2(月) 13:35:47 ID:99nh8st8DU
自然と口をついて出た言葉を、そのまま目の前の宮田に伝える。
俺が警戒してるからいけないんだ。
いつも結さんがするように、なるべくまっすぐに相手を見つめて。
相手と向き合いたいときは、自分から誠実にならなくてはいけない。
昔教えてくれたのは、彼女のお祖父さんだった。
「聞かせて、頂けませんか」
宮田が意表を突かれたようにこちらを見る。
やがて攻撃的ではない素の声が、初めて発された。
139: ひととせ ◆EOQ3BRAmq.:2012/1/3(火) 11:32:56 ID:RGDdi1MlWM
「そうは言っても、分からないんだ。通勤中に急に頭が痛くなって、気付いたらここに来ていた」
どう考えてもおかしいだろう、と宮田は同意を求める。
残念ながら、俺は同意できなかった。
ある日突然倒れることも、この年齢の人なら十分に有り得るだろう。
脳梗塞か何か、そういったよくある病気だろうか。
ここに来ている以上、宮田は間違いなく死んでいた。
「……宮田さんは、どんな仕事をなさっているんですか」
140: ひととせ ◆EOQ3BRAmq.:2012/1/3(火) 11:33:53 ID:RGDdi1MlWM
俺は迷った末に、やや無理矢理に話題を変えた。
本当は過去形だけれど、あえて現在形で。
宮田は少し気をよくしたように、大手電機メーカーの名前を告げた。
「すごい有名会社じゃないですか」
「そんなことはないさ」
そう言いつつも誇らしげな宮田に、俺はひとまず胸を撫で下ろす。
さしあたっては、まともな会話ができそうだ。
141: ひととせ ◆EOQ3BRAmq.:2012/1/3(火) 11:34:40 ID:RGDdi1MlWM
「じゃあきっとお忙しいんでしょうね」
俺はせっかく繋がった会話を途切れさすまいと宮田をよいしょした。
この際自分の情けなさは気にしない。
宮田はまあ、と満更でもなさそうにそれを肯定した。
「毎日が激務だよ、使えない部下の尻を叩かなきゃいけないしな。会社に住んでいるようなもんだ」
ご家族は、という質問を俺は呑み込んだ。
下手に刺激することにならないか、代わりに無難な相槌を打つ。
142: ひととせ ◆EOQ3BRAmq.:2012/1/3(火) 11:35:12 ID:RGDdi1MlWM
「大変ですね」
「そうだな、今日もこれから大事な会議が……」
俺の配慮の甲斐なく、宮田はここに来てしまったことを思い出したのか黙り込む。
俺は内心冷や汗をかきながら、宮田の反応を待っていた。
「なあ君、教えてくれ」
意外なほど静かな口調で、宮田が呟く。
「ここは一体、何処なんだ?」
143: ひととせ ◆EOQ3BRAmq.:2012/1/3(火) 11:35:48 ID:RGDdi1MlWM
俺は言葉に詰まった。
せっかく話が通じたのに、また逆戻りになりかねない。
でも宮田は、先程とは打って変わって冷静なようだった。
「……死後の、世界です。あの世、天国、冥界、何とでも言えるでしょうね」
暫く逡巡してから、結局俺は真実を告げる。
宮田はそうか、とだけ呟いて、長椅子から天井を仰いだ。
「君まで、そんなことを言うんだな」
「……すみません」
気圧されて謝ると、宮田がすごい形相で俺を睨み付ける。
144: ひととせ ◆EOQ3BRAmq.:2012/1/3(火) 11:36:18 ID:RGDdi1MlWM
「おい、理由も分からず謝るんじゃない。俺はそういう人間が一等嫌いだ」
「は、はい」
すみません、ともう一度謝りそうになる声を慌てて呑み込む。
また怒らせたかと思ったが、宮田は不機嫌そうに目を眇めただけだった。
何だか酷く情けない。
結さんに見られていたら格好のネタにされていただろうと、俺は密かに安堵した。
「俺は死ねないんだ。俺が死んだら今日の会議は誰が出る」
宮田が遠くの方を眺めながら言う。
「会社は俺が必要なんだ」
145: ひととせ ◆EOQ3BRAmq.:2012/1/4(水) 22:50:28 ID:RGDdi1MlWM
「ご家族だって、悲しまれます」
俺は我慢できずに呑み込んだ言葉を投げ掛けた。
言い聞かせるように会社のことを繰り返す宮田が辛かった。
「他人の君に何が分かる」
宮田が苛立ったように膝を指で叩く。
啖呵を切ってしまえば後は簡単で、俺は負けじと続けた。
「お忙しいんでしょう、ご家族ともあまりお会いになってないんじゃないですか」
「目上の人間に生意気な口を利くもんじゃない、だから何だと言うんだ」
宮田の言うことはいちいち癇にさわった。
これは結さんが営業スマイルをかなぐり捨てたのも理解できる。
146: ひととせ ◆EOQ3BRAmq.:2012/1/4(水) 22:51:28 ID:2ho66zkJlw
「きっとご家族も寂しがってました」
俺は宮田ににじり寄った。
それにつられて宮田が少し身を引く。
「そんな訳がない」
「まだそんなことをおっしゃいますか」
そろそろ俺も切れそうだ。
このままでは結さんの二の舞だと、深呼吸をして気分を落ち着ける。
しかし宮田は切れる寸前だった。
147: ひととせ ◆EOQ3BRAmq.:2012/1/4(水) 22:52:07 ID:2ho66zkJlw
「君もそういう人間だったか。人のことを見下して……」
宮田の拳が膝の上で震える。
感情が高ぶると手が出る類の人なのかと、俺は妙に白けた気持ちになってしまった。
「あの窓口の女も、娘も、皆……!」
宮田の口がわなないて、一層強く拳が握られた。
でも俺はそれよりも、その台詞の方を聞き留めた。
「娘さん?」
宮田ははっとしたように俺を見ていた。
148: ひととせ ◆EOQ3BRAmq.:2012/1/4(水) 22:52:40 ID:2ho66zkJlw
「ご家族と上手く、行っていなかったんですね」
「だから何だ、人の家の事情に。いい加減失礼だぞ、君」
宮田はこの期に及んで取り繕おうとしていた。
差し出がましいのは認めるが、それでも俺に引く気はない。
結果的に結さんと同じような状況になっているのは分かっていたが、ともかく俺は宮田に重ねて尋ねる。
「どうして今ここで、娘さんの話が出てきたんですか」
「君には関係のないことだ」
「関係ならあります」
149: ひととせ ◆EOQ3BRAmq.:2012/1/4(水) 22:53:15 ID:2ho66zkJlw
俺はきっと宮田を見据えた。
「お話を聞かせてほしいと、俺はお願いしました。そして貴方は話してくださった」
随分横暴な理論を振りかざしていることは、分かっているけれど。
「俺には最後まで聞く権利があります」
宮田がぐっと言葉に詰まる。
これはいけるかもしれないと、俺は一か八かの賭けに出た。
「そして貴方には話す義務がある、お分かりでしょう」
「だが、」
宮田が反論を試みるもその声に覇気はない。
権利や義務といった言葉に弱い人がいると聞くけれど、宮田はまさにそれだった。
150: ひととせ ◆EOQ3BRAmq.:2012/1/4(水) 22:53:44 ID:2ho66zkJlw
「教えてください、大切な娘さんとどうして拗れていらっしゃるんですか」
駄目押しにもう一発かますと、宮田は何が気に障ったのか途端に声を上げる。
「大切じゃない。あんな人間俺の娘じゃない」
「どんな人間だって言うんです」
わざと煽るように言ってやれば、宮田が吐き捨てるように語りだした。
「娘も昔は素直だったのに、今ではキモいだの臭いだの邪魔者扱いだ、誰のお陰で食っているかも忘れて」
かかった、と俺は内心ガッツポーズをした。
吐かせてしまえばこちらのものである。
151: ひととせ ◆EOQ3BRAmq.:2012/1/5(木) 22:24:10 ID:VMnJaffQ7E
いつの間にやら宮田は完全に愚痴る姿勢に切り替わっていた。
「高校生なんだが、年頃だから仕方ないとは言え酷すぎる」
宮田が肩を怒らせて嘆息する。
「たまの休日でも顔を合わせると、二言目には見るな触るなあっち行け、死ねの言葉は挨拶だ」
「それはまた凄い娘さんで」
俺は乾いた笑いを漏らした。
確かに父親としては辛そうだけれど、よく聞く話ではある。
俺にもいつか娘ができたらそうなるのかと考えたところで、自分が死んでいたことに気付き顔をしかめた。
152: ひととせ ◆EOQ3BRAmq.:2012/1/5(木) 22:24:47 ID:2ho66zkJlw
宮田の話はまだ続く。
顔を真っ赤にして普段の憤りを吐き出す様子は、なかなか見物だ。
「なあ、酷いだろう。父親を馬鹿にしているんだ。見かねた妻が窘めたとき、娘が何て言ったか分かるか?」
いえ、と俺は否定した。
俺の軽い反応に、宮田がそうだよな、とせせら笑う。
そして自嘲気味に言い放った。
「だって死んでいいし、ああでもお金が困るかも、だと」
153: ひととせ ◆EOQ3BRAmq.:2012/1/5(木) 22:25:23 ID:2ho66zkJlw
全く見下しやがって、と宮田はがしがしと頭を掻く。
本当は自分が死んでしまったことも、頭では分かっているようだった。
要するに、娘の言葉を気にして、死んだことを受け入れたがらなかったというだけのことで。
「俺が死んだところで、精々生活の心配をするようになるだけだ」
宮田が自棄になったように舌打ちをする。
確かにあまりな言いようだが、それは違うのではないかと思う。
もしそれが思春期特有のものだったのなら、そんなことを本気で言うはずがない。
154: ひととせ ◆EOQ3BRAmq.:2012/1/5(木) 22:26:01 ID:2ho66zkJlw
「でしたら、」
と、俺は宮田を制して声を張り上げた。
「一度見てきてはいかがですか。本当に娘さんが、悲しんでいないか」
宮田が胡乱げな目を俺に向ける。
「何でわざわざそんなことを」
「確かめなければ、分からないでしょう」
確認もしないで決めつけてしまっては、宮田も娘も浮かばれないだろう。
俺はこの世界で唯一の救いについて、宮田に説明を始めた。
155: ひととせ ◆EOQ3BRAmq.:2012/1/5(木) 22:26:27 ID:2ho66zkJlw
「帰ることができるんです、一度だけ。そこで確認すればいい、娘さんがどんな反応をしているか」
宮田が目を見開く。
自分も、人のことをどうこう言える立場ではないけれど。
俺は言い終えると宮田の反応を待った。
「……行ったところで、後悔するだけだ」
宮田が低く唸った。
それは違う、と俺は首を振る。
「行かない方が、ずっと後悔します。この先ずっと、死んでいる限り」
死ぬ、という言葉を使っても、もう宮田は怒らなかった。
156: ひととせ ◆EOQ3BRAmq.:2012/1/6(金) 14:43:58 ID:c.gYySYfy6
「……切符ならここにあるわ」
突然背後から掛けられた声に、俺達は振り向いた。
「結さん」
「先程は非礼な真似を失礼致しました」
待合スペースの後ろから登場した結さんが、丁重に頭を下げる。
宮田は毒気を抜かれたように呆然と、長椅子に座ったままお辞儀を返した。
「ここに来る直前、どこにいらっしゃいましたか」
「……、新宿駅」
訳が分からないままに、宮田が答える。
結さんは手元の書類に何かを書き込むと、切符を静かに差し出した。
157: ひととせ ◆EOQ3BRAmq.:2012/1/6(金) 14:44:36 ID:c.gYySYfy6
「7番線です、必ず二週間の内に帰ってきてください」
戻れなくなりますので、と結さんは切符を見せたまま言う。
なかなか手に取ろうとしない宮田に焦れることもなく、辛抱強く待つ。
やがて宮田は諦めたようにその切符を受け取った。
「……これで、家族に会いに行けるのか?」
宮田が尋ねる。
結さんは柔らかい物腰で、はい、と微笑んだ。
「行ってらっしゃい、良い旅を」
宮田は一瞬だけ顔を歪めて、そして長椅子から腰を上げると、きまりが悪そうに行ってくるよ、と言った。
158: ひととせ ◆EOQ3BRAmq.:2012/1/6(金) 14:45:16 ID:c.gYySYfy6
「……厄介でしたね、あんな年なのに認めたがらないなんて」
宮田が行ってしまってから俺は、結さんと長椅子に並んで座りながら苦笑した。
結さんもまあね、と苦笑しながら、それでも宮田を庇う。
「いくつになっても辛いものよ。俄には受け入れがたい」
そうでしょう、と聞かれて俺は自分のことを思い返す。
真夜中、トラックの光に照らされて、暗い夜から真っ白の駅構内に来たときは、確かに何が起こったか分からなかった。
159: ひととせ ◆EOQ3BRAmq.:2012/1/6(金) 14:45:55 ID:c.gYySYfy6
「怖いですね、違う場所に来てしまうことは」
「本当にそうね」
しみじみと呟くと、結さんが同意する。
そして悪戯っぽく笑うと、結さんは人差し指を立てた。
「だからね、憩」
「はい?」
「ターミナルには、神様がいるのよ」
そう説き始める結さんは、おとぎ話でもするように楽しそうに見えた。
160: 名無しさん@読者の声:2012/1/6(金) 23:58:48 ID:VonRWSEIcU
ついにスレタイ…!
っCCCCC
161: ひととせ ◆EOQ3BRAmq.:2012/1/7(土) 15:17:46 ID:tbpDYj2bNQ
>>160
いえす、スレタイ( ̄ー ̄*)
なんだかたまに上がってると嬉しいものですね。
支援ありがとうございました!
162: ひととせ ◆EOQ3BRAmq.:2012/1/7(土) 15:22:02 ID:99nh8st8DU
俺はまじまじと結さんを見つめる。
「また随分と突然ですね」
「まあいいから聞きなさい」
死後の世界と言えど、宗教的な話をするのは初めてだった。
若干の胡散臭さを感じながら、俺は耳を傾ける。
「異なるものと出会う場所にはね、神様がいるの。古代ローマの、境界神テルミヌスって言ったかしら」
ターミナルの語源よ、と結さんが言う。
意外と博識な結さんに、俺はやや感心しながらはあ、と相槌を打った。
163: ひととせ ◆EOQ3BRAmq.:2012/1/7(土) 15:23:12 ID:99nh8st8DU
「国境、港、関所や貿易の要……東京だったら上野駅がそうかもね。そんな場所に、テルミヌスはいる」
ターミナル駅。そんな言葉が過った。
生とその先の狭間、次の段階に進む場所、ここにも結さんの言う神様は、果たしているのだろうか。
「新しい場所に進むのは怖いわ。でも、だからこそ神様がそこで見ている」
皆の門出を見守っているのよ、と結さんは微笑んだ。
正直俺には神様とか、実在するのかも定かでないことを信じる気にはならない。
確かにそう思えば、門出は心強くなるだろう。
でも、それってつまり。
「結さんみたいなものじゃないですか」
164: ひととせ ◆EOQ3BRAmq.:2012/1/7(土) 15:24:47 ID:tbpDYj2bNQ
ぽろり、口に出せば一瞬の沈黙。
そして結さんが、ぶっはと噴き出した。
「ちょ、憩そんなこと言うー!?」
「何で笑うんですか!」
やだ可愛いー、とばしばし俺を叩いてくる結さんに顔が熱くなる。
そんなに変なことを言ったかと赤面しながら悩んでいると、笑いすぎて涙まで浮かべた結さんが目元を拭いながら息を吐く。
「いや、大いに結構。東京ターミナル駅の神様は満足しました」
「祟られますよ」
「いいのよ、死んだら仏なんだし。テルミヌスさんもそこまで矮小じゃないでしょ」
東に行ったり西に行ったり、節操のないことだ。
165: ひととせ ◆EOQ3BRAmq.:2012/1/7(土) 15:25:47 ID:o7726pFAMk
全く神なんて風格のない結さんを眺めながら思う。
でも、彼女に救われた人が大勢いることも事実で。
「ああ、そうだ窓口開けっ放しで来ちゃったの。早く戻ろ、憩」
「仕方ないですね」
俺はよいしょと長椅子を立った。
先に立ち上がった結さんが、颯爽と俺の先を歩く。
その後ろ姿はしゃんと伸びていて、俺よりも小さいのに頼もしくて。
神様というのも、あながち間違いではないかもしれない。
絶対に言わないけれど、と俺は密やかに目を伏せたのだった。
166: ひととせ ◆EOQ3BRAmq.:2012/1/8(日) 18:19:54 ID:ogjb0kC5Sw
スレタイも登場しました。折り返し地点です。
少しずつこれから、終わりに向けて準備をしていきます。
どうか、お付き合いください。
167: ひととせ ◆EOQ3BRAmq.:2012/1/8(日) 18:21:39 ID:ogjb0kC5Sw
「そういえば結さん」
と、パソコンから目を離さずに俺。
「なあに」
と、クッションを放り投げながら結さん。
「宮田さんのとき、いつからいたんですか」
「最初から」
盛大に指が滑った。
「え、あ、はあ!?」
ふじこ状態の画面もそのままに振り向くと、クッションを抱き締めたにやにや顔の結さんと目が合った。
雑多な事務所の中で、俺は精一杯椅子ごと後ずさる。
168: ひととせ ◆EOQ3BRAmq.:2012/1/8(日) 18:22:31 ID:tbpDYj2bNQ
「なっさけない顔でびくびくしちゃってさあ」
「やっぱり見られてたっ!?」
うーわ、と俺は顔を覆う。
格好のネタにという予想は、生憎と的中してしまった。
「まあまあ落ち込むな、宮田さん怖かったし」
はっはっは、と結さんが豪快に笑う。
そんなこと露ほども思っていないくせに、と陰湿に呟くと、結さんはそんなことないないと二回否定した。
「うん、まあ途中ひやひやしたけど最後の方はしっかりしてたし、及第点はあげるわ」
169: ひととせ ◆EOQ3BRAmq.:2012/1/8(日) 18:23:06 ID:o7726pFAMk
よくできました、と結さんがまたクッションを投げる。
宙に放ったクッションは、綺麗な線を描いて結さんの腕の中におさまった。
「嬉しくないです」
俺はわざと機嫌を損ねてみせた。
そうしたところで結さんには、何の効き目もないのだが。
「ああほら、お客さんよ。憩が行ってみなさい」
結さんの声に窓口を見てみると、小柄なお婆さんがひとり、静かに待っていた。
170: ひととせ ◆EOQ3BRAmq.:2012/1/8(日) 18:23:48 ID:o7726pFAMk
俺はお婆さんに聞こえないように、小声で結さんに抗議する。
「結さん俺、教わってないですよ」
「分かるでしょ、見てれば」
分かるけど。
そんなぶっつけ本番で、と文句を言う俺をクッションでぐいぐい押しながら、結さんが囁く。
「ほら行っといで、困ったら助けてあげるから」
「絶対ですよ!」
ひそひそと念押しをして俺は窓口に急ぐ。
品の良さそうなお婆さんは、応対が遅れたことに怒りもせずに柔和な笑みを浮かべた。
171: ひととせ ◆EOQ3BRAmq.:2012/1/9(月) 11:46:59 ID:c.gYySYfy6
「すみませんねえ、ここでお願いしたら、孫の顔を見に行けると聞いたものだから」
「現世に行かれる方ですか?」
「ええ、お願いしますね」
記入用紙を取り出しながら、柔らかな物腰にほっと安心する。
この調子なら何か失礼があったとしても、気にしないで貰えそうだ。
俺は少し肩の力を抜いて、ペンと用紙を差し出した。
「では、太枠の中に必要事項を記入してください」
お婆さんが書類に書き込みを始める。
俺はそこでこっそりと一息吐いた。
172: ひととせ ◆EOQ3BRAmq.:2012/1/9(月) 11:47:49 ID:c.gYySYfy6
「ええと、発行は二週間でよろしいですね。亡くなったのが……?」
俺は書類に目を凝らす。
達筆すぎて字が読めなかった。
お婆さんは俺の様子に気付くと、合点がいったという風にああ、と声を上げた。
「そうね、若い人には読みにくいですものね。自宅ですよ、国分寺の」
「すみません、ありがとうございます」
恐縮で肩身が狭い。
俺はぺこぺこと頭を下げながら切符を手渡す。
お婆さんの萎びた手が、それを大切そうに包み込んだ。
173: ひととせ ◆EOQ3BRAmq.:2012/1/9(月) 11:48:26 ID:c.gYySYfy6
「国分寺市は、あー……15番線です。必ず期限内にこちらへ戻ってください」
机に敷いてあったホーム番号の一覧が役に立った。
結さんはいつも淀みなく答えているが、やはり暗記しているのだろうか。
ありがとうねえ、とお婆さんがお辞儀をして窓口を離れようとする。
その手には杖をついて、足を引き摺っているようだった。
「あの!」
俺は思わず声を上げた。
お婆さんがゆっくりと振り返る。
俺は汗ばんだ手を机の下で開閉させながら、もし良ければ、と申し出た。
174: ひととせ ◆EOQ3BRAmq.:2012/1/9(月) 11:48:56 ID:c.gYySYfy6
「ホームの方までご案内しましょうか。階段が、ありますから」
過剰に気を遣われるのを、嫌がるお年寄りもいると聞くけれど。
幸いこの人はそうではなかったらしく、穏やかに笑うと静かに首を振った。
「いいえ、ご親切にありがとう。大丈夫よ、手すりで十分上れますから」
そうですか、と俺はつい尻すぼみになりながら引き下がる。
なんだか妙に気恥ずかしい。
相変わらずにこにこと人の好さそうな笑顔をちらりと目にして、俺はもう一度口を開いた。
175: ひととせ ◆EOQ3BRAmq.:2012/1/9(月) 11:52:56 ID:aLkl3hdfUg
すみません順番間違えました。
>>171と>>172の間にこれが入ります。
順番的には>>171>>175>>172-174です。
年配の人と話すのは、基本的には好きだ。
自分より遥かに年上だという安心感だろうか、同年代や年下よりも自然に言葉が出て、気持ちも落ち着く。
向こうにいた頃は、彼女のお祖父さんともよく話した。
もっとも、お祖父さんは出会って間もないうちに亡くなってしまったけれど。
「はい、これでよろしいかしら」
お婆さんがペンを置く。
俺は慌てて意識を戻すと、礼を言ってその書類に目を通した。
項目に不備はなかった。
ただ、ひとつ問題が。
176: ひととせ ◆EOQ3BRAmq.:2012/1/9(月) 11:54:39 ID:o7726pFAMk
>>174続き
「どうか、お心残りのないように」
お節介が過ぎるかとも、思ったけれども。
緊張しながら窺うと、お婆さんは同じ笑顔で笑ってくれた。
「ええ、分かっていますとも」
俺は苦しいような気持ちで、お婆さんが遠ざかっていくのを見ていた。
「……まだまだね」
いつの間にか来ていた結さんが、やれやれと肩をすくめる。
俺はその評価にふいと顔を背けた。
「分かってますよ」
「わー可愛くない」
177: ひととせ ◆EOQ3BRAmq.:2012/1/9(月) 12:01:20 ID:YMPC7wApis
結さんがけたけたと笑いながら俺に駄目出しをする。
「それにしても書類の文字が読めないとか、割と失礼よ」
「はい……」
「あと、そんな簡単に受付離れちゃ駄目でしょう、そういうときは部下に行かせるのよ」
「要するに俺じゃないですか!」
注意をうんうんと噛み締めながら、しっかりと突っ込みを入れる。
結さんとの会話にも随分と慣れたものだと思う。
窓口の仕事も、やっていればそのうち慣れてくるのだろうか。
178: ひととせ ◆EOQ3BRAmq.:2012/1/9(月) 12:02:07 ID:YMPC7wApis
俺の指導に熱のこもっていた結さんが、ふいに力を抜く。
「まあ、元々君の仕事は記録の整理だけの予定だったし……そんなに修業する必要もないか」
そうだった。
俺はちくりと何かが刺さるように感じた。
俺がこの場所にいられるのは一時の話で、全て記録の打ち込みが終わったら、離れなくてはいけなかった。
「君にはパソコン仕事だけ頼むことにするわ」
結さんが可笑しそうに笑う。
俺は仕方ないという風に溜め息をついてみせた。
「是非ともそうして頂きたいです」
179: ひととせ ◆EOQ3BRAmq.:2012/1/9(月) 12:03:00 ID:wKwNii9EEI
結さんは了解、と言って敬礼のポーズをとった。
俺はなんだか耐えられなくなって、書類の続きを手に取る。
「ああでも、最後。良いこと言ったじゃない」
「あれは……」
俺は言葉につまった。
本当に、俺が前に失敗したことを、勝手に思って言ってみただけのものだから。
「なんとなくです」
ふうん、と結さんがそっぽを向く。
俺は隠れて胸を撫で下ろすと、その失敗の、そもそもの始まりのことを回想した。
180: ひととせ ◆EOQ3BRAmq.:2012/1/10(火) 15:09:54 ID:aLkl3hdfUg
sage進行なのは、スレ立て当初にageでやっていく自信がなかったからです。
小説のスランプが終わりかけた頃に、リハビリ兼腕試しで始めたものなので。
と急にsage進行の理由を説明してみる。
某スレで話題に出して頂けて嬉しかったです(´ω`*)ありがとうございます。
自分はsageてますが、特に強いこだわりもありませんから皆さんはご自由にどうぞ。
181: ひととせ ◆EOQ3BRAmq.:2012/1/10(火) 15:14:34 ID:99nh8st8DU
加奈と付き合い始めたのは、まだ高校生の頃だった。
ある日突然名字が変わった彼女に興味を持ったのは俺の方で、話しているうちになんとなく仲良くなり、気付けば当然のように恋仲になっていた。
親近感、だったのかもしれない。
俺も片親だったから、家庭に事情のありそうな加奈には、仲間意識のようなものも感じていた。
「ねえ憩、貸してくれるって言ってた本は?」
そろそろ学ランだと少し暑いような季節、ふたり並んで帰り道を歩く。
俺は自転車を押しながら、あー、と言葉を濁した。
182: ひととせ ◆EOQ3BRAmq.:2012/1/10(火) 15:15:46 ID:99nh8st8DU
「ごめん、忘れた」
「またあ?」
加奈が不服そうに大声を上げる。
確かに忘れるのは二回目だ。
「憩の嘘つき。片岡弘樹の新刊、楽しみにしてたのに」
「だから悪かったって」
いじける方向に入った加奈に、ごめんごめんと気のない謝罪をする。
加奈はますます拗ねて、大股で俺の先を歩いていってしまった。
183: ひととせ ◆EOQ3BRAmq.:2012/1/10(火) 15:16:43 ID:V5t1TG2Qic
「嘘つき、もう知らない、嫌いになっちゃうんだから」
「それはまた随分と簡単に」
「追い付かないでよ!」
からからと車輪の音をさせながら隣に行くと、加奈はぷりぷりと怒って引き離そうとする。
そもそもの歩幅が違うというのに無駄な攻防戦を繰り広げながら、俺達はいつの間にか加奈の家に着いていた。
「上がってく?」
と、加奈が鍵を開けながら聞く。
「うん」
先程のじゃれ合いも忘れて上げる気満々の加奈に、俺は口を緩めた。
184: ひととせ ◆EOQ3BRAmq.:2012/1/10(火) 15:17:51 ID:V5t1TG2Qic
平屋建てのこの木造住宅に、彼女は祖父とふたりきりで住んでいる。
玄関で早々にローファーを脱ぎ捨てる加奈に続いて、俺はお邪魔しますと言って扉をくぐった。
「おう、憩じゃねえか。また来たか」
「正造さん。こんにちは」
物音を聞きつけてか、家の奥から出てきた加奈の祖父に俺は頭を下げた。
「また居間か?麦茶くらいなら出してやるよ」
「じいちゃん、あの羊羮は?」
「ありゃ俺んだ、煎餅でも食っとけ」
「けち」
185: ひととせ ◆EOQ3BRAmq.:2012/1/10(火) 15:18:44 ID:V5t1TG2Qic
正造さんははっきりとした人だった。
ちゃきちゃきと早口で喋り、孫娘にも容赦がない。
一見近寄りがたい気もするが、はっきりとした物言いが俺は好きだった。
「丁度良いや、囲碁でも相手してくれ。加奈じゃ相手にならん」
「何それ私が弱いって言うの?」
「弱いだろーが。一度でも俺に勝ったことがあっか」
反論できずにぐっと黙り込む加奈に噴き出すと足を蹴られた。
なかなかバイオレンスな彼女である。
186: ひととせ ◆EOQ3BRAmq.:2012/1/10(火) 15:20:23 ID:VMnJaffQ7E
いつものように加奈を送り、家に遊びに行って、正造さんと三人で喋ってから、暗くならないうちに帰る。
今時の高校生とは思えないくらいに、清いお付き合いだった。
少し足を伸ばせば映画館も、繁華街やゲームセンターもあったのに、数回行っただけでやめてしまった。
でもそれを物足りないとか、満たされない風に思ったことはなくて。
時折思い出したように恋人らしいことをしてみることはあれど、どちらかと言えば家族のような存在だったと思う。
幸せだった。
それは多分加奈も、きっと正造さんも。
その幸せが崩れ落ちたのは、高校三年生の夏のことだった。
187: 名無しさん@読者の声:2012/1/10(火) 21:38:55 ID:T2kk9rvpGo
支援
もう折り返しなのかと思うと少し切ない
188: ひととせ ◆EOQ3BRAmq.:2012/1/11(水) 17:18:58 ID:VMnJaffQ7E
>>187
支援ありがとうございます(´ω`*)
寂しがって頂けて、すごく嬉しい。
でもまだ続きますから、よろしくお願いしますね。
189: ひととせ ◆EOQ3BRAmq.:2012/1/11(水) 17:21:22 ID:c.gYySYfy6
正造さんが亡くなった。
高血圧が原因の、何かの病気だったと思う。
突然のことで加奈の家は大騒ぎ、納棺やら葬式やらで加奈も暫く慌ただしくしていた。
「大丈夫?」
そう一度、その慌ただしかった頃に、そう尋ねたことがある。
「大丈夫、」
加奈は疲れきった笑顔で返した。
普段の加奈なら、だいじょばない、と言って愚痴り始めただろうに。
そう思ったけれど、無理をするなと言うことくらいしか、俺にはできなかった。
190: ひととせ ◆EOQ3BRAmq.:2012/1/11(水) 17:22:28 ID:YMPC7wApis
加奈は叔父夫婦のところに引き取られることになった。
独り暮らしをするという主張は、物騒だとの理由で却下された。
両親のところで暮らすという選択肢は、最初からなかったらしい。
彼女は昔虐待を受けていたのだと、遠い親戚だと言うおばさんに初めて聞いた。
「ねえ、憩」
加奈がどこを見つめるともなく俺に語りかけたのは、周りのことが落ち着いて暫く経った頃だ。
「死んじゃったら、もう、それでお終いだよね」
191: ひととせ ◆EOQ3BRAmq.:2012/1/11(水) 17:23:16 ID:YMPC7wApis
加奈の呟きに、俺は返す言葉に迷った。
彼女が何を言わんとしているのか、はかりかねていた。
「毎日頑張って、生きて、それで?」
「どういう、意味」
「死んだら全部、そこで打ち切り」
なんにもならない、と加奈は言う。
加奈の手元には、埃を被った囲碁盤があった。
「そんなことはないよ」
哲学的な話題は分からない。
ただ悲観的なことを言ってほしくなくて、俺はやんわりと否定した。
192: ひととせ ◆EOQ3BRAmq.:2012/1/11(水) 17:24:04 ID:YMPC7wApis
「嘘つき」
加奈が言う。
俺を詰るときの口癖が、いつもよりも静かに響いた。
「嘘つき、なんにも考えてないくせに」
憩だっていつか死んじゃうんだよ、と加奈は続けた。
何も考えていないことは図星だったので、仕方なく押し黙る。
「どれだけ一緒にいても、死んだら終わり。絶対に、私か憩のどっちかが先に死ぬ」
そんな先のことを言われても、と俺は困惑した。
加奈は完全に思い詰めているようだった。
193: ひととせ ◆EOQ3BRAmq.:2012/1/11(水) 17:25:01 ID:RGDdi1MlWM
「……加奈、君さ、疲れてるんだよ。考えるのやめて、休んだほうがいい」
俺は怒られるのを承知で加奈の手を引いた。
元々細かった手首は、ここ最近の出来事でさらに痩せたように思えた。
「憩は分からないからそう言えるんだよ」
加奈は俺を睨み上げる。
「ずっと一緒にいるとか言って、そんなことは結局嘘になるんでしょう」
「いるよ。ずっと」
俺は思わず言い返した。
他はどうあれ、そこを否定されるのは心外だった。
194: ひととせ ◆EOQ3BRAmq.:2012/1/11(水) 17:25:51 ID:RGDdi1MlWM
「嘘だもん」
「嘘なんかじゃない」
真剣に言ったんだけど、となるべく冷静に言うように努める。
そのせいで、酷く冷え切った声が出てしまったのを感じた。
「そんなすぐに死んだりしないし、もし死んだとしても、お望みだったら幽霊になってでも傍に来てやる」
まるで喧嘩を売っているみたいだ、と自嘲しながら続ける。
「それが無理でも、俺は」
加奈が息を呑む。
俺は加奈をまっすぐに見つめて言い切った。
「何度でも生まれ変わって、君に会いに行くよ」
195: ひととせ ◆EOQ3BRAmq.:2012/1/11(水) 17:26:40 ID:RGDdi1MlWM
加奈は何も言わない。
俺は口を閉じた。
握ったままの手首に、知らず、力が籠る。
やがて加奈が、痛い、と小さく呟いた。
「ごめん」
俺はそっと手を離す。
加奈は赤くなってしまった手首を、愛おしそうに指先でなぞった。
「……熱烈な告白を、どーも」
ふ、と笑って加奈が空気を緩める。
「どういたしまして」
俺は苦笑すると、大人しくなった加奈の肩をそっと抱き寄せた。
196: ひととせ ◆EOQ3BRAmq.:2012/1/11(水) 17:27:25 ID:RGDdi1MlWM
加奈が俺に依存するようになったのは、それからだった。
健全だった付き合いは一気に不健全になり、俺が少し他の人と会うことも嫌がるようになった。
確かめるように触れて、問い掛けて、答えを聞いては安心したように目を閉じ、それでもまた、数分後には同じことを繰り返す。
俺が大学に入ってから加奈は、ますますそれを悪化させた。
部屋を出ようとする俺を、嘘つきと泣いて引き留める始末。
そのことを話した友人は、めんどくせえな、と呆れていた。
でも俺には、そんな風に切り捨てることはできなかった。
197: ひととせ ◆EOQ3BRAmq.:2012/1/12(木) 13:37:36 ID:ogjb0kC5Sw
だから俺が死んだときに、真っ先に思ったのは加奈のことだった。
片っ端から傍にいた人に尋ねて、総合案内事務所に辿り着いて、すぐに電車に飛び乗った。
死に場所に着くという電車を下りて、焦燥を抑えながら辺りを見回す。
辺りはすっかり昼間だった。
事故に遭った交差点は、まだ花こそ供えられていなかったけれど自転車もトラックもなくて、片付けも進んでいるようだ。
足下を見ると、洗い流されてもなお、血の跡がうっすらと残っている。
加奈の誕生日は、完全に過ぎてしまっていた。
198: ひととせ ◆EOQ3BRAmq.:2012/1/12(木) 13:38:59 ID:99nh8st8DU
必死で加奈の家に向かう。
走って、走って、加奈が家にいるのかなんて考えも及ばずに、とにかく急いで行った。
俺は所謂幽霊というものだったんだろうけれど、どうして足があるのか、何で息が切れるのか、気にする余裕もなかった。
自転車はなくても、あのときよりも気持ちは駆ける。
漸く辿り着いて、開いていた出窓から家に入る。
もしかしたら壁をすり抜けられたのかもしれないが、試す気は起きなかった。
きっと隠れる必要もないだろうに、妙にこそこそとしながら家に加奈の部屋の前に立つと、微かに彼女の嗚咽が聞こえてきた。
199: ひととせ ◆EOQ3BRAmq.:2012/1/12(木) 13:39:34 ID:99nh8st8DU
「どうして、っ……!」
嗄れた声、もう連絡は行っていたらしい。
がす、と鈍い音が響く。
加奈が癇癪を起こすと枕に当たることを、俺は嫌というほど知っていた。
「誕生日、祝ってくれるって言ったのに。来てくれるって、約束したのに」
扉の向こうからは、すすり泣きの合間に涙声が聞こえる。
俺はドアノブに手を触れようとして、でも触れられなかったらと思うとつい躊躇って、そのまま手を握った。
200: ひととせ ◆EOQ3BRAmq.:2012/1/12(木) 13:40:13 ID:99nh8st8DU
「ずっと一緒って、絶対、すぐ死んだりしないって」
憩、憩と加奈が俺の名前を呼ぶ。
がん、とさっきよりも硬い音がして、ああ彼女は素手で何かを殴ったのだろうと、どこか他人事のように思った。
「嘘つき」
加奈がいつもの言葉で詰った。
がん、ともう一度、硬い音。
「嘘つき、嘘つき嘘つき嘘つき嘘つき」
憩の嘘つき。
加奈は、憎々しげにそう、吐き捨てた。
201: ひととせ ◆EOQ3BRAmq.:2012/1/12(木) 13:40:53 ID:99nh8st8DU
「結局何も、本当のことなんて……っ!」
嘘つき、と加奈はまた繰り返す。
小声だった呟きは、今はもう叫ぶようで廊下にまで響いている。
ひっきりなしに何かを殴る音もまだ続いていて、拳に血が滲む様子が目に浮かんだ。
加奈の慟哭はまだ続く。
付き合う前から、ずっと今まで、嘘ついてばっか、憩なんて、あんな奴、あんなやつ。
「あんな嘘つき、どうなったって……!」
202: ひととせ ◆EOQ3BRAmq.:2012/1/12(木) 13:41:21 ID:99nh8st8DU
「うわああああああああっ!!」
加奈が一際大きく叫ぶ。
俺はついに逃げ出した。
これ以上は耐えられそうになかった。
加奈の叫びが、泣き声が、耳について離れない。
会いに行かなくては、漠然とした思いに捕らわれて、必死で会いに来た。
でも会いに来たところで、俺は何をするつもりだったんだろう。
加奈のためにと会いに来て、その結果がこれだ。
あんな嘘つき、どうなったって。
その先は、絶対に聞きたくなかった。
203: ひととせ ◆EOQ3BRAmq.:2012/1/13(金) 08:45:26 ID:o7726pFAMk
脇目も振らず交差点に戻り、逃げるように電車に飛び込む。
電車の音と合わさって、がんがんと加奈の声が耳鳴りのように頭を揺らす。
何もできなかった。
冷たい窓に額を打ち付けて、俺はきつく拳を握る。
残してきた加奈に、何もしてやることができなかった。
受付の女性が言った、最後の言葉を思い出す。
「一度きりのチャンスよ、頑張って」
親に別れを告げることすらできなかった。
俺はそのチャンスを、自分で捨ててしまったのだ。
204: ひととせ ◆EOQ3BRAmq.:2012/1/13(金) 08:46:14 ID:o7726pFAMk
それから後は、成り行きだった。
結さんと出会い、何やかんやで案内事務所で働くことになる。
ずっと一緒にいる。
その約束が守れなかったからには、生まれ変わって会いに行くという約束まで破ってしまう訳にはいかなかった。
それが自己満足だということくらい分かっている。
しかも約束を守れるあてはない。
いっそ、いつか加奈が来るまでここで、と思ったこともあるが、それは結さんが許さないだろう。
書類の量は、初めて事務所に来たときよりも格段に減っていた。
この仕事が終わったとき、俺は一体どうすれば良いんだろう。
205: ひととせ ◆EOQ3BRAmq.:2012/1/13(金) 08:46:56 ID:o7726pFAMk
「いーこいっ」
「何ですかもう……」
結さんが後ろから、ごつ。と拳を乗せる。
背が縮むじゃないですか、と頭をぐりぐりと押してくるそれを払うと、結さんは意外と簡単に離れてくれた。
その代わりに。
「はい」
と、キーボードの脇にマグカップが置かれた。
「……はい?」
「いえす」
英訳すんな。
206: ひととせ ◆EOQ3BRAmq.:2012/1/13(金) 08:47:54 ID:tbpDYj2bNQ
「頑張ってお客さんの対応した中谷くんに美人女上司からご褒美です」
「なんか不可解な単語が混ざってますがありがとうございます」
言い方はともあれ、労ってくれているらしい。
一応礼を言って、結さん好みのミルクティと思われるものを口に含む。
瞬間、むせた。
「あっま!何ですかこれ!」
流石に吹きはしなかったけれど、思わず口を拭う。
驚いて結さんを見れば、ぐっと親指を突き立てられた。
207: ひととせ ◆EOQ3BRAmq.:2012/1/13(金) 08:48:34 ID:tbpDYj2bNQ
「お砂糖三個入れちゃいました。てへぺろ」
「何の嫌がらせですか……」
甘いものは嫌いではないけれど、固形物を苦い飲み物と一緒に、というのが俺の持論だ。
その原則を盛大に破った結さんは、俺の反応を見て暢気に笑っている。
「疲れたときには甘いものでしょ」
元気出せよ若者、と結さんは、俺の肩を叩いて窓口に戻って行った。
相変わらず若ぶりたいのか大人ぶりたいのか、よく分からない人である。
208: ひととせ ◆EOQ3BRAmq.:2012/1/13(金) 08:49:18 ID:tbpDYj2bNQ
「疲れたとき、ねえ……」
俺はもう一度ミルクティに口を付ける。
うんざりするくらいの甘さが、口中に広がった。
お婆さんの対応のことを言っているのか、それとも昔のことを思い出していたのを勘づかれたのか。
どちらにしても、気遣ってくれたことは素直に嬉しい。
甘すぎるミルクティを少しずつ飲みながら、じんわりと温もってゆく指先を擦り合わせる。
あとどのくらいこの場所にいられるのか、もう見当はついてしまうほどだけれど。
どうかもう少しこのままで、と俺は、加奈のためだけではなく願った。
209: ひととせ ◆EOQ3BRAmq.:2012/1/14(土) 22:46:54 ID:o7726pFAMk
「復讐をしたいんです」
その日窓口に訪れた女性は、ぎらぎらとした目でそう告げた。
「……まあ落ち着きましょう」
「私は落ち着いてます」
両手を上げて宥めようとする結さんを制して、女性が言う。
明らかに落ち着いていなかった。
「一応聞くけれど、それは現世の人かしら」
「はい」
結さんと同じくらいか、少し年下のようだった。
210: ひととせ ◆EOQ3BRAmq.:2012/1/14(土) 22:47:40 ID:o7726pFAMk
彼女の鋭い眼差しが、結さんを射抜く。
「私を殺した犯人に、復讐をしたいんです」
面倒な人が来た、と片付けることはできなかった。
それほどまでに彼女の気迫に圧されていた。
結さんも同じなのだろうか、いつもより若干腰が引けた様子で女性に提案する。
「ここで話すのも何だから、中で聞かせて貰えないかしら」
「必要ありません」
女性がばっさりと却下する。
俺は事務所の奥で、怖、と身を縮めた。
211: ひととせ ◆EOQ3BRAmq.:2012/1/14(土) 22:48:35 ID:o7726pFAMk
「聞きました、ここで現世に行くための手続きができると」
ええ、と結さんが不穏な声で肯定する。
この前の宮田のようなことになるのはごめんだと、俺はキィを打つ手を止めて、本格的に会話に耳を傾けた。
「それじゃあ私を現世に行かせてください。現世で何をするつもりだろうが、ここが拒むことはできないでしょう?」
傲慢な物言いに俺は眉をひそめた、
殺されたと言っていたが、そのせいで気が立っているのか、気の毒ではあれどあまり良い印象はない。
212: ひととせ ◆EOQ3BRAmq.:2012/1/14(土) 22:49:03 ID:o7726pFAMk
「……現世で悪事を働いたら、それ相応の処罰があるわよ」
「上等です」
うわっこいつむかつく。
女性が馬鹿にしたように笑う。
俺はいつの間にか指で机を叩いていた。
「要するに犯罪をしなければいいんでしょう?」
「ええ、言ってしまえば。そして私にあなたの要求を断る権利はない」
結さんが静かに答えて、記入用紙を差し出す。
まさか大人しく許可してしまうのだろうか。
口を挟みたくなるのを抑えた俺の視線の先、女性は満足そうにペンを取った。
213: ひととせ ◆EOQ3BRAmq.:2012/1/14(土) 22:49:33 ID:o7726pFAMk
「ありがとうございます」
「いいえ」
ちらりと見えた結さんの横顔は、見事なまでに無表情だった。
記入のために俯く女性の、恐らくつむじの辺りを見つめながら結さんが口を開く。
「ひとつ言わせて」
何ですか、と女性が怪訝そうに顔を上げる。
結さんは静かに宣告した。
「あなたはきっと、何もできないわ」
俺は思わず息を呑む。
女性は大きく目を見開いていた。
214: ひととせ ◆EOQ3BRAmq.:2012/1/14(土) 22:50:00 ID:o7726pFAMk
「どうしてそんなことが、言えるんですか」
「どうしてもよ」
相変わらず平らな声の結さんが繰り返す。
「どれだけあちらに滞在しても、あなたは何もできない」
ただそうとだけ断言する結さんの言葉は、呪いのようにすら聞こえた。
女性が身を強張らせる。
俺は息を潜めて、その様子を見守っていた。
「どのくらい発行しましょうか」
「……、どのくらい、できますか」
「最大で一ヶ月」
じゃあそれで、と女性が言い捨てる。
結さんは淡々と最終確認を済ませると、判を押した。
215: ひととせ ◆EOQ3BRAmq.:2012/1/14(土) 22:50:31 ID:o7726pFAMk
「はい、どうぞ」
「どうも」
女性はやや警戒したように切符を受け取った。
結さんはにこりと営業用の笑顔をつくる。
「9番線だから、お気をつけて。何があっても必ず、期限内に戻ってきてね」
「戻らなかったら?」
「どうなるのか、私は知らない。でも期限を過ぎて再会した人はいないわ」
結さんが素っ気なく伝える。
女性は申し訳程度に礼をすると、知ったことかとでも言うように、大股で去って行った。
216: ひととせ ◆EOQ3BRAmq.:2012/1/15(日) 14:07:38 ID:tbpDYj2bNQ
「……いいんですか」
何が、とは言わない。
俺が椅子の上から背もたれを抱え込んで聞くと、結さんはまあね、と言葉を濁した。
「ぶっちゃけ賭けだわ」
「そんなの行かせたんですか」
「まあまあ、憩も読む?」
はぐらかされた返事に、渋々差し出された先程の女性の書類を受け取る。
整った美しい文字が、尾上葵、と彼女の名前を示していた。
「また随分と几帳面そうな」
「でしょ、これがまた偉い美人なのよ」
はー嫌んなっちゃう、と結さんは椅子のキャスターで俺の方に滑った。
217: ひととせ ◆EOQ3BRAmq.:2012/1/15(日) 14:08:39 ID:tbpDYj2bNQ
ふたりして書類を覗き込む。
尾上葵は確かに殺されたようだった。
「自宅のアパートに入ろうとしたところで、後ろから包丁で……」
「物騒ねえ」
結さんが眉をひそめる。
死因の備考欄にみっちりと書き込まれた状況には、尾上の恨みが詰まっているようで空恐ろしい。
俺は書類を机に置くと、椅子を回してすぐ横の結さんにくるりと向き直った。
「で、どうするんですか」
「どうも」
しれっと流した結さんに、俺は間抜けな声を上げた。
218: ひととせ ◆EOQ3BRAmq.:2012/1/15(日) 14:09:19 ID:2ho66zkJlw
「はぇ?」
「だってあの子行っちゃったもの、もう私達にできることないし」
「まあ、そうですけど」
いいのかそんなんで。
今頃現世で何をしているのか、俺は気が気でないのだが。
「……葵ちゃんはどうして、わざわざ私に向かって復讐を宣言したのかしらね」
あんなに冷たく接しておきながら、結さんは尾上を葵ちゃんと呼んだ。
俺はその真意を分からずに、はあ、と相槌を打った。
219: ひととせ ◆EOQ3BRAmq.:2012/1/15(日) 14:09:57 ID:2ho66zkJlw
「絶対に引き留められるって、分かっていたでしょうに敢えて言ったのよ」
結さんは椅子のままずるずると滑っていって、いつものクッションに手を伸ばした。
結さんは自分が分からないというよりも、俺を試しているように見えた。
尾上は、どうして結さんに告げたのか。
止められると分かっていたのに、何故。
俺は貧困な想像力をフル稼働させて考える。
「……決意を固めたかったか、復讐を止めさせてほしかった?」
弾き出した答えに、結さんは満足そうに口端を吊り上げた。
220: ひととせ ◆EOQ3BRAmq.:2012/1/15(日) 14:10:36 ID:2ho66zkJlw
制止を振り切って出てしまえば、もう後には引けない。
例え振り切れなくても、復讐をやめることができる。
「私はなんとなく、そう思ったの」
だって見るからに正義感強そうで真面目っぽいんだもの、と結さんが指を折る。
「絶対優等生タイプね、曲がったことが大嫌い」
「そんな妄想広げなくても……」
そう言いながらも、どこかでその推測に納得している自分がいた。
「何にせよ葵ちゃんは迷っているはずよ」
そして私は復讐できない方に賭けた、と結さんは言った。
221: ひととせ ◆EOQ3BRAmq.:2012/1/15(日) 14:11:08 ID:2ho66zkJlw
「そもそも幽霊よ、現世でできることなんて限られてる」
少なくとも物理的にどうこうするのは無理よね、と結さんが顎に手を当てた。
「呪ったりできないんですか」
「知ぃらない」
「知らないって」
「だってしたことなかったもの、呪う人なんていなかったし」
はっきりとそう言える結さんは、きっと生前幸せだったんだろう。
俺も試しはしなかったけれど、できるなら呪ってみたい人はひとりでなかった。
222: ひととせ ◆EOQ3BRAmq.:2012/1/15(日) 14:11:52 ID:2ho66zkJlw
「ともかく、待つしかないわ。でも二週間経たずに帰って来ちゃうかもね」
クッションを手にいれた結さんが、いつものようにそれを抱き込みながら結論付ける。
結局はそうなるのかと、俺は脱力して背もたれの上に顔をうずめた。
「ほら、そうと決まれば仕事仕事。私と違って憩はやることたくさんあるでしょ」
「ちょ、やめてください脛蹴ろうとするの」
「意外と素早いわね」
「舌打ちするし!」
一気にくだらない話題に戻ったことで、俺は仕方なくパソコンに向かい合う。
そして結さんの言う通り、その日は十日を過ぎた頃にやって来た。
223: ひととせ ◆EOQ3BRAmq.:2012/1/16(月) 23:10:18 ID:c.gYySYfy6
「あの……」
そう声をかけてきたのは、前よりも随分と大人しくなった尾上だった。
「はい、どうされましたか?」
来た、と思った。
ちょうど窓口に座った俺を、狙って訪れたようなタイミング。
確かに結さんには会いにくかったかもしれない。
俺がにこやかに対応すると、尾上は口早に告げた。
「現世から戻ってきたら、報告に行くのだと聞いたので」
「ありがとうございます、ですが……」
俺は結さんが休んでいる奥の方をちらと見やった。
224: ひととせ ◆EOQ3BRAmq.:2012/1/16(月) 23:10:57 ID:c.gYySYfy6
「……尾上さんは、奥にお通しするよう言われてますので」
「ええ?」
尾上がすっとんきょうな声を上げる。
きつい美人でも意外と可愛いじゃないかと不躾なことを考えながら、俺は涼しい顔で畳み掛けた。
「お時間はきっと大丈夫ですよね、お茶でもお出ししますから、お話を聞かせて頂きたいと上司が」
もちろん全部はったりだ。
ここでターゲットを逃したら後でどうなるかなど分かりきっている。
「そんな、勝手な」
225: ひととせ ◆EOQ3BRAmq.:2012/1/16(月) 23:11:37 ID:c.gYySYfy6
抗議する尾上をよそに、俺の肩にずっしりと重みが乗る。
「聞かせて貰えるわよね?」
尾上を遮って、楽しそうな声が響く。
いつの間にやら戻ってきた結さんが、俺の肩に腕をついて乱入してきたのだった。
「ぐっじょぶ憩」
「お誉めに預り光栄です」
俺もなかなか強かになったと内心苦笑するも、実際満更でもなかった。
「という訳で葵ちゃん」
尾上が逃げたそうに一歩足を引くが、結さんがそれを許すはずもなく。
「入り口開けるから、右から回ってちょうだい。逃げないでね」
賭けに勝った結さんは、うんざりするほど上機嫌だった。
226: ひととせ ◆EOQ3BRAmq.:2012/1/16(月) 23:12:09 ID:c.gYySYfy6
今更のことながら、結さんはコーヒーよりも断然紅茶派らしい。
しかも決まってミルクティ、砂糖もしっかり投入するというお子様味覚だ。
しかしながら、それしか飲めないという訳ではなくて、ブラックコーヒーでも実は余裕でいけるという。
要するに何が言いたいのかといえば、相手の希望によって飲み物を変えることも可能で。
結果俺は今、三人分のコーヒーを淹れるという、極めて珍しい状況に立たされていたのだった。
227: ひととせ ◆EOQ3BRAmq.:2012/1/16(月) 23:12:45 ID:c.gYySYfy6
「たまには良いものね」
目の前に置いたコーヒーを見て、結さんが目を和ませる。
久々に淹れたものだから上手くできているか心配だったが、それは杞憂に終わったらしい。
結さんは特に何かを言うこともなく、ず、とごく普通にそれを啜っていた。
「……ありがとう、ございます」
対する尾上は警戒心を剥き出しにしてカップを見つめていた。
顔と態度はきついのに、小動物を餌付けしているような気分になる。
尾上がようやくカップに手を伸ばしたのを見計らって、結さんが口を開いた。
228: ひととせ ◆EOQ3BRAmq.:2012/1/16(月) 23:13:22 ID:c.gYySYfy6
「それで、復讐は成功した?」
「ちょ、結さん」
単刀直入に尋ねる言葉に、慌てたのは俺だけで。
「あなたの言った通りでした」
尾上は力なく微笑んでカップを置いた。
かちゃ、と陶器の触れ合う音が、部屋の中に響く。
「結局何も、できなかった」
そう、俺のときと同じことを言う。
ただひとつ、彼女の方がずっと落ち着き払っていた。
229: ひととせ ◆EOQ3BRAmq.:2012/1/17(火) 21:28:41 ID:wKwNii9EEI
「私が殺されたとき、相手の顔は分からなかったんです」
尾上は語り出す。
「後ろから刺されて、確認する間もなく死んでしまいましたから。復讐は、犯人を見つけるところから始めるつもりでした」
「犯人は、見つかったのかしら」
結さんが先を促す。
尾上は自分を奮い立たせるようにコーヒーをもう一口飲み込むと、再び口を開いた。
「……知り合いの男の子でした。前に、家庭教師をしていた」
完全に予想外でしたと尾上は唇を噛む。
視線がカップの縁をなぞるように動いて、揺らいで、最終的には手元に落ちた。
230: ひととせ ◆EOQ3BRAmq.:2012/1/17(火) 21:29:37 ID:wKwNii9EEI
「だって悪質なストーカーか何かだと思ったから、復讐するって決めたんです。なのにこんな、最近も会っていないのに、仲も良くて、慕われていると思っていたのに……」
尾上はくしゃりと顔を歪めた。
信じてたのに、なんてお決まりの台詞が聞こえてくるようだった。
でも尾上は、それ以上嘆くのを恥じるかのように表情を引き締めて話を再開する。
「私はしばらくその子の家にいました。本人はいなかったけれど、何かできるんじゃないかって」
だって私は殺されたんですよ、と尾上が責めるように話す。
一体誰を責めているのかは、彼女にも分からないようだった。
231: ひととせ ◆EOQ3BRAmq.:2012/1/17(火) 21:30:27 ID:wKwNii9EEI
「でも、できなかったのね」
柔らかな結さんの声が、不意打ちのように尾上を抱きしめる。
尾上ははっとしたように結さんを見て、泣き出しそうな顔をしたかに見えたが、すぐにそれを振り払うように声を荒げた。
「――じゃあどうしろって言うんですか!家族は何も悪くないのに、あんなに苦しんでて、その上私に何をしろと!?」
尾上の喉がひくりと震える。
上手く吸えなかった息をもう一度吸おうとして、諦めたようにまた、無理矢理に言葉を放る。
「うちの母親はノイローゼで家族はバラバラ、毎日のようにその子のお母さんに電話して責めるんです」
232: ひととせ ◆EOQ3BRAmq.:2012/1/17(火) 21:31:36 ID:VMnJaffQ7E
私だって責めたかった、尾上がそう詰る。
でもできなかったと、彼女は癇癪を起こした子供みたいに頭をかきむしった。
「その子の家には私の遺影があって、すごく綺麗に毎日手入れしてあった。人殺し、人殺しって言われてたのは、その子のお母さんだった」
それ以上何ができますか、と尾上が結さんを睨む。
最初と同じ瞳に、俺は気付いた。
彼女が抱いていたのは、殺気なんかじゃない。
行き場のない気持ちを、どこにぶつけるかも分からずに、燻らせていただけなんだ。
233: ひととせ ◆EOQ3BRAmq.:2012/1/17(火) 21:32:23 ID:VMnJaffQ7E
重苦しい沈黙がその場を支配する。
尾上は肩を僅かに上下させて、辛うじて虚勢を張っているようだった。
結さんは彼女の眼差しを受け止めて、苦しそうな顔をしていた。
「その男の子には、会ったの?」
結さんが尋ねる。
尾上はますます高ぶりそうなのを抑えて、幾分か落ち着いた声を絞り出した。
「会いました、未成年だったから、少し遠い場所に」
彼の母親が面会に行くのに、ついて行ったのだと言う。
俺は酷く喉が渇いていることに気付いたけれど、コーヒーに手を伸ばすことはできなかった。
234: ひととせ ◆EOQ3BRAmq.:2012/1/17(火) 21:35:55 ID:ogjb0kC5Sw
「本当に、ドラマみたいにガラスで仕切られていて、向こう側にその子はいました」
尾上も先程から姿勢を変えずに、動いているのは口と、まばたきの瞼だけである。
力の入った肩が、辛そうだと思った。
「久々に見たら大きくなっていて、背も、肩幅も顔つきも変わっていて、ああ私はこの子に殺されたんだなって」
そう、思って見てました、と尾上が切れ切れに言う。
そして握った手のひらを恐る恐る開くのを、俺は安堵したように見ていた。
「私のことを、見たような気がしました。気のせいだと思ったけれど、霊感があることは聞いていました」
そういえば自分達は所謂幽霊だったと、その言葉で改めて気が付いた。
235: ひととせ ◆EOQ3BRAmq.:2012/1/17(火) 21:36:54 ID:aLkl3hdfUg
尾上は自嘲するように歪んだ笑顔をつくると、目を伏せてひとつ、言い放った。
「そしてその子は明らかに私の方を見て、言ったんです」
ごめんね、って。
俺は思わず息を呑む。
結さんはずっと、押し黙ったままだった。
「どうして私を殺したかなんて知らない、知りたくもない。そんなのどうだっていい、でも!」
がん、と尾上が自分の膝を殴る。
「私が悪者みたいじゃないですか!一生罪を背負っていくなんて、あんな痛そうな顔で言われたって、私にはその一生だってないのに!」
236: ひととせ ◆EOQ3BRAmq.:2012/1/17(火) 21:38:36 ID:c.gYySYfy6
がん。がん。がん。
抑えきれなくて、でも机に当たらないだけの理性を残してしまっている彼女が、ひたすらに気の毒だった。
「どうしてあの子だけ悔い改めて、また進んでいけるの?何で?私が悪いの?じゃあお前も死ねって、何で言っちゃいけないの?」
結さんが尾上の手を取る。
尾上はいやいやと振り払おうとするが、離れない。
そこで俺は思い出す。
最後に会いに行った加奈も、扉の向こうで同じことをしていた。
「何でなのよ……っ!」
泣き崩れる彼女を、寄り添うことも慰めることもできず、あの日と同じように、俺は呆然と立ち竦むだけだった。
237: ひととせ ◆EOQ3BRAmq.:2012/1/17(火) 21:39:34 ID:c.gYySYfy6
「……何も、言わないんですね」
彼女が去った後の事務所でぽつり、そう投げ掛ける。
「何も言えないでしょう」
結さんはのんびりとそう言うと、そうっと目を閉じた。
あれから尾上は、泣いて泣いて、ようやく涙も涸れた頃に、この場所を出て行った。
結さんは切符を渡さなかった。
次の場所に行くことはできない。
今頃駅構内の何処かで、涙を流しているんだろうか。
238: ひととせ ◆EOQ3BRAmq.:2012/1/17(火) 21:40:49 ID:2ho66zkJlw
「どうして切符を、渡さなかったんですか」
ぎし、と椅子を軋ませて問うと、珍しく結さんが優しくクッションを撫でる。
「まだそんな状態じゃ、なかったでしょう」
「まあ、」
俺は控え目に肯定した。
結さんはまだ丁寧に、確かめるようにクッションに触れている。
「決めるのは葵ちゃんよ」
結さんが呟く。
俺もそろそろ、決めなくてはいけない。
整理すべき書類のファイルは、あと数冊になっていた。
239: ひととせ ◆EOQ3BRAmq.:2012/1/17(火) 21:52:54 ID:c.gYySYfy6
次のお話が最後になります。
という訳で一度、流れをリセットするために書き込み。
設定上重くて暗い話ばかりでしたけれど、後味が悪いのは今回限りにして、最後くらいは少しでも希望が見えるといいですね。
もしかすると細切れになるかもしれませんが、どうか明日以降の更新にもお付き合いください。
240: 名無しさん@読者の声:2012/1/17(火) 22:43:30 ID:/0856AJwQo
まだまだ見ていたいけど、終わりも見たい。
なんだろうこの不思議な気持ちは…
とにかく支援!
241: ひととせ ◆EOQ3BRAmq.:2012/1/18(水) 17:48:17 ID:2ho66zkJlw
>>240
支援ありがとうございます(´∀`*)
何にせよもうすぐ終わりですから、見届けて貰えたら嬉しいです。
では少ないですが、今日の更新に。
242: ひととせ ◆EOQ3BRAmq.:2012/1/18(水) 17:49:23 ID:2ho66zkJlw
最後の文字を打ち終えると、結さんがぱちぱちと拍手を送ってくれた。
「お疲れ様」
「どうも」
「よくもまあ、あんなに溢れていた書類を……お見事だわ」
結さんが俺を労う。
俺は少しのわだかまりを感じながら、結さんに笑顔を向けた。
俺が言いつけられた仕事は、全て終わってしまった。
この場所に留まることのできる期間は、もう過ぎ去ったのだ。
243: ひととせ ◆EOQ3BRAmq.:2012/1/18(水) 17:50:01 ID:2ho66zkJlw
「さて、君が留まる理由はこれでなくなってしまった訳だけども」
結さんがてきぱきと話を進める。
「決まった?君の気持ちは」
「……、いいえ」
正直のところ、先になんて行きたくない。
まだここにいたかった。
でも、それが出来ないことも分かっていた。
「やっぱり、そうよねえ」
そうだと思った、と結さんが頷く。
まるで俺が駄々を捏ねているかのように思えて、俺は居心地が悪くてもぞもぞと座り直した。
244: ひととせ ◆EOQ3BRAmq.:2012/1/18(水) 17:51:06 ID:tbpDYj2bNQ
よし、と結さんが気合いを入れて立ち上がる。
何事かと思わず身を引く俺にも、結さんは席を立つよう促した。
「おいで、憩。話してごらん」
結さんがにこり、笑って応接室を指差す。
今まで色々な人が、迷い、悩み、事情を語って、次に進んできた場所だ。
俺は結さんを見る。
結さんは俺を見据えたまま、高らかに宣言した。
「君を繋ぎ留めているものを、私が取っ払ってあげる」
245: ひととせ ◆EOQ3BRAmq.:2012/1/19(木) 13:28:31 ID:wKwNii9EEI
紅茶は結さんが淹れた。
いつもは並んで座るソファも、今日はテーブル越しに向き合って。
どうやら結さんは本格的に、俺を客として扱うらしい。
普段と反対側のソファに腰掛けて、何となく落ち着かない気持ちで待っていると、結さんがカップをふたつ手にして部屋に入ってきた。
「そこはやっぱりマグカップなんですね……」
「こっちの方が落ち着くでしょう」
結さんが、普段使いのマグカップを俺に手渡す。
受け取ったそれはじんわりと指先を温もらせて、確かに自分はこの方が好きだと思った。
246: ひととせ ◆EOQ3BRAmq.:2012/1/19(木) 13:29:29 ID:wKwNii9EEI
「本当は誰でもマグカップ出したいくらいよ」
「それは失礼なんじゃないですか」
「だから憩に任せてたでしょう」
あ、過去形。
俺は少し気分が曇るのを感じた。
分かっていたけれど、結さんはもう俺を手放す気でいるようだった。
「じゃあ話して」
結さんがさらりと言う。
俺はそろりと視線を上げた。
「何から?」
「何でも」
247: ひととせ ◆EOQ3BRAmq.:2012/1/19(木) 13:30:10 ID:wKwNii9EEI
未だかつてこれほど適当な対応があったろうか。いやない。
と思わず反語で驚いてしまうほど結さんはあっさりしていた。
俺が困惑するのを分かってか、結さんがマグカップを持ち上げながら付け足す。
「話したいことから、話せばいいのよ。好きだったこと、小さい頃の思い出、悩んでいたこと。いくらでも聞いてあげるわ」
結さんがマグカップの中身を、恐らく俺のと同じミルクティを吹き冷ます。
結さんがミルクティを好きな理由。
猫舌の自分に淹れたての紅茶は熱すぎるから、冷たい牛乳をたっぷり入れてちょうどよい温度にするのだと。
心地良い温もりと優しい味わいが、とても好きなのだと。
248: ひととせ ◆EOQ3BRAmq.:2012/1/19(木) 13:31:00 ID:wKwNii9EEI
「次に行きたくない理由と、関係がなくたっていいわ。どんな些細なことでもいい。君が生きてたことの話を、私は聞きたいのよ」
結さんの目が、熱っぽく俺を見つめる。
軽くなんてなかった。
結さんは真剣だった。
ここを訪れる人は皆、この瞳と対峙していたのだろうか。
俺は促されるままに、ゆっくりと口を開いた。
彼女がいたこと。幸せだったこと。正造さんと打つ囲碁が好きだったこと。加奈とふたりの帰り道が、どうしようもなく大切だったこと。
高校時代の思い出は、悲しい記憶に連鎖して、いつの間にか加奈との約束も、正造さんの死も、俺が死んでからのことまで洗いざらい吐き出していた。
249: ひととせ ◆EOQ3BRAmq.:2012/1/19(木) 13:31:44 ID:wKwNii9EEI
こんな俺の青臭い話を、結さんはずっと聞いていてくれた。
何度も頷きながら、決して目を逸らさず、疲れた様子も見せずに、ずっと。
俺は夢中で話した。
気付けばマグカップいっぱいに入っていたミルクティは、すっかり飲み干してしまっていた。
「……終わり、です」
ようやく次の話題が見つからなくなったところで、俺は口を閉じた。
随分と長いこと話していたような気がする。
口の中は乾ききり、顎も痛んでいた。
250: ひととせ ◆EOQ3BRAmq.:2012/1/19(木) 13:32:20 ID:wKwNii9EEI
結さんが組んでいた足を解き、おもむろに身を乗り出した。
「ひとつ、いいかしら」
「はい」
「君はいささか真面目すぎるわ」
結さんはまっすぐに俺を見た。
「約束を守れなくなったのは、君のせいじゃない。憩は悪くないし、これ以上約束を守ろうとする必要もない」
「でも、」
俺は思わず声を上げた。
結さんは俺を、過大評価していた。
251: ひととせ ◆EOQ3BRAmq.:2012/1/20(金) 15:32:22 ID:c.gYySYfy6
約束を守るのは、俺が誠実だからでも、罪悪感のせいでもない。
ただ、恐れているだけなのだ。
最後に聞いた加奈の、嘘つきと責める声だけが、今も頭に響いていて。
「……怖いんです。嘘つきと責めた加奈が、今の俺をどう思うか」
最後に加奈が叫ぼうとして、声にならず押し込めた言葉。
あんな嘘つき、どうなったって。
「あのとき加奈は、何を思ったんでしょうね」
俺は息苦しさを隠して笑う。
そうでもしないと、息ができそうになかった。
252: ひととせ ◆EOQ3BRAmq.:2012/1/20(金) 15:32:57 ID:c.gYySYfy6
「……そうね、じゃあ、確かめてみましょうか」
結さんが含み笑いをする。
俺はその意味が掴めずに、ぽかんとそれを見ていた。
「憩、正造さんの名字は」
「内村、ですけど」
「亡くなった時期は?」
「二年前の七月」
「じゃあ、住んでいたのは八王子ね」
当たっていた。
253: ひととせ ◆EOQ3BRAmq.:2012/1/20(金) 15:33:37 ID:c.gYySYfy6
俺が目を見開くと、結さんがやっぱりとほくそ笑む。
そうして得意気にこんこんと頭を叩いてみせた。
「言ったでしょう、全部覚えてるって」
絶句する俺の前を、結さんが横切る。
「憩、二年前の書類ってもう破棄しちゃった?」
「いや、これからです」
「どこ?」
「いちばん奥の棚の脇、縛って置いてあります」
結さんがつかつかと事務所に入る。
部屋の隅に積み上げられて、ビニール紐でくくられた書類は、最後に見たままの形で鎮座していた。
254: ひととせ ◆EOQ3BRAmq.:2012/1/20(金) 15:34:25 ID:c.gYySYfy6
「早口で話す、さばさばしたお爺ちゃん」
そうでしょう、と結さんが書類を掻き分けながら問いかける。
俺も床に座り込んで、一緒に二年前の書類を探した。
「話したこと、あるんですか」
「当然よ、窓口だもの。お喋り好きで、あまりに立ち話が長引くものだから応接室に呼んじゃったわ」
結さんに絡む正造さんが目に浮かぶ。
あの頃に、加奈が隠れてずたずたに傷ついていた頃に、正造さんはここに居たんだ。
「お孫さんのことを、酷く心配してたわ」
探る腕は休めずに、結さんが呟く。
255: ひととせ ◆EOQ3BRAmq.:2012/1/20(金) 15:34:58 ID:c.gYySYfy6
「あの子は一度落ちるととことん悲観的になるから、思い詰めて馬鹿なことを考えないかって。最近はよく笑うようになったけれど、彼氏と会うまでは悲惨だったって」
俺と会うまでは。
それは、俺が加奈を変えたと、そう考えても良いのだろうか。
何からひとつでも、俺は加奈のためになれていたのだろうか。
「……ほら」
結さんの手がふいに止まり、ひとつの書類束を拾い上げる。
まるで宝物みたいに捧げ持ったそれを、結さんは俺に手渡した。
内村正造、七十二歳。死亡地区、八王子市。
結さんの備考欄に、俺はそっと目を落とした。
256: ひととせ ◆EOQ3BRAmq.:2012/1/21(土) 20:16:21 ID:YMPC7wApis
備考欄:
お喋り好きのお爺ちゃん。お孫さんに関しては話題が尽きない。
家庭の事情で心を閉ざしていたお孫さんは、彼氏ができて明るくなったらしい。
あいつになら孫をやっていいなんて、父親みたいなことを言う。
お孫さんを可愛がっていたのがよく分かって微笑ましい。
悩み事は、お孫さんの痴話喧嘩に巻き込まれること。
嘘つき、どうなっても知らない等の愚痴を延々と聞かされるという。
確かに辛そうだ。
257: ひととせ ◆EOQ3BRAmq.:2012/1/21(土) 20:18:12 ID:YMPC7wApis
一度、なら別れろと叱りつけたことがあるらしい。
「でも絶対嫌いになれないんだ」とのろけを聞かされたと、嫌そうに話していた。
でも、お孫さんがそれだけ幸せそうだったからこそ、正造さんもこちらで明るく振る舞えたんだと思う。
心残りは、お孫さんが自分の死にショックを受けないかということ。
彼氏が傍にいるとはいえ、やはり心配な様子。
これから現世に戻るつもりだと言うから、それで不安が解消されたら良い。
願わくは、正造さんが安らかに旅立ち、残されたお孫さん達が幸せであるように。
8月2日
258: ひととせ ◆EOQ3BRAmq.:2012/1/21(土) 20:20:55 ID:2ho66zkJlw
――絶対、嫌いになれないんだあ。
加奈の声が、甘く耳の奥に響く。
例え嘘つきでも、どうなってもいいなんて言っても。
俺は書類を床に置く。
床に座った結さんは、俺と同じ高さで、その紙束を見ていた。
「加奈ちゃんは、君を恨んでいないわ」
あの日の慟哭は本物だった。
あれほど傷つけて裏切って、それでも嫌いになれないと、加奈は果たして言うのだろうか。
傷ついて裏切られて、それでもそう言ってくれると、信じていいのだろうか。
259: ひととせ ◆EOQ3BRAmq.:2012/1/21(土) 20:23:16 ID:wKwNii9EEI
「……君はもう、自由だわ」
約束に縛られる必要はない、と結さんは言った。
それはつまり、次に進めという暗黙の命令である。
「約束を、破れと?」
端的に問いかけると、結さんがゆるゆると首を振る。
「そういう意味じゃない。進むべき場所に進むのが、最善の選択なのよ」
そのくらい分かっている。
それでも愚図る俺の髪を、結さんは、小さい子供に言い聞かせるようにそっと撫でた。
「憩、よく聞いて」
260: ひととせ ◆EOQ3BRAmq.:2012/1/21(土) 20:26:17 ID:o7726pFAMk
「確かに、そっくりそのまま生まれ変わるなんて無理よ。記憶も容姿も、魂でさえ」
結さんの指がさらさらと髪を通る。
結さんとふたりして書類だらけの床の上に座ったまま、俺はじっと耳を傾けていた。
「でもね、君の魂は、たくさんの人の中に溶け込んで、たゆたって、広がって、そこから掬い上げられたひとしずくの命の中に、確かに紛れ込むの」
結さんの手つきは優しい。
幼い頃に親にされたものと、同じ手つきをしていると思った。
「もし加奈ちゃんが、いつか違う人と結婚して、子どもを産んだら。その子どもの中にはね、確かに君がいるの」
君の魂は、彼女のところに還るの。
261: ひととせ ◆EOQ3BRAmq.:2012/1/21(土) 20:29:34 ID:99nh8st8DU
でも、と俺は抗議しようとして、出来なかった。
酷く子供染みた我が儘を、言ってしまいそうだった。
「……でも、」
口にできない思いは、宙を彷徨って落ちる。
加奈のことは関係なく、次の場所から逃げる訳でもなく、それでもなお、ここに留まりたいなんて。
「君は行かなきゃならないわ」
俺の気持ちを見透かしたように、結さんが宣告する。
言えるはずが、なかった。
262: ひととせ ◆EOQ3BRAmq.:2012/1/21(土) 20:33:16 ID:99nh8st8DU
俺は立ち上がる。
書類まみれの床に座ったままの結さんが、俺を見上げた。
「結さんは、行かないんですか」
「ええ」
結さんは微笑んだ。
「私はずっとここにいる。ここは終着点、境界、そしてはじまりの場所。ここを守ることが、私の存在理由なの」
今はね、と結さんが小さく付け加える。
「この場所は終わらないわ」
263: ひととせ ◆EOQ3BRAmq.:2012/1/21(土) 20:36:03 ID:c.gYySYfy6
色んな人を、見送って。
今度は俺が行く番だった。
俺は静かに結さんへ頭を下げる。
結さんは息をひそめるようにして囁いた。
「最後に聞かせて。幸せな人生だった?」
結さんの声が、初めて揺らぐ。
期待と不安が入り混ざった、頼りなさげな声だった。
俺は目元を和ませる。
「ええ、とても」
そんなこと、決まっているじゃないか。
「生まれてきて、本当によかった」
264: ひととせ ◆EOQ3BRAmq.:2012/1/21(土) 20:39:25 ID:YMPC7wApis
生きてきたこと、生きて、大切な人達に出会えたこと。
後悔なんてひとつもないと、言い切ることはできなくても。
結さんは泣き顔のように笑うと、すっと出口を指差した。
「君の切符は机の上に置いてある。……行きなさい、まっすぐに」
外の雑踏が、いつになく恐ろしいものに感じられる。
それでも、猶予期間は終わった。
進むべきときが来たのだ。
「ターミナルの神様が、君にはついているわ」
265: ひととせ ◆EOQ3BRAmq.:2012/1/21(土) 20:42:27 ID:V5t1TG2Qic
俺は力強く頷いた。
結さんに背を向けて、切符を手に取る。
小さな紙切れをお守りのように握りしめると、心が落ち着くような気がした。
俺はもう振り向かなかった。
雑多な事務所を、結さんと過ごした愛おしい空間を、俺は出て行く。
だから俺は、結さんが最後に呟いた言葉なんて、知る由もなかった。
266: ひととせ ◆EOQ3BRAmq.:2012/1/21(土) 20:44:16 ID:V5t1TG2Qic
「ばいばい、憩」
「本当はお母さん、君には長生きしてほしかったな」
ターミナルの神様 おわり。
267: 名無しさん@読者の声:2012/1/21(土) 20:48:19 ID:.cEX9H328w
う、うわああぁあぁ!!!
素晴らしい物語を本当にありがとう!
ここ最近の楽しみがなくなってすごく辛い…
乙!盛大に乙!!
次回作も楽しみにしてる!
268: 名無しさん@読者の声:2012/1/21(土) 20:52:17 ID:1uPHLrvNvI
最後の一言に涙が溢れた
こんな素晴らしい作品をありがとう。出会えた私は幸せ者だ
今までさげで支援してきたけど最後だ、あげる!
ひととせさんお疲れ様でした!
269: ひととせ ◆EOQ3BRAmq.:2012/1/21(土) 22:10:15 ID:SclZQjm4pU
>>267
こちらこそ読んでくださってありがとうございます!
楽しみになれてたならすごく嬉しい。書いた甲斐があるというものですw
また何か書くときには、よろしくお願いしますね(´∀`*)
>>268
私の方こそ素敵な読者さんに恵まれて幸せだ(*´ω`*)
最後の台詞は最初から決めていたもので、ちょくちょく匂わせていたので、指摘されやしないか冷や汗ものでしたw
sage更新に付き合ってくださってありがとうございます。私も最後くらいageてみましょうか(*゚ω゚)
少し語りたくなったので、これから後書き的なものを置かせてください。
やや長くなりますが。
270: ひととせ ◆EOQ3BRAmq.:2012/1/21(土) 22:15:08 ID:ogjb0kC5Sw
志望校の過去問を解いていたら、現代文にすごく素敵な文章を見つけたんです。
異文化との境界が最近変わってるよ、というような評論だったのですが、そのテーマや例えが好みすぎて、テンションがガッ↑となって書き殴ったものがこれ。
最近は小説文体のものを書けていなかったんですが、びっくりするほど筆が進んで、あっという間に書けてしまった気がします。
本当にきちんと書けているのか、果たして人に受け入れて貰えるものなのか不安で、最初はひっそりとスレを立てました。
それが、思っていた以上に好意的な反応を頂けて、好いてくださる方もいて、こんなに幸せなことはありません。
読み返すとあまりの拙さに後悔したり恥ずかしくなりますが、わたしにとっては大切なお話です。
本当に、読んでくださってありがとうございました。
271: 名無しさん@読者の声:2012/1/21(土) 22:27:41 ID:X67jMh/RMg
完結おめでとうございます、そしてお疲れ様ですっ。
大好きなのが終わってしまうと思うと、泣きそうですが……。
次回作を楽しみに待っていますっ。
本当にお疲れさまでしたっ(`;ω;´)
272: 名無しさん@読者の声:2012/1/22(日) 01:32:54 ID:5uuTIH4l1g
ランキング3位入賞おめでとうございます!
そして完結もおめでとうございますwww
273: 名無しさん@読者の声:2012/1/22(日) 01:35:41 ID:fOWyvjXFC2
おめ
今から読む
274: ひととせ ◆EOQ3BRAmq.:2012/1/22(日) 08:48:46 ID:ogjb0kC5Sw
>>271
寂しがって頂けたなら作者冥利に尽きます(´ω`*)
私も少し寂しいけれど、こんな暖かいお言葉を頂けてすごく嬉しいです。ありがとうございます!
>>272
ランキングは驚きましたwww
完結してこんな幸せがあって、本当に有難いことです。
ありがとうございます!
>>273
ありがとうございます!
あなたの期待に叶うものが書けていたらいいと思っています。
275: ひととせ ◆EOQ3BRAmq.:2012/1/22(日) 09:00:08 ID:V5t1TG2Qic
おはようございます。衝撃の展開に正直動揺を隠せない私ですヾ(゚д゚*三*゚д゚)ノ
ランキング3位ということで、皆様応援ありがとうございました!
まさかsage更新でランク入りさせて頂けるなんて夢みたいです。ちょっと寝惚けてるんじゃないかと思いました。
各方面で話題に挙げてくださった方や、祝ってくださった方にも、この場でお礼を申し上げます。
本当にありがとうございました!(´∀`*)
さて、皆さん次回作を待ってくださるようで大変嬉しいのですが。
もしその前にターミナル番外編書きたいとか言ったら怒りますか。もしかして蛇足ですか。
書き終わってから少々救済したい子が数人できたんですが、潔く終わらせるべきか迷っています。どうしましょう。
276: 名無しさん@読者の声:2012/1/22(日) 09:37:49 ID:hp6EhyVi/I
ランキング入りおめでとうございます
終わりが綺麗過ぎたから蛇足感は否めないかもしれないけど、番外編はその作品が好きな人にとってとてもわくわくするものだし、私は是非読みたい
277: 名無しさん@読者の声:2012/1/22(日) 12:19:02 ID:0i9z8hkfLU
最後の最後になんかこう気持ちがぶわってなった…!
完結&三位おめでとうございます!
sage更新だったけど、見つけて読むことができてほんとに良かったです
ありがとうございました!
278: 名無しさん@読者の声:2012/1/22(日) 19:37:23 ID:Ma2nBUKySI
完結と3位おめでとう!!!!!!
久々に来てみたら凄いヽ(*´∀`)ノ!!!!!!
さすがひととせさん(*´∀`*)
全然来れなかったぶん、ちょっと今から見てきます!!!
279: 名無しさん@読者の声:2012/1/22(日) 22:43:21 ID:JmyCuwL9V2
まとめ掲載&3位&完結
記念パピコ!
まとめで読みますね!
280: ひととせ ◆EOQ3BRAmq.:2012/1/22(日) 23:24:15 ID:wKwNii9EEI
>>276
ありがとうございます。ランキングは私も予想外でした……w
番外編は別のスレでやることになりましたので、良かったら覗いてやってください(*´ω`*)
>>277
ぶわっとなりましたか!(*゚∀゚)=3
嬉しいです。ちゃんと伝えられてたなら、本当に嬉しいです。
見つけて読んでくださって、ありがとうございました。
>>278
こんなん初めてですよwwありがとうございます。
あなたに気に入って貰えることを、お祈りしています。
>>279
記念ありがとうございます!w
色んな方が祝ってくださって、私はすごい幸せ者です……!
281: ひととせ ◆EOQ3BRAmq.:2012/1/22(日) 23:26:26 ID:SclZQjm4pU
さて。
>>275でちょろっと言いました番外編ですが、色々と助言も頂きましたので、そのうち別スレを立てて、そこで書かせて頂きます。
この物語としては、蛇足になるかもしれません。
でも、それでも構わないという方は、どうかもう少し、別スレでもお付き合いください。
最後にもう一度、ここまで読んでくださった皆さんに。
本当にありがとうございました!
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停止しますた。ニヤリ・・・( ̄ー ̄)
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