「出来、たー……!」
オフィス用の椅子を限界まで倒してのけ反ると、背骨と腰の辺りからばきぼきと嫌な音が鳴った。
うん。リアルだ。
ひとりで納得しながら腕を伸ばしていると、窓口に立っていた結さんが振り返る。
「お疲れ様、今日のノルマは終わりよ」
「死んでるのにドライアイになりそうですよ」
「私だって死んでから書類仕事する羽目になるとは思わなかったわよ」
お腹は空かない、でも眠れる。
肉体はないはずなのに、仕事をすれば疲れるし、物に触れることもできる。
死後の世界というものは、全くおかしな場所だった。
4: 1:2011/12/11(日) 16:16:11 ID:YW2VpLC90c
「すみませーん」
結さんの肩越し、壁に空いた窓口から人の呼び掛けが聞こえた。
「はいはーい、ただいまー」
結さんが大声で返事をしながら、慌てたように立ち上がる。
俺はすっかり凝った肩を揉みほぐしながら、いってらっしゃいと呟いた。
「いってきます」
振り向きざまに結さんが、にっと笑って俺の額を小突く。
いい年をして、子供みたいな悪戯が好きなものだ。
俺は額に触れながら、彼女の後ろ姿を見送った。
5: 1:2011/12/11(日) 16:16:42 ID:YW2VpLC90c
「ああ、はいはい現世行きね、一回しか行けないけど良いの?……そう、じゃあここに必要事項記入して」
結さんの声を聞きながら、そうかここは現世じゃなかったと改めて思う。
実感が湧かなかった。
この事務所には雑多なファイルが散乱していて、筆記用具が散らかっていて、俺の目の前にはパソコンまである。
ありふれた光景。その辺のビルの一室に、普通に存在するような。
でも俺は、窓口の向こうの雑踏に、生身の人間がいないことを知っている。
俺も、もちろん結さんも、生者ではないことを知っていたのだ。
6: 1:2011/12/11(日) 16:17:11 ID:YW2VpLC90c
「……はいありがとう。何日発行しとく?一週間で足りる?……そう、じゃあ二週間にしておくわ」
慣れた動作で書類にペンで書き込むと、結さんは素早く判子を押した。
「じゃあこれ切符ね。失くしちゃ駄目よ、再発行できないから」
窓口の隙間から、結さんが切符を差し出すのが仕草で分かった。
天国から地上まで降りるのが、あんな紙切れ一枚で許されてしまうのが面白い。
ここが果たして天国と呼べるものか、俺には甚だ疑問であるけれど。
7: 1:2011/12/11(日) 16:17:43 ID:YW2VpLC90c
「世田谷区なら3番線ホームの電車から行けるわ。ええ、亡くなった場所に着くから、期限内に戻って来てね。悪霊になっちゃうわよ」
結さんが冗談めかして笑う。
窓口の向こう、少し緊張していた客も笑ったようだった。
「……お気をつけて。良い旅を」
結さんが静かに頭を下げると、客は小さく会釈して去って行った。
きっとこのまま電車を待って、最後の別れを惜しみに行くのだろう。
俺は唇を噛んで、遠ざかる後ろ姿を見詰めていた。
8: 1:2011/12/11(日) 16:18:13 ID:YW2VpLC90c
東京ターミナル駅総合案内事務所。
そこが今、俺のいる場所だ。
所謂あの世が駅の形をしているなんて思ってもみなかったけれど、いつの間にか馴染んでいる自分がいた。
窓口の向こう側で、行き交う人の群れ。
死んでから成仏するまでの間の、まだ行き先を躊躇っている人達が、ここには集まっている。
幽霊として現世に戻るにしろ、覚悟を決めて次の場所に向かうにしろ、彼らの行く先を導くのは、総合案内事務所の責任者。
それがこの、結さんだった。
9: 1:2011/12/11(日) 16:21:29 ID:7cMpp1kMaE
「はあ、疲れたわ」
結さんがこきこきと首を回しながら帰ってくる。
そのままどっかと椅子に体を預けると、仰向けのまま俺に向かって要求した。
「憩、お茶淹れて。甘ーいミルクティ」
「嫌ですよ」
「いーこーいー」
駄々っ子のようにじたばたする結さんは、果たして自分の年齢を分かっているのだろうか。
二十代後半程に見えるが、それは享年らしい。
この仕事を始めて二十年近くなるというから、つまり実年齢は。
10: 1:2011/12/11(日) 16:22:01 ID:7cMpp1kMaE
「何をそんなに見てるのかしら?」
「いっ」
脳天に強烈な一撃を食らって見上げれば、結さんが丸めたファイルを片手に仁王立ちしていた。
「そんなに見詰められて……お姉さん照れちゃう」
「誰がお姉さんとごめんなさいやめてくださいすいません」
「分かればよろしい」
うむ。と腕組みをした結さんが、ファイルを放り出して給湯室に向かう。
どうやらお茶は自分で淹れるらしかった。
11: 1:2011/12/11(日) 16:22:26 ID:7cMpp1kMaE
「それにしてもさあ」
湯気の立ち上るマグカップで、両手を温めながら結さんが言う。
そもそも何で死んでるのに飲めるのか、なんて疑問はとうの昔に忘れてしまった。
おこぼれに与かって熱い紅茶を啜る俺を、不躾な視線が上から下まで這い回る。
「……何ですか」
何だこれさっきの仕返しか。と思いながら尋ねると、結さんはミルクティを吹いて冷ましながら問い掛けた。
「憩ってなんで死んじゃったんだっけ」
12: 1:2011/12/11(日) 16:22:54 ID:7cMpp1kMaE
随分とまあ直球な、と俺は思わず溜め息をついた。
「そんな質問、生まれてこの方されたことがありませんよ」
「だって死ななきゃできないもの」
さらりと答える結さんに、それも最もだと納得してしまう。
でも、だからと言って今日の天気を話すように聞かれても、と思う。
「確か交通事故でしょ、書類にあったの」
「はい、自転車で飛び出したところを、トラックにポーンと」
この人に気遣いを求めても無駄だと諦めて、俺はそのことを話し始めた。
13: 1:2011/12/11(日) 16:23:22 ID:7cMpp1kMaE
今でも鮮明に思い出す。
耳元を切る冷たい風、真っ暗な闇を切り裂いたライト、つんざくようなクラクションと、世界が反転して、最後に見たのは逆光の人影だった。
「完全な俺の不注意でしたね、トラック運転手の人に悪いことしました」
「駄目じゃない、飛び出しちゃあ」
「急いでたんですよ、日付変わりそうだったから」
彼女の誕生日だったんです、と紅茶を流し込みながら付け加える。
そういえば祝えずじまいだったと、今になって気が付いた。
14: 1:2011/12/11(日) 16:23:52 ID:7cMpp1kMaE
俺の感傷をよそに、結さんが嬉々として俺ににじり寄る。
「ねえ憩、そう言うの何て言うか教えてあげよっか」
「はいはい、何ですか」
「りあじゅう」
結さんがどや顔で言い放つ。
俺は無言で椅子ごと後ずさった。
「え、ねえちょっと何その反応。こないだ死んだばっかの女子高生に聞いたんだけど」
「数十年単位で遅れてる人が無理しないで下さい」
「何それオバサンだって言いたいの?」
こめかみに青筋を立てる結さんに口先だけで否定して、マグカップを庇いながら逃げる。
窓口から甲高い声が聞こえたのは、そのときだった。
15: 1:2011/12/11(日) 16:24:29 ID:7cMpp1kMaE
「すーいませーん!あのー!」
音程の高い、明らかに子供の声でなされた呼び掛けに、結さんはわざとらしく舌打ちをしてみせると俺をひと睨みして窓口に向かった。
危ない、危ない。
ちょうど良すぎるタイミングに、にやつきながら結さんを見送ると、俺は残った紅茶を一気に飲み干した。
「はい、お待たせ。何かしら、君」
子供相手にくるりと変わった営業用の声に吹き出しそうになりながら、耳を澄ませる。
「あの、おれ、もう一回この世に戻りたいんですけど!」
「駄目」
即答した結さんに、子供は不満げに大声を上げた。
16: 1:2011/12/12(月) 12:18:01 ID:7cMpp1kMaE
「なんで!」
「駄目なもんはだーめっ」
窓口の向こうで駄々を捏ねる子供になんとなく興味をひかれて、俺は席を立った。
「あのね、ひとり一回しか行けないの。君もうこないだ行ったでしょ、もう行けないわよ」
「でもっ」
結さんはすっかり応対する気をなくしたようだった。
窓口の椅子で足を組み、はぁーあと溜め息をつく。
「でもおれ、行かなきゃならないんだ。もう一回、どうしても行きたいんだ」
「みんな同じよ、でも我慢している」
子供が言葉に詰まる。
ようやく視界に入った彼は、下を向いて拳を握り締めていた。
17: 1:2011/12/12(月) 12:18:38 ID:7cMpp1kMaE
「……じゃあいいよ、おれ勝手に行く!」
子供がくるりと踵を返す。
「あっ、こら!待ちなさい!」
結さんが慌てて立ち上がるも、子供はあっという間に駅中央ホールの雑踏に消えた。
わあ大変。
半ば面白がってそれを眺めていると、結さんが唐突に俺を振り向く。
「憩、ちょっと追い掛けてきて」
「嫌ですよ面倒臭い」
「あの子成仏できなくなるわ。上司命令よ」
「結さんいつから俺の上司に」
まあ立場的には上司だけど。
鋭い睨みをきかせる結さんの無言の圧力に負けて、俺は渋々案内事務所の扉に手をかけた。
18: 1:2011/12/12(月) 12:19:13 ID:XaSSnJluPk
「みーつけた」
立ち止まったところを、後ろから。
元気があっても所詮は子供、捕獲するのは簡単だった。
「あってめえ、離せよ!」
「やだよ俺が怒られるもん」
「はーなーせ!」
「こんにゃろ、はたちの体力舐めんなよ」
じたばたともがく子供を抱え上げて来た道を戻る。
危ないところだった。
どうやったのか改札口をすり抜けて、彼は駅ホームへの階段にまで来ていた。
19: 1:2011/12/12(月) 12:19:47 ID:XaSSnJluPk
「結さん、捕まえましたよ」
はい、と子供の首根っこを掴んでつき出すと、結さんはご苦労と言って満足そうに口角を上げた。
「さーもう逃げらんないわよ、観念しなさい」
「やだ!放せ!」
相変わらずぎゃあぎゃあとうるさい子供の両腕を掴んだまま、結さんが俺に指示する。
「憩、応接室開けといて。ついでにココアでも淹れてあげて」
「こっ子供扱いすんな!」
「するわよ、ガキ。たっぷりお話聞かせてもらうわ」
悪の親玉のような台詞を楽しげに言う結さんと急に青ざめた子供に背を向けて、俺は給湯室に足を運んだ。
20: 1:2011/12/12(月) 22:11:54 ID:XaSSnJluPk
温め直したミルクティとココアを持って部屋に入ると、流石にもう大人しくなった子供がソファに鎮座していた。
「気が利くじゃない」
ふたりの前にマグカップを置くと、結さんが表情を緩める。
子供の方は、目の前に置かれたココアと結さんの顔を、戸惑い気味に見比べていた。
「よし、じゃあ名前から聞きましょうか」
俺が隣に腰を下ろすのを見計らって結さんが切り出す。
子供は少し警戒したようにこちらを窺いながら、漸く口を開いた。
21: 1:2011/12/12(月) 22:12:40 ID:XaSSnJluPk
「……神山、大地」
「大地くんね、分かった」
結さんが手元の書類を見ながらふんふんと頷く。
いつの間にか結さんは彼の記録を探し当てていたらしかった。
「心臓の病気で亡くなってるのね、あんなに走って大丈夫だった?」
「別に、もう死んでるし」
大地は怪訝そうに結さんを見上げた。
初っぱなから叱られるとでも思っていたのか、居心地が悪そうにもぞもぞとソファの上に座り直す。
22: 1:2011/12/12(月) 22:13:18 ID:XaSSnJluPk
「そりゃそうよねえ、私だって死んでから風邪引いたことないし」
「知りませんよ」
俺が挟んだ突っ込みは華麗に無視される。
結さんはペンを顎に当てながら、書類の文字を目で追った。
「んー、現世滞在は三日間。二ヶ月くらい前に行ってるわね、合ってる?」
大地が頷く。三日とはなかなか短い。
結さんも同じことを思ったのか、片眉を吊り上げながら大地に尋ねた。
「結構短いけれど、それで用は足りたのかしら?」
「分かってたから。おれも、お母さんも」
23: 名無しさん@読者の声:2011/12/12(月) 23:53:23 ID:dqvzbTqV8Y
結っていうネーミングが素晴らしい
(´・ω・`)っC
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