「出来、たー……!」
オフィス用の椅子を限界まで倒してのけ反ると、背骨と腰の辺りからばきぼきと嫌な音が鳴った。
うん。リアルだ。
ひとりで納得しながら腕を伸ばしていると、窓口に立っていた結さんが振り返る。
「お疲れ様、今日のノルマは終わりよ」
「死んでるのにドライアイになりそうですよ」
「私だって死んでから書類仕事する羽目になるとは思わなかったわよ」
お腹は空かない、でも眠れる。
肉体はないはずなのに、仕事をすれば疲れるし、物に触れることもできる。
死後の世界というものは、全くおかしな場所だった。
242: ひととせ ◆EOQ3BRAmq.:2012/1/18(水) 17:49:23 ID:2ho66zkJlw
最後の文字を打ち終えると、結さんがぱちぱちと拍手を送ってくれた。
「お疲れ様」
「どうも」
「よくもまあ、あんなに溢れていた書類を……お見事だわ」
結さんが俺を労う。
俺は少しのわだかまりを感じながら、結さんに笑顔を向けた。
俺が言いつけられた仕事は、全て終わってしまった。
この場所に留まることのできる期間は、もう過ぎ去ったのだ。
243: ひととせ ◆EOQ3BRAmq.:2012/1/18(水) 17:50:01 ID:2ho66zkJlw
「さて、君が留まる理由はこれでなくなってしまった訳だけども」
結さんがてきぱきと話を進める。
「決まった?君の気持ちは」
「……、いいえ」
正直のところ、先になんて行きたくない。
まだここにいたかった。
でも、それが出来ないことも分かっていた。
「やっぱり、そうよねえ」
そうだと思った、と結さんが頷く。
まるで俺が駄々を捏ねているかのように思えて、俺は居心地が悪くてもぞもぞと座り直した。
244: ひととせ ◆EOQ3BRAmq.:2012/1/18(水) 17:51:06 ID:tbpDYj2bNQ
よし、と結さんが気合いを入れて立ち上がる。
何事かと思わず身を引く俺にも、結さんは席を立つよう促した。
「おいで、憩。話してごらん」
結さんがにこり、笑って応接室を指差す。
今まで色々な人が、迷い、悩み、事情を語って、次に進んできた場所だ。
俺は結さんを見る。
結さんは俺を見据えたまま、高らかに宣言した。
「君を繋ぎ留めているものを、私が取っ払ってあげる」
245: ひととせ ◆EOQ3BRAmq.:2012/1/19(木) 13:28:31 ID:wKwNii9EEI
紅茶は結さんが淹れた。
いつもは並んで座るソファも、今日はテーブル越しに向き合って。
どうやら結さんは本格的に、俺を客として扱うらしい。
普段と反対側のソファに腰掛けて、何となく落ち着かない気持ちで待っていると、結さんがカップをふたつ手にして部屋に入ってきた。
「そこはやっぱりマグカップなんですね……」
「こっちの方が落ち着くでしょう」
結さんが、普段使いのマグカップを俺に手渡す。
受け取ったそれはじんわりと指先を温もらせて、確かに自分はこの方が好きだと思った。
246: ひととせ ◆EOQ3BRAmq.:2012/1/19(木) 13:29:29 ID:wKwNii9EEI
「本当は誰でもマグカップ出したいくらいよ」
「それは失礼なんじゃないですか」
「だから憩に任せてたでしょう」
あ、過去形。
俺は少し気分が曇るのを感じた。
分かっていたけれど、結さんはもう俺を手放す気でいるようだった。
「じゃあ話して」
結さんがさらりと言う。
俺はそろりと視線を上げた。
「何から?」
「何でも」
247: ひととせ ◆EOQ3BRAmq.:2012/1/19(木) 13:30:10 ID:wKwNii9EEI
未だかつてこれほど適当な対応があったろうか。いやない。
と思わず反語で驚いてしまうほど結さんはあっさりしていた。
俺が困惑するのを分かってか、結さんがマグカップを持ち上げながら付け足す。
「話したいことから、話せばいいのよ。好きだったこと、小さい頃の思い出、悩んでいたこと。いくらでも聞いてあげるわ」
結さんがマグカップの中身を、恐らく俺のと同じミルクティを吹き冷ます。
結さんがミルクティを好きな理由。
猫舌の自分に淹れたての紅茶は熱すぎるから、冷たい牛乳をたっぷり入れてちょうどよい温度にするのだと。
心地良い温もりと優しい味わいが、とても好きなのだと。
248: ひととせ ◆EOQ3BRAmq.:2012/1/19(木) 13:31:00 ID:wKwNii9EEI
「次に行きたくない理由と、関係がなくたっていいわ。どんな些細なことでもいい。君が生きてたことの話を、私は聞きたいのよ」
結さんの目が、熱っぽく俺を見つめる。
軽くなんてなかった。
結さんは真剣だった。
ここを訪れる人は皆、この瞳と対峙していたのだろうか。
俺は促されるままに、ゆっくりと口を開いた。
彼女がいたこと。幸せだったこと。正造さんと打つ囲碁が好きだったこと。加奈とふたりの帰り道が、どうしようもなく大切だったこと。
高校時代の思い出は、悲しい記憶に連鎖して、いつの間にか加奈との約束も、正造さんの死も、俺が死んでからのことまで洗いざらい吐き出していた。
249: ひととせ ◆EOQ3BRAmq.:2012/1/19(木) 13:31:44 ID:wKwNii9EEI
こんな俺の青臭い話を、結さんはずっと聞いていてくれた。
何度も頷きながら、決して目を逸らさず、疲れた様子も見せずに、ずっと。
俺は夢中で話した。
気付けばマグカップいっぱいに入っていたミルクティは、すっかり飲み干してしまっていた。
「……終わり、です」
ようやく次の話題が見つからなくなったところで、俺は口を閉じた。
随分と長いこと話していたような気がする。
口の中は乾ききり、顎も痛んでいた。
250: ひととせ ◆EOQ3BRAmq.:2012/1/19(木) 13:32:20 ID:wKwNii9EEI
結さんが組んでいた足を解き、おもむろに身を乗り出した。
「ひとつ、いいかしら」
「はい」
「君はいささか真面目すぎるわ」
結さんはまっすぐに俺を見た。
「約束を守れなくなったのは、君のせいじゃない。憩は悪くないし、これ以上約束を守ろうとする必要もない」
「でも、」
俺は思わず声を上げた。
結さんは俺を、過大評価していた。
251: ひととせ ◆EOQ3BRAmq.:2012/1/20(金) 15:32:22 ID:c.gYySYfy6
約束を守るのは、俺が誠実だからでも、罪悪感のせいでもない。
ただ、恐れているだけなのだ。
最後に聞いた加奈の、嘘つきと責める声だけが、今も頭に響いていて。
「……怖いんです。嘘つきと責めた加奈が、今の俺をどう思うか」
最後に加奈が叫ぼうとして、声にならず押し込めた言葉。
あんな嘘つき、どうなったって。
「あのとき加奈は、何を思ったんでしょうね」
俺は息苦しさを隠して笑う。
そうでもしないと、息ができそうになかった。
252: ひととせ ◆EOQ3BRAmq.:2012/1/20(金) 15:32:57 ID:c.gYySYfy6
「……そうね、じゃあ、確かめてみましょうか」
結さんが含み笑いをする。
俺はその意味が掴めずに、ぽかんとそれを見ていた。
「憩、正造さんの名字は」
「内村、ですけど」
「亡くなった時期は?」
「二年前の七月」
「じゃあ、住んでいたのは八王子ね」
当たっていた。
253: ひととせ ◆EOQ3BRAmq.:2012/1/20(金) 15:33:37 ID:c.gYySYfy6
俺が目を見開くと、結さんがやっぱりとほくそ笑む。
そうして得意気にこんこんと頭を叩いてみせた。
「言ったでしょう、全部覚えてるって」
絶句する俺の前を、結さんが横切る。
「憩、二年前の書類ってもう破棄しちゃった?」
「いや、これからです」
「どこ?」
「いちばん奥の棚の脇、縛って置いてあります」
結さんがつかつかと事務所に入る。
部屋の隅に積み上げられて、ビニール紐でくくられた書類は、最後に見たままの形で鎮座していた。
254: ひととせ ◆EOQ3BRAmq.:2012/1/20(金) 15:34:25 ID:c.gYySYfy6
「早口で話す、さばさばしたお爺ちゃん」
そうでしょう、と結さんが書類を掻き分けながら問いかける。
俺も床に座り込んで、一緒に二年前の書類を探した。
「話したこと、あるんですか」
「当然よ、窓口だもの。お喋り好きで、あまりに立ち話が長引くものだから応接室に呼んじゃったわ」
結さんに絡む正造さんが目に浮かぶ。
あの頃に、加奈が隠れてずたずたに傷ついていた頃に、正造さんはここに居たんだ。
「お孫さんのことを、酷く心配してたわ」
探る腕は休めずに、結さんが呟く。
255: ひととせ ◆EOQ3BRAmq.:2012/1/20(金) 15:34:58 ID:c.gYySYfy6
「あの子は一度落ちるととことん悲観的になるから、思い詰めて馬鹿なことを考えないかって。最近はよく笑うようになったけれど、彼氏と会うまでは悲惨だったって」
俺と会うまでは。
それは、俺が加奈を変えたと、そう考えても良いのだろうか。
何からひとつでも、俺は加奈のためになれていたのだろうか。
「……ほら」
結さんの手がふいに止まり、ひとつの書類束を拾い上げる。
まるで宝物みたいに捧げ持ったそれを、結さんは俺に手渡した。
内村正造、七十二歳。死亡地区、八王子市。
結さんの備考欄に、俺はそっと目を落とした。
256: ひととせ ◆EOQ3BRAmq.:2012/1/21(土) 20:16:21 ID:YMPC7wApis
備考欄:
お喋り好きのお爺ちゃん。お孫さんに関しては話題が尽きない。
家庭の事情で心を閉ざしていたお孫さんは、彼氏ができて明るくなったらしい。
あいつになら孫をやっていいなんて、父親みたいなことを言う。
お孫さんを可愛がっていたのがよく分かって微笑ましい。
悩み事は、お孫さんの痴話喧嘩に巻き込まれること。
嘘つき、どうなっても知らない等の愚痴を延々と聞かされるという。
確かに辛そうだ。
257: ひととせ ◆EOQ3BRAmq.:2012/1/21(土) 20:18:12 ID:YMPC7wApis
一度、なら別れろと叱りつけたことがあるらしい。
「でも絶対嫌いになれないんだ」とのろけを聞かされたと、嫌そうに話していた。
でも、お孫さんがそれだけ幸せそうだったからこそ、正造さんもこちらで明るく振る舞えたんだと思う。
心残りは、お孫さんが自分の死にショックを受けないかということ。
彼氏が傍にいるとはいえ、やはり心配な様子。
これから現世に戻るつもりだと言うから、それで不安が解消されたら良い。
願わくは、正造さんが安らかに旅立ち、残されたお孫さん達が幸せであるように。
8月2日
258: ひととせ ◆EOQ3BRAmq.:2012/1/21(土) 20:20:55 ID:2ho66zkJlw
――絶対、嫌いになれないんだあ。
加奈の声が、甘く耳の奥に響く。
例え嘘つきでも、どうなってもいいなんて言っても。
俺は書類を床に置く。
床に座った結さんは、俺と同じ高さで、その紙束を見ていた。
「加奈ちゃんは、君を恨んでいないわ」
あの日の慟哭は本物だった。
あれほど傷つけて裏切って、それでも嫌いになれないと、加奈は果たして言うのだろうか。
傷ついて裏切られて、それでもそう言ってくれると、信じていいのだろうか。
259: ひととせ ◆EOQ3BRAmq.:2012/1/21(土) 20:23:16 ID:wKwNii9EEI
「……君はもう、自由だわ」
約束に縛られる必要はない、と結さんは言った。
それはつまり、次に進めという暗黙の命令である。
「約束を、破れと?」
端的に問いかけると、結さんがゆるゆると首を振る。
「そういう意味じゃない。進むべき場所に進むのが、最善の選択なのよ」
そのくらい分かっている。
それでも愚図る俺の髪を、結さんは、小さい子供に言い聞かせるようにそっと撫でた。
「憩、よく聞いて」
260: ひととせ ◆EOQ3BRAmq.:2012/1/21(土) 20:26:17 ID:o7726pFAMk
「確かに、そっくりそのまま生まれ変わるなんて無理よ。記憶も容姿も、魂でさえ」
結さんの指がさらさらと髪を通る。
結さんとふたりして書類だらけの床の上に座ったまま、俺はじっと耳を傾けていた。
「でもね、君の魂は、たくさんの人の中に溶け込んで、たゆたって、広がって、そこから掬い上げられたひとしずくの命の中に、確かに紛れ込むの」
結さんの手つきは優しい。
幼い頃に親にされたものと、同じ手つきをしていると思った。
「もし加奈ちゃんが、いつか違う人と結婚して、子どもを産んだら。その子どもの中にはね、確かに君がいるの」
君の魂は、彼女のところに還るの。
261: ひととせ ◆EOQ3BRAmq.:2012/1/21(土) 20:29:34 ID:99nh8st8DU
でも、と俺は抗議しようとして、出来なかった。
酷く子供染みた我が儘を、言ってしまいそうだった。
「……でも、」
口にできない思いは、宙を彷徨って落ちる。
加奈のことは関係なく、次の場所から逃げる訳でもなく、それでもなお、ここに留まりたいなんて。
「君は行かなきゃならないわ」
俺の気持ちを見透かしたように、結さんが宣告する。
言えるはずが、なかった。
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