「出来、たー……!」
オフィス用の椅子を限界まで倒してのけ反ると、背骨と腰の辺りからばきぼきと嫌な音が鳴った。
うん。リアルだ。
ひとりで納得しながら腕を伸ばしていると、窓口に立っていた結さんが振り返る。
「お疲れ様、今日のノルマは終わりよ」
「死んでるのにドライアイになりそうですよ」
「私だって死んでから書類仕事する羽目になるとは思わなかったわよ」
お腹は空かない、でも眠れる。
肉体はないはずなのに、仕事をすれば疲れるし、物に触れることもできる。
死後の世界というものは、全くおかしな場所だった。
225: ひととせ ◆EOQ3BRAmq.:2012/1/16(月) 23:11:37 ID:c.gYySYfy6
抗議する尾上をよそに、俺の肩にずっしりと重みが乗る。
「聞かせて貰えるわよね?」
尾上を遮って、楽しそうな声が響く。
いつの間にやら戻ってきた結さんが、俺の肩に腕をついて乱入してきたのだった。
「ぐっじょぶ憩」
「お誉めに預り光栄です」
俺もなかなか強かになったと内心苦笑するも、実際満更でもなかった。
「という訳で葵ちゃん」
尾上が逃げたそうに一歩足を引くが、結さんがそれを許すはずもなく。
「入り口開けるから、右から回ってちょうだい。逃げないでね」
賭けに勝った結さんは、うんざりするほど上機嫌だった。
226: ひととせ ◆EOQ3BRAmq.:2012/1/16(月) 23:12:09 ID:c.gYySYfy6
今更のことながら、結さんはコーヒーよりも断然紅茶派らしい。
しかも決まってミルクティ、砂糖もしっかり投入するというお子様味覚だ。
しかしながら、それしか飲めないという訳ではなくて、ブラックコーヒーでも実は余裕でいけるという。
要するに何が言いたいのかといえば、相手の希望によって飲み物を変えることも可能で。
結果俺は今、三人分のコーヒーを淹れるという、極めて珍しい状況に立たされていたのだった。
227: ひととせ ◆EOQ3BRAmq.:2012/1/16(月) 23:12:45 ID:c.gYySYfy6
「たまには良いものね」
目の前に置いたコーヒーを見て、結さんが目を和ませる。
久々に淹れたものだから上手くできているか心配だったが、それは杞憂に終わったらしい。
結さんは特に何かを言うこともなく、ず、とごく普通にそれを啜っていた。
「……ありがとう、ございます」
対する尾上は警戒心を剥き出しにしてカップを見つめていた。
顔と態度はきついのに、小動物を餌付けしているような気分になる。
尾上がようやくカップに手を伸ばしたのを見計らって、結さんが口を開いた。
228: ひととせ ◆EOQ3BRAmq.:2012/1/16(月) 23:13:22 ID:c.gYySYfy6
「それで、復讐は成功した?」
「ちょ、結さん」
単刀直入に尋ねる言葉に、慌てたのは俺だけで。
「あなたの言った通りでした」
尾上は力なく微笑んでカップを置いた。
かちゃ、と陶器の触れ合う音が、部屋の中に響く。
「結局何も、できなかった」
そう、俺のときと同じことを言う。
ただひとつ、彼女の方がずっと落ち着き払っていた。
229: ひととせ ◆EOQ3BRAmq.:2012/1/17(火) 21:28:41 ID:wKwNii9EEI
「私が殺されたとき、相手の顔は分からなかったんです」
尾上は語り出す。
「後ろから刺されて、確認する間もなく死んでしまいましたから。復讐は、犯人を見つけるところから始めるつもりでした」
「犯人は、見つかったのかしら」
結さんが先を促す。
尾上は自分を奮い立たせるようにコーヒーをもう一口飲み込むと、再び口を開いた。
「……知り合いの男の子でした。前に、家庭教師をしていた」
完全に予想外でしたと尾上は唇を噛む。
視線がカップの縁をなぞるように動いて、揺らいで、最終的には手元に落ちた。
230: ひととせ ◆EOQ3BRAmq.:2012/1/17(火) 21:29:37 ID:wKwNii9EEI
「だって悪質なストーカーか何かだと思ったから、復讐するって決めたんです。なのにこんな、最近も会っていないのに、仲も良くて、慕われていると思っていたのに……」
尾上はくしゃりと顔を歪めた。
信じてたのに、なんてお決まりの台詞が聞こえてくるようだった。
でも尾上は、それ以上嘆くのを恥じるかのように表情を引き締めて話を再開する。
「私はしばらくその子の家にいました。本人はいなかったけれど、何かできるんじゃないかって」
だって私は殺されたんですよ、と尾上が責めるように話す。
一体誰を責めているのかは、彼女にも分からないようだった。
231: ひととせ ◆EOQ3BRAmq.:2012/1/17(火) 21:30:27 ID:wKwNii9EEI
「でも、できなかったのね」
柔らかな結さんの声が、不意打ちのように尾上を抱きしめる。
尾上ははっとしたように結さんを見て、泣き出しそうな顔をしたかに見えたが、すぐにそれを振り払うように声を荒げた。
「――じゃあどうしろって言うんですか!家族は何も悪くないのに、あんなに苦しんでて、その上私に何をしろと!?」
尾上の喉がひくりと震える。
上手く吸えなかった息をもう一度吸おうとして、諦めたようにまた、無理矢理に言葉を放る。
「うちの母親はノイローゼで家族はバラバラ、毎日のようにその子のお母さんに電話して責めるんです」
232: ひととせ ◆EOQ3BRAmq.:2012/1/17(火) 21:31:36 ID:VMnJaffQ7E
私だって責めたかった、尾上がそう詰る。
でもできなかったと、彼女は癇癪を起こした子供みたいに頭をかきむしった。
「その子の家には私の遺影があって、すごく綺麗に毎日手入れしてあった。人殺し、人殺しって言われてたのは、その子のお母さんだった」
それ以上何ができますか、と尾上が結さんを睨む。
最初と同じ瞳に、俺は気付いた。
彼女が抱いていたのは、殺気なんかじゃない。
行き場のない気持ちを、どこにぶつけるかも分からずに、燻らせていただけなんだ。
233: ひととせ ◆EOQ3BRAmq.:2012/1/17(火) 21:32:23 ID:VMnJaffQ7E
重苦しい沈黙がその場を支配する。
尾上は肩を僅かに上下させて、辛うじて虚勢を張っているようだった。
結さんは彼女の眼差しを受け止めて、苦しそうな顔をしていた。
「その男の子には、会ったの?」
結さんが尋ねる。
尾上はますます高ぶりそうなのを抑えて、幾分か落ち着いた声を絞り出した。
「会いました、未成年だったから、少し遠い場所に」
彼の母親が面会に行くのに、ついて行ったのだと言う。
俺は酷く喉が渇いていることに気付いたけれど、コーヒーに手を伸ばすことはできなかった。
234: ひととせ ◆EOQ3BRAmq.:2012/1/17(火) 21:35:55 ID:ogjb0kC5Sw
「本当に、ドラマみたいにガラスで仕切られていて、向こう側にその子はいました」
尾上も先程から姿勢を変えずに、動いているのは口と、まばたきの瞼だけである。
力の入った肩が、辛そうだと思った。
「久々に見たら大きくなっていて、背も、肩幅も顔つきも変わっていて、ああ私はこの子に殺されたんだなって」
そう、思って見てました、と尾上が切れ切れに言う。
そして握った手のひらを恐る恐る開くのを、俺は安堵したように見ていた。
「私のことを、見たような気がしました。気のせいだと思ったけれど、霊感があることは聞いていました」
そういえば自分達は所謂幽霊だったと、その言葉で改めて気が付いた。
235: ひととせ ◆EOQ3BRAmq.:2012/1/17(火) 21:36:54 ID:aLkl3hdfUg
尾上は自嘲するように歪んだ笑顔をつくると、目を伏せてひとつ、言い放った。
「そしてその子は明らかに私の方を見て、言ったんです」
ごめんね、って。
俺は思わず息を呑む。
結さんはずっと、押し黙ったままだった。
「どうして私を殺したかなんて知らない、知りたくもない。そんなのどうだっていい、でも!」
がん、と尾上が自分の膝を殴る。
「私が悪者みたいじゃないですか!一生罪を背負っていくなんて、あんな痛そうな顔で言われたって、私にはその一生だってないのに!」
236: ひととせ ◆EOQ3BRAmq.:2012/1/17(火) 21:38:36 ID:c.gYySYfy6
がん。がん。がん。
抑えきれなくて、でも机に当たらないだけの理性を残してしまっている彼女が、ひたすらに気の毒だった。
「どうしてあの子だけ悔い改めて、また進んでいけるの?何で?私が悪いの?じゃあお前も死ねって、何で言っちゃいけないの?」
結さんが尾上の手を取る。
尾上はいやいやと振り払おうとするが、離れない。
そこで俺は思い出す。
最後に会いに行った加奈も、扉の向こうで同じことをしていた。
「何でなのよ……っ!」
泣き崩れる彼女を、寄り添うことも慰めることもできず、あの日と同じように、俺は呆然と立ち竦むだけだった。
237: ひととせ ◆EOQ3BRAmq.:2012/1/17(火) 21:39:34 ID:c.gYySYfy6
「……何も、言わないんですね」
彼女が去った後の事務所でぽつり、そう投げ掛ける。
「何も言えないでしょう」
結さんはのんびりとそう言うと、そうっと目を閉じた。
あれから尾上は、泣いて泣いて、ようやく涙も涸れた頃に、この場所を出て行った。
結さんは切符を渡さなかった。
次の場所に行くことはできない。
今頃駅構内の何処かで、涙を流しているんだろうか。
238: ひととせ ◆EOQ3BRAmq.:2012/1/17(火) 21:40:49 ID:2ho66zkJlw
「どうして切符を、渡さなかったんですか」
ぎし、と椅子を軋ませて問うと、珍しく結さんが優しくクッションを撫でる。
「まだそんな状態じゃ、なかったでしょう」
「まあ、」
俺は控え目に肯定した。
結さんはまだ丁寧に、確かめるようにクッションに触れている。
「決めるのは葵ちゃんよ」
結さんが呟く。
俺もそろそろ、決めなくてはいけない。
整理すべき書類のファイルは、あと数冊になっていた。
239: ひととせ ◆EOQ3BRAmq.:2012/1/17(火) 21:52:54 ID:c.gYySYfy6
次のお話が最後になります。
という訳で一度、流れをリセットするために書き込み。
設定上重くて暗い話ばかりでしたけれど、後味が悪いのは今回限りにして、最後くらいは少しでも希望が見えるといいですね。
もしかすると細切れになるかもしれませんが、どうか明日以降の更新にもお付き合いください。
240: 名無しさん@読者の声:2012/1/17(火) 22:43:30 ID:/0856AJwQo
まだまだ見ていたいけど、終わりも見たい。
なんだろうこの不思議な気持ちは…
とにかく支援!
241: ひととせ ◆EOQ3BRAmq.:2012/1/18(水) 17:48:17 ID:2ho66zkJlw
>>240
支援ありがとうございます(´∀`*)
何にせよもうすぐ終わりですから、見届けて貰えたら嬉しいです。
では少ないですが、今日の更新に。
242: ひととせ ◆EOQ3BRAmq.:2012/1/18(水) 17:49:23 ID:2ho66zkJlw
最後の文字を打ち終えると、結さんがぱちぱちと拍手を送ってくれた。
「お疲れ様」
「どうも」
「よくもまあ、あんなに溢れていた書類を……お見事だわ」
結さんが俺を労う。
俺は少しのわだかまりを感じながら、結さんに笑顔を向けた。
俺が言いつけられた仕事は、全て終わってしまった。
この場所に留まることのできる期間は、もう過ぎ去ったのだ。
243: ひととせ ◆EOQ3BRAmq.:2012/1/18(水) 17:50:01 ID:2ho66zkJlw
「さて、君が留まる理由はこれでなくなってしまった訳だけども」
結さんがてきぱきと話を進める。
「決まった?君の気持ちは」
「……、いいえ」
正直のところ、先になんて行きたくない。
まだここにいたかった。
でも、それが出来ないことも分かっていた。
「やっぱり、そうよねえ」
そうだと思った、と結さんが頷く。
まるで俺が駄々を捏ねているかのように思えて、俺は居心地が悪くてもぞもぞと座り直した。
244: ひととせ ◆EOQ3BRAmq.:2012/1/18(水) 17:51:06 ID:tbpDYj2bNQ
よし、と結さんが気合いを入れて立ち上がる。
何事かと思わず身を引く俺にも、結さんは席を立つよう促した。
「おいで、憩。話してごらん」
結さんがにこり、笑って応接室を指差す。
今まで色々な人が、迷い、悩み、事情を語って、次に進んできた場所だ。
俺は結さんを見る。
結さんは俺を見据えたまま、高らかに宣言した。
「君を繋ぎ留めているものを、私が取っ払ってあげる」
139.93 KBytes
[4]最25 [5]最50 [6]最75
[*]前20 [0]戻る [#]次20
【うpろだ】
【スレ機能】【顔文字】