「出来、たー……!」
オフィス用の椅子を限界まで倒してのけ反ると、背骨と腰の辺りからばきぼきと嫌な音が鳴った。
うん。リアルだ。
ひとりで納得しながら腕を伸ばしていると、窓口に立っていた結さんが振り返る。
「お疲れ様、今日のノルマは終わりよ」
「死んでるのにドライアイになりそうですよ」
「私だって死んでから書類仕事する羽目になるとは思わなかったわよ」
お腹は空かない、でも眠れる。
肉体はないはずなのに、仕事をすれば疲れるし、物に触れることもできる。
死後の世界というものは、全くおかしな場所だった。
212: ひととせ ◆EOQ3BRAmq.:2012/1/14(土) 22:49:03 ID:o7726pFAMk
「……現世で悪事を働いたら、それ相応の処罰があるわよ」
「上等です」
うわっこいつむかつく。
女性が馬鹿にしたように笑う。
俺はいつの間にか指で机を叩いていた。
「要するに犯罪をしなければいいんでしょう?」
「ええ、言ってしまえば。そして私にあなたの要求を断る権利はない」
結さんが静かに答えて、記入用紙を差し出す。
まさか大人しく許可してしまうのだろうか。
口を挟みたくなるのを抑えた俺の視線の先、女性は満足そうにペンを取った。
213: ひととせ ◆EOQ3BRAmq.:2012/1/14(土) 22:49:33 ID:o7726pFAMk
「ありがとうございます」
「いいえ」
ちらりと見えた結さんの横顔は、見事なまでに無表情だった。
記入のために俯く女性の、恐らくつむじの辺りを見つめながら結さんが口を開く。
「ひとつ言わせて」
何ですか、と女性が怪訝そうに顔を上げる。
結さんは静かに宣告した。
「あなたはきっと、何もできないわ」
俺は思わず息を呑む。
女性は大きく目を見開いていた。
214: ひととせ ◆EOQ3BRAmq.:2012/1/14(土) 22:50:00 ID:o7726pFAMk
「どうしてそんなことが、言えるんですか」
「どうしてもよ」
相変わらず平らな声の結さんが繰り返す。
「どれだけあちらに滞在しても、あなたは何もできない」
ただそうとだけ断言する結さんの言葉は、呪いのようにすら聞こえた。
女性が身を強張らせる。
俺は息を潜めて、その様子を見守っていた。
「どのくらい発行しましょうか」
「……、どのくらい、できますか」
「最大で一ヶ月」
じゃあそれで、と女性が言い捨てる。
結さんは淡々と最終確認を済ませると、判を押した。
215: ひととせ ◆EOQ3BRAmq.:2012/1/14(土) 22:50:31 ID:o7726pFAMk
「はい、どうぞ」
「どうも」
女性はやや警戒したように切符を受け取った。
結さんはにこりと営業用の笑顔をつくる。
「9番線だから、お気をつけて。何があっても必ず、期限内に戻ってきてね」
「戻らなかったら?」
「どうなるのか、私は知らない。でも期限を過ぎて再会した人はいないわ」
結さんが素っ気なく伝える。
女性は申し訳程度に礼をすると、知ったことかとでも言うように、大股で去って行った。
216: ひととせ ◆EOQ3BRAmq.:2012/1/15(日) 14:07:38 ID:tbpDYj2bNQ
「……いいんですか」
何が、とは言わない。
俺が椅子の上から背もたれを抱え込んで聞くと、結さんはまあね、と言葉を濁した。
「ぶっちゃけ賭けだわ」
「そんなの行かせたんですか」
「まあまあ、憩も読む?」
はぐらかされた返事に、渋々差し出された先程の女性の書類を受け取る。
整った美しい文字が、尾上葵、と彼女の名前を示していた。
「また随分と几帳面そうな」
「でしょ、これがまた偉い美人なのよ」
はー嫌んなっちゃう、と結さんは椅子のキャスターで俺の方に滑った。
217: ひととせ ◆EOQ3BRAmq.:2012/1/15(日) 14:08:39 ID:tbpDYj2bNQ
ふたりして書類を覗き込む。
尾上葵は確かに殺されたようだった。
「自宅のアパートに入ろうとしたところで、後ろから包丁で……」
「物騒ねえ」
結さんが眉をひそめる。
死因の備考欄にみっちりと書き込まれた状況には、尾上の恨みが詰まっているようで空恐ろしい。
俺は書類を机に置くと、椅子を回してすぐ横の結さんにくるりと向き直った。
「で、どうするんですか」
「どうも」
しれっと流した結さんに、俺は間抜けな声を上げた。
218: ひととせ ◆EOQ3BRAmq.:2012/1/15(日) 14:09:19 ID:2ho66zkJlw
「はぇ?」
「だってあの子行っちゃったもの、もう私達にできることないし」
「まあ、そうですけど」
いいのかそんなんで。
今頃現世で何をしているのか、俺は気が気でないのだが。
「……葵ちゃんはどうして、わざわざ私に向かって復讐を宣言したのかしらね」
あんなに冷たく接しておきながら、結さんは尾上を葵ちゃんと呼んだ。
俺はその真意を分からずに、はあ、と相槌を打った。
219: ひととせ ◆EOQ3BRAmq.:2012/1/15(日) 14:09:57 ID:2ho66zkJlw
「絶対に引き留められるって、分かっていたでしょうに敢えて言ったのよ」
結さんは椅子のままずるずると滑っていって、いつものクッションに手を伸ばした。
結さんは自分が分からないというよりも、俺を試しているように見えた。
尾上は、どうして結さんに告げたのか。
止められると分かっていたのに、何故。
俺は貧困な想像力をフル稼働させて考える。
「……決意を固めたかったか、復讐を止めさせてほしかった?」
弾き出した答えに、結さんは満足そうに口端を吊り上げた。
220: ひととせ ◆EOQ3BRAmq.:2012/1/15(日) 14:10:36 ID:2ho66zkJlw
制止を振り切って出てしまえば、もう後には引けない。
例え振り切れなくても、復讐をやめることができる。
「私はなんとなく、そう思ったの」
だって見るからに正義感強そうで真面目っぽいんだもの、と結さんが指を折る。
「絶対優等生タイプね、曲がったことが大嫌い」
「そんな妄想広げなくても……」
そう言いながらも、どこかでその推測に納得している自分がいた。
「何にせよ葵ちゃんは迷っているはずよ」
そして私は復讐できない方に賭けた、と結さんは言った。
221: ひととせ ◆EOQ3BRAmq.:2012/1/15(日) 14:11:08 ID:2ho66zkJlw
「そもそも幽霊よ、現世でできることなんて限られてる」
少なくとも物理的にどうこうするのは無理よね、と結さんが顎に手を当てた。
「呪ったりできないんですか」
「知ぃらない」
「知らないって」
「だってしたことなかったもの、呪う人なんていなかったし」
はっきりとそう言える結さんは、きっと生前幸せだったんだろう。
俺も試しはしなかったけれど、できるなら呪ってみたい人はひとりでなかった。
222: ひととせ ◆EOQ3BRAmq.:2012/1/15(日) 14:11:52 ID:2ho66zkJlw
「ともかく、待つしかないわ。でも二週間経たずに帰って来ちゃうかもね」
クッションを手にいれた結さんが、いつものようにそれを抱き込みながら結論付ける。
結局はそうなるのかと、俺は脱力して背もたれの上に顔をうずめた。
「ほら、そうと決まれば仕事仕事。私と違って憩はやることたくさんあるでしょ」
「ちょ、やめてください脛蹴ろうとするの」
「意外と素早いわね」
「舌打ちするし!」
一気にくだらない話題に戻ったことで、俺は仕方なくパソコンに向かい合う。
そして結さんの言う通り、その日は十日を過ぎた頃にやって来た。
223: ひととせ ◆EOQ3BRAmq.:2012/1/16(月) 23:10:18 ID:c.gYySYfy6
「あの……」
そう声をかけてきたのは、前よりも随分と大人しくなった尾上だった。
「はい、どうされましたか?」
来た、と思った。
ちょうど窓口に座った俺を、狙って訪れたようなタイミング。
確かに結さんには会いにくかったかもしれない。
俺がにこやかに対応すると、尾上は口早に告げた。
「現世から戻ってきたら、報告に行くのだと聞いたので」
「ありがとうございます、ですが……」
俺は結さんが休んでいる奥の方をちらと見やった。
224: ひととせ ◆EOQ3BRAmq.:2012/1/16(月) 23:10:57 ID:c.gYySYfy6
「……尾上さんは、奥にお通しするよう言われてますので」
「ええ?」
尾上がすっとんきょうな声を上げる。
きつい美人でも意外と可愛いじゃないかと不躾なことを考えながら、俺は涼しい顔で畳み掛けた。
「お時間はきっと大丈夫ですよね、お茶でもお出ししますから、お話を聞かせて頂きたいと上司が」
もちろん全部はったりだ。
ここでターゲットを逃したら後でどうなるかなど分かりきっている。
「そんな、勝手な」
225: ひととせ ◆EOQ3BRAmq.:2012/1/16(月) 23:11:37 ID:c.gYySYfy6
抗議する尾上をよそに、俺の肩にずっしりと重みが乗る。
「聞かせて貰えるわよね?」
尾上を遮って、楽しそうな声が響く。
いつの間にやら戻ってきた結さんが、俺の肩に腕をついて乱入してきたのだった。
「ぐっじょぶ憩」
「お誉めに預り光栄です」
俺もなかなか強かになったと内心苦笑するも、実際満更でもなかった。
「という訳で葵ちゃん」
尾上が逃げたそうに一歩足を引くが、結さんがそれを許すはずもなく。
「入り口開けるから、右から回ってちょうだい。逃げないでね」
賭けに勝った結さんは、うんざりするほど上機嫌だった。
226: ひととせ ◆EOQ3BRAmq.:2012/1/16(月) 23:12:09 ID:c.gYySYfy6
今更のことながら、結さんはコーヒーよりも断然紅茶派らしい。
しかも決まってミルクティ、砂糖もしっかり投入するというお子様味覚だ。
しかしながら、それしか飲めないという訳ではなくて、ブラックコーヒーでも実は余裕でいけるという。
要するに何が言いたいのかといえば、相手の希望によって飲み物を変えることも可能で。
結果俺は今、三人分のコーヒーを淹れるという、極めて珍しい状況に立たされていたのだった。
227: ひととせ ◆EOQ3BRAmq.:2012/1/16(月) 23:12:45 ID:c.gYySYfy6
「たまには良いものね」
目の前に置いたコーヒーを見て、結さんが目を和ませる。
久々に淹れたものだから上手くできているか心配だったが、それは杞憂に終わったらしい。
結さんは特に何かを言うこともなく、ず、とごく普通にそれを啜っていた。
「……ありがとう、ございます」
対する尾上は警戒心を剥き出しにしてカップを見つめていた。
顔と態度はきついのに、小動物を餌付けしているような気分になる。
尾上がようやくカップに手を伸ばしたのを見計らって、結さんが口を開いた。
228: ひととせ ◆EOQ3BRAmq.:2012/1/16(月) 23:13:22 ID:c.gYySYfy6
「それで、復讐は成功した?」
「ちょ、結さん」
単刀直入に尋ねる言葉に、慌てたのは俺だけで。
「あなたの言った通りでした」
尾上は力なく微笑んでカップを置いた。
かちゃ、と陶器の触れ合う音が、部屋の中に響く。
「結局何も、できなかった」
そう、俺のときと同じことを言う。
ただひとつ、彼女の方がずっと落ち着き払っていた。
229: ひととせ ◆EOQ3BRAmq.:2012/1/17(火) 21:28:41 ID:wKwNii9EEI
「私が殺されたとき、相手の顔は分からなかったんです」
尾上は語り出す。
「後ろから刺されて、確認する間もなく死んでしまいましたから。復讐は、犯人を見つけるところから始めるつもりでした」
「犯人は、見つかったのかしら」
結さんが先を促す。
尾上は自分を奮い立たせるようにコーヒーをもう一口飲み込むと、再び口を開いた。
「……知り合いの男の子でした。前に、家庭教師をしていた」
完全に予想外でしたと尾上は唇を噛む。
視線がカップの縁をなぞるように動いて、揺らいで、最終的には手元に落ちた。
230: ひととせ ◆EOQ3BRAmq.:2012/1/17(火) 21:29:37 ID:wKwNii9EEI
「だって悪質なストーカーか何かだと思ったから、復讐するって決めたんです。なのにこんな、最近も会っていないのに、仲も良くて、慕われていると思っていたのに……」
尾上はくしゃりと顔を歪めた。
信じてたのに、なんてお決まりの台詞が聞こえてくるようだった。
でも尾上は、それ以上嘆くのを恥じるかのように表情を引き締めて話を再開する。
「私はしばらくその子の家にいました。本人はいなかったけれど、何かできるんじゃないかって」
だって私は殺されたんですよ、と尾上が責めるように話す。
一体誰を責めているのかは、彼女にも分からないようだった。
231: ひととせ ◆EOQ3BRAmq.:2012/1/17(火) 21:30:27 ID:wKwNii9EEI
「でも、できなかったのね」
柔らかな結さんの声が、不意打ちのように尾上を抱きしめる。
尾上ははっとしたように結さんを見て、泣き出しそうな顔をしたかに見えたが、すぐにそれを振り払うように声を荒げた。
「――じゃあどうしろって言うんですか!家族は何も悪くないのに、あんなに苦しんでて、その上私に何をしろと!?」
尾上の喉がひくりと震える。
上手く吸えなかった息をもう一度吸おうとして、諦めたようにまた、無理矢理に言葉を放る。
「うちの母親はノイローゼで家族はバラバラ、毎日のようにその子のお母さんに電話して責めるんです」
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