「出来、たー……!」
オフィス用の椅子を限界まで倒してのけ反ると、背骨と腰の辺りからばきぼきと嫌な音が鳴った。
うん。リアルだ。
ひとりで納得しながら腕を伸ばしていると、窓口に立っていた結さんが振り返る。
「お疲れ様、今日のノルマは終わりよ」
「死んでるのにドライアイになりそうですよ」
「私だって死んでから書類仕事する羽目になるとは思わなかったわよ」
お腹は空かない、でも眠れる。
肉体はないはずなのに、仕事をすれば疲れるし、物に触れることもできる。
死後の世界というものは、全くおかしな場所だった。
202: ひととせ ◆EOQ3BRAmq.:2012/1/12(木) 13:41:21 ID:99nh8st8DU
「うわああああああああっ!!」
加奈が一際大きく叫ぶ。
俺はついに逃げ出した。
これ以上は耐えられそうになかった。
加奈の叫びが、泣き声が、耳について離れない。
会いに行かなくては、漠然とした思いに捕らわれて、必死で会いに来た。
でも会いに来たところで、俺は何をするつもりだったんだろう。
加奈のためにと会いに来て、その結果がこれだ。
あんな嘘つき、どうなったって。
その先は、絶対に聞きたくなかった。
203: ひととせ ◆EOQ3BRAmq.:2012/1/13(金) 08:45:26 ID:o7726pFAMk
脇目も振らず交差点に戻り、逃げるように電車に飛び込む。
電車の音と合わさって、がんがんと加奈の声が耳鳴りのように頭を揺らす。
何もできなかった。
冷たい窓に額を打ち付けて、俺はきつく拳を握る。
残してきた加奈に、何もしてやることができなかった。
受付の女性が言った、最後の言葉を思い出す。
「一度きりのチャンスよ、頑張って」
親に別れを告げることすらできなかった。
俺はそのチャンスを、自分で捨ててしまったのだ。
204: ひととせ ◆EOQ3BRAmq.:2012/1/13(金) 08:46:14 ID:o7726pFAMk
それから後は、成り行きだった。
結さんと出会い、何やかんやで案内事務所で働くことになる。
ずっと一緒にいる。
その約束が守れなかったからには、生まれ変わって会いに行くという約束まで破ってしまう訳にはいかなかった。
それが自己満足だということくらい分かっている。
しかも約束を守れるあてはない。
いっそ、いつか加奈が来るまでここで、と思ったこともあるが、それは結さんが許さないだろう。
書類の量は、初めて事務所に来たときよりも格段に減っていた。
この仕事が終わったとき、俺は一体どうすれば良いんだろう。
205: ひととせ ◆EOQ3BRAmq.:2012/1/13(金) 08:46:56 ID:o7726pFAMk
「いーこいっ」
「何ですかもう……」
結さんが後ろから、ごつ。と拳を乗せる。
背が縮むじゃないですか、と頭をぐりぐりと押してくるそれを払うと、結さんは意外と簡単に離れてくれた。
その代わりに。
「はい」
と、キーボードの脇にマグカップが置かれた。
「……はい?」
「いえす」
英訳すんな。
206: ひととせ ◆EOQ3BRAmq.:2012/1/13(金) 08:47:54 ID:tbpDYj2bNQ
「頑張ってお客さんの対応した中谷くんに美人女上司からご褒美です」
「なんか不可解な単語が混ざってますがありがとうございます」
言い方はともあれ、労ってくれているらしい。
一応礼を言って、結さん好みのミルクティと思われるものを口に含む。
瞬間、むせた。
「あっま!何ですかこれ!」
流石に吹きはしなかったけれど、思わず口を拭う。
驚いて結さんを見れば、ぐっと親指を突き立てられた。
207: ひととせ ◆EOQ3BRAmq.:2012/1/13(金) 08:48:34 ID:tbpDYj2bNQ
「お砂糖三個入れちゃいました。てへぺろ」
「何の嫌がらせですか……」
甘いものは嫌いではないけれど、固形物を苦い飲み物と一緒に、というのが俺の持論だ。
その原則を盛大に破った結さんは、俺の反応を見て暢気に笑っている。
「疲れたときには甘いものでしょ」
元気出せよ若者、と結さんは、俺の肩を叩いて窓口に戻って行った。
相変わらず若ぶりたいのか大人ぶりたいのか、よく分からない人である。
208: ひととせ ◆EOQ3BRAmq.:2012/1/13(金) 08:49:18 ID:tbpDYj2bNQ
「疲れたとき、ねえ……」
俺はもう一度ミルクティに口を付ける。
うんざりするくらいの甘さが、口中に広がった。
お婆さんの対応のことを言っているのか、それとも昔のことを思い出していたのを勘づかれたのか。
どちらにしても、気遣ってくれたことは素直に嬉しい。
甘すぎるミルクティを少しずつ飲みながら、じんわりと温もってゆく指先を擦り合わせる。
あとどのくらいこの場所にいられるのか、もう見当はついてしまうほどだけれど。
どうかもう少しこのままで、と俺は、加奈のためだけではなく願った。
209: ひととせ ◆EOQ3BRAmq.:2012/1/14(土) 22:46:54 ID:o7726pFAMk
「復讐をしたいんです」
その日窓口に訪れた女性は、ぎらぎらとした目でそう告げた。
「……まあ落ち着きましょう」
「私は落ち着いてます」
両手を上げて宥めようとする結さんを制して、女性が言う。
明らかに落ち着いていなかった。
「一応聞くけれど、それは現世の人かしら」
「はい」
結さんと同じくらいか、少し年下のようだった。
210: ひととせ ◆EOQ3BRAmq.:2012/1/14(土) 22:47:40 ID:o7726pFAMk
彼女の鋭い眼差しが、結さんを射抜く。
「私を殺した犯人に、復讐をしたいんです」
面倒な人が来た、と片付けることはできなかった。
それほどまでに彼女の気迫に圧されていた。
結さんも同じなのだろうか、いつもより若干腰が引けた様子で女性に提案する。
「ここで話すのも何だから、中で聞かせて貰えないかしら」
「必要ありません」
女性がばっさりと却下する。
俺は事務所の奥で、怖、と身を縮めた。
211: ひととせ ◆EOQ3BRAmq.:2012/1/14(土) 22:48:35 ID:o7726pFAMk
「聞きました、ここで現世に行くための手続きができると」
ええ、と結さんが不穏な声で肯定する。
この前の宮田のようなことになるのはごめんだと、俺はキィを打つ手を止めて、本格的に会話に耳を傾けた。
「それじゃあ私を現世に行かせてください。現世で何をするつもりだろうが、ここが拒むことはできないでしょう?」
傲慢な物言いに俺は眉をひそめた、
殺されたと言っていたが、そのせいで気が立っているのか、気の毒ではあれどあまり良い印象はない。
212: ひととせ ◆EOQ3BRAmq.:2012/1/14(土) 22:49:03 ID:o7726pFAMk
「……現世で悪事を働いたら、それ相応の処罰があるわよ」
「上等です」
うわっこいつむかつく。
女性が馬鹿にしたように笑う。
俺はいつの間にか指で机を叩いていた。
「要するに犯罪をしなければいいんでしょう?」
「ええ、言ってしまえば。そして私にあなたの要求を断る権利はない」
結さんが静かに答えて、記入用紙を差し出す。
まさか大人しく許可してしまうのだろうか。
口を挟みたくなるのを抑えた俺の視線の先、女性は満足そうにペンを取った。
213: ひととせ ◆EOQ3BRAmq.:2012/1/14(土) 22:49:33 ID:o7726pFAMk
「ありがとうございます」
「いいえ」
ちらりと見えた結さんの横顔は、見事なまでに無表情だった。
記入のために俯く女性の、恐らくつむじの辺りを見つめながら結さんが口を開く。
「ひとつ言わせて」
何ですか、と女性が怪訝そうに顔を上げる。
結さんは静かに宣告した。
「あなたはきっと、何もできないわ」
俺は思わず息を呑む。
女性は大きく目を見開いていた。
214: ひととせ ◆EOQ3BRAmq.:2012/1/14(土) 22:50:00 ID:o7726pFAMk
「どうしてそんなことが、言えるんですか」
「どうしてもよ」
相変わらず平らな声の結さんが繰り返す。
「どれだけあちらに滞在しても、あなたは何もできない」
ただそうとだけ断言する結さんの言葉は、呪いのようにすら聞こえた。
女性が身を強張らせる。
俺は息を潜めて、その様子を見守っていた。
「どのくらい発行しましょうか」
「……、どのくらい、できますか」
「最大で一ヶ月」
じゃあそれで、と女性が言い捨てる。
結さんは淡々と最終確認を済ませると、判を押した。
215: ひととせ ◆EOQ3BRAmq.:2012/1/14(土) 22:50:31 ID:o7726pFAMk
「はい、どうぞ」
「どうも」
女性はやや警戒したように切符を受け取った。
結さんはにこりと営業用の笑顔をつくる。
「9番線だから、お気をつけて。何があっても必ず、期限内に戻ってきてね」
「戻らなかったら?」
「どうなるのか、私は知らない。でも期限を過ぎて再会した人はいないわ」
結さんが素っ気なく伝える。
女性は申し訳程度に礼をすると、知ったことかとでも言うように、大股で去って行った。
216: ひととせ ◆EOQ3BRAmq.:2012/1/15(日) 14:07:38 ID:tbpDYj2bNQ
「……いいんですか」
何が、とは言わない。
俺が椅子の上から背もたれを抱え込んで聞くと、結さんはまあね、と言葉を濁した。
「ぶっちゃけ賭けだわ」
「そんなの行かせたんですか」
「まあまあ、憩も読む?」
はぐらかされた返事に、渋々差し出された先程の女性の書類を受け取る。
整った美しい文字が、尾上葵、と彼女の名前を示していた。
「また随分と几帳面そうな」
「でしょ、これがまた偉い美人なのよ」
はー嫌んなっちゃう、と結さんは椅子のキャスターで俺の方に滑った。
217: ひととせ ◆EOQ3BRAmq.:2012/1/15(日) 14:08:39 ID:tbpDYj2bNQ
ふたりして書類を覗き込む。
尾上葵は確かに殺されたようだった。
「自宅のアパートに入ろうとしたところで、後ろから包丁で……」
「物騒ねえ」
結さんが眉をひそめる。
死因の備考欄にみっちりと書き込まれた状況には、尾上の恨みが詰まっているようで空恐ろしい。
俺は書類を机に置くと、椅子を回してすぐ横の結さんにくるりと向き直った。
「で、どうするんですか」
「どうも」
しれっと流した結さんに、俺は間抜けな声を上げた。
218: ひととせ ◆EOQ3BRAmq.:2012/1/15(日) 14:09:19 ID:2ho66zkJlw
「はぇ?」
「だってあの子行っちゃったもの、もう私達にできることないし」
「まあ、そうですけど」
いいのかそんなんで。
今頃現世で何をしているのか、俺は気が気でないのだが。
「……葵ちゃんはどうして、わざわざ私に向かって復讐を宣言したのかしらね」
あんなに冷たく接しておきながら、結さんは尾上を葵ちゃんと呼んだ。
俺はその真意を分からずに、はあ、と相槌を打った。
219: ひととせ ◆EOQ3BRAmq.:2012/1/15(日) 14:09:57 ID:2ho66zkJlw
「絶対に引き留められるって、分かっていたでしょうに敢えて言ったのよ」
結さんは椅子のままずるずると滑っていって、いつものクッションに手を伸ばした。
結さんは自分が分からないというよりも、俺を試しているように見えた。
尾上は、どうして結さんに告げたのか。
止められると分かっていたのに、何故。
俺は貧困な想像力をフル稼働させて考える。
「……決意を固めたかったか、復讐を止めさせてほしかった?」
弾き出した答えに、結さんは満足そうに口端を吊り上げた。
220: ひととせ ◆EOQ3BRAmq.:2012/1/15(日) 14:10:36 ID:2ho66zkJlw
制止を振り切って出てしまえば、もう後には引けない。
例え振り切れなくても、復讐をやめることができる。
「私はなんとなく、そう思ったの」
だって見るからに正義感強そうで真面目っぽいんだもの、と結さんが指を折る。
「絶対優等生タイプね、曲がったことが大嫌い」
「そんな妄想広げなくても……」
そう言いながらも、どこかでその推測に納得している自分がいた。
「何にせよ葵ちゃんは迷っているはずよ」
そして私は復讐できない方に賭けた、と結さんは言った。
221: ひととせ ◆EOQ3BRAmq.:2012/1/15(日) 14:11:08 ID:2ho66zkJlw
「そもそも幽霊よ、現世でできることなんて限られてる」
少なくとも物理的にどうこうするのは無理よね、と結さんが顎に手を当てた。
「呪ったりできないんですか」
「知ぃらない」
「知らないって」
「だってしたことなかったもの、呪う人なんていなかったし」
はっきりとそう言える結さんは、きっと生前幸せだったんだろう。
俺も試しはしなかったけれど、できるなら呪ってみたい人はひとりでなかった。
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