「出来、たー……!」
オフィス用の椅子を限界まで倒してのけ反ると、背骨と腰の辺りからばきぼきと嫌な音が鳴った。
うん。リアルだ。
ひとりで納得しながら腕を伸ばしていると、窓口に立っていた結さんが振り返る。
「お疲れ様、今日のノルマは終わりよ」
「死んでるのにドライアイになりそうですよ」
「私だって死んでから書類仕事する羽目になるとは思わなかったわよ」
お腹は空かない、でも眠れる。
肉体はないはずなのに、仕事をすれば疲れるし、物に触れることもできる。
死後の世界というものは、全くおかしな場所だった。
194: ひととせ ◆EOQ3BRAmq.:2012/1/11(水) 17:25:51 ID:RGDdi1MlWM
「嘘だもん」
「嘘なんかじゃない」
真剣に言ったんだけど、となるべく冷静に言うように努める。
そのせいで、酷く冷え切った声が出てしまったのを感じた。
「そんなすぐに死んだりしないし、もし死んだとしても、お望みだったら幽霊になってでも傍に来てやる」
まるで喧嘩を売っているみたいだ、と自嘲しながら続ける。
「それが無理でも、俺は」
加奈が息を呑む。
俺は加奈をまっすぐに見つめて言い切った。
「何度でも生まれ変わって、君に会いに行くよ」
195: ひととせ ◆EOQ3BRAmq.:2012/1/11(水) 17:26:40 ID:RGDdi1MlWM
加奈は何も言わない。
俺は口を閉じた。
握ったままの手首に、知らず、力が籠る。
やがて加奈が、痛い、と小さく呟いた。
「ごめん」
俺はそっと手を離す。
加奈は赤くなってしまった手首を、愛おしそうに指先でなぞった。
「……熱烈な告白を、どーも」
ふ、と笑って加奈が空気を緩める。
「どういたしまして」
俺は苦笑すると、大人しくなった加奈の肩をそっと抱き寄せた。
196: ひととせ ◆EOQ3BRAmq.:2012/1/11(水) 17:27:25 ID:RGDdi1MlWM
加奈が俺に依存するようになったのは、それからだった。
健全だった付き合いは一気に不健全になり、俺が少し他の人と会うことも嫌がるようになった。
確かめるように触れて、問い掛けて、答えを聞いては安心したように目を閉じ、それでもまた、数分後には同じことを繰り返す。
俺が大学に入ってから加奈は、ますますそれを悪化させた。
部屋を出ようとする俺を、嘘つきと泣いて引き留める始末。
そのことを話した友人は、めんどくせえな、と呆れていた。
でも俺には、そんな風に切り捨てることはできなかった。
197: ひととせ ◆EOQ3BRAmq.:2012/1/12(木) 13:37:36 ID:ogjb0kC5Sw
だから俺が死んだときに、真っ先に思ったのは加奈のことだった。
片っ端から傍にいた人に尋ねて、総合案内事務所に辿り着いて、すぐに電車に飛び乗った。
死に場所に着くという電車を下りて、焦燥を抑えながら辺りを見回す。
辺りはすっかり昼間だった。
事故に遭った交差点は、まだ花こそ供えられていなかったけれど自転車もトラックもなくて、片付けも進んでいるようだ。
足下を見ると、洗い流されてもなお、血の跡がうっすらと残っている。
加奈の誕生日は、完全に過ぎてしまっていた。
198: ひととせ ◆EOQ3BRAmq.:2012/1/12(木) 13:38:59 ID:99nh8st8DU
必死で加奈の家に向かう。
走って、走って、加奈が家にいるのかなんて考えも及ばずに、とにかく急いで行った。
俺は所謂幽霊というものだったんだろうけれど、どうして足があるのか、何で息が切れるのか、気にする余裕もなかった。
自転車はなくても、あのときよりも気持ちは駆ける。
漸く辿り着いて、開いていた出窓から家に入る。
もしかしたら壁をすり抜けられたのかもしれないが、試す気は起きなかった。
きっと隠れる必要もないだろうに、妙にこそこそとしながら家に加奈の部屋の前に立つと、微かに彼女の嗚咽が聞こえてきた。
199: ひととせ ◆EOQ3BRAmq.:2012/1/12(木) 13:39:34 ID:99nh8st8DU
「どうして、っ……!」
嗄れた声、もう連絡は行っていたらしい。
がす、と鈍い音が響く。
加奈が癇癪を起こすと枕に当たることを、俺は嫌というほど知っていた。
「誕生日、祝ってくれるって言ったのに。来てくれるって、約束したのに」
扉の向こうからは、すすり泣きの合間に涙声が聞こえる。
俺はドアノブに手を触れようとして、でも触れられなかったらと思うとつい躊躇って、そのまま手を握った。
200: ひととせ ◆EOQ3BRAmq.:2012/1/12(木) 13:40:13 ID:99nh8st8DU
「ずっと一緒って、絶対、すぐ死んだりしないって」
憩、憩と加奈が俺の名前を呼ぶ。
がん、とさっきよりも硬い音がして、ああ彼女は素手で何かを殴ったのだろうと、どこか他人事のように思った。
「嘘つき」
加奈がいつもの言葉で詰った。
がん、ともう一度、硬い音。
「嘘つき、嘘つき嘘つき嘘つき嘘つき」
憩の嘘つき。
加奈は、憎々しげにそう、吐き捨てた。
201: ひととせ ◆EOQ3BRAmq.:2012/1/12(木) 13:40:53 ID:99nh8st8DU
「結局何も、本当のことなんて……っ!」
嘘つき、と加奈はまた繰り返す。
小声だった呟きは、今はもう叫ぶようで廊下にまで響いている。
ひっきりなしに何かを殴る音もまだ続いていて、拳に血が滲む様子が目に浮かんだ。
加奈の慟哭はまだ続く。
付き合う前から、ずっと今まで、嘘ついてばっか、憩なんて、あんな奴、あんなやつ。
「あんな嘘つき、どうなったって……!」
202: ひととせ ◆EOQ3BRAmq.:2012/1/12(木) 13:41:21 ID:99nh8st8DU
「うわああああああああっ!!」
加奈が一際大きく叫ぶ。
俺はついに逃げ出した。
これ以上は耐えられそうになかった。
加奈の叫びが、泣き声が、耳について離れない。
会いに行かなくては、漠然とした思いに捕らわれて、必死で会いに来た。
でも会いに来たところで、俺は何をするつもりだったんだろう。
加奈のためにと会いに来て、その結果がこれだ。
あんな嘘つき、どうなったって。
その先は、絶対に聞きたくなかった。
203: ひととせ ◆EOQ3BRAmq.:2012/1/13(金) 08:45:26 ID:o7726pFAMk
脇目も振らず交差点に戻り、逃げるように電車に飛び込む。
電車の音と合わさって、がんがんと加奈の声が耳鳴りのように頭を揺らす。
何もできなかった。
冷たい窓に額を打ち付けて、俺はきつく拳を握る。
残してきた加奈に、何もしてやることができなかった。
受付の女性が言った、最後の言葉を思い出す。
「一度きりのチャンスよ、頑張って」
親に別れを告げることすらできなかった。
俺はそのチャンスを、自分で捨ててしまったのだ。
204: ひととせ ◆EOQ3BRAmq.:2012/1/13(金) 08:46:14 ID:o7726pFAMk
それから後は、成り行きだった。
結さんと出会い、何やかんやで案内事務所で働くことになる。
ずっと一緒にいる。
その約束が守れなかったからには、生まれ変わって会いに行くという約束まで破ってしまう訳にはいかなかった。
それが自己満足だということくらい分かっている。
しかも約束を守れるあてはない。
いっそ、いつか加奈が来るまでここで、と思ったこともあるが、それは結さんが許さないだろう。
書類の量は、初めて事務所に来たときよりも格段に減っていた。
この仕事が終わったとき、俺は一体どうすれば良いんだろう。
205: ひととせ ◆EOQ3BRAmq.:2012/1/13(金) 08:46:56 ID:o7726pFAMk
「いーこいっ」
「何ですかもう……」
結さんが後ろから、ごつ。と拳を乗せる。
背が縮むじゃないですか、と頭をぐりぐりと押してくるそれを払うと、結さんは意外と簡単に離れてくれた。
その代わりに。
「はい」
と、キーボードの脇にマグカップが置かれた。
「……はい?」
「いえす」
英訳すんな。
206: ひととせ ◆EOQ3BRAmq.:2012/1/13(金) 08:47:54 ID:tbpDYj2bNQ
「頑張ってお客さんの対応した中谷くんに美人女上司からご褒美です」
「なんか不可解な単語が混ざってますがありがとうございます」
言い方はともあれ、労ってくれているらしい。
一応礼を言って、結さん好みのミルクティと思われるものを口に含む。
瞬間、むせた。
「あっま!何ですかこれ!」
流石に吹きはしなかったけれど、思わず口を拭う。
驚いて結さんを見れば、ぐっと親指を突き立てられた。
207: ひととせ ◆EOQ3BRAmq.:2012/1/13(金) 08:48:34 ID:tbpDYj2bNQ
「お砂糖三個入れちゃいました。てへぺろ」
「何の嫌がらせですか……」
甘いものは嫌いではないけれど、固形物を苦い飲み物と一緒に、というのが俺の持論だ。
その原則を盛大に破った結さんは、俺の反応を見て暢気に笑っている。
「疲れたときには甘いものでしょ」
元気出せよ若者、と結さんは、俺の肩を叩いて窓口に戻って行った。
相変わらず若ぶりたいのか大人ぶりたいのか、よく分からない人である。
208: ひととせ ◆EOQ3BRAmq.:2012/1/13(金) 08:49:18 ID:tbpDYj2bNQ
「疲れたとき、ねえ……」
俺はもう一度ミルクティに口を付ける。
うんざりするくらいの甘さが、口中に広がった。
お婆さんの対応のことを言っているのか、それとも昔のことを思い出していたのを勘づかれたのか。
どちらにしても、気遣ってくれたことは素直に嬉しい。
甘すぎるミルクティを少しずつ飲みながら、じんわりと温もってゆく指先を擦り合わせる。
あとどのくらいこの場所にいられるのか、もう見当はついてしまうほどだけれど。
どうかもう少しこのままで、と俺は、加奈のためだけではなく願った。
209: ひととせ ◆EOQ3BRAmq.:2012/1/14(土) 22:46:54 ID:o7726pFAMk
「復讐をしたいんです」
その日窓口に訪れた女性は、ぎらぎらとした目でそう告げた。
「……まあ落ち着きましょう」
「私は落ち着いてます」
両手を上げて宥めようとする結さんを制して、女性が言う。
明らかに落ち着いていなかった。
「一応聞くけれど、それは現世の人かしら」
「はい」
結さんと同じくらいか、少し年下のようだった。
210: ひととせ ◆EOQ3BRAmq.:2012/1/14(土) 22:47:40 ID:o7726pFAMk
彼女の鋭い眼差しが、結さんを射抜く。
「私を殺した犯人に、復讐をしたいんです」
面倒な人が来た、と片付けることはできなかった。
それほどまでに彼女の気迫に圧されていた。
結さんも同じなのだろうか、いつもより若干腰が引けた様子で女性に提案する。
「ここで話すのも何だから、中で聞かせて貰えないかしら」
「必要ありません」
女性がばっさりと却下する。
俺は事務所の奥で、怖、と身を縮めた。
211: ひととせ ◆EOQ3BRAmq.:2012/1/14(土) 22:48:35 ID:o7726pFAMk
「聞きました、ここで現世に行くための手続きができると」
ええ、と結さんが不穏な声で肯定する。
この前の宮田のようなことになるのはごめんだと、俺はキィを打つ手を止めて、本格的に会話に耳を傾けた。
「それじゃあ私を現世に行かせてください。現世で何をするつもりだろうが、ここが拒むことはできないでしょう?」
傲慢な物言いに俺は眉をひそめた、
殺されたと言っていたが、そのせいで気が立っているのか、気の毒ではあれどあまり良い印象はない。
212: ひととせ ◆EOQ3BRAmq.:2012/1/14(土) 22:49:03 ID:o7726pFAMk
「……現世で悪事を働いたら、それ相応の処罰があるわよ」
「上等です」
うわっこいつむかつく。
女性が馬鹿にしたように笑う。
俺はいつの間にか指で机を叩いていた。
「要するに犯罪をしなければいいんでしょう?」
「ええ、言ってしまえば。そして私にあなたの要求を断る権利はない」
結さんが静かに答えて、記入用紙を差し出す。
まさか大人しく許可してしまうのだろうか。
口を挟みたくなるのを抑えた俺の視線の先、女性は満足そうにペンを取った。
213: ひととせ ◆EOQ3BRAmq.:2012/1/14(土) 22:49:33 ID:o7726pFAMk
「ありがとうございます」
「いいえ」
ちらりと見えた結さんの横顔は、見事なまでに無表情だった。
記入のために俯く女性の、恐らくつむじの辺りを見つめながら結さんが口を開く。
「ひとつ言わせて」
何ですか、と女性が怪訝そうに顔を上げる。
結さんは静かに宣告した。
「あなたはきっと、何もできないわ」
俺は思わず息を呑む。
女性は大きく目を見開いていた。
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