「出来、たー……!」
オフィス用の椅子を限界まで倒してのけ反ると、背骨と腰の辺りからばきぼきと嫌な音が鳴った。
うん。リアルだ。
ひとりで納得しながら腕を伸ばしていると、窓口に立っていた結さんが振り返る。
「お疲れ様、今日のノルマは終わりよ」
「死んでるのにドライアイになりそうですよ」
「私だって死んでから書類仕事する羽目になるとは思わなかったわよ」
お腹は空かない、でも眠れる。
肉体はないはずなのに、仕事をすれば疲れるし、物に触れることもできる。
死後の世界というものは、全くおかしな場所だった。
183: ひととせ ◆EOQ3BRAmq.:2012/1/10(火) 15:16:43 ID:V5t1TG2Qic
「嘘つき、もう知らない、嫌いになっちゃうんだから」
「それはまた随分と簡単に」
「追い付かないでよ!」
からからと車輪の音をさせながら隣に行くと、加奈はぷりぷりと怒って引き離そうとする。
そもそもの歩幅が違うというのに無駄な攻防戦を繰り広げながら、俺達はいつの間にか加奈の家に着いていた。
「上がってく?」
と、加奈が鍵を開けながら聞く。
「うん」
先程のじゃれ合いも忘れて上げる気満々の加奈に、俺は口を緩めた。
184: ひととせ ◆EOQ3BRAmq.:2012/1/10(火) 15:17:51 ID:V5t1TG2Qic
平屋建てのこの木造住宅に、彼女は祖父とふたりきりで住んでいる。
玄関で早々にローファーを脱ぎ捨てる加奈に続いて、俺はお邪魔しますと言って扉をくぐった。
「おう、憩じゃねえか。また来たか」
「正造さん。こんにちは」
物音を聞きつけてか、家の奥から出てきた加奈の祖父に俺は頭を下げた。
「また居間か?麦茶くらいなら出してやるよ」
「じいちゃん、あの羊羮は?」
「ありゃ俺んだ、煎餅でも食っとけ」
「けち」
185: ひととせ ◆EOQ3BRAmq.:2012/1/10(火) 15:18:44 ID:V5t1TG2Qic
正造さんははっきりとした人だった。
ちゃきちゃきと早口で喋り、孫娘にも容赦がない。
一見近寄りがたい気もするが、はっきりとした物言いが俺は好きだった。
「丁度良いや、囲碁でも相手してくれ。加奈じゃ相手にならん」
「何それ私が弱いって言うの?」
「弱いだろーが。一度でも俺に勝ったことがあっか」
反論できずにぐっと黙り込む加奈に噴き出すと足を蹴られた。
なかなかバイオレンスな彼女である。
186: ひととせ ◆EOQ3BRAmq.:2012/1/10(火) 15:20:23 ID:VMnJaffQ7E
いつものように加奈を送り、家に遊びに行って、正造さんと三人で喋ってから、暗くならないうちに帰る。
今時の高校生とは思えないくらいに、清いお付き合いだった。
少し足を伸ばせば映画館も、繁華街やゲームセンターもあったのに、数回行っただけでやめてしまった。
でもそれを物足りないとか、満たされない風に思ったことはなくて。
時折思い出したように恋人らしいことをしてみることはあれど、どちらかと言えば家族のような存在だったと思う。
幸せだった。
それは多分加奈も、きっと正造さんも。
その幸せが崩れ落ちたのは、高校三年生の夏のことだった。
187: 名無しさん@読者の声:2012/1/10(火) 21:38:55 ID:T2kk9rvpGo
支援
もう折り返しなのかと思うと少し切ない
188: ひととせ ◆EOQ3BRAmq.:2012/1/11(水) 17:18:58 ID:VMnJaffQ7E
>>187
支援ありがとうございます(´ω`*)
寂しがって頂けて、すごく嬉しい。
でもまだ続きますから、よろしくお願いしますね。
189: ひととせ ◆EOQ3BRAmq.:2012/1/11(水) 17:21:22 ID:c.gYySYfy6
正造さんが亡くなった。
高血圧が原因の、何かの病気だったと思う。
突然のことで加奈の家は大騒ぎ、納棺やら葬式やらで加奈も暫く慌ただしくしていた。
「大丈夫?」
そう一度、その慌ただしかった頃に、そう尋ねたことがある。
「大丈夫、」
加奈は疲れきった笑顔で返した。
普段の加奈なら、だいじょばない、と言って愚痴り始めただろうに。
そう思ったけれど、無理をするなと言うことくらいしか、俺にはできなかった。
190: ひととせ ◆EOQ3BRAmq.:2012/1/11(水) 17:22:28 ID:YMPC7wApis
加奈は叔父夫婦のところに引き取られることになった。
独り暮らしをするという主張は、物騒だとの理由で却下された。
両親のところで暮らすという選択肢は、最初からなかったらしい。
彼女は昔虐待を受けていたのだと、遠い親戚だと言うおばさんに初めて聞いた。
「ねえ、憩」
加奈がどこを見つめるともなく俺に語りかけたのは、周りのことが落ち着いて暫く経った頃だ。
「死んじゃったら、もう、それでお終いだよね」
191: ひととせ ◆EOQ3BRAmq.:2012/1/11(水) 17:23:16 ID:YMPC7wApis
加奈の呟きに、俺は返す言葉に迷った。
彼女が何を言わんとしているのか、はかりかねていた。
「毎日頑張って、生きて、それで?」
「どういう、意味」
「死んだら全部、そこで打ち切り」
なんにもならない、と加奈は言う。
加奈の手元には、埃を被った囲碁盤があった。
「そんなことはないよ」
哲学的な話題は分からない。
ただ悲観的なことを言ってほしくなくて、俺はやんわりと否定した。
192: ひととせ ◆EOQ3BRAmq.:2012/1/11(水) 17:24:04 ID:YMPC7wApis
「嘘つき」
加奈が言う。
俺を詰るときの口癖が、いつもよりも静かに響いた。
「嘘つき、なんにも考えてないくせに」
憩だっていつか死んじゃうんだよ、と加奈は続けた。
何も考えていないことは図星だったので、仕方なく押し黙る。
「どれだけ一緒にいても、死んだら終わり。絶対に、私か憩のどっちかが先に死ぬ」
そんな先のことを言われても、と俺は困惑した。
加奈は完全に思い詰めているようだった。
193: ひととせ ◆EOQ3BRAmq.:2012/1/11(水) 17:25:01 ID:RGDdi1MlWM
「……加奈、君さ、疲れてるんだよ。考えるのやめて、休んだほうがいい」
俺は怒られるのを承知で加奈の手を引いた。
元々細かった手首は、ここ最近の出来事でさらに痩せたように思えた。
「憩は分からないからそう言えるんだよ」
加奈は俺を睨み上げる。
「ずっと一緒にいるとか言って、そんなことは結局嘘になるんでしょう」
「いるよ。ずっと」
俺は思わず言い返した。
他はどうあれ、そこを否定されるのは心外だった。
194: ひととせ ◆EOQ3BRAmq.:2012/1/11(水) 17:25:51 ID:RGDdi1MlWM
「嘘だもん」
「嘘なんかじゃない」
真剣に言ったんだけど、となるべく冷静に言うように努める。
そのせいで、酷く冷え切った声が出てしまったのを感じた。
「そんなすぐに死んだりしないし、もし死んだとしても、お望みだったら幽霊になってでも傍に来てやる」
まるで喧嘩を売っているみたいだ、と自嘲しながら続ける。
「それが無理でも、俺は」
加奈が息を呑む。
俺は加奈をまっすぐに見つめて言い切った。
「何度でも生まれ変わって、君に会いに行くよ」
195: ひととせ ◆EOQ3BRAmq.:2012/1/11(水) 17:26:40 ID:RGDdi1MlWM
加奈は何も言わない。
俺は口を閉じた。
握ったままの手首に、知らず、力が籠る。
やがて加奈が、痛い、と小さく呟いた。
「ごめん」
俺はそっと手を離す。
加奈は赤くなってしまった手首を、愛おしそうに指先でなぞった。
「……熱烈な告白を、どーも」
ふ、と笑って加奈が空気を緩める。
「どういたしまして」
俺は苦笑すると、大人しくなった加奈の肩をそっと抱き寄せた。
196: ひととせ ◆EOQ3BRAmq.:2012/1/11(水) 17:27:25 ID:RGDdi1MlWM
加奈が俺に依存するようになったのは、それからだった。
健全だった付き合いは一気に不健全になり、俺が少し他の人と会うことも嫌がるようになった。
確かめるように触れて、問い掛けて、答えを聞いては安心したように目を閉じ、それでもまた、数分後には同じことを繰り返す。
俺が大学に入ってから加奈は、ますますそれを悪化させた。
部屋を出ようとする俺を、嘘つきと泣いて引き留める始末。
そのことを話した友人は、めんどくせえな、と呆れていた。
でも俺には、そんな風に切り捨てることはできなかった。
197: ひととせ ◆EOQ3BRAmq.:2012/1/12(木) 13:37:36 ID:ogjb0kC5Sw
だから俺が死んだときに、真っ先に思ったのは加奈のことだった。
片っ端から傍にいた人に尋ねて、総合案内事務所に辿り着いて、すぐに電車に飛び乗った。
死に場所に着くという電車を下りて、焦燥を抑えながら辺りを見回す。
辺りはすっかり昼間だった。
事故に遭った交差点は、まだ花こそ供えられていなかったけれど自転車もトラックもなくて、片付けも進んでいるようだ。
足下を見ると、洗い流されてもなお、血の跡がうっすらと残っている。
加奈の誕生日は、完全に過ぎてしまっていた。
198: ひととせ ◆EOQ3BRAmq.:2012/1/12(木) 13:38:59 ID:99nh8st8DU
必死で加奈の家に向かう。
走って、走って、加奈が家にいるのかなんて考えも及ばずに、とにかく急いで行った。
俺は所謂幽霊というものだったんだろうけれど、どうして足があるのか、何で息が切れるのか、気にする余裕もなかった。
自転車はなくても、あのときよりも気持ちは駆ける。
漸く辿り着いて、開いていた出窓から家に入る。
もしかしたら壁をすり抜けられたのかもしれないが、試す気は起きなかった。
きっと隠れる必要もないだろうに、妙にこそこそとしながら家に加奈の部屋の前に立つと、微かに彼女の嗚咽が聞こえてきた。
199: ひととせ ◆EOQ3BRAmq.:2012/1/12(木) 13:39:34 ID:99nh8st8DU
「どうして、っ……!」
嗄れた声、もう連絡は行っていたらしい。
がす、と鈍い音が響く。
加奈が癇癪を起こすと枕に当たることを、俺は嫌というほど知っていた。
「誕生日、祝ってくれるって言ったのに。来てくれるって、約束したのに」
扉の向こうからは、すすり泣きの合間に涙声が聞こえる。
俺はドアノブに手を触れようとして、でも触れられなかったらと思うとつい躊躇って、そのまま手を握った。
200: ひととせ ◆EOQ3BRAmq.:2012/1/12(木) 13:40:13 ID:99nh8st8DU
「ずっと一緒って、絶対、すぐ死んだりしないって」
憩、憩と加奈が俺の名前を呼ぶ。
がん、とさっきよりも硬い音がして、ああ彼女は素手で何かを殴ったのだろうと、どこか他人事のように思った。
「嘘つき」
加奈がいつもの言葉で詰った。
がん、ともう一度、硬い音。
「嘘つき、嘘つき嘘つき嘘つき嘘つき」
憩の嘘つき。
加奈は、憎々しげにそう、吐き捨てた。
201: ひととせ ◆EOQ3BRAmq.:2012/1/12(木) 13:40:53 ID:99nh8st8DU
「結局何も、本当のことなんて……っ!」
嘘つき、と加奈はまた繰り返す。
小声だった呟きは、今はもう叫ぶようで廊下にまで響いている。
ひっきりなしに何かを殴る音もまだ続いていて、拳に血が滲む様子が目に浮かんだ。
加奈の慟哭はまだ続く。
付き合う前から、ずっと今まで、嘘ついてばっか、憩なんて、あんな奴、あんなやつ。
「あんな嘘つき、どうなったって……!」
202: ひととせ ◆EOQ3BRAmq.:2012/1/12(木) 13:41:21 ID:99nh8st8DU
「うわああああああああっ!!」
加奈が一際大きく叫ぶ。
俺はついに逃げ出した。
これ以上は耐えられそうになかった。
加奈の叫びが、泣き声が、耳について離れない。
会いに行かなくては、漠然とした思いに捕らわれて、必死で会いに来た。
でも会いに来たところで、俺は何をするつもりだったんだろう。
加奈のためにと会いに来て、その結果がこれだ。
あんな嘘つき、どうなったって。
その先は、絶対に聞きたくなかった。
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