「出来、たー……!」
オフィス用の椅子を限界まで倒してのけ反ると、背骨と腰の辺りからばきぼきと嫌な音が鳴った。
うん。リアルだ。
ひとりで納得しながら腕を伸ばしていると、窓口に立っていた結さんが振り返る。
「お疲れ様、今日のノルマは終わりよ」
「死んでるのにドライアイになりそうですよ」
「私だって死んでから書類仕事する羽目になるとは思わなかったわよ」
お腹は空かない、でも眠れる。
肉体はないはずなのに、仕事をすれば疲れるし、物に触れることもできる。
死後の世界というものは、全くおかしな場所だった。
133: ひととせ ◆EOQ3BRAmq.:2012/1/1(日) 13:09:55 ID:tbpDYj2bNQ
結さんが自分を落ち着かせるように眉間を揉みほぐす。
俺も気持ちを鎮めようと一度深呼吸をして、それから結さんに向き直った。
「どうするんですか、あれ」
あれとは言わずもがなの男性のことである。
俺が投げ掛けると、結さんは小さく唸って腕を組んだ。
「やっぱり君が追いかけてくれないかしら。私が行っても刺激するだけだわ」
「懲らしめるんですか」
「いいえ、話を聞いてあげて」
結さんが静かに視線を上げる。
134: ひととせ ◆EOQ3BRAmq.:2012/1/1(日) 13:10:33 ID:tbpDYj2bNQ
「あの人少し、手を上げたことに戸惑っていたわ。きっと本意じゃなかったのよ」
本来悪い人間ではないはずだと、結さんは言い切った。
俺はそこまでお人好しな考えになれない。
でも、困惑したように拳を見つめたあの表情は、悪人には見えなかった。
「宮田敏明、五十六歳。それがあの人についての、情報の全てよ」
記入もしてくれないんだもの、と結さんが書類を持ち上げる。
俺はひとつ頷くと、行ってきますと言って案内事務所を後にした。
135: ひととせ ◆EOQ3BRAmq.:2012/1/2(月) 13:34:02 ID:99nh8st8DU
逃げるといっても駅構内のことである。
宮田の居場所は簡単に見つかった。
「宮田さん」
改札前の待合スペース、そこの長椅子に項垂れて座る宮田を視界に捉えて俺は歩み寄る。
宮田は俺の姿を認めるとぎょっとしたように腰を浮かせたが、少し迷って留まることにしたようだった。
「君は、さっきの」
「先程は上司が失礼しました」
自分で言っておきながら、その言葉がむず痒くて顔がひきつる。
136: ひととせ ◆EOQ3BRAmq.:2012/1/2(月) 13:34:40 ID:99nh8st8DU
人の言動にうるさそうな宮田に、俺まで面倒な小言を言われないか。
警戒しながら頭を下げると、やはり宮田も慎重にこちらを窺っているようだった。
「どうして追いかけてきたんだ。俺にまだ何か用か」
まだ信じていないのだろうか。
胡散臭い書類にサインなどしないぞ、と続ける宮田に、溜め息をつきたいのを堪えて。
「それもありますが、自分はお話を聞かせて頂きたくて伺いました」
俺は努めて冷静に話すよう心掛けた。
そうでもしないと横柄な態度を、すぐにでも見限ってしまいたくなった。
137: ひととせ ◆EOQ3BRAmq.:2012/1/2(月) 13:35:18 ID:99nh8st8DU
結さんの言葉だけを頼りに、俺は慎重に言葉を選ぶ。
「何かお悩みの、ようでしたから」
宮田はまだ俺を品定めするように眺めていた。
警戒を解くつもりはまだないようだ。
最初からこんなに難易度の高い人間に対応させるなんて、仕方ないとはいえ俺を仕向けた結さんを呪う。
冷静になった結さんだったら、この人を何とかできたのだろうか。
結さんなら、こんなときに何と言うだろうか。
「……俺は何もできない若造ですが、話を聞くことならできます。お力になりたいんです」
138: ひととせ ◆EOQ3BRAmq.:2012/1/2(月) 13:35:47 ID:99nh8st8DU
自然と口をついて出た言葉を、そのまま目の前の宮田に伝える。
俺が警戒してるからいけないんだ。
いつも結さんがするように、なるべくまっすぐに相手を見つめて。
相手と向き合いたいときは、自分から誠実にならなくてはいけない。
昔教えてくれたのは、彼女のお祖父さんだった。
「聞かせて、頂けませんか」
宮田が意表を突かれたようにこちらを見る。
やがて攻撃的ではない素の声が、初めて発された。
139: ひととせ ◆EOQ3BRAmq.:2012/1/3(火) 11:32:56 ID:RGDdi1MlWM
「そうは言っても、分からないんだ。通勤中に急に頭が痛くなって、気付いたらここに来ていた」
どう考えてもおかしいだろう、と宮田は同意を求める。
残念ながら、俺は同意できなかった。
ある日突然倒れることも、この年齢の人なら十分に有り得るだろう。
脳梗塞か何か、そういったよくある病気だろうか。
ここに来ている以上、宮田は間違いなく死んでいた。
「……宮田さんは、どんな仕事をなさっているんですか」
140: ひととせ ◆EOQ3BRAmq.:2012/1/3(火) 11:33:53 ID:RGDdi1MlWM
俺は迷った末に、やや無理矢理に話題を変えた。
本当は過去形だけれど、あえて現在形で。
宮田は少し気をよくしたように、大手電機メーカーの名前を告げた。
「すごい有名会社じゃないですか」
「そんなことはないさ」
そう言いつつも誇らしげな宮田に、俺はひとまず胸を撫で下ろす。
さしあたっては、まともな会話ができそうだ。
141: ひととせ ◆EOQ3BRAmq.:2012/1/3(火) 11:34:40 ID:RGDdi1MlWM
「じゃあきっとお忙しいんでしょうね」
俺はせっかく繋がった会話を途切れさすまいと宮田をよいしょした。
この際自分の情けなさは気にしない。
宮田はまあ、と満更でもなさそうにそれを肯定した。
「毎日が激務だよ、使えない部下の尻を叩かなきゃいけないしな。会社に住んでいるようなもんだ」
ご家族は、という質問を俺は呑み込んだ。
下手に刺激することにならないか、代わりに無難な相槌を打つ。
142: ひととせ ◆EOQ3BRAmq.:2012/1/3(火) 11:35:12 ID:RGDdi1MlWM
「大変ですね」
「そうだな、今日もこれから大事な会議が……」
俺の配慮の甲斐なく、宮田はここに来てしまったことを思い出したのか黙り込む。
俺は内心冷や汗をかきながら、宮田の反応を待っていた。
「なあ君、教えてくれ」
意外なほど静かな口調で、宮田が呟く。
「ここは一体、何処なんだ?」
143: ひととせ ◆EOQ3BRAmq.:2012/1/3(火) 11:35:48 ID:RGDdi1MlWM
俺は言葉に詰まった。
せっかく話が通じたのに、また逆戻りになりかねない。
でも宮田は、先程とは打って変わって冷静なようだった。
「……死後の、世界です。あの世、天国、冥界、何とでも言えるでしょうね」
暫く逡巡してから、結局俺は真実を告げる。
宮田はそうか、とだけ呟いて、長椅子から天井を仰いだ。
「君まで、そんなことを言うんだな」
「……すみません」
気圧されて謝ると、宮田がすごい形相で俺を睨み付ける。
144: ひととせ ◆EOQ3BRAmq.:2012/1/3(火) 11:36:18 ID:RGDdi1MlWM
「おい、理由も分からず謝るんじゃない。俺はそういう人間が一等嫌いだ」
「は、はい」
すみません、ともう一度謝りそうになる声を慌てて呑み込む。
また怒らせたかと思ったが、宮田は不機嫌そうに目を眇めただけだった。
何だか酷く情けない。
結さんに見られていたら格好のネタにされていただろうと、俺は密かに安堵した。
「俺は死ねないんだ。俺が死んだら今日の会議は誰が出る」
宮田が遠くの方を眺めながら言う。
「会社は俺が必要なんだ」
145: ひととせ ◆EOQ3BRAmq.:2012/1/4(水) 22:50:28 ID:RGDdi1MlWM
「ご家族だって、悲しまれます」
俺は我慢できずに呑み込んだ言葉を投げ掛けた。
言い聞かせるように会社のことを繰り返す宮田が辛かった。
「他人の君に何が分かる」
宮田が苛立ったように膝を指で叩く。
啖呵を切ってしまえば後は簡単で、俺は負けじと続けた。
「お忙しいんでしょう、ご家族ともあまりお会いになってないんじゃないですか」
「目上の人間に生意気な口を利くもんじゃない、だから何だと言うんだ」
宮田の言うことはいちいち癇にさわった。
これは結さんが営業スマイルをかなぐり捨てたのも理解できる。
146: ひととせ ◆EOQ3BRAmq.:2012/1/4(水) 22:51:28 ID:2ho66zkJlw
「きっとご家族も寂しがってました」
俺は宮田ににじり寄った。
それにつられて宮田が少し身を引く。
「そんな訳がない」
「まだそんなことをおっしゃいますか」
そろそろ俺も切れそうだ。
このままでは結さんの二の舞だと、深呼吸をして気分を落ち着ける。
しかし宮田は切れる寸前だった。
147: ひととせ ◆EOQ3BRAmq.:2012/1/4(水) 22:52:07 ID:2ho66zkJlw
「君もそういう人間だったか。人のことを見下して……」
宮田の拳が膝の上で震える。
感情が高ぶると手が出る類の人なのかと、俺は妙に白けた気持ちになってしまった。
「あの窓口の女も、娘も、皆……!」
宮田の口がわなないて、一層強く拳が握られた。
でも俺はそれよりも、その台詞の方を聞き留めた。
「娘さん?」
宮田ははっとしたように俺を見ていた。
148: ひととせ ◆EOQ3BRAmq.:2012/1/4(水) 22:52:40 ID:2ho66zkJlw
「ご家族と上手く、行っていなかったんですね」
「だから何だ、人の家の事情に。いい加減失礼だぞ、君」
宮田はこの期に及んで取り繕おうとしていた。
差し出がましいのは認めるが、それでも俺に引く気はない。
結果的に結さんと同じような状況になっているのは分かっていたが、ともかく俺は宮田に重ねて尋ねる。
「どうして今ここで、娘さんの話が出てきたんですか」
「君には関係のないことだ」
「関係ならあります」
149: ひととせ ◆EOQ3BRAmq.:2012/1/4(水) 22:53:15 ID:2ho66zkJlw
俺はきっと宮田を見据えた。
「お話を聞かせてほしいと、俺はお願いしました。そして貴方は話してくださった」
随分横暴な理論を振りかざしていることは、分かっているけれど。
「俺には最後まで聞く権利があります」
宮田がぐっと言葉に詰まる。
これはいけるかもしれないと、俺は一か八かの賭けに出た。
「そして貴方には話す義務がある、お分かりでしょう」
「だが、」
宮田が反論を試みるもその声に覇気はない。
権利や義務といった言葉に弱い人がいると聞くけれど、宮田はまさにそれだった。
150: ひととせ ◆EOQ3BRAmq.:2012/1/4(水) 22:53:44 ID:2ho66zkJlw
「教えてください、大切な娘さんとどうして拗れていらっしゃるんですか」
駄目押しにもう一発かますと、宮田は何が気に障ったのか途端に声を上げる。
「大切じゃない。あんな人間俺の娘じゃない」
「どんな人間だって言うんです」
わざと煽るように言ってやれば、宮田が吐き捨てるように語りだした。
「娘も昔は素直だったのに、今ではキモいだの臭いだの邪魔者扱いだ、誰のお陰で食っているかも忘れて」
かかった、と俺は内心ガッツポーズをした。
吐かせてしまえばこちらのものである。
151: ひととせ ◆EOQ3BRAmq.:2012/1/5(木) 22:24:10 ID:VMnJaffQ7E
いつの間にやら宮田は完全に愚痴る姿勢に切り替わっていた。
「高校生なんだが、年頃だから仕方ないとは言え酷すぎる」
宮田が肩を怒らせて嘆息する。
「たまの休日でも顔を合わせると、二言目には見るな触るなあっち行け、死ねの言葉は挨拶だ」
「それはまた凄い娘さんで」
俺は乾いた笑いを漏らした。
確かに父親としては辛そうだけれど、よく聞く話ではある。
俺にもいつか娘ができたらそうなるのかと考えたところで、自分が死んでいたことに気付き顔をしかめた。
152: ひととせ ◆EOQ3BRAmq.:2012/1/5(木) 22:24:47 ID:2ho66zkJlw
宮田の話はまだ続く。
顔を真っ赤にして普段の憤りを吐き出す様子は、なかなか見物だ。
「なあ、酷いだろう。父親を馬鹿にしているんだ。見かねた妻が窘めたとき、娘が何て言ったか分かるか?」
いえ、と俺は否定した。
俺の軽い反応に、宮田がそうだよな、とせせら笑う。
そして自嘲気味に言い放った。
「だって死んでいいし、ああでもお金が困るかも、だと」
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