「出来、たー……!」
オフィス用の椅子を限界まで倒してのけ反ると、背骨と腰の辺りからばきぼきと嫌な音が鳴った。
うん。リアルだ。
ひとりで納得しながら腕を伸ばしていると、窓口に立っていた結さんが振り返る。
「お疲れ様、今日のノルマは終わりよ」
「死んでるのにドライアイになりそうですよ」
「私だって死んでから書類仕事する羽目になるとは思わなかったわよ」
お腹は空かない、でも眠れる。
肉体はないはずなのに、仕事をすれば疲れるし、物に触れることもできる。
死後の世界というものは、全くおかしな場所だった。
2: 1:2011/12/11(日) 16:15:09 ID:YW2VpLC90c
「お、頑張ったじゃない。偉い偉い」
ひょこりと顔を出した結さんが、パソコン画面を覗き込む。
画面に表示された記録は1ヶ月分ほど進み、机に山積みになっていた書類も何とか片付いていた。
「この分だともーちょい行けそうよね。ノルマ増やす?」
「勘弁してくださいよ」
俺は力なく苦笑する。これでも疲れていた。
こちらの世界に来た、つまり亡くなった人達の死因や命日の記録をパソコンに打ち込むのが俺の仕事だ。
恐ろしいことにこの事務所の記録は、このデジタル化の時代に全て紙媒体で残っていてかなり煩雑である。
3: 1:2011/12/11(日) 16:15:40 ID:YW2VpLC90c
流石に一定期間保存したものは廃棄していたらしいけれど、それでも膨大な量が残っていて。
「それにしても、よくこの量を書類で管理してましたね。逆に感心します」
目頭を押さえながらぼやくと、結さんがちっちっと指を振る。
「だって管理できてなかったもの」
「おい責任者」
「本棚から溢れちゃあねえ、仕方ないでしょう」
他人事のように笑う結さんは、実際今は他人事なのだろう。
記録の管理を俺に任せた今、彼女の仕事相手は書類ではなかった。
4: 1:2011/12/11(日) 16:16:11 ID:YW2VpLC90c
「すみませーん」
結さんの肩越し、壁に空いた窓口から人の呼び掛けが聞こえた。
「はいはーい、ただいまー」
結さんが大声で返事をしながら、慌てたように立ち上がる。
俺はすっかり凝った肩を揉みほぐしながら、いってらっしゃいと呟いた。
「いってきます」
振り向きざまに結さんが、にっと笑って俺の額を小突く。
いい年をして、子供みたいな悪戯が好きなものだ。
俺は額に触れながら、彼女の後ろ姿を見送った。
5: 1:2011/12/11(日) 16:16:42 ID:YW2VpLC90c
「ああ、はいはい現世行きね、一回しか行けないけど良いの?……そう、じゃあここに必要事項記入して」
結さんの声を聞きながら、そうかここは現世じゃなかったと改めて思う。
実感が湧かなかった。
この事務所には雑多なファイルが散乱していて、筆記用具が散らかっていて、俺の目の前にはパソコンまである。
ありふれた光景。その辺のビルの一室に、普通に存在するような。
でも俺は、窓口の向こうの雑踏に、生身の人間がいないことを知っている。
俺も、もちろん結さんも、生者ではないことを知っていたのだ。
6: 1:2011/12/11(日) 16:17:11 ID:YW2VpLC90c
「……はいありがとう。何日発行しとく?一週間で足りる?……そう、じゃあ二週間にしておくわ」
慣れた動作で書類にペンで書き込むと、結さんは素早く判子を押した。
「じゃあこれ切符ね。失くしちゃ駄目よ、再発行できないから」
窓口の隙間から、結さんが切符を差し出すのが仕草で分かった。
天国から地上まで降りるのが、あんな紙切れ一枚で許されてしまうのが面白い。
ここが果たして天国と呼べるものか、俺には甚だ疑問であるけれど。
7: 1:2011/12/11(日) 16:17:43 ID:YW2VpLC90c
「世田谷区なら3番線ホームの電車から行けるわ。ええ、亡くなった場所に着くから、期限内に戻って来てね。悪霊になっちゃうわよ」
結さんが冗談めかして笑う。
窓口の向こう、少し緊張していた客も笑ったようだった。
「……お気をつけて。良い旅を」
結さんが静かに頭を下げると、客は小さく会釈して去って行った。
きっとこのまま電車を待って、最後の別れを惜しみに行くのだろう。
俺は唇を噛んで、遠ざかる後ろ姿を見詰めていた。
8: 1:2011/12/11(日) 16:18:13 ID:YW2VpLC90c
東京ターミナル駅総合案内事務所。
そこが今、俺のいる場所だ。
所謂あの世が駅の形をしているなんて思ってもみなかったけれど、いつの間にか馴染んでいる自分がいた。
窓口の向こう側で、行き交う人の群れ。
死んでから成仏するまでの間の、まだ行き先を躊躇っている人達が、ここには集まっている。
幽霊として現世に戻るにしろ、覚悟を決めて次の場所に向かうにしろ、彼らの行く先を導くのは、総合案内事務所の責任者。
それがこの、結さんだった。
9: 1:2011/12/11(日) 16:21:29 ID:7cMpp1kMaE
「はあ、疲れたわ」
結さんがこきこきと首を回しながら帰ってくる。
そのままどっかと椅子に体を預けると、仰向けのまま俺に向かって要求した。
「憩、お茶淹れて。甘ーいミルクティ」
「嫌ですよ」
「いーこーいー」
駄々っ子のようにじたばたする結さんは、果たして自分の年齢を分かっているのだろうか。
二十代後半程に見えるが、それは享年らしい。
この仕事を始めて二十年近くなるというから、つまり実年齢は。
10: 1:2011/12/11(日) 16:22:01 ID:7cMpp1kMaE
「何をそんなに見てるのかしら?」
「いっ」
脳天に強烈な一撃を食らって見上げれば、結さんが丸めたファイルを片手に仁王立ちしていた。
「そんなに見詰められて……お姉さん照れちゃう」
「誰がお姉さんとごめんなさいやめてくださいすいません」
「分かればよろしい」
うむ。と腕組みをした結さんが、ファイルを放り出して給湯室に向かう。
どうやらお茶は自分で淹れるらしかった。
11: 1:2011/12/11(日) 16:22:26 ID:7cMpp1kMaE
「それにしてもさあ」
湯気の立ち上るマグカップで、両手を温めながら結さんが言う。
そもそも何で死んでるのに飲めるのか、なんて疑問はとうの昔に忘れてしまった。
おこぼれに与かって熱い紅茶を啜る俺を、不躾な視線が上から下まで這い回る。
「……何ですか」
何だこれさっきの仕返しか。と思いながら尋ねると、結さんはミルクティを吹いて冷ましながら問い掛けた。
「憩ってなんで死んじゃったんだっけ」
12: 1:2011/12/11(日) 16:22:54 ID:7cMpp1kMaE
随分とまあ直球な、と俺は思わず溜め息をついた。
「そんな質問、生まれてこの方されたことがありませんよ」
「だって死ななきゃできないもの」
さらりと答える結さんに、それも最もだと納得してしまう。
でも、だからと言って今日の天気を話すように聞かれても、と思う。
「確か交通事故でしょ、書類にあったの」
「はい、自転車で飛び出したところを、トラックにポーンと」
この人に気遣いを求めても無駄だと諦めて、俺はそのことを話し始めた。
13: 1:2011/12/11(日) 16:23:22 ID:7cMpp1kMaE
今でも鮮明に思い出す。
耳元を切る冷たい風、真っ暗な闇を切り裂いたライト、つんざくようなクラクションと、世界が反転して、最後に見たのは逆光の人影だった。
「完全な俺の不注意でしたね、トラック運転手の人に悪いことしました」
「駄目じゃない、飛び出しちゃあ」
「急いでたんですよ、日付変わりそうだったから」
彼女の誕生日だったんです、と紅茶を流し込みながら付け加える。
そういえば祝えずじまいだったと、今になって気が付いた。
14: 1:2011/12/11(日) 16:23:52 ID:7cMpp1kMaE
俺の感傷をよそに、結さんが嬉々として俺ににじり寄る。
「ねえ憩、そう言うの何て言うか教えてあげよっか」
「はいはい、何ですか」
「りあじゅう」
結さんがどや顔で言い放つ。
俺は無言で椅子ごと後ずさった。
「え、ねえちょっと何その反応。こないだ死んだばっかの女子高生に聞いたんだけど」
「数十年単位で遅れてる人が無理しないで下さい」
「何それオバサンだって言いたいの?」
こめかみに青筋を立てる結さんに口先だけで否定して、マグカップを庇いながら逃げる。
窓口から甲高い声が聞こえたのは、そのときだった。
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