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未 本編2

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Part2
411 :未 本編2 ◆oJUBn2VTGE :2012/01/07(土) 22:51:31.04 ID:HrRb/QUY0
「おい、これちょっと待った」
「二回目ですよ」
「いいから」
溜め息をついて、銀が元の位置に戻るのを見逃す。勝負に熱くなってきて前のめりになった師匠は膝を立てて身体を前後に揺すり始める。僕はとうに勝負の見えている将棋よりも、その浴衣の裾が気になって仕方がなかった。
そんなことをしていると、ドアをノックする音が聞こえた。返事をすると広子さんがお盆にケーキを乗せてやってきた。
「残ったから、あげる」
そして、あたしもう寝るから頑張ってねえ、と言いながら去っていった。
クリスマスケーキが二切れ。師匠は脳天から真っ二つにされたサンタクロースの半分が乗っかっている方を取った。硬そうな砂糖菓子なので、切る過程でかなり胴体が生地にめり込んでいる。
それから師匠が紅茶を淹れて乾杯をした。
メリークリスマス。
今ごろ街を華やかに彩っているであろう、赤と白の二色とは縁遠い、地味な和室の中だったけれど、少しだけ気分が出た。素直に広子さんに感謝する。
ケーキを食べ終わると師匠は言った。
「さきに寝ろ」
朝まで交代で番をするから、と。
時計を見ると夜の九時だった。師匠の案では九時から日付の変わった深夜二時までの五時間が師匠の番。そして二時から朝六時までの四時間が僕の番ということだった。
「僕は別に徹夜でもいいですよ」
そう言ってみたのだが、「一晩で済むとは限らない。いいから先に寝ろ」との仰せ。
「わかりました。でもどうして僕の番が六時までなんです」と訊くと「ここは時の鐘が鳴るって言ってたろ」と返された。
そう言えば、訊き込みをしていた時に女将か誰かがそんなことを言っていた気がする。貯水池を見に行っている時にもその鐘の音が鳴っていた。
今のような時計のなかった時代には、庶民が時刻を知るために時の鐘と呼ばれる仕組みがあった。寺や神社の鐘つき堂などで毎日決まった時間に鐘がつかれるのだ。
明け六つであれば六回、昼九つであれば九回という具合に。それを聴いて、人々は仕事や生活の区切りとしていた。

412 :未 本編2 ◆oJUBn2VTGE :2012/01/07(土) 22:54:45.21 ID:HrRb/QUY0
例えば昼に八回鐘が撞かれる昼八つであれば現在の午後二時ごろを指すのだが、その鐘を聴くと一度仕事に休憩を入れ、その間に疲労回復のための甘い物などを取る習慣があった。
これが今の「おやつ」という言葉の語源だそうだ。
この松ノ木郷ではくだんの若宮神社に時の鐘があり、今でも一日のうち明け六つ、昼九つ、暮れ六つの計三度、時を告げているのだそうだ。それぞれ朝六時、昼の十二時、そして夕方の六時に。その鐘の音はこの『とかの』へも聞こえてくる。
「こういう、境界を表したものは、古い霊魂には強く影響するはずだ」
師匠は言う。
夕暮れは「誰そ彼(たそかれ)」とも言い、向こうにいるのが誰なのか分からない、という薄暗さを、そして不安な感じを表している。
そして日が落ちきってしまえばそこからはもう人の世界ではなく、魑魅魍魎や悪鬼の類が闊歩する夜の世界へとがらりと変わってしまうのだ。
同じように夜明けのころも「彼は誰(かはたれ)」と言い、向こうに立っているのがいったい誰なのか判然としない、という不安さを表している。
それはやはり夜に住まう人ならぬものたちの支配する時間と、昼に生きる人間たちの支配する時間との境界に位置する時間帯なのだ。
「鶏の鳴き声を耳にして退散する鬼の話を聞いたことがあるだろう」
それは鶏の声そのものに怯えたのではなく、夜と昼の境界を越えてしまったことを知って鬼は逃げ出すのだ。
温かい湯を止まり木の中に流し、無理やり目を覚まさせて鳴き声を上げさせ、まだまだ夜は明けないにも関わらず、鬼を退散させてしまう話もあった。
その鶏の声の役割を果たすのが、この土地では明け六つの鐘というわけだ。
「鐘の鳴った朝六時以降はまず出ないな。今日集めた目撃談でも、暮れ六つより前に『出た』という話はなかった」
 出るのは暮れ六つから、明け六つの間の時間。
つまり、土地の習慣に呼応した古風な霊である可能性が高い。
そう言って師匠は盤上の詰んでしまった自分の王将を爪で弾いた。
「とにかく、もう寝ろ。二時になったら起こしに行くから」
そう言って追い出された僕は自分の部屋に戻り、歯磨きをしてから敷かれていた布団に潜り込んだ。

413 :未 本編2 ◆oJUBn2VTGE :2012/01/07(土) 22:58:05.50 ID:HrRb/QUY0
明かりの消えた部屋の玄関のドアから小さなノックとともに師匠が顔を覗かせて「今夜は出ないかもな」とぼそりと言った。
「え?」と訊き返そうとすると、「じゃあ見回りに行ってくる」と言ってそっとドアを閉じた。
           ◆
どれほど眠っただろうか。
長時間電車に揺られ、旅館の中を歩き回ったり、山に登ったりという今日一日の疲れがどっと出た僕は、布団に入って目を閉じたとたんに眠りに落ちてしまった。
静かだった。
夢を見ていた気がするが、いつの間にか遠い土地の旅館の一室に横たわっている自分がいる。
身体が重い。疲れがまだ取れていない。
静かだ。そして暗い。
暖房が効いている。部屋の中は滑らかな暖かさに包まれている。しかし外は冷え込んでいるだろう。
冷たい空気が建物を握り込むようなミシミシという音がどこからともなく聞こえてくる気がする。
何時だろうか。
交代の時間はまだか。また眠気が忍び寄ってくる。
静かだ。
天井が高い。見慣れない天井だ。ここはどこだ。
誰かいる。
部屋の隅に。
誰かが立っているのが分かる。
静かだ。息を吸う音。そして吐く音すら聞こえない。
誰だろう。
仰向けのまま身体が動かない。
重い。石を乗せられたようだ。
部屋の中には自分しかいない。それも分かる。
なのに誰かが立っている。
首を動かそうとする。部屋の隅を見るために。
重い。油が切れた機械のようだ。首の関節の間に、小さな無数のゴミが詰まっている。
どうして黙っているのだろう。
ごとり。

414 :未 本編2 ◆oJUBn2VTGE :2012/01/07(土) 23:02:07.12 ID:HrRb/QUY0
首が落ちた。
ような音が。
みしりと、隅から一歩踏み出す音も。
ごとり。
また首が落ちた。
みしり。
また一歩。
ごとり。
みしり。
ごとり。
……
近づいてくる。そのたびに首が落ちる。
落ちた首が畳の上を這うように転がる。いくつもいくつも。
そんな音だけ。
布団の端を誰かが踏んだ。
ぼとり。
掛け布団の上に何かが落ちた。
首が動かない。動け。動け。
逆へ。
逆へ、動け。
見たくない。背けたい。
見たくな
「おい」
身体を乱暴に揺すられた。
「あ」眩しい。人工の光が目に飛び込んでくる。
師匠の顔がある。
「交代だ」そんな言葉が聞こえる。
目が覚めた。
旅館の部屋だ。眠っていたのか。
「寝ぼけてるな。お茶でも飲め」
布団から身体を起こして、師匠が入れてくれた湯気の立っている熱いお茶を口に含む。

415 :未 本編2 ◆oJUBn2VTGE :2012/01/07(土) 23:04:14.43 ID:HrRb/QUY0
はあ。
頭が覚醒していく。さっきのは夢か? 夢だとするならば、目覚めた夢。経験上、そんな夢は疲れている時によく見る。そして悪夢であることが多い。
「誰か部屋にいませんでしたか」
「いや」
師匠は眠そうに欠伸をすると、深い息を吐いて「もう寝る」と言った。部屋の時計を見ると、夜中の二時を少し回っていた。
「寒み」
と言って、師匠が僕の布団に入ってくる。
「ちょ、ちょっと」
慌てていると、「なにがちょっとだ。早く出てけよ」と、布団から蹴り出される。
「自分の部屋で寝てくださいよ」
「うるさいな。さっきまで玄関と外をうろうろしてたから、寒いんだよ。布団暖め係、ご苦労」
しっしっ、と手で追い払われる。
僕は仕方なく立ち上がり、大きく伸びをする。「なにか出ましたか」布団に包まった師匠にそう問い掛けると、「いんや」との答え。
僕は溜め息をついた。師匠が番をしている間に、なにか起きるような気がしていたのに。この人の中の普通ではないなにかに、引き寄せられるように、だ。
浴衣を脱いで服に着替えていると、布団の中から声が掛かる。
「でも、なにかいるぞ。ここには」
え。なにか感じるんですか。そんな言葉を口にしようとしたが、ふぅ、という布団の中からの疲れきった吐息に会話を拒絶される。
身支度をしてドアを開けようとしたとき、「気をつけてなぁ」という眠そうな声がもぞもぞと聞こえた。
廊下に出ると、少し気温が下がった。部屋の中よりも空調が効いてないのだろう。天井の大きな蛍光灯は消えているが、その横の小さな黄色い電球にほんのりと明かりが灯っている。
裸足のまま履いたスリッパが足の甲に張り付くたびにひんやりとした感触がある。
二階は全部で六部屋ある。今夜は僕と師匠の二部屋しか使われていないはずだ。念のために残りの四部屋の前に立ってドアをノックし、それぞれノブを回そうとしてみたがどちらにも鍵が掛かっていた。
廊下を進んで一階へと降りる階段に足をかける。折り返しの踊り場で首だけを伸ばして階下を覗き見ると、その先の薄暗い廊下には人の気配はまったくなかった。


416 :未 本編2 ◆oJUBn2VTGE :2012/01/07(土) 23:06:25.89 ID:HrRb/QUY0
恐々と下に降り、移動できる範囲で周囲を見て回る。一階には事務室の奥に従業員の仮眠室があり、仲居が寝ているはずだが、井口親子は本館のそばの離れに住んでいるはずだった。
そして本館のすぐ裏には戸叶家の住宅が接していて、女将や楓はそこで寝ているはずだ。
昔は家族は多かったはずだが、二人いたという女将の弟もそれぞれ独立して家を出てしまっていて、四年前に楓の祖母を亡くしてからは、母子二人だけの暮らしになってしまったという。
さぞ寂しいことだろう。
そんなことを思いながら事務所の中を覗いてみると、電話機に接続されたFAXが受信可能な状態であることを示す緑色のランプがチカチカと灯っていて、その光だけが暗い部屋に瞬いていた。
遠くから換気扇を回すモーター音が聞こえる。大浴場の方だろう。
そっちも見に行かないと。
そう思ったが思いのほか億劫で、後にしようかと玄関ロビーのソファーに腰掛けると、そのまま立ち上がりたくなくなった。
不思議なものだ。
ついこの四月に、普通の学生生活が始まったばかりだったのに、いつの間にこんな遠くの温泉宿に泊まりに来て、深夜に誰もいない玄関で得体の知れないものを見張るようなことになってしまったのだろう。
空調の機能を時間帯で落としているのだろうか。肌寒さを感じながらしばし物思いに耽っていると、ふいに玄関の外からなにかの物音がした。
どきりとして立ち上がり、恐る恐る玄関の自動ドアにかけられたカーテンの隙間から外を覗き込む。
旅館の敷地の中の、背の高い街灯が丸い明かりを灯しているその下に、なにものかが動く影が見えた。
自動ドアは、電気スイッチが切れている。しかし僕らがそこからも外に出られるように、今晩だけはロックがされていないはずだった。
二枚の厚手のガラスが合わさるその隙間に指先を入れ、力を込めるとドアは手動でわずかずつ開いていった。
瞬間、冷気が顔に吹き付けてくる。通り過ぎようとした人影がびくりとしたように立ち止まる。
「楓さん」
声を掛けられた相手はスクーターを押して歩いていたところだった。
「わ、びっくりした」
それはこっちのセリフだ。まだ帰ってなかったのか。もう時刻は二時半を回ってい

417 :未 本編2 ◆oJUBn2VTGE :2012/01/07(土) 23:08:40.21 ID:HrRb/QUY0
「今夜は寝ずの番なの? あの人は?」
「交代で番をしてるんですよ。今は部屋で寝てます」
そばに近づくと、アルコールの匂いがした。
「飲酒運転」
そう言って指でバツを作ってやると、「堅いこと、言いっこなし」と楓は笑った。それから声をひそめて、しばしのあいだ立ち話をする。今夜はかなり楽しく遊んだようだった。
その中でふと、なんの気なしに僕は問い掛けた。
「和雄さんのこと、どう思ってんの」
女将は明らかに二人をくっつけようとしている。そして周囲もそれを追認しているようだ。もちろん和雄自身も。しかし若者にとって重大なイベント日に、女友だちとの遊びを優先した彼女の心理はどういうものなのだろうか。
楓はう〜ん、としばし唸った後、ぼそりと言った。
「和にぃは、堅物すぎ」
まあ、そこが今どきの男には珍しいんだけど。そう言いながら両手の手袋を片方ずつ脱いでいく。
「もう少し強引じゃないとね。今日だって……」
そう言いかけたところで、おっと、という表情をした。
「まあ、その上の修にぃよりはまだクダケてるけど」
じゃあ、お休み。
そう言って手を振りながら楓はスクーターを押して旅館の裏手へと消えていった。
表の道路と同じように舗装されているので、道が悪いわけではない。ただ客商売をしているので、深夜に帰宅する時は手前でエンジンを切ってくるのだろう。
酔ってはいても、身についた習慣があるのだ。なかなかしっかりした子に思えた。
そんでもって、脈有りだなあ、和雄さん。
僕はしばらくそこに佇んだ後、周囲になんの気配も感じないのを確認してから旅館の中に戻って行った。
空調は弱いが建物の中はさすがに寒空の下とは雲泥の差だ。生ぬるい空気の流れが周囲を包み、わずかな照明だけがロビーの椅子や置物を闇の中に浮かび上がらせている。
なにかが違う。さっきまでと。
立ち止まった僕の心臓がわずかずつ早く脈打ち始める。
なんだこの気配は。

418 :未 本編2 ◆oJUBn2VTGE :2012/01/07(土) 23:11:20.50 ID:HrRb/QUY0
息を殺してあたりに目を配る。なにも見えない。動くものも。静止している異物も。
そっと大浴場の方へ足を向ける。ポケットからペンライトを取り出してスイッチを捻る。暖簾をくぐり、脱衣所、浴場、露天風呂と進む。すべて出入り口のロックは外されていた。
師匠もみんなが寝静まってからこのあたりもすべて見回りをしただろうか。
ブーン…… という換気扇の音が自分の呼吸音と混ざる。露天風呂の湯はまだ温かく、湯気が寒気の中に立ち上っている。黒々とした植え込みの影がそれを囲んでいる。
なにも出ない。風呂場を出て、客室へ向かう廊下を足音を忍ばせて歩く。
窓から中庭が見通せる。どの場所も、どの場所も、神主の姿形をしたこの世のものならぬものが現れたという場所だ。
さほど広くないこの鄙びた旅館で、余りにも多くの目撃談がある。これではかえって探し辛い。どこに重点を置いて良いのか分からない。
場所ではない。場所に憑いているのでは、ない。
では一体なにに?
僕は息を殺しながらロビーに戻る。フロアの中ほどに置かれたテーブル。その椅子に腰掛けて玄関のドアの方を向いて座る。
時間がゆっくりと過ぎていく。
なにかいる。わだかまった気配が、それでも形を成さぬように煙か、あるいは水蒸気のような姿で旅館の中を蠢いているようだ。
その姿勢のまま僕は固まり、永遠とも思える時間が流れていった。
朝は、まだか。
いつの間にかそればかり考えていた。繰り返し、繰り返し、そればかり。外はまだ暗い。未だ夜に棲む住人たちの世界。
異世(ことよ)に棲まうものたちの……
…………
いる。
誰かが廊下の隅に立っている。背後に目をやらずとも、それが分かる。いつの間にいたのか。
音も立てず、声も掛けず。じっとそれは立っている。
どんな姿をしているのだろう。
身体が動かない。夢の続きのようだ。目覚めたと思っていた、あの夢の中の。
いや、自分は本当にその後に目覚めたのか。本当はずっと身体はあの和室の布団の中にいるのではないか。
ではここでこうしている自分は誰だ。
ああ、思考がぐちゃぐちゃだ。

420 :未 本編2 ◆oJUBn2VTGE :2012/01/07(土) 23:13:41.51 ID:HrRb/QUY0
誰だ。自分ではない。立っているのは。誰だ。
トットット…… と早いリズムで胸が脈打つ。
動いた。
近づいてくる。
ロビーの隅の暗がりから、それがゆっくりとこちらに近づいてくる。音はない。畳の上のように、その踏み出す足は音を立てない。
ただすーっと気配だけが玄関へと向かうのが分かる。
その途中に、僕がいる。玄関のドアに向かって座っている僕が。気配は止まらない。なにかが起こる。なにかが。
その予感が自分の中で膨張する。そしてそれが弾けそうになった瞬間、僕の耳は確かにその音をとらえた。
鐘の音。
遠く、そしてたなびく様な微かな音の波が乾いた空気を震わせる。
明け六つだ。境界を超えたのだ。
朝六時と決められた現在のこの土地の時の鐘は、この冬場には『彼は誰(かはたれ)』の薄明よりも早く鳴らされるのだ。
いや、外に出れば山の端の空は白みがかっているかも知れない。しかし、玄関のカーテンを閉めたロビーにいてはその微妙な時の移ろいを感じることはできない。
しかし、明け六つだ。確かに人と物の怪の世界を分ける、狭間の時間が終わったのだ。僕は全身の力が抜けるような安堵を覚えた。
鐘の音は続いた。二つ目。そしてその余韻が消え去った後に、三つ目が。それを数えながら、僕は振り返ろうとする。
さっきまであった背後の気配はとっくに消えてい……
その瞬間、心臓が止まりそうになった。
消えていない。気配は、すぐ真後ろまで来ていた。背筋の皮膚が総毛立つような恐怖に襲われる。
なんで。
頭の中にボールペンの先が目にも留まらないような高速で走る。ぎゅるぎゅるという擬音。
す…… 捨て鐘だ……っ!
なんで忘れていたんだ。僕は知っていた。知っていたのに。
明け六つの六回の鐘が撞かれる前に、これから時を告げることの先触れとして、鳴らされる鐘があった。

421 :未 本編2 ◆oJUBn2VTGE :2012/01/07(土) 23:18:06.02 ID:HrRb/QUY0
三回の捨て鐘。つまり明け六つは九回鐘が鳴らされるのだ。その最初の三回は、明け六つよりも前、つまり境界の上にある時刻。
それが鳴り終わるまではヒトの支配する時間ではなく、未だたゆたう、狭間の時間に属しているのだ。
背中に、氷のように冷たい気配が触れた。つま先から頭の天辺まで、なにかが走りぬけた。
鐘の音。
四回目の。
その瞬間、背後から触れた気配はそのまま僕の身体を突き抜け、突き抜けながら消えて行った。明け六つの始まりと同時に。
その気配は視覚的には全くとらえることはできなかった。しかし確かに、なにか得体の知れないものが、消えながら玄関の外へ向かうのを感じていた。
その気配に突き抜けられた部分の体温が根こそぎ持っていかれたような気がした。いや、体温だけではなく、生気というか気力というのか、なにかそういうものもベリベリと剥ぎ取られたかのようだった。
気配が完全に消え去り、九回目の鐘の音を聞き終わっても僕はその場で動けなかった。椅子に腰掛けたまま、悪寒が全身を駆け回るのをじっと感じている他なかった。
「おい」
いきなり後ろから肩を掴まれる。師匠がいつの間にか息を切らせて後ろに立っていた。「出たのか」と訊かれて必死で頷く。師匠は舌打ちをすると、周囲を警戒するように見回す。
あのなにものかの気配を感じて布団から飛び起き、そのまま部屋から走ってきたのだろうか。
「神主か」
「たぶん」
はっきりは分からなかったが、最後に本物の明け六つの始まりと同時に消え去りながら、その瞬間に神主の着るような装束を身に纏っているのが見えた気がした。そのことを切れ切れに説明する。
「そうか。後で状況を詳しく教えてくれ。とりあえず部屋で休め」
ヒューヒューと胸の真ん中から体内の空気が抜けていくような錯覚があった。
「大丈夫だ。すり抜けただけなんだろう? 襲われた感じでもないしな」
そう言いながら師匠はズボンのポケットから金属製の薄いケースを取り出した。さらにその中から半紙を畳んだようなものを摘み出す。

422 :未 本編2 ラスト ◆oJUBn2VTGE :2012/01/07(土) 23:20:31.49 ID:HrRb/QUY0
「これ飲んで寝ろ」
蓋の形に折り込まれた部分を捲ると、中には粉薬のようなものが詰まっているのが見えた。
「なんです、これ」漢方薬のようなものだろうか。
「言ったらプラセボにならないだろう」
言っているし…… 偽薬と。
ともかく僕は師匠からその薬を受け取り、コップに汲んできてくれた水で喉に流し込んだ。苦かったが、気のせいか悪寒が溶けていくような感じがした。
少し楽になって、なんとか立ち上がり、二階の階段に足をかけた。そのとき玄関フロアの明かりが完全に灯り、「おはようございます」という声とともに女将がフロントの奥から顔を覗かせた。
僕は蚊の鳴くような返事をして、師匠が女将に何ごとか話かけるのを尻目に階段を上がり、眠るために部屋に戻っていった。
           ◆

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