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心霊写真2(前編)

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【霊感持ちの】シリーズ物総合【友人・知人】
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90 :心霊写真2  ◆9mBD/1hPvk :2013/03/01(金) 22:57:01.62 ID:fdt0E6Bd0
ヤクザどもが去って行った後、小川さんはしばらくソファでぐったりしていたが、急に飛び起きると、慌てた様子でデスクについて仕事を片付け始めた。
ホワイトボードのスケジュールに目をやると、所長は今日の午後三時半の飛行機で東京へ立つことになっていた。
帰りは明日の午後九時となっている。
なんだか慌しいが、仕事は人と会う用件が一つだけで、あとは友人の結婚式の二次会に参加するのが主な東京行きの目的らしい。
書類の束をいくつかに分けながら、所長が顔を上げる。
「加奈ちゃん、これ、請求書、て、あれ、そういや今日呼んでないよね。遊びに来たのに、バイト代は出ないよう、と」
そしてヤクザが家捜しで荒らした事務所内を片付けていた僕を手招きする。
「請求書作ったことあったよね。これと、これの分を頼むよ。送り先はここね」
そうして幾つかの指示の後、しばらくかかって綺麗にデスクの上の書類を片付けてしまい、最後に服部さんのデスクにあった報告書のチェックにかかった。
その間、加奈子さんは所長と僕が働いているのをぼんやりと見ているだけで、時々「腹減った〜」と喚いたり「危険手当」や「ヤクザ手当」といったものを後付けで勝手に考案しては、要するに小遣いをせびって邪魔ばかりしていた。
所長は服部さんの報告書に付箋で指示を書き込んでから、ようやくデスクから離れた。
そして脱いでいた上着を着始めたので、師匠が「そのひん曲がったネクタイで結婚式行くのかよ」とからかうと、「ばか。一度家に帰るよ。それに二次会からだ」と返した。
そうして事務所から慌しく去っていく前に、僕らに向かって真面目な口調で言った。
「今日のことは僕のせいだ。すまん。君たちにはああいう人間たちにはできるだけ関わって欲しくないし、僕も関わりたくない。
やつらが田村のことをどう決着つけるにせよ、命の危険があるほどのことなら、田村は自分で警察に逃げ込む程度の分別のあるやつだ。
ああいう仕事を望んでしている以上、自分の尻は自分で拭く必要がある。それは田村自身覚悟の上なんだ。だからこの件には関わるな。
特に加奈子。僕の経験上、凄く嫌な予感がしてるんだけど…… 大丈夫だな」
師匠は、わざと曖昧に頷いた。
その肩に手を置いて、所長は大丈夫だなともう一度念を押し、わざとにこやかに笑った。肩を掴む手にはかなり力が入っているようだ。

91 :心霊写真2  ◆9mBD/1hPvk :2013/03/01(金) 22:59:34.89 ID:fdt0E6Bd0
「でも冷たいな、所長。わざわざ会いたいって訊ねてきたんだろ、田村は」
「やっぱり忘れてくれ、と言ったんだろう。最後に。あいつは、頼ろうとした自分を恥じたんだ。とにかく、もう関わるな。いいな」
ようやく師匠はちゃんと頷いた。
僕は初めてのヤクザとの第三種接近遭遇にまだ足元はふわふわと浮いているような感じだったが、これでもうこの件は終わったものと思って安堵していた。

その次の日は土曜日だった。
僕は朝、師匠の家に電話を入れたのだが、留守のようだった。昨日の小川所長と同じような予感めいたものがあり、自転車で小川調査事務所に向かった。
雑居ビルの脇の狭く薄暗い階段を上り、三階にある事務所のドアをノックする。応答があり、中に入ると案の定、師匠がいた。
なにやら仏頂面をして、自分のデスクで肘をついて顎を支えている。
「なにしてるんですか」
「なにも」
向かいのデスクには服部さんもいる。
しかし師匠の方は不定期の『オバケ専門』のバイトだ。その依頼について、「受ける」「受けない」は所長の小川さんに決定権がある。今抱えている案件はないし、所長の留守中に、どう考えても師匠がここへ出てこないといけない理由はなかった。
もちろん、昨日の田村がらみ、いや、ヤクザがらみの件を除いて。
「ねえ、なにしてるんですか」
「肘をついている」
顎が固定されているので、頭の方がカクカクと動いている。
「帰りましょうよ」
「帰れば」
「帰りません」
「好きにすれば」
「します」
「……」
「なにしようとしてるんですか」
「右肘の先が痛くなってきたから、左肘に変えようとしている」
よ、と言いながら師匠は姿勢を入れ替える。
その向かいでは、服部さんがワープロのキーを叩きながら、どこかに電話をかけている。どうやら昨日の報告書で、所長に指摘された部分の裏を取っているらしい。

92 :心霊写真2  ◆9mBD/1hPvk :2013/03/01(金) 23:03:49.24 ID:fdt0E6Bd0
同じバイトの身で、こうまで勤務態度が違うと普通の職場なら軋轢を生みそうだが、お互い、良い意味で無視をし合っている。
無関心というべきか。そもそもこの二人には接点がないので、摩擦すら起こらないのだった。
息が詰まるような沈黙が続いていると、事務所の電話が鳴った。服部さんが手を伸ばそうとしたが、それよりも早く師匠が自分のデスクの受話器を上げた。
「はい、小川調査事務所」
なんだ、所長か。そんなつぶやきが漏れた。
僕は耳をそばだてる。
師匠は電話をかけてきた所長と二言三言、会話を交わした後で僕の方を見てから受話器から顔を離して、こう言った。
「昨日の田村、捕まってないってよ。石田組のやつらに」
はあ?
僕は何を言っているのか分からず、唖然とした。
師匠は受話器を口に戻して続ける。「どうやって知ったの。へえ、あるルートねえ。あんなこと言っといて、気にはしてたんじゃないの、あの後どうなったか」
そうしてまた僕の方を見て言った。「とにかく、すぐに事務所を出ろってよ」
また受話器に耳を押し付ける。「え? 服部? 服部もいるよ。ああ。分かった。言っとくよ。分かった。分かった。すぐ帰るってば。はいはい」
師匠は電話を切ると、僕と服部さんに向かって言った。
「田村は何故か逃げ切ったらしい。今も石田組の連中が傘下の団体も使って捜索中だってよ。ここにもまたやつらが押しかけて来るかも知れないから、早く帰れってさ。あと、服部も今日はもういいから帰れって」
それを訊いた瞬間、服部さんのワープロのキーを叩く手が止まった。驚いて、というよりもちょうどそこで最後の文字を打ち終わった、というような自然さだった。
そして無言で机の上を片付け、一言も発せずに事務所を出て行った。
僕は心臓がドキドキしているのを自分で胸に手をあてて確かめた。これは恐怖なのか、それとも別の何かなのか。いや、恐怖に違いなかった。
「僕らも帰りましょう」
「ああ」
しかし師匠は動こうとしなかった。何か考えている風であった。
「ここは危ないですよ。早く出ましょう」
「ちょっと用事がある。先に帰れ」
僕の目を見ようともせずにそう言う。

93 :心霊写真2  ◆9mBD/1hPvk :2013/03/01(金) 23:09:53.23 ID:fdt0E6Bd0
どう考えても、師匠の言う用事はいま迫り来る危機と関係がありそうだった。
いったい何を考えているんだこの人は。
僕は彷徨いそうになる視線をなんとか修正しながら、ようやく口を開いた。
「じゃあ、僕も帰りません」
「勝手にしろ」
それからの僕は、生きた心地がしない、という状態だった。デスクに並んで座り、ただ正面を見て、これから起こり得ることを想像しては身震いする、ということを繰り返していた。
当の師匠は思案げではあったが、態度はいたって平然としていて、服部さんのワープロの電源が入ったままなのに気づいて
「ニンジャのやつ、切り忘れてやがるぞ。動揺してる、動揺してる」と笑いながら電源を落とし、またその後考え込む、などということをしていた。
ビルの下の方で聞き覚えのある重低音が止まり、その後階段を上る複数の足音が聞えて来たのは、それから一時間ほど経ってからだった。
どうせ来るなら、もっと早く来て欲しかった。
イメージトレーニングをしすぎて疲れ果てていた僕は、その時すでにそんな心境だった。
ノックもなしにドアが開き、昨日の歯抜け茶髪が現れた。その後に続いて入って来たのは、若頭補佐の松浦と、昨日は見なかった別の若い衆だけだった。
三人か。
僕のシミュレーションでは、昨日より数が減っていたら危険度は下がる方向にあるはずだった。そしてまた松浦がいた場合、危険度は上がる方向にあるはずだ。
プラスマイナスでゼロ。現時点では昨日と大差ない状態と判断した。
三人のヤクザはジロジロと室内を見回し、そして松浦の合図で残る二人が昨日と同じように事務所の中の捜索を始めた。
「所長は」
松浦の問い掛けに、師匠はちゃかしたような口調で答えた。
「いるよ。仕事してる」
「どこでだ」
「ここだよ。すぐ目の前にいる。あの人、めちゃくちゃ仕事速いからな。常人には目で追えない。休憩に入ったら見えるようになるよ」
「コラ、おんなあ!」
五分刈りの若い衆が凄い声を出した。茶髪よりよほど凄みがある。僕は飛び上がりそうになった。

94 :心霊写真2  ◆9mBD/1hPvk :2013/03/01(金) 23:13:47.64 ID:fdt0E6Bd0
松浦がさすがに不快そうな表情を見せたが、それでも若い衆を止めた。
それを見て、師匠は指で壁のホワイトボードを示す。
「そう言えば書いてあったな」
田村を匿うために身を隠したのかと詮索してきてもおかしくない場面だったはずだが、松浦の記憶力が無駄なやり取りを省かせた。
「田村は捕まえたんだろう。ここにはもう用はないはずだ」
師匠が淡々と、昨日と同じ口の利き方で喋っても、松浦は怒り出しはしなかった。
次に会う日までに、目上の人間と話す時の作法を身に着けろ、と言いはしたが、その日を昨日の今日にしたのは自分の方なのだ。
怒る筋合いもなかったが、そんな筋など破るのが彼らの稼業のはずだった。
松浦が何を考えているのか全く読めない。
「アニキ、居やせんぜ」
大の大人が隠れられるはずもない台所の流しの下の扉まで開けて、若い衆たちはそう報告した。
「わかった。お前らは下で待ってろ」
松浦の指示に驚いた顔を見せた彼らは、「え、でも」と言い掛けたが「下で待て」という再度の指示に逆らうほどの度胸はなかったようで、すぐに二人とも事務所から出て行った。
僕はシミュレーションにはなかった展開に戸惑い、棒立ちになっていた。師匠は僕が朝見たときと全く同じ格好で、デスクに肘をついたままだ。いったいどんなクソ度胸なのか。
松浦はソファを自分で好きな位置に移動させ、腰掛けた。ダブルのスーツに白いシャツ。本皮の靴に、黒縁眼鏡。
昨日と同じ格好だ。だが、よく見ると眼鏡以外のすべてが似た別のブランドのものだった。
その男が指を組みながら口を開く。
「田村は逃げた。手違いがありましてね」
「おたくのトコは勘違いやら手違いが多いな」
「減らず口はもういい。お嬢さん。あなたが私を怖がっていることは分かっている。私もあなたが少し怖い。それでいいでしょう」
そこで師匠は初めて意外だという表情を見せ、姿勢を正した。
「わたしになにが訊きたいんだ」
松浦はそこでちょっと口ごもった。簡単には説明できそうにないことが悔しそうだった。


95 :心霊写真2  ◆9mBD/1hPvk :2013/03/01(金) 23:19:20.14 ID:fdt0E6Bd0
僕はその二人のやりとりをぼうっと見ていることしかできなかった。まるで師匠と松浦の二人しかいない空間のようだった。
「ちょっと調べさせましたよ。あなたのことを。興信所の同業者たちはほぼ異口同音に、インチキの類だと言っているようですが、依頼をしたことがある、という人は揃って本物だと言っています。
ここから分かることは、少なくともあなたには心霊現象がらみの事件を解決する能力がある、ということです。たとえインチキにせよ、ね」
松浦は前置きから始めることを選んだ。長い話になりそうだった。しかし煙草を懐から取り出そうとはしなかった。元々吸わないのかも知れない。
ただ黙って言葉を選びながら続けた。
「田村は逃げたまま、まだ見つかりません。金、酒、女…… 目ぼしいところはあたっていますが、現在の居場所にまで辿れていない。あるいはもう県外まで逃げおおせているのかも知れない。
さらに最悪なのは、我々と、そして角南一族とも敵対する組織の懐に逃げ込んだ可能性。そうなれば我々は手を引かざるを得ない。後は角南一族が食われるのを、指を咥えて見ていることしかできなくなる」
「東の、四角いやつらか」
師匠が際どいジェスチャーを見せると、松浦は否定しなかった。
「しかし、昨日少し言いかけましたが、どうも田村の持ってきた『毒』の方におかしなところがあるんですよ。
その『毒』が巧妙に作られた偽物だとすると、老人にとって、そして現在の角南一族にとって致命的なスキャンダルにはなりえない。
彼が今も所持して逃亡を続けている『毒』に価値がないということになれば、我々としても、彼を探すモチベーションを失うということです」
「毒の現物もなしに、わたしに毒の鑑定をしろと?」
「いや、その複製があります。だが、粗悪なもので本物ほどの価値はない。が、ともあれ、それが本物であればどういう致命的な猛毒を持つか、推測するには十分なものです。
ただ私が知りたいのは、その『毒』に混ざった不純物の正体です」
「毒だの不純物だの、抽象的過ぎてさっぱり分からない」
「それが具体的になれば、あなたはもう逃げられない」
松浦の静かな言葉の中に、氷のひと欠片が混ぜられた。喉元に至れば、命に届く鋭利な氷片が。
師匠は松浦の目を見て言った。

96 :心霊写真2  ◆9mBD/1hPvk :2013/03/01(金) 23:23:32.98 ID:fdt0E6Bd0
「どうせ逃がす気なんてないんだろう。いいよ。その物騒な『毒』とやらが、不純物次第であっという間に地球に優しい物質になるって話だろ。ただ、わたしなんかの鑑定にそれが期待できるのかな」
「それは私にも分からない。しかし少なくとも、あなたの専門分野のはずだ」
松浦はスーツの内ポケットに手をやる。しかし師匠が鋭く言葉を被せる。
「ちょっと待て。これは小川調査事務所への依頼か。それともお願いか。脅しか」
松浦は口の端を少し上げる。
「依頼、という答えを希望されているようなので、そう答えましょう。ここの規定の料金がいくらか知らないが、報酬はその五倍出します。それと、あなた個人へさらにその倍を」
師匠はそのタイミングに相応しい口笛を吹いた。どれほど緊張していても、吹くべき時に吹ける人は本当に器用なのだろう。
「でもそれ、わたしの鑑定とやらの内容次第じゃ、もらえないどころか…… って話だよね」
松浦はそれには何も答えなかった。
「金は要らない。わたしはヤクザが嫌いだ。その金に頭を押さえつけられたら、わたしはわたしを許せない」
師匠はあっさりとそう言った。
松浦の青白い顔から表情が消える。「断ると?」
心から、人の命を、なんとも思っていない。そういう声だった。僕の心臓は嫌な音を立てている。
「オバケは好きだ。怪談話を、聞こうじゃないか」
あっけらかんとした口調だったが、その端に極限までの緊張の欠片が覗いていた。
不器用な女だ。
ぽつりと、松浦の口元に表情が戻った。
懐に入りかけて止まっていた手が、ようやくその本懐を遂げ、一枚の紙切れを取り出した。
受け取った師匠はそれを面白くもなさそうに眺める。僕もその側に寄って、手元を覗き込む。
写真だった。いや、写真をコピーしたものか。
味気ない白黒の紙に、十人あまりの人間が写っている。

97 :心霊写真2  ◆9mBD/1hPvk :2013/03/01(金) 23:26:49.04 ID:fdt0E6Bd0
畳敷きの和室に着物姿の男が座っていて、その回りを囲むように軍服を着た男たちが正座をして背筋を伸ばしている。
軍服たちは誰もみな若い。揃って微笑みの一つも浮かべず、ただ何か強い意思を秘めたような瞳をしている。
数えると軍服たちはちょうど十人いた。着物姿の男と合わせると十一人が和室の上座側の壁を背にしてこちらを向いている構図だった。背後の壁には鳥が飛んでいる掛け軸が見える。
古い写真だ。白黒コピーの前も、元からカラーではなかったことが推測できる。
戦時中に撮られたものだろうか。
師匠は怪訝な顔で、その写真の中ほどを見つめている。
着物姿の男がいるあたりだ。いや、正確にはその男の顔のあたりを見ている。顔を見ている、と断言できないのは、その着物姿の男の顔は大きく歪んで黒く潰れたような画質になっているためだった。
体つきや服装で、男であること、そして周囲の軍服たちほど若くはないことも明らかだったが、どんな顔をしているのか全く分からなかった。
「その顔は違う。ただの複写ミスです。そんなことは分かっている。そんなことで霊能者を頼ろうとは思わない」
その顔のことではない。
松浦はもう一度そう言った。表情は変わらないが、まるで照れを隠しているように思えて、僕は少しこのヤクザに親近感を持った。
もう一度良く見ると、画像の歪みは着物姿の男の顔だけではなく、写真の中央のライン全体に渡って発生していた。
「順序だてて説明する必要があります。田村がこの複写の原本である写真をもたらしたのは昨日の朝。ある弁護士事務所のオフィスに持参してきたのです。
その弁護士は我々の顧問を引き受けてくれている人物なのですが、田村はそれを知っていて、我々との交渉の端緒としてその弁護士事務所を選んだということです。確かにこんなもの……」
松浦はコピーを蔑んだような眼で見ながら、ふんと笑った。
「我々に見せたところで、その価値に気づくはずがない。特に若い衆などはね。田村は賢明でしたよ。弁護士先生はその手の話のマニアでね。
アポイントもなしに訪ねて来た男の与太話から、ことの重要性を見抜いてすぐ私に連絡をくれました。『不発弾が出てきた』と。『それも核爆弾のだ』とも言ってましたっけ」
松浦はスーツの胸の内ポケットに手を入れ、一冊の本を取り出した。

98 :心霊写真2  ◆9mBD/1hPvk :2013/03/01(金) 23:32:20.80 ID:fdt0E6Bd0
文庫本だ。ページのところどころに付箋がついている。
『消えた大逆事件』
そんなタイトルが表紙に見える。
「この本はその弁護士先生に教えてもらったんですがね。なかなか興味深いものでした。大逆事件、というものを聞いたことがありますか」
大逆事件か。日本史で習ったことがあるような気がするが、はっきりとは覚えていなかった。
「天皇や皇太子など、皇族に危害を加えようとすることです。戦前の刑法では大逆罪として極刑に値する罪とされています。
現人神であった天皇陛下にそんな恐れ多いことをするなんて、当時としては今よりも遥かに重い大罪ですよ。その大逆事件としては主に四つの事件が知られているようです。
1910年の社会主義者らによる明治天皇暗殺計画。1923年の社会主義者・難波大助の起こした皇太子狙撃事件。
1925年の朝鮮人アナーキスト・朴烈とその愛人、文子が計画したとされる大正天皇襲撃計画。そして1932年の抗日武装組織の闘士、李奉昌による昭和天皇襲撃事件」
松浦は親指から四本の指を順に折り、最後に残った小指を立てたまま続ける。
「いずれも失敗に終わっていますが、社会に与えた衝撃は非常に大きいものでした。内閣の責任問題となり、総辞職に至ったものもありますし、また一番有名な1910年のいわゆる幸徳事件では、幸徳秋水ら社会主義者の徹底弾圧にもつながりました。
実際は、視察にやって来た皇族に危害を加えようとして取り押さえられるような突発的ケースなど、もっとあったはずです。
しかし大逆事件として裁かれるのは、その行動に相応しい禍々しい背景と、高度に政治的な判断があってこそです。
『ヤマザキ、天皇を撃て』の奥崎何某のようにただ目立ちたいがためにパチンコで天皇を狙撃するなどの、しようもない事件はたとえ大逆罪がまだ存在したころに起こったとしても、その適用はなかったでしょう。
本来の大逆事件とは、社会主義者、無政府主義者の台頭、そして朝鮮独立運動の激化といった反政府的な背景があり、それに対して断固たる対処をするという意思表示の場でもあったのです」
松浦は文庫本のページを捲りながら淡々と喋っている。
だが、その眼は洞穴のようにひっそりと静まり返っていて、文字など追っていないように見えた。

99 :心霊写真2  ◆9mBD/1hPvk :2013/03/01(金) 23:35:22.98 ID:fdt0E6Bd0
ただ、書かれている内容をなぞっているだけだ、というポーズのためだけに本を開いているような。
そんな印象を受けた。だとしたら、松浦は、本の内容を記憶しているということだ。
ただでさえ暴力の世界に身を置いている人間という非日常的な存在だというのに、さらにそこからもはみ出している異質さを感じて、僕は得体の知れないものを見る思いがした。
また一枚、ページが捲られる。
「ところが、です。政治背景のない衝動的な安っぽい暴挙ではなく、重要な意味を持つ計画的な策謀だったというのに、大逆事件として歴史に残っていない一つの不可解な出来事がありました。
昭和14年の夏のことです。昭和12年に起こった盧溝橋事件から、泥沼の日中戦争に突き進みつつあった当時の日本は、ソ連、アメリカとも衝突は不可避の状況にありながらも、未だ真珠湾攻撃には至らず、
また欧州では世界を二分する最悪の大戦争、第二次世界大戦の前夜という際どい時期にありました。
そんな折、北関東で行われる観兵式のためにお召し列車が出ることになり、警察の警護の元、天皇陛下のご一行が皇居を出立し、東京駅へ向かっているその途上で事件は起こりました。
銃器で武装された集団により、鹵簿(ろぼ)が襲撃されたのです。わずか十名程度のその武装集団の動きは非常に統制されており、警護の警察の部隊と陛下ご搭乗の自動車を分断することに成功したそうです。
しかし、陛下の車に銃弾が届く前に、陸軍の近衛歩兵連隊所属の部隊が駆けつけ、すんでのところで武装集団は鎮圧されました。未遂に終わったにせよ、本来であれば大事件です。
大逆事件として法の裁きを受けるのみならず、その行動の背景にある不穏なもろもろのものを巻き込んで、大粛清の嵐が吹き荒れるほどの出来事だったはずなのですが…… 
問題はその武装集団が、現役の軍人、それもすべて陸軍の若き将校ばかりで構成されていたという事実にありました。天皇の統帥権の下に存在するはずの、帝国陸軍の将校が、その天皇の命を狙ったのです。
このとてつもないスキャンダルは、白昼の事件にも関わらず、即座に闇に葬られることとなりました。

100 :心霊写真2 トリ間違いでした ◆oJUBn2VTGE :2013/03/01(金) 23:37:46.88 ID:fdt0E6Bd0
対中戦争のみならず、全方位戦争へと突き進みつつあった当時の大日本帝国において、この大逆事件と、それを生んだ背景など存在してはならないものだったのです。
これが仮に、陸軍と海軍の軋轢から生まれた事件だったならば、陸軍がいかに揉み消そうとしても成功しなかったでしょう。
しかし、この事件には、陸軍も海軍も、そして政界や財界に至るまで、既存のいかなる勢力も関与していませんでした。
それゆえに、この暴挙は正式な裁判に掛けられることもなく、徹底した緘口令の元、秘密裏に処理されることとなったのです」
松浦が、一本だけ残っていた小指をゆっくりと折った。
隠された五つ目の大逆事件、という意味なのだろう。
「いくら戦時中とはいえ、実際に武装衝突を伴ったそんな大事件を揉み消せるものなのか」
師匠が至極当然の疑問を口にする。
「もちろん、不可能です。どれほどの人間が『処分』されたのかは、はっきりしませんが、軍が血道を上げたところで、遅かれ早かれそれを語る人間が出てきます。
戦後になってから、その事件の研究が成され、こうして本にもなっているのですから」
松浦は手にした文庫本の表紙をもう一度こちらに向けた。
「しかし、その陸軍の将校たちは、何故そんな襲撃事件を起こしたのか、捕縛された後の尋問にも、一切口を割らなかったとされています。
そしてそのまま全員が処刑されている。彼らの動機については、後世の研究においても判然としていないようです。
一般的には社会主義運動の影響下にあったとされているようですが、加担した将校たち個々人の人となりを掘り進めて行くにつけ、そうした影が全く見えてこないのです。
というよりも、まったく何一つ、彼らが天皇を襲撃・殺害するような理由など、ないはずなのです。
この本をまとめた作者は、昭和14年、つまり1939年に起きたこの事件を、それに遡ること三年前、1936年に起きた二・二六事件と対比させて語っているのですがね。
陸軍皇道派の青年将校が起こした、君側の奸たる中央幕僚を除かんとするクーデターだった二・二六に対して、1939年の大逆事件は明白な思想的背景がない。このことを著者は、『北一輝がいない』と表現しています」
「北一輝……」

101 :心霊写真2  ◆oJUBn2VTGE :2013/03/01(金) 23:43:15.00 ID:fdt0E6Bd0
師匠はその名前を呟き、なにか察したような顔をした。松浦も少しだけ眉を上げる。
「そうです。『怪物』、『隻眼の魔王』などと称された、社会主義者にして国家主義者。そして宗教家。
著作『日本改造法案大綱』は、そのころ高度国防国家を目指す陸軍統制派と反目し、財閥資本と癒着する政治腐敗を看過できない皇道派青年将校たちの鬱屈したフラストレーションを
クーデターへと駆り立てたと言われています。つまり、二・二六の理論的な首謀者、思想的背景と言える人物であり、
クーデターが昭和天皇により賊軍と見なされたがために成就することなく鎮圧された後、それに連座する形で死刑を賜っています」
松浦は頁に目を落としたまま、その視線を全く動かすことなく淡々と語った。
「それに対し、この消された大逆事件のリーダーと目された人物は、実行犯でもある岩川雅臣という陸軍大尉で、近衛歩兵第四連隊旗下の中隊長でした。
事件当時三十歳。取り立てて思想的な偏りをもたず、連帯して取調べを受けた上司である佐官たちも『なぜこの男が』と困惑するばかりだったそうです。
そして他のメンバーもすべて三十歳前後の陸軍尉官ばかりでしたが、大隊や連隊を同じくするものはほとんどおらず、彼らがどのようにつながりをもっていたのかも判然としません。
この事実は、陸軍内でもある種の戦慄を持って迎えられました。今上天皇を襲撃するという大罪を犯すのに、彼らの思考は、脳の中は、あまりに空虚だったのです。
群れた青年将校が、理由なく大逆事件を起こす…… そんなことは二重の意味であってはならないことでした。だからこそ彼らは歴史の闇の中に葬られたのです」
しかし。
そう言いながら松浦は本を閉じ、師匠の持つ写真のコピーに目をやる。
「田村がもたらしたその写真に写る、軍服姿の男たちは、岩川以下、ほぼすべて消された大逆事件に連座した将校、つまり実行犯たちです。
この本にも出ていますが、一人ひとりは、当時の様々な資料から顔写真が判明しています。しかし隊も違う彼らが一同に会した、このような写真は今まで世に現れていませんでした。
恐るべき青春の肖像と言えるでしょう。そしてここにいる、人物」
松浦は身を乗り出し、写真の中心部を指さした。

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