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二十歳になった記念に人生語りさせてくれ
[8] -25 -50 

1: 1:2020/2/21(金) 01:07:37 ID:0UY88oZulo
スレタイ通り。
今年二十歳を迎えた>>1が酒を飲みながらひたすら今までの人生を振り返るスレ。

山もなく、オチもなく、意味もなく。
いいとも悪いとも言えない>>1の人生を淡々と書いていきます。

書きだめしてないし長いので、何日かかけながら書いていきます。
あと、これから書く話は全て>>1の主観なので、真実とは異なる描写があるかもしれないです。

それでもよろしければ、自分語りにお付き合いくださいませ。


2: 1:2020/2/21(金) 01:17:30 ID:0UY88oZulo
基本下げ進行で書いていきます。
あと、ちまちまとフェイクも入れていくので、矛盾するところがあるかも。


スペック

>>1
>>1です。特にこれといって秀でたものはなし。
コミュ障で、頭はあまりよくない。


>>1の母。ちょっと正直過ぎる性格の人。
社交的で、友達が沢山いる。


>>1の父。博識だけど何考えてるかわからない。
コミュ障で、休日は家で読書をしている。


>>1の姉。
今は一人暮らししているけど、一緒に住んでいた時も会話することはあまりなかった。というかあまり家にいない。

祖母
>>1の母方の祖母。几帳面。
社交的で、知り合いがたくさんいる。
3: 1:2020/2/21(金) 02:04:25 ID:0UY88oZulo
私の話をする前に、祖母と母の話。


 祖母は頭がよくてとても几帳面な性格をしている。スペックに書いていないように、私には母方の祖父がいない。母が子供の頃に病気で亡くなってしまったらしい。
 祖父がなくなって以来、祖母は女手一つで母を育ててきた。幸いにもお金に苦労することはなかった。だけど、仕事と家事を両立するのは大変だと思うし、すごいと思う。
 祖母は器用だった。子供の頃から頭がよく、大抵のことはすぐに理解できた。料理も掃除も、どんなに忙しくてもきっちりとこなすことができる。

 祖母は「できる」人だった。だから、「できない」人の気持ちを理解することができなかった。

 母は祖母に比べて頭がよくなかった。特に数学が苦手で、割り算でつまずいた。運動もできる方ではなかった。
 掃除もできなかった。料理はできた。だけど毎日料理をすることはできなかった。気力がある時に少しだけ料理をするのが、母の精一杯だった。
 散らかった部屋を見て、学校から帰ってきた成績表を見て、祖母は嘆いた。
「どうしてこんなこともできないのか」「なぜ努力しないのか」「もっと頑張れ」と。
 母は当時のことを根に持っているようで、大人になった今もたびたびこの話を私にする。

 祖母は無神経なところはあったけど、母のことはきっと愛していた。母のことを大切に思っていたはずだ。
 だから、母が結婚した時は様々なサポートをした。結婚式の費用を出した。家を買ってやった。車を買ってやった。
 退職後は、今まで仕事で忙しかった分、家族との時間を大切にしようとした。誕生日や入学卒業は家族全員で祝った。度々家族で、外に食事に出かけた。

 母は祖母のことを少し恨んでいるようだった。だけど信頼もしていた。食事に出かける時や多額の買い物をする時は、祖母に笑いかけて「奢って」と言うのが母の口癖だった。

 私にとって母と祖母はとても大切な存在だ。2人がいなければ私は大きくなれなかっただろうし、2人を通じて様々なことを経験した。
 だけど時々、不安になる。
 母と祖母を繋げているのは家族の絆ではなく、お金なのではないか。もし祖母が金を持っていなかったとしたら、母はとっくの昔に祖母を見限っていたのではないか。と不安になる。

 どんなに昔を振り返ってみても、私は祖母と母が仲良くしていた時を思い出すことができない。思い出すことができるのは、母が祖母に「奢って」と言って微笑みかけるのと、そんな母に対して祖母が嬉しそうに「わかった」と言っているところだった。
 それ以外は、大抵意見が合わずに言い争っているか、私に向かって互いの悪口を言い合っていた。
 ある意味仲がいいというか、気が合うのかもしれない。と最近は思うようにしている。
4: 1:2020/2/21(金) 02:32:58 ID:0UY88oZulo
テンション低くて申し訳ない。
母と祖母の話の次に、母の病気の話。



 母はスクスク?と成長して、大人になった。そして心の病にもなった。恐らくは私が生まれるよりも前から。
 前述したように母は部屋の片付けができなかった。やろうと思えばできるけど、その気力がなかったらしい。だけど母なりのこだわりがあるようで、勝手に部屋を片付けると癇癪を起こした。
 私が覚えている限り、部屋が綺麗だったのはこの二十年で、片手で数えるくらいしかない。床にはたくさんものが散らばっていた。お金とか、おもちゃとか。そういえば、塗り薬や精神安定剤なんかも床に置いてあった気がする。

 母は度々癇癪を起こした。原因は私達家族のせい、というか殆ど私のせいだった。
 母は怒ると子供みたいになった。泣き叫んで、肌を掻き毟って、爆発が収まると今度は部屋の隅に固まって動かなくなった。そんな母を父が宥めていた光景は、今も頭に鮮明に思い浮かぶ。

 幼い頃は母が怖かったし、大きくなってからは母を恨んだ。そして最近は、母を怒らせてばかりだったことに罪悪感を持つようになった。子供の頃の私を責めるつもりはないけど、「もしも」を考えてしまう。もしも私がもっとしっかりした性格だったら、母ももう少し元気な日々を送ることができたのかもしれない、などと考えてしまう。
 後で書く予定だけど、昔の私はかなり酷い性格や態度をしていた。というか、恐らく母と私は発達障害だった。




お酒飲み終わったので今日は寝ます。
ハイボール不味い。ビールは好きなんだけどな。
5: 令和最初の名無しさん:2020/2/21(金) 09:31:30 ID:qIrWR7n21s
お酒飲む間にレスする感じなのね
見てるから黙々とお酒飲みながら自分のペースで続けてくだされ
6: 1:2020/2/21(金) 22:47:52 ID:0UY88oZulo
>>5
ありがとうございます。まったりと書いていきたいと思います。

好きなお酒はビール(特にプレミアムモ○ツ)
だけどハイボール2本買ったので、今日もハイボール飲みながら書きます。


それは置いといて、父と母の話。

 私は端から見てかなりのファザコンらしい。確かに、母と父のどちらが好きかと聞かれれば、たぶん父と答えると思う。
 反抗期あるあるでは「お父さんの洗濯物と一緒に洗わないで」と娘が言う科白があるけど、私はそんなこと一度も思ったことはない。反抗期もなかった気がする。
 私にとって父は理想の男だった。彫りの深く鼻の高い、整った顔立ちをしている。背は平均より少し低めだけど、それが悪いとは思ったことはない。
 父は勉強が好きで、休日は様々な本を読んでいた。心理学、哲学、数学、論理学、語学。特に語学を嗜むのが好きだったようで、家には沢山の言語の辞書があった。父の運転する車では大抵、N○Kの語学学習ラジオがかかっていた。静かな車の中で、父がラジオの音声を復唱する時の声が好きだった。
 父は豊富な知識を持っていて、私の疑問には何でも答えてくれた。私が大きくなるにつれ、様々な話題で話し合うことが多くなった。家族の会話というよりも、大学の教授と先生みたいな関係だった。
 私は沢山のことを知っている父に憧れ、大きくなったら父のような人になりたいと思った。父は私にとって理想だった。唯一の欠点は、コミュ障だったことくらいだろう。

 私は子供の頃、そして今も「どうして父は母と結婚したのだろう」と疑問に思った。
 母ははっきり言って、口が悪い。部屋の掃除ができない。
顔を目当てにするほど綺麗な顔立ちはしていないし、父の話題についていく知識を持っているわけでもない。それに精神病を患っている。
 子供の頃は、「きっと私にはわからない母の魅力を知っているのだろう」と思った。大きくなってからは「父も金目当てで結婚したのだろうか」と不安になった。

 何はともあれ、そんな父と母の元に姉と私は生まれた。
 姉は父の顔立ちと頭脳を受け継ぎ、母の社交的な性格を受け継いだ。
 私は父のコミュ障な性格と、母の面倒くさがりな性格を受け継いだ。勉強は人並みだが、本当の意味での頭はよくないタイプだった。顔は可もなく不可もない。
7: 1:2020/2/21(金) 23:18:49 ID:0UY88oZulo

 私は子供の頃、とても体が弱かった。風邪をこじらせるタイプで、例え小さな風邪でも1週間長引いた。喘息も持っていて、何度か入院したこともあった。(姉は元気だったので、体が弱い原因は部屋のせいではないはずだ)
 家族はそんな私の世話を懸命にしてくれた。ちょっと熱があるだけで母は仕事を休んで私のそばにいてくれた。特製のおかゆを作ってくれた。夜に熱を出せば、父が車で夜間病院に連れていってくれた。
 両親は過保護だった。私が頭があまり良くなかったからだ。どれくらい馬鹿だったかというと、自分の体調の悪さがわからなかった。熱が40度近く出ても「なんで今日は体が動かないんだろう」と呑気に考えては、頻繁にぶっ倒れていた。
 小学生の頃は体調不良に気がつかずに体育の授業に出たこともあった。その日一緒に授業を受けた友達が「体が怠いから保健室に行く」と言ったので私も一緒についていったら、保健室の先生が私の体調不良に気がついて、結局早退したことがあった。そのくらい、私はあまり頭がよくなかった。自分の体や心のことを言語化するのが苦手な子供だった。

 病弱な私は、保育園も度々休んだ。行ったとしても外で遊ぶことは少なかった。
 1つ、覚えていることがある。
 冬の寒い日、私は保育園の中で遊んでいた。1人だった。
 外では同い年の子供が元気に遊び回っている。私も遊びに加わろうとしたら先生に「あなたはダメ」と止められた。
 電気の消された暗い部屋に入ってくる太陽の光が眩しかった。子供のはしゃぐ声が楽しそうに聞こえた。
 私は部屋で1人だった。先生もいなかった。
 私は馬鹿だったから、部屋に沢山置いてある玩具の使い方を知らなかった。だからずっと、部屋の片隅でおままごとのスプーンに映った自分の顔を見ていた。
 1人でいることを寂しいと思ったことはなかった。元々家でも1人でいることが好きだったし、1人でいることが当たり前だった。
 だけど、こうして今も昔のことを覚えているということは、不満に思うことはあったのかもしれない。ただ、当時私が何を思ってひたすらスプーンを見つめていたかは思い出せない。

 父から受け継いだコミュ障と、病弱だったせいで周囲に適応できなかった結果、私は見事なぼっちに成長を遂げた。
 保育園から高校生まで、エスカレーターのエリートぼっち。
 本当は遊ぶ人もごく僅かにいたし、一緒に行動する子もいた。だけどそれが、一般の人が言う「友達」なのかはわからない。私は未だに、「友達」の定義がわからない。このことについては、後で詳しく書きたいと思う。
8: 1:2020/2/21(金) 23:46:34 ID:0UY88oZulo
字が多過ぎて読み辛いな。申し訳ない。


次に、母から受け継いだ面倒くさがりな性格(というか障害?)の話。

 私はたぶんADHD、もしくはADDなのだと思う。(この障害については説明を省かせてもらいます)。
 とにかく物事を先延ばしにしたがる。頭の中が常にとっ散らかっていて、そんな頭の中を反映しているかのように、鞄の中や部屋が汚かった。
 掃除という言葉の意味は理解していた。祖母がしょっちゅう母に「掃除をしろ」と叱っては喧嘩をしていたのを聞いているし、学校では掃除の時間もあった。
 学校の掃除はできた。だけど自分の部屋の掃除は出来なかった。掃除の仕方は知っているけれど、それが本当に必要なものなのか理解できなかった。家はいつも足の踏み場がないほど汚かったけれど、そのことに不便を感じたことはなかった。

 問題は掃除よりも、整理整頓だった。鞄の中身を整理するのが極端に下手くそだった。
 ランドセルはいつも物が入っている。連絡帳に、筆箱に、教科書、プリントを入れるファイル。それから何故か、その日の授業に関係ない教科書を入れていた。
 学校から貰ったプリントはファイルに入れるのが普通なのだろう。だけど私はそれができなかった。脳味噌の容量に余裕がある時は、ファイルに入れることができたけど、やることが沢山ある時は、ファイルに入れずに引き出しやランドセルにプリントを突っ込んでいた。
 すると、しばらくして引き出しやランドセルからぐしゃぐしゃになったプリントが出てきた。テストの答案用紙ならまだ良い。だけど、親に渡さなければならない重要な書類の時は、もちろん親に叱られた。
「ちゃんとファイルに入れなさい」と言われた。「なんでそんなこともできないのか」と怒鳴られた。私はその場では「わかった。今度からちゃんとする」と言ったけど、実行できた試しがなかった。翌日にはまた、引き出しからぐちゃぐちゃのプリントが出てきた。我ながらポンコツすぎる性格だった。
 そのうち、母に叱られるのが怖くなって嘘をつくようになった。母から「あのプリント貰ってない?」と聞かれても「わからない」と答えるようになった。給食の集金袋が徴収日ギリギリになって出てきた時は、自分のお小遣いからお金を出すようになった。

 授業中はいつも、授業を聞かずに考えことをしていた。もしくは教科書の絵をずっと見つめていた。もちろんテストの点数はめちゃくちゃだった。
勉強することを覚えたのは、中学に上がってからのことだった。
9: 1:2020/2/22(土) 00:10:51 ID:0UY88oZulo
書きたいことが思ったより多すぎて、何から書いたら良いかわからない。ので、思うがままに書くことにするよ。


習い事の話。

 母は、私たち姉妹に様々な習い事をさせた。
 ピアノ、習字、水泳、ダンス、歌。
 毎日の殆どの時間が、学校と習い事に費やされた。でも私の周りも沢山習い事をやっている人が多かったので、これは普通かもしれない。
 週に一度のピアノの稽古のために、毎日家のピアノでレッスンをした。水泳とダンスで土日が潰れた。
 個人的にピアノと歌はやっていてよかったと思う。楽譜が読めるのは楽しいし、私も姉も絶対音感になった。姉は音楽が好きで様々なバンドのライブに行くようになったし、自らもベースを弾くようになった。私は自作の歌を歌うのが好きになった。
10: 1:2020/2/22(土) 00:34:17 ID:0UY88oZulo

金の話。

 習い事をする時に欠かせないのはお金だった。
 月謝も必要だし、ピアノは度々調律に出さなければならない。ダンスや歌やピアノは発表会があり、そのための衣装代や遠征費も必要になってくる。
 (詳しくは書けないけど諸々の事情により)私の家にはお金があった。そして遺産にかかる税金の関係上、祖母が存命のうちに、祖母や母は私たち姉妹の教育にお金を使おうとした。

 母は「お金」が口癖だった。
 私や姉が失態を犯す度に、母は言った。
「今までどれだけお金をかけてきたと思っているんだ」
「今回の発表会にも、かなりの費用をかけている」
「祖母に申し訳ないと思わないのか」
 母は暗に、「それなりのお金をかけているのだから、相応の結果を出せ」と言っていたのだろう。
 しかし申し訳ないことに、姉は習い事を殆ど辞めてしまったし、私はあまり結果を出すことは出来なかった。
 ピアノは下手くそだし、字は未だに汚い。昔は上手だと思っていた歌も、今聞き返せば姦しいだけだ。
 泳ぐことはできるけど、学校の水泳の授業で習っただけの人と同じくらいのことしかできない。(でも人並みにできるのは良いことかもしれない。水泳を習っていなかったら、きっと水に浸かることすらできなかった)

 母はいつもお金の話をしていたから、お金が余程好きなのだと私は思った。
 だから私は母の誕生日に、貯金箱からお金を崩して、新聞のチラシで特製の袋を3つ作り、3人の大人にプレゼントした。母にだけ渡すのは平等精神に欠けるので、大人全員に渡すのが良いと思った。お金は5円と10えんと100円を入れ、外からは中身がわからないようにした。どの金額が誰に当たるかわからないサプライズ要素。
……勉強はできないのに、妙なところで気を回すのが子供の頃の私だった。


 中学生の時、「二分の一成人式」とかいう良く分からない学校行事のために、感謝の手紙を書かされる羽目になった。
 この頃の私は、以前より少しだけ知能が上がり、その分捻くれた子供になっていた。
「お父さん、お母さんへ」
 ここまで書いて、私は何を書こうか悩んだ。
 親に1番感謝していることはなんだろう。
 そう思って悩んで、最初に鉛筆で
「こんな私のために、今まで沢山のお金をかけていただきありがとうございました。さぞかし私は手も金もかかるクソ餓鬼だったことでしょう」
と書いた。
だけどすぐに「これじゃ、感謝の手紙じゃなくて母への挑戦状になってしまう」と思い、結局当たり障りのないことを書いた。
 私の手紙を受け取り、父と母は喜んでいた。
 きっと母はその手紙を大切に保管しているだろう。
 私は手紙の内容を1文字も覚えていない。
11: 1:2020/2/22(土) 00:38:48 ID:0UY88oZulo
お酒が尽きたので、今日は寝ます。
何かおすすめのお酒があれば教えてください。

ここ最近色々なお酒を試してます。
酎ハイは物足りないし、バーボンはきつい。ワインはあまり私の舌には合いませんでした。
やっぱりビールが一番美味しいなあ。
12: 1:2020/2/22(土) 22:53:39 ID:0UY88oZulo
見てる人いるかわからないけど、今日も淡々と書いていきます。
今日はお酒がなかったので自販機で買ったココア。
そういえば誰かが、「ペットボトルのホット飲料はプラスチックが溶け出してるから健康に悪い」って言ってたけど、実際はどうなんだろう。


姉の話。

 私には同い年の姉がいる。姉は私と違って頭がよく、そして社交的だった。そして私のようなぼけっとした人間とも遊んでくれるような、とても良い姉だった。
 私にとって姉は唯一と言ってもいい、同い年の遊び相手で、私の憧れだった。殆ど信仰に近いレベルで尊敬していたと思う。
 もしくは、私は姉になりたかった。
 
 私は姉の真似をしたがった。
 姉の口調、姉の趣味、姉の服。
 姉がやっているゲームを私はやりたがった。
 姉が好きなものは、私も好きになった。

 多分、昔の私はかなり鬱陶しかったと思う。
 いつも姉のそばをうろついていたし、何でも真似をしまくっていたし。

 それでも幼い頃は一緒に遊んでいた。
 私と姉の違いが顕著になり始めた頃から、姉は私とあまり遊ばなくなったように思う。
 保育園で、学校で、姉は友達と遊び、私とは遊ばなくなった。
 コミュ障の私は友達が出来ずに、1人になった。

 たまに姉の友達に混じって遊ばせてもらったことがあるけど、馴染むことができなかった。
 疎外感というか、私1人だけ別の星からやってきた異星人みたいな気分だった。
13: 1:2020/2/22(土) 23:17:42 ID:0UY88oZulo
基本ネガティヴな性格なので、こんなふうに暗い話ばっかり書いてます。
楽しいことも色々あったはずなんだけど、はっきりと覚えているのは悲しいばかり。
といっても、私にとっての暗い話なので、他の人にとっては「それのどこが暗いの?」と思うかもしれません。



だいたい私の家族のことは書いたので、ここから時系列に沿って書いていこうと思う。
ただ、過去の私は今の私に比べてはるかに頭が悪かったので、あまり詳しいことは覚えていない。


【生まれてから保育園卒園くらいまで】

 
 とにかく私はいつもぼーっとしていた。馬鹿だった。
 どれだけ馬鹿だったかと言うと、寝転がりながら飲み物を飲んで、鼻に液体を逆流させていたぐらいだ。何度も懲りずにやっていた。行動による結果を予測することができなかった。そもそも、あの頃の私には過去や未来といった時系列が存在していなかった。
 しばしば、時間を数直線で表すことがあるけど、私の場合それがなく、「現在」という1つの点しか存在しなかった。
 向こう見ずと言うか無謀というか。ポジティブに捉えれば今を大事にするタイプ?

 何はともあれ、私はとにかく馬鹿だった。でも、文字の読み書きは普通にできていたし、お遊戯会でやる台本を覚えることはできていた。だから、知能においては問題はなかったんだと思う。
 問題は情緒面で、家族以外の人には関心を覚えなかった。自分の感情にも無頓着で、自己表現の方法が赤子の頃から一切発達していなかった。
 嫌なことがあった時は、嫌だと口でいうのではなく、大声で泣く。不快なことがあっても泣く。自分の思うようにことが進まないと泣く。
 周りからは我が儘な子供に見えていたと思う。でも実際あの頃の私はわがままだった。自分では処理しきれない感情を、周りの大人に処理してもらおうと躍起だった。
14: 1:2020/2/22(土) 23:48:57 ID:0UY88oZulo
 私は偏食で、好き嫌いが多かった。その一方で、自分の身なりや外観には関心がなかった。お洒落に興味がない。可愛いものに興味がない。服は親に全部任せていたし、髪の毛も親が結っていた。

 最近の子はどうか分からないけど、昔は結構「男の子らしい」「女の子らしい」といったものが沢山あった。私の母もそうだった。
 母は、私に可愛らしい服を着せた。髪を伸ばし、ツインテールにした。持ち歩く鞄や服はいつも赤色やピンク色だった。キャラクターものを持たせようとしていた。
 母が「可愛い」と私を褒めたので、「もしかしたら私は可愛いのかもしれない」と当時の私は思ったけど、やっぱりお洒落には興味がなかった。
 でも、「女の子らしく」という言葉の意味は知っていたので、漠然と「私は女の子なんだろうな」「私は女の子らしくしなければならないんだろうな」と思っていた。

 ある日、保育園でお遊戯会があった。
 子供たちは部屋の隅に集められた。
 ホワイトボードの前で先生が、「この中でやりたい役があったら手を上げてください」と、ボードを指差しながら言った。
 ボードには色々な役が書かれていた。
 与三兵衛、みたいな名前のいかにも江戸っぽい田舎者の名前に、なんか色んな種類の動物に、プリンセス、etc。それぞれの名前の下に、その役に割り当てられる人数が書かれていた。
 当時の私は、「なんで同じ名前の人が何人も必要なの?」とか「舞台が江戸なのか外国なのかよくわかんないな」とか思うことはあったけど、特に気に入った役は見つからなかった。
 そこで「女の子らしく」という言葉を思い出した。
 私は女の子なのだから、可愛らしい役をするべきなのだろう。なら、プリンセスが一番適している。
 
 先生が「プリンセス役やりたい人」と言うと、沢山の人が手を上げた。流石女の子に人気の役。あと、冗談なのか本気なのか、男子も手を上げていた。
 私も手を上げた。先生は指を差して人数を数えていた。
 
 ふと、私の前で先生の手が止まった。
 「ううん……>>1ちゃんはちょっと……」と言って、ホワイトボードに私と男子を除けた人数を書いた。
 そりゃないぜ、と今の私なら不満に思うけど、当時の私は、疑問にも思わなかった。不満に思うほど、その役に興味もなかった。
 結局私は、それから手を上げなかった。

 数日後、役が決まった。
 プリンセス役は3人。私は、プリンセスに抜擢された人を見て、なるほどと思った。
 3人は背が高いという共通点があった。私は背が低かった。だから、プリンセスに選ばれなかったんだと納得した。

 で、私はなんの役になったかというと、なんと主人公の役に選ばれた。与三兵衛。女の「お」の字もない役柄だった。
しかも、手を上げた覚えもない。

 こんなことを言ったら陰謀論みたいになってしまうけど、恐らくは母が根回ししたのだと思った。母は社交的で顔が広かったから、私を主人公にするのは造作もないことだと思った。

 私は結局、その主人公をやり切った。
 母はビデオカメラを回して嬉しそうにしていた。
 母が嬉しそうだったので私も嬉しかったが「全然女の子感ないけど、これで良いの?」とも思った。
15: 1:2020/2/23(日) 00:13:47 ID:0UY88oZulo
 家でも保育園でも、私はずっとボーッとしていた。
 
 保育園には沢山の遊びがあった。おままごと、絵本、折り紙、お手玉、あやとり。
 外には鉄棒やブランコ、縄跳び、ホッピングなどがあった。
 私はそれらに興味を持たなかった。
 ただ部屋でぼーっとしていた。
 ソファに座っていると、先生が話しかけてきた。本を持っていた。
「絵本読まない?面白いよ?」
 私は絵本を開いた。先生が隣で私を見ていた。私は絵本の挿絵をひたすら眺めていた。何が面白いのかわからなかった。
 でもひとつだけ印象に残っている本があった。
 「ブラックサンタクロースがやってくる」みたいな名前だったと思う。
 私は絵本の挿絵を見ながら、既視感を持っていた。
 どこかで聞いたことがある名前だな、と。
 芸人のブラマヨのことだった。

 外での遊びは苦手だった。
 冬には外に出してもらえなかったし、運動音痴のせいで、縄跳びすら飛べなかった。面白いと思わなかった。
 でも、ひとつだけ面白いのがあった。
 青色の、ザルみたいなおもちゃ。
 地面の砂をかけたら、小石と砂を分離してくれるやつ。
 私は、同い年の子がひたすら小石と砂を分けるのを、じっと見つめていた。

 ままごとは嫌いだった。
 みんな役に成り切ってワイワイはしゃいでいる。でも何が面白いのかわからなかった。
 私が部屋でぼーっとしてたら、誰かが私に木製のリンゴのおもちゃを投げつけてきた。頭に当たった。痛かったので、私はままごとがもっと嫌いになった。
 でも、好きなものもあった。
 木製のリンゴは2つの欠片で作られていて、真ん中をマジックテープで止められていた。玩具の包丁を割れ目にあてて力を入れると、マジックテープが音を立てて剥がれ、まるでリンゴを切ったみたいになった。
 その時の音が好きだった。
 おもちゃのイヤリングも好きだった。チェーンにショッキングピンクのハートの飾りがついた奴。耳に挟むと痛かった。その痛さが好きだった。

 ビデオの時間には、みんなでビデオを見た。つまらなかった。
 NHKの「牛方と山姥」を見た。部屋中子供の泣き声が響いて煩かった。

 同い年の男の子が「紙は美味しい」と言ったので、私も紙の端をかじってみた。不味かった。

 保育園には給食があった。
 プッチンプリンを上手く「プッチン」出来なくて不快だったのでプッチンプリンは嫌いだった。


 家に帰ると、私はひたすらノートに字を書いた。ノートは横に傍線をひいたもので、その線に沿って文字をひたすら埋めていくのが好きだった。
 特に自分の名前と、平仮名の「の」と「し」が好きだった。
 ノートを埋め尽くす「のしのしのしのしのしのし……」と言った文字の羅列。怖い。
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sage:


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