パラオ編
パラオは「世界一」の親日国とも言われてます。
そんなパラオと日本の歴史の友情をご紹介します。
【戦前までパラオは日本だった】
正確には、パラオは、日本の「委任統治領」だった。
「委任統治領」というのは、当時あった「国際連盟」によって国際連盟規約第22条に基づいて、国際連盟の指定を受けた国が、一定の非独立地域を統治する制度です。
この制度は通常、白人諸国が有色人種諸国を統治する、というより植民地として収奪するのにもちいられた制度です。
【スペインの統治】
もともとのパラオが、白人の植民地となったのは、明治18(1885)年のことです。
このとき植民地支配したのがスペインです。
スペインの統治は過酷で、明治32(1899)年に、ドイツの植民地になるまでのわずか14年ほどの間に、
スペイン人によってもたらされた天然痘や、略奪、殺戮の結果、パラオの人口は当時90%も減少したといわれています。
そして、もうこれ以上収奪するものがない、となったとき、スペインはわずか450万ドルで、パラオを含むミクロネシアの島々をドイツに売却します。
【ドイツの統治】
ドイツは、パラオの原住民を使い、ココナッツの栽培などをするけれど、現地人に対する教育や道路、流通の整備、産業の育成や法や行政諸制度の整備などは、まったく行っていません。
そしてドイツが、第一次世界大戦で負けた後、パリ講和会議において、国際連盟の結成とともに、パラオを含むミクロネシア地方一帯が、日本の委任統治領となったのです。
【日本の統治】
このパリ講和会議では、日本の牧野全権が、人種の平等を主張して、米英と激しく対立しています。
統治の委任を受けた日本は、さっそくパラオに南洋庁をおき、パラオに学校や病院、道路などを建設し、街のインフラの整備を図ります。
パラオの学校には、若き日の中島敦も赴任し、現地人のための教科書作りを行っています。
この頃の日本の領土は、たいへんに広いものだったのだけれど、そんななかで、パラオの子供たちは、日本本土を含む全日本共通テストで、なんと第二位を獲得しています。
子供たちも、たいへんに優秀だったのです。
ところで、教育を受けるための学校、あるいは医療を受けるための総合病院、あるいは車も走れる道路などは、いったいどのようにして造るのでしょうか。
まったくそういうものに、これまでずっと接していなかった現地の人たちに、いきなり「道路を作れ」と言われても、できる相談ではありません。
このことは、いまこれをお読みの、あなたが、(建設業関係のお仕事ではない人であるという前提で)、いきなり第二東京タワーを作れ、といわれるに等しい。
では、どうやって造るか。
日本は、日本の歳費を用いて、パラオに土木建築業者や教師、行政官吏を派遣したのです。
「やってみて、やらせてみて、ほめてやらねば、人は動かじ」です。
まずは日本人が、やってみせてお手本を示す。
そして、現地の人にも、すこしずつやってみてもらう。
そのうえで、成果があがったら、ともに喜びをわかちあう。
当時、パラオにいた先住民は、わずか6500人足らずです。
そこに日本は、なんと2万5千人もの人を派遣している。
そしてあらゆるインフラを整備したけれど、それはことごとく、日本の国費で賄われています。
【ペリリュー島の戦い】
昭和16(1941)年、大東亜戦争が始まりました。
日本は、同年、パラオ南部のペリリュー島に、1200メートルの滑走路2本の飛行場を完成させています。
パラオは、日本軍にとって、グアムやサイパンの後方支援基地として、また日本の絶対的防衛圏上の、重要な拠点だったのです。
ところが、フィリピン奪還に総力をあげる米軍にとって、フィリピン戦の背後をとるパラオ・ペリリュー島の日本軍基地は、まさに目の上のたんこぶです。
米軍は、アメリカ太平洋艦隊司令長官、連合軍中部太平洋方面の陸海空3軍の最高司令官であるチェスター・ニミッツ提督の指揮下、このパラオ・ペリリュー島の攻略作戦を計画する。
昭和18(1943)年の時点で、ペリリュー島には、899名のパラオの村人がいました。
刻一刻と迫る米軍。
村人たちは、白人統治の時代を知っています。
そして日本統治の時代も、身をもって経験しています。
日本兵と仲良くなって、日本の歌を一緒に歌っていた村人は、仲間たちと話し合ったそうです。
そして彼らは、大人も子供も、一緒になって日本軍とともに戦おうと決めます。
ちなみにパラオは、こうした議会には、村人が全員参加します。
そして誰かひとりでも反対者がいると、全員が了承するまで何日でも、議場に籠り続けて、みんなの意思を固める。
この習慣は、いまでもなお続くパラオの人々の伝統です。
全員一致で、日本軍とともに戦うと決めた彼らは、代表数人とともに、日本の守備隊長である中川州男(なかがわくにお)大佐のもとを訪れます。
平素、温厚な中川隊長なら、自分たちの頼み・・・一緒に戦う・・・を聞いてくれるに違いない。
そして中川隊長に、「自分たちも一緒に戦わせてほしい」と申し出ます。
彼らの訴えをじっと黙って聞いていた中川隊長は、ひとりひとりの目をじっと見つめると、瞬間、驚くような大声をあげた。
「帝国軍人が、貴様ら土人と一緒に戦えるかっ!」
烈迫の気合です。
村人たちは、ただ茫然とするほかなかった。
驚いた。
日本人は仲間だと信じていたのに、
・・・みせかけだったのか。。。。
村人たちは、日本人に裏切られた思いで、みんな悔し涙を流します。
いよいよ日本軍が用意した船で、パラオ本島に向かって島を去る日がやってきます。
港には、日本兵はひとりも、見送りに来ない。
村人たちは悄然として船に乗り込んだそうです。
そして、汽笛が鳴る。
船が岸辺を離れた。。。。
次の瞬間、ペリリュー島に残る日本兵全員が、浜に走り出てきました。
そして一緒に歌った日本の歌を歌いながら、ちぎれるほどに手を振って彼らを見送った。
そのとき、船上にあった村人たちは、わかったのです。
日本の軍人さん達は、我々村人を戦火に巻き込んではいけないと配慮したのだ、と。
涙が出た。
岸辺に見える日本兵に向かって、村人たちは、号泣しながら、手を振った。
誰もが泣いた。ちぎれるほどに手を振った。
昭和19(1944)年9月12日、ペリリュー島をめぐる日米の戦闘の火ぶたは切られます。
島に立てこもる日本軍10500名。
対する米軍総員48740名。
そして航空機による爆撃、軍艦からの艦砲射撃を行う米軍は、すでに補給を断たれた日本軍の数百倍の火力を投下します。
最初に米軍は、は艦砲射撃と高性能焼夷弾の集中砲火を浴びせ、周囲のジャングルを完全に焼き払った。
海上に築いた日本軍の防衛施設も、完全に破壊した。
そして9月15日、「2、3日で陥落させられる」との宣言の下、海兵隊を主力とする第一陣、約28000名が島に上陸します。
対する日本軍は地中深くに穴を掘り、米軍の上陸を待ち構えていた。
米軍の上陸用舟艇が、続々とやってきます。
島はじっと沈黙している。
米軍は、海岸に上陸し、そこに陣地を巡らし始めます。
そのときです。
突然の集中砲火が、米軍を襲います。
満を持した日本軍の反撃です。
水際での戦闘は凄惨を極めます。
米軍の第一次上陸部隊は大損害を蒙り、煙幕を焚いて一時退却するという場面もあった。
この戦闘によって米軍の血で海岸が赤く染まったのです。
いまでもこの海岸は「オレンジビーチ」と呼ばれています。
10月30日には米軍第1海兵師団が全滅します。
海兵隊の司令官はこの惨状への心労から、心臓病を発病して後方に送られています。
この時点で3日で終わるとされた戦いは、なんと1ヶ月半も継続されていたのです。
しかし、日本軍には、補給が一切ありません。
日本軍の抵抗は次第に衰えを見せ、米軍の火炎放射器と手榴弾によって日本軍の洞窟陣地は次々と陥落していきます。
さらに食料や水もない。
夜陰に紛れて、仲間のために水を汲みに行って米軍の猛火に遭う。
このため、水場の近くには、日本兵の死体がかさなりあっていたといいます。
11月24日、日本軍は司令部陣地の兵力弾薬も底を尽き、司令部は玉砕を決定します。
中川州男隊長、村井権治郎少将、飯田義栄中佐が割腹自決を遂げる。
その後に、玉砕を伝える「サクラサクラ」の電文が本土に送られます。
そして翌朝にかけて、根本甲子郎大尉を中心とした55名の残存兵力による最後の突撃攻撃が行われた。
こうして11月27日、ついに米軍はペリリュー島の占領を果たします。
米軍の上陸開始から2ヵ月半が経過してのことです。
中川隊長の異例の奮闘に対しては、昭和天皇より嘉賞11度、感状3度が与えられています。
また中川隊長は死後に2階級特進し陸軍中将となった。
なお、戦闘終結後も生き残りの日本兵34人が洞窟を転々として生き延びており、終戦の2年後まで戦い続け、昭和22(1947)年に投降しています。
【ペリリュー島の戦い戦死者】
・日本軍
戦死者 10,695名
捕虜 202名
・米軍
戦死者 2,336名
戦傷者 8,450名
・村人
死者 0名
負傷者 0名
【戦死者一万余名の「護国の英霊」】
戦いが終って帰島した彼らは、日本人の遺体を見て泣きました。「アメリカ人は、日本人の遺体には見向きもせず、自国兵の遺体だけを整理した。
ここに、征服民族の本性を見る」として、島民はこぞって日本軍の遺体を葬りました。
日本の人達がいつ来てもよいようにと、その後も墓地の清掃に心掛けました。
現在も島民の親日感情は極めて強く、沖山豊美(やまとよみ)という日本名を持つ女史は、日本統治時代をなつかしみ、「愛国行進曲」を間違わずに歌ってみせ日本人と見れば、
「日本という国は何千年来の伝統を持ち、独自の文化を創りあげてきた。その結晶が天皇と教育勅語だ」
という趣旨を、熱っぼく語り、日本人の度胆を抜くそうです。
さらに彼らは、ペリリューを守って玉砕した一万人余の英霊を決して忘れていません。
日本から遺骨収拾に行くと、
「戦死者は母なる大地ペリリューに抱かれているのだ。収拾などしないで、静かに眠らせてほしい」
と言うそうです。
現在、島の中央部に近い「島民墓地」の一角に、高さ約四メートルの「みたま碑」(三角錐型)が建っています。
それを中心に、日本の各団体によって三十数基の慰霊碑が肩を寄せあうように建立されました。
そして昭和五十七年五月には、「青年神職南洋群島慰霊巡拝団」(清流社会長・滑川 裕二(なめかわゆうじ)氏主催)二十名が、船坂弘(ふなさかひろし)氏の助力を得て、ペリリュー神社を創建しました。
すべて日本から運搬した材料を使い、島民の多大の協力を得て、十日間を費して完成しました。御祭神は天照大神と戦死者一万余名の「護国の英霊」です。
現在、神社前の左の掲示板には、ペリリュー島のイサオ・シゲオ尊長(そんちょう)によってこの趣旨が書かれています。
戦闘の経過が要約され、米国公刊戦史に載っているとして、次の詩的な一文で結ばれています。
「この島を訪れる、もろもろの国の旅人たちよ。あなたが日本の国を通過することあらば伝えてほしい。此の島を死んで守った日本軍守備隊の勇気と祖国を憶うその心根を……」
この詩は、戦終ればかつて敵であった日本軍の忠勇武烈ぶりを、このように讃えております。そしてこの島を訪れる旅人に、その勇戦ぶりを伝えてくれ、と戦死者に代って願っているのです。
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【オレンジビーチ】
我が軍としては、二十四日をもってペリリュー島は玉砕したものと確認していました。ところが、中川隊長の最期や命令を知るすべもなかった西海岸守備隊は、その後も抵抗を続けました。
米軍から武器弾薬はもとより食糧衣類を奪い、神出鬼没のゲリラ戦を続けていました。山口永少尉以下、陸海軍の生き残り兵三十四名。
それも敗戦後の昭和二十二年四月二十二日まで、彼らはおよそ二年半にわたって戦闘を続行したのでした。
この生き残り兵の大半は、最初米軍が西海岸に上陸した時、最も果敢に戦った勇者たちでした。米軍は占領後、激戦の行われた西海岸をオレンジ・ビーチと名づけました。
それは、アメリカ兵の血で美しい珊瑚の海面がオレンジ色に染まったからだ、といいます。現在「オレンジ・ビーチ」は、ペリリュー島の正式名になっております。
ニミッツ提督はその著『太平洋海戦史』(重松譲・富永謙吾共訳〉の中で、ペリリュー島の戦闘に相当のページをさき、次のように結んでいます。
「ペリリューの複雑極まる防備に打ち克つには、米国の歴史における他のどんな上陸作戦にも見られなかった最高の戦闘損害比率(約四〇パーセント〉を甘受しなければならなかった。既に制海権制空権を持っていた米軍が、死傷者あわせて一万人を超える犠牲者を出して、この島を占領したことは、今もって疑問である」
【ペリリュー島守備隊を讃える歌】
1981年、パラオ共和国が誕生したとき、パラオの人々は、独立を記念して、ペリリュー島守備隊を讃える歌をつくりました。
一 激しく弾雨(たま)が降り注ぎ
オレンジ浜を血で染めた
つわものたちはみな散って
ペ島はすべて墓(はか)となる
二 小さな異国のこの島を
死んでも守ると誓いつつ
山なす敵を迎え撃ち
弾射ち尽くし食糧もない
三 ヘいしは桜を叫ぴつつ
これが最期の伝えごと
父母よ祖国よ妻や子よ
別れの”桜"に意味深し
四 日本の”桜"は春いちど
見事に咲いて明日は散る
ペ島の”桜"は散り散りに
玉砕れども勲功はとこしえに
五 今もののふの姿なく
残りし洞窟の夢の跡
古いペ島の習慣で
我等勇士の霊魂守る
六 平和と自由の尊さを
身をこなにしてこの島に
教えて散りし"桜花"
今では平和が甦る
七 どうぞ再びペリリューヘ
時なしさくらの花びらは
椰子の木陰で待ちわびし
あつい涙がこみあげる
【パラオ国旗】
平成6(1994)年、パラオはアメリカから独立をはたしました。
独立にあたり国旗を制定することになり、国民の間からデザインを一般公募した結果、日の丸をもじった今のデザインが採用となりました。
[写真を見る]
周囲の青は太平洋。まんなかの黄色い円は月をあらわします。
月は日章旗の太陽との友好を示すものなのだそうです。
そして、パラオの国旗の満月は日の丸の旗の太陽とは違って,中心から少しズレています。
日本に失礼だからと,わざと中心をはずしたのだそうです。
これはパラオの人たちの慎み深い態度を表しているのだそうです。
※おまけ
【親日国家パラオを支援しよう 呼びかけが口コミで広がり義援金は1900万円に】
2013年11月上旬にフィリピンを襲った台風30号は、太平洋の島国パラオの一部にも壊滅的な被害を与えた。
日本国内ではあまり知られていなかったが、親日国家パラオを支援しようとの呼びかけが口コミなどで広がり、義援金は約1900万円に達した。
義援金の証明書は3日、来日中のレメンゲサウ大統領に手渡された。
パラオ北部では、北端カヤンゲル州での全戸倒壊を含め、家屋300戸以上が被害を受けた。
パラオ政府の要請を受け、日本政府は11月15日、200万円相当の緊急援助物資の提供を発表した。
在日パラオ大使館などによると、発表後、大使館への義援金の申し入れが相次ぎ、ネットには「親日国にわずか200万円か」と金額の少なさを疑問視する声が見られるようになった。
集まった義援金は12月3日現在で1923万円となり、米国政府の支援金10万ドル(約1030万円)を上回った。
大統領は同日、都内の大使館で、マツタロウ駐日大使から口座の証明書を受け取った。
大統領は「最も早く人道支援に応じてくれたのも日本政府だったが、日本の一般の人々の心にそれ以上に感謝している」と述べた。
パラオは第一次世界大戦後に日本が委任統治。戦後も対日関係を重視している。
【バングラデシュ首相「国旗は日の丸から」父の秘話明かす】
パラオ編とは関係ありませんがバングラデシュの国旗も日本との繋がりがあります。
来日中のバングラデシュのシェイク・ハシナ首相は27日、東京都内の早稲田大学で講演し、
父親で初代大統領などを務めたラーマン氏が、独立に伴う1972年の国旗制定時に「日本に魅せられ、日の丸のデザインを取り入れた」との秘話を明かした。
バングラデシュ国旗は日の丸とほぼ同じ柄で、豊かな自然を表す緑の地に、独立のために流した血を示す赤い丸が描かれている。
ラーマン氏は「農業国だった日本が工業国に発展したように、バングラデシュも将来は工業国になるべきだ」と話していたという。
日本とのつながりをアピールしたハシナ氏は「貧困削減や経済発展には教育が不可欠。日本の援助は喜ばしい」と述べ、友好と経済協力を呼びかけた。
▼バングラデシュ国旗
[写真を見る]
▽参考サイト
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-525.html
http://www2s.biglobe.ne.jp/nippon/nagoshi/palau.htm
他、参考サイトやwikiなど
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