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【歴史】原住民と学ぶインドネシア独立と大日本帝国の関係
Part9


445 :名無しさん@おーぷん :2015/03/28(土)22:47:28 ID:4ZV
彡(゚)(゚)「オラオラ、観念せーや!」
(・豪・)「ぐっ…つ、強い!」
(・蘭・)「降参します」
(・豪・)「ファッ!?」
(・豪・)「オランダ軍なんかもう知らん!絶対に死守してやる!!」
彡(゚)(゚)「うおぉ!?」

446 :名無しさん@おーぷん :2015/03/28(土)22:48:30 ID:4ZV
彡(゚)(゚)「ふ〜、なんとか制圧したで」
彡(゚)(゚)「オランダは早々に降参したくせに、オーストラリアの奴らめ…」
彡(゚)(゚)「(チャカッ」ターン
(豪)「」
(・蘭・)「ファッ!?」
彡(^)(^)「これでスッキリやね」
もう一つのアンボン事件。
アンボンを制圧した日本軍が、オーストラリア軍の捕虜を不法に処刑しました。
また、アンボン収容所に収容された捕虜のうち、全体の2/3にあたる378名が死亡しています。
この事件は日本ではあまり知られていませんが、やられたオーストラリアではよく知られています。

447 :名無しさん@おーぷん :2015/03/28(土)22:49:32 ID:4ZV
オーストラリア映画『BLOOD OATH』
オーストラリア軍事法廷
(・裁・)「それでは開廷します。」
(・裁・)「まずは日本の最高責任者」
彡(゚)(゚)「ワイは悪くない!ワイは悪くないで!」
(☆●●●●)「…あ〜、ちょっといいかね?」
(・裁・)「はい?」
(☆●●●●)「この者はこちらアメリカで裁くことにするから」
(☆●●●●)「引き取らせてもらうよ」
(・裁・)「は、はぁ…わかりました」
彡(^)(^)「やったぜ。」

448 :名無しさん@おーぷん :2015/03/28(土)22:50:33 ID:4ZV
(・裁・)「じゃあ次は…最も悪そうな現場指揮官」
彡(゚)(゚)「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛」
(・裁・)「ファッ!?」
彡(゚)(゚)「アカン…もうアカン…」
彡(゚)(゚)「アカンアカンアカンアカンアカンアカンアカンアカンアカン」
彡(゚)(゚)「………」
彡(^)(^)「(ニッコリ」
(セップクー
(・裁・)「」

449 :名無しさん@おーぷん :2015/03/28(土)22:51:35 ID:4ZV
(・裁・)「これは困りましたね」
(・裁・)「日本人を一人も裁けていません」
(・裁・)「ところで、そこの日本人は?」
彡(゚)(゚)
(・蘭・)「はい、彼は今回の法廷で通訳を任されています」
(・蘭・)「とても良心的なキリスト教徒なんですよ」
(・裁・)「そうですか、分かりました」
(・裁・)「ではその日本兵を銃殺にします」
(・裁・)「これで一件落着ですね」
戦後のオーストラリア軍事法廷を題材としたオーストラリア映画『BLOOD OATH』。
そこで描かれる、裁判の形をした日本人への復讐は、当時の様子・心情をよく代弁しているのではないかと思われます。
【豆知識『アンボン事件』 完】

450 :名無しさん@おーぷん :2015/03/28(土)22:52:37 ID:4ZV
1943年
(●●●●●●●)「ビルマとフィリピンの独立を容認するで〜」
(●●●●●●●)「南方各島には速やかに政治参与の措置を取るで〜」
(´・ω・`)「…。」

451 :名無しさん@おーぷん :2015/03/28(土)22:53:40 ID:4ZV
1943年2月
(●●●●●●●)「来たで〜」
東条首相がジャワ島を訪問したそうです。
(●●●●●●●)「ワイらは東インドを解放するために来たんやで〜」
(●●●●●●●)「せやから原住民も戦争に協力するんやで〜」
(´・ω・`)「…。」

452 :名無しさん@おーぷん :2015/03/28(土)22:54:44 ID:4ZV
1943年3月
( ・`ω・´)「民衆運動の許可をお願いします」
彡(゚)(゚)「せやなぁ…まぁ民衆を戦争に協力させられるならええか」
( ・`ω・´)「それでは新しい民衆運動は『民衆総力結集運動』と命名させて頂きます」
彡(゚)(゚)「せやな、好きにするとええで」
民衆総力結集運動。(Pusat Tenaga Rakjat)
スカルノとハッタが担ぎ出されたこの運動は、インドネシアではその頭文字を取り”プートラ運動”と呼ばれました。
( ・`ω・´)「日本軍はこの運動を戦争に利用しようとしてるけど…」
( ・`ω・´)「それはぼくの考えとは違う」
( ・`ω・´)「ぼくはこの運動で東インドのみんなの民族意識を高揚させるよ」
( ・`ω・´)「ぼくたちは何としてでも独立するんだ」

453 :名無しさん@おーぷん :2015/03/28(土)22:55:35 ID:4ZV
1943年5月。
(●●●●●●●)「フィリピンを独立させるで〜」
(´・ω・`)「…。」

454 :名無しさん@おーぷん :2015/03/28(土)22:56:25 ID:4ZV
1943年8月
(●●●●●●●)「ビルマを独立させるで〜」
(´・ω・`)「…。」

455 :名無しさん@おーぷん :2015/03/28(土)22:57:26 ID:4ZV
1943年9月
(´・ω・`)「…ねぇ、独立は…?」
彡(゚)(゚)「あ、そや」
彡(゚)(゚)「ジャワ島に”中央参議院”を設立するで〜」
彡(゚)(゚)「これで原住民も政治に参加できるんやで〜」
彡(゚)(゚)「スカルノが議長に就任して、ハッタは議員になるんやで〜」
(´・ω・`)「………。」

456 :名無しさん@おーぷん :2015/03/28(土)22:58:37 ID:4ZV
1943年11月5日
彡(゚)(゚)「日本へようこそやで〜」
(・満・) (・中・) (・比・) (・緬・) (・印・) (・泰・)
大東亜会議。
東条首相の主宰により、大東亜共栄圏内の各国から代表者が招待されました。
満州国:張景恵総理
中華民国南京政府:汪精衛院長
フィリピン:ホセ・ペ・ラウレル大統領
ビルマ:ウー・バー・モウ首相
インド:自由インド仮政府首班チャンドラ・ボース
タイ国:ワンワイタヤコーン殿下(首相代理)
そして日本の東条英機首相が一同に揃ったのでした。
後に彼らの多くは”日本の傀儡”として断罪されます。
ですが、当時の彼らは皆、アジア解放の実現に誇りを持っていました。
未だ独立が認められないインドネシアは、この会議には呼ばれませんでした。

457 :名無しさん@おーぷん :2015/03/28(土)22:59:41 ID:4ZV
1943年11月13日
( ・`ω・´)「やっと、着いた。ここが日本かー」
(^)'・▲・`(^)「いいからほら、さっさと行くよ」
(^)'・▲・`(^)「今日はまだやることがあるだから」
大東亜会議の8日後。
ジャワ島代表スカルノと同行者ハッタは日本に招待されました。

458 :名無しさん@おーぷん :2015/03/28(土)23:00:44 ID:4ZV
( ・`ω・´)「すごい歓迎っぷりだったねー」
( ・`ω・´)「明日は工場見学だってさ、楽しみだねー」
(^)'・▲・`(^)「…そうだね」
17日間の滞在中、彼らは接待漬けの毎日を送りました。
連日の歓迎行事、昭和天皇との握手、各地の工場見学など。
青年スカルノはそれに感激しました。
牢獄と流刑を繰り返したスカルノにとって、日本は生まれて初めての異国。
そして日本というアジアの小国が備える近代設備に驚きました。
(^)'・▲・`(^)「………。」
しかし同行者ハッタにはオランダ留学の経験がありました。
彼にとって日本の工場見学などは、そこまで目新しいものではなかったのかもしれません。

459 :名無しさん@おーぷん :2015/03/28(土)23:02:04 ID:4ZV
( ・`ω・´)「今回はお招き頂きありがとうございました」
彡(^)(^)「いやいや、こちらこそ楽しんで頂けて何よりなんやで」
( ・`ω・´)「それで、インドネシアの独立の件なんですけど…」
彡(^)(^)「……せやな、分かっとるで」
彡(^)(^)「せやけどまだ時期が悪いんや」
彡(^)(^)「もう暫く時間がかかるかもしれん」
彡(^)(^)「すまんな」
( ・`ω・´)「そうですか…」
(^)'・▲・`(^)「………」

460 :名無しさん@おーぷん :2015/03/28(土)23:03:04 ID:4ZV
彡(^)(^)「………」
彡(^)(^)「………」
彡(゚)(゚)「………行ったか」
彡(゚)(゚)「独立なぁ…?」
彡(゚)(゚)「そんなん無理に決まっとるやん」
彡(゚)(゚)「何のためにわざわざ東インドまでやって来たと思っとるん」
彡(゚)(゚)「石油や、石油。東インドの石油」
彡(゚)(゚)「フィリピンやビルマと違って、東インドの石油は重要や」
彡(゚)(゚)「手放せるわけないやん?」

461 :名無しさん@おーぷん :2015/03/28(土)23:04:04 ID:4ZV
彡(゚)(゚)「……まぁそろそろ抑えておくのも難しいかもしれん」
彡(゚)(゚)「ひとまず、民主主義運動が活発なジャワ島だけ」
彡(゚)(゚)「あそこだけ独立させるのも手かもしれんな」
彡(゚)(゚)「”東インド独立”ではなく”ジャワ島独立”」
彡(゚)(゚)「これならスマトラ島周辺の油田はワイらのもんや」
彡(゚)(゚)「せやから今回は”ジャワ島代表”を呼んだんや」
彡(゚)(゚)「…まぁ、解答を出すにはまだ早い」
彡(゚)(゚)「もう暫く、適当にはぐらかし続けるで」

462 :名無しさん@おーぷん :2015/03/28(土)23:04:45 ID:4ZV
(^)'・▲・`(^)「…なんて、思ってるんだろうなぁ」
(^)'・▲・`(^)「スマトラ島出身のぼくにとっては面白くない話だね」
(^)'・▲・`(^)「今回もスカルノばかりがちやほやされて、なんだかなぁ…」

463 :名無しさん@おーぷん :2015/03/28(土)23:05:46 ID:4ZV
・豆知識『ビルマ(ミャンマー)』
1943年8月1日。ビルマの独立が宣言されます。
”傀儡国家”とも批判されるこの国は、終戦と共に事実上の解体がなされました。
後のミャンマー政府は”ビルマ国”との連続性を認めていません。
しかし”ミャンマー国軍”については、1942年に創設されたビルマ独立義勇軍(BIA)を始まりとしています。

464 :名無しさん@おーぷん :2015/03/28(土)23:06:43 ID:4ZV
・豆知識『南機関』
1941年から1942年に存在した日本軍特務機関の一つ。
ビルマ独立運動の支援を任務とし、ビルマ独立義勇軍(BIA)の誕生に貢献しました。
1981年4月。
ミャンマー政府より、独立に貢献したとして南機関・鈴木敬司ら旧日本軍人7人に、国家最高栄誉の勲章が授与されています。
彼らは今日の日本とミャンマーとの友好関係の基礎を築いたとも評価されています。

465 :名無しさん@おーぷん :2015/03/28(土)23:07:44 ID:4ZV
・豆知識『フィリピン』
1935年。アメリカはフィリピンに独立の約束をしました。
その流れに乗って1943年、日本はビルマと共にフィリピンも独立させます。
”傀儡国家”とも批判されるこの国は、終戦と共に事実上の解体がなされます。
終戦後。フィリピンは再びアメリカの植民地に戻らざるを得ませんでした。
しかし1946年、戦前の約束がマニラ条約により果たされ、フィリピン第三共和国が再独立したのでした。

466 :名無しさん@おーぷん :2015/03/28(土)23:09:19 ID:4ZV
本日の更新はここまでです。続きは鋭意執筆中…。
ここから先は進行状況が今ひとつなので、また少し時間がかかるかもしれません。
ひとまず明日と明後日の更新はないと思われます。
もう暫くお待ち下さい…。

467 :名無しさん@おーぷん :2015/03/28(土)23:27:16 ID:fBJ
イッチさん乙です

479 :名無しさん@おーぷん :2015/03/29(日)21:52:59 ID:z1Q
本日の更新はありません。
ただ、どこに入れるか迷った豆知識がありましたので、それを少し書いておきます。
明日の更新もおそらくありません。
今暫くお待ち下さい…。

480 :名無しさん@おーぷん :2015/03/29(日)21:54:22 ID:z1Q
・豆知識『南方特別留学生』
日本の南方占領地から、国費留学生として約200名の高校在学者・卒業者が日本に招聘されました。
インドネシアでは軍政開始と共に3大学全てが閉鎖されたため、
日本留学は専門教育・大学教育を受けられる唯一の機会でした。
試験による選抜方法は地域で差があり、
インドネシアからは1943年に52名、1944年に29名が招聘されたそうです。
1944年は既に日本の制海・制空権が奪われていたため、日本渡航がとても危険な状態でした。

481 :名無しさん@おーぷん :2015/03/29(日)21:55:32 ID:z1Q
1年目。
彼らは目黒の日本語学校で語学研究を受けます。
2年目になるとそれぞれの専攻毎に振り分けられ、各地で専門教育を受けました。
 宮崎(農業)、久留米(工業)、熊本(医学)、広島(教育)、徳島(工業)、岐阜(農業)、横浜(警察)
そして3年目になると、彼らは京都帝大、広島文理大(広島大)、陸軍士官学校などに入学しました。
留学生には月額100円〜120円の奨学金が支給され、
当時の物資難はあったものの、経済的にはあまり困窮しませんでした。

482 :名無しさん@おーぷん :2015/03/29(日)21:56:33 ID:z1Q
やがて戦局悪化に伴い、留学生も戦災に遭うようになります。
神奈川県相武台では、ジャワ島からの留学生が一人、米軍の機銃掃射で死亡しています。
東京での空襲が本格化すると、留学生は各地方都市に移されました。
しかし、東京壊滅後は逆に地方都市への空襲が激化。
各地で行き場を失った留学生たちは、再び焼け跡の東京に戻らざるを得ませんでした。
そして広島への原爆投下。
当時7人の留学生が広島文理大で学んでいましたが、その全員が被爆。
1人が避難先で死亡。もう1人が9月初めに死亡しました。
各地で戦災に遭う留学生が多発する中、京都帝大にいた学生は何とか難を免れたそうです。

483 :名無しさん@おーぷん :2015/03/29(日)21:57:34 ID:z1Q
終戦と共に留学生受け入れは中止。
マラヤ・ビルマ・フィリピンなど、旧宗主国が復活した国の留学生には帰国命令が出たため、
彼らは学業半ばで帰国させられることになりました。
日本での残留を希望した者は、
駐留連合軍で通訳などの仕事をしながら勉学を継続し、1950年代初めには学業を終えて帰国しました。
彼らの多くは「日本人は親切で、差別もなかった」と感謝の気持ちを述べ、
寧ろ戦時下の苦しい生活を共に過ごした日本庶民への同情すらありました。
そして多くの留学生が日本人女性と結婚したそうです。

484 :名無しさん@おーぷん :2015/03/29(日)21:58:35 ID:z1Q
その後。
帰国した留学生たちの多くは、政治家・教育者・実業家・法律家など、祖国の政治・経済の中核を担いました。
また、知日家として各分野で日本企業との架け橋になった者も多かったそうです。
【豆知識『南方特別留学生』 完】

485 :名無しさん@おーぷん :2015/03/30(月)21:31:25 ID:0b3

オランダって土下座外交のイメージ強かったけどそうじゃない時期もあったんやな