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【歴史】原住民と学ぶインドネシア独立と大日本帝国の関係
Part22


99 :名無しさん@おーぷん :2015/05/04(月)23:36:12 ID:kUi
( ・`ω・´)
スカルノ。
ハッタと共に”建国の父”と呼ばれる人物。

100 :名無しさん@おーぷん :2015/05/04(月)23:36:26 ID:jAt
イッチ約2ヶ月お疲れやでー

101 :名無しさん@おーぷん :2015/05/04(月)23:36:39 ID:jAt
勉強させてもらったわ

102 :名無しさん@おーぷん :2015/05/04(月)23:37:08 ID:jAt
あら?もう少し続く?

103 :名無しさん@おーぷん :2015/05/04(月)23:37:23 ID:kUi
後に彼は”独裁者”として君臨し、”終身大統領”となります。
シャフリルを退け、ハッタとも袂を分かつこととなりました。

104 :名無しさん@おーぷん :2015/05/04(月)23:38:34 ID:kUi
好色、好戦、浪費、容共。
この4つがスカルノの特長であり、欠点でした。
特に、晩年、スカルノには第四夫人までが存在し、更にそれ以外にも二人以上の愛人がいたそうです。
昼寝用の女性が毎日取っ替え引っ替え同衾し、婦人なしではいられない病気だったとも言われています。

105 :名無しさん@おーぷん :2015/05/04(月)23:39:44 ID:kUi
”9月30日事件”。
このクーデターを境に、スカルノのカリスマ性は地に落ちます。
”終身大統領”の称号は返上させられ、晩年は宮殿に幽閉されていたそうです。

106 :名無しさん@おーぷん :2015/05/04(月)23:40:56 ID:kUi
1970年、死去。享年69歳。
その最期は宮殿の中で一人、ひっそりと。
多くの家族を持ちながら、その誰にも見取られず。
数多の称号を持ちながら、その墓碑銘には”工学技師”としか刻まれず。
”建国の父”としては寂しい、最期でした。

107 :名無しさん@おーぷん :2015/05/04(月)23:42:07 ID:kUi
・豆知識『デヴィ・スカルノ』
本名・根本七保子。
好色のスカルノ大統領に取り入る目的で、日本があてがった女性です。
イスラム教では、4人の妻までがコーランで認められていました。
既に同じ目的で送り込まれた女性がいましたが、用済みとなった彼女は自殺したそうです。
なお、マスコミの執拗な取材で体調を崩した実母は亡くなり、その二日後には実弟が自殺しています。
彼女の名”デヴィ”は、インドネシアの稲の女神”デウィ・スリ”から取ったものです。
スカルノの複数妻問題、外国人を第三夫人に迎えたこと、女神の神聖な名を与えたこと。
これらは問題になりましたが、独裁者スカルノを批判することは誰にもできませんでした。
やがて彼女は、スカルノから”インドネシア・日本親善協会会長”に任命されます。
日本との経済関連事項、利権の絡む物件に口を挟むようになり、日本も国をあげてそれを利用しました。
”9月30日事件”にて。
デヴィ夫人は日本大使館に保護を求めますが、政治的行為になるとして断れます。
海外へ逃亡したデヴィ夫人は、その後スペインの貴族と再婚し、離婚。
後に、彼女の裸の写真集が刊行された時は、インドネシア当局も困惑したそうです。

108 :名無しさん@おーぷん :2015/05/04(月)23:43:20 ID:kUi
・豆知識『賠償協定』
1958年1月20日。ジャカルタにて、日本とインドネシアの賠償協定が締結されます。
インドネシアの経済悪化に伴い、協定締結は早急に済まされました。
総額2億2300万ドル(当時803億円)。これを物資か役務で提供。
その他貿易債権破棄、経済協力4億ドルを加えると、総額約8億ドルの規模だったそうです。
当時のインドネシアは地方の反乱、オランダがインドネシアから船舶を引き揚げるなどで、
船舶が大幅に不足し、軍事・経済の両方に支障をきたしていました。
インドネシア側はとにかく船舶を要求し、日本側は足元を見る形で、中古船を高額で売り飛ばしたそうです。
賠償では他に、ダム、橋、工場などの有用なものから、ホテルやデパートなどのスカルノ大統領好みの物も贈られました。
前述のデヴィ・スカルノ夫人も、その一環と思われます。
この”インドネシア賠償汚職”は中々に真っ黒で、1959年には日本の国会でも取り上げられたそうです。
なお、スカルノ大統領は反米を煽り、外国企業農園への不法接収を黙認しました。
そのため、外国企業は相次いで撤退。
結果、”戦時賠償”という特殊な関係の日本のみが、外国との唯一の繋がりとなるのでした。

109 :名無しさん@おーぷん :2015/05/04(月)23:44:17 ID:nUB
やっぱソ連ドーピングはアカンな

110 :名無しさん@おーぷん :2015/05/04(月)23:44:33 ID:kUi
(^)'・▲・`(^)
ハッタ。
スカルノと共に”建国の父”と呼ばれる人物。

111 :名無しさん@おーぷん :2015/05/04(月)23:45:45 ID:kUi
スカルノとハッタ、そしてシャフリル。
彼らは一枚岩ではなく、対立も多かったそうです。

112 :名無しさん@おーぷん :2015/05/04(月)23:46:54 ID:kUi
スカルノは”土着派”……”土着的・権威主義思想”を持つ人物です。
それに対して、シャフリルは”西欧派”……”西欧的・合理主義思想”を持つ人物でした。
思想の異なるスカルノとシャフリルは、よく対立しました。

113 :名無しさん@おーぷん :2015/05/04(月)23:48:07 ID:kUi
ハッタは”西欧派”だったため、シャフリル寄りの人物でした。
ですが彼は、スカルノら”土着派”の思想もよく理解していました。
そのため、スカルノとシャフリルが対立すると、ハッタが二人を調停することが多かったそうです。
彼らは絶妙なバランスで成り立っていたのでした。

114 :名無しさん@おーぷん :2015/05/04(月)23:49:16 ID:kUi
やがて、シャフリルが失脚します。
残ったスカルノとハッタは、様々な方針を巡って対立します。
ハッタはスカルノの”容共産主義”や、”政権の汚職体質”も批判したそうです。

115 :名無しさん@おーぷん :2015/05/04(月)23:50:30 ID:kUi
そして、遂にハッタは辞任を決断します。
スカルノとハッタは、決別したのでした。
残されたスカルノは独裁化を加速し、”9月30日事件”に行き着くのでした。

116 :名無しさん@おーぷん :2015/05/04(月)23:51:40 ID:kUi
その後、ハッタが政界に復帰することはありませんでした。
後に、政界での汚職や不正批判が高まるたび、”ハッタ待望論”が唱えられたこともありました。
しかし彼は静かに、政界の行く末を眺め続けたのでした。

117 :名無しさん@おーぷん :2015/05/04(月)23:52:52 ID:kUi
1980年、死去。享年77歳。
スカルノの良きパートナー、ハッタ。
彼は最期まで、スカルノと決別したままでした。

118 :名無しさん@おーぷん :2015/05/04(月)23:54:01 ID:kUi
(*・公・*)
シャフリル。
独立宣言後、インドネシア初代首相となった人物。

119 :名無しさん@おーぷん :2015/05/04(月)23:55:09 ID:kUi
彼は、日本への協力者を厳しく批判した”非日協力者”です。
そのため、彼が最高権力者となることで、独立戦争中も、オランダとの外交交渉が可能となっていました。

120 :名無しさん@おーぷん :2015/05/04(月)23:56:24 ID:kUi
首相から降りた後。
彼は政府顧問として諸国を遊説し、インドネシア独立の支援を説いて回りました。
国連でも積極的に支援を求め、彼の求めに応じて国連が動いた形となりました。
彼もまた、独立戦争の貢献者でした。

121 :名無しさん@おーぷん :2015/05/04(月)23:57:38 ID:kUi
なお、シャフリルは社会党を結成していました。
そして、シャリフディンの社会党と合併し、新たな社会党を結成していました。
しかし”レンヴィル協定”の混乱の際、シャフリルはシャリフディンではなくハッタを支持。
社会党は分裂し、シャリフディン派はインドネシア共産党に合流。
そして”マディウン事件”が勃発するのでした。

122 :名無しさん@おーぷん :2015/05/04(月)23:58:46 ID:kUi
独立戦争終結後。
インドネシアで史上初めての、総選挙が実施されます。
シャフリルは自身の社会党を率いて総選挙に挑みます。
しかし得票率わずか2%。惨敗でした。

123 :名無しさん@おーぷん :2015/05/04(月)23:59:57 ID:kUi
弱小政党となった社会党は復活を目指しますが、
1958年”スマトラ反乱”に党関係者が参加していたため、社会党は活動停止処分。
更に1962年、政権転覆を謀ったとして、シャフリルはスカルノ政権に逮捕されてしまいます。
こうしてシャフリルは、スカルノに”長年の政敵”として、葬り去られてしまったのでした。

124 :名無しさん@おーぷん :2015/05/05(火)00:01:02 ID:zep
その後、シャフリルは病気を理由にスイスへ出国、亡命。
1966年、亡命先のスイス・チューリッヒで死去。
享年57歳でした。
その後、スカルノが失脚した頃。
彼の遺体は、インドネシアに帰還します。
彼もまた、英雄墓地に埋葬されたのでした。

125 :名無しさん@おーぷん :2015/05/05(火)00:02:12 ID:zep
彡(゚)(゚)
柳川宗成。
”タンゲラン青年道場”で指導に当たり、後のインドネシア共和国軍・幹部を育成した人物。

126 :名無しさん@おーぷん :2015/05/05(火)00:03:15 ID:zep
残念ながら、彼は”インドネシア独立戦争”に参加することはできませんでした。
終戦後、彼は日本への帰還を余儀なくされたのでした。

127 :名無しさん@おーぷん :2015/05/05(火)00:04:19 ID:zep
1964年。
柳川は家族と共に、再びインドネシアへ渡ります。
そして日本料理店を営み、インドネシアに永住しました。
1985年9月、死去。
彼は今でも、インドネシアの地で眠り続けています。

128 :名無しさん@おーぷん :2015/05/05(火)00:05:20 ID:zep
彡(゚)(゚)
前田精。
”独立養正塾”を設立し、民主主義運動家を支援。
独立宣言時には、その邸宅を提供した人物。

129 :名無しさん@おーぷん :2015/05/05(火)00:06:19 ID:zep
戦後。前田は不遇が続き、経済的に失敗したそうです。
1958年にはスカルノ大統領が初めて日本を訪問し、病床の前田を見舞ったそうです。

130 :名無しさん@おーぷん :2015/05/05(火)00:07:21 ID:zep
1976年。
一度だけ健康が回復した前田は、インドネシアからの招待を受けます。
そこで”インドネシア独立記念祝典”に出席した前田は、”ナラリア勲章”を受賞します。
それは独立名誉勲章。
インドネシア独立に貢献した者に贈られる、国家最高の栄誉でした。
1977年、死去。享年79歳。
彼もまた、インドネシアで讃えられる人物でした。

131 :名無しさん@おーぷん :2015/05/05(火)00:08:39 ID:zep
1979年
彡(゚)(゚)「…終戦から随分経った」
彡(゚)(゚)「孤立したまま独立戦争に参加したワイらも、年を取った」
彡(゚)(゚)「そろそろワイらは、また共に集おうと思う」
彡(゚)(゚)「”福祉友の会”を結成するで」
日本人残留者180名により、インドネシアで”福祉友の会”が結成されます。
独立戦争から時は流れ、やがて彼らは再び集結するようになりました。

132 :名無しさん@おーぷん :2015/05/05(火)00:09:57 ID:zep
1991年
彡(゚)(゚)「日本では”平成”という年号になったらしい」
彡(゚)(゚)「ワイらの中で生き残っとるのも、あと21人だけや」
彡(゚)(゚)「……ホンマに、随分と時が過ぎたんやなぁ…」

133 :名無しさん@おーぷん :2015/05/05(火)00:11:02 ID:zep
(・日・)「”一時軍人恩給”の支払いが決定されたよ」
(・日・)「戦後、”脱走兵”とされた彼ら残留日本兵に」
(・日・)「今まで軍人恩給は支払われてこなかった」
(・日・)「今回、彼らには特別に、恩給が支払われるよ」
”一時軍人恩給”。
既に日本人ではない彼らへの支給には、法律の壁が立ちはだかったのでしょう。
それは、平均額5万円程度。たった一度きりの恩給でした。

134 :名無しさん@おーぷん :2015/05/05(火)00:12:03 ID:zep
それでも。
彡(;)(;)「お……おぉ……」
彡(;)(;)「ワイらはワイらの理由で、祖国に背を向けた…」
彡(;)(;)「そんなワイらでも、」
彡(;)(;)「祖国から、許されたんやな…」
彼らにとって、金額は問題ではありませんでした。
”祖国からの名誉が回復された”。
彼らはそれを、心の底から喜んだのでした。

135 :名無しさん@おーぷん :2015/05/05(火)00:13:08 ID:zep
時は流れ…。

136 :名無しさん@おーぷん :2015/05/05(火)00:14:09 ID:zep
2014年8月25日。
彡(-)(-)
その日。
最後の”元残留日本兵”の方が亡くなりました。
享年94歳でした。
彼の棺には、国旗”メラ・プティ”が被せられ、英雄墓地へと送られます。
彼もまた、インドネシアの英雄となったのでした。

137 :名無しさん@おーぷん :2015/05/05(火)00:15:10 ID:zep
これで、この物語はおしまいです。
ここから先の未来。
平和国家を目指す日本に、彼らの物語は不要になるかもしれません。
あの時代から学ぶべきは、犯した罪と戦争の傷跡だけなのかもしれません。

138 :名無しさん@おーぷん :2015/05/05(火)00:15:40 ID:zep
ですが、それでも。
どうか、忘れないで下さい。
混沌に包まれたあの時代。
”彼ら”の想いを救うため、立ち上がった人がいたことを。
時代の流れに抗った人がいたことを。
戦い、散っていった無銘の”英雄”がいたことを。
         彡(^)(^)っc(´・ω・`)
どうか、忘れないで下さい。
  【 原住民と学ぶインドネシア独立と大日本帝国の関係 】
                【  完  】

139 :名無しさん@おーぷん :2015/05/05(火)00:16:11 ID:zep
これにて”原住民と学ぶインドネシア独立と大日本帝国の関係”は完結です。
最後までお付き合い頂きありがとうございました。

140 :名無しさん@おーぷん :2015/05/05(火)00:16:19 ID:q0R
いちおつ
超大作やね(しんみり)

141 :名無しさん@おーぷん :2015/05/05(火)00:16:23 ID:Gx9
サンキューイッチ!
フォーエバーイッチ!

142 :名無しさん@おーぷん :2015/05/05(火)00:18:10 ID:cYn
いちおつ
知ってたつもりで知らないネタ多くてためになったわ

143 :名無しさん@おーぷん :2015/05/05(火)00:19:48 ID:yCt
イッチさん、誠にお疲れ様でした

144 :名無しさん@おーぷん :2015/05/05(火)00:24:23 ID:BAs
フライングすまんな
勉強になったのはもちろんやけど
感動までくれたわ…
サンキューイッチ