【歴史】原住民と学ぶインドネシア独立と大日本帝国の関係
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Part21
60 :
名無しさん@おーぷん :2015/05/04(月)22:58:42 ID:
kUi
・豆知識『ジョグジャカルタ陥落以後』
( ・`ω・´)「国民のみんな!」
( ・`ω・´)「我々はオランダとの交渉継続を破棄する!」
( ・`ω・´)「オランダの卑劣な手段に屈するな!」
( ・`ω・´)「インドネシア人よ!オランダとの徹底抗戦に協力してくれ!」
ジョグジャカルタが陥落した後も、オランダ軍の侵攻は止まりません。
獄中のスカルノは、全国民に徹底抗戦を訴えます。
ジョグジャカルタを追われた共和国軍は、山岳地帯に逃げ込みます。
彼らはゲリラ戦によってオランダ軍に抵抗しました。
村から村へ行方をくらまし、オランダに通じている村を避け、彼らは逃避行を続けます。
1949年3月1日。
スハルト中佐指揮下で行われた”ジョグジャカルタ奪還作戦”。
この作戦では一時、ジョグジャカルタ都市中心部を6時間占領したそうです。
作戦こそ失敗したものの、彼らはインドネシア共和国存続をアピールし続けたのでした。
61 :
名無しさん@おーぷん :2015/05/04(月)22:59:08 ID:AV6
スカルノすげえな
62 :
名無しさん@おーぷん :2015/05/04(月)23:00:01 ID:
kUi
(・印・)「インドネシアでは今、お米が不足しているらしいね」
(・印・)「ぼくたちがお米を送ってあげるよ」
独立したばかりのインド。
彼らはオランダ海軍の牽制も振り切り、インドネシアへ米を輸送しました。
国連に加盟した新独立国は、こぞってインドネシアを支持しました。
63 :
名無しさん@おーぷん :2015/05/04(月)23:01:16 ID:
kUi
(・豪・)「ワイらは基本的に白人主義なんやけど」
(・豪・)「ワイらもイギリスの植民地から独立した経緯があるからな」
(・豪・)「やっぱりインドネシアには、共感せずにはいられんのよ」
(・豪・)「せやから、ワイらはオランダ船舶の支援はせぇへんよ」
(・豪・)「ストライキで応じたるわ」
オーストラリア。
大戦時、彼らは連合軍としてオランダと共に戦いました。
日本のインドネシア占領時代、蘭印亡命政府はオーストラリアに間借りする程の仲でした。
オランダの後援者、オーストラリア。
そんな彼らですら、オランダを批判したのでした。
64 :
名無しさん@おーぷん :2015/05/04(月)23:02:46 ID:
kUi
(●▲●)「なんでや!インドネシアは日本の傀儡国家やで!?」
(●▲●)「それやのに、一体どうしてみんな、あいつらの味方なんや!?」
(●▲●)「ワイらかて、ドイツに占領されたせいで、経済はボロボロや」
(●▲●)「それでもインドネシアを取り戻すため、莫大な軍事費に耐えてきたんやで?」
(●▲●)「同じ戦勝国同士、少しはワイらの味方してくれてもええやないか?」
(●▲●)「……分からん、一体どうして、こんなことになったんや…?」
66 :
名無しさん@おーぷん :2015/05/04(月)23:03:55 ID:
kUi
やがて国際世論の圧力の下、オランダは追い込まれていきます。
そして…。
67 :
名無しさん@おーぷん :2015/05/04(月)23:05:12 ID:
kUi
1949年2月
(●▲●)「………」
(●▲●)「………我々オランダは、
(●▲●)「インドネシア共和国と交渉することに、」
(●▲●)「………同意する」
遂にオランダは、国際世論に屈したのでした。
68 :
名無しさん@おーぷん :2015/05/04(月)23:06:24 ID:
kUi
1949年5月
(*・公・*)「”ルム=バン・ロイエン協定”が締結されます」
(*・公・*)「これにより、インドネシアとオランダの停戦合意が、完了されました」
69 :
名無しさん@おーぷん :2015/05/04(月)23:07:09 ID:AV6
数の暴力はおそろしいなあ
70 :
名無しさん@おーぷん :2015/05/04(月)23:07:37 ID:
kUi
1949年7月6日
[ジョグジャカルタ]
( ・`ω・´)「ただいま!」
( ・`ω・´)「我々の勝利だ!」
( ・`ω・´)「7月13日には、スマトラ島臨時政府が解消される」
( ・`ω・´)「首都ジョグジャカルタの政府機能が復活するよ!」
インドネシア指導者は解放され、ジョグジャカルタは歓声に包まれました。
71 :
名無しさん@おーぷん :2015/05/04(月)23:09:14 ID:
kUi
1949年8月23日
[オランダ・首都ハーグ]
(●▲●)「……これより、”ハーグ円卓会議”を開催します」
(^)'・▲・`(^) (*^○●)
インドネシア共和国代表ハッタ、そしてオランダ傀儡諸国の代表たちが集まり、”ハーグ円卓会議”が始まります。
”ハーグ円卓会議”は11月2日まで続きました。
そして…。
72 :
名無しさん@おーぷん :2015/05/04(月)23:10:27 ID:
kUi
1949年12月27日
(●▲●)「”インドネシア連邦共和国”を樹立する」
(●▲●)「オランダは無条件で、インドネシアの主権を”インドネシア連邦共和国”に引き渡す」
(●▲●)「”インドネシア連邦共和国”は、オランダ女王を元首とする”オランダ・インドネシア連合”に参加する」
(●▲●)「”インドネシア連邦共和国”の外交・国防・財政などに、オランダは永久に協力する...などなど」
(●▲●)「以上をもって、”ハーグ協定”を締結する」
73 :
名無しさん@おーぷん :2015/05/04(月)23:11:39 ID:
kUi
インドネシア共和国
東インドネシア国
パスンダン国
東ジャワ国
マドゥラ国
東スマトラ国
南スマトラ国
中部ジャワ自治国
バンカ自治国
ビリトン自治国
リアウ自治国
西カリマンタン特別地域
大ダヤク自治国
バンジャル地域
東南カリマンタン
東カリマンタン
これらの国、自治地域から構成される”インドネシア連邦共和国”。
インドネシア共和国以外の構成国は、その殆どが”オランダの傀儡国家”です。
とは言え、インドネシア共和国はジャワ島半分とスマトラ島大部分を有し、
”インドネシア連邦共和国”4600万人のうち、3100万人がインドネシア共和国だったそうです。
何にせよ、遂にオランダは”インドネシアの独立”を認めたのでした。
74 :
名無しさん@おーぷん :2015/05/04(月)23:12:56 ID:
kUi
[ジャカルタ]
( ・`ω・´)「ここに掲揚されているオランダ旗は全部外すよ!」
( ・`ω・´)「そして、ぼくたちの国旗”メラ・プティ”を掲揚するんだ!」
( ・`ω・´)「……遂にぼくたちは、独立したんだなぁ…」
75 :
名無しさん@おーぷん :2015/05/04(月)23:14:11 ID:
kUi
( ・`ω・´)「オランダがインドネシアに17億3200万ドルの債務負担を要求してきたよ」
( ・`ω・´)「なんとか11億3000万ドルの債務負担で合意したけど」
( ・`ω・´)「何はともあれ、これで独立戦争はおしまい」
( ・`ω・´)「インドネシアはオランダから独立し、ぼくたちの悲願は成就した」
( ・`ω・´)「めでたしめでたし、だね。」
( ・`ω・´)「………」
( ・`ω・´)「………でも、まだやることがあるよね」
76 :
名無しさん@おーぷん :2015/05/04(月)23:15:31 ID:
kUi
(*^○●)
(^)'・▲・`(^)「こんにちは」
(*^○●)「あ、ハッタさん」
(^)'・▲・`(^)「”ハーグ協定”以来だね」
(^)'・▲・`(^)「それで、あの時の話、考えてくれたかな?」
(*^○●)「………」
(*^○●)「………うん、決めたんだ」
(*^○●)「ぼくらはオランダを排除し、再び集わなくてはいけない」
(*^◯^*)「ぼくたち”傀儡国家”は、”インドネシア共和国”に合流するんだ!」
彼らは”傀儡国家”と言えど、インドネシア共和国に賛同する者も多かったそうです。
”ハーグ円卓会議”にて、彼ら”傀儡国家”は、インドネシア共和国の主張に耳を傾けました。
そして…。
77 :
名無しさん@おーぷん :2015/05/04(月)23:16:43 ID:
kUi
1950年8月15日
( ・`ω・´)「”インドネシア連邦共和国”諸国の権力は、」
( ・`ω・´)「全て”インドネシア共和国”のジャカルタ中央政権に委譲されました!」
( ・`ω・´)「これにより”インドネシア連邦共和国”は事実上の解体!」
( ・`ω・´)「これより我々は、」
( ・`ω・´)「真の”インドネシア共和国”の樹立を宣言します!」
”インドネシア連邦共和国”の全ての国が、インドネシア共和国に主権を委譲。
そして遂に、単一の国家”インドネシア共和国”が宣言されます。
78 :
名無しさん@おーぷん :2015/05/04(月)23:17:53 ID:
kUi
それは、インドネシアの独立が、完全に果たされた日。
300年に及ぶオランダの影響力が今、完全に潰えたのでした。
79 :
名無しさん@おーぷん :2015/05/04(月)23:19:16 ID:q2C
イイハナシダナー
80 :
名無しさん@おーぷん :2015/05/04(月)23:19:21 ID:
kUi
・豆知識『インドネシア独立戦争』
1945年から1949年までの4年5ヶ月にわたる戦争。
インドネシア全土で80万人が犠牲になりました。
その中でも特に目立つのが、1947年7月21日と1948年12月19日の二度に渡って起きた”警察行動”。
このオランダの軍事侵攻は、二回ともインドネシアに壊滅的被害を与え、
二回ともオランダに致命的な逆風をもたらしました。
結局、イギリスと違い、オランダは最後までインドネシアに拘り、全てを失いました。
仮に名誉ある撤退が可能だったとすれば、それはあの”リンガルジャティ協定”の時点ではないでしょうか。
当時のオランダで酷評された”リンガルジャティ協定”と、ファン・モーク。
それらがオランダで再評価されるのは、遥か後年になってからのことです。
時は流れ、2005年。
オランダは初めて、インドネシアへの謝罪を行いました。
そして、”インドネシアが1945年8月17日に独立したこと”。
これをオランダは、遂に認めたのでした。
81 :
名無しさん@おーぷん :2015/05/04(月)23:20:31 ID:
kUi
【エピローグ】
82 :
名無しさん@おーぷん :2015/05/04(月)23:21:40 ID:
kUi
1949年1月9日明け方
[ジャワ東部・スメル山麓ダンピット]
83 :
名無しさん@おーぷん :2015/05/04(月)23:22:51 ID:
kUi
彡(゚)(゚)
彡(゚)(゚)「ハァ…ハァ…」
彡(゚)(゚)「……あそこがオランダの兵舎か」
彡(゚)(゚)「………」
彡(゚)(゚)「……この戦争も、そろそろ終わりやな」
彡(゚)(゚)「何せ、あのアメリカが動き出したらしいからな」
彡(゚)(゚)「いよいよ、インドネシアの独立が、」
彡(゚)(゚)「世界中に認められるんやな」
84 :
名無しさん@おーぷん :2015/05/04(月)23:24:02 ID:
kUi
彡(゚)(゚)「………」
彡(゚)(゚)「”インドネシア共和国”」
彡(゚)(゚)「………」
彡(゚)(゚)「………そこに、ワイらの居場所はない」
彡(゚)(゚)「分かっとったんや、最初から」
彡(゚)(゚)「ここは、インドネシア人のための国や」
彡(゚)(゚)「ワイらは、彼らの国を作るために、この戦争に協力したんや」
彡(゚)(゚)「見返りなんかいらん」
彡(゚)(゚)「そういうもんやろ?」
彡(゚)(゚)「………」
彡(゚)(゚)「………よし、いくか」
85 :
名無しさん@おーぷん :2015/05/04(月)23:25:13 ID:
kUi
彡(゚)(゚)「ぁあ゛あ゛あ゛あ゛ぁぁああぁああ゛あ゛あ゛あ゛
(ターン)
彡(゚)(゚)「あっ」
彡(゚)(゚)「………」
彡(゚)(゚)「………」
彡(^)(^)「………」
彡(^)(^)「………ほな」
彡()()
86 :
名無しさん@おーぷん :2015/05/04(月)23:26:27 ID:
kUi
ゲリラ隊隊長、アブドゥル・ラフマン。
戦前、彼は”トコ・ジュパン”の店員として渡り、やがて新聞記者として独立運動に共感しました。
戦中、彼は”タンゲラン青年道場”で”ペタ”に情熱を傾けました。
”脱走兵”として日本軍を離れ、インドネシアに協力した彼ら。
彼らは皆”インドネシア名”を持ち、インドネシア人として戦いました。
アブドゥル・ラフマン。
彼は、市来龍夫という日本人でした。
87 :
名無しさん@おーぷん :2015/05/04(月)23:27:39 ID:
kUi
”脱走兵”として軍を離れ、独立戦争を戦い抜いた彼ら。
彼らは常に最前線で指揮を執り、その死亡率はとても高かったそうです。
オランダは日本人に特別な懸賞金をかけ、逮捕された日本人は処刑されたそうです。
88 :
名無しさん@おーぷん :2015/05/04(月)23:28:51 ID:
kUi
やがて、独立戦争は終わります。
89 :
名無しさん@おーぷん :2015/05/04(月)23:30:03 ID:
kUi
3000人と言われた”残留日本兵”。
そのうち1000人は、最前線で戦い、戦死したと言われています。
インドネシアでは、独立戦争を戦った”英雄”は、死後”カリバタ英雄墓地”に埋葬されます。
”残留日本兵”。
日本人の彼らもまた”英雄”であり、”英雄墓地”に眠ることを許されているのです。
90 :
名無しさん@おーぷん :2015/05/04(月)23:31:12 ID:
kUi
彡(゚)(゚)「………」
彡(゚)(゚)「………結局、ワイらは生き延びてしまった…」
彡(゚)(゚)「………」
彡(゚)(゚)「さっき、日本への引き揚げ船が来たわ」
彡(゚)(゚)「ワイら脱走兵も、日本へ帰国してええんやとさ」
91 :
名無しさん@おーぷん :2015/05/04(月)23:32:22 ID:
kUi
彡(゚)(゚)「………」
彡(゚)(゚)「…あそこに居るあいつは、インドネシアに留まるらしい」
彡(゚)(゚)「ワイらはもう、インドネシア名を得たインドネシア人や」
彡(゚)(゚)「帰ったところで”非国民”と罵られるかもしれん」
彡(゚)(゚)「それに、ワイらは旧軍刑法を違反しとる」
彡(゚)(゚)「下手すると処刑もんや」
彡(゚)(゚)「………あいつは、日本に戻るのが怖いらしい」
彡(゚)(゚)「見つかるのが怖いから、もう、日本名は名乗らんそうや…」
彡(゚)(゚)「………」
彡(゚)(゚)「……ワイは、どうするかな………」
92 :
名無しさん@おーぷん :2015/05/04(月)23:33:33 ID:
kUi
生き残った2000人のうち、
1000人は、日本に帰国したそうです。
1000人は、インドネシアに残ったそうです。
インドネシアに残った彼らは、やがてインドネシア人と結婚し、
インドネシアへ帰化し、インドネシア国籍を取得し、インドネシアに永住しました。
その中には、終生日本名を名乗らず、時の流れに埋もれていった者たちもいたそうです。
1960年代。日本企業が本格的にインドネシア進出し始める頃。
日本とインドネシアの橋渡しをしたのは、彼ら”元残留日本兵”でした。
彼らはその後も、日本とインドネシアの交流に貢献したのでした。
94 :
名無しさん@おーぷん :2015/05/04(月)23:34:47 ID:
kUi
その後のインドネシアにも、色々ありました。
政治では”議会制民主主義”を忠実に実行していたのですが………。
1954年。インドネシアは”オランダ・インドネシア連合”を解消。
1956年には”ハーグ協定”も正式に破棄。インドネシアは非同盟中立国家として歩み始めます。
1960年。ソビエトの軍事援助を受けたスカルノは、オランダとの国交断絶を宣言します。
そして”ハーグ協定”で決着しなかった問題、オランダ支配下の”イリアンジャヤ”へ進軍。
1962年にアメリカの調停を経て、”イリアンジャヤ”はインドネシアに組み込まれたのですが………。
ここから先も、まだまだ歴史は続きます。
ですがひとまず、今回はここまで、ということで。