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【歴史】原住民と学ぶインドネシア独立と大日本帝国の関係
Part10


493 :名無しさん@おーぷん :2015/04/01(水)21:30:43 ID:3ME
1942年2月
『蘭印作戦』
ジャワ島上陸前、ベトナム中南部カムラン湾
”佐倉丸”にて…。
彡(゚)(゚)「諸君!ジャワ島は目前や!」
彡(゚)(゚)「今こそワイらの力を見せつけてやる時!」
彡(゚)(゚)「心してかかるんやで!」
(・詩・)「中尉!私の情熱を詩に込めました!」
(・詩・)「”戦友別盃の歌”!聞いて下さい!」
彡(゚)(゚)「お!ええやん!気に入ったで!」
彡(゚)(゚)「うおぉ!何か燃えてきたで!」
熱血軍人、中尉・柳川宗成。
彼は憧れのジャワ島を前に高揚していました。
その情熱に共鳴した熱血詩人・大木淳夫は、柳川に『戦友別盃の歌』を贈ったそうです。

494 :名無しさん@おーぷん :2015/04/01(水)21:32:00 ID:3ME
ジャワ島上陸後…。
彡(゚)(゚)「おっしゃ!ワイがバンドン一番乗りや!」
彡(゚)(゚)「まもなく日本軍が到着するでえええええええええええ」
彡(゚)(゚)「蘭軍め、覚悟するんやでええええええええええええええ」
柳川は単身でバンドンに一番乗りし、日本軍が間近に迫っているとハッタリをかけました。
オランダ軍は早々に降伏し、これによって柳川は名を上げたのでした。

495 :名無しさん@おーぷん :2015/04/01(水)21:33:12 ID:3ME
ジャワ島占領後…。
(●●●●●)「さて、柳川中尉をどうするか…」
(●●●●●)「戦闘中は有用だった熱血漢も、戦闘が終われば用をなさない」
(●●●●●)「寧ろ、軍に馴染まんただの厄介者や…」
(●●●●●)「さてさて。奴をどこに配置するか……」

496 :名無しさん@おーぷん :2015/04/01(水)21:34:17 ID:3ME
彡(゚)(゚)「提案します!」
(●●●●●)「なんや柳川?」
彡(゚)(゚)「参謀部別班での仕事にはもう飽きました!」
彡(゚)(゚)「せやからワイに”道場”を開かせてください!」
(●●●●●)「ほう?」
彡(゚)(゚)「ジャワ島の青年たちに軍事教育を施します!」
彡(゚)(゚)「原住民を訓練し、諜報員の育成を行います!」
(●●●●●)「…せやな。ええと思うで」
彡(゚)(゚)「ありがとうございます!」

497 :名無しさん@おーぷん :2015/04/01(水)21:35:39 ID:3ME
1943年1月
ジャカルタ西郊タンゲラン
彡(゚)(゚)「原住民諸君!ワイが教官の柳川や!」
彡(゚)(゚)「諸君らは我々から学べる全てを学び!」
彡(゚)(゚)「強く!正しく!同義を心得た!新しいインドネシア青年として!」
彡(゚)(゚)「一日も早く生まれ変わってもらいたい!」
彡(゚)(゚)「そして諸君らの手で!インドネシアを開放し!」
彡(゚)(゚)「素晴らしいインドネシアに変革してもらいたい!」
彡(゚)(゚)「今日からワイが諸君らの父であり!各班長を母と思うんや!」
彡(゚)(゚)「教官は全て兄弟や!何でも相談するんやで!」
(´・ω・`)「は、はい!分かりました!」

498 :名無しさん@おーぷん :2015/04/01(水)21:36:40 ID:3ME
『タンゲラン青年道場』。
柳川は青年50人に対して厳しい軍事訓練を開始しました。
軍事訓練と共に精神教育も重視され、
祖国のための自己犠牲の尊さ、闘う勇気についてなどを。
柳川は青年たちに徹底的に叩き込みました。
「指導者自身が汗を流して身体を鍛える」という文化はジャワ島にはありませんでした。
青年たちは「インドネシア人を鍛える」という柳川の熱意に応え、
半年間、寝食を共にして語り合い、一体となって猛訓練を続けたのでした。

499 :名無しさん@おーぷん :2015/04/01(水)21:37:53 ID:3ME
1943年10月
(●●●●●)「戦局悪化による兵力不足が深刻やなぁ…」
(●●●●●)「”ヘイホ”の拡大も、もう限界や」
(●●●●●)「さて、どうするか…」
(・日・)「提案ですが、原住民による民族軍を設立してみてはどうでしょう?」
(・日・)「既に南方軍には”東南アジア住民の武装化”が命じられています」
(・日・)「実際、インド人による”インド国民軍”、ビルマ人による”ビルマ独立義勇軍”が作られています」
(・日・)「これによる兵力補充はかなり大きいものと予想されます」

500 :名無しさん@おーぷん :2015/04/01(水)21:39:05 ID:3ME
(●●●●●)「せやけどなぁ…」
(●●●●●)「奴らに武器を与えたら反乱するんじゃないか?」
(●●●●●)「正直、かなりリスクあると思うで」
(・日・)「…確かに、原住民たちの不満はかなり高まっています」
(・日・)「ですが、それを解消するためにも、彼らに軍を与えるのは有効かと思われます」
(・日・)「彼らだけで作られる軍隊は彼らの悲願です」
(・日・)「これによる不満の解消もまた、かなり大きいものと予想されます」
(●●●●●)「う〜ん…………分かった、せやな」
(●●●●●)「原住民の武装化、了承するわ」

501 :名無しさん@おーぷん :2015/04/01(水)21:40:17 ID:3ME
(●●●●●)「おう、民主主義運動家」
( ・`ω・´)「はい、なんでしょう?」
(●●●●●)「今すぐ”ジャワ人による軍の設置”を請願するんや」
(●●●●●)「そうすればワイらがそれを受け入れ、」
(●●●●●)「東インドには初めての、原住民による軍隊ができるんやで」
( ・`ω・´)「………。」

502 :名無しさん@おーぷん :2015/04/01(水)21:41:29 ID:3ME
( ・`ω・´)「ぼくらにも”軍”にはトラウマがある」
( ・`ω・´)「かつてのオランダ時代」
( ・`ω・´)「原住民だけで構成された”植民地軍”」
( ・`ω・´)「彼らはぼくたちの民主主義運動の弾圧に利用されたんだ…」
( ・`ω・´)「…正直、東インドに軍はまだ早いかもしれない」
( ・`ω・´)「けれど、戦う力がなければ、日本にも、オランダにも」
( ・`ω・´)「絶対に勝つことはできない…」

503 :名無しさん@おーぷん :2015/04/01(水)21:42:39 ID:3ME
( ・`ω・´)「…はい、分かりました」
(●●●●●)「そか、それじゃ決まりやな」
(●●●●●)「”ジャワ郷土防衛義勇軍”…通称”ペタ”の誕生や」
( ・`ω・´)「”ペタ”の設立が決まったよ」
( ・`ω・´)「まずは”ペタ”の幹部候補生を公募するよ」
( ・`ω・´)「希望者は応募してね」
初のジャワ人だけの軍隊。
応募者は殺到しました。

504 :名無しさん@おーぷん :2015/04/01(水)21:43:51 ID:3ME
彡(゚)(゚)「ほ〜ん、”ペタ”設立か……よっしゃ!」
彡(゚)(゚)「これまで訓練を続けてきた原住民諸君!」
(´・ω・`)「はい!教官!」
彡(゚)(゚)「今こそ諸君らが立ち上がるときや!」
彡(゚)(゚)「ボゴールに幹部養成学校が設けられた!」
彡(゚)(゚)「諸君らにはそこに所属してもらい、各種訓練を受けてもらう!」
彡(゚)(゚)「そして卒業後、諸君らはそれぞれの故郷に戻り、軍を率いるんや!」
彡(゚)(゚)「諸君らがここで身に付けた全てを見せつけてくるんや!」
彡(゚)(゚)「健闘を祈る!」
(´・ω・`)「はい!ありがとうございました!」

505 :名無しさん@おーぷん :2015/04/01(水)21:45:27 ID:3ME
ペタの中心メンバーとなったのは、”タンゲラン道場”の青年たちでした。
ペタ設立後、”タンゲラン道場”の青年たちはボゴールの幹部養成学校に所属。
各種訓練を実施した後、卒業生たちはそれぞれの故郷で500名規模の大団を結成しました。
1943年末に35大団編成され、
1944年8月に20大団が追加、
更に1944年11月に11大団が追加。
最終的にジャワ島で66大団・約3万6千人規模、バリ島でも3大団が編成されました。
また、スマトラ島でも島民による軍が設立され”スマトラ・ギユーグン”と名付けられ、
イスラム系青年層を中心にした武装組織ヒズブラ(回教挺身隊)などもありました。

506 :名無しさん@おーぷん :2015/04/01(水)21:46:38 ID:3ME
大団長以下、兵士まで全てがインドネシア人の軍、”ペタ”。
各団には日本人教官が派遣されます。
彡(゚)(゚)「ワイがこの団に派遣された教官や」
彡(゚)(゚)「実権は基本的にワイが握るで」
彡(゚)(゚)「兵器管理なんかもワイがやるからな」
彡(゚)(゚)「ま、しっかりやるんやで」
(´・ω・`)「はい、分かりました」

507 :名無しさん@おーぷん :2015/04/01(水)21:47:49 ID:3ME
(´・ω・`)「教官!準備が完了しました!」
彡(゚)(゚)「お、元気がええな」
(´・ω・`)「はい!我々は祖国を守る軍です!」
(´・ω・`)「祖国を守るため命を燃やす所存です!」
彡(^)(^)「ええ心懸けや!ワイもちょっと気合い入れるで!」
各大団に派遣された日本人教官の中には当然やる気のない者もいました。
しかしやる気のある者はジャワ人の意気に共鳴し、真剣に対応するようになったのでした。

508 :名無しさん@おーぷん :2015/04/01(水)21:49:10 ID:3ME
>>452
1944年3月
( ・`ω・´)
(´・ω・`) (´・ω・`) (´・ω・`) (´・ω・`) (´・ω・`)
 (´・ω・`) (´・ω・`) (´・ω・`) (´・ω・`) (´・ω・`)
(´・ω・`) (´・ω・`) (´・ω・`) (´・ω・`) (´・ω・`)
(●●●●●)「最近の”プートラ”は完全に民主主義運動の温床になっとるな…」
(●●●●●)「流石にこれ以上放置はでけへん」
(●●●●●)「”プートラ”は解散、代わりに新しい組織を設立するで」

509 :名無しさん@おーぷん :2015/04/01(水)21:49:29 ID:QOo
おう

510 :名無しさん@おーぷん :2015/04/01(水)21:50:20 ID:3ME
(●●●●●)「おう、スカルノ」
( ・`ω・´)「はい」
(●●●●●)「”プートラ”は解散や」
(●●●●●)「そして新たに”ジャワ奉公会”を設立するで」
(●●●●●)「この会に村落の末端から華僑、日本民間人までの全組織を一元化する」
(●●●●●)「総裁にはお前、スカルノが就任するんや」
(●●●●●)「分かったな?」
( ・`ω・´)「…はい、分かりました」
この組織は、初めて民族主義者を知事など主要ポストに就任させます。
オランダ時代、インドネシア人は政治への参加機会を与えられていませんでした。
インドネシア人はこの組織の中で、国家の実務運営の経験を学んでいくのでした。

511 :名無しさん@おーぷん :2015/04/01(水)21:51:29 ID:3ME
( ・`ω・´)「みんな、今日も集まってくれてありがとう」
( ・`ω・´)「繰り返すけど、日本軍はぼくたちのために植民地帝国と戦っているんだ」
( ・`ω・´)「みんなで日本軍に協力しよう!」
( ・`ω・´)「今、日本軍には食料や資源が足りない」
( ・`ω・´)「みんな、日本軍に協力するためにも食料や資源を提供して欲しい」
( ・`ω・´)「それと”ロームシャ”も募集中だよ」
( ・`ω・´)「みんなで日本軍に協力しよう!」

512 :名無しさん@おーぷん :2015/04/01(水)21:52:38 ID:3ME
( ・`ω・´)「………はぁ、今日の演説も終わった」
( ・`ω・´)「…何も知らない民衆に日本軍への支援を頼むのは、本当に心苦しい」
( ・`ω・´)「…でも、ぼくは決めたんだ」
( ・`ω・´)「例え、悪魔の手を借りてでも」
( ・`ω・´)「ぼくたちは、独立するんだ」
スカルノは”プートラ”や”ジャワ奉公会”で再三、日本軍への協力を呼びかけました。
( ・`ω・´)「日本軍はぼくを利用しようとしている」
( ・`ω・´)「だからぼくもそれを利用する」
( ・`ω・´)「9回表まで堪え忍んでも」
( ・`ω・´)「最後の攻撃で取り返せれば、それでいい」

513 :名無しさん@おーぷん :2015/04/01(水)21:53:55 ID:3ME
スカルノはオランダ時代のほとんどを牢獄内で過ごしていました。
そのため、彼は有名でしたが、その知名度は極一部の層だけでした。
そのスカルノが大衆の前に姿を現し、熱弁を奮います。
そしてその映像は映画になり、東インド各地に渡ります。
やがて各地でスカルノの存在は知れ渡り、
遂にスカルノは自他共に認めるインドネシア指導者となったのでした。

514 :名無しさん@おーぷん :2015/04/01(水)21:55:05 ID:3ME
1944年2月
ジャワ島タシクマラヤ県シンガパルナ村
( `(エ)´)「イスラム塾塾生諸君!」
( `(エ)´)「イスラム教を冒涜する日本軍政にはもう我慢がならん!」
( `(エ)´)「ワイと共に反乱を起こすんじゃ!」
(・回・)「はい!先生!」
イスラム塾教師が塾生を集め、軍政への反乱を計画しました。
この塾があった土地はイスラム教育の中心地で、900名の塾生を集めていました。

515 :名無しさん@おーぷん :2015/04/01(水)21:56:16 ID:3ME
(・日・)「なにやらこの辺りで反乱の噂があるそうだけど」
(・日・)「ひとまず潜入して真偽を確かめてみよう…」
( `(エ)´)「あ、こいつ日本兵だぞ!捕らえろ!」
(・日・)「ヒエッ…」
( `(エ)´)「反乱を気取られたか…」
( `(エ)´)「もう一刻の猶予もない、こうなったら即時抗戦じゃ!」
『シンガパルナ事件』
農民大衆が日本軍政に対して蜂起した事件です。

516 :名無しさん@おーぷん :2015/04/01(水)21:57:35 ID:3ME
( `(エ)´)「ワイらには竹槍がある!これで日本兵を一人でも多く殺すんじゃ!」
(●●●●●)「無理やろ(ターン」
( `(エ)´)「」
農民たちは手製の竹槍で武装しますが、正規軍に対して敵うはずもなく。
反乱軍は1時間半の戦闘で多数の死亡者を出し、敗退しました。
なお、日本側にも3人の犠牲者を出しました。
日本軍は捕らえた扇動者23人を処刑。
この事件を”狂信者の反乱”とすることで他所への波及を食い止めました。

517 :名無しさん@おーぷん :2015/04/01(水)21:58:57 ID:3ME
1944年4月
ジャワ島西部インドラマユ
(●゚◇゚●)「ぼくらの住むここ”インドラマユ”は穀倉地帯なんだけど…」
(●゚◇゚●)「最近、どんどん作物の徴収量が増えているんだ…」
(●゚◇゚●)「遂にはモミまで出せと言い出す始末…」
(●゚◇゚●)「もう限界だよ…」
日本の割り当てでは、徴収量は7〜10%でした。
しかし州→県→郡と移行する度に徴収は上乗せされ、
最下層の農民の聴取量は膨れあがっていました。

518 :名無しさん@おーぷん :2015/04/01(水)22:00:24 ID:3ME
(・長・)「おう、徴収の時間やで〜」
(・警・)
(●゚◇゚●)「…………」
(石ポイー)
(・長・)「イテッ!誰や!今石投げたのは!」
(●゚◇゚●)「…………」
供出を促した村長と護衛する警官に投げられた石。
これが始まりとなり、農民の反乱は連鎖していきました。
農民の憎しみは軍政側のジャワ人に向けられ、日本の起用した村長が殺害されました。
この反乱は1944年8月まで続くことになります。

519 :名無しさん@おーぷん :2015/04/01(水)22:01:31 ID:3ME
1944年9月7日
(●●●●●)「………アカンな」
日本の戦局悪化は深刻でした。
それに伴い、徐々に東インドの住民たちの反乱も表面化。
東インドを統治するためには、住民たちの心を繋ぎ止める必要がありました。

520 :名無しさん@おーぷん :2015/04/01(水)22:02:52 ID:3ME
(●●●●●)「………」
(●●●●●)「………せやな、ここまでや」
(●●●●●)「………」
(●●●●●)「大日本帝国は、」
(●●●●●)「東インド民族の永遠の福祉を確保するため、」
(●●●●●)「将来、その独立を認めることを」
(●●●●●)「…ここに、宣言する」
『小磯声明』。
遂に日本が東インドの独立を認めた声明。
日本はそれまで極秘裏に東インドを永久確保地に指定していました。
それを覆してまで小磯内閣により発せられたこの声明。
いよいよ、独立が始まります。