Part2
28 :
名無しさん@おーぷん :2015/11/21(土)17:03:02 ID:
Ucx
G
(*^◯^*)「呼ばれたから来たんだ!」
彡(゚)(゚)「お前幻術使うんやってな。そのまやかしで百戦錬磨のワイを震え上がらせてみろ」
J(゚)(゚)し「ポンッ」
彡( )( )「ぎゃああああああああああああああああああああああああああ」
29 :
名無しさん@おーぷん :2015/11/21(土)17:03:22 ID:
Ucx
(*^◯^*)・・・果心居士
彡(゚)(゚)・・・松永久秀
松永久秀は巷で評判の幻術使い果心居士に対し「幾多の戦場で一度も恐怖を感じたことのない自分をお前の術で怖がらせてみろ」
と挑んだ。そこで果心居士は亡くなった久秀の妻に化けると、久秀は仰天し顔面蒼白となり負けを認め、しばらく震えたままになったという。
30 :
名無しさん@おーぷん :2015/11/21(土)17:03:47 ID:
Ucx
H
(●゚◇゚●)「使者として来たよ」
彡(^)(^)「よう来たで。酒飲もうや」
(●゚◇゚●)「いや使者なんでそういうのはちょっと」
彡(^)(^)「飲んだらなんでもあげるで」
(●゚◇゚●)「いや、」
彡(●)(●)「ああん?ワイの酒飲めへんのか腰抜け!役立たず!ゴミ!」
(●゚◇゚●)「…」
(●゚●゚●)ブォン…(ガブノミー
(●●●●●)「なんでもくれるって言ったよね」
彡( )( )「え、あ、」
(●●●●●●●)ブォンブォンブォン…
彡(◯)(◯)「わ、分かった!なんでもあげるやで!」
31 :
名無しさん@おーぷん :2015/11/21(土)17:04:14 ID:
Ucx
(●゚◇゚●)・・・母里友信
彡(゚)(゚)・・・福島正則
黒田家の使者として福島正則の元に使わされた母里友信は正則に酒を勧められた。
友信は上戸として名が通っていたが使者という立場上これを断った。
正則は飲んだら好きなものを褒美としてとらすとさらに勧めたが
それでも固辞する友信(及び黒田武士)を侮辱した。
耐え切れなくなった友信は酒を一気に飲み干すと、褒美として正則が豊臣秀吉から授かった槍「日本号」を所望する。
正則は躊躇うが断るわけにも行かず仕方なく日本号を差し出した。
以後この逸話は「黒田節」として広まった。
32 :
名無しさん@おーぷん :2015/11/21(土)17:04:29 ID:sdR
楽しく読ませてもらっとるでー
33 :
名無しさん@おーぷん :2015/11/21(土)17:04:40 ID:M27
おうあくしろよ(イッチの好きなペースでやってや)
34 :
名無しさん@おーぷん :2015/11/21(土)17:05:19 ID:
Ucx
>>32
ありがとうやで
>>33
逆ゥー! ありがとうやで
I
彡(゚)(゚)「クソッ鷹狩り上手くいかへん」
(*^◯^*)「南無阿弥陀仏なんだ!南無阿弥陀仏なんだ!」
彡(゚)(゚)「おいクソ坊主!鷹狩れへんのはお前のせいや!馬に括り付けて引きずり回したる!」
(*^◯^*)「やめるんだ!」
彡(^)(^)「おらっおらっ!ハハッ、いい気分や!」
35 :
名無しさん@おーぷん :2015/11/21(土)17:05:38 ID:
Ucx
彡(゚)(゚)・・・松平信康
(*^◯^*)・・・僧侶
松平信康は徳川家康の嫡男として生まれたが、家康と母・築山御前の仲は冷え切っており微妙な立場にあった。
信康はそれら鬱憤をはらすために度々鷹狩りに赴いていた。ある日、上手く鷹を狩れずにいた信康は苛立ちのあまり
近くにいた僧侶をして殺してしまう(当時狩りの最中に僧侶に出会うと獲物が少なくなるという風潮があったため)。
後日信康は家康に対しこの件について謝罪しているが、後の信康切腹事件の遠因のひとつとされている。
37 :
名無しさん@おーぷん :2015/11/21(土)17:06:04 ID:
Ucx
J
J(゚)(゚)し「京に着いたわ。ワイの結婚相手ってどんな方なのかしら」
(´・ω・`)「あ、いたぞ!捕らえろ!」
J(゚)(゚)し「いやんいきなりなにするんですや」
(´・ω・`)「処刑」
J( )( )し「」
38 :
名無しさん@おーぷん :2015/11/21(土)17:06:30 ID:
Ucx
J(゚)(゚)し・・・駒姫(最上義光娘)
(´・ω・`)・・・豊臣軍兵士
当時の関白・豊臣秀次は最上義光の娘が美少女だという噂を聞き、義光に差し出すよう要求した。義光は拒否したが
相手は豊臣秀吉の養子にして関白、ついに断りきれず15歳になったら側室として献上する約束をしてしまう。
そして15歳となった駒姫は京へ赴くが、到着直後豊臣秀次切腹事件が発生する。
秀吉は秀次の側室を含む一族郎党の粛清を図り、その中に秀次と会ったことすらない駒姫も含まれていた。
義光はもちろん、前田利家や徳川家康までもが助命嘆願したが、聞き入れられず駒姫は処刑された。
(秀吉が助命嘆願を聞き入れたもののすでに処刑が執行された後だったという説もある)
駒姫と同じくして処刑された側室達もその場で掘られた穴に埋め込まれ、その上に「畜生塚」と書かれた碑が置かれた。
これを受け駒姫の母は二週間後病死し、義光は豊臣家に深い憎しみを抱くこととなった。
39 :
名無しさん@おーぷん :2015/11/21(土)17:07:23 ID:
Ucx
K
(*^◯^*)「あああああああああああああああああああああ」
(☆...●)「・・・!」
〜〜〜〜
彡(゚)(゚)「ん?(*^◯^*)ってやつが戦で大活躍したらしい?」
彡(゚)(゚)「・・・」
彡(^)(^)「日本一の兵やな!」
41 :
名無しさん@おーぷん :2015/11/21(土)17:07:48 ID:
Ucx
(*^◯^*)・・・真田幸村
(☆...●)・・・徳川家康
彡(゚)(゚)・・・島津家久(忠恒)
島津家久は大坂夏の陣に徳川方として参陣しようと薩摩を発したが、その途中で大坂城は陥落し戦は終結した。
その時の真田幸村の活躍ぶりを噂で聞いた家久はその目で見ていないにも関わらず、
「真田は日本一の兵である。これほどの活躍は古今どの物語を探しても存在しない。
と記した手紙を薩摩に送った。
『真田日本一の兵』という呼称の誕生である。
完全に余談であるが、戦国時代に島津家久という人物は二人おり、片方は島津貴久の息子にして島津四兄弟の末弟「家久」。
もう片方は島津四兄弟の長弟・島津義弘の息子(上記の家久の甥に当たる)「忠恒」である。
忠恒は1606年に家康から偏諱をうけ、以後「島津家久」と名乗った。
42 :
名無しさん@おーぷん :2015/11/21(土)17:08:04 ID:V3S
歴史で一番クズ多いのは戦国時代ちゃうか?
43 :
名無しさん@おーぷん :2015/11/21(土)17:08:58 ID:
Ucx
>>42
せやな。鎌倉も大概やと思うが
45 :
名無しさん@おーぷん :2015/11/21(土)17:09:34 ID:yvy
>>42
ルール無用の殺し合いの時代やと嫌でもそうなるぞ
49 :
名無しさん@おーぷん :2015/11/21(土)17:10:14 ID:QMh
>>42
そら外では戦争、中では下克上の時代やししゃーない
52 :
名無しさん@おーぷん :2015/11/21(土)17:10:52 ID:mQX
>>42
この時代の武士の心得は 畜生になってでも勝て やで
43 :
名無しさん@おーぷん :2015/11/21(土)17:08:58 ID:
Ucx
L
(*^◯^*)「その刀かっこいいんだ!」
('ω`)「アゲル・・・」
(*・◯・)「えっ」
( ・`ω・´)「その着物似合ってるぞ」
('ω`)「アゲル・・・」クシャミクシュンー
(; ・`ω・´)「えっ」
彡(^)(^)「(さすがに木は大丈夫やろ)その木立派やな」
('ω`)「アゲル・・・」ヒッコヌキー
彡( )( )「」
44 :
名無しさん@おーぷん :2015/11/21(土)17:09:16 ID:
Ucx
(*^◯^*)、( ・`ω・´)、彡(゚)(゚)・・・尼子家家臣
('ω`)・・・尼子経久
尼子家当主・尼子経久は物に全くというほど執着せず、家臣が経久の持ち物を褒めるとどんなものでもその者に与えた。
ある時家臣の一人が庭の木なら大丈夫だろうと褒めたところ、経久がその木を引き抜こうとした。
慌てて周囲の者は止めに入ったが、経久はその木を切って蒔としたものを家臣に渡した。
その時「木を丸ごとあげられないのは残念だ」と言ったとされる。
46 :
名無しさん@おーぷん :2015/11/21(土)17:09:43 ID:
Ucx
M
彡(゚)(゚)「お、敵将や!射殺したろ!」
(*^◯^*)「待つんだ!武士らしく刀で戦うんだ!」ヤリポイー
彡(゚)(゚)「・・・せやな、刀で勝負や!」ユミポイー
(*^◯^*)「えいっ」ヤリヒロッテグサー
彡( )( )「」
47 :
名無しさん@おーぷん :2015/11/21(土)17:09:50 ID:V3S
農民から武将まで野蛮人しかおらん
48 :
名無しさん@おーぷん :2015/11/21(土)17:10:04 ID:
Ucx
彡(゚)(゚)・・・木山正親
(*^◯^*)・・・加藤清正
豊臣秀吉の九州平定後、加藤清正は肥後(熊本)北部の大名となっていた。
ある時反乱が起きると清正は鎮圧に向かい、そこで反乱軍の木山正親という武将と遭遇する。
木山正親は反乱軍でも名のある武将で、清正を見つけると弓を構えた。
そこで清正は彼に対し正々堂々刀で戦おうと提案し自ら槍を投げ捨てる。
正親もそれに応じ弓を捨てるが、その直後清正は槍を拾い上げ正親を討ち取った。
53 :
名無しさん@おーぷん :2015/11/21(土)17:11:01 ID:3LK
>>48
まぁこれは騙される木山弾正君が悪い
というか役柄逆の方が楽しそうやねこれw
51 :
名無しさん@おーぷん :2015/11/21(土)17:10:41 ID:
Ucx
N
(*^◯^*)「そろそろ城が落ちるんだ!包囲を突破して援軍を呼んでくるんだ!」
彡(゚)(゚)「分かったで」
彡(゚)(゚)「援軍クレメンス」
('ω`)「ワカッタ・・・」
彡(^)(^)「よしさっそく城のみんなに伝えるやで!」
彡( )( )「敵に捕まったンゴ・・・」
(☆...●)「城に援軍が来ないから諦めろって言ったら重用してやるぞ」
彡(゚)(゚)「死にたくないしええで」
彡(゚)(゚)「城兵のみんな、よう聞くんや!」
彡(^)(^)「援軍はもうすぐ来るで!あと少し頑張るんや!(援軍なんかこーへんからとっとと降伏せい!)」
(♯☆...●)「磔にしろ」
彡(○)(○)「間違えたンゴ・・・」
54 :
名無しさん@おーぷん :2015/11/21(土)17:11:11 ID:
Ucx
(*^◯^*)・・・奥平貞昌
彡(゚)(゚)・・・鳥居強右衛門
('ω`)・・・徳川家康
(☆...●)・・・武田勝頼
1575年、武田勝頼は武田家から離反した奥平貞昌以下500の兵が籠る長篠城に1万5000の兵で攻め寄せた。
貞昌は良く守ったが、その内陥落寸前まで追い詰められ、家臣の鳥居強右衛門に家康へ援軍を請うよう向かわせた。
強右衛門は武田軍の包囲を突破し家康に会うとすでに織田が援軍として到着し、まもなく長篠へ向かう手筈であることを知る。
強右衛門はすぐさま引き返し、烽火を上げて城兵に援軍来たるの報を知らせると、詳しく伝えようと再び包囲を突破して長篠城に戻ろうとした。
ところが烽火を上げたことで警戒していた武田兵に捕らえられてしまい、勝頼の元に引き立てられてしまう。
そこで「さっきの烽火は誤報であり、援軍は来ない」と長篠城に向かって言えば、以後武田家で厚遇すると持ちかけられた。
援軍が来ないと知れば意気消沈し城側から降伏を申し出てくるだろうという勝頼の読みからであった。
強右衛門はそれを表向き承知する。
そしていざ城前まで連れて来られると、「さっきの烽火は正しく、援軍はあと数日でくる。あと少しの辛抱だ」と叫んだ。
勝頼は激怒し、強右衛門を磔にした上で殺害した。
しかし強右衛門の言葉とその壮絶な死を受け城兵の士気は大いに上昇し、
結果援軍の到着までに長篠城を落とせなかった勝頼は万全の体制を整えられないまま織田・徳川連合軍を迎え撃つことになってしまう。
完全に余談だが、貞昌は援軍到着まで持ちこたえたことで信長から高く評価され、「信」の偏諱を与えられて
57 :
名無しさん@おーぷん :2015/11/21(土)17:12:32 ID:yvy
>>54
この件の鳥居の磔の姿を絵にして旗指物にした変人武士がいた模様
63 :
名無しさん@おーぷん :2015/11/21(土)17:14:10 ID:PIR
>>54
クッソかっこいいな
55 :
名無しさん@おーぷん :2015/11/21(土)17:12:05 ID:
Ucx
以上やで
質問あったら受け付けるやで
>>50
これで最後や・・・すまんな
59 :
名無しさん@おーぷん :2015/11/21(土)17:13:19 ID:
Ucx
見てくれた人ありがとうやで
60 :
■忍法帖【Lv=1,マタンゴ,Ezm】 :2015/11/21(土)17:13:33 ID:V3S
面白かったで 乙
61 :
名無しさん@おーぷん :2015/11/21(土)17:13:48 ID:
Ucx
>>60
ありがとうやで