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【歴史】原住民と学ぶインドネシア独立と大日本帝国の関係
Part4


173 :名無しさん@おーぷん :2015/03/16(月)22:47:38 ID:4GR

【番外編:マックス・ハーフェラール】

174 :名無しさん@おーぷん :2015/03/16(月)22:48:46 ID:4GR
1860年。
オランダで『マックス・ハーフェラール』という小説が『ムルタトゥーリ』によって発表されました。
『ムルタトゥーリ』とは、オランダ領東インド現場責任者・副理事官エドゥアルト・ダウエス・デッケルのペンネームです。
彼は自身の経験を元に小説を執筆。
ペンネーム『ムルタトゥーリ』を用いて『マックス・ハーフェラール』を出版しました。

175 :名無しさん@おーぷん :2015/03/16(月)22:50:19 ID:4GR
小説の内容は次の通り。
新しくやってきた副理事官は、現地民族長の横暴・収奪を阻止しようします。
また、前任者の毒殺紛いの死因を総督に告発しました。
しかし、告発は総督に揉み消され、更に副理事官は解雇されてしまったのでした…。
これに現地民の悲恋話が加わる、というものです。

176 :名無しさん@おーぷん :2015/03/16(月)22:51:47 ID:4GR
『強制栽培制度』。
これはジャワ島の村落共同体に大きな影響を与えていました。
植民地政庁は村長の権限を拡大し、行政機構に組み入れました。
指定作物の強制栽培は村長を通して行われました。
これによって村長は多大の収入が与えられます。
しかし村長と村民の関係は大いに悪化したのでした。

177 :名無しさん@おーぷん :2015/03/16(月)22:53:16 ID:QiT
世界史を思い出して懐かC

178 :名無しさん@おーぷん :2015/03/16(月)22:53:19 ID:4GR
さて。『マックス・ハーフェラール』ですが。
これは「現地民族長が悪であり、これをオランダが正しく管理する必要がある」。
そういう植民地支配の正当性を主張する、いわゆる植民地支配寄りの作品という面を持つ、という見方もあります。
作中の主人公・副理事官『ハーフェラール』とは異なり、
作者『デッケル』はオランダによる植民地支配を肯定する立場だったのでした。

179 :名無しさん@おーぷん :2015/03/16(月)22:54:52 ID:4GR
そんな『マックス・ハーフェラール』ですが。
この小説によって、オランダ本国に『強制栽培制度』の実体が知れ渡りました。
これにより『強制栽培制度』を非難する声が高まり、
1860年代以降、『強制栽培制度』は需要の少なくなった農作物から順に廃止されることとなったそうです。
この小説は今もオランダ文学の古典とされているそうです。

180 :名無しさん@おーぷん :2015/03/16(月)22:56:24 ID:4GR
なお、この小説は政治家ファン・レネップに委託して出版されました。
しかし、レネップの手によって植民地政策に反する部分は削除されていたようです。
1874年。著作権を取り戻したデッケルが記憶を頼りに内容を修正、第四版が出版されます。
更にデッケルの死後。
1949年。元原稿が発見されて出版された、という経緯を持つそうです。

181 :名無しさん@おーぷん :2015/03/16(月)22:57:37 ID:4GR
さて。何故『強制栽培制度』を廃止したこの流れが『番外編』なのか?
それは次の本編にて。

【番外編:マックス・ハーフェラール 完】

182 :名無しさん@おーぷん :2015/03/16(月)22:58:53 ID:4GR

【番外編:バリ島】

183 :名無しさん@おーぷん :2015/03/16(月)23:00:21 ID:4GR
(U・×・U)「我がイギリスはシンガポールを拠点に絶賛交易中だよ」
(U・×・U)「今度はオーストラリアやニュージーランドとも交易をしたいなぁ」
(U・×・U)「さて、どの海路を経由してあっちの方に向かおうか…」
(U・×・U)「…やっぱり、このロンボク海峡かな」
ロンボク海峡。
それはロンボク島とバリ島の間にある海峡でした。

184 :名無しさん@おーぷん :2015/03/16(月)23:01:45 ID:4GR
さて。実はバリ島には未だオランダの手が伸びていませんでした。
というのも、バリ島に特産品がなく、奴隷の供給地として以外は大した魅力がなかったのでした。
しかし、ライバル植民地帝国のイギリスがこの海峡に関心を持つようになり、
オランダはバリ島を防衛せざるを得なくなりました。

185 :名無しさん@おーぷん :2015/03/16(月)23:03:11 ID:4GR
ある日。
(●゚◇゚●)「あ、難破船だ」
(●゚◇゚●)「難破船の荷物は『海からの贈り物』なんだよ」
(●゚◇゚●)「早速もらいに行こう!」
たまたま、バリ島近海で難破船の荷物をバリ人が取得することがありました。
それはバリ人にとってはごく当たり前の慣習でした。

186 :名無しさん@おーぷん :2015/03/16(月)23:04:36 ID:4GR
ですが。オランダはそれを黙認しませんでした。
(●▲●)「賠償金払えや」
(●゚◇゚●)「え、やだよ」
(●゚◇゚●)「なんなら槍の先で賠償金を支払ってやる!」
(●▼●)「言ったな?(ニヤリ」
その回答を待っていたと言わんばかりに。
オランダはバリ島への侵略を開始しました。

187 :名無しさん@おーぷん :2015/03/16(月)23:05:50 ID:tsD
オランダ容赦ねーな

188 :名無しさん@おーぷん :2015/03/16(月)23:05:57 ID:4GR
(●▲●)「ワイらオランダの宗主権を認めるんやで〜」
(´・ω・`)「わ、分かったよ…」
(●▲●)「やったぜ。」
1840年〜1843年。第1次バリ戦争。
これによってオランダは各王国にオランダの宗主権を認めさせます。

189 :名無しさん@おーぷん :2015/03/16(月)23:07:22 ID:4GR
(●゚◇゚●)「やっぱりやだ」
(●▲●)「は?(威圧)」
しかしブレレン王国がこれに反発。
1848年。第2次バリ戦争が始まります。

190 :名無しさん@おーぷん :2015/03/16(月)23:08:47 ID:4GR
(●▲●)「ちょっと痛い目見せたるわ」
(●▲●)「…?」
(●▲●)「…お?」
(●▲●)「………おお?」
(●゚◇゚●)「ヤマダ!ユウヘイ!バレンティン!やってしまうんだ!」
(●▲●)「ちょ、待ちーや!それ反則やで!」
何とここで遠征軍は手痛い敗北を喫します。

191 :名無しさん@おーぷん :2015/03/16(月)23:09:48 ID:4GR
(●▲●)「ワイを本気にさせたな?」
(●▲●)「燃やしたるわ」
(◇)「ぁぁぁ、ジンタイが…燃える…燃える……」
1849年。第3次バリ戦争。
オランダは12000人からなる遠征軍を送り、ロンボク海峡に面する王国を制圧したのでした。

193 :名無しさん@おーぷん :2015/03/16(月)23:10:52 ID:4GR
一方の海峡を挟んだ向こう側、ロンボク島。
この島はバリ島の覇権が及んでいましたが…。

194 :名無しさん@おーぷん :2015/03/16(月)23:12:20 ID:4GR
(o^^o)「反乱を起こすんだ!」
(●▲●)「お、ええこと聞いたわ」
ササック族のバリ島支配への反乱。これにオランダが乗じて進出。
そうしてロンボク海峡を確保しました。

195 :名無しさん@おーぷん :2015/03/16(月)23:14:01 ID:4GR
なお、バリ島南部には未だ小王国が残っていましたが、そのうちの幾つかはオランダに懐柔されます。
また、小王国同士の対立で亡命していたギャニアール王国。
この王家がオランダに自国再興の助けを求めたことが、南部王国征服の契機となったのでした。

【番外編:バリ島 完】

196 :名無しさん@おーぷん :2015/03/16(月)23:15:50 ID:4GR
今日はここまで。続きは鋭意執筆中…。
当初の計画から番外編などなどで大分膨れあがってしまい、大日本帝国登場にえらい時間がかかっている模様。
更に追加分が増える気配があるため、ここから暫く更新速度が落ちる可能性あり。
明日の更新はないかもしれませんのであしからず…。

197 :名無しさん@おーぷん :2015/03/16(月)23:17:52 ID:tsD
サンイチ
まったりやってくれればええんやで

198 :名無しさん@おーぷん :2015/03/16(月)23:18:15 ID:iYj
乙やで

199 :名無しさん@おーぷん :2015/03/16(月)23:18:30 ID:A0g
サンキュー
理解し合おうとしない世界はアカンね

202 :名無しさん@おーぷん :2015/03/16(月)23:27:16 ID:4GR
・小豆知識『ムラピ山』
1822年に噴火した火山。
前年1821年にコレラが流行しており、これらの事象がジャワ戦争に大きく関わったとされます。
名称は「火の山」の意。
1548年から計68回も噴火しており、2010年にも噴火しているようです。
噴火の度に2000人ほどの死者を出しています。
メラピ山とも書かれ、スマトラ島中部にも同名の火山があるそうです。

203 :名無しさん@おーぷん :2015/03/16(月)23:34:23 ID:3HC
ホラカスどもは長崎でビジネスしとると思ったら
裏でこんな外道なことしとるんやな

204 :名無しさん@おーぷん :2015/03/16(月)23:36:35 ID:QiT
おもろいな

217 :名無しさん@おーぷん :2015/03/18(水)21:00:37 ID:ivN
  (●゚◇゚●)
     (^)'・▲・`(^)
        (U・×・U)
           (≦・ω・≧)
                 
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                         (●▲●)   (o^^o)  
                             U・ω・U   ('ω`)     
                                       ( `o´)
Next Time 22:00.                                ☆
(*^◯^*)<今日は日本と東南アジアの豆知識からなんだ!

222 :名無しさん@おーぷん :2015/03/18(水)22:00:24 ID:ivN
(*^◯^*)<はじまるんだ!

223 :名無しさん@おーぷん :2015/03/18(水)22:01:44 ID:ivN
・豆知識『カラユキサン』その1
1854年。日本は鎖国から解放されます。
これにより日本人は東南アジアに溢れ出ました。
それらは貧しさ故の、南方で成功したいという一旗組でした。
日本人の海外渡航の先駆け。それは『カラユキサン』でした。
語源は唐行。唐とは「外国」の意。
売春婦です。

224 :名無しさん@おーぷん :2015/03/18(水)22:03:08 ID:ivN
・豆知識『カラユキサン』その2
例えば、1897年のジャワ島在留邦人。
全125名のうち、女性はなんと100名だったそうです。
彼女らの職業が記されていないのは、察して下さい。
”カラユキサン”は主に九州の天草、島原の貧困層の女性でした。
斡旋業者は貧しい農村を回り、年頃の娘を見つけると「海外で奉公させる」などと言って親に現金を渡します。
斡旋業者は彼女たちを売春業者に渡すことで手間賃を得ていました。
当時、中国や東南アジアに石炭が輸出されていましたが、
彼女らはその積み荷の隙間に紛れて密出航していたのでした。

225 :名無しさん@おーぷん :2015/03/18(水)22:04:32 ID:ivN
・豆知識『カラユキサン』その3
シンガポールから東南アジア各地に”カラユキサン”が送られる拠点があり、
東南アジアの都会にも田舎にも”カラユキサン”は居たそうです。
作家・山崎朋子の作品『サンダカン八番娼館』。
ノンフィクション小説。
後に映画化もされたこの作品は、”カラユキサン”として渡った女性への聞き取り調査を基にしているそうです。
ボルネオ島東端のイギリス領、サンダカン。
こんな場所にすら”最低8つ以上の『カラユキサン』による娼館があった”。
それほどまでに、東南アジアには日本の女郎屋があり、”カラユキサン”が居たということです。

226 :名無しさん@おーぷん :2015/03/18(水)22:05:46 ID:ivN
・豆知識『カラユキサン』その4
日本統治時代の台湾銀行バタヴィア支店、スラバヤ支店開設時。
それらは”カラユキサン”の仕送りで営業が成り立っていた、という話もあります。
現在の経済大国・日本の基礎となったのは、明治時代、安い賃金で工場で働く女性労働者”女工”です。
”女工”の生産した綿製品を不当に安く輸出することで、日本は工業社会にのし上がりました。
それらは女性の汗と涙でできていました。
しかし実は女性の肉体そのものも輸出されていた。
それが”カラユキサン”です。

227 :名無しさん@おーぷん :2015/03/18(水)22:06:58 ID:ivN
・豆知識『カラユキサン』その5
当初、”カラユキサン”さんは世論において『娘子軍』として持ち上げられ、明治末期にその最盛期を迎えました。
しかし日本の国勢が盛んになるにつれ、”カラユキサン”は国家の恥として非難されるようになりました。
1920年。廃娼令により海外の日本人娼館は廃止されました。
多くの”カラユキサン”は日本へ帰還しましたが、更正策もなく残留した人もいたそうです。

228 :名無しさん@おーぷん :2015/03/18(水)22:08:21 ID:ivN
・豆知識『カラユキサン』その6
現在、東南アジアで”カラユキサン”の痕跡が残るのは、日本人墓地の一画のみです。
そこには墓碑らしい黒く変色・風化した石が無造作に置かれているそうです。
今、東南アジアでは卒業旅行で訪れる日本の女子学生たちが各地の国際空港、高級ホテル、リゾート地に溢れています。
彼女らはちょうど、”カラユキサン”と同じ年頃です。
”カラユキサン”と女子学生たち。彼女らの時代はたった100年しか違いません。
たった100年、されど100年。越えられない時の重みを感じます。
【豆知識『カラユキサン』 完】

230 :名無しさん@おーぷん :2015/03/18(水)22:09:52 ID:ivN
・豆知識『トコ・ジュパン』その1
”カラユキサン”と同時期に東南アジアへ出た日本人です。
見世物師や家事従業員がいましたが、
最も羽振りが良かったのは、やはり”カラユキサン”を抱える女郎屋の大将でした。
海外に出た行商人は初めは”カラユキサン”を相手にする商売だけでしたが、
次第に住民相手への商売に広がっていき、やがて店舗を構えるようになりました。

231 :名無しさん@おーぷん :2015/03/18(水)22:11:06 ID:ivN
・豆知識『トコ・ジュパン』その2

日本人の店は『トコ・ジュパン』(Toko Jepang:日本人の店)と呼ばれ、正直者の店として評判でした。
トコ・ジュパンは薬品、雑貨、衣料、陶器、自転車、床屋、写真館、運送店などを営み、
特に薬の行商は歓迎され、皮膚病、眼病用の薬はよく効いたそうです。
太平洋戦争前には8000人ほどの日本人がオランダ領東インドに在住。
当時はオランダ領東インドのあらゆる街に満遍なく散らばっており、
少し大きな街には華僑商店に混じって1,2軒ほどのトコ・ジュパンがありました。

232 :名無しさん@おーぷん :2015/03/18(水)22:12:27 ID:ivN
・豆知識『トコ・ジュパン』その3
やがて日本の大商社も遅れてオランダ領東インドに進出してくるようになります。
ビジネス街に大きな店を構え、殖産会社、外交官、銀行、船会社、商社なども進出してきます。
彼らは転勤で日本に帰る者と、帰る予定のない者に分かれます。
帰る予定のない者も、日本国籍は残したままなので、
日本から妻と子どもを連れてやってきた彼らは、一種の出稼ぎのようなものでした。

233 :名無しさん@おーぷん :2015/03/18(水)22:13:49 ID:ivN
・豆知識『トコ・ジュパン』その4
オランダ領東インドにおける日本人の最初の位置付けは”東洋外国人”。
華僑やアラビア人と一緒のものでした。
しかし1899年。
オランダとの協定で、日本は法的にはヨーロッパと同等の地位が与えられます。
日本の経済進出も目覚ましく、彼らは日本人を”名誉白人”として受け入れざるを得ませんでした。
本編を挟み、その5に続きます。