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現存するババァ船の船歴をまとめてみた(宗谷編)
Part4


113 :以下、名無しが深夜にお送りします:2016/05/19(木) 22:04:47 ID:gRB8vZaQ
翌14日、一瞬の晴れ間を見て昭和号を飛ばし、昭和基地に残っていた2次隊隊員3名を宗谷に再収容することが決まります。
宗谷から昭和基地の観測員たちには、その旨を知らせる無線連絡が発せられました。
観測隊『船長、何故です!? 第1次観測隊の残した物資もまだあります! 我々2次観測隊3名での越冬も十分可能です!』
船長「バートン・アイランドの艦長から勧告があった。君たち3人を連れて外洋に出るのは、人命を尊重する彼らの至上命題でもある」
観測隊『天候の回復を待てないのですか!?』
船長「それももう時間切れだ。おそらく迎えの飛行機も飛ばせてあと1回……君たちにはそれに乗って帰船してもらう」

114 :以下、名無しが深夜にお送りします:2016/05/19(木) 22:05:40 ID:gRB8vZaQ
観測隊『1回って……それじゃあ我々が乗ったら、樺太犬たちを乗せるスペースがないじゃないですか!』
船長「……バートン・アイランドのヘンリー・ブランティンガム艦長から、彼らが野犬化したり共食いするのを防ぐために、必ず鎖でつないだ状態で帰船するよう指示がでている」
観測隊『犬たちを見殺しにしろと!?』
この時点で、樺太犬15頭がまだ昭和基地に取り残されていました。
観測隊3名を収容後も宗谷はしばらく昭和号を発信させる機会を窺っていましたが、天候は回復することなく、風速30mを超える猛吹雪により宗谷に搭載された探照灯と電話アンテナがもぎ取られ、宗谷と行動を共にしていたバートン・アイランドも氷中で身動きがとれなくなる事態となってしまいます。

115 :以下、名無しが深夜にお送りします:2016/05/19(木) 22:06:37 ID:gRB8vZaQ
そしてついに、南極本部も観測隊に今次の越冬・本観測を放棄するよう命令を下したのです。
船長「現時点をもって今期の計画を断念。本船はこれより日本に向けて帰投する」
観測隊「……」
この時宗谷では、残された犬たちがせめて苦しまずに死ねるよう、ヒ素入りのステーキが用意されましたが、それを南極まで送り届けることもできないまま、2月24日の帰国期限を迎えます。
こうして第2次観測隊は昭和基地に15頭の樺太犬を残し、日本への帰途につくことになります。

116 :以下、名無しが深夜にお送りします:2016/05/19(木) 22:07:29 ID:gRB8vZaQ
4月に入り、満身創痍の状態で日本に帰ってきた宗谷と観測隊を待っていたのは、南極観測の失敗と犬を見捨てて帰還したことに対する非難の嵐でした。
特に国民は、基地に鎖で繋がれたまま樺太犬を放置してきたことを激しく攻め立てました。
この苦い経験から海上保安庁は、宗谷を南極に接岸させるのではなく、大型ヘリコプターを使用した空輸を中心に人や物資を送り届ける方針へと転換します。
これにより宗谷は、大型ヘリコプターを搭載するために再び大きな改造が施されることとなります。

117 :以下、名無しが深夜にお送りします:2016/05/19(木) 22:08:11 ID:gRB8vZaQ
・後部マストを移動し、飛行甲板を拡大。
・航空指令室を増設。
・航空機ガソリンタンクの設置。
・小型ヘリコプター格納庫の撤去。
・ヘリコプター吊り上げ用クレーンの増設。
・より大型のシコルスキーS-58ヘリコプターを2機搭載。

118 :以下、名無しが深夜にお送りします:2016/05/19(木) 22:10:49 ID:gRB8vZaQ
この改造により、これまで搭載していた小型ヘリ2機に加え、大型ヘリ2機、固定翼機1機を搭載できるようになった宗谷は、乗組員や観測員から「ヘリ空母」や「ミニ空母」と呼ばれるようになります
この時代、大型ヘリコプターを中心に人員や物資を基地まで空輸するという方法は、未だ前例のないものでした。
また、この他にも各種実験・観測設備が一新され、観測能力も大幅に強化された宗谷は、同年11月12日に第3次観測隊を乗せ三度南極へ向かいます。

119 :以下、名無しが深夜にお送りします:2016/05/19(木) 22:11:41 ID:gRB8vZaQ
翌1959年1月14日。
宗谷は厚い氷と戦いながらなんとか昭和基地の北・約163kmの地点まで到達します。
ここで宗谷は氷上にヘリポートを設け、搭載しているS-58ヘリコプターで昭和基地への航空輸送を行うことを決定します。
観測隊「基地に着いたら、アイツらの墓を作ってやらにゃあな……」
そして同日午後1時38分。第一便のヘリが昭和基地に向け飛び立ちます。

120 :以下、名無しが深夜にお送りします:2016/05/19(木) 22:12:40 ID:gRB8vZaQ
観測隊「見えてきた、昭和基地だ……ん? なんだあれは」
観測隊「熊……?」
観測隊「いや南極に熊はいないだろう……もしかして!?」
なんとそれは前年昭和基地に取り残されていた樺太犬のうちの2匹でした。
彼らは1年間、南極の厳しい環境の中で生き抜いていたのです。

121 :以下、名無しが深夜にお送りします:2016/05/19(木) 22:14:29 ID:gRB8vZaQ
その後、2匹は第1次越冬隊で犬ぞり隊を務めていた北村泰一氏により「タロ」と「ジロ」の兄弟であることが確認されます。この奇跡的な出来事に、観測隊員や乗組員は喜びに包まれます。
タロとジロ以外の13頭については残念ながらそのまま命を落としてしまい、たまたま首輪抜けが得意だったこの2匹のみが、ペンギンやアザラシなどを食べて生き残ったと考えられています。
2匹が生きていたというニュースは、日本中に衝撃と感動をもたらした一方、人間の都合で犬の命を左右するエゴイズムや、南極の生態系を危険にさらした事実については引き続き批判の声も聞かれました。
なお、現在では生態系保護のため、南極にこれらの外来生物を持ち込むことはできなくなっています。

122 :以下、名無しが深夜にお送りします:2016/05/19(木) 22:15:40 ID:gRB8vZaQ
また、この第3次観測の際に導入された空輸を中心とした基地への物資輸送については、大型ヘリコプターだけで実に57tという当初の計画の2倍以上の成果を上げ、アメリカやソビエトを中心とした各国に大いに注目されることとなります。
そして、この空輸を基本とした輸送体制は後継艦のふじ、しらせに至るまで脈々と受け継がれることになります。

123 :以下、名無しが深夜にお送りします:2016/05/19(木) 22:16:12 ID:gRB8vZaQ
その後宗谷は、1961年の第6次観測まで南極観測船として活躍します。
本来はこの第6次観測をもって南極観測は終了、昭和基地も閉鎖される計画でしたが、日本学術会議の「南極観測を恒久的な事業にするべき」との勧告をうけ、4年の休止期間をおき、1965年から南極観測事業を再開することが決定します。
この際、海上輸送任務については海上保安庁から海上自衛隊へと移管されることになり、海上自衛隊は新型砕氷艦である「ふじ」を建造することを決定。宗谷は初代南極観測船としての任務を終えることになります。
宗谷「ふぅ……」ボロッ
この時宗谷は船齢25年余り。すでに船体はあちこちガタがきており、普通の船であればとっくに引退していてもおかしくない状態でした。

124 :以下、名無しが深夜にお送りします:2016/05/19(木) 22:16:46 ID:gRB8vZaQ
海上保安庁「お疲れ様」
宗谷「お疲れ様です……」
海上保安庁「よく頑張ったね」
宗谷「これで私もそろそろお役御免でしょうか……」
海上保安庁「いや、それがね……」

125 :以下、名無しが深夜にお送りします:2016/05/19(木) 22:17:59 ID:gRB8vZaQ
当時、海上保安庁では流氷の漂う北海での海難事故への対応に苦慮していました。
南極観測船として活躍した宗谷でしたが、登録上はまだ巡視船であり、さらに南極観測を6回も成功させたという実績はまさにこの任務にうってつけだったのです。
さらに、当時海上保安庁最大の巡視船だった宗谷は、所属船艇の旗艦・模範船として、いつしか海上保安庁の中でトップとして君臨していました。
海上保安庁「君の力がまだ必要なんだよ」
宗谷「が、頑張ります」

126 :以下、名無しが深夜にお送りします:2016/05/19(木) 22:21:52 ID:gRB8vZaQ
1962年6月15日。
宗谷は日本鋼管浅野ドックに入渠し、観測機器や航空機関係の重装備を降ろします。しかし船体の塗装は観測船時代の白とオレンジのまま留め置かれました。
8月1日には宗谷は第三管区海上保安本部所属になり、サケ・マス漁業監視のため北海道の第一管区釧路海上保安部へ旅立ちました。
宗谷「灯台を回ってた時の事を思い出すなぁ……」
なお、宗谷の灯台補給船時代の最後の船長であった松原周吉氏はこの時函館海上保安部長となっており、宗谷が先述の釧路での監視任務を終え、8月24日に函館港に入港した際には第一管区所属の全巡視船を集合させ宗谷のために観艦式が執り行われました。
しかし、同日午後11時。
三宅島の雄山噴火の報せ受けた宗谷は、急遽函館港から東京湾へ引き返します。

127 :以下、名無しが深夜にお送りします:2016/05/19(木) 22:23:29 ID:gRB8vZaQ
そして翌9月14日には、千葉県館山市に疎開していた学童凡そ2千名を三宅島まで送り届けることになります。
子供「すげー!!南極観測船だ!!」
実際に南極へ行った宗谷に乗り込むことになった子供たちは、大変な喜びようだったといいます。
しかし彼らを送り届けたのもつかの間、2週間後の9月28日には金華山沖南東1500キロの海域で操業していたマグロ漁船から医療救助の通報が横浜海上保安部に入り、宗谷に出動命令が下ります。
宗谷は医師1名と看護師2名を乗せ、現場海域へ急行します。
さらに翌29日には同海域で操業中の別の船からも医療救助を求められたため、宗谷はこちらにも救助へ向かっています。
最終的に、どちらの船の患者も宗谷が現場に急行したことにより命を取り留めることができました。

128 :以下、名無しが深夜にお送りします:2016/05/19(木) 22:24:31 ID:gRB8vZaQ
この頃の宗谷は函館を母港としており、冬になるとオホーツク海で流氷を割りながらパトロールを実施し、流氷に閉じ込められた漁船や同僚の巡視船を救助しにいきました。
宗谷「大丈夫ですか〜」バリバリ
漁師「こんな分厚い氷をいともたやすく!!」
漁師「やっぱ南極観測船は伊達じゃねぇべなぁ……」
南極の分厚い氷と戦い続けた宗谷にとって、この程度の流氷を割ることなど朝飯前の乾布摩擦レベルでした。
その後、宗谷は正式に北海道沿岸を管轄する第一管区海上保安本部に配属されます。

129 :以下、名無しが深夜にお送りします:2016/05/19(木) 22:26:10 ID:gRB8vZaQ
1965年7月15日。
二代目南極観測船「ふじ」の就役に伴い、宗谷は南極観測船としての役割を正式に終えることになります。
ふじの出発に先立ち、10月25日には宗谷と海鷹丸の観測をもとにした詳細な南極海図が完成します。
これは、初めて南極に向かうふじの門出に向けて作られたものでした。
1965年11月20日にふじは第7次南極観測隊を乗せ東京を晴海埠頭を出港し、その後1983年の第24次隊にいたる18年もの間、南極観測船としてその役割を果たしています。

130 :以下、名無しが深夜にお送りします:2016/05/19(木) 22:27:46 ID:gRB8vZaQ
1970年3月16日。
カムチャッカ方面を哨戒中の宗谷に、釧路保安部から「単冠湾へ急行せよ」との緊急指令が入ります。
この時現場では沖合底曳漁船団19隻が猛吹雪の中流氷に襲われ、1隻は流氷に押し流され大破。7隻が閉じ込められるという未曽有の事態が発生していました。
さらに、閉じ込められた2隻はそのまま流氷に潰されて転覆。当該船の乗組員は行方不明になり、残り5隻の乗組員たちも18日に択捉島に上陸、ソビエト当局に保護されていました。

131 :以下、名無しが深夜にお送りします:2016/05/19(木) 22:28:34 ID:gRB8vZaQ
宗谷は巡視船「だいおう」、「えりも」、「りしり」と合流、これらの救難探索及びその指揮に当たります。
22日、宗谷は単冠湾内でソ連警備艇から84名の漁船乗組員を引き取り、翌23日には未だ流氷の浮かぶ釧路港に生存者を降ろすと再び流氷群の中に引き返します。
その後行方不明となった2隻の乗組員の捜索が続けられたものの、成果はあがらず27日には捜索が打ち切られます。
宗谷は汽笛を鳴らし、黙祷捧げて現場海域を後にしました。
この頃から宗谷は、漁師たちの間で「北洋の守り神」と呼ばれるようになります。

132 :以下、名無しが深夜にお送りします:2016/05/19(木) 22:29:42 ID:gRB8vZaQ
その後も宗谷は北海道の海の安全を守り続け、巡視船時代だけで1000名余りの命を救っています。
上記の単冠湾での任務の直後、宗谷の船体はオレンジ色から巡視船本来の白い色に塗り替えられ、その姿はかつて「灯台の白姫」と呼ばれた灯台補給船時代を彷彿とさせる佇まいとなりました。
またこの間宗谷は海上保安学校の練習航海で未来の海上保安官候補正を育む教育船としても使用され、海上保安庁の旗艦、模範船として退役するまでトップの座にあり続けました。
ですがそんな宗谷にも、いよいよ引退の時期が近づいてきます。

133 :以下、名無しが深夜にお送りします:2016/05/19(木) 22:30:48 ID:gRB8vZaQ
1977年。
第1次南極観測から20年を迎えたこの年、宗谷がかつて所属した灯台補給船の種別が廃止されます。
自動化や合理化の進んだ新時代の到来により、宗谷の後継船として巡視船「つしま」(LL01)が就役すると、宗谷にもいよいよ解役の話が出始めます。
1938年に建造され40年近く第一線で働き続けたその船体は、水漏れや各種配線の腐食、パイプの破損、雨漏りをはじめ、船内には隙間風が吹き込むなど、すでに限界の時を迎えていました。
誰もが、宗谷はこのままスクラップになるものと思っていました。

134 :以下、名無しが深夜にお送りします:2016/05/19(木) 22:33:14 ID:gRB8vZaQ
1978年3月。
宗谷にとって、最後の流氷の中での救助任務が始まります。
この年の2月末から稚内港に流れ込んだ流氷は、付近に停泊していた漁船を巻き込んで港内で氷結。
利尻・礼文などを結ぶフェリーや、タンカー、貨物船などの物資を運ぶ船も入港できないという状態になってしまいます。
この時、事態を重く見た稚内市長の浜森辰雄氏は、海上保安庁に宗谷を名指しして救援を要請します。
稚内には宗谷の名前の元となった宗谷岬があり、南極へ行ったタロとジロの出身地でもあることから、引退後も宗谷を保存しようという運動が起こるほどこの船が人気があり、また絶大な信頼を寄せられていたのです。

135 :以下、名無しが深夜にお送りします:2016/05/19(木) 22:33:55 ID:gRB8vZaQ
この時宗谷は択捉島沖で航行不能になった漁船を曳航していましたが、係る要請を受け僚船にその任務を任せると、函館を経由し稚内へと向かいます。
宗谷「すごい吹雪……」
宗谷が稚内の沖合に到着したのは、要請を受けてから2日後の3月11日夜のことでした。
しかし、この時はあまりの猛吹雪のため前に進むこともできず、翌日になっても氷状調査を行う予定の航空機すら飛ばすことができない状態でした。
このため、当時の宗谷船長有安欽一氏は単独での氷海突入を命じます。

136 :以下、名無しが深夜にお送りします:2016/05/19(木) 22:34:48 ID:gRB8vZaQ
この時稚内港周辺の海域には厚さ1.5mの流氷が立ちふさがり、然しもの宗谷といえども簡単には前に進むことができませんでした。
宗谷はかつて南極でそうしたように、「チャージング」と呼ばれる船を一旦後ろに下げ勢いをつけて突進することで氷を割る方法を駆使しながら稚内港への進入を試みます。
船齢40年のくたびれた宗谷の煙突は、機関が唸りを上げる度に火の粉を吹いたといわれています。
こうして宗谷は、稚内港に閉じ込められていた40隻余りの船を退避させることに成功します。

137 :以下、名無しが深夜にお送りします:2016/05/19(木) 22:35:22 ID:gRB8vZaQ
そして、1978年7月3日。
ついに宗谷の解役が決まります。

138 :以下、名無しが深夜にお送りします:2016/05/19(木) 22:36:06 ID:gRB8vZaQ
宗谷の最後の任務として与えられたのは、舞鶴海上保安学校学生の実習をかねた全国14の港を巡る「サヨナラ航海」でした。
8月2日に舞鶴を出港し、門司、広島、高松、神戸、名古屋、横浜、東京、塩釜、函館、小樽、新潟、青森と、一か月をかけて宗谷は全国の港を巡ります。
9月2日に立ち寄った青森港では、歓迎飛行のために海上自衛隊大湊地方隊のヘリコプター2機が飛来し、宗谷の飛行甲板に、大湊総監、江上純一海将からのメッセージを投下します。
『ーーー同じ海上に勤務する者として輝かしい宗谷の栄光と歴代乗組員の努力に最大の敬意を表します』

139 :以下、名無しが深夜にお送りします:2016/05/19(木) 22:36:58 ID:gRB8vZaQ
翌9月4日。
稚内市青年会議所からの「稚内市へ最後にもう一度」という陳情を受け、宗谷のサヨナラ航海は稚内へと続きます。
さらに翌日の9月5日には、宗谷の引退後の保存先が東京都お台場の「船の科学館」に決まります。
これは特務艦時代の宗谷の乗組員たちの戦友会「軍艦宗谷会」や、南極観測隊たちにより結成された「南極OB会」、さらには稚内市を始め11の地方公共団体や多くの国民から宗谷保存への希望に、海上保安庁が応えたものでした。
こうして宗谷は、現役を退いてなお人々の前にその姿を残すこととなるのです。

140 :以下、名無しが深夜にお送りします:2016/05/19(木) 22:37:33 ID:gRB8vZaQ
9月28日、午前9時。
稚内へのサヨナラ航海を終え、長年の母港である函館港を宗谷はUW(ご幸福を祈る)の旗旒信号を掲げ、解役式が行われる東京竹芝埠頭に向け出港します。
これが、宗谷にとって最後の航海となりました

141 :以下、名無しが深夜にお送りします:2016/05/19(木) 22:38:19 ID:gRB8vZaQ
1978年10月2日。
竹芝桟橋にて宗谷の解役式が執り行われます。
解役式には海上保安庁の歴代長官や歴代船長、南極観測隊員、宗谷にゆかりある人々が出席。
海上自衛隊音楽隊が演奏する国歌とともに、宗谷から国旗、海上保安庁旗、長官旗が下され、有安船長から高橋長官に返納されると、宗谷は40年にわたる現役生活に幕を引きます。
2016年現在、60年以上におよぶ海上保安庁の歴史の中で、長官が解役式に出席したのは後にも先にもこの宗谷だけとなっています。

142 :以下、名無しが深夜にお送りします:2016/05/19(木) 22:38:59 ID:gRB8vZaQ
巡視船時代だけでも宗谷は350件以上の海難救助出動により125隻の船舶と1000名以上の人を救助しています。
それ以外にも、南極観測船時代には多くの人や物資を南極へと運び、引揚船時代は19000人余りの邦人を日本へと連れ戻し、軍艦時代には数々の戦火を潜り抜け海図を作り上げるなど、宗谷は世界でも有数の功労船といえます。
まさに、掛値なしに「奇跡の船」なのです。

143 :以下、名無しが深夜にお送りします:2016/05/19(木) 22:39:36 ID:gRB8vZaQ
その後宗谷は南極観測船時代のオレンジ色に船体を塗装しなおし、現在に至るまで東京はお台場にある船の科学館に展示されています。
また、進水からちょうど70年目にあたる2008年2月16日には、靖国神社より権宮司を招き誕生70年を祝う古希祭が執り行われました。
現在でも宗谷は海上保安庁特殊救難隊の訓練所としても使われており、場合によっては舫をといて航行することができます。
旧海軍の船で現存しているものといえば東郷平八郎の乗船した三笠が有名ですが、三笠はすでに船体がコンクリートに埋め込まれているため、宗谷は現在でも船籍を有している唯一の日本海軍の艦でもあります。

144 :以下、名無しが深夜にお送りします:2016/05/19(木) 22:42:00 ID:gRB8vZaQ
2014年11月11日。
第56次観測隊員を乗せて東京晴海埠頭を南極へ向け出港した海上自衛隊の南極観測船「しらせ」を、宗谷はUW(ご安航を祈る)の旗旒信号を掲げ汽笛で見送ります。
数奇な運命を辿り、70年の時を超えてなお海の上に浮かび続ける彼女は、今でも後輩たちを暖かく見守っています。

145 :以下、名無しが深夜にお送りします:2016/05/19(木) 22:42:34 ID:gRB8vZaQ
-おわり-

146 :以下、名無しが深夜にお送りします:2016/05/19(木) 22:43:07 ID:gRB8vZaQ
衆議院会議録情報 第028回国会 文教委員会 第14号
http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/syugiin/028/0462/02804010462014a.html
第2次観測を放棄する形で終えた永田氏への意見聴取議事録。

147 :以下、名無しが深夜にお送りします:2016/05/19(木) 22:44:25 ID:gRB8vZaQ
船の科学館ビッグサイト近いからコミケの帰り寄ってみるといいよ!
超でかいディーゼルエンジンの展示があってテンションあがる
次は氷川丸かコンスティチューションあたり

148 :以下、名無しが深夜にお送りします:2016/05/19(木) 23:52:19 ID:2Ae6ZYNg
おつ。面白かった。
いつか艦これに出ると良いなと思った

149 :以下、名無しが深夜にお送りします:2016/05/20(金) 00:12:31 ID:KCw.0P2s

船の科学館行ってみたくなったぞどうしてくれるんだ

150 :以下、名無しが深夜にお送りします:2016/05/20(金) 00:21:57 ID:GvOlKeeA
>>148
おばあちゃんになった宗谷と若い姿のままの軍艦達が顔を合わせたら嗚咽しか聞こえないだろ。
生き残っちゃってごめんなさいとか生き残ってくれて本当にありがとうとか。

151 :以下、名無しが深夜にお送りします:2016/05/20(金) 01:04:43 ID:ps1fHDFg

よかった

155 :以下、名無しが深夜にお送りします:2016/05/21(土) 09:16:17 ID:8qFaMwRE
泣けた いや、ほんとに。
楽しめました!ありがと
おつでした!