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現存するババァ船の船歴をまとめてみた(宗谷編)
Part2


37 :以下、名無しが深夜にお送りします:2016/05/17(火) 22:39:58 ID:NYikmdZk
<パカーン!!
宗谷「ひっ!」
この空襲で、たまたま米軍機の投下した増槽が宗谷の機関室真上に命中し、機関室にガソリンが充満してしまう事態となります。
しかしながら、この時は入渠中でエンジンに火が入っていなかったため大事には至りませんでした。
宗谷「ほっ……」

38 :以下、名無しが深夜にお送りします:2016/05/17(火) 22:40:32 ID:NYikmdZk
1945年8月3日。
横須賀鎮守府より退避命令を受けた宗谷は標的艦「大浜」を伴い女川へ退避。
その後、単艦で室蘭に向けた輸送任務を命じられます。
そしてここでも、宗谷はその強運を見せつけるのでした。

39 :以下、名無しが深夜にお送りします:2016/05/17(火) 22:41:15 ID:NYikmdZk
乗組員「敵機動部隊接近!!」
乗組員「くそっ! ここで捕まったら逃げ切れんぞ!!」
青森県沖を航行していた宗谷は、敵機動部隊の接近をキャッチします。
護衛もなく、船足も遅い宗谷にとってはもはやチェックメイトに限りなく近い状況です。
乗組員「もはやここまでか……」
乗組員「ちょ、ちょっと待て……急に辺りに霧が……!!」

40 :以下、名無しが深夜にお送りします:2016/05/17(火) 22:42:58 ID:NYikmdZk
もはや命運尽きた宗谷かとおもわれましたが、急遽艦の周りを濃霧が包み込みます。
この機を逃すことなく、宗谷は霧に身を隠して無事八戸港へ退避。
乗組員「何てことだ……あの霧はまさしく神の衣だ……」
乗組員「やっぱりこの艦はツイてる!」
この頃になると、宗谷は数々の危機を乗り切った幸運艦として海軍内に知れ渡り、乗組員もその神懸りな船運に完全な信頼を寄せるようになっていました。
なお、この時女川に残してきた標的艦大浜は、その後敵機動部隊の空襲で大破着底。八戸を出港した翌日には八戸も空襲を受けるという、いずれもすんでのところで難を逃れています。

41 :以下、名無しが深夜にお送りします:2016/05/17(火) 22:43:34 ID:NYikmdZk
宗谷「こ、これって私むしろ死神なんじゃ……」
乗組員「何言ってんだよ! そんなことより俺、この戦争が終わったら故郷に帰って嫁を貰うんだ!」
宗谷「わぁ、いいですねー」
乗組員「バカやめろ! なんか分からんがそれは死ぬ感じだ!!」
乗組員「バカだなぁ、この艦に乗ってる限り死ぬわけないだろ!」
乗組員「それも死ぬ感じだ!!」

42 :以下、名無しが深夜にお送りします:2016/05/17(火) 22:44:30 ID:NYikmdZk
それから間もない1945年8月15日。第2次世界大戦は日本の敗戦をもってその幕を閉じます。
GHQ「はーい軍艦旗下しなサーイ」
乗組員「はい……」
GHQ「はーいそれが終わったらとっととこの船から降りるデース」
乗組員「はい……」
こうして宗谷は、5年にわたる軍艦としての任を解かれます。なお、この時点で宗谷は潜水艦2隻撃退(共同戦果含む)、航空機1機撃墜という、特務艦としては異例の戦果を挙げていました。

43 :以下、名無しが深夜にお送りします:2016/05/17(火) 22:45:41 ID:NYikmdZk
1945年10月1日になると、宗谷はGHQから大蔵省への移管手続きが行われ、復員船として使われることになります。
その後1948年11月に引揚げ輸送の任務が完了するまで、宗谷は南方や中国大陸、東南アジアから延べ19000人余りの邦人を日本へと連れ戻しました。
その間には憔悴しきった人々が航海中に力尽き命を落としてしまったり、船内で産気づいた女性が女の赤ちゃんを出産するといった悲喜こもごもの出来事がありました。
ちなみにこの赤ちゃんに当時の宗谷船長である土井申二氏は、船名から一字とった「宗子」(もとこ)という名前をつけたといわれています。

44 :以下、名無しが深夜にお送りします:2016/05/17(火) 22:46:20 ID:NYikmdZk
こうして数年に渡る引揚輸送の任務を終えると、宗谷は民間の船に戻ることになります。
宗谷「ふう」ガタピシ
しかしながら、元々商船として建造された宗谷は、戦時中の酷使により船体や機関部などにかなり傷みが来ていました。
とりわけ、海軍に移籍する際に機関を艦本式ボイラーという軍仕様のものに換装していたため、商船として使用するにはいささか無理のある造りとなっていました。

45 :以下、名無しが深夜にお送りします:2016/05/17(火) 22:46:59 ID:NYikmdZk
ちょうどその頃。
1948年に発足した海上保安庁は、日本各地の灯台に物資を補給する灯台補給船を探していました。
灯台は船の安全な航行に必要不可欠なものでしたが、その性質上、辺境部の岬の先端など立地が非常に悪く、そこに暮らす灯台守の人々は不便な生活を強いられていました。
そうした人々に物資を輸送するのが、灯台補給船です。
当初海上保安庁は、旧海軍の砕氷艦「大泊」を使用する予定でしたが、大泊はすでに船齢28年を超えており、改修に費用も掛かることからこの案は見送られました。

46 :以下、名無しが深夜にお送りします:2016/05/17(火) 22:47:31 ID:NYikmdZk
海上保安庁「どうしよう……」
宗谷「そろそろ私もお役御免かしら……」ポケー
海上保安庁「……君に決めた!!」
宗谷「えっ」
こうして宗谷に、白羽の矢が立ったのでした。

47 :以下、名無しが深夜にお送りします:2016/05/17(火) 22:48:05 ID:NYikmdZk
先述の通り、灯台補給船は日本各地の灯台に物資を輸送する必要があります。
その中には流氷に覆われる北海の灯台も含まれているため、砕氷・耐氷能力を持つ宗谷はこの任務にうってつけだったのです。
また、1948年時点で船齢10年の宗谷の機関部は、戦時中の傷みがあるとはいえ、先述の大泊ほどの劣化具合ではなかったことも決め手の一つでした。

48 :以下、名無しが深夜にお送りします:2016/05/17(火) 22:48:38 ID:NYikmdZk
1949年12月12日。
宗谷は海上保安庁に移籍し、石川島重工業で灯台補給船への改装を受けることになりました。
この改装にともない、宗谷の船体は白に塗装され、煙突には海上保安庁のシンボルである羅針盤の意匠が描かれました。
海上保安庁「おぉー似合う似合う! 綺麗になったね!」
宗谷「ううう、ちょっと恥ずかしいです……」
http://i.imgur.com/PPV590i.jpg
※巡視船「宗谷」

49 :以下、名無しが深夜にお送りします:2016/05/17(火) 22:49:14 ID:NYikmdZk
こうして灯台補給船として生まれ変わった宗谷は、灯台の燃料や食料、雑貨品などの物資を日本各地の灯台へと届け始めます。
特に灯台守は家族で灯台に暮らしていることもあり、これらの物資の中には子どもたちへ向けたおもちゃ等も積まれていました。
そして、いつしか宗谷は「灯台の白姫」や「海のサンタクロース」と呼ばれるようになりました。
また、1953年には当時米統治領だった奄美群島の返還に際して必要な9億円の現金を運ぶなど、いくつかの特筆すべき任務もこなしています。

50 :以下、名無しが深夜にお送りします:2016/05/17(火) 22:49:58 ID:NYikmdZk
通常、船の寿命は約20年程度といわれています。
この時点で宗谷の艦齢は15年に達しており、その余生を海上保安庁の灯台補給船としてのんびりと過ごしていました。
しかしながら、この後宗谷は日本でもっとも有名な船へとその姿を変えることになるのです。

53 :以下、名無しが深夜にお送りします:2016/05/17(火) 23:50:29 ID:7RNKGKIM
ええ話やなぁ

54 :以下、名無しが深夜にお送りします:2016/05/18(水) 01:57:27 ID:wjxAptuE
超期待

55 :以下、名無しが深夜にお送りします:2016/05/18(水) 03:04:17 ID:REqpIBvA
期待

56 :以下、名無しが深夜にお送りします:2016/05/18(水) 12:03:51 ID:sFJg8W1I
南極まで行ったら多分泣いちゃう

58 :以下、名無しが深夜にお送りします:2016/05/18(水) 21:17:56 ID:GAv5Yem6
-未踏の地-

59 :以下、名無しが深夜にお送りします:2016/05/18(水) 21:18:47 ID:GAv5Yem6
1955年3月。
当時、朝日新聞記者であった矢田喜美雄氏は、紙上で「北極と南極」という題の記事を連載していました。
この人物は1949年に発生した下山事件(当時の国鉄総裁が轢死した事件)で他殺説を唱えるなど、その型破りな発想と類まれなる行動力で知られていました。
矢田氏はこの連載を行うに当たり、関係各所に取材を行っていました。

その際、彼は「国際地球観測年(IGY:International Geophysical Year)」という活動を知ることになります。

60 :以下、名無しが深夜にお送りします:2016/05/18(水) 21:20:19 ID:GAv5Yem6
IGYとは、1957年7月1日から1958年12月31日にかけて世界各国で自然現象を観測しようという試みであり、この中には当時はほぼ前人未到であった南極大陸の観測も含まれていました。
この時日本学術会議にも、国際会議からIGYの招請状が来ていました。
しかしながら当時の日本は敗戦からの復興の最中にあり、このような途方も無い計画にかける予算を捻出することができないことから、南極観測への参加について政府は極めて消極的でした。

61 :以下、名無しが深夜にお送りします:2016/05/18(水) 21:21:30 ID:GAv5Yem6
矢田「南極観測ァ!!」バターン
朝日新聞「ビビる」ビクッ
矢田「今を逃したらもうこんなチャンスは無ァい!!」
朝日新聞「いや、そうはいってもあの、いろいろと問題がね? そもそも政府すら、南極観測の参加については消極的だし……」
矢田「だったらウチが支援すればいいじゃないですかァ!!」
朝日新聞「えっ」
この矢田という人物はある種の熱血漢といえる人柄でもあり、魅力的である反面、そのクセのある性格から社内では暴れ馬と呼ばれていました。

62 :以下、名無しが深夜にお送りします:2016/05/18(水) 21:22:15 ID:GAv5Yem6
朝日新聞「ちょ、ちょっと矢田くん落ち着いて……」
矢田「俺が政府に直接話をつけてくるゥ!!」
朝日新聞「えぇ……」(困惑)
矢田「あ、もしもしィ!? 日本学術会議ですかァ!? じゃ、今から行きますんでェ!!」ガチャン
朝日新聞「こいつはもう本当にもう」

63 :以下、名無しが深夜にお送りします:2016/05/18(水) 21:22:52 ID:GAv5Yem6
矢田「国際地球観測年! 南極観測! 一緒に行こうぜ!!」
日本学術会議「すごい熱意」
矢田「国際地球観測年! 南極観測ゥ!! 今こそ(ry」
中央気象台「やだこの人熱い……」
矢田「南極(ry」
政府要人「こいつマジだぜ」
こうして矢田氏の熱意は多くの人々を魅了し、南極観測参加への決意を後押ししました。
ところが……。

64 :以下、名無しが深夜にお送りします:2016/05/18(水) 21:23:51 ID:GAv5Yem6
政府「問題は係る予算をどのように捻出するかだ……」
矢田「金か!!」
彼は本社にとって返し、編集局長をも巻き込んだ一大キャンペーンを打ちます。このキャンペーンで南極観測への資金の提供や募金の呼びかけを行ったところ、日本全国から約1億4500万円が集まり、このことも政府を大きく後押しする結果となりました。
しかしながら、彼のこの破天荒な性格は科学者や技術者との軋轢を生み、結果として矢田氏は日本の南極観測に大きく貢献し名を残したたものの、彼本人が南極を訪れることは叶いませんでした。
話はそれますが、この後も矢田氏は1964年に日本で初めて「ミロのビーナス」展を実現させたりと、自他ともに認める「朝日新聞に最もカネを使わせた男」として語り継がれています。
朝日新聞「こいつはもう本当にもう!!」

65 :以下、名無しが深夜にお送りします:2016/05/18(水) 21:24:46 ID:GAv5Yem6
このように朝日新聞、ひいては国民の支持を得た日本政府は、1955年7月の第1回IGY南極観測会議の際に文書で南極観測参加の意志を伝え、同年9月にブリュッセルで開催された第2回会議には、後の第1次南極観測隊長であり、日本を代表する地球物理学者の永田武氏が参加することになりました。
永田氏は南極観測への参加意思を表明するにあたり、明治期に日本で初めて南極探検を行った白瀬矗の実績を紹介することで、日本が南極観測に参加しうるだけの実績があることを説明します。
日本「……以上のことから日本はIGYの一環として、南極観測に携わる意思を表明します」
英・英「ノーだ!!」
しかしこれに反対したのが、かつて日本と戦火を交えたイギリスとオーストラリアでした。

66 :以下、名無しが深夜にお送りします:2016/05/18(水) 21:25:59 ID:GAv5Yem6
豪州「そもそも日本は10年前の戦争で我が国の領土を脅かしている! そのような国を我が国の領土からさほど距離も離れていない南極に踏み込ませるのは到底容認できない!」
英国「我々もオーストラリアの意見に賛成だ。そもそも日本はまだ国際社会に復帰する資格がないのではないか?」
日本「うぐ……」
先の大戦で自国の植民地や領土を失うなど、日本に辛酸を舐めさせられたこれらの国が、今後自国の権益に係る可能性のある事案から日本を遠ざけようとするのは至極当然のことでした。

67 :以下、名無しが深夜にお送りします:2016/05/18(水) 21:27:25 ID:GAv5Yem6
アメリカ「まぁそう言いなさんな、お二方。戦争はもう終わった。日本には最早あなた方を侵略しようとする意思は毛頭ない。第一、そのための牙は我々が既に折った」
日本「……」
豪州「しかし……」
ソビエト「今回の観測はあくまでもIGYという人類全体にとって有益となるであろう学術調査がその目的のはずだ。各国で負担を分担するという意味で、我が国も日本の参加は好ましいと考えるが……それとも、お二方には何かそれ以外に日本の参加しては不都合な理由でもあるのかね?」
英・豪「……」
アメリカ「では決まりだな」
こうして、アメリカやソ連の賛成もあり、日本でも11月4日に南極観測参加が時の鳩山内閣にて正式に閣議決定されます。

68 :以下、名無しが深夜にお送りします:2016/05/18(水) 21:28:09 ID:GAv5Yem6
このような経緯から日本の南極観測への参加が決まると、日本はすぐさま南極観測のための準備を始めることになります。
何はともあれ、まず必要なのは観測隊や機材を乗せ南極まで向かうための船でした。
これを受け日本学術会議の茅誠司会長は、海上保安庁長官の島居辰次郎氏に協力を仰ぎます。
突然の協力依頼に困惑した島居長官でしたが、国を挙げた一大プロジェクトに砕氷船の確保を約束したのでした。

69 :以下、名無しが深夜にお送りします:2016/05/18(水) 21:28:59 ID:GAv5Yem6
海上保安庁「砕氷船かぁ……まずパッと浮かぶのは新規建造案だけど……お金がかかりすぎるなぁ」
当初は砕氷船を新造する計画でしたが、これにはあまりにも予算がかかりすぎるためすぐに立ち消えになってしまいます。
海上保安庁「じゃあ外国から砕氷船をチャーターして……あぁダメだ! これもお金が足りない……」
海上保安庁「だったらもう……国内の既存船を改造するしか……」
当時候補に挙がったのは、大阪商船の「白龍丸」や、国鉄の連絡船「宗谷丸」(宗谷とは別船)といった日本国内の近海砕氷船でした。
しかしこれらの船も民間から海上保安庁に買い上げるための資金や保障金の準備、さらにはその船体の大きさから改造費も大きくなることが予想され、結局は廃案となってしまいます。

70 :以下、名無しが深夜にお送りします:2016/05/18(水) 21:29:39 ID:GAv5Yem6
海上保安庁「どうすりゃいいんだ……」
こうなると残された道は海上保安庁の保有する砕氷船を改造することしかありませんでした。
海上保安庁「ウチが持ってる砕氷船……」
宗谷「灯台に荷物運んできました〜」
海上保安庁「……君に決めた!!」
宗谷「えっ」
こうして再び宗谷に白羽の矢が立ったのでした。

71 :以下、名無しが深夜にお送りします:2016/05/18(水) 21:30:16 ID:GAv5Yem6
当時日本が担当することになっていたプリンスハラルド海岸という場所は、夏でも一面厚い氷に覆われ、過去に欧米各国が上陸を目指して接近するもすべて失敗し、当時の米海軍から「接近不可能」とされた曰くつきの場所でした。
ちなみにここは現在でも南極随一の難所として知られ、2009年に就役した最新鋭の南極観測船「しらせ」(2代目)ですら、接岸に失敗する事があるほどです。
海上保安庁「そんな魔境みたいなところまで行けるのは君しかいない!!」
宗谷「ま、魔境って……」
海上保安庁「その強運を買って、君には南極へ行ってもらいたい!!」
宗谷「え、えぇ……」
とはいえ宗谷はこの時すでに艦齢17年を超えており、その船体はあちこちが錆びつき、甲板のそこかしこに穴のあいた立派な老朽船でした。

72 :以下、名無しが深夜にお送りします:2016/05/18(水) 21:31:18 ID:GAv5Yem6
さらに宗谷が南極観測船に召し上げられることになると、これを悲しんだのが宗谷に深い愛着を持つ多くの灯台守やその家族と、海上保安庁灯台部の職員でした。
灯台守「そうか、寂しくなるなあ……南極かあ」
宗谷「ううう」
灯台部職員「でも、これで国民に少しでも明るい話題が提供できるなら、誇りを持って御用立てしようじゃないですか」
こうして宗谷は1955年11月、正式に南極観測船に使用されることになり、翌月の12月24日には灯台補給船としての解任式が行われ、同日付をもって灯台補給船から巡視船(PL107)へと種別が変更されました。

73 :以下、名無しが深夜にお送りします:2016/05/18(水) 21:31:54 ID:GAv5Yem6
とはいえ、宗谷をそのままの状態で南極まで行かせるのは不可能でした。
このため宗谷には南極大陸まで往復できる航続距離と、砕氷能力の向上、さらに搭載能力を増やすための改造が行われることになります。
1956年3月12日、宗谷は改造が行われる日本鋼管浅野船渠に入渠します。
宗谷「あっ、ここは……」
奇しくもここは、大戦中に宗谷が九死に一生を得たトラック島での空襲の被害を修理した場所でした。

74 :以下、名無しが深夜にお送りします:2016/05/18(水) 21:33:13 ID:GAv5Yem6
宗谷の改造にあたり、設計には元海軍の技術将校であり、戦艦大和を設計した技師の一人である牧野茂氏が起用されました。
牧野「これから君の改造設計をおこなう牧野です、よろしく」
宗谷「よ、よろしくお願いします」
牧野「こいつは荒療治になるぜぇ……」ヒッヒッヒ
宗谷「……」ビクビク
その後、牧野氏の手によって宗谷には以下の改造が施されることになります。

75 :以下、名無しが深夜にお送りします:2016/05/18(水) 21:34:34 ID:GAv5Yem6
・船の側面にバルジという膨らみを設け、船体を二重外板にするとともに復原力(船が傾いたときに元に戻ろうとする力)を増加。
・船首部は板厚25ミリの鋼板製で喫水線に対し傾斜角27度の新規設計のものとし、砕氷能力を向上。
・船体各所の外板を合計板厚が25ミリとなるよう二重張りとして補強。
・石炭焚きであった艦本式ボイラーに代わり、機関に2,400馬力ディーゼル・エンジン2基搭載し、2軸推進へ変更。 これに伴い煙突を換装。
・ヒーリング装置(タンク内部の水を移動させ、船を前後左右に揺らすことで氷を割る装置)の搭載
・砕氷の障害となりうるビルジキール(揺れを減少させるために両舷船底につける板)の撤去。