2chまとめサイトモバイル
男「僕の声が聞こえてたら、手を握ってほしいんだ」
Part9


189 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/12(水) 22:55:05 ID:zmKypy7U
電話から彼女の声は聞こえなくなり、
また連続した機械的な音が鼓膜を揺する。
僕は電話を投げ捨て、ダンゴムシのように床で丸まった。
ふと、永遠に彼女はここに来ないんじゃないかと、そんな考えが脳裏を過ぎった。
彼女は必ずここに来てくれると信じている自分と、
信じることを放棄しかけている自分がいる。そのことに、ものすごく腹が立った。
同時に、情けなくも感じた。
思いっきり頭を揺さぶって中身を空っぽにしようと試みたが、
激しい痛みに襲われ、それどころではない。額をなでると、腫れていた。
そういや、ぶつけたんだっけ。机の脚に。
なんだよ、机の脚って。馬鹿じゃないのか。
そんなことを思い出しただけで、また涙が零れた。
どんな小さな記憶や現象でも、今の僕を惨めにするには十分すぎる力を持っている。
思い出や目の前の暗闇、それに彼女の声が、
僕の内側で攪拌されて、黒くどろどろとした思考を作り上げていく。

190 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/12(水) 22:55:53 ID:zmKypy7U
風船が揺れた。
彼女は、いつやってくるんだろう。吐きそうだ。

191 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/12(水) 22:56:52 ID:zmKypy7U

「大丈夫?」彼女の優しい声が聞こえた。
七十二時間ぶりくらいに聞いたんじゃないかと思ったが、
実際には電話を切ってから一時間も経っていないらしい。
僕は不貞腐れて「遅いよ」と言った。
そしたらまた崩れそうになった。ぼろぼろだ。
もう、とことん甘えたかった。

192 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/12(水) 22:58:14 ID:zmKypy7U
「鍵、開いてて良かったね」彼女は言い、僕の手を握った。
「いつも開けてあるんだ」僕は言い、彼女の手を強く握り返した。
「無用心ね」
「別に盗られて困るようなものは何も無いからね。
君も勝手に入ってきてくれていいよ」
「わたしがこんな汚い部屋に進んで来たいと思う物好きに見える?」
「見える」
「よく分かってるじゃないの」きっと彼女は笑っているんだろう。
ただ、それをもう二度と見ることができないのが、どうしようもなく悲しかった。

193 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/12(水) 22:59:01 ID:zmKypy7U
「しっかし汚い部屋ね。呆れた」
「今の僕にはぴったりだろ」
「分別だけは済んでる辺りが君らしいというか、何というか」
「僕は、くだらないことにだけは拘るやつなんだ」
「知ってる」
「知ってたんだ」
「君のことなら何でも知ってるよ」
「じゃあ今、僕が何をしたいと思っているか当ててみてくれ」
「わたしに泣きつきたい、かな?」
「正解。抱きついていいかな」
「一時間ごとに十円払ってくれるならいいよ」
「まけてくれ。お金が無いんだ」
「仕方ないなあ。無料でいいよ」
「ありがとう」声が震える。堪えられなかった。

194 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/12(水) 22:59:41 ID:zmKypy7U
僕は彼女に抱きついて、子どもみたいに泣き叫んだ。
彼女の服の肩の部分は、涙と涎と鼻水で粘ついていることだろう。
彼女は黙って背中をさすってくれていた。
胸中では鬱陶しいと思っていたのかもしれないが、
決してそれを口には出さなかった。
彼女は今どんな気分で、何を思って、どんな顔をしているんだろう。
どれだけ考えても無駄だった。
今それを知ることはできないし、これから知ることも、永遠にない。
そう思うと、堪らない。

195 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/12(水) 23:00:21 ID:zmKypy7U
「大丈夫だよ」
もう父や母、妹や祖母の顔も見ることができない。
あの忌々しかった灰色の朝日だって、夕陽だって、
月だって、唯一の楽しみだった雨だって、もう目に映ることはない。
これから見られるはずだった紅葉も、
雪も、桜も、遥か遠くの存在になってしまった。
信じられない。
彼女の顔も、目も、手も、胸も、脚も、もう二度と拝めないだなんて。
仕舞いには彼女の匂いも分からなくなって、
彼女の手を握ることもできなくなって、
彼女の体温も感じられなくなって、
彼女のことも忘れてしまって、最後にはーー。
どうすればいいんだろう。
何も考えたくない。
今は頭を空っぽにして絶叫していたい。

196 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/12(水) 23:01:15 ID:zmKypy7U
「わたしはここにいるよ」
今の僕は人間なんだろうか。
ただ叫んで、ひたすら頬を濡らしている、人間?
ただの化け物か、もしくは爬虫類みたいなもんなんじゃないかと
頭の中で爆発するようにそんな考えが拡散したが、すぐに萎んだ。
何を考えても、すぐに消えた。
もう僕は駄目なんじゃないかと思ったが、
そんな思考も一瞬よりも早い刹那で消え失せた。

197 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/12(水) 23:01:48 ID:zmKypy7U
ずっと叫んでると、仕舞いには喉が痛んでくる。
きっと彼女の耳は、それ以上に痛むのだろうが、彼女は何も言わない。
僕は乱れた呼吸を整えようと、咳き込んだり深呼吸したりを繰り返した。
なかなか鳴り止まない嗚咽を、彼女はどんな気分で聞いていただろう。
憐れに思っていたのか、同情していたのか、
ただ無心で耐え忍んでいたのか、もはや聞いてすらいなかったのか。

198 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/12(水) 23:02:43 ID:zmKypy7U
結局、落ち着きを取り戻すまでには、たっぷり十分ほどかかった。
僕が黙り込むと、入れ替わるように彼女はしゃくりあげ始めた。
「落ち着いた? もう、大丈夫だよ」彼女は言う。
後のほうは、密着していても聞き逃してしまいそうなほど、か細かった。
服の肩の部分が、あたたかい何かで湿っていく。
彼女の吐息が、皮膚を熱くさせる。
身体がきつく締められていく。震えが伝わってくる。
僕は何も言うことができず、酷い疲労感と
柔らかい香りに包まれながら、無意識の中に沈んだ。

199 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/12(水) 23:03:16 ID:zmKypy7U

目を開く。光は届かない。
涙が浮かんでも、眼前に広がる暗黒は滲みすらしない。
八月二十三日。蝉が鳴いている。
今は何時なのか。
今日は晴れなのか、曇りなのか。さっぱり分からない。
僕はどこで眠っていたんだろうと、手の届く範囲を探った。
感触で、どうやらソファーの上らしいことが分かる。
座り込むような体勢で眠っていたようだ。
そのまましばらく辺りを探っていると、何かに触れた。
あたたかい。掴んで形を確認すると、人の手だった。

200 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/12(水) 23:04:24 ID:zmKypy7U
「起きてる?」僕は訊いた。
「眠たい」すぐ近くから、彼女の声が聞こえた。
彼女は隣で、僕と同じような体勢で眠っていたらしい。
「昨日は、ごめん」
「いいよ、別に。好きでやってるんだから」
「君はいつもそれだよね」
「好きなんだから仕方ないでしょ」
「ありがとう。少し気分が楽になった」
「そっか。なら良かった」彼女は僕の頭を乱暴に撫でた。
「じゃあ、今日はどうしようか?」

201 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/12(水) 23:05:21 ID:zmKypy7U
「どうするかの前に、まず訊きたいことがある。いま何時なんだ?」
「九時二十七分十一秒。十二秒、十三秒……」
九時だって?
久しぶりにぐっすりと眠ったことに驚いたが、もっと気になることがある。
「仕事、行かなくていいのかい」
「今日は休みになった」
「いつ?」
「さっき」
馬鹿じゃないのか、と言いそうになったが唾を飲み込んで制止した。
「僕なんかに構ってたら駄目になるよ」
「とことん駄目になってあげようじゃないの」
「馬鹿じゃないのか」我慢できなかった。

202 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/12(水) 23:06:19 ID:zmKypy7U
「わたしはどこまでも馬鹿になれるよ」彼女の声は真面目そのものだった。
「大体ね、昨日あんなに泣きついといて、
次の日になったら『仕事行かなくていいのか』だなんて都合が良すぎるのよ」
確かにそうだ。でも僕は、もう君の足枷でありたくないんだ。
声にしようとした言葉は、喉にへばりつく粘り気のある痰に絡みとられてしまった。
でも、これでいいんだ。そう思えた。
言う必要はないのかもしれない。
言っても、彼女は「自分勝手なことを言うな」と憤るだろう。
その姿がくっきりと瞼の裏に浮かぶ。彼女の怒っている姿が。
そのことが、たまらなく嬉しい。
「なに泣いてんのよ」
「嬉しいんだ」僕は嘘を吐くのが苦手なので、正直に言った。
「僕は、ちょっと優しくされただけで喜んで、
すぐにぼろぼろ泣くようなちょろいやつなんだよ」
「はいはい。知ってるよ」彼女は素っ気ない返事をして、僕の頭の上に手を置いた。

203 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/12(水) 23:08:00 ID:zmKypy7U
それから十分間ほど、お互い身動きせずに沈黙を貫き通した後、
彼女は「部屋の掃除でもしようか」と、その沈黙を破った。
そして、僕の頭を押さえて立ち上がる。
僕は何も言えなかったが、彼女はひとりで汚い部屋の掃除を始めた。
掃除といっても、大量のゴミ袋を外に出して、
床に散らばったテレビの破片をかき集めるくらいで終わるだろう。
あとは掃除機でもかけておけばいい。
しかし、今の僕にはそんな簡単な動作もこなせない。
手伝おうと思っても、足手まといになるのがオチだ。情けない。
玄関扉が開いたり閉まったりするたびに、彼女の声が聞こえる。
きっと、わざとそうしてくれているんだろう。また泣きそうになる。

204 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/12(水) 23:10:21 ID:zmKypy7U
数十分それを繰り返して、やがて彼女は僕の隣に座り込んだ。ソファーが弾む。
「はあー、疲れた。暑い。ちょっと休憩」
彼女は長い息を吐き出した。彼女の匂いを強く感じる。
「冷蔵庫の中から勝手に何か飲んでくれ」僕は手で彼女を扇いだ。
「何かって、お茶しか入ってなかったけどね」
「なんだ、もう見たのか」
「寂しい冷蔵庫だったねえ。まさに男の一人暮らしって感じ」
「あんまり褒めないでくれ。また泣きそうになるから」
「はいはい」彼女は味気ない返事をした後、何かを僕の頬に押し付け、
「ところで、さっき見つけたんだけど、これは何かな?」と続ける。

205 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/12(水) 23:11:29 ID:zmKypy7U
「僕が訊きたいんだけど」
ざらついた紙の様な感触だ。それに、ちょっと埃っぽい。
「わたしとずっといっしょにいられますように、って書いてあるよ。んー?」
「ああ」すぐに思い出した。すっかり忘れていた。
そういえば書いたっけ。「七夕のときの短冊かな」
「そんな感じだね」彼女は吹き出した。
「よくこんな恥ずかしいこと書いて部屋に吊るしてられたもんだよ」
「僕はロマンチストなんだよ」恥ずかしい。顔が焼け落ちそうだ。
「女の子みたいだね」
「冷蔵庫は寂しいけどね」
「じゃあ君は、男と女のちょうど真ん中ってところかな」
「その言い方だと、僕が変態みたいに聞こえるんだけど」
「違うの?」
「酷いな」

206 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/12(水) 23:12:39 ID:zmKypy7U
「ほら、わたしの小さい胸が好きだって前に言ってたじゃないの。変態」
「いつの話をしてるんだ」言ったような、言ってないような。
それに、それはまた別のベクトルの変態のような気がする。
「じゃあ訊くけど、今は嫌いなの? わたしの胸」
「好きだ」僕は即答した。
「やっぱり変態じゃないの」
「酷いな」
「お互い様よ」

207 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/12(水) 23:13:20 ID:zmKypy7U
休憩後、彼女は部屋に掃除機をかけてから、
破損したテレビをもとの位置に直したらしい。
液晶画面が割れているので、テレビとしてではなくインテリアとして活用するようだ。
画面の吹っ飛んだテレビはおしゃれなんだろうか。
僕には彼女の感性がよく分からない。
「ふう、綺麗になった」彼女は、ふたたび僕の隣に勢いよく座り込んだ。
ソファーが軋む。「ちょっと休憩」
「お疲れ様」僕は団扇で彼女を扇いだ。
「まだ終わってないよ。次は君の荷物をまとめる」
「え? どういうこと?」
「君をわたしの家に連れていく」

208 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/12(水) 23:14:38 ID:zmKypy7U
「ちょっと待ってくれ。そこまでしてくれなくても僕は大丈夫だって」
「大丈夫じゃない。君が何と言おうと連れていくよ」
「ただの拉致じゃないか」僕は脹れた。
「それから監禁だね」彼女はたぶん笑っている。「悪いようにはしないよ?」
「完全に悪者の台詞なんだけど」
「何が不満なのよ。わたしの家がいやなの?」
「いやじゃない」僕は即答した。「いやじゃないけど」
「じゃあ、さっさと君の下着のある場所を教えて」
彼女には敵わない。

209 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/12(水) 23:15:17 ID:zmKypy7U
荷物をまとめるのに大した時間はかからなかった。
荷物といっても、今の僕にとって必要なのは衣類と携帯電話と父の財布くらいなもので、
大きな鞄は冷蔵庫と同じくらいスカスカだ。
彼女は鞄を車に持っていくために、一度外に出た。
僕はソファーに座り込みながら、考える。
また迷惑を掛けることになってしまうのか、と。
ほんとうに、何も変わっていない。僕はもちろん、彼女もだ。
彼女は、また手を引っ張って、僕を暗闇から引きずり出そうとしてくれている。
僕は、また差し伸べられた手にしがみつこうとしている。

210 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/12(水) 23:16:53 ID:zmKypy7U
彼女は「好きでやっている」というが、ほんとうなんだろうか?
何百回も同じようなことを考えてきた。
いつも答えは出せなかった。保留だ。
訊けば終わることだが、彼女の口から出てくる言葉が
真意とは限らないと、どうしても疑ってしまう。
何度も助けてもらったのに、
見捨てられるかもしれないという不安が風船に空気を注ぐ。
だから、疑ってしまう。僕は最低だ。
見捨てられたとき、「やっぱりな」と思うことで、傷を浅く済ませようとしている。
もちろん見捨てられたくないとは思うが、未来で何が起こるかなんて全く分からない。
可能性はゼロではないのだ。限りなくゼロに近いとは信じているが、ゼロではない。
そもそも、見捨てられたら僕は死んでしまうのだが。社会的にも、肉体的にも、精神的にも。

211 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/12(水) 23:18:24 ID:zmKypy7U
僕にはどうすることもできない。
僕に唯一できることといえば、目を閉じて、
誰かが崇めるような胡散臭い存在に祈り続けることだけだ。
どうか、僕らを救ってくださいーー、と。

212 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/12(水) 23:19:34 ID:zmKypy7U
「よし。オッケー」正面から彼女の声が聞こえた。
いつの間にか帰ってきていたらしい。
彼女は続けて「じゃあ、行こうか」と言うと、僕の腕を引っ張って、自身の首に巻きつけた。
「何してるのさ」目が正常だったなら、おそらく眼前には彼女のうなじがあるのだろう。
平常を装っているつもりだが、そこから漂う香りが頬を高潮させ、心臓を激しく揺する。
「車椅子めんどくさいし、おんぶしていこうかなと思って」
彼女は僕の脚を掴み、立ち上がる。「うわ。脚、細いね」
なんてこった。女の子に背負われてしまった。「大丈夫? 重くない?」
「軽すぎて、なんかわたしの知ってる君じゃないみたい」
「そっか」僕じゃないみたい、か。
あながち間違いではないのかもしれない。
見た目はもちろん、根っこの部分も腐り始めているような気がする。