Part8
163 :
以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/12(水) 21:43:32 ID:
zmKypy7U
*
「そろそろ、帰ろうか」彼女は立ち上がり、言った。
「いっしょに帰ってもいいの?」僕は両親に訊いた。父は黙って頷いてくれた。
「あんた、お金は大丈夫なの?」母は訊く。
僕が仕事を辞めたことは知られたらしい。だいたい察しはついてただろうが。
手足が無いからって甘えんな、とか父に言われるのかと思ってた。
「大丈夫ではないかな」と僕が苦笑いを浮かべると、
「これ持ってけ」と、父が僕の胸の辺りに何かを押し付けた。
164 :
以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/12(水) 21:44:13 ID:
zmKypy7U
「何これ」どう見ても財布だった。父の、ぼろぼろの財布だ。
「黙って持っていけ」
「そんなことしてもらわなくても、何とかするって」
「大丈夫だ。免許証は抜いてるから、受け取れ」
「そういう問題じゃなくて」
「俺だって一応お前の父親なんだ。たまには親のいうことを聞け。アホ」
言いながら、財布を胸に強く押し付ける。
「どうせ、大して入ってないんだろ?」僕は照れ隠しで言った。
「当たり前だ」
「ありがとう」
変な気分だ。胸に何かが詰まったような、何とも言えない気分だった。
そしてどうやら、恐れていた事態は回避できたらしい。
むしろ、関係は良好なほうへ向かっているように見える。
165 :
以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/12(水) 21:46:35 ID:
zmKypy7U
彼女はいったい何を話したんだ?
僕は考えながら、玄関まで這うように進んだ。
それから彼女の力を借り、車椅子に跨った。
彼女は三和土を踏みしめ、車椅子を外に押す。
カラスとひぐらしの鳴き声に鼓膜を揺すられ、蒸し暑い空気に包まれた。
日は沈みかけていて、空は濃い灰色をしている。
僕の目が正常だったなら、きっと綺麗な夕焼けだったんだろう。
「またね、兄ちゃん」妹は小さく手を振った。
「いつでもおいで」祖母は笑う。
「たまには帰ってこいよ」父がそう言うと、
母は父の顔を覗き込んでから、僕に微笑みかけた。「またね」
「うん、うん」、としか返せなかった。
どんな言葉も喉につっかえて、うまく吐き出せない。
そんな中途半端な返事をして、僕らは帰り道を歩き始めた。
僕も彼女も振り返らなかった。振り返ってはいけない気がした。
166 :
以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/12(水) 21:47:36 ID:
zmKypy7U
しばらく歩いてから、僕は疑問を口にした。
「なあ。いったい、僕がいない間に何を話したのさ」
「んー。何って、ちょっとした昔話を、ね」
「昔話?」
「わたしが昔からどれだけ君を見てたか、って話。
わたしがどれだけ必死だったか、君にも見せてあげたいよ」
「ごめんよ、迷惑かけちゃって」
「今更こんなこと、大したことないって。わたしも好きでやってるんだし」
「ありがとう。でさ、もうひとつ気になってることがあるんだけど」
「何?」
「どうして僕は追い出されたんだ?」
167 :
以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/12(水) 21:48:21 ID:
zmKypy7U
「そりゃ、子どもに見られたくなかったからでしょ」
「何を」
「父親が泣いて頭下げてるところ」
「冗談だろ?」
「君は冷たいなあ。あんなにいい人なのに」彼女の声は震えていた。
「なに泣いてるのさ」
「泣いてない」鼻水を啜る音が聞こえた。
「分かってもらえて良かったと思ったら、ちょっと安心しただけよ」
「そっか」
168 :
以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/12(水) 21:48:58 ID:
zmKypy7U
僕は握り締めたぼろぼろの財布の中身を覗いた。
そこで思わず吹き出してしまった。父は嘘を吐いていたのだ。
「何が“大して入ってない”だよ。こんなに入ってるじゃないか……」
「泣いてるの?」
「泣いてない」僕は鼻水を啜った。でも堪えきれなくなって、崩れた。
「ああ、糞。卑怯だよな。こういうときだけ優しくしちゃってさ」
「そうだね」
もう一度、顔を見せに行かなきゃならないなと思った。
今の僕らは、はたから見れば、見世物にでも見えるのだろうか。
今更恥ずかしくも何とも感じなかったが、彼女には悪いなと思う。
そのとき、ふと目に映った滲んだ太陽が、
子どものころに見たような、鮮やかな光を放っているように見えた。
169 :
以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/12(水) 22:34:08 ID:
zmKypy7U
5
どうしたものか、夏は中々終わらない。
八月二十二日。
味気のない濃灰色の空に、味気のない薄灰色の火花が炸裂した。
遅れて、低い爆発音が空気を微かに振動させる。
遠すぎて、あまり見えない。視界が狭いおかげで、余計に見えづらい。
僕は薄暗く汚い部屋で座り込み、窓の外を眺めていた。
ゴミだらけの部屋だが、匂いはさほど気にならない。
慣れてしまったのか、それとも嗅覚が死んだのかの
区別はつかないが、別にどうでもよかった。
目と、耳と、声と、手がひとつだけ残っていれば、それでいいと思えてしまう。
170 :
以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/12(水) 22:34:50 ID:
zmKypy7U
僕の隣には、ゴミ袋(燃えるゴミ入り)がある。凭れるにはちょうどいい
柔らかさなので、そのまま微睡んでしまいそうだ。
ふたたび爆発音が空気を揺する。
彼女も、この花火を見ているだろうか。
ぼんやりとする頭でまず考えたのは、そんなことだった。
いったいどこまで彼女に凭れかかれば満足するんだと、自分を哂った。
171 :
以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/12(水) 22:35:28 ID:
zmKypy7U
空しい。
墓参りに行った日から、胸によく分からない空洞が出来上がっていた。
頭を垂れ、ため息を吐く度にそれが広がっているような気がする。
忘れかけていた風船も、それに合わせて膨らみ始める。
全体は良い方向に向かっているはずなのに、どうにも喜べなかった。
当たり前だ。死ぬんだから。
全体にはあっても、僕には良い方向なんて存在しない。
どこかに落下しているような気分だった。
暗い穴に落ちている最中で、底に着いたときが最期だ。
誰かが僕の手を掴んでも、それは一時凌ぎにしかならない。
重力や運命とやらには逆らえない。
172 :
以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/12(水) 22:36:42 ID:
zmKypy7U
勝敗の分かっているゲームほどつまらないものはないとは言うが、
僕は別にそんなことはないと思う。確かにつまらないというのも理解できるが、
結果より過程ともいう。落ちている最中にだって、やれることはある。
たとえそれが自己満足だとしても、何もしないよりはマシだ。
カッコ悪かろうが惨めだろうが、どうせ誰も見ちゃいない。
とは言うものの、他人に迷惑をかけるのは間違っているんじゃないかとも思う。
彼女は今、僕といっしょに穴の底に向かっているんじゃないかと不安になった。
自分の手で壁に掴まって這い上がることができればいいのだが、
落ちている最中にその穴の壁に触れただけで、
腐った身体は吹っ飛んでしまいそうになる。
173 :
以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/12(水) 22:37:17 ID:
zmKypy7U
誰かに救い上げてもらうか、抜け道を見つけるか、
重力をひっくり返すくらいしないと、僕に先は無い。
医者は病気のことを知らないという。
重力がひっくり返るなんて、まずあり得ない。
結局、抜け道を見つけるしかない。
物事には裏表がある。コインやカードと同じだ。
でも、裏表では駄目なのだ。
僕は側面に、もしくは裏と表の間に行かなきゃならない。
しかしまあ、具体的には何をすればいいのかがさっぱりなので、
もう思考を停止させ、味気ない最後の花火を目に焼き付けておくことにした。
174 :
以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/12(水) 22:37:55 ID:
zmKypy7U
一分後、結局花火には集中できず、
僕は久しぶりに頭の中の僕自身と会話を試みた。
こんな気分で花火を見るなんて、悲しいやつだな。
だよなあ。
それに、僕の今の恋人は隣のゴミ袋なんだよな。最悪だ。
お似合いだな、ゴミ同士仲良くやれよ。
無口で、なかなか可愛いもんだ。
すぐ燃えそうだな。顔から火が出たら即死だ。
火なんか出ねえよ。アホ。
なに怒ってんだよ。
うるさいな。
笑えよ。
笑えねえよ。
175 :
以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/12(水) 22:39:32 ID:
zmKypy7U
空しい。
かつてこれほどにまで空しいと感じたことはなかったように思う。
もう今日は暗い場所に行きたい気分だった。
まだ午後八時くらいなんだろうが、布団に包まることにした。
カーテンを閉める前に、もっと花火を目に焼き付けておこうと、
結局それから三分ほど花火を眺めていた。
ずっと目を見開いていると目が乾いてきたので、
思いっきり目を瞑った。涙が零れそうになる。
瞼の裏に、彼女の笑った顔が見えた。
彼女は、この花火を見ているだろうか。
176 :
以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/12(水) 22:40:28 ID:
zmKypy7U
目を開く。
当たり前だが、彼女は目の前にいない。
そのことが、どうしようもなく悲しく思えた。
それに加え、どれだけ目を見開いても、視界は黒一色だった。
小さな爆発音は聞こえるが、どうしても光を見つけることができない。
まさに暗黒という言葉がぴったりだと、他人事のように思った。
177 :
以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/12(水) 22:41:24 ID:
zmKypy7U
なあ。どう思う?
真っ暗だな。ついに目が死んじまった。
だよな。そういうことだよな。
いずれ来るとは分かってたけど、いざとなると恐ろしいもんだ。
だよな。最悪の気分。吐きそうだ。
吐いちまえよ。もういいだろ? お前はよく耐えた。
駄目だ。まだ、大丈夫だ。
そうか。頑張れよ。
僕は吐き気を堪えながら、静かに頬を濡らした。
世界から光が消えた。瞳は暗黒に塗り潰された。
ようやく落ちている穴の底が見えてきたような、そんな気がした。
178 :
以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/12(水) 22:42:32 ID:
zmKypy7U
そのとき、どこかから携帯電話の鳴る音が聞こえた。
聞き馴染みのある音だった。彼女だ。間違いない。
僕は床を這い、必死に音の方向へ向かう。
たしか、テーブルの上に置いてあったはずだ。
ゴミ袋を掻き分け、テーブルがあるはずの場所を目指す。
目が見えなくなったのが自宅で“まだ”良かったとは思うが、
気分はどんどん沈んでいく。
テーブルの脚と思われる、硬い木に額をぶつけた。
激しい痛みを涙といっしょに流して、構わずテーブルの上を漁る。
何かが音をたて、床に散らばっていく。
ティッシュだろうが、テレビのリモコンだろうが、どうでもいい。
179 :
以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/12(水) 22:43:15 ID:
zmKypy7U
今この電話に出ないと、もう二度と誰からも
電話がかかってこないんじゃないかと、そんな根拠も糞もない考えが脳裏を掠めた。
今取らないと見捨てられてしまうんじゃないかと、必死だった。
死に物狂いでテーブル上を漁っていると、やがて携帯電話は見つかった。
小刻みに震える電話を、大きく震える手で硬く握り締め、通話ボタンの位置を探る。
早く。早く! 早く!
「もしもし?」僕は急いで電話に出た。
しかし、返ってきたのは連続した機械的な音ーー通話終了音だった。
遅かった。間に合わなかった。
180 :
以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/12(水) 22:45:12 ID:
zmKypy7U
ため息を吐いてから、片手で片足を抱えて座り込んだ。
頬に冷たい何かがへばりついている。ひんやりとして、気持ち悪い。
気付いたら、子どもみたいにすすり泣いていた。
泣いたら頭がすっきりして、またゼロからやり直せるような気がした。
涙が乾いてくると、むせて、胃液を床にぶちまけそうになる。
しかし、どれだけ激しくむせても、出てくるのは乾いた咳だけだった。
まだ終わったわけではないはずなのに、立ち直ることができない。
まだ目が見えなくなっただけなのに、潰れそうだ。
そうだ、まだ終わってない。まだ、続くんだ。まだ、続けることができる。
怖い。怖いはずなのに、腹の底から変な笑みが込み上げてくる。
僕は声を上げて笑ってから、また涙をぼろぼろ零した。
どこからどう見ても頭のいかれた奴だ。
本人は至って真面目に悲しんでいるというのに。
181 :
以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/12(水) 22:46:03 ID:
zmKypy7U
ああ、頭がおかしくなりそうだ。
まだ頭がおかしくないと言い張れるほどにはまともだと思いたい。
知らなかったんだ。光が無いってのは、こういうことだったのか。
光だけではなく、未来への期待や希望まで消え去ったような気分だ。
もとからそんなもの大して持っていなかったが、今度こそ粉々にぶっ壊れた。
182 :
以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/12(水) 22:47:07 ID:
zmKypy7U
もう、自分から死ぬのも悪くないかもな。首を吊っちゃったりしてさ。
そんな考えがどこかから浮上してきた。同時に、過去のことを思い出す。
ものすごく苦しいんだよな、あれ。昔は五秒も耐えられなかったっけ。
結局諦めてぼーっとしてたら、ものすごく自分が惨めに見えてさ、意味もなく泣いてさ。
しばらくしたら、もうちょっと生きていようとか、明日から頑張ろうとか、
まるで綺麗な人間になったみたいに思ったりしちゃってさ。
結局、根っこの部分は何も変わってないのにさ。
そしたら、彼女が僕の手を掴んで、暗い部屋から引きずり出してくれてーー。
183 :
以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/12(水) 22:48:25 ID:
zmKypy7U
懐かしい。
懐かしいが、そんな思い出も、今の僕を余計に惨めに感じさせてくれるだけだった。
父の言ったとおりだ。昔から何も変わっちゃいない。きっと今なら五秒でギブアップだ。
どうしてこうなったんだろう。何かの罰か、
それとも生まれたときからそういう風になっていたのか。
神様だとか運命だとか、そんな胡散臭い言葉を怨まずにはいられなかった。
184 :
以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/12(水) 22:49:09 ID:
zmKypy7U
乾いたと思ったら、また零れてきた。むせた。
酸っぱいものが喉を満たし、外側に出ようとしている。
必死に堪え、胃に押し返した。むせた。涎が飛ぶ。
水が欲しい。落ち着こう。考えるんだ。
僕は床を這うようにして台所に向かおうとした。
そのとき、右手に握り締めた携帯電話が、高い音を鳴らしながら、小さく震え始めた。
大きく深呼吸をして、呼吸を整えた。
それからゆっくりと通話ボタンを探り、そっと押した。
185 :
以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/12(水) 22:50:05 ID:
zmKypy7U
「もしもし」僕はできるだけ自然に振舞おうとした。
『もしもし?』彼女の声が聞こえた。その瞬間、また崩れてしまった。『寝てた?』
「いや、起きてて花火を見てたんだけどさ」
『声が震えてるけど、もしかして、泣いてたりする?』
「花火が綺麗だったから」
『嘘』
「そうだよ、嘘だよ」僕はぶっきらぼうに言った。
「灰色の火花が綺麗に見えるやつがいるんなら、そいつは間違いなく病気だね」
『そうね』
186 :
以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/12(水) 22:50:57 ID:
zmKypy7U
僕は深呼吸した。深呼吸というよりは、ため息だ。吐く息が震える。
「良いニュースと悪いニュースがあるんだ」
『良いニュースからお願い』
「君は今日から、僕に会うときは化粧をしなくてもいい。おめでとう」
『……悪いニュースは?』
「目が、見えなくなった」
187 :
以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/12(水) 22:51:09 ID:FUV0m4uI
読んでてこんなに悲しくなるのもそうはないな
支援
188 :
以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/12(水) 22:52:40 ID:
zmKypy7U
『今から、そっちに行く』
「明日は仕事じゃないのかい」
『どうだったかな。忘れた』
「ごめんよ」
『謝らないで』
「うん。ありがとう」
『どうする? 通話状態のままそっちまで行こうか?』
「危ないから止めてくれ」
『分かった。すぐ行くね』