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男「僕の声が聞こえてたら、手を握ってほしいんだ」
Part7


140 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/12(水) 21:16:57 ID:zmKypy7U
「目も変なんじゃないの?」
母がそう言い終わると、父は「そうなのか?」と言い、僕を睨んだ。
「なんで分かったのさ」驚いた。
目について知っているのは彼女だけのはずだ。
「あんたの目がちょっと、濁ってるように見えたから」
「そっか」僕は諦めて白状した。自分に言い聞かせる意味も込めて、吐き出した。
「実は、色が見えなくて、視界が灰一色なんだ。たぶん、近いうちに見えなくなる」
「目も駄目になるのか?」
「目どころか、鼻も耳も駄目になって、
来年の四月には頭と心臓もお陀仏らしいよ。おめでとう」
重々しい沈黙が訪れる。
父は目を瞑り、腕を組みながら考え事を始めた。
母が長いため息を吐いて、机に突っ伏した。

141 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/12(水) 21:17:50 ID:zmKypy7U
どうしようもないのだ。
父が憤慨しようと、母が落ち込もうと、どうにもならないのだ。
僕が何か行動を起こしたところで、何かが変わるわけじゃない。
なのに、周りは勝手に落ち込んでいく。暗いほうへと自ら向かう。
必死に冗談や皮肉を言っても、できるだけ自然に振舞っていても、
僕を取り巻くものとの温度差が生じてしまう。
同情しているのか何なのか知らないが、これ以上僕を落ち込ませないでほしい。
別に慰めてほしいわけではないのに、勝手にしんみりとした空気を作り上げやがって。
僕が悪いのか? 僕がこんなだから、みんな苛々してるのか?
腕が無いから何なんだよ? 脚が無いから何なんだよ? 目が変だから何なんだよ?
身体の一部が欠けたら、今までの僕とは違うのか? ああ、苛々する。

142 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/12(水) 21:18:45 ID:zmKypy7U
「もういい。この話は置いておこう」父は言う。
その言葉を聞いたとき、僕の得意技の「答えを保留させる」というのは
父からの遺伝なのかもしれないと思った。表情には出さず、僕は小さく笑った。
「あの娘は何なんだ?」
父は襖の隙間からこちらを覗く彼女のほうを見ながら言った。
それに続き、「忘れちゃったの?」と、母。
さっきまでは机に突っ伏していたが、もう立ち直ったらしい。
浮き沈みの激しい性格は、母からの遺伝か。笑うしかない。
「昔、よくいっしょに遊んでた**ちゃんじゃないの?」
「そうだよ」
「ああ、あの娘か。大きくなったもんだ」
「当たり前だろ。僕と同い年なんだから」
「べっぴんさんやねえ」祖母はぽつりと言った。

143 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/12(水) 21:19:37 ID:zmKypy7U
「で、お前はまだあの娘に寄りかかってるのか」
父は呆れ顔で、ため息を吐き出した。
「……」何も言い返せない。実際、そうなのだから。
未だに彼女がいないと僕は駄目なんだ。
「何年か前にも助けてもらって、また助けてもらってるのか」
「……」気に障る言い方だな、と思った。苛々する。
暗いところに閉じこもった僕を引きずり出してくれたのは、彼女だ。
あのとき僕らは、まだ高校生だった。父の言う、「何年か前」の話だ。
彼女には感謝してもしきれない。
思えばあのときから僕は寄りかかりっぱなしなのかもしれない。

144 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/12(水) 21:21:30 ID:zmKypy7U
「ほんとうに情けない」
「……」そのとおりだ。
「昔と何も変わってないじゃないか」
「……」そのとおりだ。
「お前はいつになったらひとりで立てるんだ?」
「……」もう二度と立てないって。見りゃ分かるだろ、糞。嫌味か?
「あの娘に悪いとは思わないのか?」
「思ってるに決まってるだろ!」僕は力任せに手をテーブルに叩き付けた。
居間は、ふたたび静まり返る。猛烈な虚脱感に全身を包み込まれた。
時計の針が僕を急かすように、大きな音を鳴らしながら時間を刻んでいる。

145 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/12(水) 21:22:01 ID:zmKypy7U
考えないようにしてた。
僕がひとりでターミナルケアを受けていれば、
少なくとも僕の知り合いに迷惑を掛けることはなかったはずだと。
理解していたのに、考えないようにしてた。
ひとりになればすべて解決するということも、
自分の我侭に無理やり彼女を付き合わせているだけということも。
もう隠すのは疲れた。僕の鎧を剥いでくれ。
どうしても聞いてもらいたいんだ。
彼らが僕と血の繋がった家族だからか何なのか、
よく分からなかったが、とにかく言ってしまいたかった。
僕が毎晩、どんな気持ちで布団に包まっているのかを。
僕が毎朝、どれだけ安堵するかを。
僕が毎日、どれほど怯えているかを。
僕と、彼女のことを、父と母に、妹と祖母に、聞いてもらいたい。

146 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/12(水) 21:23:24 ID:zmKypy7U
しかし、僕が顔を上げ、話し始めようとしたとき、それを遮るかのように父が口を開いた。
「もういい、分かった。お前は外に行って来い。今度はあの娘と話がある」
「なんで僕が外に出なきゃいけないのさ。聞かれちゃ拙いような話なのか?」
「そうだ」
「何だよ、それ」
「おい」父は僕の言葉を無視し、妹を呼ぶ。「こいつといっしょに散歩にでも行ってこい」
「分かった」襖の向こうから、くぐもった声が鳴った。
「散歩って、僕は犬かよ」

147 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/12(水) 21:24:59 ID:zmKypy7U
「よし、じゃあ行こうか!」妹は襖を勢いよく開け放ち、素早く僕の腕を掴んだ。
「ちょ、ちょっと待ってくれよ。彼女は無関係だろ」僕は父に向かって言った。
が、それに答えたのは彼女だった。「ここまで来ておいて無関係はさすがにないよね」
彼女はその場から立ち上がり、居間に向かって歩を進め始める。
長いスカートが、ゆらゆらと揺れた。
「わたしも少し話したいことがあるの。心配しなくても、わたしは大丈夫だよ」
「だといいんだけど」
「はい、早く行くよー」妹は僕をそのまま玄関まで引き摺っていった。
「いってらっしゃい」祖母は微笑んだ。他人事だと思って、暢気なもんだ。

148 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/12(水) 21:26:11 ID:zmKypy7U

カラスの鳴き声にかき消されそうになるほど小さな鳴き声だが、
確かに聞こえる。どこか遠くで、ひぐらしが鳴いている。
夏の日の入りの時間は遅いので、外は、まだ明るい。
妹と、車椅子に乗った僕は、石の敷かれた道から立ち昇る陽炎の中を歩いている。
道の脇にある大きな汚い川には輪郭がギザギザになった太陽が映っていて、
水面から反射する光が、やけに眩しく感じられた。
水中の魚の鱗が、はっきりと浮き出て見える。
もやもやする。不安と暑さによる苛々が脳を覆っていて、思考がまとまらない。
父は何を考えてるんだ? いったい父は彼女に何を吹き込むつもりなんだ?
僕から彼女を遠ざけるつもりなのか?
まさか、思い出話に花を咲かせるわけではあるまいだろう。

149 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/12(水) 21:27:37 ID:zmKypy7U
じゃあ何を話しているんだ?
頭の中の考えは陽炎のようにゆらゆらと曖昧模糊なもので、僕に答えを教えてくれない。
もう止めだ。考えても仕方ない。
もし彼女がいなくなったとしても、それは僕が悪いんだ。
迷惑をかけっぱなしで、うんざりしているかもしれない。
そのことに気付けなかった僕が悪いんだ。諦めるしかない。
彼女にはまだ先があるんだ。
明るい場所を歩くことができる。
こんな足枷にてこずっている場合ではないのだ。
でも僕は信じてる。
まさに藁にも縋るような想いだったが、
神様なんて当てにならないものに祈るよりは数百倍マシだと思った。

150 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/12(水) 21:28:31 ID:zmKypy7U
「兄ちゃん、軽くなっちゃったね」妹は車椅子を押しながら話し始めた。
「わたしより軽いんじゃない?」
「当たり前だ」僕はため息を吐いた。「お前よりは軽いよ」
「それはつまりどういう意味? わたしが太ってるって言いたいのかな? んー?」
「別にそんなこと言ってないじゃないか」
どちらかというと、妹は細い方に分類されると思う。
「そういう風にしか聞こえないんだけど」
「そりゃ悪かった」

151 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/12(水) 21:31:11 ID:zmKypy7U
妹は今年で高校二年生になっていた。留年もしていないようだ。
友達もいるらしく、どうやら明るい場所を歩いているようなので安堵した。
しかし服装がどうも中学生のころから代わり映えしないように見える。
今日も半袖シャツの上にパーカーを羽織り、
クロップドパンツという出で立ちだった。
もうちょっと服装に気を遣ってもいいんじゃないかと思う。
僕も言えた身ではないが。
毎日会っていたころは何とも思わなかったが、
久しぶりに話してみると中々楽しいものだ。
しかし僕は、「情けない僕の姿を見て、妹は何を思ったのだろうか」と、
今頃になって過去のことを思い出していた。
もう無かったことになっているのか、妹は普通に話しかけてくれる。
わざわざ訊くようなことではないが、どうしても確認しておきたかった。
「なあ」と僕が口を開いたとき、
それを遮るように「ねえ、どっか行きたい場所ある?」と妹が話し始める。
妙な既視感を覚えた。ついさっき似たようなことがあったような。
僕の家族はみんなこうなのか? 苦笑いが込み上げる。
なんだか、どうでもよくなってしまった。

152 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/12(水) 21:33:25 ID:zmKypy7U
「ねえ、聞いてる?」
「聞いてる聞いてる。川の脇とか、橋とかがいいな」
「つまり、このままでいいの?」
「うん」僕は川に視線を滑らせながら言う。「ここ、相変わらず汚い川だよなあ」
「そうだねえ」

153 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/12(水) 21:34:04 ID:zmKypy7U
たとえ濁った緑色をしていようと、泥が混じっていようと、
灰一色だろうと、水を見ていると落ち着く。
昔から海(というか砂浜)はあまり好きではなかったが、川や雨は好きだった。
川に映る風景だとか、そこで泳ぐ魚だとか、流される葉っぱとか、
雨が作り出す水溜りや波紋を、頭の中を空っぽにして眺めてるのが好きなのだ。
思えば、ものすごく時間を無駄にしていたのかもしれない。
おそらく余命が残り少ないことが分かっていても止めなかっただろうとは思うが。
耳に滑り込んでくる川のせせらぎが心地良い。
時折交じるカラスの鳴き声も、ひぐらしの鳴き声も、
子どもたちの笑い声も、とても綺麗なものに聞こえる。
目を閉じて、もっと耳を澄ませて聞いておこう、と思った。
音を、声を聞くんだ。

154 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/12(水) 21:35:09 ID:zmKypy7U
「ねえ。あたし達、いつまで散歩してればいいのかな」妹は、また話し始める。
「知らないよ。律儀に散歩しないで、別に家の前で待ってれば良かったのに」
「確かに」
「馬鹿か」呆れた。

155 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/12(水) 21:35:44 ID:zmKypy7U
「はあ、暑い」唐突に話が変わった。「アイス食べたい」
「お金は持ってないぞ」
「えー。さすがにアイス二本買うくらいはあるでしょ」
「いやいや。お前は今以上に僕の生活を苦しめるつもりか」
「そんなに大変なの?」
「一日にひとつのカップ麺しか啜れない程度には大変だ」
「ふうん、それは大変だね。だからこんなに軽いんだ」
「他人事だと思って」
「ごめんごめん。じゃあ、アイス買いにいこう。あたしの奢りだよ。感謝してね」
「はいはい」
車椅子のスピードが上がった。風が気持ちいい。
妹は必死こいて車椅子を押してくれているのだろう。
そのまま川沿いの道を真っ直ぐ進み、しばらくしてから左に折れた。
この辺りは建物の影になっていて、まだ暑さはマシだったが、
走っている妹にとってはそんなこと関係ない。

156 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/12(水) 21:36:55 ID:zmKypy7U
「なんで走るんだ? もうちょっとゆっくり行けばいいのに」僕は思わず零した。
「いいの。走りたいの」
「何だよ、それ」
「兄ちゃんには分からないだろうね、この感じ。よく分かんないの」
「よく分からないな」
「いいんだよ、分からなくて。
きっと一生分からないだろうし、分からない方がいい」
妹は言い切った。少し声が詰まっているように聞こえる。
僕は素っ気なく「そっか」と前を向いたまま言った。
振り返ってはいけない気がする。
胸が苦しい。
何に対してかはよく分からないが、
とても申しわけない気持ちに陥った。

157 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/12(水) 21:38:54 ID:zmKypy7U

妹は駄菓子屋でアイスを六本買って、車椅子を押しながら
家までの道をふたたび疾走した。
おそらく全身汗だくで、顔は真っ赤になっているだろう。
僕は一度も振り返ることができなかったので、実際のところは違うのかもしれない。
家の前に戻ってきても、空はまだ明るかった。
ひぐらしもカラスも鳴いている。
ほんとうに時間が経ったのかと思うほど代わり映えしない風景だ。
妹は息を切らしながら、思いっきり玄関扉を開け放ち、
ずかずかと三和土を踏みつける。
そして「ただいまー!」と、思いっきり叫んだ。
ほとんど間もなく、「おかえりー」という祖母の声が返ってきた。
「お前、今日は何か変だな」僕は言った。
「誰のせいだと思ってんの」
妹はそう返し、僕の腕を掴んで居間の前まで引き摺っていった。
もう少し丁寧に扱ってもらいたいものだ。
そして居間への襖をゆっくりと開け、祖母に「終わった?」と訊く。

158 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/12(水) 21:39:42 ID:zmKypy7U
「もう終わるんじゃないかねえ」そう言ってから祖母は笑顔で僕のほうを向き、
「あんた、いい娘に出会えたんだねえ。お婆ちゃんは嬉しいよ」と、言った。
「うん。あの娘は、ほんとうにいい娘なんだ」僕を何度も救ってくれているんだ。
惚気とか自慢とか、そういうのではなく、本心だった。
「おうおう、惚気ちゃって」妹が茶化す。
「うるさいな」
「あんたたち、ほんとうに仲が良いねえ」
「うん。あたしたちは、ほんとうに仲がいいんだ」
妹は言ってから僕の顔を見て、吹き出した。
こいつ、真似やがった。なかなか恥ずかしい。

159 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/12(水) 21:40:13 ID:zmKypy7U
「真似すんなよ」
「お、分かった? 似てたでしょ」
「いや、全然」
「冷たいなあ。怒らないでよ」
「ほほほ」、と祖母が笑った。笑い事ではない。
そのとき襖がゆっくりと開き、彼女が顔を覗かせた。
襖の向こう側には、父と母の姿が見える。
どうやら、僕に聞かれたくない話は終わったらしい。

160 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/12(水) 21:40:50 ID:zmKypy7U
「目が真っ赤だけど、大丈夫?」僕は訊いた。
「誰のせいだと思ってんの」彼女は小声で答える。
「ごめん」表情が緩んだ。
「なに笑ってんのよ」
「さっき妹にも全く同じことを言われたんだ」
「なら、きっと妹ちゃんの目も真っ赤ね」
「まさか。あいつに限ってそんなこと」
僕は振り返って妹の目を見ようとしたが、即座に目を逸らされた。
「仲良いんだね、相変わらず」
僕は「そうだね」と適当な返事をし、息を吐き出してから、
「僕らは、ほんとうに仲が良いんだ」と言った。
妹は小さく吹き出した。

161 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/12(水) 21:41:40 ID:zmKypy7U
それから僕ら(父と母を含む)は、微妙に溶けたアイスを零さないように頬張った。
居間で机を囲みながらアイスを食べるという光景は、
はたから見ればなかなか奇妙な感じだと思う。
でも、悪くなかった。
さっきよりも雰囲気が柔らかく感じる。彼女のおかげなんだろう。
いったい、僕がいない間にどんな話をしたんだ?
結局、僕はどうなるんだ? このままでいられるのか?
実家送りか、それとも病院送りか? それだけはいやだ。
でも、その可能性のほうが高い。どうにもならない。
そろそろ諦めて、歯を食いしばらなければならないのかも。
もしくは、自宅でひとりきりになるか。あり得る。
でも、今更ひとりになったところで、別にどうってことないよな。
じゃあ、暗い部屋で野垂れ死ぬのか。それも悪くないかな。
ため息が零れそうになるが、堪えた。

162 :以下、名無しが深夜にお送りします:2013/06/12(水) 21:42:18 ID:zmKypy7U
「兄ちゃん。アイス溶けてるよ」
「え、ああ」視線を下ろすと、ズボンに溶けたアイスが張り付いていた。「やっちまった」
「あーあー」「あーあー」
彼女と妹がほとんど同時に声を上げた。
それを聞いた両親は顔を見合わせたあと、少し笑ったように見えた。